第330話 忘れられた名前を呼ぶ朝と、私が選んだこれから
翌朝、アリシアが目を覚ました時、窓の向こうには薄い金色の光が広がっていた。
昨夜まで空を覆っていた雲は東の空へ流れ、中央学園の屋根の向こうから昇る朝日が、寮の庭を静かに照らしている。遠くでは鳥の声が重なり、廊下の向こうからは朝食へ向かう学生たちの足音が聞こえていた。いつもと変わらない朝だったが、アリシアは目を開けてから、すぐには寝台を離れなかった。
足元では、ノアが丸くなって眠っていた。
黒い毛並みに朝日が細く差し込み、ゆっくりと上下する背中の動きが見える。普段なら先に目を覚まして皮肉の一つでも言ってくる黒猫が、今朝は珍しく静かなままだった。
(……今日、話してくれるって言ってたんだよね)
昨夜、ノアは自分から過去の話をすると約束してくれた。
六つの神器が最後に揃ったという神殿。
そこに刻まれていた六人の名前。
そして、ノアが長い間、知っていながら口にできなかった闇の継承者の名前。
アリシアは上掛けの端を握り、静かに息を吐いた。
もちろん、知りたいと思っている。
これまで《黒月》について調べる中で、何度も六番目の空白へ行き当たってきた。千年前には六つの神器と六人の継承者がいたはずなのに、今の歴史では五つの神器と五人の英雄が中心となって語られている。
失われた名前には、何か理由があるのかもしれない。
けれど、昨日までのアリシアとは少し違う気持ちもあった。
(……ノアが話すって決めてくれたことが、嬉しい。だから、答えだけを急いで聞きたくはないな)
名前を知ることと、その名前を大切にすることは同じではない。
自分が知りたいからといって、ノアが抱えてきた気持ちまで無視してよいわけではなかった。
アリシアはそっと身体を起こし、まず自分の状態を確かめた。胸に痛みはなく、呼吸も落ち着いている。以前に感じた東寄りの冷感もなく、指先の感覚にも気になる変化はなかった。
その時、ノアがゆっくり片目を開けた。
「……何だよ。朝から珍しく静かじゃねえか。いつもなら、起きた瞬間から何か考えてる顔してるくせに」
アリシアは少しだけ笑った。
「……おはよう、ノア。考えてなかったわけじゃないよ。でも、起こしたら悪いかなって」
「俺を気遣う余裕があるなら、今日の調子は悪くなさそうだな」
ノアは前足を伸ばし、長い尻尾をゆっくり揺らした。それからアリシアの顔を見上げ、いつものように皮肉を続けようとしたものの、何かを思い出したように口を閉じる。
二人の間に、短い沈黙が生まれた。
アリシアはその沈黙を埋めようとはしなかった。
ノアも、すぐには話し始めなかった。
窓の外で鳥が一度だけ鳴き、庭木の葉が風に揺れる。いつもなら何でもない朝の音が、今は不思議なほどはっきり聞こえていた。
「……覚えてるんだろ。昨日の約束」
ノアが静かに口を開いた。
アリシアは頷いた。
「……うん。でも、今すぐじゃなくてもいいよ。ノアが話せる時に、聞きたいから」
黒猫は金色の瞳を細めた。
「お前は本当に、面倒なところで遠慮するようになったな。昨日、俺が話すって決めたんだ。今さらお前に気を遣われて引っ込めるつもりはねえよ」
言葉はいつものノアらしく乱暴だったが、その声には普段と違う静けさがあった。
彼は寝台から降りると、窓辺へ向かった。
朝日が黒い背中を照らし、床には小さな猫の影が伸びていく。
「ただ、その前にはっきりさせとく。俺が知ってることと、知らねえことは別だ。昔の連中が何を考えていたのか、俺だって全部知ってるわけじゃねえ。記録がどうして消えたのかも、見てねえところまで断言するつもりはない」
アリシアは静かに頷いた。
「……うん。ノアが見たことと、覚えていることを教えてほしい」
ノアは少しだけ息を吐き、窓の向こうへ視線を向けた。
「千年前、六つの神器は確かに揃っていた。今の歴史で五人の英雄だの五聖人だのって呼ばれてる連中だけじゃねえ。そこには、闇の神器を持つ六人目がいた」
アリシアは膝の上で両手を重ねた。
何度も聞いた六人目の存在。
けれど、今朝のノアは、それを古い伝説としてではなく、自分自身の記憶として語っていた。
「六人が最後に揃った神殿には、それぞれの名前が刻まれていた。誰がどの神器を持っていたのか、そこへ来た者たちが何を誓ったのか……全部が同じ形で残っていたわけじゃねえが、少なくとも六人の名前はあった」
ノアはそこで一度言葉を切った。
アリシアは急かさず、次の言葉を待つ。
「六人目は、エルヴィナといった」
アリシアの胸が、静かに高鳴った。
「……エルヴィナ……」
初めて聞く名前だった。
けれど、不思議なほど柔らかい響きがあった。
長い間、誰にも呼ばれなくなっていたかもしれない名前。
それでもノアの中では、千年という時間を越えて残り続けていた名前。
アリシアはもう一度、その音を確かめるように口にした。
「……エルヴィナ」
ノアは目を閉じた。
その表情から何を感じているのか、アリシアには分からなかった。ただ、いつもの皮肉が返ってこないことが、彼にとって今の名前がどれほど大切なのかを物語っているように思えた。
「……ああ。忘れられた闇の継承者の名前だ」
ノアはゆっくり目を開けた。
「昔のあいつは、別に何でもできる英雄だったわけじゃねえ。怖がることもあったし、迷うこともあった。六人の中で、いつも一番前に立っていたわけでもない」
アリシアは静かに聞いていた。
「だが、誰かが勝手に役割を決められそうになった時、あいつは簡単に引き下がらなかった。誰かを守るってのは、その相手の代わりに何でも決めてやることじゃねえって、分かってたんだろうな」
ノアの視線が、アリシアへ戻る。
「闇は、隠すためだけにあるんじゃねえ。強い光に照らされたくねえ奴が、自分の意思で休める場所にもなる。返したくねえ声を返さなくていいように、無理やり結ばれたものを切るために、影を使うことだってある」
アリシアは、以前《黒月》の力で強制された接続を切った時のことを思い出した。
水中から救い出された子供が、自分の三つの音を持ち続けられるようにしたこと。
顔のない存在が、役割だけを与えられるのではなく、自分で過ごし方を選べるようになったこと。
生活観測区画で、誰もが返事をしない時間を持てるようになったこと。
それらは一つの謎の答えではなかったが、アリシア自身が選んできた行動だった。
「……エルヴィナも、誰かが自分で選べるように、守っていたの?」
ノアは少し考えてから頷いた。
「俺が見てきた限りでは、そうだ。だが、あいつがどうしてその道を選んだか、心の中まで全部知ってるわけじゃねえ。昔の記録にも、残ってるものと消えちまったものがある」
アリシアはその言葉を受け止めた。
エルヴィナが何を考え、何を望み、どんな人生を送ったのか。
今朝、一度名前を聞いただけで、そのすべてを理解できるわけではない。
それでも、ノアが覚えている人がいた。
闇の神器を持ちながら、誰かの選択を守ろうとした人がいた。
その事実は、アリシアにとって何より大切だった。
「……ノア。教えてくれて、ありがとう」
アリシアが静かに言うと、ノアは少しだけ顔を背けた。
「礼なんざいらねえよ。俺が勝手に黙ってた話だ。お前が知らなかったからって、何か足りなかったわけじゃねえんだからな」
「……うん。分かってる」
アリシアは少し微笑んだ。
「でも、ノアが話してくれたことは、嬉しいよ」
その言葉に、ノアはしばらく黙っていた。
やがて、小さく鼻を鳴らす。
「……そうかよ」
いつもの短い返事だった。
けれど、今朝のアリシアには、その言葉だけで十分だった。
◇
朝食を終えたあと、アリシアはノアと一緒に中央学園へ向かった。
北側連絡廊下の封鎖は、今朝も続いていた。補助案内の矢印は変わらず東側の階段を示し、通学する学生たちは迷うことなく迂回路へ進んでいる。
アリシアはその光景を眺めながら、少しだけ歩く速さを緩めた。
昨日までと同じ通路だった。
同じ案内板があり、同じ仕切りがある。
けれど、今朝の自分は一つの名前を知っている。
それだけで世界が大きく変わったような気もしたが、目の前の日常が何も変わっていないことに、どこか安心していた。
「アリシア!」
後ろから声が聞こえた。
振り返ると、メリルが教科書を抱えて歩いてきていた。
「おはよう! 今日は少し早いね。私、さっきまで中庭の花壇を見てたんだけど、雨のあとだから花がいつもよりきれいだったよ」
「……おはよう、メリル。そうなんだ。帰りに、少し見てみようかな」
メリルは嬉しそうに笑い、アリシアの隣へ並んだ。
それから、アリシアの表情を見つめて少し首を傾げる。
「……何かいいことあった?」
アリシアは少し驚いた。
「……どうして?」
「何となく。いつもより落ち着いてるように見えたから。昨日は少し疲れてたでしょう? 今朝はちゃんと眠れたのかなって」
アリシアは頷いた。
眠れた。
そして、ノアから大切な話を聞いた。
けれど、今すぐ教室へ向かう途中で、その内容を全部説明する必要はないと思った。
「……うん。ちゃんと眠れたよ。それから、ノアが大切なことを話してくれたの」
メリルは静かに頷いた。
「そっか。じゃあ、嬉しかったんだね」
「……うん。でも、まだ自分の中で考えたいこともあるから……あとで話してもいい?」
「もちろん。話したくなった時に聞かせてくれたら嬉しいし、まだ話したくないなら、それでもいいよ」
メリルはそれ以上尋ねなかった。
アリシアは胸の奥が温かくなるのを感じた。
名前を知ったからといって、すぐに誰かへ伝えなければならないわけではない。
話すことも、話さないことも、自分で選んでいい。
そして、相手もそれを受け止めてくれる。
「……ありがとう、メリル」
「どういたしまして。じゃあ、今日も一緒に教室へ行こう!」
二人は東側の階段へ向かった。
ノアはいつものように少し後ろを歩いていたが、アリシアが一度振り返ると、金色の瞳を細めて尻尾を揺らした。
アリシアは小さく笑い、友人の隣を歩き続けた。
◇
その日の午前中、グラン先生のもとでは、中央記録室の管理担当者による限定的な照合が行われていた。
前日の正式な通知で、封緘された資料のうち、指定された保管単位について確認するための時間が確保されている。作業には管理責任者と担当者が立ち会い、開封前の状態、封印の位置、外装の管理札が記録と一致しているかを一つずつ確かめていた。
グラン先生はその場で、求められた資料以外へ触れようとはしなかった。
照合する目的は、北側設備に関する二つの通知が、受信側でどのように扱われたかを確かめることだった。
送信側の記録では、二つの通知は近い時刻に同じ形式で出されている。
しかし受信側の一覧には時刻差があり、一方だけに『照合待ち』という補助区分が残っていた。
さらに一次受付控えでは、同じ通知に『取扱先確認』という記載があり、宛先欄には古い形式の部署符号が使われていた。
ただし、その古い符号は当時の移行措置で使用できるものだった。
したがって、古い符号が使われていたというだけで、誤配送や不正があったとは言えない。
今回の照合では、その先の引き継ぎがどのように記録されていたかを確かめる必要があった。
管理担当者が封緘状態を確認し、定められた手順で封を開ける。
中には、移管時の照合原簿類と、別添としてまとめられた数枚の書類が収められていた。
担当者は一枚ずつ管理番号を確かめ、確認対象に該当するものだけを取り出した。
最初に見つかったのは、受信側一覧へ登録する前に、取扱先の確認が必要となった通知についての処理記録だった。
そこには、古い部署符号を新しい表記へ読み替えたことと、その確認を終えたあと、所定の取扱先へ引き継ぐ扱いになったことが記されていた。
グラン先生はその内容を慎重に読み直した。
(……旧符号の読み替えが行われたという記録はある。なら、少なくとも『古い符号だから宛先が分からず放置された』という説明ではなさそうだ)
ただし、それだけでは時刻差のすべてが説明されたことにはならない。
続いて確認されたのは、受信側一覧へ登録した時刻と、一次受付控えに残された確認作業の順序との対応だった。
管理担当者が複数の記録を照合すると、問題の通知については、一次受付後に取扱先の読み替えと確認が行われ、その後に受信側一覧へ正式登録された経過が確認できた。
もう一方の通知は、同じ確認手順を必要とせず、通常の流れで登録されている。
記録が残された段階の違いを考慮すると、二つの時刻を単純に同じ意味のものとして比較していたことが、差を大きく見せる一因になっていた。
グラン先生は一度だけ息を吐いた。
これまで続いていた時刻差の問題について、ようやく具体的な処理経過が確認できた。
ただ、通知が発せられた瞬間から受信側で扱われるまでのすべてを、一つの記録だけで完全に再現できるわけではない。
先生はその点も含め、確認された事実を管理担当者と読み合わせた。
「今回の記録からは、片方に取扱先の確認手順が入っていたことと、その後に正式登録されたことが分かりますね。ただし、各段階の時刻を同じ基準で比較できるかは、別途補正が必要という理解でよろしいでしょうか」
担当者は頷いた。
「はい。時計差の確認と管理段階の違いを併せて整理することで、これまでの記録の差について説明できる範囲が増えました。ただし、すべての処理を秒単位で再現したという意味ではありません」
グラン先生も頷いた。
それは、無理に大きな結論を作るよりも、はるかに重要な確認だった。
続いて、別添書類の照合が進められた。
その中に、これまで所在が確認できずにいた確認票と、管理番号および用途が一致する書類があった。
担当者はすぐに発見を確定扱いにはせず、既存の移管記録と管理番号、書式、記載内容を照合した。
その結果、探していた確認票であることが正式に確認された。
書類は紛失して消えていたわけではなく、移管時に別添資料として封緘保管されていた。
ただし、どの段階でその保管区分になったかについては、残された資料で確認できる範囲を越えて推測しないことになった。
グラン先生は机の端に置かれた記録紙へ、ゆっくりと書き加えた。
『確認票の所在を確認』
『封緘保管されていた別添資料との照合完了』
『二通知の記録時刻差について、取扱先確認と登録段階の違いを確認』
その三行を書き終えた時、先生はしばらく紙を見つめていた。
長く続いた確認作業のうち、確かに一つの問題が解決した。
何かが見つからなかったという事実だけで、誰かの悪意や記録の消去を疑う必要はなかった。
必要な手順を守って調べ続けたことで、失われたと思われていた資料の所在が確認できたのだ。
作業を終えた書類は、管理担当者によって確認内容が記録され、定められた方法で再び保管された。
封緘状態の変更も、誰がどの範囲を確認したかも、後から分かるように残される。
グラン先生は管理担当者へ礼を伝えたあと、窓の外へ目を向けた。
中庭では学生たちが授業の合間に歩いている。
北側連絡廊下の封鎖は、まだ解除されていない。
記録の問題が整理できたことと、現場の設備を安全に使えるかどうかは、別の確認が必要だからだ。
先生はその違いも管理情報へ明記した。
(……これで、少なくとも記録の照合については大きく進んだ。だが、設備を使えるようにする判断は、現場の安全確認が終わってからだ)
そう考えながら、先生は次の確認事項を担当部署へ送った。
◇
昼休み、アリシアはメリルたちと食堂で昼食を取っていた。
窓の外には明るい日差しが広がり、中庭の花壇には学生たちが集まっている。食堂の中では温かな料理の匂いが漂い、少し離れた席からは授業の課題について話す声が聞こえていた。
エドガーは午前中の授業について話していた。
「今日の記録、先生に褒められたな。ちゃんと停止した時の状態と、そのあとどう確認したかを分けて書いてあったから、次に読む人も分かりやすいって」
「最初に止まった時は、どうなるかと思ったけどね。でも、あの記録を消さなくてよかったと思う」
テオが穏やかに答えると、フィオナも頷いた。
「私もそう思うわ。停止の札を出した時のこと、最初は少し恥ずかしかったの。でも、あれがあったから、次の方法を皆で考えられたんだもの」
メリルは嬉しそうに笑った。
「それに、アリシアが声を出してくれたから、私たちも気づけたことがあったよね」
突然名前を呼ばれ、アリシアは少しだけ頬を赤くした。
「……私だけじゃないよ。皆が止まってくれたから、そのあとちゃんと話せたんだと思う」
エドガーは少し照れくさそうに笑い、テオも頷いた。
フィオナはアリシアの顔を見つめ、静かに言った。
「それでも、必要な時に言ってくれてありがとう。私は、あの時のアリシアの声を忘れないと思う」
アリシアは一瞬、返事に迷った。
自分の名前が呼ばれること。
自分の言葉が、誰かの中へ残ること。
以前なら、それが少し怖かった。
けれど今は、誰かが覚えていてくれることを嬉しいと思えた。
「……ありがとう、フィオナ」
アリシアは微笑んだ。
「私も、皆と一緒に考えられてよかった」
その言葉に、メリルが嬉しそうに笑った。
食堂の賑やかさは変わらず続いている。
誰かが笑い、別の誰かが食事を終えて席を立つ。
そんな日常の中で、アリシアは自分も自然に笑えていることに気づいた。
かつての自分は、人が多い場所にいるだけで緊張していた。
何かを尋ねられれば、間違った答えを言ってしまわないかと怖くなった。
それでも、今は違う。
怖さがなくなったわけではない。
けれど、怖さを抱えたままでも、大切な人たちと同じ場所にいられる。
そのことが、何より嬉しかった。
◇
午後、アリシアはグラン先生の部屋を訪れた。
扉を叩くと、室内から穏やかな声が返ってくる。アリシアが入ると、先生は机の上の書類を整理していた。
「こんにちは、アリシア。ちょうど君へ伝えたいことがあったんだ」
アリシアは少しだけ姿勢を正した。
「……こんにちは。北側のことですか?」
「そう。今日、管理担当者の立会いのもとで、封緘されていた資料の一部について正式な照合を行ったんだ」
先生は最初に、確認が許可された範囲と、まだ調べられていない部分があることを説明した。
それから、探していた確認票が正式に見つかったことを伝えた。
アリシアは思わず目を見開いた。
「……見つかったんですか?」
「うん。管理番号と用途を照合して、探していた確認票であることが確認された。移管時に別添資料として封緘保管されていたんだよ」
アリシアは膝の上で両手を重ねた。
これまで何度も聞いてきた確認票。
所在が分からず、作られなかったのか、誰かへ渡されたのか、どこかへ保管されたのかも確定できなかった書類。
それが、正式な手順を守った照合によって見つかった。
「……よかったです」
小さく口にすると、胸の奥へ温かなものが広がった。
グラン先生は穏やかに頷いた。
「ただ、確認票が見つかったことで、過去のすべての処理が正しかったと証明されたわけではないよ。今回確認できた範囲を整理して、記録として残すことになる」
「……はい」
アリシアはしっかり頷いた。
その違いは、今なら理解できる。
見つかったことと、何も問題がなかったことは同じではない。
そして、問題があったかもしれないという理由だけで、誰かが悪意を持っていたと決めることもできない。
先生は続けて、二つの通知についても説明した。
片方には取扱先の確認が必要となる記録があり、古い部署符号を読み替える処理が行われたあと、正式な受信側一覧へ登録されていたこと。
もう片方は、同じ確認手順を必要としなかったこと。
そのため、記録された時刻を単純に比較した場合、実際には異なる管理段階の時刻を比べてしまう部分があったこと。
アリシアは静かに聞いていた。
「……じゃあ、誰かがわざと遅らせていたって、分かったわけじゃないんですね」
「そうだね。少なくとも、今回確認された資料に故意の遅延を示す根拠はなかった。記録の扱いと時計差を整理することで、これまでの時刻差について説明できる範囲が増えたんだ」
アリシアは胸の奥が軽くなるのを感じた。
長く続いた調査が、ようやく一つの区切りを迎えている。
そのことを嬉しく思う一方で、すべての謎が解けたわけではないことも理解していた。
「……先生。六番目の空白のことは、まだ分からないままですよね」
グラン先生は頷いた。
「うん。今日の資料照合で、古い目録の空白の理由まで判明したわけではない。東側と西側で観測された反応や、帰還印についても、それぞれ別の確認が必要だよ」
アリシアは少し考えた。
そして、朝ノアから聞いた名前を思い出した。
エルヴィナ。
失われた闇の継承者の名前。
今までなら、その名前を知った途端に、すべての資料へ結びつけようとしていたかもしれない。
けれど、今日のアリシアは違った。
「……先生。私も、一つお伝えしたいことがあります」
グラン先生は静かに続きを待った。
アリシアは足元のノアへ視線を向けた。
「……ノア。先生に話しても、いい?」
ノアは少しだけ目を丸くした。
それから、金色の瞳を細める。
「俺が話すって決めた名前だ。お前が大切に扱ってくれるなら、構わねえよ。ただし、証拠もなしに歴史を書き換えたつもりになるんじゃねえぞ」
アリシアは頷いた。
そしてグラン先生へ向き直る。
「……ノアが、昔の闇の継承者の名前を教えてくれました」
先生は驚いたように表情を変えたが、すぐに落ち着きを取り戻した。
「そうなんだね。聞かせてもらってもいいかな」
アリシアは静かに息を吸った。
「……エルヴィナ、という名前だったそうです」
部屋に短い沈黙が生まれた。
グラン先生はすぐに書き留めようとはせず、まずノアの方へ視線を向けた。
「ノア。その名前は、君自身が覚えているものなんだね」
「ああ。俺が覚えてる。六つの神器が揃った神殿に刻まれていた名前だ。今の歴史書に残ってねえからって、俺の記憶まで消えるわけじゃねえ」
先生はゆっくり頷いた。
「分かった。では、その証言は証言として残す価値があると思う。ただ、古い刻銘そのものを確認したわけではないから、歴史的な資料と同じ扱いにはできない。記録するなら、誰の証言であるかも明確にしよう」
アリシアは安心した。
今まで何度も聞いてきた言葉だった。
確認できたこと。
まだ確かめられていないこと。
その二つを分ける。
けれど、今はその考え方が、誰かの大切な記憶を否定するためのものではないと分かる。
「……はい。ノアが覚えていることを、大切に残したいです。でも、まだ分からないことまで、分かったことにはしたくありません」
グラン先生は穏やかに微笑んだ。
「その考え方でいいと思うよ」
ノアは少しだけ鼻を鳴らした。
「まったく、二人揃って堅苦しい話にしやがって。名前を覚えててほしいってだけのことが、そんなに難しいかね」
その言葉に、アリシアは小さく笑った。
先生も少しだけ微笑み、筆を取った。
記録には、ノアが古い神殿で見聞きしたという闇の継承者の名前と、その証言がまだ独立した資料によって裏付けられていないことが、明確に分けて残された。
古い目録の空欄が、その場で埋められたわけではない。
正式な歴史書が、すぐに六人の英雄へ書き換えられたわけでもない。
それでも、忘れられていた一人の名前が、初めて現在の記録へ残された。
アリシアはそのことを、静かに受け止めていた。
◇
夕方、生活観測区画の共有室へ向かうと、子供が窓辺の絵を眺めていた。
青い空と家の屋根を描いた別の絵は、今も本人の希望で保管されている。壁には、雨上がりの木と小さな黒猫を描いた絵が飾られ、窓から入る光を受けて紙の白い部分が柔らかく輝いていた。
子供はアリシアに気づくと、嬉しそうに手を振った。
「アリシア! 今日はね、橋をしまったあとに、新しい紙をもらったんだ」
「……こんにちは。今度は何を描くの?」
「まだ決めてないの。でも、今日は何も決めないで紙を見てるのも楽しいかなって」
アリシアは微笑み、隣の椅子へ腰を下ろした。
机の上には白い紙が一枚置かれている。
何も描かれていないその紙を、子供は困った様子もなく眺めていた。
「……うん。何を描くか決めなくても、いいと思う」
「そうだよね。あとで思いついたら描くし、今日はこのままでもいいんだよね」
子供は安心したように笑った。
その少し離れた場所では、顔のない存在が静かに過ごしている。
以前、子供が作った紙の橋へ指先が一度だけ触れたことがあった。
けれど、その出来事が何を意味するのかは、今も分からない。
アリシアはそれを確かめようとはしなかった。
子供も、もう一度同じ動きをしてもらおうとはしない。
今日は今日の時間がある。
橋を作りたい日もあれば、絵を描きたい日もある。
何もしたくない日だって、あっていい。
「ねえ、アリシア」
子供が白い紙から顔を上げた。
「……なに?」
「名前って、呼ばれたら嬉しいものなのかな」
アリシアは少しだけ驚いた。
今朝、ノアから聞いた名前が胸の中に浮かぶ。
けれど、目の前の子供が何を考えてその質問をしたのかは分からない。
「……嬉しい時もあると思う。でも、呼ばれたくない時もあるかもしれないね」
子供は少し考えた。
「じゃあ、呼ばれたくなかったら、返事しなくてもいい?」
「……うん。返事したくない時は、無理にしなくてもいいよ」
子供はゆっくり頷いた。
そのあと、白い紙へ視線を戻す。
「でもね、呼んでほしい時もあるかもしれない」
アリシアは微笑んだ。
「……それなら、その時に教えてくれたら嬉しいな」
子供は満足そうに笑い、紙の端へ小さな線を一本引いた。
それは名前を表す線なのか、絵の始まりなのか、アリシアには分からなかった。
けれど、分からないままでよかった。
子供が何を描きたいのかは、子供自身が決めることだからだ。
アリシアは窓の外へ目を向けた。
夕方の空には、薄い雲がゆっくり流れている。
少し前まで、この場所で過ごす子供たちの声や動きには、何かの役割や意味を求められることがあった。
けれど、今は違う。
ここでは、名前を答えなくてもいい。
何かを作らなくてもいい。
返事をしないまま、同じ場所にいてもいい。
アリシアはそのことを、何よりも大切にしたかった。
◇
それから、いくつかの日が過ぎた。
中央学園では授業が続き、北側連絡廊下の設備についても、専門の担当者による安全確認が進められた。
記録の照合によって管理上の行き違いが整理されたあとも、現場そのものの安全点検は別に行われた。通行を再開するために必要な確認が揃い、担当部署の正式な判断が下されるまでは、仕切りは取り除かれなかった。
アリシアたちは、その間も東側の迂回路を使っていた。
最初は不便に感じられた道だったが、補助案内が整えられてからは迷う学生も減り、毎日の移動はずいぶん落ち着いている。
そして、ある朝。
北側連絡廊下の前にあった封鎖の仕切りが、ついに取り除かれていた。
安全確認の完了を知らせる掲示が取り付けられ、学生たちは久しぶりにその道を通れるようになっていた。
アリシアはメリルと一緒に、その掲示を見上げた。
「……通れるようになったんだね」
メリルは嬉しそうに頷いた。
「うん! これで教室まで少し近くなるね。でも、東側の道にも慣れちゃったから、何だかちょっと不思議」
アリシアは小さく笑った。
以前、案内板が見えにくいことを報告した場所。
誰かが迷わず通れるように、職員が位置を調整してくれた場所。
そこへ、今日も学生たちが集まっている。
けれど、今度は仕切りの向こうへ進んでいくことができる。
それは、必要な確認を終えた人たちが、安全に使えると判断したからだった。
「……メリル」
「ん?」
「ここ、最初に案内板のことを報告した時、すごく緊張したよね」
メリルは少し考えてから笑った。
「うん。でも、伝えてよかったね。ちゃんと確認してもらえて、案内も直ったし、最後には安全に通れるようになったんだから」
アリシアは頷いた。
すぐに解決しなくても、少しずつ確かめていけばいい。
その間にも、できることはある。
そして、問題が解決したあとには、また新しい日常が始まる。
アリシアは北側連絡廊下を見つめながら、そのことを静かに実感していた。
◇
学園の生活も、少しずつ変わっていった。
五人で考えた安全確認の改善案は、教師たちによる検討を経て、既存の実習手順を分かりやすくするための補助資料へ反映された。
学生だけで勝手に操作方法を変えるのではなく、どの状態で停止し、どの段階で受領を確認するかを教師が整理したものである。
アリシアたちの提案が、そのまますべて採用されたわけではない。
けれど、返事が確認できない時に進まないことや、停止を申し出た人だけに責任を負わせないことは、今後の実習でも大切な考え方として共有されるようになった。
フィオナは以前より自分の意見を話せるようになり、エドガーは相手の確認を待つことを意識するようになった。
テオも操作中の自分の状態を、以前よりはっきり伝えられるようになっている。
メリルは相変わらず明るく、皆を笑わせながらも、必要な時には相手の言葉を最後まで待つことができた。
アリシアは、そんな仲間たちと一緒に過ごしていた。
人見知りな性格は、今も変わらない。
大勢の前で話す時には緊張するし、初めて会う人へ声を掛ける時には、少し勇気が必要だった。
それでも、自分の言葉を失ってしまうわけではない。
必要な時には止めたいと言える。
分からないことは質問できる。
嬉しい時には笑い、怖い時には相談できる。
そして、何も話したくない時には、無理に言葉を探さなくてもいい。
そのことを、アリシアは少しずつ自分のものにしていた。
◇
ある日の放課後、アリシアはグラン先生の部屋を訪れた。
窓の外では、中央学園の中庭に柔らかな日差しが広がっている。
先生は机の上に置かれた資料を閉じ、アリシアとノアを迎えてくれた。
「こんにちは、アリシア。最近は、授業も順調そうだね」
「……こんにちは。はい。まだ緊張することはありますけど、皆と一緒に練習できています」
グラン先生は穏やかに頷いた。
「それはよかった。体調についても、無理をしていないかな」
「……はい。怖さが強くなったら相談するようにしています。痛みや苦しさも、今のところありません」
先生は安心したように微笑んだ。
それから、机の引き出しから一枚の記録紙を取り出した。
「以前、君とノアから聞いた闇の継承者の名前について、記録の扱いを整理しておいたよ」
アリシアは少しだけ背筋を伸ばした。
そこには、ノアが語った古い神殿の記憶と、闇の継承者の名前が、証言として残されていた。
ただし、歴史的な原資料によって確認された事実と同じ欄には記されていない。
古い目録の六番目の空白についても、理由は未確定のままだった。
「……ありがとうございます」
アリシアは静かに言った。
「まだ全部分かったわけじゃないですけど……名前が、ちゃんと残ったんですね」
「そうだね。今後、古い神殿の刻銘や関連資料を確かめられる機会があれば、この証言も照合することになるだろう。ただ、今の段階でも、誰がどのような記憶を伝えたかを残すことには意味があると思う」
ノアはしばらく黙っていた。
そのあと、ゆっくり口を開く。
「……ああ。それでいい。俺の記憶だけで全部決めろなんて言うつもりはねえ。ただ、あいつの名前が最初からなかったことにされるのは、もう御免なんだ」
グラン先生は頷いた。
「分かった。記録は、その違いが分かる形で大切に扱うよ」
アリシアはノアへ視線を向けた。
以前なら、彼は大切な過去を口にすることを避けていた。
今も話していないことはあるだろう。
けれど、今日のノアは自分から名前を守ろうとしている。
その変化が、アリシアには嬉しかった。
「……ノア」
「何だよ」
「エルヴィナのこと、これからも聞いていい?」
ノアは少しだけ目を丸くした。
それから、いつものように鼻を鳴らす。
「俺が覚えてることでよけりゃな。ただし、何でも知ってると思うなよ。昔の話には、俺にだって分からねえことがある」
「……うん。それでも、聞きたい」
アリシアは微笑んだ。
ノアは少しだけ照れくさそうに顔を背けた。
「……まったく、お前は本当に変わったな」
その言葉に、アリシアは小さく笑った。
「……そうかな」
「昔のお前なら、分からねえことがあるたびに、自分が駄目だからだと思ってただろ。今は、分からねえことを聞けるし、答えが出なくても待てる。ずいぶん図太くなったもんだ」
「……それ、褒めてる?」
「半分くらいはな」
アリシアは少し頬を膨らませた。
グラン先生が穏やかに笑い、ノアも満足そうに尻尾を揺らす。
その光景を見ていると、アリシアは自分がここへ来てから過ごした日々を思い出した。
初めて《黒月》の力に触れた時の恐怖。
ノアと出会ったこと。
メリルと友達になったこと。
ほかの神器の継承者たちと関わり、自分の影が誰かを守るために使えると知ったこと。
怖くても、逃げたいと思っても、仲間たちと一緒に歩いてきたこと。
その一つ一つが、今の自分へつながっている。
(……私は、エルヴィナにはなれない。でも、ならなくてもいいんだよね)
アリシアは静かに息を吐いた。
昔の闇の継承者が、何を守ろうとしたのか。
そのすべてを知ることは、まだできない。
けれど、アリシアにはアリシアの人生がある。
誰かの代わりではなく、自分自身として生きていくことができる。
そのことを、今ははっきり感じられた。
◇
夕暮れの中央学園は、淡い金色に染まっていた。
アリシアはノアと一緒に中庭を歩いていた。
北側連絡廊下の封鎖は解除され、以前の道を使う学生たちが行き交っている。それでも、東側の迂回路を選んで歩く者もいて、誰もが同じ道を通らなければならないわけではなかった。
花壇の近くでは、メリルが何人かの学生と話している。
少し離れた場所では、エドガーとテオが次の実習について相談し、フィオナがその話を聞きながら笑っていた。
アリシアは少しだけ足を止めた。
かつての自分なら、あの輪の中へ入ることをためらっていたかもしれない。
誰かに声を掛けられるまで待ち、うまく話せなかったらどうしようと考えていた。
けれど今は、少し違う。
「……ノア」
「ん?」
「私、メリルたちのところへ行ってくるね」
ノアは金色の瞳を細めた。
「おう。好きに行ってこい。俺はここらで日向ぼっこでもしてる」
アリシアは少し笑った。
「……あとで、一緒に帰ろうね」
「分かってるよ。勝手に置いてったりしねえから、安心しろ」
その言葉に、アリシアは頷いた。
そして、自分からメリルたちの方へ歩き始めた。
最初の一歩には、まだ少しだけ緊張があった。
けれど、足を止めるほどではない。
「……メリル」
アリシアが声を掛けると、メリルが振り返った。
「アリシア! ちょうど今、明日の授業のことを話してたんだよ。一緒に聞く?」
アリシアは微笑んだ。
「……うん。私も、一緒に話したい」
その返事に、メリルが嬉しそうに笑った。
エドガーが場所を空け、テオが話の続きを説明し、フィオナも穏やかに頷いてくれる。
アリシアはその輪の中へ入った。
誰かに無理やり連れてこられたわけではない。
役割を与えられたからでもない。
自分が、そこにいたいと思ったからだった。
◇
やがて、夕方の鐘が鳴った。
学生たちはそれぞれ帰り支度を始め、アリシアもメリルたちへ別れを告げて中庭へ戻った。
ノアは約束どおり、花壇の近くで丸くなっていた。
アリシアが近づくと、黒猫は片目を開け、少しだけ不満そうに尻尾を動かした。
「遅えぞ。俺を待たせるとは、ずいぶん偉くなったもんだな」
「……ごめん。でも、ちゃんと戻ってきたよ」
ノアは鼻を鳴らした。
「まあな。お前が楽しそうだったから、少しくらいは待ってやっただけだ」
アリシアは小さく笑った。
それから、ノアの隣へしゃがみ込む。
「……ねえ、ノア」
「今度は何だ?」
「私、《黒月》に選ばれてよかったって……今は思ってる」
ノアは金色の瞳を細めた。
アリシアは言葉を続けた。
「最初は怖かった。自分だけ違う力を持ってることも、知らない人に見られることも、何か大きな役割を与えられることも……全部怖かったの」
夕暮れの風が、アリシアの髪を揺らした。
「でも、《黒月》があったからノアに会えた。メリルたちとも、たくさん話せた。怖いこともあったけど、誰かを助けたいって思えたし……自分で選んでいいんだって、少しずつ分かったから」
ノアは黙って聞いていた。
「……だから、選ばれたことだけが大切なんじゃないんだと思う。選ばれてから、私が何を選ぶかも、大切なんだよね」
少し長い沈黙が流れた。
やがて、ノアはゆっくり口を開いた。
「……そうだな。神器に選ばれたからって、お前の人生が全部そいつのものになるわけじゃねえ。エルヴィナだってそうだったし、お前だってそうだ」
アリシアは静かに頷いた。
「……うん」
「お前は昔の誰かの代わりじゃねえ。エルヴィナの名前を覚えていたって、あいつと同じ道を歩かなきゃならねえわけじゃない。お前はお前の好きなところへ行けばいい」
その言葉に、アリシアの胸が温かくなった。
自分がどこへ行きたいのか。
何をしたいのか。
これから先、まだ分からないことはたくさんある。
けれど、それを今すぐ決める必要はなかった。
「……私ね、これからも学園で勉強したい。メリルたちと一緒に、もっと魔法を練習したいし……生活観測区画の子供とも、また絵を描きたい」
アリシアは少し照れくさそうに笑った。
「それから、ノアと一緒に、いろんな場所へ行ってみたい。怖い場所もあるかもしれないけど……行きたいって思ったら、自分で決めてみたいの」
ノアは呆れたように鼻を鳴らした。
「まったく、ずいぶん欲張りになったじゃねえか。昔は部屋から出るだけでも大騒ぎしてたくせによ」
「……それは、言わなくてもいいでしょ」
「事実だろ」
アリシアは少し頬を膨らませた。
けれど、すぐに笑ってしまった。
ノアも満足そうに尻尾を揺らしている。
夕暮れの中庭には、帰っていく学生たちの声が静かに響いていた。
遠くでは、生活観測区画の窓に明かりが灯り始めている。
そこでは今日も、子供が自分の過ごし方を選び、顔のない存在が誰かに急かされることなく静かな時間を過ごしているだろう。
古い目録の六番目の空白について、すべての理由が判明したわけではない。
帰還印や、東側と西側で観測された反応についても、確かめるべきことは残っている。
けれど、アリシアはもう、それらの答えが出るまで自分の人生を止めておこうとは思わなかった。
失われた名前は、ノアの記憶の中に残っていた。
そして今日、その名前は新しい記録へ残された。
いつか古い神殿の刻銘を確かめる日が来るかもしれない。
その時には、また新しく分かることもあるだろう。
けれど今は、ノアが教えてくれた名前を大切に覚えていたい。
エルヴィナ。
かつて闇の神器を持ち、誰かの選択を守ろうとした一人の継承者。
そして、今ここにいる自分は、アリシア。
闇の力を持ち、人見知りで、少し怖がりで、時々考えすぎてしまう。
それでも、友達と笑い、困っている人に声を掛け、自分の意思で誰かのそばにいたいと願う、一人の少女だった。
「……帰ろう、ノア」
アリシアは立ち上がり、黒猫へ手を差し出した。
ノアはその手を一度見上げたあと、いつものように鼻を鳴らした。
「おう。今夜もちゃんと飯食って、さっさと寝ろよ。明日も授業があるんだからな」
「……分かってるよ」
「それと、また夜中まで帳面を書いてたら、今度こそ取り上げるからな」
アリシアは楽しそうに笑った。
「……じゃあ、ノアも一緒に早く寝てね」
「俺はいつだって寝るのが仕事みてえなもんだろ」
二人は並んで歩き始めた。
夕陽が中央学園の屋根を照らし、石畳の上には少女と黒猫の影が長く伸びている。
アリシアはその影を見つめ、少しだけ微笑んだ。
かつては怖かった、自分の闇。
けれど今は、その影が自分の足元にあることを、自然に受け止められる。
誰かを縛るためではなく、誰かが自分の意思で歩けるように。
自分自身もまた、選ばれた役割だけに縛られず、これからの人生を選んでいくために。
アリシアはゆっくり顔を上げた。
帰り道の先には、寮の温かな明かりが見えている。
明日になれば、また授業があり、友達と会い、新しいことを学ぶだろう。
失敗することもあるかもしれない。
怖くなって立ち止まる日も、きっとある。
けれど、その時には誰かへ相談してもいい。
助けてもらってもいい。
そして、自分の足で歩き出したくなったら、また進めばいい。
アリシアは隣を歩くノアへ、もう一度だけ視線を向けた。
彼は何も言わず、いつものように尻尾を揺らしている。
その姿が嬉しくて、アリシアは静かに笑った。
(……ありがとう、《黒月》。私を選んでくれて)
そして、心の中でもう一つ付け加えた。
(……でも、これからは私も、自分の未来を選んでいくね)
忘れられていた六つ目の神器。
その闇に選ばれた少女の物語は、ここで一つの区切りを迎える。
けれど、アリシア自身の人生は終わらない。
明日も、その次の日も。
友達と笑い、ノアと喧嘩をし、時には怖がりながら、それでも自分の足で歩いていく。
彼女が選ぶ未来は、まだ誰にも決められていない。
そして、それでよかった。
夕暮れの道を歩く少女と黒猫の影は、やがて寮の明かりの中へ溶け込んでいった。
その先には、まだ知らない明日が待っている。
けれど、今のアリシアはもう、その明日を怖いものだと決めつける必要はなかった。
自分で選び、大切な人たちと歩いていけるのだから。
――完――




