第50話 水底に眠る名
翌朝、アリシアは水音で目を覚ました。
ぽちゃん。
遠くで、小さく。
まるで深い井戸の底に、一滴の雫が落ちたような音だった。
目を開ける。
部屋は静かだった。
窓は閉まっている。
机の上の魔導灯も消えている。
水差しも倒れていない。
床にも濡れた跡はない。
けれど、耳の奥にはまだ、その音の余韻が残っていた。
ぽちゃん。
昨日、図書館で聞いた音と同じ。
夢の中で聞いたかもしれない音とも同じ。
アリシアは寝台の上で、ゆっくり胸元に手を当てた。
痛みはない。
冷えもない。
でも、胸の奥は深い。
昨日よりも、さらに少し。
まるで、夜そのものが井戸になっていて、その底に何かが沈んでいるようだった。
「起きたわね」
ノアの声がした。
アリシアは窓辺を見る。
ノアはそこに座っていた。
いつものように丸くなっているのではなく、きちんと前足を揃えて、外の夜明け前の空を見ている。
「ノア……今、音がした」
「水音?」
「うん」
「部屋の外から?」
アリシアは首を横に振った。
「分からない。耳の奥か、胸の奥か……でも、聞こえた」
「記録」
「うん」
アリシアは寝台から降り、練習帳を開いた。
手が少し震えている。
それでも、ペンは持てた。
『朝、目覚める直前に水音。ぽちゃん。部屋に水の異常なし。胸の奥が昨日より少し深い。痛み、冷えなし。音は外ではなく、耳の奥か胸の奥のように感じた』
書いてから、息を吐く。
少し落ち着いた。
ノアが机へ跳び乗る。
「今日は、報告の日ね」
「グラン先生に?」
「ええ。できれば、マリナにも」
「マリナ先生にも……」
「昨日から結界記録を見ている。水音と結界記録が無関係とは限らない」
「うん」
アリシアは頷いた。
怖い。
けれど、一人で抱えない。
一人で追わない。
報告する。
記録する。
それが、今の自分の役割だ。
「ノア」
「何?」
「水は覚えているもの、って昨日言ったよね」
「言ったわ」
「その覚えているものが……私を呼んでるのかな」
ノアはすぐには答えなかった。
金色の瞳が、アリシアを見る。
「呼んでいる、と思うと近づきたくなるでしょう」
「うん」
「だから、今はこう言い換えなさい」
ノアは静かに言った。
「水音が、何かを知らせているかもしれない」
「知らせている……」
「呼ばれている、ではなく、知らせている。そう思えば、走らずに済む」
アリシアはその言葉を練習帳に書き足した。
『呼ばれている、ではなく、知らせているかもしれない』
書いた瞬間、胸の奥の深さが少しだけ落ち着いた気がした。
ノアの言う通りだった。
呼ばれていると思うと、行きたくなる。
確かめたくなる。
手を伸ばしたくなる。
でも、知らせていると思えば、受け取り、報告できる。
「ありがとう、ノア」
「礼はいいわ」
「でも、言いたいから」
「知ってる」
ノアは小さく瞬きした。
「今日は慎重に行くわよ」
「うん」
◇
朝食へ向かう廊下で、メリルはアリシアを見るなり足を止めた。
「アリシアちゃん、何かあった?」
アリシアは少し驚いた。
「顔に出てる?」
「うん。怖い顔じゃなくて……何か、ちゃんと持ってる顔」
「持ってる顔?」
「うまく言えないけど」
メリルは小さく笑った。
アリシアは練習帳を抱え直した。
「朝、水音で起きたの。部屋に水はなかった。胸の奥が深い感じが続いてる。ノアが、呼ばれてるじゃなくて、知らせているかもしれないって言ってくれて……今日はグラン先生とマリナ先生に報告しようと思う」
メリルは真剣に頷いた。
「うん。一緒に行こうか?」
「最初は朝食の後、グラン先生に行く。メリルさんが一緒だと心強いけど……研究室の中は私が話す」
「分かった。近くまで一緒に行くね」
「ありがとう」
足元でノアが小さく言う。
「九十六点」
アリシアは小声で聞く。
「減点は?」
「朝食前に少し胃を縮めすぎ」
「それ、どうすれば……」
「食べなさい」
「うん」
◇
食堂では、いつもの席がもう賑やかだった。
レオンが今日も声量を抑えようとしている。
「おはよう!」
本人としては小声なのだろう。
だが、まだよく響いた。
リーネが即座に言う。
「六十八点です」
「下がった!」
「昨日より響きました」
「難しい!」
ミランダが笑い、ガレスも笑う。
シオンは眠そうにパンをかじっていた。
ルシアンも席にいて、静かに紅茶を飲んでいる。
アリシアが席につくと、全員の視線が少しだけ集まった。
昨日までなら、それだけで身を縮めていたかもしれない。
けれど今日は、話すことがある。
アリシアは自分から口を開いた。
「あの……朝、水音がしました」
食卓の空気が変わった。
レオンも口を閉じる。
リーネは手帳を取り出す。
シオンは眠そうな顔をやめる。
ルシアンの目が静かに細くなる。
ミランダは心配そうに身を乗り出した。
「大丈夫?」
「うん。痛みも冷えもない。ただ、胸の奥が深い感じがして……水音が、ぽちゃんって」
リーネが記録する。
「朝、目覚める直前。水音。部屋に異常なし。胸の奥が深い。痛み、冷えなし」
「ノアが、呼ばれているじゃなくて、知らせているかもしれないって」
アリシアが言うと、シオンが小さく頷いた。
「その言い換え、いいね」
ルシアンも静かに言った。
「呼ばれている、と感じると危険に近づきやすい。知らせている、なら受け取って報告できます」
「うん。だから、今日はグラン先生とマリナ先生に報告する」
レオンが力強く頷いた。
「それがいい! 一人で行くなよ!」
「はい」
ミランダも言う。
「何かあったら言ってね。私、走って先生呼べるから!」
「ありがとう」
ガレスが拳を握る。
「俺も呼べるぞ!」
「ありがとう、ガレス君」
食堂のざわめきはいつも通りだった。
けれど、アリシアたちの席だけは少し静かで、真剣だった。
それでも重くなりすぎない。
レオンがパンを見て言う。
「まず食べよう。ノアも見てるしな」
アリシアは思わずノアを見る。
ノアは椅子の上で当然のようにパンを見ていた。
「採点中よ」
アリシアは少し笑った。
パンをちぎる。
少しだけ歪んだが、粉々ではない。
「八十八点」
「今日はそれで十分」
アリシアはそう言って、パンを口に運んだ。
食べる。
報告する。
急がない。
それだけを、ひとつずつ。
◇
朝食後、アリシアはメリルとノアと一緒にグラン先生の研究室へ向かった。
廊下は朝の授業前で少し慌ただしい。
その中を歩いていると、胸の奥の深さは少しだけ薄まった。
不安はある。
でも、言葉にしたからか、持ち運べる重さになっている。
研究室の扉を叩く。
「アリシアです」
「どうぞ」
中へ入ると、グラン先生はすでに水晶板を準備していた。
まるで来ることを予想していたようだった。
「朝、反応がありましたか」
「はい」
アリシアは練習帳を開き、書いた内容をそのまま伝えた。
水音。
部屋に異常はないこと。
胸の奥が深いこと。
ノアの言葉。
呼ばれているではなく、知らせているかもしれない。
グラン先生は黙って聞き、丁寧に記録した。
「良い整理です」
「ありがとうございます」
「水晶反応を確認しましょう。昨日と同じく、触れずに近くへ置くだけです」
「はい」
水晶片が机に置かれる。
アリシアはそれを見る。
透明。
何もない。
そう思った瞬間、昨日より少しはっきりした黒い点が、水晶の底に浮かんだ。
点は、すぐには消えなかった。
ゆっくり広がり、小さな円になる。
まるで水面に落ちた雫の波紋のように。
アリシアは息を止めかける。
「呼吸」
グラン先生の声。
アリシアは息を吸う。
吐く。
黒い波紋は、一度だけ広がり、静かに消えた。
グラン先生の表情は変わらない。
だが、記録する手は少し速くなった。
「昨日より反応が明確です。持続は短い。外部へ漏れているわけではありません」
「危ないですか?」
「現時点では危険とは判断しません。ただし、マリナ先生にも共有します」
「はい」
グラン先生は水晶片を片づける。
「アリシアさん。今日、上級資料室や中央塔地下へ自分から近づかないでください」
「はい」
「これは禁止ではなく、負荷管理です。行く必要がある場合は、必ず教員同伴。分かりますね」
「分かります」
「良い返事です」
アリシアは少し息を吐いた。
その時、グラン先生は少し声を落とした。
「まだ正式には言えませんが、昨日見つかった古い記録には、水に関する記述が含まれている可能性があります」
水。
アリシアの胸が深くなる。
だが、走らない。
聞く。
「それは、私の水音と関係ありますか?」
「可能性はあります。ですが、断定できません」
「はい」
「あなたは今、かなり良い対応をしています。焦らず、そのまま記録を続けてください」
「はい」
研究室を出ると、メリルが待っていた。
「どうだった?」
「水晶に、黒い波紋みたいなのが出た。昨日よりはっきり。でも危険ではないって。今日は上級資料室や中央塔地下へ自分から近づかないように言われた」
「うん。それがいいと思う」
「古い記録に、水に関する記述があるかもしれないって」
メリルは少し目を見開いた。
「水……」
「まだ断定はできない」
「うん。分からないまま置く」
「うん」
◇
生活基礎の授業で、セリア先生は「知らせを受け取る姿勢」について話した。
黒板に書かれた文字を見て、アリシアは驚いた。
『知らせと命令は違う』
今日も、今の自分に必要な言葉だった。
セリア先生は穏やかに言った。
「何かに気づくことがあります。誰かの言葉、場の空気、体の違和感、夢、予感。そうしたものを、知らせと感じることもあるでしょう」
アリシアはノートを取る手を止めそうになった。
水音。
知らせ。
ノアの言葉と重なる。
「ですが、知らせを受け取ったからといって、すぐに動かなければならないわけではありません。知らせは情報です。命令ではありません」
知らせは情報。
命令ではない。
アリシアは強く書いた。
『知らせは情報。命令ではない』
「情報を受け取ったら、確認する。共有する。安全な手順を考える。それが大切です。焦って動けば、知らせそのものが危険に変わることもあります」
胸の奥が少し落ち着く。
水音は、命令ではない。
行けと言っているわけではない。
ただ、何かを知らせているかもしれないだけ。
なら、受け取って、報告すればいい。
班練習では、気になる知らせを受け取った時の対応を話し合った。
アリシアはメリル、トマ、ミーナと同じ班。
トマが言う。
「俺なら、まず誰かに言うかな。自分だけだと絶対変な方向に考える」
ミーナが頷く。
「私は、いつ、どこで、何を感じたか書くわ。感情はその後」
メリルがアリシアを見る。
「アリシアちゃんは、もう実践してるね」
「うん……でも、まだ行きたくなる気持ちはある」
「あるんだ」
「少し。水音がした場所を確かめたいって」
正直に言う。
ミーナは真剣に頷いた。
「それを言えるなら大丈夫。隠す方が危ないわ」
「うん」
アリシアはノートに書いた。
『確かめたい気持ちはある。でも、今日は行かない。先生に報告済み』
書くと、少し落ち着いた。
◇
戦闘基礎では、エレナ教官が「知らせるだけの訓練」を行った。
武器を持つ。
だが、ほとんど打ち合わない。
相手の動きを見て、言葉だけで味方へ伝える。
アリシアにとっては、昨日からの流れに重なる訓練だった。
見えたから動くのではない。
見えたことを知らせる。
それだけで状況が変わることもある。
メリルと組み、カイルとミーナを相手にする。
カイルが右へ重心を移す。
アリシアは木刀を動かさない。
「右に来ます」
メリルが杖を構える。
ミーナの槍が低く入る。
「低いです」
メリルが杖先を下げる。
カイルが一歩引く。
「下がります」
メリルが前へ出すぎない。
それだけ。
派手さはない。
でも、連携は崩れない。
エレナ教官が頷いた。
「アリシア。今日の声は良い」
「はい」
「動かず知らせることができている。覚えておけ。お前の見る力は、お前だけが動くためのものではない」
その言葉が、胸に深く入った。
見る力は、自分だけが動くためのものではない。
知らせるためのもの。
誰かに渡すためのもの。
水音も、同じかもしれない。
自分が行くためではなく、知らせるために受け取ったのかもしれない。
授業後、エレナ教官がアリシアへ近づいた。
「グランから聞いた」
「はい」
「今日は中央塔方面へ行くな」
「はい」
「不安なら誰かといろ」
「はい」
「それと、よく報告した」
最後の一言に、アリシアは顔を上げた。
エレナ教官はそれ以上何も言わず、他の生徒の方へ向かった。
短い。
でも、確かな評価だった。
アリシアは木刀を握り、静かに頷いた。
◇
昼食後。
図書館へ向かう前に、アリシアたちは中庭で一度足を止めた。
レオン、ミランダ、リーネ、シオン、ルシアンも一緒だった。
自然に集まった形だった。
六人が中庭の端に立つ。
中央塔が遠くに見える。
その地下で、今、何かが調べられているのだろう。
アリシアは塔を見上げた。
行きたい。
ほんの少し。
確かめたい。
でも、行かない。
「行かない顔をしてるね」
シオンが言った。
アリシアは驚く。
「分かる?」
「分かるよ。足が塔の方に向いてるのに、体が止まってる」
アリシアは慌てて足元を見る。
本当に少し、中央塔の方を向いていた。
ミランダがすぐにアリシアの横に立った。
「じゃあ、こっち向こう!」
明るい声で、ミランダはアリシアの隣に並び、図書館の方を指した。
「今日は図書館!」
レオンも反対側に立つ。
「そうだ! 先生に行くなって言われたなら、行かない!」
リーネが頷く。
「行かない判断を補助します」
シオンが笑う。
「護衛みたいになってる」
ルシアンは静かに言った。
「知らせを受け取った人を、一人にしないことも連携ですね」
その言葉に、アリシアは胸が少し熱くなった。
六人の連携。
中央演習場だけではない。
日常でも、こうして支えてくれる。
「ありがとう」
アリシアが言うと、レオンが笑った。
「礼はいい!」
ノアが足元で小さく言った。
「それは私の台詞よ」
アリシアは思わず笑ってしまった。
その笑いで、塔へ向いていた気持ちが少し戻った。
六人は図書館へ向かった。
◇
図書館では、司書とマリナ先生が奥の閲覧室で話していた。
アリシアたちが来ると、司書が一度こちらへ視線を向けた。
そして、少し考えた後、アリシアを呼んだ。
「アリシアさん。少しだけ」
全員の空気が固まる。
ノアが足元で静かに立つ。
アリシアは一歩前へ出た。
「はい」
「グラン先生から共有を受けました。水音の件です」
「はい」
「今から、あなたに一つだけ確認します。答えられる範囲で構いません」
「分かりました」
司書は静かに言った。
「あなたは、隠れ里で『第六支点』という言葉を聞いたことがありますか」
空気が止まった。
第六支点。
アリシアは、その言葉を知らない。
少なくとも、はっきり聞いた記憶はない。
けれど。
胸の奥の夜が、深く沈んだ。
ぽちゃん。
耳の奥で、水音がした。
アリシアは反射的に胸元を押さえる。
ノアの尻尾が床を打った。
周囲が一気に緊張する。
マリナ先生が立ち上がった。
「アリシアさん?」
アリシアは呼吸を整える。
ノアの声が聞こえる。
「息」
吸う。
吐く。
アリシアはゆっくり答えた。
「言葉としては……覚えていません。でも、今その言葉を聞いた瞬間、水音がしました。胸の奥が深くなりました。痛み、冷えはありません」
リーネがすぐ記録しようとするが、司書が手で制した。
「この場では私が記録します」
リーネは頷いた。
司書は静かに言った。
「ありがとうございます。今はこれ以上聞きません」
「第六支点って……何ですか」
アリシアは聞いてしまった。
聞くべきか迷った。
けれど、質問としてならいいと思った。
司書はマリナ先生を見る。
マリナ先生は少し沈黙した後、答えた。
「古い結界記録に出てきた言葉です。まだ意味は確定していません」
「水と関係がありますか」
「可能性はあります」
可能性。
また、その言葉。
「ただし、今はまだ詳細を話せる段階ではありません。あなたの反応も含めて、慎重に確認します」
「はい」
アリシアは頷いた。
聞けた。
でも、踏み込みすぎなかった。
第六支点。
その言葉は胸の奥に沈んだままだ。
ノアは黙っている。
その沈黙が、何より重かった。
◇
その日の図書館では、合同訓練の記録どころではなかった。
もちろん、表向きには通常通り過ごす必要がある。
だが、全員が「第六支点」という言葉を意識していた。
リーネは司書から許可された範囲だけを記録した。
『古い結界記録に第六支点という語。意味未確定。アリシアさんは言葉として記憶なし。ただし聞いた瞬間、水音と胸の深さを体感』
シオンは腕を組んでいた。
「ついに言葉が出てきたね」
ミランダが不安そうに言う。
「第六って……六つ目ってこと?」
レオンが真剣な顔で言う。
「五属性の他に、もう一つ?」
ルシアンは静かに言った。
「断定はできません。ですが、五つの支点の外に何かが想定されていた可能性はあります」
リーネが頷く。
「封印行、支点増設不要、第六支点。関連可能性は高いですが、まだ線にするには不足しています」
アリシアは練習帳を見つめる。
線にしたくなる。
だが、まだ早い。
点。
水音。
黒い波紋。
第六支点。
隠れ里の泉。
古い結界記録。
それらは並び始めている。
けれど、まだ繋げない。
ノアが足元で言う。
「今日はここまで」
アリシアは頷いた。
「うん」
◇
夜。
アリシアは机に向かい、練習帳を開いた。
今日のページは、いつもより文字が多かった。
水音。
黒い波紋。
知らせ。
命令ではない。
動かず知らせる。
中央塔へ行かない判断。
そして、第六支点。
アリシアは、一つずつ書いていく。
『今日、第六支点という言葉を聞きました。私はその言葉をはっきり覚えていません。でも、聞いた瞬間、水音がしました。胸の奥が深くなりました。痛みや冷えはありません』
続ける。
『第六支点は、古い結界記録に出てきた言葉だそうです。意味はまだ確定していません。水と関係がある可能性があります。でも、まだ詳細は分かりません』
さらに書く。
『私は、中央塔へ行きたい気持ちが少しありました。でも行きませんでした。ミランダさん、レオンさん、リーネさん、シオンさん、ルシアンさんが一緒に図書館へ向かってくれました。日常の中でも、連携はあるのかもしれません』
アリシアはペンを止めた。
ノアは窓辺にいる。
今日も夜を見ている。
「ノア」
「何?」
「第六支点って、闇のこと?」
ノアは答えなかった。
長い沈黙。
アリシアは待った。
今までなら、不安で言葉を重ねていたかもしれない。
でも今日は待てた。
やがて、ノアは静かに言った。
「闇だけの話ではないわ」
「闇だけじゃない……」
「でも、闇と無関係でもない」
アリシアはペンを握る。
「それは、書いていい?」
「書きなさい。今はそこまで」
アリシアは頷き、練習帳に書いた。
『ノアは、第六支点は闇だけの話ではない。でも、闇と無関係でもないと言いました。今はそこまで』
書いてから、胸が少し震えた。
怖い。
でも、言葉がひとつ増えた。
空欄だった場所に、まだ答えではないけれど、見出しのようなものが置かれた気がした。
ノアが机へ飛び乗る。
「今日は?」
アリシアが聞くと、ノアは長く考えた。
「九十九点」
「……昨日と同じ」
「水音で目覚めても記録した。黒い波紋でも呼吸した。中央塔へ行かなかった。第六支点を聞いても倒れなかった。質問もできた。でも踏み込みすぎなかった」
「減点は?」
「第六支点を聞いた瞬間、椅子から立ちかけた」
「うん……」
「でも座り直した」
「うん」
「だから九十九点」
アリシアは少しだけ笑った。
怖い日だった。
でも、よくできた日でもあった。
ノアは練習帳を見る。
「最後に書くなら?」
アリシアはしばらく考えた。
第六支点。
水音。
闇だけではない。
闇と無関係でもない。
まだ分からない。
でも、少しずつ近づいている。
アリシアは、一行を書いた。
『水底に沈んでいる名を、私は急いで掬い上げない』
ノアはその一文を見て、静かに目を細めた。
「いいわ」
アリシアは練習帳を閉じた。
夜は深い。
けれど、今夜の深さは、昨日までと少し違った。
ただ暗いだけではない。
底に、何かの名が沈んでいる。
それがいつか浮かび上がる日まで。
アリシアは、急がずに見続けると決めた。




