第47話 変わり始めた距離
翌朝、アリシアは練習帳の最後の一文を、もう一度だけ読み返した。
『怖いけど、また立ちたい場所ができました』
その言葉は、昨夜書いた時よりも少しだけ重く、少しだけ温かく見えた。
また立ちたい場所。
中央演習場。
五属性の候補者たちと並ぶ場所。
木刀を握り、火と水と風と土と光の隙間を見る場所。
怖い。
その気持ちは、今朝も消えていない。
だが、消えていないのは怖さだけではなかった。
またやってみたい。
あの白い円へ、六人で入った時の感覚。
レオンの声。
ミランダの明るさ。
リーネの記録。
シオンの風。
ルシアンの光。
そして、自分の木刀。
それらが少しずつ噛み合って、道が開いた瞬間。
あの感覚が、まだ胸の奥に残っている。
「読み返しすぎ」
ノアが机の上で言った。
アリシアは顔を上げる。
「うん……なんか、まだ不思議で」
「また立ちたい場所ができたこと?」
「うん」
「いいことじゃない」
「いいこと……なのかな」
「少なくとも、悪いことではないわ」
ノアは尻尾をゆっくり揺らした。
「ただし、場所ができたからといって、そこに縛られる必要はない」
「縛られる?」
「週に一度の合同訓練。六人の中の位置。空欄担当。そういう言葉に、自分から縛られないこと」
「うん……」
「立ちたい場所は、逃げられない場所とは違う」
アリシアはその言葉を胸の中で繰り返した。
立ちたい場所。
逃げられない場所。
似ているようで、違う。
中央演習場は、怖いけれど、逃げられない場所ではない。
無理なら言える。
中断できる。
同意なしに黒い反応を出す必要はない。
それを確認した上で、また立ちたいと思った。
だから、あの場所はまだ怖いけれど、少しだけ自分で選んだ場所なのかもしれない。
「今日は通常日だよね」
アリシアが言うと、ノアは目を細めた。
「通常日ほど大事よ」
「うん。注目されても、いつもの行動を続ける」
「そう。朝食。授業。訓練。記録。休む」
「パンを粉々にしない」
「最重要ね」
アリシアは少し笑った。
制服に着替え、鏡の前に立つ。
黒髪。
黒い瞳。
まだ少し不安そう。
でも、昨日より目が逃げていない。
「背筋」
ノアが言う。
アリシアは背筋を伸ばした。
「今日は、変わった距離を見すぎない」
「変わった距離?」
「周りの視線とか、六人との距離とか……昨日から少し変わった気がするから」
「いいわね。気づいているなら、飲まれにくい」
「うん」
扉が叩かれた。
「アリシアちゃん、おはよう」
メリルの声。
アリシアは扉を開けた。
「おはよう、メリルさん」
メリルはアリシアの顔を見ると、柔らかく笑った。
「今日は昨日よりすっきりしてる」
「うん。少しだけ」
「合同訓練が続くって決まったから?」
「うん……怖いけど、少し楽しみって分かったから」
「それ、いいね」
二人と一匹で寮の廊下を歩く。
廊下の視線は、昨日よりさらに少し変わっていた。
ただの好奇心だけではない。
何人かはアリシアを見ると、すぐに目を逸らした。
何人かは、小さく会釈した。
昨日まで話したことのない生徒が、少し道を空けてくれる。
そのどれもが、アリシアには慣れなかった。
怖い。
でも、敵意ではない。
距離が変わっている。
その変化を、アリシアは一つずつ感じながら歩いた。
「見られてるね」
メリルが小さく言った。
「うん」
「嫌?」
「少し怖い。でも、昨日よりは……大丈夫」
「うん」
メリルはそれ以上、無理に励まさなかった。
その静けさがありがたい。
食堂へ入ると、いつもの席にはガレスとミランダがいた。
そして、その隣にレオンが座っていた。
アリシアは思わず足を止めた。
レオンは大きな皿を前に、朝から肉料理を山のように食べている。
ガレスと何か熱く語っていた。
「だから、大剣を振る時は腰だ!」
「やっぱり腰か!」
「そうだ! 腕だけで振るな!」
「なるほど!」
ミランダは横でパンを食べながら、楽しそうに聞いている。
アリシアが近づくと、レオンがぱっと顔を上げた。
「アリシア! おはよう!」
声が大きい。
食堂の視線が集まる。
アリシアは少し固まった。
するとミランダがすぐに言った。
「レオン、声!」
「おお、すまん!」
レオンは声を落とした。
それでもまだ大きい。
「おはよう、アリシア!」
「お、おはようございます」
アリシアは頭を下げる。
レオンはにっと笑った。
「今日から朝、ここで食べてもいいか? 昨日、六人で話してたのが面白かったからな!」
あまりにも真っ直ぐだった。
アリシアは驚き、メリルを見る。
メリルも少し驚いている。
ガレスは嬉しそうに言う。
「俺は大歓迎だ!」
ミランダも頷く。
「賑やかになるね!」
ノアが椅子の上で小さく言った。
「さらに暑苦しくなるわね」
アリシアは笑いそうになりながら席についた。
そこへリーネがやって来る。
青髪の少女は、席にレオンがいるのを見て少しだけ眉を動かした。
「レオン。声量に注意してください」
「おはよう、セレナ!」
「おはようございます。声量に注意してください」
「分かった!」
「まだ大きいです」
朝からこの調子だ。
シオンも遅れて来た。
席を見るなり、少しだけ顔をしかめる。
「火属性が増えてる」
「シオン! おはよう!」
「朝から熱量が高い」
シオンはそう言いながらも、席を離れず座った。
結局、いつもの席に、六人中五人が揃った。
ルシアンだけはいない。
けれど、昨日よりさらに距離が近くなっている。
アリシアはその事実に少し戸惑った。
六人は中央演習場だけの関係ではなくなっていくのだろうか。
日常にも入り込んでくるのだろうか。
怖い。
でも、嫌ではない。
レオンがパンを持ちながら言った。
「アリシア、昨日の最後の動き、もう一回見たい!」
「えっ」
「俺が抜かれそうになったところで、アリシアが横から入っただろ? あれ、どう見えてたんだ?」
アリシアは戸惑いながら答える。
「レオンさんが戻りにくそうで……魔導人形が右に抜けそうだったので」
「戻りにくいの、見えたのか!」
「はい……少し」
レオンは感心したように頷いた。
「俺、自分では戻れると思ってた!」
シオンが言う。
「戻れてなかったね」
「そうか!」
「素直すぎる」
リーネが手帳を開きかける。
ミランダがすぐに言う。
「リーネ、朝食!」
「……はい」
リーネは少しだけ手帳を閉じた。
アリシアはその光景に少し笑った。
合同訓練の影響で、確かに距離が変わっている。
でも、その変化はすべてが怖いものではない。
少し賑やかで、少し戸惑って、少し温かい。
生活基礎の授業では、セリア先生が「関係が変わった時の距離」について話した。
黒板に書かれた文字を見て、アリシアは思わず背筋を伸ばした。
『近づいた後も、距離を測る』
セリア先生は穏やかに言った。
「一緒に何かを経験すると、人との距離が急に近づくことがあります。成功した後、助け合った後、同じ秘密や課題を共有した後。そういう時、人は嬉しくなったり、戸惑ったりします」
アリシアはノートを取る。
まさに今だった。
合同訓練。
六人での成功。
共有した緊張。
共有した楽しさ。
その後、距離が近くなる。
「距離が近づくこと自体は悪いことではありません。ただし、急に近づいた関係は、相手も自分も慣れていない場合があります。だからこそ、丁寧に距離を測る必要があります」
ルシアンとの距離。
レオンとの距離。
六人との距離。
全部、測る必要がある。
「相手が近づいてきた時、受け入れてよい範囲と、まだ待ってほしい範囲を自分で知ること。近づけて嬉しい気持ちと、少し疲れる気持ちは、同時にあっても構いません」
アリシアはペンを止めた。
嬉しい。
疲れる。
同時にあってもいい。
怖い。
楽しい。
同時にあってもいい。
最近、そういう言葉が増えている。
一色ではないもの。
それを認める練習をしているようだった。
班練習では、「急に仲良くなった相手にどう接するか」を話し合った。
アリシアはメリル、トマ、ミーナと同じ班だった。
トマが言う。
「急に距離近くなると、びっくりするよな」
ミーナが頷く。
「嬉しくても疲れることはあるわね」
メリルがアリシアを見る。
「アリシアちゃんは、今そんな感じ?」
「うん……少し。レオンさんが朝食に来てくれて、嬉しいけど、びっくりした」
「レオン君、距離の詰め方まっすぐそうだもんね」
「うん」
アリシアは少し考えた。
「でも、嫌ではない。だから……少しずつ慣れたい」
ミーナが頷く。
「いいと思う。嫌じゃないなら、急いで拒む必要はない。でも、疲れたら休むこと」
「うん」
メリルが微笑む。
「アリシアちゃん、ちゃんと距離を言葉にできるようになってきたね」
「そうかな」
「うん。前よりずっと」
その言葉に、アリシアは少し照れた。
戦闘基礎では、エレナ教官が「距離」を実技として扱った。
今日の課題は、二人組で近づきすぎず、離れすぎず動くこと。
アリシアとメリルには馴染みのある課題だったが、今日は昨日の合同訓練を受けて、より細かく指摘された。
「アリシア。昨日の六人連携では隙間に入る動きが良かった。だが、二人連携では入りすぎるな」
「はい」
「メリル。アリシアが近づいた時に、譲りすぎる癖がある。支えることと場所を明け渡すことは違う」
「はい」
支えることと、明け渡すことは違う。
その言葉は、人間関係にも似ている気がした。
距離が近づいた時、全部を明け渡さなくていい。
でも、壁を作りすぎなくてもいい。
訓練では、メリルとアリシアが一定の距離を保ちながら、カイルとミーナの動きを受ける。
アリシアは昨日のように広く動こうとせず、メリルの杖が届く範囲を意識した。
メリルも、アリシアに任せすぎず、自分の位置を保つ。
一度、アリシアが入りすぎてメリルの射線を塞いだ。
すぐにエレナ教官の声が飛ぶ。
「近い」
「はい」
次は、メリルがアリシアへ譲りすぎて、後ろへ下がりすぎた。
「遠い」
「はい」
近い。
遠い。
何度も繰り返す。
そのうちに、少しずつちょうどいい距離が見えてくる。
木刀と杖。
前と後ろ。
声の届く距離。
助けられる距離。
邪魔にならない距離。
アリシアは思った。
距離は固定ではない。
場面によって変わる。
人によって変わる。
合同訓練でも、食堂でも、図書館でも、同じなのかもしれない。
授業後、エレナ教官が言った。
「昨日の成功で距離が変わる。浮かれるな。だが、閉じるな」
「はい」
「近づいた関係を使えるようにしろ。ただし依存するな」
難しい。
でも、大事な言葉だった。
午後、図書館では調査班が集まった。
リーネ、シオン、メリル、アリシア。
今日は封印行の資料ではなく、合同訓練の記録整理が中心だった。
リーネは地図のような配置図を広げる。
「六人の距離変化についても、記録する価値があります」
シオンが頬杖をつく。
「ついに人間関係まで記録対象?」
「連携に影響します」
「まあ、それはそう」
メリルが言う。
「アリシアちゃん、朝レオン君が来てびっくりしてたもんね」
「うん……でも、嫌じゃなかった」
リーネは頷く。
「レオンは距離を詰める速度が速いですが、悪意はありません。明確に言えば止まるタイプです」
「分析が正確」
シオンが言った。
「シオンさんは?」
アリシアが思わず聞くと、シオンは自分を指さした。
「僕?」
「はい。距離……どういう感じかなって」
シオンは少し考えた。
「僕は近づきすぎるの面倒だから、基本離れてる。でも、必要な時は横にいるくらい」
「横……」
「前にも後ろにも立ちたくないし」
リーネが言う。
「風属性らしい距離感です」
「何でも属性にする」
シオンはそう言ったが、否定はしなかった。
メリルが微笑む。
「私は、近すぎない後ろくらいが落ち着くかな」
アリシアは頷いた。
メリルはいつもそうだ。
隣にいて、でも押しつけない。
近くて、柔らかい距離。
リーネは自分で言った。
「私は情報共有距離です。必要な情報が届く位置が最適です」
「リーネさんらしい……」
アリシアは少し笑った。
それぞれの距離。
火は正面から近づく。
土は隣で支える。
水は情報が届く距離。
風は横。
光は半歩下がって見る必要がある。
闇は。
アリシアは少し考えた。
「私は……まだ分からないけど、空いた場所にいるのが落ち着くかも」
シオンが笑う。
「やっぱり空欄担当」
リーネは記録する。
「アリシアさん、自分の対人距離を空いた場所と表現」
「記録されてる……」
でも、嫌ではなかった。
その後、司書がやって来た。
「皆さん、合同訓練の記録整理ですか」
「はい」
リーネが答える。
司書はアリシアを見て、穏やかに言った。
「封印資料の追加閲覧については、しばらく間を置くことになりました」
アリシアは少し驚く。
「そうなんですか?」
「教務主任とマリナ先生、グラン先生の判断です。合同訓練が始まり、あなたの負荷が増えています。封印資料の調査は重要ですが、急ぐものではありません」
胸の奥が少し緩んだ。
封印行。
忘れていたわけではない。
でも、合同訓練が始まってから、そちらに気持ちが向いていた。
もしすぐ追加資料が来たら、きっとまた揺れただろう。
司書は続ける。
「空白は逃げません。封印も、勝手に開きません。調査は休みながら続けるものです」
アリシアは静かに頷いた。
「はい」
リーネも頷く。
「了解しました。合同訓練記録の整理を優先します」
シオンが小声で言う。
「リーネが休むって言った」
「優先順位を調整するだけです」
「同じようなものだよ」
メリルが笑った。
夕方、寮へ戻る途中、アリシアは少し疲れを感じていた。
悪い疲れではない。
でも、人との距離が変わると、思ったより体力を使う。
メリルが気づく。
「今日は早めに休もうね」
「うん」
「距離が変わるの、嬉しいけど疲れるよね」
「うん……でも、嫌じゃなかった」
「うん。それが分かれば十分だよ」
夜。
アリシアは練習帳を開いた。
『今日は、合同訓練のあとで距離が変わったことを感じました。レオンさんが朝食の席に来てくれて、驚きました。声は大きいけど、悪意はなくて、まっすぐでした。嬉しいけど、少し疲れる距離でした』
続ける。
『生活基礎では、近づいた後も距離を測ることを学びました。近づけて嬉しい気持ちと、少し疲れる気持ちは同時にあっていいそうです。私には、とても必要な言葉でした』
さらに書く。
『戦闘基礎では、メリルさんとの距離を確認しました。近すぎると射線を塞ぎ、遠すぎると支えられません。人との距離にも似ていると思いました』
ペンが進む。
『図書館では、みんなの距離感について話しました。レオンさんは正面から近づく。シオンさんは横にいる。メリルさんは近すぎない後ろ。リーネさんは情報共有距離。私は、空いた場所にいるのが落ち着くかもしれません』
アリシアは少し笑いながら書いた。
『封印資料の追加閲覧は、しばらく間を置くことになりました。空白は逃げない。封印も勝手に開かない。調査は休みながら続けるものだと司書さんが言いました』
書き終えると、ノアが机の上に飛び乗った。
「今日は?」
アリシアが聞くと、ノアは少し考えた。
「九十七点」
「昨日と同じ」
「距離の変化に飲まれかけたけど、自分で整理できた。レオンの距離にも逃げなかった。封印調査を休む判断も受け取れた」
「減点は?」
「朝、レオンの声でパンを少し潰した」
「う……」
「でも粉々ではない」
「よかった……」
ノアは練習帳を見る。
「最後に書くなら?」
アリシアは少し考えた。
そして、一行を書き足した。
『近づくことも、休むことも、どちらも関係を続けるために必要』
ノアはそれを見て、静かに頷いた。
「いいわね」
アリシアは小さく笑った。
窓の外には夜が広がっている。
封印された一行は、まだそこにある。
学園結界の空白も、まだ残っている。
でも、今はそれだけを見続けなくていい。
六人との距離。
メリルとの日常。
朝食のパン。
木刀の感触。
それらも全部、今のアリシアにとって大切なものだった。
夜は深い。
けれど、その夜の中で、誰かとの距離が少しずつ変わっていく音がした。




