第52話 岸辺に立つ調査
翌朝、アリシアは静かな目覚めを迎えた。
水音はしなかった。
胸の奥の深さも、昨日よりさらに落ち着いている。
ただ、完全に何もないわけではない。
第六支点。
地下水路。
水脈。
深部。
保持。
修復。
それらの言葉が、胸の奥の棚に一つずつ置かれているようだった。
重くはない。
けれど、忘れられない。
アリシアは寝台から降り、練習帳を開いた。
『朝、水音なし。胸の奥は落ち着いている。第六支点、地下水路、水脈という言葉は気になる。でも、今日は公開資料の範囲で調べる』
そこまで書いて、少しだけペンを止める。
そして、昨日の最後の一文を見た。
『境界があるから、私は迷わず立ち止まれる』
境界。
立ち入り禁止。
閲覧不可。
許可が必要。
以前なら、それらの言葉はただ怖いだけだった。
拒まれているように感じた。
自分は外側の人間なのだと、胸が縮んだかもしれない。
でも今は少し違う。
境界があるから、止まれる。
止まれるから、戻れる。
戻れるから、調べ続けられる。
「今日は顔が少し研究者っぽいわね」
ノアが窓辺から言った。
アリシアは顔を上げる。
「研究者?」
「分からないことを全部怖がる顔じゃなくて、分からないものを整理しようとしている顔」
「そんな顔してる?」
「してるわ」
ノアは机に跳び乗り、練習帳を覗いた。
「公開資料の範囲で調べる。いいわね」
「うん。地下水路へは行かない。上級資料室の奥も見ない。封印行も開けない」
「よろしい」
「でも……気になる」
「気になるのは当然」
ノアは尻尾を揺らした。
「気になるからこそ、今日は本を見るのよ。足で行くのではなく、目で読む。手で触れるのではなく、記録する」
「うん」
「それが岸辺に立つ調査」
アリシアはその言葉を聞いて、少しだけ目を開いた。
「岸辺に立つ調査……」
「水底へ潜らない。でも、水面から目を逸らさない」
「うん」
アリシアは練習帳に書き足した。
『今日は、岸辺に立つ調査をする。水底へ潜らない。でも、水面から目を逸らさない』
ノアは満足そうに頷いた。
「九十七点」
「朝から高い」
「方向性が良いから」
「減点は?」
「地下水路って書いた時、少し目が泳いだ」
「う……」
「でも戻った」
「うん」
制服に着替え、鏡の前に立つ。
黒髪。
黒い瞳。
少し緊張しているけれど、沈んではいない顔。
「背筋」
ノアが言う。
アリシアは背筋を伸ばした。
「今日は、岸辺に立つ」
「そう」
◇
廊下では、メリルが待っていた。
「おはよう、アリシアちゃん」
「おはよう、メリルさん」
メリルはアリシアの顔を見て、柔らかく笑う。
「今日は少し落ち着いてるね」
「うん。水音はなし。胸も落ち着いてる」
「よかった」
「今日は、公開資料の範囲で地下水路とか水脈について調べるつもり」
「うん。図書館だね」
「岸辺に立つ調査、ってノアが」
「いい言葉だね」
メリルはそう言って、一緒に歩き出した。
寮の廊下はいつも通り賑やかだった。
昨日までより、アリシアへ向く視線も少し落ち着いている。
特別授業に呼ばれた少女。
黒猫を連れた少女。
そういう視線はまだある。
でも、アリシアはそれを全部受け止めようとはしなかった。
今日は調査の日。
でも、まずは朝食の日。
今することをする。
食堂では、レオンがすでに席にいた。
声量調整訓練は継続中らしく、今日は両手を膝に置いて、なぜか姿勢よく座っている。
リーネがその横で本を読んでいた。
シオンは眠そうに水を飲んでいる。
ミランダとガレスは、パンの種類で盛り上がっていた。
「おはよう……ございます!」
レオンが言った。
最後だけ少し大きくなった。
リーネが即座に言う。
「七十二点です」
「上がった!」
「最後が大きいです」
「次は気をつける!」
アリシアは小さく笑った。
「おはようございます」
席につくと、リーネがすぐに顔を上げる。
「本日の調査方針は?」
「公開資料の範囲で、地下水路と水脈、古い結界修復について調べたいです」
「妥当です。資料候補を三冊ほど考えています」
「もう?」
「昨日の時点で予測していました」
シオンが小さく言う。
「リーネは止まらないね」
「許可範囲内です」
「ならいいけど」
ルシアンも少し遅れて席に来た。
「おはようございます」
アリシアは挨拶を返す。
ルシアンは今日のアリシアを見ると、少し安心したように言った。
「昨日より安定していますね」
「はい。今日は、水音もありません」
「それは良かった」
その声は柔らかかった。
だが、以前のように近すぎる感じはしない。
ルシアンも、アリシアの境界を意識してくれているのだろう。
朝食中、レオンが言った。
「地下水路って、入ったらだめなんだよな?」
「はい。立ち入り禁止です」
リーネが答える。
「じゃあ行かない!」
「はい」
あまりにも単純な確認だったが、アリシアにはありがたかった。
難しい言葉を重ねなくてもいい。
行ってはいけない場所には行かない。
それでいい。
ミランダが少し不安そうに言う。
「でも、もし水音がまたしたら?」
アリシアは少し考えた。
「記録する。報告する。近づかない」
シオンが頷く。
「いいね。三点セット」
「三点セット……」
「記録、報告、近づかない」
リーネが手帳に書きそうになり、アリシアは少し笑った。
ノアが椅子の上で言う。
「パン」
「あ」
今日のパンは少し硬かった。
アリシアはゆっくり力を入れ、割るようにちぎる。
粉は少し出たが、形は残った。
「八十六点」
「今日は硬いから……」
「条件を考慮して八十六点よ」
「ありがとう」
「礼はいいわ」
レオンが真剣に見ていた。
「パンにも条件があるんだな」
シオンが呟く。
「そこ学ぶんだ」
◇
生活基礎の授業では、セリア先生が黒板にこう書いた。
『調べる時の姿勢』
アリシアは、今日は少しだけ予想していた。
それでも胸に響く。
セリア先生は教室を見渡し、穏やかに言った。
「調べ物をする時、私たちは答えを探します。けれど、答えだけを急ぐと、途中の情報を見落とします」
チョークが黒板を鳴らす。
「調べる時に大切なのは、三つです。何を知りたいのか。どこまで調べてよいのか。分からないことを、分からないまま記録できるか」
アリシアはノートに書く。
『何を知りたいか』
『どこまで調べてよいか』
『分からないまま記録できるか』
まさに今日の調査だった。
第六支点を知りたい。
でも、直接の資料は見られない。
だから、公開情報の地下水路、水脈、結界修復を見る。
分からないことは分からないまま置く。
「答えに近づいているように感じた時ほど、立ち止まってください。自分が事実を読んでいるのか、推測を重ねているのかを確認しましょう」
答えに近づいているように感じた時ほど、立ち止まる。
アリシアは強く頷いた。
今日、きっと水路や水脈の言葉を見るたびに、第六支点と結びつけたくなる。
でも、全部が繋がるとは限らない。
地脈も水脈も、ただ一般的な結界修復の話かもしれない。
地下水路も、ただの設備かもしれない。
それを忘れてはいけない。
班練習では、短い資料文を読んで、事実と推測を分けた。
アリシアはメリル、トマ、ミーナと同じ班。
資料文には、古い井戸が村の防災に使われていた、という内容が書かれていた。
トマが言う。
「事実は、古い井戸がある。防災に使われていた記録がある」
ミーナが続ける。
「推測は、今も使えるかもしれない。何か隠されているかもしれない。でも、資料には書かれていない」
メリルがアリシアを見る。
「アリシアちゃんは?」
アリシアは少し考える。
「井戸って言葉で、水音とか深い場所を思い出すけど……それは私の連想で、資料の事実ではない」
ミーナが静かに頷いた。
「とても大事な分け方ね」
「うん」
アリシアは少しだけ胸が軽くなった。
自分の連想を事実にしない。
それが今日の調査の鍵だと思った。
◇
戦闘基礎では、エレナ教官が地面に二本の線を引いた。
一つは「進んでよい線」。
もう一つは「戻る線」。
今日の課題は、踏み込んだ後に戻れる位置を残すことだった。
「前へ出る時、戻る道を捨てるな」
エレナ教官の声が響く。
「戻れない踏み込みは、成功しても危険だ」
アリシアは木刀を握る。
昨日の言葉の続きだった。
線を越えても、戻れる位置を残せ。
調査でも同じ。
許可範囲の資料に踏み込む。
でも、推測へ沈みすぎない。
戻れる場所を残す。
訓練は、カイルとミーナを相手に行われた。
赤札で前へ出る。
だが、二本目の線を越えすぎてはいけない。
青札で戻る。
白札で知らせる。
一回目、アリシアは慎重になりすぎて、前への踏み込みが浅かった。
カイルに余裕を与える。
「止め」
エレナ教官が言う。
「浅い。戻る道を残すことと、踏み込まないことは違う」
「はい」
二回目。
今度は少し深く出る。
カイルの進路を塞ぐ。
すぐに青札。
戻る。
足が少し遅れたが、戻れた。
「今のは悪くない」
「はい」
三回目。
ミーナの槍が低く入る。
アリシアは止められる。
赤札。
前へ出る。
木刀を低く置く。
すぐに戻る線を確認。
足を引く。
メリルの風が通る。
「止め」
エレナ教官が頷く。
「戻る道を見ていたな」
「はい」
「それを忘れるな。見える者ほど、深く入りすぎる」
アリシアは深く頷いた。
見える者ほど、深く入りすぎる。
第六支点の調査にも、そのまま当てはまる言葉だった。
◇
昼食後。
図書館の閲覧席には、リーネがすでに資料を積んでいた。
三冊。
一冊目は『古代結界修復入門』。
二冊目は『中央学園地下水路の公開構造』。
三冊目は『五大国中心地と地脈・水脈の基礎』。
タイトルだけで、アリシアの胸が少し深くなる。
けれど、今日は大丈夫だった。
読む範囲は決まっている。
行ってはいけない場所も決まっている。
戻る道がある。
メリルが隣に座る。
シオンは少し離れて椅子に座り、風のようにページをめくっている。
ミランダとレオンも一緒にいたが、難しい本を前にして少し固まっていた。
ルシアンは静かに資料の目次を見ている。
ノアはアリシアの足元。
リーネが言った。
「今日の目的を確認します。第六支点そのものを解明することではありません」
「はい」
アリシアは頷く。
「地下水路、水脈、結界修復の一般情報を確認すること」
「その通りです」
シオンが言う。
「答えを探すんじゃなくて、地図の端を見る感じだね」
ルシアンが頷く。
「中心ではなく周辺を整える。良い進め方です」
レオンが腕を組む。
「つまり、外堀だな!」
ミランダが頷く。
「外堀!」
リーネは少し考えた後、言った。
「表現としては大きく間違っていません」
「やった!」
場が少し和んだ。
最初に読んだのは『古代結界修復入門』だった。
リーネが音読する。
「古い結界は、長年の使用によって魔力の流路が偏ることがある。その際、支点そのものを修復するほか、補助水路、地脈接続、魔力保持層を利用して流れを整える場合がある」
補助水路。
地脈接続。
魔力保持層。
アリシアはノートに書く。
胸の奥は少し反応した。
でも、強くはない。
「アリシアさん、体感は?」
リーネが聞く。
「補助水路って言葉で、少し胸が深くなった。でも水音はなし。痛み、冷えなし」
「記録します」
ルシアンが静かに言う。
「魔力保持層という言葉も気になりますね。保持、という語は昨日聞いた第六支点の周辺語にもありました」
リーネが頷く。
「関連可能性あり。ただし一般用語の可能性もあります」
「はい」
アリシアはその言葉に安心した。
関連するかもしれない。
でも、一般用語かもしれない。
両方置く。
次に読んだのは、地下水路の公開構造だった。
地図は簡略化されている。
学園の中央塔地下から、各演習棟、図書館地下、中庭付近へ伸びる水路があるらしい。
ただし、現在はほとんど封鎖され、管理用の水脈循環路として残っている。
レオンが地図を見て言った。
「結構広いな!」
ミランダも覗き込む。
「地下にこんなのあるんだ」
シオンが目を細める。
「図書館地下にも通ってるんだね」
その言葉で、アリシアの胸が少し深くなった。
昨日、上級資料室で揺れがあった。
水音も聞こえた。
図書館地下に水路。
繋げたくなる。
すぐに線にしたくなる。
アリシアはペンを握りしめた。
ノアが足元で言う。
「戻る線」
アリシアは息を吸った。
戻る。
事実。
図書館地下に水路がある。
上級資料室で揺れがあった。
水音がした気がした。
推測。
水路と揺れが関係しているかもしれない。
まだ未確定。
アリシアはノートに分けて書いた。
『事実:公開地図上、図書館地下に水路あり』
『事実:昨日、上級資料室付近で揺れ』
『体感:水音』
『推測:関連可能性。ただし未確定』
書いてから、少し息が楽になる。
リーネがそのノートを見て、静かに言った。
「非常に良い整理です」
「ありがとう」
シオンが少し笑う。
「アリシア、調査班っぽくなってきたね」
「ぽく……?」
「前より、ちゃんと戻ってこられてる」
戻ってこられている。
その言葉が嬉しかった。
次に見た地脈・水脈の基礎では、五大国中心地が複数の地脈と水脈の交差点にあることが書かれていた。
水脈は、ただ水が流れるだけではない。
魔力の冷却。
記録の保持。
結界の過熱防止。
古い魔力残響の保存。
そういった役割を担う場合があるとされていた。
「水は覚えているもの……」
アリシアは小さく呟いた。
ノアが耳を動かす。
リーネが聞く。
「ノアさんの言葉ですか」
アリシアは頷いた。
「うん。水は、流れても形を変えても、深い場所には残るものがあるって」
ルシアンが静かに言った。
「魔力残響の保存と近い考え方ですね」
シオンが頬杖をつく。
「じゃあ、水音は残響なのかも?」
リーネが即座に言う。
「推測です」
「はいはい」
アリシアは書く。
『水音=魔力残響の可能性。ただし未確定』
胸の奥が、少しだけ深くなる。
しかし、怖さは昨日より少なかった。
なぜなら、今日は一人ではない。
資料も公開範囲。
推測も分けている。
岸辺に立てている。
◇
しばらく調査を続けた後、司書がやって来た。
「順調ですか」
リーネが答える。
「公開資料範囲内で整理中です」
司書はアリシアを見る。
「体調は?」
「少し胸が深くなることはあります。でも水音はありません。痛み、冷えもありません」
「良い状態です」
司書は机の資料を見る。
「地下水路の地図を見ていますね」
「はい。でも、行きません」
アリシアがすぐに言うと、司書は少し微笑んだ。
「分かっています」
その言葉に、少しだけ胸が温かくなった。
信じてもらえている。
完全ではないかもしれない。
でも、昨日までより少し。
司書は続ける。
「一つだけ補足します。公開地図は現在の管理区域を示したものです。古い水路の一部は、現在の地図には載っていない場合があります」
アリシアの胸が跳ねる。
古い水路。
地図にない。
それは、あまりにも気になる言葉だった。
シオンも目を細める。
リーネの筆が動く。
司書はすぐに言った。
「ただし、それは一般論です。今すぐ調査対象にしないでください」
「はい」
アリシアは即答した。
行きたい。
知りたい。
でも、今は一般論として置く。
「古い水路の一部は地図にない場合がある。一般論。今すぐ調査対象にしない」
アリシアは声に出しながら書いた。
司書は頷いた。
「良い対応です」
レオンが小声で言う。
「今の、俺なら絶対気になって走る」
ミランダが頷く。
「私も」
シオンが呆れる。
「二人は地下水路出禁だね」
「まだ行ってないぞ!」
「行く前から危ない」
場が少し笑いに包まれる。
アリシアも笑った。
その笑いで、古い水路という言葉の重さが少し軽くなった。
◇
夕方。
図書館を出る時、アリシアのノートには多くの整理が残っていた。
補助水路。
地脈接続。
魔力保持層。
図書館地下の水路。
魔力残響。
水は記録を残すことがある。
古い水路の一部は地図にない場合がある。
どれも重要そうに見える。
けれど、今日分かったことは、答えではない。
岸辺の形だ。
水底に沈む名を掬い上げたわけではない。
ただ、その水面がどこに広がっているのかを少し見ただけ。
帰り道、メリルが言った。
「今日は、かなり調べたね」
「うん。でも、思ったより苦しくない」
「どうしてかな」
「たぶん……調べていい範囲だったから。あと、みんながいたから」
「うん」
メリルは嬉しそうに頷いた。
レオンとミランダは前の方で、地下水路に行かない宣言を何度もしている。
「行かない!」
「行かない!」
シオンが疲れたように言う。
「分かったから」
リーネが真面目に言う。
「反復確認は効果があります」
ルシアンはそれを見て静かに笑っていた。
アリシアはその光景を見ながら、少しだけ思った。
もし一人だったら、今日はもっと怖かった。
古い水路という言葉に引かれていたかもしれない。
図書館地下の地図を見て、胸が沈んでいたかもしれない。
でも、みんながいた。
誰かが笑い、誰かが記録し、誰かが茶化し、誰かが線を引いてくれた。
だから戻れた。
◇
夜。
アリシアは練習帳を開いた。
今日の調査内容を一つずつ整理する。
『今日は公開資料の範囲で、地下水路、水脈、古い結界修復について調べました。目的は第六支点そのものを解明することではなく、周辺情報を整理することでした』
続ける。
『古い結界修復では、補助水路、地脈接続、魔力保持層を使う場合があるそうです。水脈には、魔力の冷却、記録の保持、結界の過熱防止、魔力残響の保存に関わる役割がある場合があります』
さらに書く。
『学園の公開地下水路地図では、図書館地下にも水路があります。ただし、立ち入りは禁止です。古い水路の一部は現在の地図に載っていない場合があるそうですが、今すぐ調査対象にはしません』
アリシアはペンを止めた。
今日、何度も心を引かれた言葉を書く。
『古い水路、地図にない水路、魔力残響。どれも気になります。でも、今日は線を越えませんでした。資料を読み、記録し、推測を分けました』
ノアが机の上に飛び乗る。
「今日は?」
アリシアが聞くと、ノアは少し考えた。
「九十九点」
「また高い……」
「岸辺に立てていたわ。水底へ潜らなかった。古い水路の話でも走らなかった。推測と事実を分けた。仲間に支えられて戻れた」
「減点は?」
「古い水路って聞いた時、かなり目が泳いだ」
「う……」
「でも、声に出して一般論と書いた。だからほぼ満点」
アリシアは小さく笑った。
「ありがとう」
「礼はいいわ」
「でも、言いたいから」
「知ってる」
ノアは練習帳を見る。
「最後に書くなら?」
アリシアは少し考えた。
岸辺。
水面。
古い水路。
戻る線。
仲間たちの声。
それらを思い浮かべながら、一行を書いた。
『一人なら沈みそうな水面も、みんなとなら岸辺から見ていられる』
ノアはその一文を見て、静かに目を細めた。
「いいわ」
アリシアは練習帳を閉じた。
夜は静かだった。
水音はない。
胸の奥も落ち着いている。
けれど、遠いどこかに、古い水路がある。
地図に載っていないかもしれない水路。
そこに何があるのか、まだ分からない。
でも、今はそれでいい。
アリシアは、岸辺に立つことを覚え始めていた。




