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『忘れられた六つ目の神器に選ばれました 〜人見知りな闇の少女と毒舌黒猫の学園英雄譚〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第327話 宛先のない返事と、見せないまま守る一枚


翌朝、アリシアが目を覚ますと、窓の外では細い雨が降っていた。夜明けの光はまだ薄く、寮の庭に並ぶ木々は濡れた枝を静かに揺らしている。前夜は雨が上がっていたはずなのに、いつの間にか空模様が変わったらしい。屋根から落ちる雫の音を聞いているうちに、アリシアは昨夕の共有室で見た、窓辺へ移動した顔のない存在の姿を思い出した。


自分が気づいた時には、すでにその場所にいた。歩き始めた瞬間を見ていない以上、何に誘われて移動したのかを決めることはできない。それでも、窓から差す光のすぐそばで静かにしていた様子は、昨日の子供が描いた、木と小さな黒猫のいる絵と重なって心に残っていた。


(……今日は雨だから、窓のところは昨日ほど明るくないかもしれない。でも、あの場所が好きだと決まったわけでもないんだよね)


アリシアは寝台から起き上がる前に、胸元と指先の状態を確かめた。痛みも息苦しさもなく、東寄りの冷えも感じられない。身体が落ち着いていることを確かめてから上掛けを畳むと、寝台の足元にいたノアが片耳を動かした。


「おう、今日は雨か。さっきから窓ばかり見てやがるから、また余計なことを考えてるのかと思ったぞ」


「……おはよう、ノア。昨日、窓の近くにいたことを思い出してたの。でも、今日もそこへ行きたいかどうかは分からないなって」


「そりゃそうだろ。昨日そこにいたからって、今日も同じところへ行かなきゃならねえ決まりはねえ。お前だって昨日は教室で飯を食ったわけじゃねえだろ。毎日同じことしかしなかったら、飽きちまうぜ」


いつもの乱暴な口調に、アリシアは小さく笑った。ノアは前足を伸ばしたあと、開きかけた窓の隙間から入ってくる湿った空気を嫌がるように鼻先を引いた。雨粒が入り込まないよう窓を少し閉めると、ノアはようやく満足そうに尻尾を揺らす。


「……今日は、昨日の実習で皆と考えた案の返事があるかな」


「教師が安全を確認するって話だったな。返事がまだなら、まだ試すなよ。お前らが善意で考えた方法でも、別の危険が増えたら意味がねえ」


「……うん。皆で待つって決めたから、大丈夫」


言ってから、アリシアは自分の言葉を少し不思議に感じた。誰かの返事を待つことを、以前はただ落ち着かない時間だと思っていた。今は、その間に自分の準備を整えたり、別の授業へ向かったりしてもよいのだと分かる。何かを確かめるために待つことと、自分の一日を止めてしまうことは違うのだ。


洗顔を済ませて制服へ着替える頃には、雨脚は少し弱まっていた。アリシアは鞄へ記録用の帳面をしまい、ノアと一緒に食堂へ向かう。朝食の温かなスープから立ち上る湯気を眺めながら、今日は答えが見つからないことを数えるより、目の前で起きたことを大切にできたらいいと思った。


◇


学園へ続く屋根付きの通路では、学生たちが雨の話をしていた。傘を畳む者、靴の縁についた水滴を拭う者、濡れた髪を手で整える者が入り交じり、晴れた日の朝とは違う賑わいが生まれている。北側連絡廊下へ向かう仕切りの前では、補助案内の矢印が湿った廊下の明かりにもはっきり見えた。


アリシアは東側の階段へ向かう途中、手すりの近くで立ち止まった下級生へ目を向けた。相手は掲示を読みながら、友人へ別の教室の位置を説明している。話している二人とも困った表情ではなく、やがて揃って矢印の方へ歩き出したため、アリシアもそのまま先へ進んだ。


「おはよう、アリシア。今日は雨で歩きにくかったね」


教室の入り口で声を掛けたのはメリルだった。手には折り畳んだ布があり、濡れた鞄の底を丁寧に拭いている。アリシアが傍へ寄ると、メリルはいつもの明るい表情で、昨日五人でまとめた改善案の話を切り出した。


「朝、授業の先生に聞いてみたんだ。私たちの案は受け取ってもらえて、今日のうちに説明できるところがあるって。まだ実習で試していいって返事じゃないけど、どこを直したらいいか聞けそうだよ」


「……そうなんだ。みんなも、知ってる?」


「エドガーとテオには今朝話したよ。フィオナはまだ来てないから、揃ってからもう一回伝えるつもり。先生の返事も、皆で聞いた方がいいかなって」


メリルがそう答えたことに、アリシアは安心した。改善案を出したのは一人ではなく五人であり、実習の途中で止まったことも、誰か一人だけの経験ではない。皆が同じ説明を受ければ、あとから『聞いていたつもり』のまま行き違うことも減るだろう。


席へ向かう途中、フィオナが教室へ入ってきた。少し湿った髪を手で押さえていたが、メリルから声を掛けられると足を止め、話を聞いてから静かに頷いた。


「受け取ってもらえたのなら、よかったわ。あの停止札は、見えない人がいるとどうなるのか気になっていたの。先生からその点を聞けると嬉しい」


フィオナは自分の考えを話したあと、アリシアへ視線を向けた。以前なら、意見がほかの人と違った時に遠慮していたかもしれない。今は不安を抱えたままでも、自分が確かめたいことを言葉にできている。


「……うん。私も、声だけで届かなかった時のことを聞きたいな。昨日、皆で考えたところだから」


二人が頷き合うと、メリルは嬉しそうに笑った。教室の窓を雨粒が流れ、廊下からは教師の足音が近づいてくる。アリシアは席へ腰を下ろし、今日も授業の中でできることを一つずつ確かめようと、手元の教材を開いた。


◇


午前の後半、教師は五人を実習室の端へ呼び、提出された改善案を机の上へ広げた。そこには受領返事の復唱、操作中に返事できない場合の待機、停止札と声による確認の三点が書かれている。教師は赤い筆でいくつかの位置へ印を付けていたが、どれも提案を否定するためのものではなく、安全手順と照らして不足している条件を示したものだった。


「皆さんが途中の確認を大切にしようとしたことは分かります。特に、返事がなければ次へ進まないという点は、前回の経験をよく反映しています。ただし、合図を二種類に増やすなら、二つが一致しなかった時の扱いを決めておかなければなりません」


エドガーは紙へ身を乗り出したが、教師はすぐに質問を返した。机の周りに並んだ五人は、答えを急ぐ代わりに、実際の仕切りと合図板の位置を見比べた。


「例えば、停止札が見えているのに声が聞こえなかった場合、どうしますか。反対に、停止の声だけが聞こえて札を確認できない場合は?」


五人は互いの顔を見合わせた。メリルが答えかけ、少し考えてから口を閉じる。アリシアも、どちらが本当の合図なのかを判断しようとして、そもそも急いで判定する必要があるのかと思い直した。


「……どちらか一つでも停止を示していたら、先へ進まない方がいいと思います。どちらが正しいか、その場で確かめるのは難しいかもしれないから」


アリシアが答えると、教師は頷いた。自分の意見を口にした途端に鼓動が早くなったが、隣にいるフィオナが同じように手順書を見ているのに気づき、落ち着いて続きを聞けた。


「その考え方は安全側にありますね。ただ、どの状態まで操作を落とすか、誰が確認するかは、使用する器具に合わせて決める必要があります。今回は皆さんが提案したままの手順を採用するのではなく、授業用の正式な停止規則に組み込める部分を検討します」


フィオナは赤い印の位置へ目を落とし、少しだけ息を吐いた。前日に自分が停止札を掲げた位置を思い返しているらしく、机と扉の間へ一度目を向けてから口を開いた。


「……私たちだけでは決められない部分があるんですね。停止札を出す役を担当した時、ちゃんと見てもらえていると思っていたけれど、後ろの位置からは見えないこともあるんだって、あとから気づいたので」


「そこに気づけたのはよいことです。では、この紙は今日の時点では『改善案として受理、実施は保留』とします。皆さんが勝手に試す必要はありません。次の授業で扱うなら、教師側で条件を整えてから伝えます」


教師はその文言を五人の控えにも書き加えた。アリシアは『受理』と『実施は保留』が同じ行に並んでいるのを見つめた。最初は、どちらか一つでなければならない気がしたが、提出したことと使ってよいことが違うのなら、二つが一緒に書かれていても不思議ではない。


「……ありがとうございました。返事が聞けて、安心しました」


アリシアが小さく頭を下げると、教師は穏やかに微笑んだ。エドガーも少し照れくさそうに頷き、テオは控えの紙を折らずに鞄へしまった。


実習室から戻る途中、メリルは一度だけ唇を尖らせた。けれど、手元の控えを閉じると、隣を歩くテオへ自分から話し掛けた。


「すぐに試せないのは少し残念だけど、あの質問、確かに考えてなかったね。二つの合図が違う時にどうするか、決めずに増やしたら逆に迷っちゃうかも」


「うん。僕も灯りを操作する側だったから、札と声が違うことを言っていたら困ったと思う。止める手順は、僕たちだけで作り替えない方がいいね」


テオの言葉に、五人は自然と頷いた。アリシアはその輪の中で、提案がすぐ採用されなくても誰も責めていないことへ安堵した。聞いてもらえたことと、許可されたことを分けられるなら、保留の返事にも意味があると感じられた。


◇


昼食の時間、食堂は雨具を持ち込んだ学生たちでいつもより混み合っていた。窓際の席には濡れた外套を椅子の背へ掛けた者がいて、厨房からは温かい煮込み料理の香りが漂っている。アリシアたちは中央寄りの空いた卓を選び、互いの盆が触れないよう少し間隔を空けて座った。


食事を始めて間もなく、エドガーが今日の改善案について話し始めた。最初は採用されないことを残念がっていたものの、教師の質問を思い出すうちに、自分たちが見落としていた部分を考える方へ気持ちが移ったらしい。


「俺、正直すぐ使ってもらえると思ってた。でも、声と札が食い違った時のことなんて、考えてなかったんだよな。止めるために増やした合図で、逆に迷わせたらどうしようもない」


「だから、先生が確認してくれるんでしょう。私たちが考えたことを全部やり直すわけじゃないし、危ないところだけをそのままにしないってことだと思う」


フィオナの言葉は落ち着いていた。昨日は停止の札を掲げる時に怖さがあったと話していた彼女だが、今日はその経験が改善案に役立ったと考えているようだった。


メリルは匙を置き、少し首を傾げた。期待していた返事とは少し違ったためか、机の上の水杯を見つめながら、自分の気持ちを言葉にしようとしていた。


「でも、もし先生が別の方法を考えてくれたら、私たちの案じゃなくなっちゃうのかな。せっかく皆で考えたから、少しは残ると嬉しいんだけど」


「残る部分もあるんじゃないかな。最初の問題は、返事を確認しないまま進みそうになったことだったから。その問題に気づけたのは、僕たちの記録のおかげでもあるし」


テオは手元のパンを置き、慎重に答えた。アリシアは二人の会話を聞きながら、どちらの気持ちも分かると思った。自分たちが考えたことを大切にしてほしい気持ちも、より安全な方法があるなら変えてよいと思う気持ちも、互いに矛盾するとは限らない。


「……提案した時の気持ちは、変わらないと思う。皆が安心して実習できたらいいって、考えて作ったんだから。違う方法になっても、そのために考えたことは、なくならないよ」


アリシアがそう言うと、メリルは少し目を丸くしたあと、嬉しそうに笑った。自分の提案を守ることばかりを考えていたのに気づいたのか、指先で紙の端を軽く押さえてから言葉を返した。


「そうだね。私、出した紙の形ばっかり気にしてたのかもしれない。皆で困ったことをちゃんと見つけられたんだから、そこを忘れなければいいんだね」


エドガーも頷き、話題は午後の授業へ移っていった。食堂の入り口では新しい学生たちが席を探しており、遠くの窓に当たる雨の音が少し強くなった。アリシアは温かい食事を口へ運びながら、今日の返事をどう受け止めるか、皆で話せたことを嬉しく思った。


◇


その頃、グラン先生のもとへ、中央記録室の管理担当者から一次受付控えについての照合結果が届けられていた。昨日までに確認できていたのは、受信側の一覧が作られる前の段階で、一次受付控えという別の資料が使われる手順が存在するということだけだった。問題の二通知に対応する記載が実際に残されているかについては、まだ調べられていなかった。


今日届いた回答は、そのうち一つを前へ進めるものだった。対象の日付に対応する一次受付控えが保管されており、管理番号と通知を識別するための項目を照合した結果、問題の二通知に対応すると判断できる記載が二件確認されたのである。


グラン先生は資料を開いたまま、しばらく言葉を発しなかった。控えの存在が分かったことと、そこに目的の記載が実際にあることは、別の確認だった。少なくとも今回は後者まで進んだが、写しの内容には、まだ説明の必要な部分が残っていた。


二件のうち一方には、通常の受付処理が行われたことを示す欄が記されていた。もう一方には、その欄とは別に『取扱先確認』という補助の記載があり、管理担当者が読める範囲では、対象の通知をどの部署の扱いとして次へ回すかについて確認が必要だった可能性を示すという。


ただし、その記載がいつ付けられたのか、何を確認するためだったのか、最終的にどのような判断がなされたのかまでは、今回の回答には含まれていなかった。時刻の欄も、通常の受信側一覧に残った時刻とそのまま比較できる形式ではなく、記載された順序と実際の処理時刻を同一視することはできない。


(……少なくとも、一覧に登録される前の段階で、二件の扱いに違いが記録されていた可能性は高い。しかし、これが時刻差の原因だと言えるほどの情報は、まだない)


先生は二つの写しを机へ並べ、以前確認された『照合待ち』の区分についての資料と見比べた。受信側一覧では片方だけに『照合待ち』が付いており、通常手順では一覧登録後に付与される。今回の一次受付控えに残る『取扱先確認』は、それより前の管理段階に関係する記載と考えられるが、二つの補助記載が同じ理由で付いたのかは確認できていない。


もし取扱先の確認が必要だったなら、それは誰が通知を受け取るべきかについての問題だったのかもしれない。だが、そこから直ちに特定の部署の不備や、誰かが通知を止めたという結論へ進むことはできなかった。通常の手順で確認が必要になる理由は複数あり得るため、当日の個別記録をさらに確かめる必要がある。


グラン先生は管理担当者へ返す質問を整理した。『取扱先確認』がいつ記されたのかを確認できる資料があるか、二つの通知がどの部署へ引き継がれたか、一次受付控えと受信側一覧を結ぶ管理上の番号がどこまで一致しているか。どれも書類の外側から確認できる可能性のある事項であり、封緘された原簿を無断で開くための依頼ではない。


書き終えた先生は、一度だけ窓の外へ視線を向けた。雨に濡れた中庭を、学生たちが屋根のある通路へ急いでいる。あの子たちが安全に学園を行き来できるようにすることと、過去の記録を正確に確かめること。その二つは関係していても、どちらかだけを急げばよいという話ではない。


先生は資料を閉じ、確定した範囲と未確定の部分を別々の欄へ書き残した。二つの通知に対応する一次受付控えの記載が見つかったことは、今日の確かな進展である。だが、その記載を誰がどのような理由で付けたのか、時刻差との関係があるのかについては、まだ答えが出ていなかった。


◇


放課後、アリシアはグラン先生の部屋を訪れた。今日の実習で提案が『受理、実施は保留』となったことを伝えたかったのと、昨日聞いた一次受付控えについて、何か新しい説明があるかを確かめたかったからだった。


部屋へ入ると、机の上には資料が丁寧に重ねられ、窓の外では雨粒が細い線になって落ちていた。ノアは足元から室内を見渡し、椅子の脇の乾いた場所へ座った。


「こんにちは、アリシア。今日は、どんな授業だったかな」


「……こんにちは。昨日、皆で考えた改善案を先生に見てもらいました。受け取ってはもらえたけど、まだそのまま試しちゃいけないって。声と札が違う時のことまで決めないと、安全じゃないから……」


グラン先生は静かに頷き、続きを促した。アリシアは班の五人が受けた説明と、自分たちがすぐ試したい気持ちを抑えて正式な返事を待つことにした経緯を話した。


「それはよい判断だったと思うよ。提案することと、採用されることは同じではない。皆さんの気づきが安全手順を見直す材料になったなら、それだけでも意味があるからね」


「……はい。私も、皆で話してそう思えるようになりました」


アリシアは少し笑ったあと、先生が机の端へ置いた記録紙に気づいた。昨日までに見たものとは書式が違うが、勝手に覗き込むことはしなかった。先生はその視線に気づき、共有できる範囲をまとめた紙を一枚取り上げた。


「ちょうど、一次受付控えについても知らせられることが増えたよ。昨日は、その種類の資料が使われる手順を確認できたと話したね」


「……はい。二つの通知が、その控えに残ってるかどうかは、まだ分からないって」


「今日は管理担当者の照合で、対象の二通知に対応する記載が、一次受付控えに二件残っていることが確認されたんだ」


アリシアは少しだけ息を呑んだ。今まで見つかっていなかった場所に、目的の通知に関係する記録が残っていた。何か大きく進んだように感じ、思わず身を乗り出しかけたが、先生が続けるのを待つことにした。


「ただし、二件の記載があったからといって、通知の受領がどこまで確認されたか、原因が何だったかまで分かったわけではないよ。片方の記載には、取扱先を確かめる必要があったことを示す補助の言葉が残っている。けれど、その言葉が付いた理由と時点は未確認なんだ」


「……取扱先、ですか。どこへ渡せばいいかを、確かめようとしたってことですか?」


「そのような扱いだった可能性はある。ただ、具体的に何を確認したかまでは分からないから、今は『取扱先確認という記載がある』と表現するのが正確だね」


アリシアは膝の上で手を重ね、先生の言葉を繰り返さず頭の中で整理した。通知が送信されたこと、一次受付控えに対応する記載が残っていること、受信側一覧に最初の記録時刻があること、それぞれ違う段階である。どの段階の記録がどの意味を持つかを混ぜてしまえば、見つかった資料の価値を正確に受け止められない。


「……『取扱先確認』って書いてあるから、誰かがわざと遅らせた……っていうことには、ならないんですよね」


少し迷いながら口にすると、先生ははっきり頷いた。アリシアは自分の質問が、誰かを疑う形になっていないかと心配したが、先生は確かめられていない部分を丁寧に説明してくれた。


「ならないよ。その記載だけで故意の遅延や不正を判断することはできない。手順に沿って必要な確認を行っていた可能性もあるし、別の理由も考えられる。大切なのは、今ある記録から分かることだけを確かなものとして扱うことだ」


アリシアは安心したように息を吐いた。以前、廊下で耳にした噂のように、記録が見つからないことや遅れていることを、誰かの悪意へすぐ結びつけるのは危うい。本人がまだ知らない事情を、自分の想像だけで埋めてはいけないのだ。


「……先生。『照合待ち』っていう印とは、同じものなんですか?」


「そこも、まだ確認できていない。『照合待ち』は受信側一覧に後から付く区分で、今回の『取扱先確認』は一次受付控えに残る別の記載なんだ。同じ理由に基づくのか、偶然同じ通知に残った別々の処理なのかは、今の資料では分からない」


その答えに、アリシアは小さく頷いた。二つの記録が関係している可能性はあるが、その関係を証明する段階ではない。自分が知っているのは、管理側で照合できた二件の記載があり、そのうち一方に追加の言葉が残っているというところまでだった。


「……新しく見つかった記録があるのは、よかったです。でも、どうしてそうなったかは……まだ、ちゃんと確かめないといけないんですね」


「そうだね。見つかった記録から新しい問いが生まれることもある。焦らず、一つずつ確認していこう」


先生はそう言うと、今日の説明がアリシアへ負担を掛けすぎていないかを確かめた。アリシアは体調に問題がないことを伝え、今日は調査へ自分から踏み込む必要はないと理解していることも話した。


ノアは二人の会話が終わる頃、椅子の下から低い声を出した。資料へ触れるわけでもなく、いつものように尻尾を揺らしながら二人を見上げている。


「やっと『どこへ渡すつもりだったか』って疑問まで来たわけか。だが、書いてあることを読んだだけで、その紙を書いた奴の頭の中まで見えるわけじゃねえ。そこを間違えんなよ、アリシア」


「……うん。ノアの言うとおりだと思う」


「お前が素直に頷くと調子が狂うな。まあ、今までよりは物分かりがよくなったってことにしとくか」


アリシアは小さく笑った。先生も口元を緩め、最後に必要な範囲での共有を続けると伝えてくれた。部屋を出る時、アリシアはすべての謎を解きたい気持ちが消えたわけではないことを自覚していたが、今は自分ができることと、担当者へ任せることを分けて考えられるようになっていた。


◇


生活観測区画の共有室へ入ると、子供は机の前に座り、昨日描いた窓辺の絵を眺めていた。絵はまだ仮置きの位置にあり、壁へ飾るかどうかを担当者と相談しているらしい。紙の端には小さな黒猫が描かれ、濡れた葉の光を残そうとした白い部分が、午後の薄い日差しを受けて浮かんで見えた。


「アリシア! 今日はね、これを飾る場所を決めようと思ってるの」


子供は嬉しそうに振り返った。アリシアは挨拶を返し、机の近くへ座る前に絵の位置を確かめた。昨日、本人はこの絵をほかの人に見せてもよいと決めていたが、別の空の絵については一部分しか見せたくないという気持ちを維持している。


「……こんにちは。どこに飾りたいの?」


「窓の近くがいいなって思ったの。でも、そこだとほかの人が見づらいかな。机の横でもいいけど、光が当たるときれいでしょ」


子供は絵を手にして立ち上がり、窓際へ歩こうとしたが、途中で止まった。そこには顔のない存在が静かに立っており、昨日アリシアが気づいたのと同じように、窓からの光が床へ落ちるあたりにいる。


今日も誰かがその位置へ誘導したわけではないようだったが、アリシアが入室する前に何があったかまでは分からない。子供は顔のない存在へ近づきすぎず、少し離れたところから絵を持ち上げた。


「ここに飾っても、いいかな」


返事はなかった。子供はしばらく待ち、相手の様子を見つめたあと、アリシアへ視線を向けた。


「分からないね。勝手に飾ったら、邪魔かな」


アリシアは少し考えた。共有室の窓際を使うことは、顔のない存在だけの意思で決まるわけではない。けれど、相手が静かに過ごしている場所を、本人の気持ちが分からないまま塞いでしまうのも避けたい。


「……担当の人に、飾ってもいい場所を聞いてみようか。誰かが通るところや、そこで過ごしている人の邪魔にならない場所なら、安心だと思う」


子供は頷き、絵を持ったまま担当者へ声を掛けた。担当者は窓の近くに置ける位置を一緒に確かめ、通行や清掃の妨げにならないよう、壁の少し高いところを示した。ただし、そこなら顔のない存在が今いる場所を塞がず、子供自身も見やすいという。


「ここなら、絵も光が当たりますね。飾ってよい場所として確認できますが、今日は置き場所だけ決めて、取り付けるのは職員が行います。あとで外したくなった時にも相談してくださいね」


「うん! じゃあ、ここにしたい」


子供は嬉しそうに答え、絵を一度胸の前へ抱えた。飾る場所が決まっただけで、まだ実際に壁へ取り付けられたわけではない。それでも、自分の希望を伝え、ほかの人の使い方も考えて選べたことに、満足しているようだった。


アリシアはその様子を見ながら、少しだけ胸が温かくなるのを感じた。ここでは誰かが何をしたいかを聞き、できる方法を一緒に探すことができる。相手が答えなかったからといって、無理に同意させる必要も、何もかも諦める必要もないのだ。


担当者が絵を一時的に預かると、子供は少し離れた椅子へ戻り、今度は机の上の紙を一枚取り出した。以前描いた空の絵とは違う、まだ何も描かれていない白い紙だった。


「ねえ、アリシア。今度は何を描こうかな。雨が降ってる窓でもいいし、昨日の橋をもう一回描いてもいいよね」


「……うん。描きたいものが決まるまで、紙を眺めててもいいと思う」


子供は少し考えたあと、笑顔で頷いた。何も描かれていない紙を前にしているのに、焦る様子はなかった。白いままの場所が、まだ何も決まっていないことを意味していても、それは必ずしも困ったことではない。


しばらくすると、子供は鉛筆を持ち上げ、紙の端へ小さな丸を描いた。アリシアには何の形か分からなかったが、子供は楽しそうに何度か線を重ねている。今は何を描いているのか聞かず、隣で自分も紙を一枚借り、窓の外の雨雲をゆっくり眺めることにした。


◇


その時、顔のない存在が窓辺から少しだけ離れた。アリシアは動き始めを見ていたため、昨日とは違って、自分の目で確認できた範囲が明確だった。顔のない存在は数歩ほど室内側へ移動し、子供の机からは離れた場所で静かに止まった。


子供も一度顔を上げたが、追い掛けたり、絵を見せようと立ち上がったりはしなかった。手元の紙へ戻り、まだ描き途中の丸い形を少し大きくしている。共有室には色鉛筆の擦れる音と、窓に当たる雨粒の音が交互に聞こえていた。


(……昨日は、窓辺にいたところからしか見ていなかった。今日は、そこから離れるところを見た。でも、それだけで何が好きなのかは決められないな)


アリシアは自分が見た位置と時間を覚え、あとで担当者へ伝えることにした。顔のない存在の動きへ、子供の絵や北側の記録との関係を求める気持ちは起こらなかった。むしろ、今この場所で誰かが自分の意思で移動できることを、自然な日常として受け止めたいと思った。


担当者が通りかかった時、子供は描きかけの紙を少し持ち上げた。丸い線を描いた理由をまだ説明できないようだったが、その顔に焦りはなく、確かめたいことがあるらしい。


「これ、まだ何か分からない絵なんだけど、描いててもいい?」


「もちろんです。何になるか決めていなくても、描いているうちに考えられますからね。片づける時間になったら、続きにするかどうかも相談しましょう」


子供は安心したように笑い、紙を机へ戻した。アリシアはその様子を見て、答えが決まっていない時にも、自分で選べることはあるのだと改めて感じた。


夕方、共有室を離れる前に、アリシアは顔のない存在が窓辺から室内側へ移動した様子を、担当者へ簡潔に伝えた。今日は動き始めから確認できたこと、子供や自分が移動を促したわけではないこと、移動後は静かに留まっていたことを、見た順序で説明する。


「今日は、動き始めも見えていたんですね。昨日との違いとして、その範囲を記録しておきます。引き続き、無理に同じ動きを繰り返してもらうことはしません」


「……はい。昨日と今日で、見たところが違うだけかもしれないから……意味まで決めないようにしたいです」


担当者は頷き、記録に必要な部分だけを書き留めた。アリシアは報告を終えると、窓の近くへ飾る予定の絵をもう一度見た。今は担当者が安全な場所に置いており、本人の希望どおりの位置へ取り付けられるかは、まだ最終確認が必要だった。


子供はその絵を見つめ、明日も同じ場所がいいかどうかを聞かれると、少し考えたあと「明日になったらまた考える」と答えていた。アリシアはその言葉が嬉しく、何も言わずに微笑んだ。


◇


夜、アリシアは寮の自室で帳面を開いた。雨はようやく弱まり、窓の向こうには雲の切れ間から淡い月が見えている。机の脇ではノアが前足を揃え、アリシアの筆先を時々眺めていた。


最初に書き留めたのは、五人で提出した改善案が受理されたことと、実施は保留になったことだった。提案した方法はまだ安全確認を終えておらず、教師が正式な手順として扱うまでは勝手に試さない。皆で考えたことが無駄になったわけではないが、許可されたと勘違いしないよう、その二つを同じ欄に分けて記した。


次に、グラン先生から教わった一次受付控えについて整理した。問題の二通知に対応する記載が、管理側の照合で二件確認されたこと。そのうち一方に『取扱先確認』という補助の記載があること。ただし、その言葉が付いた理由や時点、時刻差との関係は未確認であり、封緘された原簿の中身や欠落した確認票についても新しい確定情報はない。


アリシアは少しだけ筆を止めた。『取扱先確認』という文字を見ると、誰かがどこへ通知を渡すべきか迷った光景を想像してしまう。しかし、実際にそんなやり取りがあったのか、書類の上の記載だけでは分からない。だから、想像した場面を事実として書き足すことはしなかった。


最後に、生活観測区画での出来事を残した。子供が見せてもよい絵の飾る場所を自分で相談したこと、まだ描きたいものが決まっていない紙へ自由に線を引いていたこと、顔のない存在が窓辺から室内側へ移動するところを今日は見届けたこと。どれも互いに直接関係すると決まったわけではないため、別の項目へ記した。


「今日は、昨日より少し書くのが早かったな」


ノアの声に、アリシアは顔を上げた。自分でも、以前ほど同じ文章を書き直さなくなったことに気づいている。分からない部分を無理に説明しようとしなければ、記録は思っていたより短くまとめられるのだ。


「……うん。何を見たかと、何を考えたかを分けて書くようにしたから。でも、まだ時々、混ぜちゃいそうになるよ」


「そりゃそうだろ。癖が一晩で直るなら苦労しねえ。大事なのは、混ざった時に気づけるかどうかだ。今日の『取扱先確認』だって、誰かが悪いことしたって話じゃねえんだからな」


アリシアは頷いた。ノアの言葉は厳しかったが、自分が焦って結論を作ろうとしないよう、何度も同じところで立ち止まらせてくれている。


「……ねえ、ノア。もし、誰に返事を渡せばいいか分からなかったら……どうしたらいいんだろう」


ノアは少し考えるように目を細めた。灯りの落ち着いた室内では、窓の外から雨だれの最後の音が微かに届いていた。


「そりゃ、相手を確かめるしかねえだろ。間違った相手へ渡して、ちゃんと届いたつもりになる方が厄介だ。もっとも、今回の記録が本当にそういう話だったかは、まだ分からねえがな」


「……うん。そこは、先生もまだ調べてるって言ってた」


アリシアは小さく笑い、帳面を閉じた。今日は少し前へ進んだことがある一方で、そのために新しい疑問も生まれた。けれど、疑問が増えたからといって、今日見つかった記録の意味がなくなるわけではない。


寝台へ向かう前、アリシアはもう一度だけ窓を見た。雨上がりの庭には薄い霧が漂い、遠くの校舎の窓に残る灯りが、濡れた石畳へぼんやり映っている。今日、子供が飾りたいと言った絵は、まだ壁へ掛けられていない。だが、場所を選び、担当者へ希望を伝えたことは、確かに残っている。


(……届いたかどうか分からない言葉もある。でも、まだ届いていないからって、誰かの気持ちまで勝手に決めなくていい。確かめられることは、きっとまだあるんだ)


アリシアは灯りを落とし、寝台へ横たわった。ノアはいつもの場所へ丸くなり、少し眠たげな声で「考え事はそこまでにしろよ」と言った。アリシアは小さく返事をし、今夜はこれ以上帳面を開かないと決める。


北側連絡廊下の封鎖は続き、古い目録の六番目の空白も埋まっていない。二つの通知に関する一次受付控えの記載は確認されたが、その違いの理由はまだ分からず、失われた確認票の所在も未確定のままだ。それでも、アリシアには今日、自分が何を知っていて、何をまだ知らないのかを落ち着いて言葉にできたことが嬉しかった。


窓の外では、雨粒の落ちる音がいつの間にか止んでいた。明日になれば、また別の天気になっているかもしれないし、今日の続きを確かめられるかもしれない。アリシアはそのどちらも急いで決めようとはせず、穏やかな眠りへ身を委ねた。


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