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『忘れられた六つ目の神器に選ばれました 〜人見知りな闇の少女と毒舌黒猫の学園英雄譚〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第49話 第六支点の影



 翌朝。


 アリシアは、いつもより少し早く目を覚ました。


 窓の外は、まだ朝になりきっていない。


 空の端だけが薄く白み、寮の中には夜の静けさが残っている。


 部屋の魔導灯は消えていた。


 机の上に置かれた練習帳の表紙だけが、窓から入る淡い光を受けてぼんやり見える。


 アリシアは寝台の上で、しばらく動かなかった。


 胸の奥を確かめる。


 痛みはない。


 冷えもない。


 息苦しさもない。


 けれど、何もないわけではなかった。


 昨日の夜から、胸の奥の夜が、少しだけ深くなっている気がする。


 揺れているわけではない。


 波立っているわけでもない。


 ただ、井戸の底が、昨日より少し遠くなったような感覚。


 その奥に、何かが沈んでいる。


 まだ見えない。


 呼ばれているほど強くはない。


 でも、確かにそこにある。


「起きてるわね」


 ノアの声がした。


 アリシアはゆっくり顔を向ける。


 ノアは窓辺に座っていた。


 黒い毛並みが、明け方の薄い光に輪郭だけを浮かび上がらせている。


「うん……少し早く起きちゃった」


「胸?」


「うん。痛くはない。でも、少し深い感じがする」


「深い」


 ノアはその言葉を繰り返した。


 いつものように茶化さなかった。


 それだけで、アリシアは少し緊張した。


「悪いこと?」


「まだ分からないわ」


「ノアにも?」


「ええ。分からないものを分からないと言うのは大事でしょう」


「うん……」


 ノアは机の上へ跳び移り、練習帳の上に前足を置いた。


「昨日の最後の一文、覚えてる?」


「静かな前兆ほど、私は急がずに見る」


「そう。それを今日も守りなさい」


「うん」


「気になっても、探し回らない。胸が揺れても、一人で行かない。言葉にできるなら記録する。必要なら報告する」


「うん」


「そして、朝食を抜かない」


 少しだけいつもの調子が戻った。


 アリシアは小さく笑った。


「そこも大事?」


「当然。空腹で前兆を読むなんて論外よ」


「前兆を読むって……」


「言葉の綾」


 ノアは尻尾を揺らした。


 けれど、声の奥に小さな硬さが残っている。


 アリシアはそれに気づいたが、追及しなかった。


 今はまだ、聞きすぎる時ではない。


 アリシアは寝台から降り、練習帳を開いた。


 昨日の最後の一文の下に、短く書く。


『朝、胸の奥がいつもより深い感じがした。痛み、冷え、息苦しさなし。揺れではない。井戸の底が少し遠くなったような感覚。決めつけない』


 書き終えると、少し落ち着いた。


 ノアが頷く。


「よろしい」


「点数は?」


「朝の記録だけなら九十四点」


「減点は?」


「不安で布団を握りすぎ。あと、少し窓の外を見張ろうとした」


「う……」


「でも止まった」


「うん」


「ならいいわ」


 アリシアは制服に着替え、鏡の前に立った。


 黒髪。


 黒い瞳。


 少しだけ眠そうな顔。


 でも、昨日より怯えた顔ではない。


「背筋」


 ノアが言う。


 アリシアは背筋を伸ばす。


「今日は、深さに飲まれない」


「うん」


 ◇


 扉を開けると、メリルはもう廊下で待っていた。


「おはよう、アリシアちゃん」


「おはよう、メリルさん」


 メリルはすぐにアリシアの顔を見た。


 いつものように、よく見ている。


「今日は少し眠そう?」


「少し早く起きちゃって」


「胸?」


 アリシアは少し驚いた。


「分かる?」


「なんとなく。ノアちゃんも少し真面目な顔してるし」


 ノアは足元で普通の猫の顔をしている。


 それでもメリルには何か伝わるらしい。


 アリシアは小さく頷いた。


「痛みとかはないよ。ただ、胸の奥が少し深い感じがして……記録はした」


「うん。よかった」


「まだ、何かは分からない」


「分からないまま置く?」


「うん」


 メリルは優しく笑った。


「それができるようになったの、本当にすごいと思う」


「まだ怖いけどね」


「怖くても、できてる」


 その言葉に、アリシアの胸が少し温かくなる。


 二人と一匹で廊下を歩く。


 朝の寮は、いつもと同じようで、少しだけ違って見えた。


 誰かが眠そうに階段を下りている。


 誰かが課題の紙を抱えて走っている。


 誰かが廊下の角で友人を待っている。


 普通の朝。


 でも、アリシアにはその普通の音が、少しだけ遠く感じられた。


 胸の奥が深いせいだろうか。


 耳が、いつもより遠くの音を拾っている気がする。


 足音。


 扉の音。


 窓の外の風。


 それらの間に、聞こえないはずの沈黙がある。


 アリシアは立ち止まりそうになった。


 ノアが足元で尻尾を靴に触れさせる。


「今は歩く」


「……うん」


 歩く。


 止まらない。


 探し回らない。


 朝食へ向かう。


 それが今すること。


 ◇


 食堂には、すでにいつもの面々がいた。


 ガレス。


 ミランダ。


 レオン。


 リーネ。


 シオン。


 今日はルシアンも少し離れた席にいたが、アリシアたちに気づくと会釈してから合流してきた。


「おはようございます」


「おはよう、ルシアン!」


 レオンの声は、昨日より少しだけ抑えられていた。


 リーネが頷く。


「声量、七十点です」


「おお! 点数が出た!」


「まだ改善の余地があります」


「分かった!」


 ガレスが笑う。


「レオンも採点されるようになったな」


「訓練だ!」


 シオンが呟く。


「朝から熱い」


 ミランダがアリシアを見る。


「アリシア、今日は少し眠そう?」


「うん。ちょっと早く起きちゃって」


「大丈夫?」


「大丈夫。痛いとかはないから」


 その言葉に、リーネが反応した。


「胸の反応ですか」


 アリシアは少し迷ったが、頷いた。


「少しだけ。胸の奥が深い感じがした。痛み、冷えなし。記録済み」


 リーネはすぐに手帳を出しかけたが、朝食中だと気づいて手を止めた。


「後で共有してください」


「うん」


 シオンがアリシアを見た。


「深い感じって、昨日のマリナの件から?」


「たぶん。でも、分からない」


「分からないで置けてるならいいね」


 ルシアンも静かに言う。


「光の反応とは違いますか」


 アリシアは少し考えた。


 光の支点の時。


 ルシアンと向き合った時。


 胸の奥の夜が少し下がる感覚。


 眩しさ。


 距離を取りたくなる感覚。


 今朝の深さは、それとは違う。


「光の時みたいに奥へ下がる感じではないです。もっと……下がるんじゃなくて、底が遠くなる感じです」


「底が遠くなる」


 ルシアンは真剣に頷いた。


「重要な感覚かもしれませんね」


 リーネが結局、手帳を開いた。


「記録します」


 シオンが言う。


「我慢できなかった」


「必要です」


 朝食の席は、少しだけ静かになった。


 だが、重くなりすぎる前に、レオンがパンを手にして言った。


「とりあえず、食べよう! 腹が減ると不安が増える!」


 ノアが椅子の上で小さく言う。


「正論ね」


 アリシアは少し笑った。


「うん。食べる」


 パンをちぎる。


 今日は少し大きめにちぎれた。


 ノアが言う。


「九十点」


 アリシアは小さく頷いた。


 食べる。


 記録する。


 決めつけない。


 それが今できること。


 ◇


 生活基礎では、セリア先生が黒板にこう書いた。


『分からない不安を持ち運ぶ』


 アリシアは、その文字を見た瞬間、胸が少しだけ震えた。


 また、今の自分に必要な授業。


 セリア先生は教室を見渡し、穏やかに話し始めた。


「不安には、すぐ解決できるものと、すぐには解決できないものがあります。今日の課題、明日の予定、誰かとの約束。確認すれば軽くなる不安もあります」


 チョークの音が、黒板に小さく響く。


「ですが、中には、まだ答えが出ない不安もあります。理由が分からない。状況が動くのを待つしかない。誰かが調べてくれている。そういう不安を抱えたまま、日常を過ごさなければならない時があります」


 アリシアは、ゆっくりノートに書いた。


『答えが出ない不安を抱えたまま、日常を過ごす』


 まさに今だった。


 マリナ先生の古い記録帳。


 司書の慎重な言葉。


 胸の奥の深さ。


 まだ答えはない。


 でも、今日も授業はある。


 朝食もある。


 戦闘基礎もある。


 図書館もある。


 不安があるからといって、すべてを止められるわけではない。


「不安を消そうとしすぎると、かえって不安だけを見つめることになります。大事なのは、持ち運べる形にすることです」


 セリア先生は黒板に三つ書いた。


『記録する』

『共有する』

『置き場所を決める』


「不安は、頭の中だけに置くと大きくなりがちです。紙に書く。信頼できる人に伝える。今考える時間と、考えない時間を分ける。これが、不安を持ち運ぶための方法です」


 アリシアは深く息を吸った。


 不安を持ち運ぶ。


 消さなくていい。


 でも、抱きしめ続けなくていい。


 練習帳に置く。


 仲間に共有する。


 今は授業へ戻る。


 それでいい。


 班練習では、「答えが出ない不安がある時に、どう日常を続けるか」を話し合った。


 メリルが言う。


「私は、誰かに話すかな。全部じゃなくても、今不安なんだって言う」


 トマが言う。


「俺は体動かす。考えすぎるとだめだから」


 ミーナは腕を組む。


「私は確認できることを確認して、あとは時間を区切るわ。今は考えない、と決める」


 アリシアは少し考えた。


「私は……練習帳に書く。ノアに言う。メリルさんたちに、話せる範囲で話す。それから、今することをする」


「うん」


 メリルが頷く。


「アリシアちゃんらしい」


「最近、こればかりだけど」


「それがアリシアちゃんの方法なんだと思う」


 方法。


 自分の方法。


 アリシアはその言葉をノートの端に書いた。


 ◇


 戦闘基礎は、昨日に続いて地味な訓練だった。


 今日は「合図がない時は動かない」。


 エレナ教官は、最初にこう言った。


「見えたから動くな。聞こえたから動くな。合図があるまで待て」


 アリシアの胸に刺さる。


 見えたから動くな。


 聞こえたから動くな。


 胸が揺れたから動くな。


 全部同じだ。


 今日の訓練では、相手役がわざと隙を見せる。


 入れそうな場所。


 止められそうな動き。


 声を出したくなる場面。


 しかし、エレナ教官の合図がなければ動いてはいけない。


 一回目。


 カイルがわざと右を空けた。


 アリシアは動きかける。


 合図はない。


 止まる。


 木刀を握った手に力が入る。


「よし」


 エレナ教官が短く言った。


 二回目。


 ミーナの槍が戻り遅れる。


 止められる。


 今なら入れる。


 でも、合図はない。


 アリシアは動かない。


 代わりに呼吸を整える。


 三回目。


 白札が出る。


 声だけ。


「メリルさん、左注意」


「うん」


 短く伝える。


 手は出さない。


「止め」


 エレナ教官が言った。


「アリシア。今日はよく待てている」


「はい」


「待つことに慣れろ。お前は見えるからこそ、待つ訓練が必要だ」


「はい」


 見えるからこそ、待つ。


 その言葉は、今日一番大事な言葉だった。


 授業後、エレナ教官がアリシアへ近づいた。


「今朝、何かあったか」


 アリシアは少し驚いた。


「顔に出てますか?」


「少しな」


「胸の奥が深い感じがしました。痛みや冷えはありません。記録しました」


「報告は?」


「まだ、グラン先生にはしていません。リーネさんたちには朝食で共有しました」


「昼にグランへ伝えろ。急ぎではないが、積むな」


「はい」


 積むな。


 不安を積み上げるな、という意味だろう。


 アリシアは頷いた。


 ◇


 昼食後。


 アリシアはグラン先生の研究室へ向かった。


 メリルも一緒に来てくれたが、部屋の外で待つと言った。


「一人で話せる?」


「うん。大丈夫」


「終わったら合流しよう」


「ありがとう」


 ノアは当然のようについてくる。


 アリシアは扉を叩いた。


「アリシアです」


「どうぞ」


 中へ入ると、グラン先生は机の上に水晶板を置いていた。


 昨日より少しだけ机が散らかっている。


 資料が多い。


 古い紙。


 結界記録。


 アリシアはそれを見て、胸が少し反応しかけた。


 だが、すぐに視線を戻す。


 勝手に見ない。


「座ってください」


「はい」


 グラン先生は穏やかに言った。


「今朝、反応があったそうですね」


「はい。痛みや冷えではなくて……胸の奥が深く感じました。井戸の底が遠くなったみたいな感覚です」


「いつから?」


「今朝、目が覚めた時です。昨日の夜、寝る前はそこまでではなかったと思います」


「何か見ましたか」


「いいえ」


「夢は?」


 アリシアは少し考えた。


 夢。


 覚えていない。


 けれど、何か暗い場所にいたような気もする。


 水音がしたような気もする。


「はっきり覚えていません。でも、暗い場所と……水の音みたいなものがあった気がします」


 グラン先生の手が止まった。


「水音」


「はい。気のせいかもしれません」


「気のせいでも記録します」


 グラン先生は丁寧に書いた。


「黒い反応は出ていますか」


「自分では分かりません」


「確認しましょう。水晶片に触れず、近くに置くだけにします」


「はい」


 透明な水晶片が机に置かれる。


 アリシアはそれを見た。


 反応はない。


 と思った。


 だが、しばらくすると、水晶片の底に、ほんの少しだけ黒い点が浮かんだ。


 点。


 線ではない。


 霧でもない。


 小さな黒い点。


 アリシアは息を止めそうになる。


 グラン先生が静かに言った。


「呼吸」


 アリシアは息を吸った。


 吐く。


 黒い点は、すぐに消えた。


 グラン先生は表情を変えずに記録する。


「微弱反応。持続なし。外部干渉ではなく、内的反応の余波と見ます」


「大丈夫ですか?」


「現時点では問題ありません。ただ、今朝の感覚は記録継続しましょう」


「はい」


 ノアは机の横で黙っている。


 グラン先生はアリシアを見る。


「昨日、マリナ先生が古い記録を確認していたことは知っていますね」


「はい。司書さんから、古い結界記録の再確認だと聞きました」


「詳細はまだ話せません。ただ、あなたの反応と無関係とは言い切れません」


 アリシアの胸が少し固くなる。


 グラン先生はすぐに続けた。


「ですが、あなたが今すぐ何かをする段階ではありません。学園側で確認します。あなたは記録と体調報告を続けてください」


「はい」


「それと、夢を見た場合は、断片でも書いてください。暗い場所、水音、言葉、光、影。何でも構いません」


「分かりました」


 グラン先生は少しだけ声を柔らかくした。


「不安ですか」


「はい。でも……前より、少し持ち運べる気がします」


「良い表現です」


 アリシアは少しだけ笑った。


「生活基礎で習いました」


「セリア先生らしいですね」


 研究室を出ると、メリルが待っていた。


「どうだった?」


「水晶に、少しだけ黒い点が出た。でも、すぐ消えた。問題はないって」


「そっか……」


「夢を見たら書くように言われた」


「夢?」


「暗い場所と、水音みたいなものがあった気がして」


 メリルは少し心配そうにしたが、すぐに頷いた。


「一緒に記録しよう。覚えてる範囲で」


「うん」


 ◇


 図書館では、リーネとシオンが待っていた。


 アリシアがグラン先生に話した内容を共有すると、リーネはすぐに記録した。


「朝の深さ。夢の断片。暗所、水音。水晶片に微弱黒点、持続なし」


 シオンが言う。


「水音っていうのが気になるね」


「水属性関連ですか?」


 メリルが聞く。


 リーネは少し考える。


「可能性はありますが、断定不可です。水音は地下、井戸、神泉、結界水路、記憶象徴など複数の意味を持ち得ます」


「神泉……」


 アリシアは小さく呟いた。


 隠れ里には神泉があった。


 すべての神器と神獣を修復・回復させるもの。


 ただし、今の学園でその話はまだほとんど出していない。


 リーネが顔を上げる。


「何か思い当たりますか」


 アリシアは少し迷った。


 話せる範囲。


 隠れ里の詳細はまだ慎重に扱うべきかもしれない。


 でも、水音に反応したことは伝えていい。


「昔、山に……泉があって。大事な場所でした。だから、水音って聞いて、それを少し思い出しました」


 リーネは頷く。


「記録します。アリシアさんの個人的記憶との関連可能性」


 シオンが言う。


「夢って、外からの反応なのか、内側の記憶なのか分からないから厄介だね」


「はい」


 メリルがアリシアの手元を見る。


「怖い?」


「少し。でも、今は大丈夫」


 アリシアは練習帳に短く追記した。


『夢の水音は、隠れ里の泉を思い出させた。外の反応か、自分の記憶かは分からない』


 その時だった。


 図書館の奥。


 普段は閉じられている上級資料室の扉の向こうから、低い音がした。


 ごく小さな音。


 木が軋むような。


 本棚が揺れるような。


 アリシアは顔を上げた。


 リーネも止まる。


 シオンの目が細くなる。


 メリルが息を飲む。


「今……」


 アリシアが言う前に、司書が奥へ向かって歩き出していた。


 早足。


 でも走らない。


 その後ろに、マリナ先生の姿がちらりと見えた。


 手には、昨日の古い記録帳。


 アリシアの胸の奥が、少しだけ深く沈んだ。


 痛みはない。


 冷えもない。


 でも、朝の深さと同じ感覚が戻ってくる。


 そして、耳の奥で。


 ぽちゃん。


 小さな水音がした気がした。


 アリシアは息を止めた。


「アリシアちゃん?」


 メリルが支えるように声をかける。


「今、水の音が……」


 シオンが周囲を見る。


「ここ、図書館だよ」


 リーネが即座に記録する。


「図書館内で水音の体感。実音か幻聴か未確認」


 アリシアは胸元を押さえた。


 ノアが足元で低く言う。


「立ちなさい」


「うん……」


「追わない」


「うん」


「報告」


「うん」


 アリシアは立ち上がり、司書が戻るのを待った。


 数分。


 とても長い数分だった。


 やがて、司書が戻ってきた。


 表情は落ち着いている。


 だが、いつもより少し硬い。


「皆さん、席を離れないでください。問題ありませんが、上級資料室の一部書架に揺れがありました」


 問題ありません。


 でも、揺れがあった。


 リーネが尋ねる。


「結界異常ですか」


「確認中です」


 司書はそれだけ答えた。


 そして、アリシアを見る。


「アリシアさん。何か感じましたか」


 アリシアはゆっくり頷く。


「胸の奥が、朝と同じように深くなりました。それと……水音が聞こえた気がしました。ぽちゃん、って。痛みも冷えもありません。黒い線も見えていません」


 司書は真剣に頷いた。


「記録してください。私からグラン先生とマリナ先生へ共有します」


「はい」


 アリシアは練習帳に書く。


 手は少し震えた。


 でも書けた。


『図書館上級資料室付近で小さな揺れ。胸の奥が深くなる。水音のようなもの。ぽちゃん。痛み、冷え、黒い線なし。追わない。報告』


 書き終えた時、リーネが小さく言った。


「水音、二回目です」


 シオンも頷く。


「偶然とは言い切れなくなってきたね」


 メリルはアリシアの隣に座ったまま、そっと言う。


「でも、今は追わない」


 アリシアは頷いた。


「うん。追わない」


 ◇


 夕方。


 寮へ戻る道で、アリシアはほとんど話さなかった。


 メリルも無理に話さない。


 ノアは静かに歩いている。


 中庭を通る時、魔導灯の影が長く伸びていた。


 アリシアはその影を見た。


 黒い線はない。


 影喰いの気配もない。


 それでも、胸の奥はまだ少し深い。


 水音。


 暗い場所。


 上級資料室の揺れ。


 古い結界記録。


 それらが、まだ繋がらないまま散らばっている。


 点。


 点。


 点。


 線にしたくなる。


 でも、まだ早い。


 セリア先生の言葉を思い出す。


 分からない不安を持ち運ぶ。


 アリシアは深呼吸した。


「持ち運ぶ……」


 小さく呟くと、ノアが言った。


「そう。抱き潰さない。落とさない。持ち運ぶ」


「うん」


 ◇


 夜。


 アリシアは練習帳を開いた。


 今日は書くことが多かった。


 朝の深さ。


 夢の断片。


 水音。


 水晶片の黒点。


 図書館の揺れ。


 マリナ先生の記録帳。


 司書の反応。


 それらを一つずつ整理する。


『今日は、胸の奥が深い感じが続きました。朝、夢の断片として暗い場所と水音を思い出しました。グラン先生の研究室で水晶片に小さな黒い点が出ましたが、すぐに消えました。問題はないと言われました』


 続ける。


『図書館で、上級資料室の方から小さな揺れがありました。その時、水音が聞こえた気がしました。ぽちゃん、という音です。実際の音か、私の中だけの音かは分かりません。胸の奥が深くなりました』


 さらに書く。


『水音は、隠れ里の泉を思い出させました。でも、学園の古い結界記録とも関係があるかもしれません。まだ分かりません。決めつけません』


 ペンが止まる。


 アリシアはノアを見た。


 ノアは窓辺に座っている。


 夜を見ている。


 その背中は小さいのに、ひどく遠く見えた。


「ノア」


「何?」


「水音って……ノアは何か知ってる?」


 ノアはすぐには答えなかった。


 長い沈黙。


 外では風が窓を撫でている。


 やがて、ノアは静かに言った。


「水は、覚えているものよ」


「覚えている?」


「流れても、形を変えても、深い場所には残るものがある」


「それは……神泉のこと?」


「今は、そこまで」


 アリシアは口を閉じた。


 聞きたい。


 でも、ノアは今はそこまでと言った。


 なら、空欄にする。


 アリシアは練習帳に書いた。


『ノアは、水は覚えているものだと言いました。流れても、形を変えても、深い場所には残るものがあるそうです。今は、そこまで』


 書き終えると、ノアが机へ跳び乗った。


「今日は?」


 アリシアが聞くと、ノアは少し長く考えた。


「九十九点」


 アリシアは驚いた。


「高い……」


「朝の深さに飲まれなかった。夢の断片を記録した。水晶の反応でも呼吸できた。図書館の水音でも追わなかった。報告した。決めつけなかった」


「減点は?」


「上級資料室の音がした時、一瞬立ち上がるのが早すぎた」


「う……」


「でも追わなかった」


「うん」


「だから九十九点」


 アリシアは胸が少し熱くなった。


 怖かった。


 けれど、今日は逃げなかった。


 そして、追わなかった。


 持ち運べた。


 ノアは練習帳を見た。


「最後に書くなら?」


 アリシアは少し考えた。


 水音。


 深い井戸。


 記録帳。


 上級資料室の揺れ。


 まだ見えない線。


 それらを思い浮かべながら、一行を書いた。


『水音の奥に何かが沈んでいる。でも、私はまだ手を伸ばさない』


 ノアはその一文を見て、静かに頷いた。


「いいわ」


 その声は、少しだけ寂しそうだった。


 アリシアは気づいた。


 でも、聞かなかった。


 まだ、聞く時ではない。


 夜は静かだった。


 けれど、アリシアの胸の奥では、遠い水音が一度だけ響いた気がした。


 ぽちゃん。


 それは、どこか深い場所で、忘れられた何かが水面を揺らした音だった。

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