第35話 空欄の重さ
翌朝、アリシアは練習帳を開いたまま、しばらく動けずにいた。
『空欄は、消えたものではなく、まだ見つけられていないものかもしれない』
昨夜、最後に書いた一文。
その文字は、朝の光の中で少しだけ濃く見えた。
五つの支点。
火、水、風、土、光。
学園を守る結界は、その五つで成り立っていた。
活性。
調整。
受け流し。
固定。
鎮静。
どれも大切な役割だった。
それぞれがきちんと存在し、学園という場所を支えていた。
けれど、そこに闇はなかった。
闇の支点はない。
少なくとも現在の結界構造には存在しない。
マリナ先生はそう言った。
その言葉が、アリシアの胸の奥に重く沈んでいる。
ない。
ただそれだけの事実。
けれど、その「ない」は、今のアリシアにとって大きすぎた。
自分の中には、闇がある。
ノアがいる。
黒月がある。
忘れられた六つ目の神器がある。
でも、学園の結界には闇がない。
五つの灯りはある。
六つ目の影は、空欄になっている。
「朝から空欄に飲まれてる顔ね」
ノアの声がした。
アリシアは顔を上げる。
ノアは机の上で丸くなっていた。
黒い体が、朝の光の端に触れている。
「飲まれてる……?」
「ええ。空欄を見つけたのはいいけど、今度は空欄ばかり見てる」
「……うん」
否定できなかった。
昨日からずっと、闇の支点がないことを考えている。
ない理由。
消されたのか。
最初からなかったのか。
必要なくなったのか。
忘れられたのか。
誰かが隠したのか。
考えれば考えるほど、胸の中で黒い糸が絡まっていく。
ノアは尻尾をゆっくり揺らした。
「ないものを見るのは大事」
「うん」
「でも、あるものを見失ったら意味がない」
「あるもの……」
「五つの支点はちゃんとあった。学園の結界は機能している。マリナたち大人が調査している。リーネたちも記録している。メリルたちもあんたを心配している」
ノアは金色の瞳でアリシアを見る。
「それも全部、あるものよ」
アリシアは息を止めかけた。
あるもの。
空欄ばかり見ていた。
でも、確かにあるものもたくさんある。
五つの支点。
結界。
仲間。
先生。
ノア。
自分が書いた記録。
それらを見失ってはいけない。
「……うん。ありがとう」
「礼はいいわ」
「でも、言いたいから」
「知ってる」
ノアは軽く目を細めた。
アリシアは練習帳を閉じた。
制服に着替える。
鏡の前に立つ。
黒髪。
黒い瞳。
まだ少し不安そうな顔。
でも、昨日より少しだけ、自分の顔を見ていられる。
「背筋」
ノアが言った。
アリシアは背筋を伸ばす。
「今日は空欄だけじゃなく、あるものも見る」
「うん」
「よろしい」
扉が叩かれた。
「アリシアちゃん、おはよう」
メリルの声だった。
扉を開けると、メリルはいつもより少し心配そうな顔をしていた。
「おはよう、メリルさん」
「昨日の支点見学、疲れた?」
「うん……少し。体より、頭が」
「分かる。私も、五つ全部見たあと、いろいろ考えちゃった」
二人は廊下へ出た。
ノアが足元を歩く。
朝の寮はいつも通り賑やかで、昨日の支点見学の重さとは別の場所にあるようだった。
誰かが課題の紙を落とし、誰かが寝癖を直しながら走っていく。
小さな笑い声。
足音。
朝の光。
あるもの。
アリシアはノアの言葉を思い出しながら歩いた。
「メリルさん」
「うん?」
「昨日、闇の支点がないことばかり考えちゃって」
「うん」
「でも、ノアに、あるものも見なさいって言われた」
メリルは少し微笑んだ。
「ノアちゃんらしいね」
「うん」
「でも、本当にそうかも。闇の支点がないのは気になる。でも、五つの支点があるから今の学園は守られてるんだよね」
「うん」
「それを否定したいわけじゃないもんね」
「うん……」
その通りだった。
アリシアは五つの支点を否定したいわけではない。
火の温かさも、水の穏やかさも、風の流れも、土の安定も、光の鎮静も、全部大切だった。
ただ、その中に闇がないことが気になる。
それだけなのだ。
食堂では、ガレスとミランダがいつもの席で待っていた。
「おはよう!」
「おはよう」
席に座ると、ミランダがすぐに身を乗り出した。
「昨日、土の支点どうだった!?」
アリシアは少し笑った。
「安定してた。すごく重くて、安心する感じ」
「やっぱり!」
ミランダは嬉しそうに拳を握った。
「土は支えるんだよ!」
ガレスも負けじと言う。
「火はどうだった?」
「温かかった。結界を巡らせるって、マリナ先生が言ってた」
「燃えてたか?」
「燃えてはなかったよ」
「そうか……」
ガレスは少し残念そうだった。
メリルが笑う。
「学園の結界支点が燃えてたら危ないよ」
「確かに!」
ガレスはすぐ納得した。
ミランダがアリシアを見る。
「闇の支点はなかったんだよね」
その言葉に、アリシアの胸が少し固くなる。
でも、ミランダの声は責めるものではなかった。
ただ、確認するような声だった。
「うん。現在の結界構造にはないって」
「そっか……」
ミランダは少し考えた。
そして言った。
「じゃあ、まだ場所が決まってないのかもね」
「場所が……?」
「うん。五つは場所がある。闇はまだ場所がない。だから空欄」
ガレスも頷く。
「なら、見つけるんだな!」
「そんな簡単に……」
アリシアは言いかけて止まった。
簡単ではない。
でも、ミランダの言葉は不思議と胸に残った。
闇はないのではなく、まだ場所がない。
空欄は、消えたものではなく、まだ見つけられていないものかもしれない。
昨夜、自分が書いたことと似ている。
「……うん。そう考えると、少し怖くないかも」
アリシアが言うと、ミランダは明るく笑った。
「でしょ!」
ノアが椅子の上で言う。
「単純だけど、悪くないわね」
アリシアは小さく笑った。
生活基礎では、セリア先生が「空欄の扱い」について話した。
アリシアは黒板を見た瞬間、思わず背筋を伸ばした。
今日も、今の自分に必要な授業だった。
黒板には、こう書かれている。
『分からないことを分からないまま置く』
セリア先生は穏やかに言った。
「勉強でも、調査でも、人間関係でも、すぐに答えが出ないことがあります。その時、無理に答えを埋めようとすると、間違った理解につながることがあります」
アリシアは息を飲む。
空欄。
闇の支点。
六つ目。
全部、すぐに埋めたくなる。
でも、無理に埋めてはいけない。
「空欄は、怠けている印ではありません。正直な記録です。まだ分からない。まだ確認できていない。そう書けることは、とても大切です」
アリシアはノートに丁寧に書いた。
『空欄は正直な記録』
セリア先生は続ける。
「ただし、空欄を放置することと、空欄として記録することは違います。記録した空欄は、後で見返すことができます。誰かと共有できます。次に調べる場所になります」
リーネの記録表を思い出す。
火、水、風、土、光。
闇――なし。
あれは、空欄を記録したのだ。
なくすためではなく、見えるようにするために。
班課題では、未完成の報告書を見て、分かっていること、分からないこと、次に確認することを分ける練習をした。
アリシアはメリル、トマ、ミーナと同じ班だった。
トマが言う。
「分からないことって、書くのちょっと怖いよな」
ミーナが頷く。
「分かっていないって認めることになるものね」
メリルがアリシアを見る。
「でも、今の私たちには大事だね」
「うん」
アリシアは紙に書いた。
『分からないこと:闇の支点がない理由』
授業用の課題ではない。
自分用のメモとして、ノートの端に小さく。
そして、その下に書く。
『次に確認すること:過去の結界構造。五大国建国時の支点記録』
書いてから、少し胸が落ち着いた。
空欄は怖い。
でも、次に調べる場所になる。
戦闘基礎では、昨日に続き、足場と空間を意識した訓練だった。
今日はガレスとミランダも合同見学で一部参加することになった。
一班と三班の一部合同練習。
演習室はいつもより少し賑やかだった。
ガレスはアリシアを見ると、にかっと笑った。
「アリシア、今日はよろしくな!」
「うん……よろしく」
ミランダも元気よく手を振る。
「私もいるよ!」
エレナ教官は合同練習の目的を説明した。
「属性や戦い方が違う相手と組んだ時、どう位置を取るかを見る。今日は試しだ。失敗していい」
アリシアとメリルは、途中でガレス、ミランダと組む練習をした。
ガレスは前に出る力が強い。
ミランダも前に出たがる。
二人が同時に動くと、空間が一気に狭くなる。
最初の練習で、ガレスとミランダが同時に踏み込み、アリシアとメリルの射線が完全に潰れた。
「止め」
エレナ教官の声が飛ぶ。
「ガレス、ミランダ。前へ出るなとは言わん。同時に出るな」
「はい!」
「はい!」
「アリシア。今の位置なら、お前は止めるのではなく避ける道を見るべきだった」
「はい」
「メリル。声が遅い」
「はい」
難しい。
でも、面白くもあった。
ガレスとミランダは勢いがある。
二人が前に出ると、正面の圧はとても強い。
しかし、後ろや横が空く。
そこをアリシアとメリルがどう補うか。
役割が違う。
アリシアは朝のミランダの言葉を思い出した。
まだ場所がない。
闇は場所が決まっていないのかもしれない。
なら、自分は空いている場所を見つける。
ガレスが前に出る。
ミランダも少し前へ。
アリシアはその二人の背後ではなく、斜め後ろの空間へ入った。
メリルがさらに後ろから杖を構える。
ガレスの大きな動きで相手役の視線が集まる。
ミランダが横を押さえる。
その間に、アリシアは空いた道へ木刀を置く。
相手役の逃げ道が塞がる。
「止め」
エレナ教官が言う。
少し沈黙。
「今の位置取りは良い」
アリシアは息を吐いた。
ガレスが振り返る。
「おお! 今、俺たちの後ろにいたのか!」
「うん……空いてたから」
ミランダが目を輝かせる。
「すごい! いつの間に!」
メリルも笑う。
「アリシアちゃん、空いてる場所見つけるの上手い」
アリシアは顔が熱くなった。
エレナ教官が言う。
「褒め合いは後だ。もう一度」
「はい!」
合同練習は疲れた。
けれど、得るものが多かった。
自分が前に出なくても、役割はある。
空いている場所へ入る。
道を塞ぐ。
味方が動きやすい場所を作る。
それも戦いなのだ。
昼食後、図書館で調査班が集まった。
リーネは生活基礎の授業内容をすでに聞いていたらしく、表の空欄を見ながら言った。
「闇の支点なし、という記録は、そのまま維持します」
シオンが頬杖をつく。
「空欄は空欄のまま?」
「はい。ただし、次に確認する項目を追加します」
リーネは紙に書く。
『過去の結界構造』
『学園設立時の結界記録』
『五大国建国時の中心地管理記録』
『闇または夜に関する支点記述』
メリルが言う。
「かなり増えたね」
「調査対象が明確になったということです」
リーネは平然と言った。
シオンがため息をつく。
「これは長くなるね」
「長期調査です」
「やっぱり怖いな、水の本の虫」
リーネは無視した。
アリシアは少し笑った。
図書館では、司書に過去の結界構造に関する資料を依頼した。
一般閲覧室にはほとんどないらしい。
しかし、司書は上級資料室に申請できる範囲で確認してくれると言った。
「ただし、学園結界の詳細記録は機密に近い部分もあります。閲覧できるのは概要資料までです」
「分かりました」
リーネが頷く。
アリシアも頭を下げた。
「お願いします」
司書はアリシアを見る。
「焦らずに。空欄をすぐ埋めようとしないことです」
セリア先生と同じ言葉だった。
アリシアは小さく頷く。
「はい」
その日の調査では、大きな新発見はなかった。
しかし、五つの支点についての表が整理され、闇の空欄が正式な調査項目になった。
それだけでも、大きな一歩だった。
夕方、寮へ戻る途中、リーネがアリシアに言った。
「今日の合同練習、見ました」
「え?」
「図書館へ来る途中、演習室の横を通りました。あなたは空いている場所を見つけるのが上手いですね」
アリシアは驚き、顔を赤くした。
「たまたまです」
「一度なら偶然です。最近の戦闘基礎の記録と合わせると、傾向です」
「記録……」
メリルが笑う。
「リーネさん、本当に見てるね」
「必要です」
シオンが横から言う。
「アリシアは、空欄担当だからね」
「空欄担当……」
変な響きだった。
けれど、嫌ではなかった。
アリシアは少しだけ笑った。
「じゃあ……空欄を勝手に埋めない担当で」
そう言うと、三人が一瞬黙った。
そして、メリルが笑った。
シオンも少し口元を緩める。
リーネは真剣に頷いた。
「良い役割です」
アリシアは驚いた。
冗談のつもりだったのに、リーネは本気で受け取ったらしい。
でも、その真剣さが嬉しかった。
夜。
アリシアは練習帳を開いた。
『今日は、空欄の扱いについて学びました。空欄は、怠けている印ではなく、正直な記録。まだ分からないことを、分からないまま置くことも大切だと分かりました』
続ける。
『戦闘基礎では、ガレス君とミランダさんも一緒に練習しました。二人は前へ出る力が強くて、私は空いている場所へ入りました。エレナ先生に、位置取りは良いと言われました。私は前に出るだけじゃなく、空いている場所を見ることでも役に立てるのかもしれません』
さらに書く。
『図書館では、闇の支点なしという空欄をそのまま記録しました。次に確認することも決めました。過去の結界構造、学園設立時の記録、五大国建国時の中心地管理記録、闇または夜に関する支点記述。すぐには埋まらないと思います。でも、空欄を空欄として置いておくことにしました』
ペンが止まる。
今日の最後のやり取りを思い出す。
空欄担当。
勝手に埋めない担当。
自分で言って、少しおかしかった。
でも、悪くなかった。
アリシアは最後に書いた。
『私は、空欄を勝手に埋めない担当です』
書いた瞬間、少し笑ってしまった。
ノアが机の上に飛び乗る。
「何を笑ってるの」
「これ……ちょっと変かなって」
ノアは練習帳を見る。
しばらく黙る。
そして、ふっと鼻を鳴らした。
「悪くないわ」
「本当?」
「ええ。あんたらしい」
「褒めてる?」
「褒めてるわよ」
アリシアは少し嬉しくなった。
「今日の点数は?」
ノアは考える。
「九十八点」
「高い……!」
「空欄に飲まれかけたけど、あるものも見た。生活基礎を調査に使った。戦闘基礎で空いている場所を取れた。空欄を勝手に埋めないという役割も得た」
「減点は?」
「朝、空欄を見つめすぎ。光支点のことを思い出して少し肩が縮んだ」
「う……」
「でも、今日はよく戻ったわ」
アリシアは頷いた。
窓の外には夜がある。
学園の魔導灯は静かに灯っている。
五つの支点も、どこかで学園を支えている。
そして、闇の支点はまだ空欄だ。
でも、空欄は怖いだけではない。
次に調べる場所。
まだ見つけられていないもの。
勝手に埋めてはいけない、大切な余白。
アリシアは練習帳の最後に一行を書き足した。
『空欄は、私が焦らず向き合うための余白』
ノアはその一文を見て、静かに頷いた。
「いいわ」
アリシアは小さく笑った。
夜は深い。
けれど、その深さを少しだけ怖がりすぎずに見られる気がした。




