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『忘れられた六つ目の神器に選ばれました 〜人見知りな闇の少女と毒舌黒猫の学園英雄譚〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第328話 古い宛先に残る余白と、影を置く場所


翌朝、アリシアが寮を出る頃には、昨日の雨はすっかり上がっていた。石畳の窪みにはまだ浅い水たまりが残り、庭木の葉先から雫が落ちるたび、朝日の中へ小さな輪が広がっていく。濡れた土の匂いはどこか懐かしく、廊下の窓を開けていた時には冷たく感じた風も、歩いているうちに心地よくなってきた。


足元を歩くノアは水たまりを器用に避けていたが、濡れた石の上で足を止めると、アリシアの鞄を見上げて目を細めた。朝の光を受けた黒い毛並みは艶やかで、金色の瞳には、いつものように少し呆れたような色が浮かんでいる。


「今日はいつもより荷物が多いんじゃねえか。まさか、昨日の書類を全部持ってきたわけじゃねえだろうな」


「……全部じゃないよ。実習で使う帳面と、先生に見せてもいいって言われた記録だけ。私のじゃない資料は、勝手に持ち出してないから」


「ならいい。知りたがるのはお前の勝手だが、知らねえ奴にまで中身を見せていいかどうかは別の話だからな」


アリシアは鞄の留め具を指で確かめた。昨日、グラン先生から一次受付控えについて聞いた時、二件の通知に対応する記載が実際に残っていたと知って、胸が高鳴った。片方の控えには『取扱先確認』という文字があったが、まだ誰が、いつ、何のために書いたのかは確定していない。自分が気になっているからといって、その内容を教室で自由に話すことはできなかった。


(……何でも隠さなきゃいけないわけじゃない。でも、誰かが管理している資料のことは、私が勝手に広めていい情報じゃないんだよね)


教室に向かう道では、昨日までの迂回路を使う学生たちが行き交っていた。北側連絡廊下は依然として封鎖されているが、補助案内が取り付けられてからは、曲がり角で足を止める人が目に見えて減っている。アリシアの前を歩いていた二人組も、東側へ向かう矢印を一度見ただけで会話を続けた。


「お、アリシア! おはよう!」


聞き慣れた声に顔を上げると、メリルが階段の踊り場で手を振っていた。待ち合わせをしていたわけではないが、同じ方向から来た学生たちの間で偶然会えたらしい。メリルは先に階段を上らず、アリシアが追いつくのを待ってくれた。


「……おはよう、メリル。昨日の雨、すごかったね」


「うん。帰る頃には靴の中まで冷たくなっちゃった。今朝は晴れてよかったけど、廊下の端に水が残ってるところがあるから、急いで走らない方がいいかも」


メリルは足元を確かめながら言い、隣へ並んだアリシアへ、今日の授業の予定について話し始めた。午後はグラン先生の監督で、本人が扱える範囲の魔力を確かめる基礎演習があるという。昨日までの合図引き継ぎの改善案は、教師が安全条件を確認するまで実施保留のままであり、今日いきなり新しい方法を試す予定はない。


「……私の影も、少しだけ使うのかな」


「先生からは、いつも通り無理のない範囲でって聞いたよ。私も見学するけど、止めたい時には遠慮なく言ってね。昨日みたいに皆がいるからって、頑張りすぎなくていいんだから」


アリシアは頷いた。闇の神器《黒月》に選ばれたことも、影を動かせることも、以前よりは受け止められるようになってきた。それでも、ほかの学生と同じように授業へ参加しているつもりが、いつの間にか自分の能力ばかり気にしてしまうことがある。メリルが声を掛けてくれると、そのことに少し早く気づけるのだった。


「……ありがとう。でも、今日は自分から言えるようにしたいな。何かあった時に、メリルだけに気づいてもらおうとするんじゃなくて」


「うん、その方が私も安心する。ただ、見落とすことだってあると思うから、私もちゃんと見てるよ」


二人は顔を見合わせて笑い、教室へ続く廊下を歩いた。ノアはその少し後ろからついてきたが、濡れた床を避けるために窓側へ寄った時、わざとらしく耳を伏せた。


「まったく、朝っぱらから真面目な話ばっかりだな。二人とも、まずは授業で寝ねえようにしろよ」


「……ノアは、朝から眠そうだよ」


「俺は必要な時に起きてりゃいいんだ。お前らとは違う」


メリルが堪えきれずに笑ったため、アリシアもつられて口元を緩めた。朝の空気にはまだ雨の冷たさが残っていたが、教室へ近づく頃には、胸の奥にあった小さな緊張も落ち着いていた。


◇


午前中、学園では一般授業のあとに短い班ごとの振り返りが行われた。アリシア、メリル、エドガー、テオ、フィオナの五人は、前日に提出した改善案の控えを机へ広げ、どこまでを自分たちで理解できているか確かめる。担当教師は、札と声のいずれかが停止を示した場合には安全側へ判断することが重要だと説明していたが、どの操作をどの順序で止めるかは器具によって異なるため、案をそのまま採用することは保留していた。


「昨日は、返事が来るまで待とうって話をしたけどさ。実際に灯りを使うなら、待ってる間ずっと魔力を維持しなきゃいけないのかも考えないとな」


エドガーが記録紙を指さすと、テオは頷いた。魔力灯を扱っていた時、自分がすぐに返事できなかった理由を皆へ伝えたことを覚えているらしい。


「僕が操作していた時は出力が小さかったけど、器具によっては待つだけでも負担になるかもしれない。だから返事がないなら、ただ待ち続けるんじゃなくて、どの状態で安全に止められるかを先生に確認する必要があると思う」


「それと、停止の札を持ってる人が皆から見える位置にいるとは限らないわ。私が出したから大丈夫って、自分で思い込まないようにしたい」


フィオナは自分の記録欄へ視線を落とした。以前は人前で説明することを怖がっていた彼女が、今は自分の判断に足りなかった部分を落ち着いて話している。その変化をアリシアは嬉しく思ったが、フィオナ自身はそれを大きな成長として語るつもりがないらしく、淡々と必要な点を確かめていた。


メリルは皆の話を聞きながら、改善案の横へ新しい紙を置いた。朝から集めていた考えを整理するように筆を動かし、それから四人へ顔を向ける。


「ねえ、これはまだ先生に出すものじゃないんだけど、次に質問したいことだけ書いておかない? 案そのものを何度も直す前に、何を知らないのか揃えておけば、相談もしやすくなると思う」


アリシアはその提案に賛成した。昨夜ノアと話した時、書類の内容を知らない相手へ勝手に伝えないことを考えていたが、今ここで扱っているのは、五人全員が参加した授業の記録だった。知っている範囲を互いに確かめることは、隠さなければならないこととは違う。


「……私、止めたい時に自分から言うことも大切だと思うけど、もし声が出なくなったら、どうすればいいのか知りたい。怖さが強い時に、必ず大きな声を出せるとは限らないから」


言い終えたあと、アリシアは少し頬を赤くした。自分の苦手な部分を皆の前へ出してしまった気がしたのだ。しかし、メリルは静かに頷き、エドガーもすぐには冗談を言わなかった。


「それ、俺も聞きたい。前にアリシアの小さい声を聞き逃したからな。誰かが声を出せなかった時でも、こちらが手順を守って止まれる方法は必要だと思う」


「うん。返事をした人がいるから進めるんじゃなくて、返事を確認できた人だけ進めるって決まりなら、黙っている時は勝手に進まないよね。そういう前提も、先生に確かめたい」


テオが続けると、フィオナも自分の紙へ書き加えた。五人の間に、ひとつの答えを急いで選ぼうとする空気はなかった。できるだけ多くの方法を試すことより、どの方法なら自分たちが安全に使えるかを知ることが先だと、皆が同じように理解していた。


振り返りの終了を知らせる鐘が鳴る頃、アリシアは机の上に並ぶ二枚の紙を見つめていた。一枚には、すでに受理されて実施保留になった案。もう一枚には、次に先生へ尋ねたい質問。どちらも自分たちの手で考えたものだったが、意味は違う。


(……直したいからって、勝手に変えてはいけないものがある。でも、分からないことを尋ねるのは、今でもできるんだ)


教師へ提出する前に皆で内容を読み合わせ、授業担当者が受け取れる形へ整えておくことになった。急いで完成させる必要はないと決まると、メリルはほっとした様子で伸びをし、エドガーは机の端に置いた教科書を鞄へ戻した。


◇


昼休みの食堂には、雨上がりの庭から湿った草の匂いが流れ込んでいた。窓際の席では、学生たちが濡れた靴を気にしながらも楽しそうに話し、厨房から届く温かな料理を受け取っている。アリシアたちは少し奥の長卓へ座り、朝の班の話し合いから離れて、今週の課題や好きな食事について話していた。


メリルが口にしたのは、先ほど廊下で見掛けた下級生のことだった。重たい教材を二冊抱え、階段の途中で持ち方を変えていたのを見て、手伝おうとしたものの、相手は自分で持ちたいと答えたという。


「最初は私も、遠慮してるのかなって思ったんだけどね。あの子、自分の鞄に一冊しまったらちゃんと歩けてたんだ。だから、一緒に運ばなくてもよかったみたい」


「手伝ってほしいって言われたわけじゃないなら、それでいいんじゃないか。無理に持とうとすると、余計に困らせることもあるしな」


エドガーはパンをちぎりながら答えた。以前は勢いよく人の手伝いを始めてしまうこともあった彼自身が、今は相手の意思を待つような言い方をしている。その変化に気づいたフィオナが少し笑うと、エドガーは何を笑われたのか分からない顔で二人を見た。


「……何だよ。俺、変なこと言ったか?」


「ううん。前より相手に確認するようになったなって思っただけ。昨日の実習のことも、少し関係してるのかしら」


フィオナが答えると、エドガーは照れくさそうに頭を掻いた。テオは静かに頷き、助けてもらうかどうかを選べることが相手にとって大切な場合もあると話す。アリシアはそんな会話を聞きながら、自分も以前、必要以上に何かをしてもらうと、かえって申し訳なくなったことがあったと思い出した。


「……私も、相手がどうしたいか聞いてから手伝いたいな。でも、危ない時は、返事を待つだけじゃいけないこともあるよね」


「そうだね。だから難しいんだと思う。危険が近いなら先に止めないといけないし、普段のことなら相手へ聞ける。全部同じ答えにはならないよね」


メリルはそう言って、水杯を持ち上げた。アリシアは友人の言葉に頷きながら、実習と生活観測区画の違いを思った。安全のために停止を求める場面と、誰かが遊ぶかどうかを選ぶ場面とでは、相手への関わり方も変わってくる。それぞれが大切にしていることを、ひとつの決まりへ押し込める必要はなかった。


食堂の入り口近くでは、学生たちが北側連絡廊下の封鎖について話していた。迂回路に慣れたという声の隣で、いつまで続くのか気になるという声もある。アリシアは耳に入った話を聞き流そうとしたが、少し離れた席で「記録に問題があるなら誰かの責任だろう」という言葉が聞こえ、指先が止まった。


自分は管理側から必要な範囲を教わっているが、その学生たちはどこまで知っているのだろう。知らない内容を説明すれば誤解を減らせるとは限らず、むしろ勝手に広めてはいけない情報を出してしまうかもしれない。アリシアは言葉を探しかけ、食堂全体を見渡した。


近くの学生は誰かを名指ししたわけではなく、そのまま授業の話題へ移っていった。アリシアはほっとしたように息を吐いたが、声を掛けなかったことに少しだけ引っかかりを感じた。


隣に座るメリルが、その変化に気づいたらしい。手元の匙を置き、ほかの三人の会話を邪魔しない声で尋ねた。


「何か気になった? 今、少し顔が曇ったように見えたよ」


「……北側のことを、誰かのせいって言ってる声が聞こえたから。でも、私も詳しいことを全部知ってるわけじゃないし、どう言えばいいのか分からなくて」


「そっか。誰かのせいって決めるのは違うと思うけど、聞こえた話全部に答えようとしたら疲れちゃうよね。もし誰かを名指しして責めるような話になったら、先生や職員へ知らせてもいいと思う」


メリルは無理に相手を追い掛けようとはしなかった。アリシアも頷き、目の前の食事へ視線を戻す。自分が知っている範囲を大切に扱うことと、無責任な噂を放っておくことの間には、簡単には決められない場面もある。それを今ここで解決する必要はないと思えた。


◇


午後の個別演習は、グラン先生が監督する実習室の一角で行われた。ほかの学生たちは別の机でそれぞれの課題に取り組んでおり、アリシアの周囲には十分な空間が確保されている。床には既定の安全範囲を示す印があり、道具を置く位置も事前に確認されていた。


先生はアリシアの手元と表情を見比べながら、今日の目的を改めて説明した。大きな魔法を使うのではなく、ごく薄い影を決められた位置へ置き、合図に合わせて消すことができるかを確かめる。疲労や怖さを無視してまで続ける課題ではなく、いつもの安全条件を優先することも確認された。


「今日は影を広げる広さを競うわけではないよ。指定された範囲へ置き、必要なら途中で止める。怖さが五になったら相談、六になったら停止。痛みや息苦しさは一でもすぐ知らせることを忘れないでね」


「……はい。始める前に、今の状態を確かめます」


アリシアは胸元へ手を当て、呼吸の落ち着きと指先の感覚を確認した。痛みや息苦しさはなく、胸の東寄りにあったことのある冷たさも感じない。緊張はあるが、開始前の怖さはいつもの実習より少し強い程度で、相談が必要な段階ではなかった。


メリルは監督位置から少し離れたところで見守り、ノアはアリシアの背後に座っていた。どちらも声を掛ける準備はしているが、アリシアの代わりに魔力を動かすことはない。彼女自身が開始を告げるまで、先生も手順を進めなかった。


(……できることを見せたい。でも、できるように見せるために無理をしたら、今日の練習とは違う。私が今どこまでできるかを、ちゃんと伝えよう)


「……準備できました。始めます」


アリシアが静かに魔力を巡らせると、足元の影が薄い布を引くように形を変えた。床の印に沿って広がる部分は小さく、窓から差し込む光の下で、濃さを変えながら落ち着いていく。以前は影が動き始めるだけでも身構えることがあったが、今は形が変わる様子を見ながら、広げるのではなく置くことへ意識を向けられた。


グラン先生は手元の記録を確かめ、指定した範囲の端を示した。影が予定された線を越えていないことを確認してから、落ち着いた声でアリシアへ問い掛ける。


「ここまでで十分だよ。今のところ、影は決められた範囲に収まっている。身体の状態はどうかな」


「……痛みも苦しさもありません。少し緊張していますけど、まだ大丈夫です」


アリシアは正直に答えた。先生は頷き、次の合図に合わせて影を戻す準備をするよう伝える。ところが、その時、実習室の反対側で椅子を引く大きな音がした。誰かが転んだわけではなく、道具を移動する際に脚が床へ強く触れたらしい。それでもアリシアの肩は反射的に跳ね、足元の影の端がわずかに揺れた。


以前なら、自分の反応を見られたことが恥ずかしくて、何事もなかったように続けようとしたかもしれない。今は、影の動きが変わったことを自分で分かった以上、知らせなければならないと思った。胸の奥に広がった怖さを確かめると、相談の段階に達している。


「……先生、怖さが五になりました。今、影の端も揺れたので……一度相談したいです」


言葉を出した瞬間、喉の奥が少し詰まるように感じられたが、呼吸そのものに異常はない。グラン先生はすぐに操作を進める合図を止め、今の出力を安全に落とすよう落ち着いた声で指示した。


「分かった。次へ進めず、今の手順で影を戻そう。無理に形を整え直す必要はないよ。私が確認するから、ゆっくり消して構わない」


アリシアは頷き、影を元の形へ戻していった。黒く広がっていた部分が床のいつもの影へ収まるまで、メリルは離れた位置で見守り、ノアも余計な声を挟まなかった。完全に戻ったことを先生が確かめると、室内の空気が少し緩み、アリシアはようやく指先の力を抜いた。


「……すみません。音にびっくりして、影まで動いちゃいました」


グラン先生は、謝ろうとしたアリシアへ静かに首を横へ振った。記録紙へ必要な項目を書き留めてから、彼女自身が確認できたことを大切にするよう、穏やかな声で続ける。


「音に驚いたことを知らせ、影の変化と怖さを自分で確認できた。今日の課題ではそれも大切なことだよ。音がした理由は、今のところ別の机の作業によるものだと確認できているけれど、君が驚いたことまでなかったことにはできないからね」


メリルが少し近づき、アリシアの顔を覗き込んだ。いつものように明るく声を掛けようとして、今は落ち着いて待った方がよいと考え直したらしく、一歩離れたところで立ち止まる。


「私は、アリシアが自分から言ってくれて安心したよ。さっき少し肩が動いたのは見えたけど、怖さがどのくらいかは私には分からなかったから」


「……うん。言う前は、少し迷った。でも、五になったら相談するって決めてたから」


ノアは二人の話を聞いてから、ようやく口を開いた。金色の瞳を細めてアリシアを見上げると、いつもの毒舌を交えながらも、声には安堵が滲んでいた。


「よし、それでいい。ちょっと音がしたくらいで怖がるな、なんて馬鹿なこと言う奴がいたら俺が噛んでやる。怖がったあとどうするかの方が大事なんだからな」


アリシアは少し笑い、顔を上げた。周りの学生たちは、それぞれの実習を続けている。誰も彼女を指さして笑っておらず、先ほど音を立てた学生も教師の指示を聞きながら道具の位置を直していた。そのありふれた光景を見ていると、自分だけが大きな失敗をしたように思っていた気持ちが、少しずつ静まっていった。


先生は今日の再開を無理に勧めず、終了にするか、少し休んでから別の記録確認をするかを尋ねた。アリシアは身体の状態を再確認し、影を動かす課題はそこで終えると答えた。魔法を続けなかったことを、今は悔しいだけの結果として受け止めずに済んだ。


◇


実習のあと、メリルはアリシアと一緒に廊下の長椅子へ腰を下ろした。窓の外では、雲の間から差す夕方に近い光が庭を照らし、雨を吸った土がゆっくり乾き始めている。二人の間には少しの沈黙があったが、気まずさはなく、互いの呼吸が落ち着くのを待つ時間になっていた。


「……私、今日は最後までできなかったね」


アリシアが小さく呟くと、メリルはすぐに否定せず、考えてから答えた。慰めるために事実を変えるのではなく、アリシアが感じていることも含めて受け止めようとしているようだった。


「最後まで影を置く練習はしなかったね。でも、止めるべきところで自分から相談できたのは、ちゃんとできたことだと思う。先生もそう言ってたし、私も安心したよ」


「……うん。分かってるつもりなんだけど、やっぱり少し悔しいの。できるようになったところを、見てもらいたかったから」


アリシアは膝の上で指先を合わせた。自分が怖がることを悪いと思っているわけではない。それでも、以前より成長した姿を友人や先生に見せたかった気持ちは、確かにあった。だから途中で終えたことが、少し寂しく感じられたのだ。


メリルはその言葉を聞き、窓の外へ目を向けた。しばらく考えてから、アリシアへ柔らかく微笑む。


「私は、今日のアリシアも前よりできるようになったって思ったよ。前は困った時に、あとから『実は怖かった』って話すことが多かったでしょう。でも今日は、その場で教えてくれたから。私には、それが嬉しかった」


アリシアは顔を上げた。魔法の形が変わったことより、自分がその場で話せたことを見てくれていた。その事実が、胸の奥に残っていた小さな悔しさを消すのではなく、別の温かさと並べてくれた。


「……ありがとう。そう言ってもらえると、次はまたやってみたいって思える」


「うん。でも次の予定は先生と相談してからね。今日のあとで急いで試さなくても、ちゃんと続きはできるから」


二人は笑い合い、長椅子から立ち上がった。アリシアは窓の外に広がる庭を一度見てから、生活観測区画へ向かおうとした。自分の影を動かす課題では途中で止まったが、だからといってその日の残りが全部失敗になるわけではない。今はほかの人と話し、落ち着いて過ごせる時間も大切にしたかった。


◇


同じ頃、グラン先生の机には中央記録室から追加の照合報告が届けられていた。対象となる二通知に対応した一次受付控えの記載が見つかり、そのうち一方に『取扱先確認』と記されていたことは、昨日までに確認済みである。今回の報告は、その補助記載の内容を直接説明するものではなかったが、控えへ書かれた宛先の表記について新しい事実を示していた。


二件の控えのうち、補助記載がある方には、受信先を示す欄に古い形式の部署符号が使われていた。もう一方には、同じ管理体系で使われる新しい形式の符号が記されていたという。管理担当者は別の正式な符号対照表と照合し、古い形式の符号が、ある時期以降は別の書き方に置き換えられていたことまで確認していた。


グラン先生は報告の最後に添えられた注意書きを読み、ゆっくり息を吐いた。二つの符号が異なること、片方が古い表記であることは確認できる。しかし、だから宛先を間違えていたという証明にはならない。古い符号を新しい符号へ読み替える手順があった可能性もあり、どの段階でその処理が行われたかは今回の記録だけでは分からなかった。


(……『取扱先確認』の理由に古い符号が関わっていた可能性はある。だが、それを確定するには、当時の処理を示す別の記録が必要だ。まして時刻差の原因だと断定する段階ではない)


先生は、送信側の二通知と、受信側一覧の時刻差についての資料も机へ並べた。前日に見つかった一次受付控えからは、通知が一覧へ正式登録される前の管理段階に、扱いの違いを示す記載が残っていた。一方で、今日の対照表からは、宛先の符号に新旧の違いがあったことが分かる。これらは調査を進めるための材料になるが、原因と結果の順序までは示していない。


もう一つ、先生が気に掛けたのは、古い符号がどの時期のものだったかという点だった。対照表に示された更新時期と、対象の通知が作成された時期を照合すれば、旧表記が許容されていた期間と重なっていたかどうかを調べられる。管理担当者へ、その確認を依頼する必要があった。


先生は返書へ質問を書き足した。古い符号が使われた理由についての記録があるか、当時の読み替え規則はどう定められていたか、実際の引き継ぎ先を示す受領の記録が残っているか。個人の意図や過失を先に想定するのではなく、制度と実際の処理を区別して確かめるための問いだった。


窓の外では下校する学生たちが中庭を横切っていた。グラン先生は資料を閉じ、まず今回確認できた事実だけを整理した。六番目の空白、東西の反応、帰還印との直接の関係は、今も未確定のままである。封緘された原簿や欠落した確認票についても、新しい確定情報はない。新たな材料が増えた時ほど、それ以外の問題まで一緒に解けたかのように扱わないことが大切だった。


◇


生活観測区画の共有室に入ると、窓の近くの壁へ、子供が描いた絵が飾られていた。昨日、本人が選んだ位置について、担当者が通行や清掃の支障にならないことを確かめ、取り付けを終えたらしい。青い窓の外に濡れた葉が光る木が描かれ、その根元には耳の大きな黒猫が座っている。


アリシアは絵に気づいて足を止めた。机に置かれていた時より少し高い位置にあるため、窓から入る光が紙の白い部分へ柔らかく当たっている。すぐ下では、子供が椅子に座り、紙の端を指で押さえながら新しい絵を考えていた。


「アリシア! 見て、飾ってもらったの!」


子供が嬉しそうに声を掛けたので、アリシアは近づき、少し離れた位置から絵を眺めた。そこへ来るまでの間、子供が何度も顔を上げて絵を確かめていたらしく、椅子の向きも壁の方へ少し傾いている。


「……うん。光が当たって、葉っぱが本当にきらきらして見えるね。場所を選んでよかったね」


「うん! でもね、今日は雨じゃないから、昨日と違う色に見えるの。雨が降ったら、また違うかな」


子供は窓の外を指さした。アリシアも一緒に眺めると、庭の葉はまだ湿っているものの、空には明るい光が広がっている。絵の白く残した部分と実際の葉が重なるように見えて、二人はしばらく静かに窓辺を眺めた。


顔のない存在は部屋の少し奥にいた。昨日は窓際へ近づいたり、そこから離れたりする動作が見られたが、今日はアリシアが入室した時点では別の場所にいる。誰かが移動を促したのか、本人が自分で動いたのかは、今のアリシアには分からなかった。


子供は絵を眺めたあと、ふと振り返った。机の横に置かれた紙ばさみへ視線を向けると、何かを確かめたいことがあるらしく、アリシアの顔を見上げた。


「ねえ、アリシア。昨日の絵はまだ見せたくないんだけど、こっちの絵を見せたから、あっちも見せた方がいいのかな」


アリシアはその言葉を聞き、子供の表情を確かめた。困って泣きそうなわけではないが、どこか落ち着かない様子で紙の端を握っている。何かを見せてもらえたからといって、次も同じように見せなければならないと思っているのかもしれなかった。


「……見せたくないなら、まだ見せなくていいよ。二枚は別の絵だし、昨日の気持ちと今日の気持ちが違ってもいいから」


「でも、こっちはみんなに見てもらう絵だよ?」


「……うん。だから、この絵は見せたいって決めたんだよね。もう一枚まで同じにしなくてもいいと思う。あとで見せたくなったら、その時に考えよう」


子供は少し考えてから頷いた。小さな胸を膨らませて息をつき、机の横に置かれた紙ばさみへ視線を移す。アリシアはそこに何が描かれているのかを尋ねなかったが、子供が自分で守りたいものとして扱っていることは分かった。


「そっか。じゃあ、あっちはまだしまっておくね。こっちは飾ったから、みんなが見てもいいよ」


「……うん。とても素敵な絵だと思う」


子供は嬉しそうに笑い、椅子から立ち上がると壁の絵をもう一度見上げた。アリシアも同じ方向へ視線を向けた時、ノアが少し離れたところで前足を揃えているのが見えた。


「……ノア。あの絵、やっぱり耳が大きいね」


「お前まで言うなよ。まったく、あれは俺じゃなくて、耳のでかい別の猫に違いねえ」


「でも、尻尾がノアみたいに長いよ!」


子供が楽しそうに言うと、ノアは返す言葉に詰まったらしい。少しだけ耳を後ろへ倒したあと、絵を見上げてからゆっくり尻尾を振った。


「……まあ、尻尾だけは悪くねえな」


アリシアと子供は顔を見合わせ、声を立てて笑った。ノアは不満そうな顔をしていたが、その場を離れようとはしなかった。絵を飾ることは、誰かに何かを証明するためではなく、今日ここで過ごす人たちの小さな楽しみになっていた。


◇


しばらくして、顔のない存在が椅子のある方へ向きを変えた。アリシアは子供の笑い声が収まった頃にその動きへ気づいたが、相手が何を見ているのかは分からなかった。壁の絵なのか、窓から差す光なのか、それとも室内の別のものなのかを確かめようと近づくことはしなかった。


子供も顔のない存在へ視線を向けたものの、先ほどのように何かを使うか尋ねたり、絵を見せようとしたりはしなかった。静かな時間が続く中で、子供は机に置いた白い紙へ視線を戻し、そこに小さな葉を一枚描き始める。


アリシアは子供の隣へ座り、自分も別の紙を借りて、さっき窓から見た庭木を描いてみた。枝の曲がり方は相変わらず少し不格好だったが、以前ほど上手に描こうとしなくなったせいか、線を重ねるのが楽しかった。


「アリシアの木、また横に長いね。でも、今日は葉っぱがいっぱいある!」


「……昨日より少し上手になったかな。ノアみたいに伸びてるって言われたから、今日は枝を増やしてみたの」


「俺を基準にするな。お前らの絵の練習に巻き込まれて、こっちはいい迷惑だ」


ノアの毒舌に、子供は楽しそうに笑った。アリシアもつられて微笑みながら、色鉛筆を紙の上へ走らせる。どちらの絵が上手いか比べる必要もなく、描いたものを見せるかどうかは本人が決められる。そんな当たり前の時間が、今のアリシアには大切だった。


やがて子供が手を止め、窓の外へ目を向けた。庭木の枝が風に揺れ、葉の間から差し込む光が紙の上でもゆっくり移動している。


「ねえ、今日はお日さまが見えてるね。明日も晴れたら、この絵の葉っぱ、もっと光るかな」


「……どうだろう。明日にならないと分からないけど、また見られたら嬉しいね」


「うん。明日も、見に来てもいい?」


アリシアは少し考えた。自分が毎日同じ時間に来られるかは分からないし、子供が明日も同じ気持ちでいるとも限らない。それでも、今ここで一緒に景色を見られたことは嬉しかった。


「……私が来られる日なら、一緒に見よう。でも、違うことをしたくなったら、それでもいいよ」


子供は頷き、紙の端へ小さな丸を描き加えた。何を描いたのか聞かなくても、その顔には満足そうな表情が浮かんでいた。


夕方、アリシアは担当者へ、今日の生活観測区画で見たことを伝えた。子供が飾る絵と非公開にする絵を分けて扱い、後者は引き続き保管を希望したこと。顔のない存在が室内で向きを変える動作を見せたが、その意味や向いていた先は確認できていないこと。新たな反応を求める働きかけは行っていないことを、見た順番に整理して報告した。


担当者は必要な部分を記録し、絵を飾った場所がほかの利用者の動線を妨げていないことも確認したと教えてくれた。アリシアはほっと息を吐き、子供が自分で選んだ場所に絵が残されているのを最後に一度見上げてから、共有室をあとにした。


◇


寮へ戻る前、アリシアはグラン先生の部屋へ立ち寄った。今日の《黒月》の演習で怖さが五になったことについて、先生は授業の場で確認しているが、アリシア自身の受け止め方を改めて話しておきたかったのだ。


扉を叩いて入ると、先生は机の上の資料を閉じ、椅子を勧めてくれた。アリシアは腰を下ろし、影の端が揺れた時に自分から相談できたものの、途中で終えたことが少し悔しかったと伝えた。


「……でも、メリルが、私がその場で話せたことを見てくれてたって。だから今日は、続けなかったことだけで自分を責めなくてもいいのかなって思いました」


「そう感じられたならよかったよ。予定していたところまでできなかったことと、安全のために適切な判断ができたことは、別々に残していいんだ。悔しいと思う気持ちまで否定する必要はないし、その気持ちだけで次の実習を急ぐ必要もない」


グラン先生は落ち着いた声で答えた。アリシアはその言葉を聞き、少しだけ目を伏せた。自分はまだ、人前で怖さを伝えることへ緊張する。けれど、緊張を隠すより、今の状態を正確に伝えられる方が、これからの自分には大切なのだと思った。


先生はそのあと、机に置いた別の一枚を取り上げた。共有してよい範囲をまとめた紙で、昨日までの一次受付控えに関する記録へ新しい確認事項が加わっている。


「北側の調査でも、宛先に関する記録が一つ進んだ。以前話した『取扱先確認』を覚えているかな」


「……はい。二つの通知のうち、一方の一次受付控えにその文字があったんですよね。でも、どういう理由かは分かっていないって」


「そう。今日、管理側で確認したところ、その記載がある方には、受信先を示す欄に古い形式の部署符号が使われていた。もう一方には、同じ管理体系の新しい表記があったんだ」


アリシアは少し考えた。古い符号という言葉だけでは、それが間違いだったのか、それとも当時も使われていたものなのか分からない。先生もその点を慎重に説明している。


「……古い表記だったから、確認が必要だったのかもしれないんですか?」


「その可能性はある。ただし、そうだと確定したわけではない。古い表記を読み替えて使う仕組みがあったかもしれないし、通知の作成時期によっては許容されていた可能性もある。今は対照表の更新時期と、当時の運用を確認してもらっているところだよ」


アリシアは頷いた。新しい事実が増えるたびに、すべての答えが見つかるのではないかと少し期待してしまう。しかし、今聞いているのは、宛先欄の記載方法が違っていたという話だった。時刻差の理由や確認票の所在、六番目の空白の意味とは、まだ直接つながっていない。


「……じゃあ、『取扱先確認』って書かれた理由も、まだ分からないんですね」


「そうだね。古い符号との関係を確認する必要がある。今の段階で、誰かが故意に遅らせたとか、宛先を間違えたとか、そういう結論は出せないよ」


先生がはっきり区別してくれたことに、アリシアは安心した。自分が知らないことを勝手に埋めるのではなく、何が新しく確認されたのかを言葉にできる。昨夜ノアに言われたように、分からないことを分からないまま残しておくのも、調査の一部なのだ。


ノアは椅子の足元から低い声を出した。机の上の資料へ近づこうとはせず、グラン先生とアリシアを交互に見上げながら、いつもの調子で言葉を続ける。


「古い宛先の書き方があったからって、そこへ送るはずだった奴が悪いとは限らねえ。書類の世界も、昔の決まりが残ってたりするもんだからな。俺なら面倒だから最初から分かりやすくしとけって言うが」


「ノアらしいね」


グラン先生が少し笑うと、ノアは気に入らなそうに鼻を鳴らした。アリシアも微笑み、今日聞いたことを整理してから椅子を立った。調査は進んでいるが、自分の役割まで増えたわけではない。必要な確認は管理担当者へ任せ、明日の自分ができることを考えればよかった。


◇


夜、寮の自室へ戻ったアリシアは、机の上に帳面を開いた。窓の外には薄い雲が残り、月明かりが庭の水たまりへ淡く映っている。朝にはまだ湿っていた石畳も、今はかなり乾いているようだった。


最初に書いたのは、午後の《黒月》の演習についてだった。影を指定の範囲へ薄く置くことができたこと、室内の物音に驚いて怖さが五になったこと、影の端がわずかに揺れたため自分から相談し、決められた手順で安全に終了したこと。体調に痛みや苦しさはなく、あとから強い疲労が残ったわけでもない。


アリシアはその記録を見つめ、少しだけ胸が痛むのを感じた。最後まで続けられなかった悔しさはまだある。でも、それを消そうとしなくても、止められたことへ安心してよいのだと、グラン先生とメリルから教えてもらった。


次に、一次受付控えについての新しい情報を残した。二つの通知の宛先欄には、新しい形式の符号と古い形式の符号が混在していた。『取扱先確認』の記載がある方に古い符号が使われていたことは確認されたが、それが時刻差や取扱先確認の理由だったかどうかは未確定である。アリシアは最後の一文を書いたあと、余白へこれ以上の想像を書き足さなかった。


生活観測区画では、子供の絵が本人の選んだ場所に飾られた。別の絵については非公開の希望が維持され、顔のない存在は室内で向きを変えたものの、その行動の意味は分かっていない。アリシアはそこまで記すと、静かに筆を置いた。


「今日はずいぶん書くことがあったな。影の実習までやったんだから、いつもより疲れてんじゃねえか」


ノアの声に、アリシアは顔を上げた。黒猫は寝台の上で前足を揃え、いつもの金色の瞳でこちらを見ている。


「……少し疲れたけど、大丈夫。でも、怖さが五になった時、すぐ言えたのはよかったと思う」


「そうだな。お前が今できることを確かめる実習だったんだろ。なら、できなかったところを責めるより、どこで止まれたか覚えておけよ」


アリシアは頷き、帳面を閉じた。今日も答えの出なかったことはある。北側の記録の宛先の違いも、六番目の空白も、顔のない存在の意思も、まだ分からないままだ。それでも、自分から相談できたこと、子供が絵を飾る場所を選べたこと、仲間たちと安全について話し合えたことは、確かに今日の出来事だった。


「……ねえ、ノア。私、今日は途中でやめたけど、また影の練習をしたいな」


「そりゃ好きにすりゃいい。ただし、先生の許可と安全確認は忘れんなよ。今日は怖かったから明日は無理だ、って決める必要もねえし、悔しいから明日すぐやる、って決める必要もねえ」


「……うん。先生と相談してから、また考える」


ノアは満足そうに目を閉じた。アリシアは灯りを落とし、寝台へ横たわる。窓の外では風が木々を揺らし、雨上がりの庭に残った水滴が、時折静かな音を立てていた。


今日、二つの通知に残された宛先の書き方が違っていたことは分かった。けれど、その違いがどこへつながるのかは、まだ確かめられていない。アリシア自身も、影を動かしている時に怖さが増すことがあったが、そこで終わってしまうのではなく、自分から止めたいと伝えられた。


分からないことを無理に一つの答えへ結びつけず、できることから確かめていく。そう思えるようになった今日の自分を、アリシアは少しだけ誇らしく感じながら、静かな眠りへ落ちていった。


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