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『忘れられた六つ目の神器に選ばれました 〜人見知りな闇の少女と毒舌黒猫の学園英雄譚〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第39話 封印に触れない手



 翌朝、アリシアは練習帳を開かなかった。


 机の上に置かれたそれを見ただけで、昨日の一文が頭の奥に浮かんだからだ。


『封印されたものは、消えたのではなく、誰かが見せないと決めたもの』


 見せないと決めたもの。


 その言葉は、空白よりも重かった。


 空欄なら、まだ「分からない」で済む。


 でも封印は違う。


 そこに何かがある。


 けれど、見せないと決められている。


 誰かが。


 何かの理由で。


 学園設立時の議事。


 現行結界への反映を行わない。


 同議題は五大国共同承認なしに再提起しない。


 その一行の奥に、何が書かれていたのか。


 アリシアは知りたかった。


 とても、知りたかった。


 でも、昨日の自分は視線を外した。


 封印行に呼ばれているような感覚があった。


 胸の奥の夜が揺れた。


 それでも、見続けなかった。


 触れなかった。


 解こうとしなかった。


 それは正しい判断だった。


 分かっている。


 分かっているのに、胸の奥にはまだ、細い棘のような好奇心が残っていた。


「今日は練習帳を開かない作戦?」


 ノアが窓辺から言った。


 アリシアは机の前で固まったまま、少しだけ肩を揺らした。


「……開くと、封印のことばかり考えそうで」


「開かなくても考えてるじゃない」


「う……」


「でも、自分で止まろうとしてるのは悪くないわ」


 ノアは窓辺から机へ跳び移った。


 練習帳の横に座り、金色の瞳でアリシアを見る。


「見たい?」


「……見たい」


「封印を?」


「うん」


「知りたい?」


「知りたい」


「触れたい?」


 その問いに、アリシアはすぐには答えられなかった。


 触れたい。


 その言葉は怖かった。


 けれど、正直に言えば、昨日の封印印を見た時、ほんの一瞬だけ手を伸ばしそうになった。


 自分の中の夜なら、あの封印に何かできるのではないか。


 そんな考えが、頭をかすめた。


 それが一番怖かった。


「……少し、思った」


 アリシアは小さく言った。


「でも、触っちゃだめだって分かってる」


「ええ」


「解こうとしたら、きっと危ない」


「危ないわね」


「だから、触らない」


 ノアはしばらくアリシアを見ていた。


 そして、静かに言う。


「よく言えたわ」


「怒らないの?」


「思っただけなら怒らない。隠したら怒る。触ったら蹴る」


「蹴る……」


「全力でね」


 アリシアは少しだけ笑った。


 その笑いで、胸の奥の張りつめた糸が少し緩む。


「今日は、封印に触れない日ね」


 ノアが言った。


「うん」


「開けたいと思っても、触れない」


「うん」


「見たいと思っても、距離を取る」


「うん」


「誰かに言う」


「うん」


 何度も確認する。


 それは臆病だからではない。


 必要な手順だからだ。


 アリシアは練習帳を鞄に入れた。


 開かなかった。


 でも、持っていく。


 記録するために。


 逃げるためではなく、距離を取るために。


 制服に着替え、鏡の前に立つ。


 黒髪。


 黒い瞳。


 少し緊張している顔。


 けれど、昨日の封印行を見た時よりは落ち着いていた。


「背筋」


 ノアが言った。


 アリシアは背筋を伸ばした。


「今日は、触れない手」


「うん」


「その手で、パンを粉々にもしない」


「それも?」


「当然」


 アリシアはまた少し笑った。


 扉が叩かれる。


「アリシアちゃん、おはよう」


 メリルの声だった。


 アリシアは扉を開ける。


「おはよう、メリルさん」


 メリルはアリシアの顔を見て、少しだけ目を細めた。


「昨日の封印、まだ残ってる?」


「うん……開けたいって思っちゃった」


 正直に言うと、メリルは驚いた顔をした。


 けれど、引かなかった。


「でも、触らないって決めたんだよね」


「うん。ノアにも言った」


「じゃあ、今日はそれを守る日だね」


「うん」


 メリルの言葉は、ノアの言葉と少し似ていた。


 厳しさではなく、そっと隣に立つような響き。


 二人と一匹で廊下を歩く。


 朝の第一寮はいつも通り動いている。


 アリシアは何度も自分の手を見そうになった。


 昨日、封印行へ伸びかけた手。


 今日は、その手で何をするのか。


 触れてはいけないものへ伸ばすのではなく。


 食堂のトレーを持つ。


 パンをちぎる。


 練習帳を書く。


 木刀を握る。


 仲間の言葉を受け取る。


 そういう手にしたいと思った。


 食堂では、ガレスとミランダがいつものように手を振っていた。


「おはよう!」


「おはよう」


 席に座ると、ガレスが真剣な顔で聞いた。


「昨日の封印のやつ、大丈夫か?」


「うん……怖いけど、大丈夫」


 ミランダが言う。


「開けたくなっちゃう?」


 アリシアは少し驚いた。


「分かるの?」


「宝箱みたいって昨日言ったから。宝箱って、開けたくなるよね」


「うん……」


「でも、罠かもしれないから、一人で開けちゃだめ!」


 ミランダは力強く言った。


 昨日の話をちゃんと覚えてくれている。


 アリシアは小さく頷いた。


「うん。今日は、触らない手にする」


「触らない手?」


「封印に触りたくなっても、触らないってこと」


 ガレスは腕を組み、大きく頷いた。


「それも鍛錬だな!」


 メリルが笑う。


「本当に何でも鍛錬になるね」


「我慢も鍛錬だ!」


 ガレスは真剣だった。


 ミランダも頷く。


「でも、我慢しすぎてつらい時は言う!」


「うん」


 アリシアはパンをちぎった。


 今日は大きめにちぎれた。


 ノアが椅子の上から言う。


「九十点」


 アリシアは少し嬉しくなった。


 触れない手。


 粉々にしない手。


 小さなことでも、今朝の自分には大事だった。


 生活基礎では、セリア先生が「触れてよいもの、触れてはいけないもの」について話した。


 黒板に書かれた言葉を見て、アリシアは思わずペンを握り直した。


『見るだけ』

『許可を得て触れる』

『触れてはいけない』


 セリア先生は穏やかに言う。


「学園には多くの道具、資料、設備があります。中には、見学はできても触れてはいけないものがあります。なぜ触れてはいけないのか。その理由が分からない時ほど、触れないことが大切です」


 アリシアはノートに書く。


 理由が分からない時ほど、触れない。


 封印行もそうだ。


 なぜ封じられているのか分からない。


 だからこそ、触れてはいけない。


「禁止されているものに興味を持つのは自然です。ですが、興味と行動は分けられます。知りたいと思うことは悪くありません。勝手に触れることが問題なのです」


 知りたいと思うことは悪くない。


 その言葉に、アリシアは少し救われた。


 封印を知りたいと思った自分が、悪いわけではない。


 ただ、その知りたい気持ちだけで触ってはいけない。


 班練習では、いくつかの状況に対して「どう対応するか」を考えた。


 アリシアはメリル、トマ、ミーナと同じ班だった。


 課題の一つにこうあった。


『資料室で封印札のついた箱を見つけた。中身が気になる』


 アリシアは心臓が少し跳ねた。


 あまりにも今の自分に近い。


 メリルがすぐにアリシアを見る。


「大丈夫?」


「うん……大丈夫」


 ミーナが課題文を見て言う。


「触らない。管理者へ報告。封印札の状態を確認するのも管理者に任せる」


 トマが頷く。


「中身が気になるって言うのはあり?」


 メリルが答える。


「管理者に『気になりますが、見られるものですか?』って聞くのはいいと思う」


 アリシアは少し考えた。


「でも、見られないって言われたら、そこで止まる」


「そうね」


 ミーナが頷く。


 アリシアは続けた。


「見たい気持ちは、練習帳に書く。勝手に触らない。触りたくなったら、誰かに言う」


 言ってから、少し顔が熱くなる。


 自分自身への言葉だった。


 メリルが柔らかく笑った。


「すごくいいと思う」


 トマも言う。


「実践的だな」


 ミーナが真剣に頷く。


「触りたくなったら誰かに言う、は大事ね。一人で抱えると危ないもの」


 アリシアは頷いた。


 自分の気持ちを言葉にしておけば、行動に飲まれにくい。


 それを少しずつ覚えている。


 戦闘基礎では、今日は「手を出さない判断」の訓練だった。


 エレナ教官は生徒たちに向かって言った。


「戦闘中、何でも止めればいいわけではない。手を出すことで味方の邪魔になることもある。今日は、あえて手を出さない判断を見る」


 また、今のアリシアに必要な訓練だった。


 木刀を握る手に力が入る。


 手を出さない。


 触らない。


 止めるべき時と、見送るべき時を分ける。


 訓練では、ガレス、ミランダ、メリル、アリシアの四人で、相手役二人の動きを管理する。


 ただし今回は、エレナ教官が途中で合図を出す。


 赤い札なら、アリシアが介入する。


 白い札なら、アリシアは手を出さない。


 ガレスかミランダ、メリルに任せる。


 最初の一回。


 カイルが横へ逃げる。


 アリシアには止められる位置だった。


 体が動きかける。


 しかし、エレナ教官の手には白い札。


 手を出さない。


 アリシアは踏みとどまる。


 その代わり、声を出す。


「ガレス君、右!」


「おう!」


 ガレスが右へ圧をかける。


 ミランダが横を支える。


 メリルが杖先で逃げ道を管理する。


 カイルが止まる。


「止め」


 エレナ教官が言った。


「今のは良い。アリシア、手を出さず声を出した」


 アリシアは息を吐いた。


 手を出さないのに、何もしないわけではない。


 声を出す。


 任せる。


 支える。


 二回目。


 ミーナが低く槍を入れる。


 アリシアの位置なら、木刀で止められる。


 エレナ教官の手を見る。


 赤い札。


 今度は介入する。


 アリシアは一歩入り、木刀を低く置く。


 ミーナの槍が止まる。


 メリルの杖が後ろを支える。


「止め」


「良い。札を見て判断できていた」


 手を出す。


 手を出さない。


 どちらも難しい。


 特に白い札の時は、体が動きたがった。


 止められると思うと、止めたくなる。


 でも、それがいつも正しいわけではない。


 封印行も同じだ。


 見えるからといって、触っていいわけではない。


 何かできそうだからといって、していいわけではない。


 訓練後、エレナ教官がアリシアに言った。


「今日の白札は悪くなかった」


「ありがとうございます」


「お前は見えたものに手を出しかける癖がある。だが、止まれるようになってきた」


 アリシアは少し驚いた。


「癖……」


「悪い癖とは限らん。反応が速いとも言える。ただし、判断がなければ危険だ」


「はい」


「手を出さないことも、戦いの一部だ」


 その言葉を、アリシアは胸に刻んだ。


 昼食後、図書館へ向かうと、リーネはすでに封印行の前後の写しを整理していた。


 今日は新しい資料はない。


 昨日の封印行について、事実、推測、対応を改めて整理する日だった。


 シオンもいた。


 珍しく、最初から席に座っている。


「今日は封印行を見ない方がいいと思う」


 メリルがアリシアに言った。


「うん。私もそう思う」


 リーネも頷く。


「今日は写しそのものは閉じておきます。前後の文章だけを別紙で扱います」


 アリシアはほっとした。


「ありがとうございます」


「共同研究者の負荷管理です」


 リーネは真顔だった。


 シオンが少し笑う。


「言い方が研究室すぎる」


「正確です」


「まあ、今回は正しいね」


 机の上には、封印行を直接見なくて済むよう、リーネが作った要約紙が置かれていた。


『設立時議事における[封印行]については、現行結界への反映を行わないものとする。以後、同議題は五大国共同承認なしに再提起しない』


 封印行そのものは、四角い記号で伏せられている。


 それだけでも少し胸が揺れたが、昨日ほどではなかった。


 リーネが言う。


「今日の目的は、封印の中身を推測で埋めることではありません。封印行が存在するという事実の意味を整理することです」


 アリシアは頷いた。


 空欄を勝手に埋めない担当。


 封印も勝手に開けない。


 メリルが記録を読み上げる。


「事実。封印行がある。現行結界に反映しないと書かれている。同議題の再提起には五大国共同承認が必要」


 シオンが続ける。


「推測。五大国のうち、どこか一国だけでは扱えない内容。支点増設、または結界構造に関わる重要議題。闇や六つ目の可能性はあるけど、断定しない」


 リーネが頷く。


「適切です」


 アリシアは少し驚いた。


 シオンがかなり丁寧に整理している。


 彼は気づいたのか、こちらを見る。


「何、その意外そうな顔」


「あ……すみません」


「僕だって真面目にやる時はやるよ」


「はい……」


 シオンは少しだけ笑った。


「まあ、あんまりやりたくはないけど」


 メリルが苦笑する。


 リーネは紙に新しい項目を書いた。


『対応』

『封印行への接触禁止』

『中身を断定しない』

『関連資料の前後関係を調査』

『五大国共同承認に関する制度確認』


「制度確認?」


 アリシアが聞くと、リーネは頷いた。


「五大国共同承認が必要という記述は重要です。何に対して共同承認が必要なのか。過去に再提起されたことがあるのか。制度面から調べる価値があります」


「なるほど……」


 封印の中身を見るのではなく、封印の周囲を見る。


 その考え方は、少し安心できた。


 直接触れない。


 周囲から記録する。


 シオンが言う。


「封印された扉を開けないで、扉の周りの足跡を見る感じだね」


 アリシアは顔を上げた。


「足跡……」


「風の国の古い連中がよく言うんだよ。閉じた扉は叩くな。風は隙間と足跡を読む、って」


 リーネがすぐ記録しようとする。


 シオンが手を上げる。


「今のはただの言い回し」


「それでも参考になります」


「本当に何でも書くね」


 アリシアは少し笑った。


 閉じた扉は叩かない。


 隙間と足跡を見る。


 それは今の調査班にぴったりだった。


 封印に触れない。


 でも、周囲を見る。


 足跡を見る。


 放課後の終わり、司書がやって来た。


「今日は封印行そのものは見なかったのですね」


「はい」


 リーネが答える。


「負荷を考慮しました」


 司書はアリシアを見て、静かに微笑んだ。


「良い判断です」


 アリシアは少し照れた。


「私は……みんなに助けてもらっただけです」


「それも良いことです」


 司書は言った。


「封印資料の扱いは、開けることより、開けずに周囲を調べることが重要な場合があります」


 シオンが小さく言う。


「ほら、扉の周りの足跡」


 リーネがまた記録する。


「リーネ」


「重要です」


 そのやり取りに、メリルが笑った。


 アリシアも少し笑った。


 重い封印の話をしているのに、空気が少し柔らかい。


 それが、この調査班の強さなのかもしれない。


 夜。


 部屋に戻ったアリシアは、練習帳を開いた。


『今日は、封印に触れない手を意識しました。朝、封印を見たい、知りたい、触れたいと思ったことをノアに話しました。思っただけなら怒らない、隠したら怒る、触ったら蹴ると言われました』


 書きながら、少し笑ってしまう。


『生活基礎では、興味と行動は分けられると学びました。知りたいと思うことは悪くない。でも勝手に触れることが問題。封印行について、今の私に必要な言葉でした』


 続ける。


『戦闘基礎では、手を出さない判断の訓練をしました。白札なら手を出さず、声で知らせる。赤札なら介入する。手を出さないことも戦いの一部だとエレナ先生に言われました』


 さらに書く。


『図書館では、封印行そのものを見ずに、前後の文章と対応を整理しました。封印を開けずに、周囲の足跡を見る。シオンさんがそういう考え方を教えてくれました。私は、それなら少しできるかもしれないと思いました』


 書き終えると、ノアが机の上へ跳び乗った。


「今日は?」


 アリシアが聞くと、ノアは少し考えた。


「九十九点」


 アリシアは目を丸くした。


「九十九!?」


「朝、触れたい気持ちを正直に言えた。封印を見なかった。生活基礎も戦闘基礎も図書館調査も、全部『触れない判断』につながっていた。今日はかなり良いわ」


「減点は?」


「朝、封印を思い出して少し窓の方を見た」


「それだけ?」


「それだけ」


 アリシアは胸がいっぱいになった。


 九十九点。


 ノアの採点で、今まで一番高いかもしれない。


「ありがとう」


「礼はいいわ」


「でも、言いたいから」


「知ってる」


 ノアは少しだけ目を細めた。


「今日は本当に、よく触らなかったわね」


「うん」


「知りたい気持ちを消したわけじゃない。でも、行動を選べた」


「うん」


「それが大事よ」


 アリシアは頷いた。


 窓の外には夜が広がっている。


 今日の夜も、何かを隠しているように見える。


 封印された一行のように。


 閉じた扉のように。


 でも、アリシアはその扉を叩かない。


 今は、扉の周りの足跡を見る。


 自分一人で開けない。


 勝手に触れない。


 それが、自分を守り、ノアを守り、仲間を守ることにつながる。


 アリシアは練習帳の最後に一行を書き足した。


『封印に触れない手は、逃げた手ではなく、守るために止まった手』


 ノアはその一文を見て、静かに頷いた。


「満点に近い一文ね」


 アリシアは少しだけ笑った。


 夜は深かった。


 けれど、その深さへ不用意に手を伸ばさないことを、今日は少しだけ覚えられた。

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