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『忘れられた六つ目の神器に選ばれました 〜人見知りな闇の少女と毒舌黒猫の学園英雄譚〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第48話 静かな前兆 



 朝の鐘が、まだ完全には目を覚ましていない学園をゆっくりと包み込んでいた。


 朝露をまとった芝生。


 石畳を掃く管理員たち。


 中庭を横切る小鳥の群れ。


 中央塔を見上げれば、薄い朝靄が高い尖塔を半分ほど隠している。


 アルカディア魔導学園の朝は、今日も穏やかだった。


 少なくとも――表面上は。


 ◇


 寮の部屋。


 アリシアは窓を開け、朝の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。


「……冷たい」


 頬を撫でる風が心地いい。


 ここ数日、胸を締め付けていた重さが少しだけ軽くなっている。


 もちろん、不安がなくなったわけではない。


 合同訓練は続く。


 六人で並ぶことにもまだ慣れていない。


 封印された一文も気になる。


 学園結界の違和感も終わっていない。


 それでも――。


「また立ちたい場所がある」


 その一言を口にすると、自分でも少し驚いた。


 最初に学園へ来た頃なら、こんな言葉は絶対に出てこなかった。


 逃げたい。


 隠れたい。


 誰にも見られたくない。


 そんな毎日だった。


 今も完全には変わっていない。


 でも、その中に一つだけ違う感情が生まれていた。


「……少しだけ」


 本当に少しだけ。


 また六人で立ってみたい。


「朝から独り言?」


 ベッドの上で丸くなっていたノアが、片目だけ開ける。


「起きてたの?」


「とっくに」


「寝てると思ってた」


「猫はそう簡単に寝坊しないわ」


 ノアは大きく伸びをすると、軽やかに机へ飛び乗った。


「今日は普通の日ね」


「うん」


「普通の日ほど気を抜かない」


「分かってる」


「……と言ってる時ほど、人間は気を抜くのよ」


「う……」


「だから言ったでしょう」


 アリシアは思わず笑ってしまう。


 最近、笑う回数が増えた気がする。


 それに気づくたび、少し照れくさい。


 ノアはそんな様子を見ながら、小さく息をついた。


「最初は泣きそうな顔しかできなかったのに」


「そんなだった?」


「ええ」


「……恥ずかしい」


「別に恥ずかしくないわ」


 ノアは淡々と言う。


「泣きそうだった子が笑えるようになるのは、悪い変化じゃない」


 アリシアは何も返せなかった。


 ただ、小さく頷くだけだった。


 ◇


 寮の廊下。


「おはよう、アリシアちゃん」


 メリルがいつもの笑顔で待っていた。


「おはようございます」


 二人は並んで歩き始める。


 以前なら、アリシアは半歩後ろを歩いていた。


 迷惑をかけないように。


 邪魔にならないように。


 でも今日は自然と横に並んでいた。


 メリルは気づいたようで、嬉しそうに微笑む。


「今日は横なんだね」


「え?」


 アリシアは自分の立ち位置を見て驚いた。


「あ……」


「無理してない?」


「ううん……気づかなかった」


「そういうのって嬉しいな」


 メリルは柔らかく笑った。


「自然に横に来てくれるようになったってことだから」


 アリシアは少し顔が熱くなる。


「そんなつもりじゃ……」


「うん、だから自然なんだよ」


 その言葉が少しくすぐったい。


 ◇


 食堂。


 今日もいつもの席にはガレス、ミランダ、レオンがいた。


 シオンはまだ来ていない。


 リーネは朝から資料を読んでいる。


「おはよう!」


 レオンの大声。


「声」


 リーネが即座に指摘する。


「あ」


 レオンは慌てて口を押さえた。


「お、おはよう」


 今度はかなり小さい。


 ミランダが吹き出した。


「極端!」


「難しい!」


「ちょうど真ん中だよ」


 ガレスが笑う。


 そのやり取りだけで、食堂の空気が少し和む。


 アリシアも小さく笑った。


「笑った!」


 ミランダが嬉しそうに言う。


「え?」


「今、ちゃんと笑った!」


 アリシアは慌てて顔を隠した。


「べ、別に……」


「隠さなくてもいいのに」


 メリルまで笑っている。


 アリシアは困ってしまう。


 笑っただけで話題になる。


 以前なら恥ずかしくて逃げていたかもしれない。


 でも今日は少し違った。


「……そんなに珍しい?」


 勇気を出して聞いてみる。


 レオンが即答した。


「珍しい!」


 ガレスも頷く。


「嬉しい!」


 ミランダも頷く。


「もっと笑って!」


「そんな簡単に……」


 困る。


 本当に困る。


 でも、不思議と嫌ではなかった。


 そこへシオンがトレーを持ってやってきた。


「朝から騒がしい」


「シオン!」


「火属性二人だけで十分騒がしいのに」


「失礼だな!」


「事実」


 シオンは席につくと、アリシアを見る。


「今日は顔色いいね」


「そう?」


「昨日より力抜けてる」


「……少しだけ」


「いいことだ」


 シオンはそれ以上聞かなかった。


 その距離感がありがたい。


 ◇


 朝食を終えた頃。


 食堂入口が少しざわついた。


「ルシアン様だ」


「今日も綺麗……」


「光属性候補だ」


 ルシアンが静かに入ってくる。


 相変わらず目立つ。


 本人は全く気にしていない様子だった。


 彼はアリシアたちを見つけると、小さく会釈した。


「皆さん、おはようございます」


「おはよう!」


 レオンが元気よく返す。


 今日は少しだけ声を抑えていた。


 努力しているらしい。


 ルシアンは席へ座る。


 自然だった。


 もう「合同授業で一緒だった六人」ではなく、「朝食を共にする六人」になりつつある。


 その変化に、アリシアは少しだけ戸惑う。


「まだ慣れない?」


 ルシアンが優しく尋ねた。


「……少し」


「急がなくて大丈夫です」


「はい」


 その一言だけ。


 押し付けない。


 答えを急がせない。


 だから話しやすい。


 アリシアは少し安心した。


 ◇


 その頃。


 中央塔地下。


 学園結界管理室。


 マリナは昨夜の結界記録を静かに見つめていた。


 何枚もの魔導紙。


 幾重にも重なる魔法陣。


 その中央に、一つだけ黒い印が残っている。


「……また」


 昨日も。


 一昨日も。


 同じ場所。


 同じ時間。


 ほんの一瞬だけ。


 結界が揺れている。


 異常と言うほどではない。


 だが、正常とも言えない。


「神器反応ではない……」


 封印反応でもない。


 魔族でもない。


 魔獣でもない。


 それなのに。


 何かが結界へ触れている。


「誰なの……」


 答えは出ない。


 その時。


 魔導紙の端が、ふわりと揺れた。


 誰も魔法を使っていない。


 風もない。


 それでも紙だけが動いた。


 マリナはゆっくり振り返る。


 誰もいない。


 静かな管理室。


 魔導灯だけが青白く揺れている。


「……気のせい?」


 そう呟いた瞬間だった。


 カタン。


 一冊の古い記録帳が、本棚から床へ落ちた。


 部屋にいた管理官たちが一斉に振り返る。


「先生?」


「今、誰か……」


「触ってません」


 マリナは静かに記録帳を拾い上げる。


 表紙には古い文字。


『結界修復記録』


 何気なく開く。


 その瞬間だった。


 ページが勝手にめくれた。


 パラ……


 パラ……


 パラ……


 止まったページには、一行だけ書かれていた。


『第六支点――確認不能』


 マリナの瞳が静かに細くなる。


「……また六つ目」


 その言葉を聞いた管理官たちは、不思議そうに顔を見合わせた。


 だが、その意味を知る者は、この部屋にはマリナしかいなかった。


 静かな朝。


 誰も知らない場所で。


 もう一つの歯車が、音もなく動き始めていた。


★★★★


 生活基礎の授業は、いつも通り穏やかに始まった。


 黒板には、セリア先生の丁寧な文字でこう書かれている。


『日常の中の小さな変化』


 アリシアはその言葉を見て、少しだけ背筋を伸ばした。


 小さな変化。


 最近、その言葉が他人事ではなくなっている。


 距離が変わる。


 視線が変わる。


 朝食の席が変わる。


 自分の言葉が変わる。


 そして、たぶん。


 見えないところでも、何かが変わっている。


 セリア先生は教室を見渡しながら、穏やかに言った。


「大きな出来事の前には、必ず小さな変化があります。ですが、そのすべてが危険なものとは限りません。大切なのは、変化を見つけた時に、すぐに決めつけないことです」


 アリシアはノートに書く。


『変化を見つけても、すぐ決めつけない』


 何度も学んできたこと。


 でも、何度でも必要なこと。


「たとえば、友人の態度が少し違う。教室の空気が少し違う。いつもの道にいつもと違うものがある。そういう時、人は不安になりやすいものです」


 セリア先生の声は優しかった。


「ですが、変化には理由があります。疲れているだけかもしれない。嬉しいことがあったのかもしれない。予定が変わったのかもしれない。まずは、事実と感情を分けましょう」


 アリシアはペンを握った。


 事実。


 感情。


 推測。


 いつもの三つ。


 けれど今日は、いつもより少し胸に響いた。


 朝から、確かに何かが変わっている。


 六人の距離。


 周囲の視線。


 自分の気持ち。


 それだけではない気がする。


 けれど、それが何かは分からない。


 だから決めつけない。


 記録する。


 共有する。


 セリア先生は続けた。


「小さな変化に気づける人は、周りをよく見ています。ですが、気づきすぎる人は疲れます。全部に反応しようとしないことも大切です」


 アリシアは少しだけ苦笑した。


 まるで自分のための言葉だ。


 全部を見ようとしない。


 全部を抱えない。


 何度も言われているのに、気づくとまた同じ場所へ戻ってしまう。


 授業の後半は、短い状況文を読んで「事実」「感情」「推測」を分ける練習だった。


 アリシアはメリル、トマ、ミーナと同じ班。


 課題文はこうだった。


『朝、いつも一緒に歩く友人が少し遅れて来た。表情が硬いように見えた』


 トマが言う。


「事実は、遅れて来た。表情が硬いように見えた、かな」


 ミーナがすぐに指摘する。


「表情が硬いは、見えた人の印象も混じるわね。事実としては、いつもより口数が少ない、とかなら具体的」


 メリルが頷く。


「感情は、心配、不安」


 アリシアは少し考えた。


「推測は……怒ってるのかも、具合が悪いのかも、何か予定が変わったのかも。でも、まだ分からない」


「うん」


 メリルが微笑む。


「アリシアちゃん、分けるの本当に上手くなったね」


「最近、分けることばかりしてるから……」


 アリシアは少し照れた。


 けれど、その練習は確かに自分を助けている。


 怖いものを怖いまま膨らませないために。


 分からないものを、分からないまま置くために。


 ◇


 戦闘基礎では、エレナ教官がいつもより静かだった。


 怒っているわけではない。


 疲れているようにも見えない。


 ただ、何かを考えているようだった。


 アリシアはそれに気づいて、少しだけ胸がざわついた。


 小さな変化。


 でも、すぐに決めつけない。


 エレナ教官は木剣を肩に乗せ、教室全体を見渡す。


「今日は、反応訓練だ。派手な動きはしない。合図に合わせて、止まる、下がる、知らせる。それだけだ」


 生徒たちの間に、少し拍子抜けしたような空気が流れた。


 昨日までの合同訓練の噂で、もっと派手なことをするのではないかと思っていた者もいたのだろう。


 しかしエレナ教官は容赦しなかった。


「派手な訓練だけが訓練ではない。むしろ、止まる、下がる、知らせる。これができない者は、前に出る資格がない」


 アリシアは木刀を握った。


 止まる。


 下がる。


 知らせる。


 封印に触れなかった日を思い出す。


 魔導人形戦で黒い反応を使わなかったことを思い出す。


 全部、同じだ。


 動く力だけでは足りない。


 止まる力も必要。


 今日の訓練は、二人組で行われた。


 アリシアとメリルが並び、カイルとミーナが相手役。


 エレナ教官が赤札、青札、白札を出す。


 赤なら前へ出る。


 青なら下がる。


 白なら声で知らせるだけ。


 単純に見えて、難しい。


 カイルが踏み込む。


 赤札。


 アリシアは木刀を前へ置く。


 ミーナが横へ回る。


 白札。


 手を出さない。


「メリルさん、左」


「うん」


 メリルが杖を動かす。


 次は青札。


 アリシアは下がる。


 だが、少し遅れた。


「止め」


 エレナ教官の声。


「アリシア。青で迷った」


「はい」


「理由」


「前に出るか迷いました」


「なぜ」


「止められるかもと思ったから」


「止められるかも、は理由にならない。札を見ろ」


「はい」


 厳しい。


 でも、必要な指摘だった。


 止められるかもしれない。


 見えるかもしれない。


 できるかもしれない。


 その気持ちで、条件を無視してはいけない。


 アリシアは深く頷いた。


 二回目。


 青札。


 今度は下がる。


 カイルの動きが前へ伸びるが、アリシアは手を出さない。


 メリルが後ろから風で進路を軽く逸らす。


「止め」


 エレナ教官が頷く。


「今のは良い。下がることで味方の射線ができた」


「はい」


 下がることも、道を作ることになる。


 それが少し分かった。


 授業の終わり際、エレナ教官は全体へ言った。


「今日は地味だっただろう」


 何人かの生徒が気まずそうに目を逸らした。


「だが、地味な判断が命を守る。覚えておけ。前に出るだけが強さではない」


 その言葉に、アリシアは強く頷いた。


 ◇


 昼食後。


 アリシアたちは図書館へ向かう途中で、中央塔の方から歩いてくるマリナ先生を見かけた。


 灰色の外套。


 きっちりまとめた栗色の髪。


 いつも通りに見える。


 けれど、アリシアは足を止めた。


「アリシアちゃん?」


 メリルが小さく声をかける。


「今……マリナ先生、少し急いでるように見えた」


 メリルも視線を向ける。


 マリナ先生は早足だった。


 走ってはいない。


 けれど、普段の落ち着いた歩調より明らかに速い。


 手には古い記録帳のようなものを持っている。


 リーネが眼鏡を押し上げた。


「中央塔地下方面から図書館方向へ移動。手に古い資料。表情はやや硬い」


 シオンが横から言う。


「記録が早い」


「事実です」


 アリシアは胸元に手を当てる。


 胸の奥の夜は、強くは反応していない。


 だが、ほんの少しだけ水面が揺れたような感覚があった。


 小さすぎて、気のせいかもしれない。


「何か感じた?」


 シオンが聞く。


「少しだけ……でも、分からない。黒い線は見えないし、痛みもない」


「記録します」


 リーネが言う。


 アリシアは頷いた。


「でも、決めつけない」


「はい。小さな変化として記録します」


 その時、マリナ先生がこちらに気づいた。


 一瞬、足を止める。


 そして、いつものように落ち着いた顔で近づいてきた。


「皆さん、図書館ですか」


「はい」


 リーネが答える。


 マリナ先生の視線が、アリシアへ向く。


「アリシアさん。体調に変化は?」


「え?」


「胸の奥の反応、冷え、痛み、めまい。何かありますか」


 急に聞かれ、アリシアは少し驚いた。


 だが、答える。


「痛みや冷えはありません。さっき、ほんの少しだけ胸の奥が揺れた気がしました。でも、気のせいかもしれません」


 マリナ先生の表情がわずかに変わった。


 本当にわずか。


 けれど、アリシアには見えた。


「そうですか」


 マリナ先生は小さく頷く。


「その感覚を記録しておいてください。無理に探らないように」


「はい」


「今日は封印資料の閲覧予定はありませんね」


「はい」


「それで構いません。通常通り過ごしてください」


 通常通り。


 その言葉が、かえって少し不自然に聞こえた。


 マリナ先生はそれ以上何も言わず、図書館の奥へ向かった。


 メリルが小声で言う。


「何かあったのかな」


 アリシアは小さく首を振る。


「分からない」


 シオンが言う。


「分からないなら、分からないで置く」


 リーネが頷く。


「小さな変化。記録対象です」


 アリシアは練習帳を取り出し、立ったまま短く書いた。


『昼食後、中央塔方面からマリナ先生が古い記録帳を持って早足で図書館へ向かっていた。胸の奥が少しだけ揺れた気がした。痛み、冷えなし。黒い線なし。決めつけない』


 書くと、少しだけ落ち着いた。


 ◇


 図書館では、司書がいつもより少し忙しそうにしていた。


 閲覧席に座ると、リーネは合同訓練の配置図を出したが、視線は何度も受付の奥へ向いていた。


 シオンも本を開いているが、読んでいるようには見えない。


 メリルも小さくアリシアの様子を気にしている。


 アリシアはそれらに気づいてしまい、少し苦笑した。


「みんな、気になってるよね」


 リーネは少しだけ沈黙した後、頷いた。


「はい」


 シオンも頬杖をつく。


「気になるよ。マリナがあの顔して通常通りって言うと、逆に気になる」


 メリルが心配そうに言う。


「でも、今は聞けないよね」


「はい。聞ける状況ではありません」


 リーネははっきり言った。


「だから、今できることをします」


「合同訓練の整理?」


「はい」


 そう言って、リーネは配置図へ視線を戻した。


「前回の成功要因は、最後の進路形成です。しかし、その前段階で複数回崩れています。次回に向けて、崩れた場面を整理します」


 アリシアは頷いた。


 今できること。


 それをする。


 マリナ先生のことは気になる。


 古い記録帳も気になる。


 胸の奥の小さな揺れも気になる。


 でも、今は合同訓練の整理。


 空白ばかり見ない。


 あるものを見る。


 リーネは図を指した。


「最初の崩れ。レオンが前に出すぎたことで、正面人形が右へ抜ける隙間が生まれました」


 シオンが続ける。


「で、アリシアが入った」


「はい。ただし、アリシアさんが入る前に、レオンが自分で戻れるようになるのが理想です」


「それは難しそう」


「訓練課題です」


 メリルが言う。


「ミランダさんの右足が流れた場面もあったよね」


 アリシアは頷く。


「うん。あれは、右の人形の腕が少し高かったから、受けると戦槌が流されると思った」


 リーネが記録する。


「アリシアさん、相手の腕位置と味方武器の戻りを見て判断」


 シオンがアリシアを見る。


「ほんと、よく見てるよね」


「怖いから……」


「それ、最近よく言うね」


「え?」


「怖いから見る。悪くないと思うよ」


 シオンの声は軽かった。


 でも、その中に少しだけ本音が混じっているように聞こえた。


 アリシアは小さく頷く。


「ありがとう」


「また礼」


「でも、言いたいので」


「知ってる」


 その返しに、メリルが少し笑った。


 ◇


 しばらくして、司書が閲覧席へやって来た。


「皆さん、今日は合同訓練の整理ですね」


「はい」


 リーネが答える。


 司書はアリシアへ視線を向けた。


「アリシアさん。今日、何か違和感はありましたか」


 また、同じ質問。


 アリシアは少しだけ胸が固くなる。


 しかし、隠さず答えた。


「昼食後、マリナ先生を見た時に、胸の奥が少しだけ揺れた気がしました。でも、痛みも冷えもありません。黒い線も見えませんでした」


「記録しましたか」


「はい」


「良い判断です」


 司書は頷いた。


 それ以上は言わない。


 だが、メリルが不安そうに聞いた。


「あの……何か、あったんですか?」


 司書は少しだけ考えた。


 答えるべきかどうか、判断しているようだった。


「現時点で、生徒の皆さんに危険がある情報はありません」


 まず、そう言った。


 アリシアはその言い方に注意した。


 危険がない、ではない。


 危険がある情報はない。


 慎重な言い方。


「ただ、古い結界記録の再確認を行っています。先日の封印資料とは別件ですが、関連する可能性がないか確認中です」


 リーネの目が鋭くなる。


「閲覧可能な資料ですか」


「今はまだできません」


「承知しました」


 シオンが小声で言う。


「食いつきが早い」


 司書は穏やかに続けた。


「皆さんは、今まで通り過ごしてください。異常を見つけた場合は報告。無理に探さない。これまでと同じです」


「はい」


 アリシアたちは返事をした。


 司書が去った後、少しだけ沈黙が落ちる。


 リーネが手帳に書く。


「古い結界記録の再確認。封印資料とは別件だが関連可能性あり。現時点で閲覧不可」


 シオンが言う。


「また空欄が増えたね」


 アリシアは頷いた。


「うん。でも……今は埋めない」


 メリルが微笑む。


「そうだね」


 アリシアは胸元に手を当てた。


 小さな揺れは、もう消えている。


 でも、何かが動き始めている気がした。


 それはまだ形にならない。


 黒い線でもない。


 影喰いでもない。


 封印行でもない。


 もっと静かな、遠い前兆。


 ◇


 夕方。


 寮へ戻る道で、アリシアは中庭の魔導灯を見上げた。


 昼間だから、灯りはついていない。


 ただの細い柱。


 以前、黒い線が走った場所。


 今は何もない。


 胸の奥も反応しない。


 ノアが隣で言う。


「見すぎない」


「うん」


「でも、見なかったことにもしない」


「うん」


「今日の違和感は?」


「小さい。怖いけど、まだ分からない。マリナ先生と司書さんが動いてる。だから、私は記録する」


「よろしい」


 メリルが隣で静かに歩いている。


「アリシアちゃん、今日は疲れた?」


「少し。でも、前みたいな怖さだけじゃない」


「うん」


「何かが動いてる気がする。でも、先生たちも動いてるから……全部私が見なきゃって感じではない」


 メリルは嬉しそうに笑った。


「それ、すごく大事だと思う」


「そうかな」


「うん。前なら、全部自分で見ようとしてたかも」


「うん……たぶん」


 アリシアは少し恥ずかしくなる。


 でも、否定しなかった。


 変わっている。


 少しずつ。


 怖がりのまま。


 人見知りのまま。


 それでも、変わっている。


 ◇


 夜。


 アリシアは練習帳を開いた。


 机の上には、小さな魔導灯。


 ノアは窓辺に座り、外の夜を見ている。


 アリシアは今日の出来事を一つずつ書いていった。


『今日は、日常の中の小さな変化について学びました。変化を見つけても、すぐに決めつけない。事実、感情、推測を分ける。全部に反応しようとしないことも大切だと学びました』


 続ける。


『戦闘基礎では、止まる、下がる、知らせる訓練をしました。止められるかもしれないと思っても、条件が違うなら手を出さない。下がることで味方の射線ができることもあると分かりました』


 さらに書く。


『昼食後、マリナ先生が古い記録帳のようなものを持って、中央塔方面から図書館へ向かっていました。その時、胸の奥が少しだけ揺れた気がしました。痛み、冷え、黒い線はありません。マリナ先生と司書さんから、古い結界記録を確認していると聞きました。詳細はまだ分かりません』


 ペンが止まる。


 アリシアは少しだけ窓の外を見た。


 夜は静かだ。


 けれど、今日の静けさは、完全な静けさではない気がした。


 遠くの水面に、小石が落ちた後のような。


 揺れはもう見えないのに、何かが広がっているような。


 アリシアは続きを書いた。


『何かが動き始めている気がします。でも、まだ分かりません。だから、決めつけません。記録します。報告します。無理に探しません』


 ノアが机へ飛び乗った。


「今日は?」


 アリシアが聞くと、ノアは少し考えた。


「九十八点」


「高い……」


「小さな違和感に気づいた。でも飲まれなかった。マリナや司書の動きも記録した。戦闘基礎では下がる判断も学べた」


「減点は?」


「マリナの記録帳を見た時、ちょっと覗きたそうだった」


「……うん」


「でも覗かなかった」


「うん」


「だから九十八点」


 アリシアは小さく笑った。


 ノアは練習帳を見る。


「最後に書くなら?」


 アリシアは少し考えた。


 そして、一行を書き足した。


『静かな前兆ほど、私は急がずに見る』


 ノアはその一文を見て、長く黙った。


 いつものようにすぐ「いいわ」とは言わなかった。


 アリシアは少し不安になる。


「ノア?」


 ノアは窓の外へ視線を向けた。


 黒い毛並みが、夜と重なる。


「……ええ。いい一文よ」


 その声は静かだった。


 でも、ほんの少しだけ硬かった。


 アリシアは気づいた。


 ノアも、何かを感じている。


 けれど、まだ言わない。


 今はまだ、空欄にしている。


 アリシアはそれ以上聞かなかった。


 練習帳を閉じる。


 魔導灯の光を少し落とす。


 夜は静かだった。


 だが、その静けさの奥で。


 まだ誰にも見えない何かが、ゆっくりと目を覚まし始めていた。

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