第53話 戻る線を残す
翌朝、アリシアは水音を聞かなかった。
夢も覚えていない。
胸の奥の夜も、昨日より静かだった。
ただ、完全に何もないわけではない。
水面のようなものが、胸の奥にある。
揺れてはいない。
沈んでもいない。
けれど、そこにあると分かる。
古い水路。
地図にないかもしれない水路。
魔力残響。
第六支点。
それらの言葉が、今朝も頭の隅に残っていた。
アリシアは寝台から起き上がり、机の上の練習帳を開いた。
『朝、水音なし。胸の奥は静か。古い水路と第六支点は気になる。でも、今日は合同訓練の準備を優先する』
書いてから、アリシアは少しだけペンを止めた。
調査したい気持ちはある。
昨日の資料で、学園の地下に古い水路があることを知った。
図書館地下にも水路が通っていることも知った。
古い水路の一部は、現在の地図に載っていない場合があると司書は言った。
それは、とても気になる。
けれど、今日の予定は合同訓練の準備だ。
週に一度、六人で立つ場所。
怖いけれど、また立ちたい場所。
そこへ向けて、自分の状態を整える必要がある。
調査だけを見ていたら、足元が浮く。
訓練だけを見ていたら、水底の前兆を見落とす。
だから、どちらも置く。
どちらも持ち運ぶ。
でも、今することを選ぶ。
「いい書き方ね」
ノアが窓辺から言った。
アリシアは顔を上げる。
「起きてたの?」
「もちろん」
「今日は合同訓練の準備の日でいいよね」
「ええ。古い水路へ心だけ潜りっぱなしでは、木刀を握った時に足が流れるわ」
「足が流れる……」
「戦闘基礎でも言われたでしょう。前へ出ても、戻る線を残せ」
「うん」
戻る線。
昨日の訓練でも、何度も意識した言葉だ。
調査でも同じ。
訓練でも同じ。
人との距離でも同じ。
どこへ踏み込むにしても、戻る線が必要。
「今日は、戻る線を残す日ね」
ノアが言った。
「戻る線……」
「調査へ引かれても、授業へ戻る。訓練で前へ出ても、味方へ戻る。不安が深くなっても、練習帳へ戻る」
アリシアはその言葉を、練習帳へ書き足した。
『今日は戻る線を残す。調査へ引かれても授業へ戻る。訓練で前へ出ても味方へ戻る。不安が深くなっても練習帳へ戻る』
「九十八点」
ノアが言う。
アリシアは少し驚いた。
「朝から?」
「今の一文は良いわ」
「減点は?」
「古い水路って書いたところで、少し遠い目をした」
「う……」
「でも戻った」
「うん」
アリシアは小さく笑い、制服に着替えた。
鏡の前に立つ。
黒髪。
黒い瞳。
少し緊張しているけれど、昨日より顔色は悪くない。
「背筋」
ノアが言う。
アリシアは背筋を伸ばす。
「今日は戻る線を残す」
「よろしい」
◇
廊下へ出ると、メリルが待っていた。
「おはよう、アリシアちゃん」
「おはよう、メリルさん」
メリルはアリシアの顔を見て、ほっとしたように笑った。
「今日は落ち着いてるね」
「うん。水音はなかった。今日は合同訓練の準備を優先する」
「調査は?」
「気になるけど……戻る線を残す日ってノアが言ってくれて」
「戻る線?」
アリシアは少し考えながら答えた。
「調査へ引かれても、授業へ戻る。訓練で前へ出ても、味方へ戻る。不安が深くなっても、練習帳へ戻る」
メリルは目を細めた。
「すごくいいね」
「本当?」
「うん。今日のアリシアちゃんに必要な言葉だと思う」
二人と一匹で廊下を歩く。
寮の朝はいつも通りだった。
誰かが欠伸をしながら階段を下り、誰かが課題の紙を片手に急いでいる。
その中で、アリシアは自分の足音を聞いた。
昨日より少し軽い。
でも、完全に軽やかなわけではない。
水底の言葉を持ち運んでいる分だけ、少し重い。
それでも歩ける。
重さを持ったまま、日常へ戻れる。
それが、今の成長なのかもしれない。
食堂へ入ると、今日もいつもの席は賑やかだった。
レオンは声量訓練を続けている。
「おはよう、ございます」
今日はかなり抑えめだった。
リーネが冷静に言う。
「八十一点」
「上がった!」
「語尾が少し不自然です」
「難しい!」
シオンが眠そうに言う。
「そのうち声量試験でも受けるの?」
「あるなら受ける!」
「ないと思う」
ミランダが笑い、ガレスが「でも訓練にはなるな」と真面目に頷いている。
アリシアは席につきながら、小さく笑った。
ルシアンもすでに席にいた。
白髪の少年は、アリシアを見ると静かに会釈した。
「おはようございます。今日は体調はいかがですか」
「おはようございます。水音はありません。胸も落ち着いています」
「それは良かった」
リーネが手帳を開く。
「本日は合同訓練の準備を優先する予定ですか」
「はい。調査は気になりますけど、今日は訓練に戻る線を残したいです」
リーネの筆が止まる。
「戻る線」
「ノアが言ってくれました」
シオンが興味を示す。
「いいね。戻る線。訓練にも調査にも使える」
ルシアンも頷く。
「光の検知でも同じです。遠くを見る時ほど、自分の立つ位置を見失わないようにする必要があります」
レオンが腕を組む。
「つまり、前に出ても戻る!」
「そうです」
リーネが即答した。
ミランダも拳を握る。
「私も戻るの苦手かも!」
「自覚があるのは良いことです」
ルシアンが柔らかく言う。
朝食の会話は、自然に今日の合同訓練へ向かっていった。
次の合同訓練では、前回のような魔導人形三体への進路確保をもう一度行う可能性が高い。
ただし、同じ内容とは限らない。
エレナ教官なら、必ず条件を少し変えるだろう。
レオンは正面圧の加減。
ミランダは右側支援と戻り。
リーネは水膜の張り直し。
シオンは左側の責任。
ルシアンは検知の伝達速度。
アリシアは空いた場所へ入りながら、戻る線を残すこと。
「アリシアは、前回かなり動いてたよな」
レオンが言う。
「でも、動きすぎると疲れるんじゃないか?」
アリシアは少し驚いた。
レオンがそういう気遣いをするとは思っていなかった。
いや、彼はいつも真っ直ぐ気にしてくれる。
ただ言い方が大きいだけだ。
「疲れます。でも……動かないと隙間が埋まらない時もあるので」
シオンが言う。
「だから戻る線なんだね。入って、戻る。ずっと隙間に居続けない」
「うん」
リーネが頷く。
「アリシアさんの役割は、常時穴埋めではなく、必要地点への一時介入と復帰。そう定義できます」
「一時介入と復帰……」
難しい言葉だが、分かる気がした。
ずっと空欄に立っている必要はない。
空いた場所へ入り、支え、戻る。
それなら、少しできるかもしれない。
ノアが椅子の上で言う。
「パン」
「あ」
アリシアはパンをちぎる。
今日は柔らかい。
形よくちぎれた。
「九十二点」
ノアが言う。
アリシアは少し嬉しくなる。
レオンが真剣に頷く。
「今日のパンは戻る線があるな!」
シオンが眉を寄せる。
「パンに戻る線?」
ミランダが笑う。
「でも、なんとなく分かる!」
リーネは少し考えてから言った。
「比喩としては曖昧ですが、形が崩れすぎないという意味なら成立します」
「成立するんだ……」
アリシアは思わず笑った。
◇
生活基礎の授業では、セリア先生が黒板にこう書いた。
『戻れる場所を持つ』
アリシアはペンを握り直した。
今日もまた、今の自分に必要な言葉だった。
セリア先生は穏やかに話し始める。
「人は、何かに挑戦する時、前へ進むことを考えます。それはとても大切です。けれど、前へ進む時ほど、戻れる場所も必要になります」
アリシアはノートに書いた。
『前へ進む時ほど、戻れる場所が必要』
「戻るという言葉を、失敗のように感じる人もいます。ですが、そうではありません。戻る場所があるから、人は安心して挑戦できます」
戻る場所。
練習帳。
ノア。
メリル。
図書館の閲覧席。
合同訓練での中央後方。
木刀を構えた時の足元。
アリシアには、少しずつ戻れる場所が増えている。
以前は、逃げ込む場所しかなかった。
隠れるための場所。
でも今は違う。
また出ていくために戻る場所。
それが少しずつできている。
「戻れる場所は、人によって違います。友人かもしれません。ノートかもしれません。いつもの席かもしれません。呼吸の仕方かもしれません。大切なのは、自分にとっての戻る場所を知っておくことです」
班練習では、それぞれの「戻れる場所」を書き出すことになった。
メリルは言った。
「私は、寮の部屋と、アリシアちゃんと歩く朝の廊下かな」
アリシアは驚いた。
「私と?」
「うん。最近、朝に一緒に歩くと落ち着くの」
顔が熱くなる。
「私、何もしてないよ」
「それがいいのかも」
メリルは柔らかく笑った。
トマは「運動場」と書いた。
「体動かすと戻る」
ミーナは「整理された机」と書いた。
「物が整っていると、頭も整うわ」
アリシアは自分の欄を見る。
何を書こうか迷った。
そして、ゆっくり書いた。
『練習帳』
『ノア』
『メリルさん』
『木刀を構えた時の足元』
『図書館の閲覧席』
『六人で立つ時の中央後方』
書いてから、少し驚く。
思っていたより多い。
戻れる場所が、こんなに増えていた。
メリルがそれを見て、嬉しそうに笑った。
「増えたね」
「うん……増えてた」
「よかった」
アリシアは小さく頷いた。
本当に、よかったと思った。
◇
戦闘基礎では、エレナ教官が生徒たちを演習室に並べた。
床には、複数の線が引かれていた。
前線。
支援線。
後退線。
そして中央に、小さな円。
「今日の課題は、前へ出て戻ることだ」
エレナ教官の声が響く。
「前へ出るだけなら勢いでできる。戻るだけなら臆病でもできる。必要な時に出て、必要な時に戻る。それを覚えろ」
アリシアは木刀を握る。
今日の言葉が、また重なった。
戻る線。
戻れる場所。
必要な時に出て、必要な時に戻る。
訓練は、三人組で行われた。
アリシア、メリル、カイル。
相手役はミーナと別班の男子生徒二人。
アリシアは前へ出る役。
メリルは後方支援。
カイルは中央で相手の動きを受ける。
エレナ教官の合図で、アリシアは一歩前へ出る。
木刀を置く。
相手の進路を遅らせる。
すぐに戻る。
メリルの杖が通る。
一回目は、戻るのが少し遅れた。
メリルの風の射線を少し塞ぐ。
「止め」
エレナ教官が言う。
「アリシア。入るのは良い。だが戻りが遅い」
「はい」
「空欄を埋めることに意識が残っている。埋めたら戻れ」
「はい」
埋めたら戻る。
アリシアは心の中で繰り返す。
二回目。
相手が右へ抜ける。
アリシアはそこへ入る。
木刀を低く置く。
相手の足が止まる。
すぐ戻る。
メリルの風が通る。
カイルが中央を支える。
「止め」
エレナ教官が頷いた。
「今のは良い。必要地点への一時介入と復帰だ」
アリシアは目を丸くした。
朝、リーネが言った言葉と同じだった。
きっと、エレナ教官も同じことを見ていたのだろう。
「はい」
三回目。
アリシアは少し慣れてきた。
しかし、慣れた瞬間に前へ出すぎた。
相手の進路を止めた後、もう一手いけると思ってしまう。
その瞬間、エレナ教官の声が飛ぶ。
「深い」
アリシアははっとして戻る。
遅い。
メリルの杖が詰まる。
「止め」
「すみません」
「謝る前に理由」
「止められたので、もう一手いけると思いました」
「その判断が危険だ」
「はい」
「成功した直後ほど深く入るな。戻る線を見ろ」
「はい」
胸に刺さる。
調査でも同じ。
ひとつ情報が得られた直後ほど、もっと知りたくなる。
水路。
水脈。
魔力残響。
古い水路。
ひとつ分かるたび、もう一歩踏み込みたくなる。
成功した直後ほど、深く入るな。
戻る線を見ろ。
アリシアは深く頷いた。
授業後、エレナ教官が近づいてきた。
「今日の課題は、お前に必要だ」
「はい」
「合同訓練でも、お前は隙間に入る。だが、入りっぱなしでは潰れる」
「はい」
「お前の役割は穴になることではない。穴を見つけ、塞ぎ、戻ることだ」
アリシアはその言葉を、胸に刻んだ。
穴になることではない。
穴を見つけ、塞ぎ、戻ること。
空欄担当。
でも、自分が空欄になるわけではない。
その違いは、とても大事だった。
「分かりました」
「ならいい」
エレナ教官は短く頷いた。
◇
昼食後、図書館へ向かうと、リーネはすでに合同訓練用の配置図を準備していた。
今日は調査ではなく、訓練整理が中心。
ただし、机の端には昨日使った地下水路の本も閉じたまま置かれていた。
そこにある。
けれど、開かない。
まるで境界線のようだった。
シオンがそれを見て言う。
「今日は開かないんだ?」
アリシアは頷く。
「うん。今日は合同訓練の準備」
リーネも言う。
「調査資料は閉じておきます。必要であれば後日再開します」
レオンは少し安心したように言った。
「今日は地下水路じゃないな!」
「はい」
ミランダが笑う。
「行かない宣言、今日も有効!」
「有効です」
リーネが真面目に答える。
ルシアンは配置図を見ながら言った。
「次回の合同訓練では、アリシアさんの戻る位置を明確にした方がいいかもしれません」
「戻る位置……」
アリシアは図を覗き込む。
前回は、アリシアは固定位置なしだった。
空いたところへ入る。
それはうまくいった。
けれど、戻る場所が曖昧だった。
だから動き続けることになり、負担が大きかった。
リーネが図の中央後方に小さな丸を描く。
「ここを仮の復帰点にします。レオンとミランダの後方、私の少し前、ルシアンの検知範囲内、シオンの左流路とも接続しやすい位置」
シオンが頷く。
「いいんじゃない? そこなら、左右どっちにも行けるし」
ミランダも言う。
「私が右で詰まったら、来てもらいやすい!」
レオンが腕を組む。
「俺が前に出すぎても戻れるな!」
「前に出すぎないでください」
リーネが即座に言う。
「努力する!」
アリシアは図を見る。
小さな丸。
仮の復帰点。
戻る場所。
そこがあるだけで、少し安心する。
「ここに戻ればいいんですね」
「はい。ただし、状況によって変動します」
リーネが言う。
ルシアンが補足する。
「完全な固定ではなく、基準点ですね」
「基準点……」
「迷ったら戻る場所です」
アリシアは頷いた。
迷ったら戻る。
それなら分かりやすい。
シオンが言う。
「空欄担当、ついに帰る場所を得る」
アリシアは少し顔を赤くする。
「その言い方……」
「悪くないでしょ」
「悪くは……ないです」
リーネはまた記録した。
「アリシアさん、復帰点設定に安心反応」
「そこまで……」
「重要です」
メリルが隣で嬉しそうに笑った。
「戻る場所、増えたね」
「うん」
アリシアは静かに頷いた。
◇
その後、六人は次回合同訓練に向けて役割を整理した。
レオンは正面の圧を抑える。
ミランダは右側を支えつつ、戻りを意識する。
リーネは水膜の張り直しを早める。
シオンは左流路を最後まで見る。
ルシアンは検知を短い言葉で伝える。
アリシアは空いた場所へ一時介入し、必ず復帰点へ戻る。
言葉にすると簡単だ。
でも、実際には難しい。
だからこそ、こうして整理する。
アリシアは図を見ながら言った。
「私、前回は動き続けてました」
リーネが頷く。
「はい」
「でも、それだとたぶん、疲れて判断が遅くなります」
「その通りです」
「だから……戻る場所があると助かります」
言えた。
自分に必要なことを、自分で言えた。
少しだけ恥ずかしい。
けれど、周囲は誰も笑わなかった。
レオンは力強く頷く。
「戻ってこい!」
ミランダも笑う。
「うん! 戻って、また来て!」
シオンが軽く言う。
「使い捨ての穴埋めじゃないからね」
ルシアンは穏やかに言った。
「戻れる人がいるから、前へ出る人も安心できます」
リーネが記録する。
「復帰点の心理的効果。全体安定に寄与」
アリシアは胸が温かくなった。
戻る場所を求めることは、弱いことではない。
全体を安定させることにもつながる。
そのことが、少し分かった。
◇
夕方。
図書館を出る時、アリシアは机の端に置かれた地下水路の本を見た。
今日は開かなかった本。
気になる。
でも、今日は開かないと決めた。
アリシアは本へ軽く会釈するように視線を下げ、席を離れた。
シオンがそれに気づく。
「本に挨拶した?」
「してないです……」
「してたよ」
「……少しだけ」
シオンは笑った。
「まあ、今日は閉じておけたからいいんじゃない」
「うん」
帰り道、中庭を通る。
中央塔は夕方の光を受けて、少し赤く染まっていた。
その地下に、水路がある。
地図に載っていないかもしれない古い水路もあるかもしれない。
気になる。
でも、今日はそこへ心を引かれすぎない。
アリシアは、自分の足元を見た。
石畳。
影。
隣にはメリル。
少し前にレオンとミランダ。
後ろにリーネとシオン。
少し離れてルシアン。
足元にはノア。
戻る場所がある。
そう思うと、中央塔の影を見ても、胸は沈みすぎなかった。
◇
夜。
アリシアは練習帳を開いた。
『今日は、戻る線を残す日でした。調査へ引かれても授業へ戻る。訓練で前へ出ても味方へ戻る。不安が深くなっても練習帳へ戻る。朝、ノアがそう言ってくれました』
続ける。
『生活基礎では、戻れる場所を持つことを学びました。戻ることは失敗ではなく、安心して挑戦するために必要なことだそうです。私の戻れる場所は、練習帳、ノア、メリルさん、木刀を構えた時の足元、図書館の閲覧席、六人で立つ時の中央後方です』
さらに書く。
『戦闘基礎では、前へ出て戻る訓練をしました。止めた後、もう一手いけると思って深く入りすぎました。成功した直後ほど深く入るな、戻る線を見ろ、とエレナ先生に言われました。調査にも同じことが言えると思います』
アリシアは一度ペンを止める。
今日の一番大事なことを書く。
『図書館で、次回合同訓練のために、私の復帰点を決めました。固定位置ではなく、迷ったら戻る基準点です。レオンさんとミランダさんの後ろ、リーネさんの少し前、ルシアンさんの検知範囲内、シオンさんの流路ともつながる位置です。そこがあると安心します』
そして、エレナ教官の言葉。
『私の役割は穴になることではない。穴を見つけ、塞ぎ、戻ること。これはとても大事な言葉でした』
書き終えると、ノアが机の上へ飛び乗った。
「今日は?」
アリシアが聞くと、ノアは少し考えた。
「九十九点」
「今日も?」
「戻る線を意識できた。地下水路の本を開かなかった。復帰点を自分に必要だと言えた。穴になることではない、と理解できた」
「減点は?」
「地下水路の本に未練がましく視線を送った」
「……会釈はしてないよ」
「してたわよ」
「う……」
「でも閉じたままにした。だから九十九点」
アリシアは小さく笑った。
ノアは練習帳を見る。
「最後に書くなら?」
アリシアは少し考えた。
戻る線。
戻れる場所。
復帰点。
穴になることではない。
それらを胸の中で並べて、ゆっくり一行を書いた。
『戻れる場所があるから、私は空いた場所へ行ける』
ノアはその一文を見て、満足そうに頷いた。
「いいわ」
アリシアは練習帳を閉じた。
夜は静かだった。
水音はない。
胸の奥も穏やかだった。
古い水路は、まだ遠くにある。
第六支点の名も、水底に沈んだままだ。
でも、アリシアには戻る場所がある。
だから、いつか必要な時に、空いた場所へ行ける。
そして、また戻ってこられる。
そう思えた夜だった。




