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『忘れられた六つ目の神器に選ばれました 〜人見知りな闇の少女と毒舌黒猫の学園英雄譚〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第34話 五つの支点



 翌朝、アリシアはいつもより少し早く目を覚ました。


 窓の外は白く霞んでいる。


 夜と朝の境目はもう過ぎていたが、空にはまだ淡い灰色が残っていた。


 中央学園の校舎は静かで、魔導灯の光もほとんど消えている。


 代わりに、朝の薄い光が石畳と芝生をゆっくり照らし始めていた。


 アリシアは寝台の上で体を起こし、机の上の練習帳を見た。


 昨日の最後の一文。


『私は、ないものを見る役になれるかもしれない』


 自分で書いたのに、読むたびに少し胸が震えた。


 あるものを見るのではなく、ないものを見る。


 欠けたところ。


 隠れたところ。


 消された足跡。


 シオンがそう言った。


 皮肉屋で、いつも少し斜めに物を見る風の少年が、珍しくまっすぐに近い言葉で言ってくれた。


 それが、思っていた以上に胸に残っている。


 アリシアはずっと、自分の弱さばかり見ていた。


 怖がり。


 人見知り。


 声が小さい。


 すぐ不安になる。


 黒い力を持っている。


 普通ではない。


 けれど、その弱さのように思っていたものが、何かを見る力になるのだとしたら。


 怖がるからこそ、違和感に気づける。


 人の視線に敏感だからこそ、空気の変化を拾える。


 黒い力があるからこそ、黒い干渉痕が見える。


 ないものを見る役。


 それは、少し怖くて、少しだけ希望のある言葉だった。


「朝から自分の文章に照れてる顔ね」


 ノアが枕元から言った。


 アリシアはびくりと肩を揺らす。


「お、起きてたの?」


「昨日も言ったでしょう。あんたが起きたら分かるって」


「うん……」


「で、また見てたのね」


「うん。昨日の言葉……気になって」


「ないものを見る役?」


「うん」


 ノアは寝台から降り、机の上へ軽く跳び乗った。


 練習帳の前に座り、尻尾をゆっくり揺らす。


「悪くない言葉ね」


「ノアもそう思う?」


「ええ。闇は、見えないものに近い。光が照らす場所ではなく、照らされなかった場所を知る」


「照らされなかった場所……」


「ただし」


 ノアの声が少し鋭くなる。


「ないものを見ようとして、全部を疑わないこと」


「うん……」


「欠けているものに気づくのは大事。でも、欠けている理由を勝手に決めつけるのは危険」


「昨日の地図も……五つしかないから、六つ目がないって思ったけど、まだ推測」


「そう」


「今日は、結界支点の一部を見学できるんだよね」


 昨日の調査の後、司書から伝えられた。


 マリナ先生が、公開可能な範囲で学園結界の五つの支点を案内してくれるという。


 もちろん、詳細な結界式や内部構造は見せられない。


 だが、五属性支点が学園のどこにあり、どんな役割をしているのか、基本的な説明を受けられるらしい。


 リーネは即座に参加を決めた。


 メリルも頷いた。


 シオンは「面倒」と言いながら、結局来ると言った。


 アリシアも参加する。


 五つの支点を見る。


 そして、その中に六つ目がないことを、自分の目で確認する。


 怖い。


 でも、見たい。


 ノアはアリシアを見て言った。


「今日は、見る日よ」


「見る日……」


「触らない。決めつけない。焦って結論を出さない」


「うん」


「でも、違和感があれば記録する」


「うん」


「それでいいわ」


 アリシアは頷いた。


 制服に着替え、リボンを結ぶ。


 鏡の前に立つ。


 黒髪。


 黒い瞳。


 痩せた体。


 少し緊張した顔。


 けれど、以前よりほんの少しだけ、視線が逃げていない気がした。


「背筋」


 ノアが言う。


 アリシアはすぐ背筋を伸ばす。


「早い」


「少し慣れた」


「いいことね」


 扉が叩かれた。


「アリシアちゃん、おはよう」


 メリルだった。


 アリシアは扉を開ける。


「おはよう、メリルさん」


「今日は支点見学だね」


「うん。少し緊張してる」


「私も。結界の支点なんて、普段意識しないもんね」


「うん……」


 寮の廊下を歩きながら、メリルは少し声を落とした。


「昨日の『ないものを見る役』って言葉、私もいいと思ったよ」


「シオンさんから聞いたの?」


「うん。リーネさんが昨日の記録に書いてた」


「リーネさん……」


 アリシアは顔が少し熱くなった。


 リーネは本当に何でも記録する。


「でも、私もそう思う」


 メリルは優しく続けた。


「アリシアちゃんは、みんなが見逃しそうなところに気づける。怖がりだからじゃなくて、ちゃんと見てるから」


「……怖がりでもあるよ」


「うん。でも、それだけじゃない」


 メリルの言葉は柔らかかった。


 否定せず、違う面を見せてくれる。


 アリシアは小さく頷いた。


「ありがとう」


「うん」


 食堂では、ガレスとミランダがすでに席を取っていた。


 今日も朝から元気だが、二人とも昨日から少しだけ声の大きさを調整してくれている。


「おはよう!」


「おはよう」


 アリシアが座ると、ガレスが言った。


「今日は結界の支点を見るんだろ?」


「うん」


「火の支点もあるんだよな!」


「あると思う」


 ミランダが目を輝かせる。


「土の支点も見たい!」


「ミランダさんは土の継承者候補だもんね」


「うん! でも、結界の土ってどんな感じなんだろう。壁? 地面? 岩?」


 メリルが笑う。


「たぶん、もっと魔法的なものじゃないかな」


 ガレスは腕を組む。


「火の支点は燃えているといいな」


「学園の中で燃えてたら危ないよ」


 メリルが冷静に突っ込む。


 アリシアは少し笑った。


 その笑いで、緊張が少し解ける。


 ガレスとミランダは、難しい話を単純にしてくれる。


 それが今はありがたかった。


「アリシアは、何を見るんだ?」


 ガレスが聞いた。


 アリシアは少し考える。


「五つの支点が、どう並んでいるか……あと、六つ目がないこと」


 言葉にすると、食卓が少し静かになった。


 ミランダが小さく言う。


「六つ目……」


「うん。でも、まだ何か分かってるわけじゃない。ないことを確認するだけ」


 ガレスは真剣に頷いた。


「ないものを見るんだな」


 アリシアは驚いた。


「ガレス君も……」


「メリルから聞いた!」


「あ……」


 メリルが少し照れる。


「ごめん、少し話しちゃった」


「ううん。大丈夫」


 ガレスは力強く言った。


「でも、それは大事だと思うぞ。戦いでも、相手の剣がある場所だけ見てたらだめだ。空いてる場所を見るだろ?」


 アリシアは少し目を見開いた。


 ミランダも頷く。


「土でもね、地面があるところだけじゃなくて、沈みそうなところとか、ひびの入りそうなところを見るって聞いた!」


「ひび……」


「欠けてるところを見つけるの、大事!」


 アリシアは胸が温かくなった。


 ガレスとミランダは脳筋だとノアは言う。


 でも、その直感は時々、核心に触れる。


「ありがとう。少し……勇気出た」


 ミランダが笑う。


「よかった!」


 ノアが椅子の上で呟く。


「脳筋直感、また加点ね」


 アリシアは笑いそうになりながら、スープを飲んだ。


 生活基礎では、セリア先生が「見学時の姿勢」について話した。


 今日の支点見学を知っているのだろう。


 黒板には、三つの項目が書かれていた。


『見る』


『聞く』


『触らない』


 あまりにも直接的で、教室の何人かが小さく笑った。


 セリア先生も微笑む。


「簡単に見えますが、とても大切です。見学では、珍しいものを見ると近づきたくなります。ですが、許可なく触れることは危険です。特に結界設備や魔導具は、表面に見える部分だけではありません」


 アリシアは真剣に頷いた。


 触らない。


 何度も言われている。


 それだけ大事なのだ。


「また、見学時は感想と事実を分けて記録しましょう。『赤く光っていた』は事実。『怖かった』『温かそうだった』は感想です。どちらも大切ですが、混ぜないこと」


 事実と感情。


 ここでもまた出てくる。


 アリシアはノートに書いた。


『支点見学。事実、感想、違和感を分ける』


 授業後、セリア先生がアリシアに声をかけた。


「今日の見学、無理はしないように」


「はい」


「特に、何か見えても一人で確かめに行かないこと」


「……はい」


 アリシアは少し顔を赤くした。


 完全に見抜かれている気がした。


 セリア先生は優しく笑う。


「見える人ほど、確かめたくなるものです。でも、見つけることと処理することは別です」


「分かりました」


「良い返事です」


 セリア先生の言葉を胸に、アリシアは戦闘基礎へ向かった。


 今日の戦闘基礎は、足場を意識した連携だった。


 エレナ教官は床に白い線でいくつかの円を描き、その外に出ないよう指示した。


「限られた場所で動け」


 ただそれだけ。


 しかし、実際には難しかった。


 広く動けない。


 下がりすぎると線を踏む。


 前に出すぎると味方の位置を潰す。


 アリシアとメリルは、狭い円の中で前後を入れ替えながら、カイルとミーナの動きを受ける。


 アリシアは、いつもより足元を意識した。


 自分が立っている場所。


 メリルが立てる場所。


 空いている場所。


 ない場所。


 ガレスの朝の言葉を思い出す。


 相手の剣がある場所だけでなく、空いている場所を見る。


 アリシアはカイルの木剣を見ながら、その背後の空間を見た。


 ミーナの槍先を見ながら、槍が届かない角度を見る。


 メリルの杖の向きを見ながら、杖が通れる細い道を見る。


 全部を見ると溺れる。


 でも、ないものを見ると、動ける場所が少し見える。


「右、空ける」


 メリルが小さく言う。


 今日は声を出してよい練習だった。


 アリシアは右へ大きく動くのではなく、半歩だけ左へずれた。


 メリルの杖先が通る。


 カイルの踏み込みが止まる。


 ミーナが横から槍を出そうとするが、アリシアの木刀が低く置かれていて、入りにくい。


「止め」


 エレナ教官が言う。


 短い沈黙。


「今のは、空間を使えていた」


 アリシアは息を吐いた。


 メリルも嬉しそうに笑う。


 エレナ教官は続ける。


「アリシア。お前は相手そのものより、相手が使えない場所を見る方が向いているかもしれんな」


 アリシアの胸が跳ねた。


 また、同じような言葉。


 ないものを見る。


 使えない場所を見る。


「はい……」


「だが、見すぎるな。空間ばかり見て本体を見失えば斬られる」


「はい」


「メリル。今の声は良い。短く、必要な言葉だった」


「はい」


 訓練は続く。


 アリシアは、あるものとないものを両方見る練習をした。


 相手の武器。


 空いた場所。


 味方の位置。


 使えない場所。


 言葉にすれば複雑だが、体で少しずつ覚えていく。


 終わる頃には、額に汗が滲んでいた。


 けれど、嫌な疲れではなかった。


 昼食後。


 アリシアたちは図書館前に集まった。


 リーネは記録用紙を完璧に揃えている。


 メリルは補助記録用の板を持っている。


 シオンは相変わらず本を片手に、少し面倒そうに立っていた。


 だが、来ている。


 ノアはアリシアの足元。


 そこへ、灰色の外套のマリナ先生がやって来た。


「全員いますね」


「はい」


 リーネが代表のように答える。


 マリナ先生は頷いた。


「今日は、公開可能な範囲で五つの結界支点を案内します。結界式そのものには触れません。質問は受けますが、結界設備には近づきすぎないこと」


「はい」


 四人が返事をする。


 シオンだけ少し遅れて「はいはい」と言った。


 マリナ先生が鋭く見る。


「シオンさん」


「はい」


 言い直した。


 メリルが少し笑いをこらえている。


 最初の支点は、火の支点だった。


 場所は第一演習場の裏手。


 普段は生徒があまり入らない小さな石造りの祠のような場所だった。


 中央には赤い魔力石が埋め込まれた柱があり、その周囲を薄い光の線が巡っている。


 燃えてはいなかった。


 しかし近づくと、空気がほんのり温かい。


「火の支点は、結界全体の活性を保ちます」


 マリナ先生が説明する。


「魔力が淀まないよう、内側の流れを温め、循環させる役割があります」


 ガレスが見たら喜びそうだ、とアリシアは思った。


 リーネが記録する。


「火支点。活性、循環、温度」


 メリルも続けて書く。


 アリシアは柱を見つめた。


 赤い光。


 温かい。


 動いている。


 怖くはない。


 けれど、そこに黒い違和感はなかった。


「何か感じますか?」


 マリナ先生が聞く。


 アリシアは首を横に振る。


「温かいです。でも……黒い感じはありません」


「記録しましょう」


 次は水の支点。


 図書館近くの小さな噴水の地下にあった。


 透明な水晶盤の上を、水のような魔力が薄く流れている。


 音はほとんどない。


 けれど、見ているだけで呼吸が少し落ち着くようだった。


「水の支点は、結界の揺れを整えます。外からの小さな揺らぎを吸収し、広がりすぎないよう均します」


 リーネの目が少しだけ輝いていた。


 自分の属性に近いからだろう。


 彼女はいつもより筆が速い。


「水支点。揺れの調整、吸収、均し」


 アリシアは水の流れを見た。


 穏やか。


 整っている。


 けれど、その端にほんの少しだけ空白のようなものを感じた。


 黒い違和感ではない。


 ただ、ここから少し離れた図書館窓側に、干渉痕があったことを思い出す。


「アリシアさん?」


 リーネが気づく。


「何か?」


「ここは……穏やかです。でも、図書館の方と繋がっている感じが少しある気がします」


 マリナ先生が頷く。


「水支点は図書館周辺の補助結界にも接続しています。良い観察です」


 アリシアは少し驚く。


 当たっていた。


 ノアが足元で小さく尻尾を揺らす。


 次は風の支点。


 中庭の北側、背の高い白い塔の横にある。


 柱は細く、緑色の魔力石が風に揺れる鈴のように吊られていた。


 近づくと、音のない風が頬を撫でる。


 シオンが少しだけ表情を変えた。


 いつもの皮肉っぽい顔が薄れ、どこか懐かしそうに見える。


「風の支点は、結界の流れを巡らせ、外部の圧を受け流します」


 マリナ先生が説明する。


「直接押し返すより、逸らす役割が大きい」


 シオンがぼそりと言った。


「風っぽいね」


 マリナ先生が少し笑う。


「そうですね」


 アリシアは風の支点を見た。


 動いている。


 でも、捕まえられない。


 空気の中に道があるようで、すぐ消える。


 アリシアは昨日の中庭魔導灯を思い出した。


 中庭北東。


 水と光の境界に近いと思っていたが、風の流れも関わっているのかもしれない。


 シオンがアリシアを見る。


「何か見えた?」


「見えたというか……風の道って、すぐ消えるんだなって」


「消えるんじゃなくて、残らないんだよ」


 シオンは言った。


「でも、完全にないわけじゃない。通った後の空気は少し変わる」


「通った後……」


「足跡みたいなもの」


 アリシアの胸が震えた。


 足跡。


 六つ目の影は足跡を消す。


 風は通った後の空気を変える。


 もしかしたら、風と闇は、痕跡に関わるという意味で近いのかもしれない。


 リーネが即座に記録していた。


 シオンがそれを見て言う。


「何でも書く」


「重要です」


「はいはい」


 次は土の支点。


 中庭南側の庭園の地下にあった。


 黄色い魔力石が、太い石柱の中心に埋め込まれている。


 周囲の空気は重く、安定していた。


 ミランダが見たらはしゃぎそうだ。


 マリナ先生が説明する。


「土の支点は、結界の形を固定します。五つの支点のうち、安定性に最も関わる支点です」


 アリシアは石柱を見た。


 動かない。


 揺れない。


 ただ、そこにある。


 それは安心感があった。


 同時に、自分の闇とは少し違うと思った。


 土は重く止める。


 ミランダが言っていた通り。


 自分の闇は、影でそっと止める。


 同じ停止でも、質が違う。


 最後は光の支点だった。


 学園中央塔の近く。


 白い石で作られた小さな円形広場。


 中央には、白い魔力石が浮かんでいた。


 光は強すぎず、柔らかい。


 見ていると、胸のざわめきが少し鎮まるような感覚があった。


 アリシアは少し緊張した。


 ルシアンのことを思い出したからかもしれない。


 光。


 鎮める力。


 優しく問いかけてくる力。


 マリナ先生が言う。


「光の支点は、結界全体の浄化と鎮静を担います。乱れた魔力を整え、異物の侵入を検知しやすくします」


 リーネが記録する。


「光支点。浄化、鎮静、検知」


 アリシアは光の支点を見つめた。


 綺麗だった。


 優しい。


 でも、少し眩しい。


 胸の奥の夜が、静かに身を引くような感覚があった。


 拒絶ではない。


 攻撃でもない。


 ただ、距離を取る。


 ノアが足元で動かない。


 アリシアは小さく息を吸った。


「アリシアさん」


 マリナ先生が気づいた。


「何か感じますか?」


「……綺麗です。でも、少し眩しいです。嫌ではないけど、近づきすぎると……私の中の夜が、奥に下がる感じがします」


 マリナ先生は真剣に頷いた。


「貴重な感覚です。光支点とあなたの特殊魔力反応の相性かもしれません」


 リーネが記録する。


 シオンは光の支点を見ながら、少し皮肉っぽく言った。


「優しく見えて、存在感が強いんだよね、光って」


 アリシアはルシアンを思い出した。


 優しい微笑み。


 でも、近づくと少し息苦しい。


 光の支点も、それに似ている気がした。


 五つの支点を見終えた後、マリナ先生は中央塔前で立ち止まった。


「以上が、公開可能な五つの支点です」


 五つ。


 火、水、風、土、光。


 それぞれ役割がある。


 活性。


 調整。


 受け流し。


 固定。


 鎮静。


 五つが揃い、学園を守っている。


 だが、そこに闇はない。


 アリシアは五つの支点を頭の中で星型に並べた。


 その中心。


 その間。


 境界。


 欠けた場所。


 ないもの。


 胸の奥の夜が、静かに揺れた。


「六つ目は……ありません」


 アリシアは小さく呟いた。


 マリナ先生がアリシアを見る。


 リーネの筆が止まる。


 メリルが息を飲む。


 シオンは黙っている。


 アリシアは慌てて言い直した。


「あ、すみません。推測です。ただ……五つの支点は、とても整っていました。でも、だからこそ、六つ目がないことが……少し気になって」


 マリナ先生は責めなかった。


 むしろ、少し考え込むように目を細めた。


「学園結界は五属性を基礎にしています。これは五大国の共同管理であるためです」


「はい」


「闇に相当する支点は、少なくとも現在の結界構造にはありません」


 現在の。


 その言葉がアリシアの胸に引っかかった。


 現在の結界構造。


 では、過去には。


 言いかけて、アリシアは止めた。


 今は聞きすぎない。


 マリナ先生も、それ以上は言わなかった。


「ただし、あなたの視点は記録しておきます。欠けているものに注目するのは、調査では有効な場合があります」


 アリシアは小さく頭を下げた。


「ありがとうございます」


 見学が終わり、図書館へ戻った。


 四人は閲覧席に集まり、支点ごとの記録を整理した。


 リーネが表を作る。


 火――活性、循環。


 水――揺れの調整、吸収。


 風――受け流し、流路。


 土――固定、安定。


 光――浄化、鎮静、検知。


 闇――なし。


 その最後の行に、アリシアは息を止めそうになった。


 リーネはすぐに言う。


「これは現在の結界構造における記録です。闇の役割が存在しないと断定するものではありません」


「うん……」


 メリルがそっと言う。


「でも、ないって書くの、少し重いね」


「うん」


 シオンが頬杖をつきながら言った。


「でも、書かなきゃ見えないよ。空欄は空欄として置いておかないと、誰かが勝手に埋めたことになる」


 アリシアはシオンを見る。


 その言葉は、少し鋭かった。


 空欄を空欄として置く。


 ないものを、ないまま見る。


「……うん」


 アリシアは頷いた。


 リーネが続ける。


「今後の仮説。干渉痕は五属性支点の境界に近い場所で確認されている。闇に相当する支点がないため、結界の未定義領域、または境界部が探られている可能性」


 メリルが記録する。


 アリシアはその文字を見つめた。


 怖い。


 でも、少しずつ見えている。


 何が起きているのか。


 まだ輪郭だけ。


 けれど、点は増えている。


 そして、五つの支点の中に六つ目がないことも、自分の目で見た。


 夜、部屋に戻ると、アリシアは練習帳を開いた。


『今日は、結界の五つの支点を見学しました。火は活性と循環。水は揺れの調整。風は受け流し。土は固定。光は浄化と鎮静。どれも学園を守るための大切な支点でした』


 続ける。


『でも、闇の支点はありませんでした。現在の結界構造には、闇に相当する支点はないとマリナ先生が言いました。私は、それがとても気になりました』


 ペンが少し止まる。


 光の支点の眩しさを思い出す。


 自分の中の夜が奥へ下がった感覚。


『光の支点は綺麗でした。でも少し眩しくて、私の中の夜が奥へ下がる感じがしました。嫌ではありませんでした。でも、近づきすぎると苦しいかもしれないと思いました』


 さらに書く。


『リーネさんは、闇なしと表に書きました。シオンさんは、空欄は空欄として置いておかないと、誰かが勝手に埋めたことになると言いました。私は、その言葉が大事だと思いました』


 書き終えると、ノアが机の上へ飛び乗った。


「今日は?」


 アリシアが聞くと、ノアは少し考えた。


「九十七点」


「昨日より少し下がった」


「支点を見て少し飲まれたわね。特に光の支点」


「うん……眩しかった」


「でも、逃げなかった。五つの支点を見て、六つ目がないことにも気づいた。触らなかった。決めつけなかった」


「減点は?」


「光の支点で一歩下がるのが遅かった。無理して見すぎ」


「う……」


「でも、自分で眩しいと言えたのは加点」


 アリシアは少し笑った。


 窓の外は静かな夜だった。


 学園の五つの支点は、今もどこかで結界を支えている。


 火が巡らせ、水が整え、風が受け流し、土が支え、光が鎮める。


 その星型の結界の中で、闇だけが空欄になっている。


 アリシアはその空欄を怖いと思った。


 けれど同時に、そこを見なければならないとも思った。


 練習帳の最後に、一行を書き足す。


『空欄は、消えたものではなく、まだ見つけられていないものかもしれない』


 ノアはその一文を見て、長い間黙っていた。


 やがて、静かに言った。


「……いいわね」


 その声は、いつもより少しだけ遠く聞こえた。


 アリシアはノアを見た。


 ノアは窓の外の夜を見ている。


 黒い背中は小さく、けれどどこか、とても古いもののように見えた。


 アリシアは何も聞かなかった。


 まだ、聞く時ではない気がした。


 夜は静かだった。


 けれど、五つの支点を見た後の夜は、昨日までより少しだけ深く見えた。

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