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『忘れられた六つ目の神器に選ばれました 〜人見知りな闇の少女と毒舌黒猫の学園英雄譚〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第329話 消されなかった宛先と、まだ呼ばれていない名前


朝の食堂へ向かう途中、アリシアは廊下の窓に映る自分の姿を見て、歩く速さを少し緩めた。昨日、グラン先生の監督のもとで《黒月》の影を広げた時、離れた机で椅子が鳴り、怖さが五まで上がった。自分から相談して安全に終えられたのだから、今朝まで落ち込む必要はないはずなのに、窓ガラスに映った肩は少しだけ強張っていた。


窓の外では、雨上がりの庭に薄い朝靄がかかり、遠くの校舎の屋根だけが先に光を受けている。アリシアは胸元へそっと手を添え、冷えや痛みがないことを確かめると、息を吐いて肩の力を抜いた。昨日の怖さを忘れたことにするのではなく、今日の身体がどう感じているかを今日の自分で確かめたかった。


「ずいぶん丁寧な朝の点検だな。昨夜、ちゃんと寝たんじゃなかったのか」


ノアが足元から顔を上げた。黒い毛並みには窓からの淡い光が細く映り、金色の瞳はいつものように遠慮なくアリシアを見ている。彼は昨夜も早く休むように言ってくれたし、眠る前に余計な質問を重ねなかった。


「……眠れたよ。でも、昨日のことを考えると、少し緊張するの。ちゃんと相談できたって分かってるのに、おかしいね」


「おかしくも何ともねえよ。怖かったことを思い出したからって、昨日の判断が間違いになるわけじゃねえ。次も怖くなったら止めりゃいいし、その前に相談したって構わねえ。大事なのは、お前が自分の具合を誰かの期待より後回しにしねえことだ」


アリシアはしゃがんでノアへ目を合わせた。ありがとう、と言おうとして、代わりに少しだけ笑う。ノアは礼を言われる前から何か察したらしく、鼻を鳴らして先へ歩き出した。


「腹減った。説教より先に朝飯だ。お前がまた食べるのを忘れたら、今度こそ食堂で騒いでやるからな」


「……忘れないよ。今日は温かいものを食べたいな」


食堂には焼いたパンの香りが満ち、厨房の近くでは職員が湯気の立つ器を盆へ並べていた。アリシアは朝食を選んで窓際の席へ座り、外の靄が少しずつ薄くなっていくのを眺めた。昨夜までの記録を鞄から取り出そうとはせず、まずは温かい食事を味わうことにした。


◇


中央学園の東側階段には、登校した学生たちの靴音が絶え間なく響いていた。北側連絡廊下の封鎖は続いているが、迂回路を示す補助案内は今朝も見やすい位置にあり、何人かの下級生は友人と話しながら迷わず東へ曲がっていく。アリシアは仕切りを遠くから一度見ただけで、必要以上に立ち止まらなかった。


教室の入口では、メリルがフィオナと並んで、授業の予定を確かめていた。アリシアが挨拶すると、二人とも顔を上げる。メリルの声にはいつもの明るさがあったが、アリシアの表情を見て、すぐに別の話を始めようとはしなかった。


「おはよう、アリシア。昨日は、帰ってから身体の具合はどうだった? 先生に相談して影を戻したあと、ちょっと疲れて見えたから」


「……おはよう。夜は少し眠かったけど、朝には大丈夫だったよ。今も、痛いところも息苦しさもないの」


「そっか。よかった。でも、今日は昨日の分まで頑張ろうなんて思わなくていいからね。私も、何か練習するなら先生の指示を聞いてからにするよ」


アリシアは頷き、フィオナへも目を向けた。フィオナは話のすべてを知っていたわけではないため、事情を尋ねてはいけないのか少し迷っているようだったが、アリシアの方から昨日の影の演習を途中で終えたことだけを伝えると、静かに耳を傾けた。


「怖さが強くなったから、安全の決まりに従って終えたのね。私は細かいところまでは分からないけれど、ちゃんと伝えられたならよかったと思うわ。昨日の実習で、私たちも止まることを練習したばかりだもの」


フィオナの言葉には、事情を全部聞き出そうとする気配がなかった。アリシアは自分が伝えたい範囲を自分で決められたことに安堵し、鞄を席へ置いた。すぐあとにエドガーとテオも入ってきたが、皆は午後の授業へ必要な道具の話を始め、アリシアの演習のことを大勢の前で話題にすることはなかった。


始業前のわずかな時間に、メリルは前日まとめていた安全確認の質問案を見せた。五人で提出した改善案は、正式な安全条件が整うまで「受理、実施は保留」とされている。今日の紙に書かれているのは、それを勝手に変える新しい手順ではなく、授業担当者へ尋ねたい事項だけだった。


「先生に渡す前に、もう一度みんなで読んでおきたいんだ。返事がない時にいつまで待つか、停止の声と札が食い違った時にどうするか、それから、声を出せない人がいた時のこと。ほかに気になるところがあったら言ってね」


エドガーは前回の記録を指で押さえ、どの場面から生まれた質問なのかを確認した。テオは操作中にすぐ返答できない場合があると補足し、フィオナは停止の札を掲げても全員から見えるとは限らない点を付け加えた。アリシアは五人の声を聞きながら、思ったことを一つだけ伝えた。


「……返事を待つ時に、待っている人が何をしていいか分からなくならないようにしたい。私も、あの時は止めていいか迷ったから。でも、先生の決まりを変えてまで試すんじゃなくて、まず相談したいな」


「うん。そこの書き方を少し直そう。私たちが決めたことみたいにならないように、『確認したいこと』って分かるようにね」


メリルが笑って紙を引き寄せると、アリシアも筆を取った。誰かの提案をそのまま自分のものにするのではなく、どこを直すのかを皆に確かめてから短い言葉を添える。教室のざわめきの中でそんな時間を過ごせるようになったことが、アリシアには嬉しかった。


◇


午前の後半、教師は提出された質問案を受け取り、まだ実習へ適用しないことを改めて確認したうえで、全員へ短い説明を行った。安全のための合図が複数ある場合、どれか一つでも停止を示したなら、操作を続けてよいと独断で考えない。再開には別の確認が必要であり、その手順は器具ごとに教師が定める、という内容だった。


「皆さんが考えた案は、安全手順を改善する材料にはなります。ただ、意見が通ったかどうかだけで学びを判断しないでください。今の手順のどこで迷いが生じたのか、なぜ別の確認が必要なのかまで説明できることが大切です」


アリシアは記録紙に必要な部分を書き留めた。どんなに親切な提案でも、それがほかの学生にも同じように安全とは限らない。昨日、自分の影を置く練習を途中で終えた時にも、グラン先生は形を整え直すより先に、安全な手順で戻すことを優先してくれた。


今日は大きな魔力を使う課題ではなく、五人で前回の記録を読み合わせた。エドガーが「自分は相手の視線を返事と考えてしまった」と話しても、誰もその一行を消そうとはしない。テオは操作していた時の事情を自分の言葉で説明し、フィオナも停止札を出した位置から見えなかった場所を付け加えた。


教師が巡回してきた時、アリシアは一度だけ手を上げた。前なら皆が質問するのを待っていたところだったが、今日の疑問は自分の口から伝えたかった。


「……質問してもいいですか。停止した記録を残す時、止めた人の名前だけを書いてしまうと、その人が原因だったみたいに読めることがあると思うんです。どの状態を見て停止したかも、一緒に書いた方がいいですか」


教師は頷き、記録紙の二つの欄を示した。誰が停止を申し出たかという事実と、停止が必要になった状態は別々に残す。これまでの実習でもその扱いをしていたが、読み手に誤解を与えないよう、欄の内容をもう一度確かめることは大切だという。


「もちろんです。停止を申し出たことが問題の原因だと受け取られないよう、確認できた状態と判断の経緯を残してください。記録はあとから学ぶためのもので、誰か一人に責任を押しつけるためのものではありません」


アリシアは礼を言って席へ戻り、自分の紙の端へ短く補足した。メリルが隣で微笑み、フィオナも一度だけ頷いてくれた。ほんの小さな質問だったが、以前の自分なら教師へ声を掛けるまでにもっと長く迷っていたかもしれない。


授業が終わる頃、窓の外の靄は消え、木々の向こうまで明るくなっていた。エドガーは皆の記録を束ねようとして、一枚だけ提出前の確認が必要な紙があることに気づき、持ち主へ返した。急いで揃えてしまうより、誰の記録かを確かめてから扱う方がよいと考えたらしい。その様子を見て、テオが小さく笑った。


「前なら、まとめて一度に提出してたかもしれないね。でも、誰の紙か分からなくなったら、あとで困るものね」


「そうだな。毎回慎重になってたら時間がかかるけど、間違って人の記録を混ぜる方が面倒だって、ようやく分かってきた」


エドガーの返事にメリルが笑い、アリシアも頬を緩めた。安全のために立ち止まることが、誰か一人の勇気だけに頼らず、少しずつ班全体の習慣になりつつあった。


◇


その日の昼過ぎ、グラン先生のもとへ中央記録室から二つの回答が届いた。片方は北側設備の封鎖に関する現場の確認状況で、もう片方は、仮設記録器から発せられた二通知の一次受付控えについての照会結果だった。


現場側の回答では、立入制限と迂回措置を継続する方針に変更はなかった。案内板と補助表示の改善後、一般学生の通行に大きな支障が出たという報告はなく、引き続き別の方向からの見え方も確認するという。これまでの情報と矛盾するものではないため、先生は該当する管理欄を更新した。


問題は、二つ目の回答だった。以前の調査で、一方の一次受付控えには『取扱先確認』という記載があり、その通知の宛先欄に古い形式の部署符号が使われていたことが分かっている。先生は古い符号が使われていた時期と、実際にどの部署へ引き継がれたのかを管理担当者へ照会していた。


今回、正式な符号対照表と当時の適用期間を調べた結果、対象の通知が作成された時点では、旧形式の符号を新しい宛先へ読み替えて使う移行措置が有効だったと確認された。少なくとも古い符号が書かれていたという理由だけで、宛先が誤っていたとは言えない。符号の新旧が混在していたこと自体も、制度上あり得る状態だった。


グラン先生はその一文を二度読んだ。旧符号を使用したことが不正や誤配送の証拠になると決めつけていれば、今日の照会結果を誤って受け止めていただろう。対照表を確認する前に原因を断定しなかったのは、正しい判断だったと思った。


(……旧符号は当時まだ有効だった。だからといって、受信側まで滞りなく進んだと証明されたわけではない。しかし、少なくとも『古い符号だから誤っていた』という説明は、そのままでは成立しないな)


もう一つの報告には、取扱先の確認と受信一覧への登録とを結ぶ記録について、現存する照会先が示されていた。一次受付控えに残された『取扱先確認』の記載が、具体的な確認作業へ引き継がれたかどうかを調べるため、別部署で保管する移管・照合関係の記録を参照する必要があるという。


その中には、以前から封緘維持の扱いになっている資料群も含まれる可能性があった。だが、管理担当者が示したのは、封を勝手に開けてもよいという許可ではない。照合対象と管理責任の所在を整理し、必要な範囲を決めてから正式な開封判断を求められる段階に進んだ、ということだった。


グラン先生は椅子の背へ一度身体を預けた。長く続いた照合の中で、管理外の推測を増やすよりも、開けられない理由を一つずつ確かめることに時間を使ってきた。今なら、誰が何を確かめる必要があり、開封後にどこへ記録を戻すべきか、以前より具体的に説明できる。


先生は許可申請の写しと、確認目的を整理した書類を手元へ寄せた。封緘資料の開封が認められるとしても、確認するのは許可された範囲だけであり、関係のない文書を自由に調べられるわけではない。確認の日時と立会人、取り出した資料の扱い、再封緘の手順まで決める必要がある。


書類を送り終える前に、先生は少し筆を止めた。古い目録の六番目の空欄は、今も意味が確かめられていない。千年前の六人と現代の五人について伝わる記録、闇の箱や帰還印、東側から西側へ見られた反応も、それぞれに確定できる部分と未解決の部分がある。北側の通知の受信先を確かめることだけで、これらが一度に解けるわけではない。


(……それでも、封を開ける理由を正しく説明できなければ、探している確認票の所在をいつまでも確かめられない。答えを急ぐためではなく、資料を守ったまま次の確認へ進むために必要な手順だ)


先生は申請の文面を改めて読み、必要な範囲が広すぎないことを確かめてから提出した。午後の風が窓を揺らし、机の端に置いた別の教材の紙を一枚だけ持ち上げる。グラン先生はその紙を押さえ、返事が届くまでは決定した扱いにしないよう、管理欄の状態を『審査中』のまま残した。


◇


放課後、アリシアはメリルと一緒に中庭を歩いていた。途中まで同じ方向へ帰ることになり、二人は授業の振り返りを話しながら、花壇の脇をゆっくり進んでいる。午後の授業を終えた学生たちの声が遠くに聞こえ、昨日までの雨で色濃くなった土から、まだ少し湿った匂いが漂っていた。


「今日は先生に質問できたね。アリシアが手を上げた時、私も嬉しかったよ」


メリルに言われ、アリシアは少しだけ頬を赤くした。人に見られていたと気づくと恥ずかしくなるが、今回は隠れてしまいたいほどではなかった。


「……緊張したよ。でも、聞かないままだと、停止した人の名前だけ残るのが少し怖かったの。あの時は皆で止まったのに、あとで読む人が違うふうに受け取ったら嫌だから」


「うん。先生の答えを聞けてよかったね。私、あの記録を読む時、アリシアが止めてくれたことを思い出すけど、そこだけが全部じゃないって分かってるよ」


メリルは歩きながら、片手に持っていた教科書を鞄へしまった。アリシアはその仕草を眺めてから、ずっと胸の中で考えていたことを少しずつ言葉にした。


「……私、最初にここへ来た頃は、知らない人に自分の名前を呼ばれるだけでも、すごく緊張したの。何か失敗したのかなって、すぐ思ってたから。でも、今はメリルが呼んでくれると、安心する」


メリルは驚いたように足を止めた。風に揺れた髪を耳へ掛け、アリシアの顔をしばらく見つめる。その間にアリシアは、自分が思い切ったことを言ってしまったと気づき、胸の奥が熱くなった。


「……ごめん、急に変なこと言って」


「変じゃないよ。私も、アリシアの名前を呼ぶの好きだもん。初めの頃は、声を掛けたら驚かせちゃうかなって思うこともあったけど、今は話したいことがあったらちゃんと呼べる。それって、私も嬉しいことなんだよ」


メリルはそれから、少し笑って続けた。


「名前を呼んだから返事をしなきゃ、って思わなくてもいいんだよ。教室で集中してる時ならあとで話せばいいし、気持ちが落ち着かない時はそう言ってくれてもいい。でも、アリシアがそこにいるって分かると、つい呼びたくなるんだよね」


アリシアの胸へ、柔らかな温かさが広がった。相手の気持ちをすべて引き受けなければならないわけではないのに、自分がいることを嬉しいと言ってもらえる。その言葉を、以前ならうまく受け取れなかったかもしれない。


「……ありがとう、メリル。私も、呼びたい時に呼んでいい?」


「もちろん! でも、今はすでに一緒に歩いてるよ?」


「……それでも、呼んでみたくなったの」


メリルは一瞬きょとんとしたあと、楽しそうに笑った。アリシアもつられて笑い、二人はまた歩き出す。道の先で分かれる時、いつものように明日の授業で会おうと約束したが、特別な時間や場所は決めなかった。それでも二人は、会えることを自然に楽しみにできた。


◇


生活観測区画の共有室へ着いた時、アリシアは窓辺に飾られた絵が、昨日と同じ場所にあることに気づいた。小さな黒猫の絵は陽光を受けて明るく見え、子供はその下の机で、紙の箱を開いて何かを探している。箱の中には以前作った紙の橋が残されており、折り目のついたものと、まだ形を保っているものが丁寧に分けられていた。


「こんにちは、アリシア! 今日はね、橋をもう一回出してみようと思ったの」


子供は嬉しそうに顔を上げ、少し長めの橋を一つ取り出した。以前は使うかどうかを顔のない存在へ尋ね、返事を求めずに机の端へ残したことがある。けれど、今日の子供はそれを思い出させようとしているわけではなく、ただ自分でまた遊びたくなったようだった。


「……こんにちは。橋、ちゃんと残してあったんだね。今日は何を渡すの?」


「まだ決めてないの。でも、小さい木の駒を一個ずつなら渡せるって、前に分かったでしょ。もう一回試したいんだ」


アリシアは隣へ椅子を引き、子供が木の駒を並べる様子を見守った。机の端に橋を置くと、片側の支えが少し傾いたため、子供は自分で木の駒の位置を変えてみる。アリシアは手を貸した方が早いと思いかけたが、子供が困った顔をしていないことに気づき、そのまま待った。


「よし、これなら大丈夫かな。アリシア、最初は一個だけ渡してみてもいい?」


「……うん。どうなるか、一緒に見よう」


子供は橋の端へ駒を置き、慎重に押した。紙は少したわんだが、駒は向こう側まで渡りきる。子供は満足そうに笑い、今度は二個を同時に渡そうとはせず、二つ目も一個ずつ動かしていった。


その間、顔のない存在は少し離れた場所にいた。以前から時折見られる、自分で窓辺へ近づいたり離れたりする動作が、今日も自然に続いているかどうかは分からない。アリシアは子供の遊びを見ながら、顔のない存在を監視するように視線を向け続けないようにしていた。


やがて子供は駒を渡し終え、紙の橋を持ち上げて形を確かめた。曲がったところを少しだけ直すと、今度は橋を机の中央ではなく、端の空いた場所へ置いた。


「これ、今日はここに置いておこうかな。使いたくなったら誰でも使っていいけど、使わなくてもいいよ。前に言ったのと同じだけど、今度は片づける時もちゃんと教える」


子供は誰か一人に向けて言ったのではなく、机に置いた橋を見ながらそう話した。アリシアは、自分が作ったものを誰かに渡す時の言葉が、少し変わっていることに気づいた。使ってほしいと願う気持ちはあるのかもしれないが、相手が使わない場合にも、無理に返事を求めなくなっている。


その時、顔のない存在がゆっくりと机の方へ向きを変えた。アリシアは動き始めを見ていたが、何を見ようとしたのかまでは分からない。子供も顔を上げたものの、橋へ近づくよう誘うことはせず、空いた椅子に座ったまま静かに待った。


顔のない存在は少し近づき、机の端で止まった。以前、子供が橋を使ってもいいと伝えた時には、手を近づけるだけで触れなかった。今日も同じように手が持ち上がったため、アリシアは思わず息を止めかけたが、自分の反応で相手を急かさないよう、ゆっくり呼吸を戻した。


長い指先が紙の橋の端へ近づき、その縁へほんのわずかに触れた。橋は落ちず、木の支えも動かなかったが、紙の角だけが小さく揺れる。アリシアが見ている範囲では、確かに接触があった。


子供もそれを見たらしく、目を丸くした。けれど、喜びの声を上げて抱きついたり、もう一度触れてほしいと頼んだりはしなかった。膝の上で両手を握り、少し震えるように笑ったあと、自分の気持ちを静かに言葉にした。


「……触ってくれたんだね。ぼく、ちょっと嬉しい」


返事はなかった。顔のない存在は指先を引き、そのまま少し離れた場所で動きを止めた。触れた理由も、子供の言葉をどう受け取ったかも、アリシアには分からない。


それでも、子供が嬉しそうだったことは分かった。アリシアはすぐに意味を尋ねるのではなく、相手へ伝えられたその気持ちを、そっと受け止めた。


「……嬉しかったんだね。私も、今見たことを覚えておくよ。でも、もう一回してもらわなくてもいいんだよね」


「うん。今日はこれだけでいい。橋が壊れなかったし、また遊べるから」


子供は橋を持ち上げて折り目を確かめ、箱へしまう前に担当者へ片づける場所を尋ねた。今日も残しておきたいとの希望を伝えると、担当者は以前と同じ保管箱を使えることを確認し、橋がほかの物に押しつぶされないよう置き方だけ手伝った。


アリシアは顔のない存在が触れた瞬間を思い出しながら、胸の内に生まれた期待を落ち着かせた。自分から手を動かし、紙の橋へ触れたという観察事実は残せる。しかし、それが何かを受け入れた意思表示なのか、紙の感触を確かめたかったのか、偶然の動作なのかは分からない。


以前の東西観測や六つ目の神器の仕組みと結びつけられる理由もなかった。ただ、子供が作ったものへ触れる動きが、今日初めてアリシアの目の前で確認された。その小さな変化を、ほかの意味へ書き換えず残しておきたかった。


◇


共有室を出る前、アリシアは担当者へ、顔のない存在が橋の端へ触れたことを報告した。動き始めから見ていたこと、子供がその直前に改めて誘導したわけではないこと、接触は一度だけで、指先が紙の縁に触れたあと引かれたことを順番に説明する。担当者は必要な範囲を記録し、同じ動作を再現させるような働きかけは行わないと確認した。


「子供が嬉しかったと話したことも、本人の言葉として残しておきます。ただ、触れた理由をこちらで決めてしまわないようにしましょう。今までどおり、本人たちの生活の中で自然に起きたことを確認する形にします」


「……はい。もう一回触ってほしいとは、私も言いませんでした。あの子も、今日はこれだけでいいって話していたので」


担当者は穏やかに頷いた。アリシアは胸の奥が少し温かくなるのを感じ、紙の橋をしまった箱へ一度だけ目を向けた。誰かが触れたことで橋の役割が変わったわけではないが、子供にとっては忘れたくない出来事になったのだろう。


廊下へ出ると、ノアが隣へ並んだ。いつもより言葉少なだった黒猫は、しばらく歩いてから低い声を出した。


「今日のあれは、見たまま残した方がいいな。俺だって、あいつが何を考えて触れたかまでは分からねえ。勝手に『返事が来た』って決めつけたら、あの子が別のことを考えたくなった時に困る」


「……うん。でも、あの子が嬉しかったって話してくれたのは、私も嬉しかった。返事の意味は分からなくても、自分の気持ちは話していいんだよね」


「そういうこった。それに、相手がどう思ったか知らねえからって、自分の嬉しさまで隠す必要はねえだろ」


アリシアは小さく笑い、歩きながらノアの背中へ目を向けた。自分の気持ちを伝えるのが苦手だった頃、ノアは何度も背中を押してくれた。乱暴な言い方に腹が立つこともあったが、それでも彼は、返事を急いで出せないアリシアのそばから離れなかった。


◇


夕刻、グラン先生の部屋へ一通の正式な通知が届いた。昼過ぎに申請した封緘資料の確認について、管理責任者が立会いを伴う限定的な照合を認める方向で手順を整え、翌日の確認枠を確保したという知らせだった。まだすべての資料を自由に閲覧できるという意味ではなく、対象の保管単位、確認目的、立会人、開封後の扱いが定められた範囲でのみ実施するという条件が記されていた。


先生は通知を読み、すぐにアリシアへ全容を伝えるべきか考えた。彼女は当事者として気に掛けているものの、管理作業を担う立場ではない。確認の場へ同席させる必要があるのか、内容により本人へどのように共有すべきかも、勝手に決めることはできなかった。


(……重要なのは、彼女を答えの前へ無理に立たせることではない。必要な説明を受けられるようにしながら、関わり方を選べる余地を残すことだ)


グラン先生は管理側への返書に、照合後に共有可能な結果を整理して説明することを求めた。古い記録が何を示していようとも、見つかった内容と、まだ解釈が必要な部分を分けるためである。確認票が見つかるかもしれないし、目的の資料が入っていない可能性もある。そのどちらでも、見た範囲を越えて結論を作らないことが必要だった。


◇


夜、寮の部屋へ戻ったアリシアは、机の上へ帳面を開いた。窓の外では雲がゆっくり流れ、中央学園の屋根の向こうに夕焼けの名残がわずかに残っていた。ノアは寝台へ跳び乗ったものの、すぐには丸くならず、アリシアが筆を取るのをじっと見ている。


今日の記録には、まず五人の安全確認案について書いた。教師が質問を受け取り、正式な方法を検討してくれていること。停止を申し出た人の名前だけではなく、何を見て止めたかを別々に残す必要があること。まだ新しい手順として認められていない部分は、自分たちだけで試さないこと。その三つを、一つの出来事の中に整理した。


次に、グラン先生から昼間の照会結果について聞いていないことを確かめた。今日は自分が直接知っている新しい記録結果はない。以前聞いた『取扱先確認』と古い部署符号の関係について、まだ答えが出ていないものとして帳面に残し、先生が何か調べているだろうという推測は書き足さなかった。


生活観測区画の欄では、筆を動かす前に少し長く考えた。子供の紙の橋へ、顔のない存在の指先が一度だけ触れた。子供は嬉しかったと話したが、触れた側の意味は不明である。記録として残すなら、それだけでよいはずだった。


(……でも、私には、すごく大きな出来事に思えた。あの子が何度も橋を作って、使うかどうかは相手が決めていいって言えるようになって、それからようやく……今日、一度だけ触れたんだもの)


アリシアは筆を置き、窓の外を見た。生活観測区画では、返事を急がせない時間が少しずつ積み重なってきた。今日の一度の接触が何を意味するかは分からない。それでも、その間に子供が自分の遊びを楽しみ、相手へ何かを強制しないことを覚えてきたのは確かだった。


「今日は、あの橋のことを考えてんのか」


ノアの声に、アリシアは顔を上げた。黒猫は寝台の端に座ったまま、いつものように鋭い目を向けていたが、その声には少しだけ柔らかさがあった。


「……うん。あの子、嬉しかったって言ってたでしょ。私も嬉しかった。でも、それが何の返事だったのかは分からないから……ちゃんと分けて書こうと思って」


「そいつでいい。相手が触れたってことと、お前らが嬉しかったってことは、どっちも嘘じゃねえ。片方をもう片方の証明にしなきゃならねえわけでもねえだろ」


アリシアは静かに頷いた。今日の帳面の最後へ、小さく一文を書き加えた。


『誰かの返事を待つ間にも、その人と同じ場所で生きていていい』


書き終えた時、ノアが珍しく何もからかわなかった。アリシアはその静けさに気づいて振り返ったが、黒猫は窓の外を見ている。少し長い沈黙のあと、彼は寝台から降り、机の近くまで歩いてきた。


「なあ、アリシア。前に、六つの神器が最後に集まった神殿の話をしたのを覚えてるか」


アリシアは筆を持ったまま動きを止めた。かつて六人の名が刻まれていたという場所のことを、ノアは以前に教えてくれた。ただ、その中にいた闇の継承者の名前について尋ねた時には、今は話したくないと言っていたはずだ。


「……覚えてる。ノアは、名前を知ってるって言ってた。でも、まだ話したくないって……」


「そうだ。あの時は話したくなかった。お前に知られたら何が変わるのか、俺だって分からなかったからな。名前を教えた途端に、お前が背負わなくていいもんまで背負うんじゃねえかって、勝手に考えてた」


いつもの毒舌とは違う声だった。アリシアは驚いたが、すぐに答えを求める気にはならなかった。ノアが長い間その名前を胸にしまってきたのなら、話すかどうかを決めることも、彼自身にとって簡単ではないのだろう。


「……ノア。私、知りたい気持ちはあるよ。でも、ノアが話すのがつらいなら、無理に今聞こうとは思わない。私が知らないままでも、ノアと一緒にいることは変わらないから」


ノアは金色の瞳を細めた。何かを言い返そうとして、口を開きかけたまま少し黙る。部屋の外では遠くの扉が閉まる音がし、そのあと静けさが戻った。


「……お前、昔よりずいぶん生意気になったな。前なら、俺が何か知ってるってだけで、自分が知らねえことを責めてたくせによ」


アリシアは少しだけ笑った。図星だったから、反論しようとは思わなかった。


「……うん。前は、分からないことがあると、私が足りないからだって思ってた。でも今は、誰かの名前を知る前に、その人が話したいかどうかも大切にしたいの」


ノアは一度、短く息を吐いた。窓から入る月明かりが、その黒い背を細く照らしている。彼が何を思い出しているのか、アリシアには分からない。ただ、いつものように話を逸らすのではなく、そこに留まってくれていることが分かった。


「俺はあの名前を忘れてねえ。誰がどう書き換えようと、呼ばれなくなったからって消えちまうような名前じゃねえんだ。……だからこそ、ずっと口にできなかった」


アリシアは両手を膝へ置き、ノアと目を合わせた。胸の奥は少し速く脈打っていたが、怖さが大きく跳ね上がることはなかった。知りたいという気持ちも、相手に無理をしてほしくないという気持ちも、同じようにそこにある。


「……ノア。話してくれるなら、ちゃんと聞くよ。すぐに答えを出せなくても、その名前を大切にしたい。でも、何もかも私が引き受けなくてもいいんだよね」


「当たり前だ。昔の連中の選択を、お前一人の責任にするつもりなんざねえよ。俺が今まで黙ってたことだって、お前のせいじゃねえ」


ノアは少しだけ視線を落とし、また顔を上げた。アリシアは急かさず、その次の言葉を待った。部屋の中には、帳面を開いたままの机と、静かな月明かりだけがあった。


「明日、俺から話したいことがある。六つの名が刻まれたあの場所のことと、俺がずっと呼べずにいた、闇の継承者の名前のことだ。お前が聞きたいなら……今度は、逃げずに話す」


アリシアはすぐには返事をしなかった。今までノアが何度も自分を助けてくれたこと、答えを急がせずにいてくれたことを思い出す。過去に何があったかはまだ知らないが、その名前を口にしようと決めたこと自体が、ノアにとって大きな一歩なのだと感じた。


「……うん。聞きたい。明日、ノアの言葉で教えてほしい。私も、分からないことがあったら、ちゃんと質問するね」


ノアはいつものように皮肉を返そうとしたらしいが、結局は小さく鼻を鳴らすだけだった。机の脇から寝台へ戻る足取りは静かで、その尻尾はいつもよりゆっくり揺れていた。


アリシアは帳面を閉じ、灯りを落とした。北側連絡廊下の調査が明日どう進むか、彼女にはまだ分からない。封緘資料の中身も、欠落した確認票の行方も、古い目録の空欄も、今は答えのないままである。


それでも、今夜は一つだけ、これまでと違う約束が生まれた。ノアが自分から過去の名前を話したいと言い、アリシアが聞きたいと答えた。その約束は、誰かに命じられたものではなく、二人がそれぞれの気持ちで選んだものだった。


寝台へ入ると、ノアはいつものように足元で丸くなった。アリシアは窓の外に浮かぶ月を一度だけ見てから、ゆっくり目を閉じる。明日聞く名前が何を変えるのかは分からないが、その前に、今夜のノアがそばにいてくれることを確かめられたのが嬉しかった。


遠くで夜の鐘が響き、学園の窓明かりが一つずつ消えていく。アリシアはまだ知らない名前のために眠れなくなることなく、静かな夜の中で深く息をついた。そして、明日も自分の言葉で誰かと向き合えるようにと願いながら、穏やかな眠りへ落ちていった。


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