第45話 楽しかった、という言葉
翌朝、アリシアは練習帳を開いたまま、しばらく最後の一文を見つめていた。
『私の場所はまだ決まっていない。でも、空いた場所へ入ることはできた』
昨日の合同授業。
六人での初めての連携確認。
魔導人形三体を相手に、白い円まで進路を確保する訓練。
レオンが前を押し、ミランダが右を支え、リーネが足元を整え、シオンが風で左を流し、ルシアンが光で薄い場所を知らせる。
そしてアリシアは、その隙間に入った。
決まった場所ではない。
役割名も、まだ固定されていない。
けれど、空いた場所へ入ることはできた。
魔法は使わなかった。
胸の奥の夜が少し揺れた瞬間はあった。
でも、使わなかった。
声を出した。
木刀を置いた。
道を作った。
そして六人全員で、白い円に入った。
成功した。
怖かった。
とても怖かった。
けれど、その後に練習帳へ書いた言葉は、アリシア自身を一番驚かせた。
『少し楽しかったです』
その一文を見るたび、胸の奥がくすぐったいような、落ち着かないような感じになる。
合同授業が楽しかった。
五属性候補たちと並ぶことが。
木刀を握って動くことが。
誰かの隙間に入ることが。
怖いだけではなかった。
そのことが、まだうまく信じられなかった。
「朝から自分の文章に照れてる顔ね」
ノアが机の端から言った。
アリシアは肩を揺らした。
「照れてるわけじゃ……」
「じゃあ何?」
「……楽しかったって書いたのが、変な感じで」
「変ではないわ」
ノアは練習帳の上を覗き込む。
「怖いことの中に、楽しいことが混ざるのは珍しくない」
「そうなの?」
「ええ。怖いだけなら逃げる。楽しいだけなら油断する。怖くて、でも少し楽しい。そういうものは、たいてい成長に近い場所にある」
成長。
その言葉に、アリシアは少し黙った。
自分が成長している。
そう言われると、まだ恥ずかしい。
けれど、確かに少しずつ変わっている。
最初に学園へ来た時なら、五属性候補と同じ演習場に立つなんて考えられなかった。
まして、合同授業を楽しいと思うなんて。
「ノア」
「何?」
「昨日、私……本当に大丈夫だった?」
「九十九点と言ったでしょう」
「うん。でも……魔力、使いかけたから」
「使いかけた。でも止まった」
「うん」
「それが大事よ。使いかけたことを隠さず報告した。使わなかった。声を出した。誰かに頼った」
ノアは尻尾を揺らす。
「満点ではないけど、かなり良い」
「満点じゃないんだ」
「満点なんて簡単に出さないわ」
その言い方に、アリシアは少し笑った。
朝の不安が、少しだけほどける。
扉が叩かれた。
「アリシアちゃん、おはよう」
メリルの声。
アリシアは練習帳を閉じ、扉を開けた。
「おはよう、メリルさん」
メリルはすぐにアリシアの顔を見た。
「昨日、眠れた?」
「うん。少し疲れてたから、思ったより眠れた」
「よかった」
メリルはほっとしたように笑った。
「昨日の合同授業、すごかったって噂になってるよ」
アリシアの体が固まる。
「噂……?」
「うん。でも、悪い噂じゃないと思う。先生たちしか見てないはずなのに、上級演習場で特別授業があったってだけで、みんな気になってるみたい」
「そっか……」
胸が少しざわつく。
見られてはいない。
でも、知られている。
呼ばれたこと。
五属性候補と一緒だったこと。
特殊魔力反応観察対象と呼ばれたこと。
全部が、周囲の想像を呼んでいるのかもしれない。
メリルはすぐに言った。
「何か聞かれても、話したくないことは話さなくていいからね」
「うん」
「話せる範囲だけでいい」
「うん」
アリシアは頷いた。
生活基礎で学んだ。
伝えること。
まだ伝えないこと。
確認してから伝えること。
昨日の合同授業についても同じだ。
全部を話す必要はない。
でも、全部を隠す必要もない。
寮の廊下を歩くと、やはり何人かの視線を感じた。
昨日までとは少し違う。
ただ怖がる視線ではない。
好奇心。
驚き。
少しの警戒。
そして、ほんの少しの期待。
アリシアには、その全部が混ざって感じられた。
視線を受けると、肩が縮みそうになる。
でも、ノアが足元で短く言った。
「前」
アリシアは顔を上げた。
完全に堂々とはできない。
でも、俯きっぱなしにはならなかった。
食堂へ入ると、ざわめきが一瞬だけ変わった。
アリシアはその変化に気づいてしまう。
何人かの生徒がこちらを見た。
その中には、昨日の放送を聞いた同級生もいる。
「アリシアだ」
「昨日呼ばれてた子」
「黒猫連れてる」
「五属性の合同にいたんだって」
小さな声。
悪意ばかりではない。
でも、胸には刺さる。
アリシアはトレーを握る手に力を込めた。
パンが少し潰れそうになる。
「パン」
ノアが言った。
「うん……」
アリシアは深呼吸した。
トレーを持ち直し、いつもの席へ向かう。
ガレスとミランダがすでに待っていた。
ガレスはアリシアを見るなり、顔を輝かせた。
「アリシア! 昨日すごかったな!」
声が大きい。
食堂の視線がさらに集まる。
アリシアは固まりかけた。
すると、ミランダがすぐにガレスの腕を叩いた。
「ガレス! 声!」
「おっと、すまん!」
ガレスは慌てて声を落とす。
落としたつもりでも、まだ少し大きい。
「昨日すごかったな!」
「まだ大きい」
メリルが苦笑する。
アリシアは少しだけ笑った。
ガレスは本当に悪気がない。
ただ、昨日の連携が嬉しかったのだ。
「おはようございます」
リーネも席に来た。
いつもの記録板は持っていないが、代わりに小さな手帳を持っている。
シオンも少し遅れて来た。
「朝から騒がしいね」
「シオンさんも来たんですね」
アリシアが言うと、シオンは肩をすくめた。
「昨日の反省会になる気がしたから。どうせ後で聞かれるなら、ここで済ませようと思って」
「反省会……」
ミランダが目を輝かせる。
「やろう! 昨日の反省会!」
ガレスも頷く。
「やるぞ!」
メリルが急いで言う。
「食堂だから、静かにね」
リーネは手帳を開きかけて、アリシアを見る。
「記録しても?」
「えっ、ここで?」
「簡易記録です」
アリシアは少し迷い、頷いた。
「話せる範囲なら……」
「承知しました。合同授業の詳細な結界情報や教員側測定値は含めません」
さすがリーネだった。
ちゃんと範囲を分けている。
朝食を取りながら、六人は小さな声で昨日を振り返った。
ガレスは自分が最初に押しすぎたことを、少し照れながら認めた。
「俺、最初やっぱり前に出すぎたな」
シオンが即答する。
「うん」
「早いな!」
「事実だから」
ミランダも頷く。
「私も右に意識行きすぎた。アリシアが言ってくれなかったら、右足流れてた」
「ミランダさんは、すぐ直してくれたから……」
「でも、言ってくれたの助かった!」
リーネは淡々と言う。
「私は水膜の張り直しが遅れました。記録を取りたい意識が残っていたのが原因です」
「授業中に記録魂が出てたんだ」
シオンが言う。
「あなたも左を任されたのに、途中で遊びました」
「遊んでない」
「少し笑っていました」
「それはまあ、楽しかったから」
シオンは何気なく言った。
アリシアはその言葉に少し反応した。
楽しかった。
自分だけではない。
シオンも、面倒だと言いながら楽しかったのかもしれない。
ルシアンは朝食の席にはいなかった。
そのことに、アリシアは少しほっとし、少しだけ気になった。
昨日の「六人目」という言葉。
彼はすぐに謝ってくれた。
空欄にしておくことも受け入れてくれた。
ルシアンとの距離は、まだ難しい。
でも、昨日は以前より少し話しやすかった気もする。
半歩下がって見る。
その距離を忘れなければ、少しずつ向き合えるのかもしれない。
生活基礎の授業では、セリア先生が黒板に大きく書いた。
『注目された後の過ごし方』
アリシアは思わずペンを落としそうになった。
今日も、今の自分に必要な授業だった。
教室の何人かも、ちらりとアリシアを見た。
セリア先生はそれに気づいているはずだが、何も言わずに授業を始めた。
「人は、何かがあった後に注目されることがあります。良い結果を出した時。失敗した時。珍しい役割を任された時。噂になった時」
アリシアはノートを取る。
珍しい役割。
噂。
まさに今の自分だ。
「注目されると、自分が大きく変わってしまったように感じることがあります。けれど、周囲の視線が変わっても、自分の一日すべてが変わるわけではありません」
セリア先生の声は穏やかだった。
「朝食を食べる。授業を受ける。練習する。休む。記録する。いつもの行動を続けることが、心を戻す助けになります」
アリシアは胸の中で頷いた。
いつもの行動。
パンを粉々にしない。
練習帳を書く。
木刀を握る。
ノアと話す。
メリルと食堂へ行く。
その一つ一つが、自分を戻してくれる。
班練習では、注目された時にどう返すかを考えた。
アリシアはメリル、トマ、ミーナと同じ班だった。
課題文はこうだった。
『昨日すごかったらしいね。何したの?』
アリシアは苦笑しそうになった。
まさに聞かれそうな言葉。
トマが言う。
「全部言わなくていいやつだな」
ミーナも頷く。
「授業内容によるけど、話せる範囲だけでいいわ」
メリルがアリシアを見る。
「アリシアちゃんなら?」
アリシアは少し考えた。
昨日の授業。
全部は話せない。
結界や測定の詳細は特に。
でも、何も言わないと余計に噂になるかもしれない。
「……合同授業で、木刀を使った位置取りの確認をしました。詳しい内容は先生に確認してからじゃないと話せません。でも、無事に終わりました」
言ってから、少し足す。
「怖かったけど、少し楽しかったです」
メリルが微笑んだ。
「いいと思う」
ミーナも頷く。
「噂を広げにくいし、自分の感想も入っているわ」
トマが笑う。
「楽しかったって言えるの、いいな」
アリシアは少し顔を赤くした。
「まだ、ちょっと恥ずかしいけど」
「でも本当なんだろ?」
「うん」
素直に頷けた。
そのことが、また少し嬉しかった。
戦闘基礎では、昨日の合同授業を受けて、通常班での位置取り確認が行われた。
エレナ教官は生徒たちを見渡し、言った。
「昨日の特別授業に関する噂が出ているようだが、今日やるのは基礎だ。特別なことをした翌日ほど、基礎を崩すな」
アリシアは木刀を握る。
昨日の高揚感が、まだ体のどこかに残っている。
楽しかった。
成功した。
九十九点だった。
でも、それで油断してはいけない。
ノアもきっと同じことを言う。
今日の訓練は、メリルとの二人連携だった。
いつもの形。
昨日の六人連携と比べれば、小さく見えるかもしれない。
でも、アリシアにとっては大事な基礎だった。
メリルが杖を構える。
「今日はいつも通りだね」
「うん。いつも通り、大事」
「うん」
相手役はカイルとミーナ。
カイルが踏み込む。
アリシアは木刀を置く。
メリルが風の射線を作る。
いつもの練習。
だが、昨日の経験のおかげか、相手の抜けたい場所が少し見えやすかった。
カイルが右へ抜ける前の足の向き。
ミーナの槍が戻りにくい角度。
メリルの杖が通れる空間。
アリシアは無理に全部を見ようとしない。
必要なところだけを見る。
「左、空く」
アリシアが短く言う。
メリルがすぐに杖を左へ流す。
カイルの進路が止まる。
「止め」
エレナ教官が頷いた。
「今の声は良い」
アリシアは息を吐く。
メリルが嬉しそうに笑った。
二回目。
三回目。
うまくいく時もあれば、失敗もある。
昨日の合同授業の感覚を持ち込みすぎて、アリシアが少し前へ出すぎた場面もあった。
エレナ教官がすぐに指摘する。
「アリシア。昨日の広い場の感覚で動くな。今は二人連携だ」
「はい」
「場が変われば役割も変わる」
「はい」
その言葉は大事だった。
昨日の六人連携では、空いた場所へ広く動いた。
でも、今日はメリルとの二人連携。
同じ動きをすればいいわけではない。
空欄担当だからといって、どこでも自由に動いていいわけではない。
場に合わせる。
役割を決めつけない。
また一つ、学ぶことが増えた。
授業後、エレナ教官がアリシアへ声をかけた。
「昨日の感覚に引っ張られすぎるな」
「はい」
「だが、昨日得たものを捨てる必要もない。場に合わせて使え」
「分かりました」
「それと」
エレナ教官は少しだけ目を細める。
「楽しかったか」
アリシアは驚いた。
「え……」
「グランから聞いた。昨日、少し楽しかったと言ったそうだな」
顔が一気に熱くなる。
「あ、はい……すみません」
「謝るな」
「はい……」
「戦闘訓練を楽しいと感じること自体は悪くない。ただし、楽しさに飲まれるな」
「はい」
「怖さも忘れるな。楽しさも否定するな。その両方を持って動け」
アリシアはゆっくり頷いた。
怖さも忘れない。
楽しさも否定しない。
「分かりました」
「ならいい」
エレナ教官はそれだけ言って、他の生徒の指導へ戻っていった。
昼食後、図書館へ行くと、リーネがすでに昨日の合同授業の記録を広げていた。
シオンも席にいた。
メリルも一緒だ。
「昨日の整理をします」
リーネが言う。
「やっぱり反省会なんですね」
アリシアが少し笑うと、リーネは真剣に頷いた。
「重要です」
机には、昨日の配置図が描かれていた。
レオン正面。
ミランダ右前。
シオン左。
リーネ中央後方。
ルシアン後方。
アリシアは固定なし。
空いた場所へ移動。
その図を見ると、昨日の光景が蘇る。
魔導人形三体。
白い円。
最後に中央やや左へ開いた道。
リーネは指で図を示した。
「昨日、最も重要だったのは、最後の進路選択です。ルシアンが反応の薄い場所を検知し、アリシアさんが道として認識した」
シオンが頷く。
「光が薄さを見つけて、アリシアが空欄を道にしたって感じ」
メリルが少し目を丸くする。
「それ、なんか綺麗だね」
アリシアは少し恥ずかしくなる。
「私は、ただ……そこが空いてると思っただけで」
「その『ただ』が重要です」
リーネが言う。
「他の五人は、それぞれの役割で動いていました。その結果生まれた隙間を、アリシアさんが進路として認識した。これは偶然ではありません」
シオンが言う。
「少なくとも、昨日の最後はそうだったね」
アリシアは図を見つめた。
五つの動き。
その間に生まれた空欄。
そこを道にする。
五つの支点と、ない六つ目。
学園結界の空白。
戦闘の空白。
似ているようで、違う。
怖い封印の空白もある。
でも、進むための空白もある。
「空欄って……全部怖いものじゃないんだね」
アリシアが呟くと、三人がこちらを見た。
「昨日の最後の道は、怖くなかった。そこに行けば進めるって思った」
メリルが優しく頷いた。
「うん」
シオンは頬杖をつきながら言う。
「空欄担当、だいぶ成長したね」
「からかわないでください……」
「からかってないよ。半分くらい」
「半分……」
リーネは真剣に記録する。
「空欄には、危険な空白、未確認の余白、進路としての隙間がある。分類可能です」
「また分類が増えた」
シオンが言う。
「必要です」
リーネは揺るがなかった。
その後、昨日の合同授業について、話せる範囲で整理した。
教員側の測定値は分からない。
結界の詳しい反応も記録しない。
ただ、六人の体感、配置、成功した場面、崩れた場面をまとめる。
メリルは授業を見ていないが、アリシアの話を聞きながら、気づいたことを書いてくれた。
「アリシアちゃん、昨日の話をする時、怖かったところと楽しかったところ、両方ちゃんと話してるね」
「そうかな」
「うん。前なら、怖かったことだけ話してたかも」
アリシアは少し考えた。
確かにそうかもしれない。
怖い。
不安。
恥ずかしい。
それだけでいっぱいになっていた。
でも今は、怖さの中にある別の感情にも気づける。
楽しかった。
嬉しかった。
少し誇らしかった。
それらを言葉にすることは、まだ慣れない。
でも、書けるようになってきた。
夕方、寮へ戻る途中、アリシアはルシアンに会った。
中央塔へ続く廊下の手前。
白い光が差し込む場所に、彼は立っていた。
アリシアは一瞬、足を止める。
ルシアンも気づき、柔らかく会釈した。
「アリシアさん」
「ルシアンさん」
メリルは少し離れたところで待ってくれた。
ノアはアリシアの足元で静かに座る。
ルシアンは穏やかに言った。
「昨日の合同授業、お疲れさまでした」
「お疲れさまでした」
「今日、体調は大丈夫ですか」
「はい。少し疲れはありますけど、大丈夫です」
「それならよかった」
会話は普通だった。
けれど、アリシアの胸は少し緊張している。
光の支点に近づいた時のような、少し眩しい感覚。
ルシアンは続けた。
「昨日の『六人目』という言葉について、改めて謝ります。軽く言うべきではありませんでした」
アリシアは少し驚いた。
昨日も謝ってくれたのに、もう一度。
「大丈夫です。怖かったけど……考えるきっかけにもなりました」
「考えるきっかけ?」
「はい。六人目って決められるのは怖いです。でも、六人で動けたことは……嬉しかったです。だから、まだ空欄にしておきたいです」
ルシアンは静かに聞いていた。
そして、ゆっくり頷いた。
「あなたは、空欄という言葉を大切にしていますね」
「最近、よく出てくるので」
「なるほど」
ルシアンは少し微笑む。
「では、僕もその空欄を勝手に埋めないようにします」
その言葉に、アリシアは胸の緊張が少し解けた。
「ありがとうございます」
「ただ、一つだけ」
少しだけ空気が変わる。
アリシアは背筋を伸ばした。
ルシアンは言った。
「昨日のあなたは、確かに五人の間にある隙間を見つけていました。僕は光で薄い場所を見ましたが、それを道として選んだのはあなたです。そこは、もっと自信を持っていいと思います」
自信。
その言葉はまだ少し眩しい。
でも、嫌ではなかった。
アリシアは小さく頷く。
「……少しずつ、持てるようにします」
「はい。それで十分だと思います」
ルシアンはそれ以上踏み込まなかった。
半歩下がった距離のまま、会話が終わった。
アリシアはメリルのところへ戻る。
メリルが小声で聞いた。
「大丈夫だった?」
「うん。今日は……大丈夫だった」
ノアが足元で言う。
「七十五点」
アリシアは小声で聞く。
「低い?」
「緊張しすぎ。でも、自分の言葉は言えたから合格」
「そっか……」
夜。
部屋に戻ったアリシアは、練習帳を開いた。
『今日は、昨日の合同授業の反響が少しありました。食堂や教室で視線を感じました。怖かったです。でも、全部が悪い視線ではないと思いました』
続ける。
『生活基礎では、注目された後の過ごし方を学びました。周囲の視線が変わっても、自分の一日すべてが変わるわけではない。朝食を食べる、授業を受ける、練習する、休む、記録する。いつもの行動を続けることが大切だと分かりました』
さらに書く。
『戦闘基礎では、昨日の広い場の感覚に引っ張られすぎて、少し前に出すぎました。場が変われば役割も変わるとエレナ先生に言われました。昨日得たものを捨てなくていい。でも、場に合わせて使う必要があります』
ペンが止まる。
アリシアは、今日何度も心に浮かんだ言葉を書いた。
『怖かったけど、楽しかった。この二つは一緒にあってもいいのかもしれません』
書いてから、少し胸が温かくなった。
さらに続ける。
『図書館で、昨日の最後の進路について整理しました。光が薄い場所を見つけ、私はそこを道として見ました。空欄には、危険な空白、未確認の余白、進むための隙間があるのかもしれません』
最後に、ルシアンとの会話。
『ルシアンさんは、六人目という言葉を勝手に埋めないようにすると言ってくれました。今日は、少しだけ話しやすかったです。でも、まだ半歩下がって見ます』
書き終えると、ノアが机の上へ飛び乗った。
「今日は?」
アリシアが聞く。
ノアは少し考えた。
「九十七点」
「昨日より下がった」
「昨日が高すぎたのよ。今日は注目に飲まれかけた。でも戻れた。楽しかったと言葉にできた。ルシアンにも自分の空欄を守れた」
「減点は?」
「朝、視線でパンを潰しかけた。戦闘基礎で昨日の感覚に引っ張られた。ルシアン相手に少し肩が縮んだ」
「う……」
「でも、全部立て直した。だから九十七点」
アリシアは少し笑った。
「ありがとう」
「礼はいいわ」
「でも、言いたいから」
「知ってる」
ノアは少しだけ目を細めた。
「楽しかったって言葉、消さないでおきなさい」
「うん」
「怖いことも書く。楽しいことも書く。両方があんたの記録よ」
「うん」
アリシアは練習帳の最後に一行を書き足した。
『怖さの中に楽しいがあっても、私はそれをなかったことにしない』
ノアはその一文を見て、静かに頷いた。
「いいわ」
窓の外には夜が広がっていた。
今日の夜は、昨日ほど熱くはない。
でも、静かに温かい。
注目される怖さはある。
六人目という言葉の重さもある。
封印された一行も、まだ遠くで沈んでいる。
それでも、アリシアの中には新しい言葉があった。
楽しかった。
その小さな言葉を、彼女は練習帳の中にそっと残した。




