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『忘れられた六つ目の神器に選ばれました 〜人見知りな闇の少女と毒舌黒猫の学園英雄譚〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第324話 待ち合わせの朝と、二つの通知に残された違う印



朝の中庭には、夜の間に冷えた石畳の匂いがまだ残っていた。


日差しは穏やかで、花壇の葉先に宿った露が風に揺れるたび、小さな光を散らしている。授業の始まりまではまだ余裕があったが、中央学園の校舎へ続く道では、教科書を抱えた学生たちが三々五々歩き始めていた。


アリシアは中庭の入り口で立ち止まり、鞄の肩紐を持ち直した。昨日、メリルと待ち合わせを決めた場所である。自分から誘っておきながら、いざ一人で待ってみると、どこへ目を向ければよいのか分からなくなり、通り過ぎる学生と目が合うたびに少しだけ肩が強張った。


(……早すぎたかな。でも、授業に遅れるほど待つつもりはないって、二人で決めたもの)


約束した時には、それで十分だと思っていた。ところが今朝、部屋を出る直前になって、もしメリルが来なかったらどうしよう、と考えてしまったのだ。相手にも事情があると頭では分かっているのに、嫌われたのではないかという昔からの癖が、ほんの少し顔を出した。


「お前、今度は石畳に穴でも開けるつもりか」


足元からノアの声が上がった。黒猫は日向と日陰の境目に座り、動かないアリシアを見上げている。


「……穴なんて、開けないよ」


「なら、足元ばっかり見てねえで顔を上げろ。待ち合わせってのは、相手を探すためにするもんだろうが」


アリシアは少し頬を赤くして、顔を上げた。中庭を挟んだ向こう側では、二人連れの学生が笑いながら歩き、校舎の入口では誰かが忘れ物に気づいて引き返している。そんなありふれた朝の様子を眺めているうちに、張り詰めていた気持ちが少しずつ緩んできた。


「……ノアは、待つのが苦手?」


「相手と時間を決めてるなら別に構わねえよ。何も決めずに延々と待つのは御免だがな。お前らは昨日、遅れそうなら先へ行くって決めただろ」


「……うん。それなら、私がずっとここにいなくても、メリルは困らないよね」


「そういうことだ。来ない理由まで今から勝手に作る必要もねえ」


アリシアが小さく頷いた時、校舎とは反対側の道から明るい声が聞こえた。


「アリシア! おはよう!」


メリルは少し早足だった。その隣には、まだ制服の着方に慣れていない様子の下級生が一人いて、手にした教室の案内を何度も確かめている。アリシアに気づいたメリルは片手を上げ、下級生へ廊下の方向を示してから、こちらへ近づいてきた。


「おはよう。ごめんね、来る途中で教室が分からない子に会って、一緒に案内板を見てたんだ。まだ約束の時間には間に合ってると思うんだけど……」


「……うん。大丈夫。私も、少し前に来たところだから」


アリシアが答えると、メリルの顔に安心したような笑みが広がった。下級生も控えめに頭を下げ、教えられた東側の階段へ歩いていく。昨日までなら案内板の前で立ち止まっていたかもしれない道を、今朝は迷わず進めたらしい。


「よかった。あの子、最初は北側の廊下を使うつもりだったみたい。でも補助案内を見たら、どこを通ればいいか分かったって言ってたよ」


「……直してもらえて、よかったね」


「うん。それに、アリシアも待っていてくれてありがとう。待ち合わせって、思ってたより嬉しいね。教室で会うのとは少し違う感じがする」


メリルは照れたように笑い、アリシアの隣へ並んだ。アリシアも頬に熱が集まるのを感じたが、今度は目を伏せずに答えた。


「……私も、嬉しい。来る前は少し緊張したけど、会えたら安心したから」


「じゃあ、また無理のない日に約束しよう。毎朝って決めちゃうと、忙しい日もあるもんね」


「……うん。そうしたい」


二人は校舎へ向かって歩き出した。ノアは少し後ろからついてきたが、途中で追いつくと、やれやれとでも言いたげに尻尾を振った。


「まったく、朝の待ち合わせ一つで大騒ぎだな。まあ、時間どおりに二人とも揃ったなら上出来だ」


「ノアだって、ちゃんと一緒に待ってくれたじゃない」


「俺はお前が迷子にならねえよう見張ってただけだ」


メリルが楽しそうに笑い、アリシアもつられて笑った。北側の仕切りはまだ外されていなかったけれど、その前で立ち止まる人は少なくなっている。三人は補助案内の矢印に従い、明るい東側の廊下へ進んでいった。


◇


午前の実習室では、前日に作成した五人分の記録が、机の上へ返却されていた。


魔力灯をそれぞれ違う場所から観察した時、アリシアには右端の小さな揺れが見え、テオには仕切りのためにその部分が見えなかった。フィオナは少し離れた位置から全体の明るさの変化を捉え、エドガーは開始と終了の合図を確かめ、メリルは灯りへ魔力を流す役割を担っていた。


教師が記録を読み上げることはなかったが、余白にはいくつかの指摘が書き込まれている。アリシアは自分の紙を開き、「見た範囲を明記できている」と記された一行に気づいて、胸の奥が少し温かくなった。


「今日は、この記録を使って、ほかの人に状況を説明する練習をします」


教師がそう告げると、教室に小さなどよめきが広がった。実技が続くものと思っていた学生たちは、互いの顔を見合わせたり、慌てて記録紙の端を押さえたりしている。


「全員が実験を直接見たわけではありません。記録から分かること、分からないことを聞き手へ伝えてください。説明の上手さだけではなく、質問を受けた時に確かめられていない点をどう扱うかも見ます」


メリルは早速、五人の紙を中央へ寄せた。エドガーが説明の順序を考え始める一方、フィオナは記録の端へ置いた指を動かさず、少し難しい顔をしていた。


「……フィオナ、大丈夫?」


アリシアが声を掛けると、フィオナは顔を上げた。驚いた様子はなかったが、笑おうとした唇に少し硬さが残っている。


「ありがとう。説明するのはできると思うの。でも、私の記録は光が弱まったように見えたって書いてあって、ほかの人の内容と少し違うでしょう。質問された時、ちゃんと話せるか心配で」


「違ったなら違ったまま話せばいいって、昨日先生に言われたろ。無理に揃えたら、俺たちがどこにいたのかまで分からなくなる」


エドガーが答えたものの、フィオナはすぐには頷かなかった。記録として残す時と、人前で説明する時では、同じ事実でも勇気の要り方が違うのだろう。


アリシアも人前で話すのは得意ではない。皆の視線が集まると、用意していた言葉まで忘れてしまうことがある。それでも、今日のフィオナに「大丈夫」と言うだけでは足りない気がした。


「……先に、私たちに説明してみる?」


フィオナがアリシアを見た。アリシアは膝の上で手を軽く握り、自分も緊張していることを隠さず続けた。


「……ほかの人から質問される前に、私たちが聞いてみたら、答えにくいところが分かるかもしれない。無理に全部答えなくても、記録を見て確認していいと思うから」


「それ、いいね。説明する人を一人に決める前に、班の中で確かめよう」


メリルが賛成し、テオも記録紙の余白を開いた。フィオナは少し迷ったあと、小さく頷いて椅子を引いた。


最初の説明では、フィオナは光が弱くなったように見えた時点を話そうとして、開始からどの程度経っていたかで言葉に詰まった。するとエドガーが終了合図までの記録を示し、アリシアが自分の観察に記した順序を伝えた。


「私の位置からは右側の揺れが見えたけど、フィオナと同じ時に弱くなったかまでは分からないの。だから、そこは並べて書いておいた方がいいと思う」


「そうね。同じ現象だったかどうかも、今の記録だけでは言えないものね」


フィオナは慎重に頷き、説明用の紙へ短い補足を書き加えた。その横でテオは、一人の観察者から全体が見えていたわけではないことを先に示せば、聞き手も違いを理解しやすいのではないかと提案した。


二度目の練習では、フィオナの声が少し落ち着いていた。全員の記録を揃えるのではなく、観察した場所を図で示し、その下へ各自の内容を並べる。途中でメリルがわざと「結局、灯りはどうなったの?」と尋ねると、フィオナは一瞬黙ったものの、記録紙を見てから答えた。


「私たちが確認できた範囲では、右端の揺れと、全体が少し弱まったように見えたという記録があるの。でも、その二つが同じ変化だったかどうか、原因まで分かったわけではないわ」


「うん、その説明なら私も分かりやすい!」


メリルの笑顔に、フィオナは大きく息を吐いた。アリシアは自分の緊張まで少し和らいだように感じたが、あえて大げさに褒めることはしなかった。フィオナが自分の力で言葉を選んだことを、隣で静かに受け止めていた。


実際に班の説明を行う時には、エドガーが配置図を示し、フィオナが観察結果を伝え、テオが未確認の部分を補った。メリルは使用者側の状態を説明し、アリシアは聞き手からの質問に対して、自分の位置からどの部分を見たのかを話した。


「右端が揺れたと判断したなら、そこには必ず変化があったと言えるんですか?」


別の班の学生から尋ねられ、アリシアは一瞬喉を詰まらせた。自分が見たことを疑われたように感じたのではない。確かめたことを、どこまで強く言葉にしてよいのかが分からなくなったのだ。


少しだけ間を置き、アリシアは記録紙へ目を落とした。


「……私には、右端が一度揺れたように見えました。でも、その場所を別の人が同じ条件で見ていたわけではないから……必ず同じように見えるかどうかまでは、確かめられていません」


質問した学生は頷き、教師も穏やかに言葉を添えた。


「今のように、観察したことを伝えながら、その記録の限界も説明できれば十分です。ほかの人が違う結果を得た場合は、どちらかを消すのではなく、条件を比較するところから始めましょう」


説明を終えて席へ戻ると、フィオナがアリシアへ小さく微笑んだ。


「さっき、質問されてもちゃんと答えていたわね。私、あの聞き方をされたら慌てていたかもしれない」


「……私も、すごく緊張したよ。でも、フィオナが最初に説明してくれたから、私も話してみようって思えたの」


その言葉にフィオナは少し目を丸くし、それから照れたように笑った。班の誰か一人がうまくできればいいのではなく、各自の苦手なところを少しずつ支えられたことが、アリシアには嬉しかった。


◇


昼休み、アリシアたちは中庭に面した食堂の席で昼食を取った。


エドガーは説明に使った配置図を折り畳みながら、教師から返された質問の数を数えていた。テオは細かな部分をまだ考えていたようだが、メリルにパンを勧められると、ようやく紙を鞄へしまった。


「フィオナの説明、分かりやすかったな。最初にどこから見たか教えてくれたから、光の変化も想像しやすかった」


エドガーに言われ、フィオナは少し恥ずかしそうに笑った。


「皆が先に質問してくれたからよ。練習しないまま話していたら、もっと曖昧な説明になったと思う」


「私も、途中でフィオナの答えを待たずに口を挟みそうになったんだよね。でも、ちゃんと最後まで話してくれたから、私が代わりに説明する必要はなかったんだって思った」


メリルがそう言うと、エドガーが頷いた。普段なら話の流れを明るく引っ張る彼女も、今日はフィオナの言葉を最後まで待とうとしていた。そのことをフィオナも感じていたらしく、卓上の水杯を両手で持ちながら、メリルへ感謝を伝えた。


アリシアは食事を進めながら、そのやり取りに耳を傾けた。自分が見たことを話すのも難しかったが、誰かが話そうとしている時に、助けたい気持ちで先回りしないことも難しいのだと思った。


食堂の入り口から新たな学生の一団が入ってきて、空いている席を探していた。近くの卓では北側連絡廊下の迂回路について話している学生もいたが、以前のように案内が見えないと困る声は、今は聞こえなかった。


「北側、いつまで閉まるんだろうな。朝の移動が少し長いから、もう慣れちまったけど」


「案内は増えたし、前より迷わなくなったよ。安全になったらまた使えるんじゃない?」


そんな会話が聞こえると、アリシアは少しだけ顔を上げた。封鎖が続いているという事実は変わらないが、その影響を受ける学生たちは、自分なりに毎日の動き方を変えている。誰もが調査の詳細を知る必要はなく、だからこそ学園からの案内は分かりやすく保たれていなければならない。


「アリシア、午後はグラン先生のところへ行く?」


メリルが尋ねた。アリシアは匙を置き、少し考えてから答えた。


「……授業の記録で、聞いてみたいことが一つあるの。でも、先生がお忙しかったら、別の日にしようと思ってる」


「そっか。じゃあ、私たちは先に戻ってるね。もし後で話したくなったら、今日の説明のことも聞かせて」


アリシアは頷いた。メリルは必要以上に詳しく尋ねず、食事の話題を次の授業へ戻してくれた。アリシアも、今ここで無理に北側の調査へ話を結びつけるのではなく、友人たちとの昼休みをそのまま楽しむことにした。


◇


午後、グラン先生は中央記録室の管理担当者から届いた返信を読み直していた。


前日に確認された二つの通知は、いずれも同じ仮設記録器から近い時刻に発せられていた。時計差を補正して比較すると、受信側へ残った時刻に相対的な違いがあったため、先生は送信時の扱いと受信側の処理について照会していた。


今回届いたのは、そのうち記録上で確認できる部分を整理した回答だった。二つの通知は送信側の記録では同じ形式に分類されており、少なくとも送信側で異なる種類の通知として扱われたことを示す記載はなかった。


しかし受信側の一覧では、片方の記録にだけ『照合待ち』という補助区分が付いていた。


グラン先生は、その文字を見てしばらく手を止めた。どこかの時点で照合を必要とする扱いになっていた可能性を示すものだが、その印がいつ付いたのか、誰の操作によるものなのか、そもそも時刻の記録方法にどのような影響があったのかまでは、返信から読み取れない。


(……片方だけに違う区分が残っていた。これは確認できる。ただ、だから遅れたと決めるのはまだ早いな)


先生は資料を並べ直した。同じ形式の通知が送信され、受信側では異なる補助区分が記録されていた。二つの記録の間に時刻差もある。だが、その三つがどのような順序で生じたのかは、まだ分からなかった。


『照合待ち』が送信時点から必要な扱いだったのか、受信側で内容を確かめる際に付けられたのか。それによって受信記録の作成が遅れた可能性はあるのか。それとも時刻の違いとは無関係な、後からの分類なのか。どの可能性も、今は資料だけで確定できない。


先生は管理担当者へ、補助区分の意味を定めた手順書と、区分が付く段階を確認できる記録があるかを照会する準備を始めた。封緘資料の中身へ触れる依頼ではないし、現場の仮設記録器を動かす指示でもない。現存する受信側の管理手順を確かめるためのものだった。


ノックの音が聞こえたのは、その書類をまとめ終えた頃だった。


「どうぞ」


扉を開けたアリシアは、ノアとともに室内へ入ってきた。先生は資料を重ね、共有できる範囲を示した紙だけを手元に残した。


「こんにちは、アリシア。今日も授業は無事に終わったかな」


「……こんにちは。はい。今日は、昨日の記録を使って、ほかの班の人へ説明しました」


アリシアは椅子へ座り、実習での出来事を話した。同じものを見ても観察位置によって記録が異なること、班の五人が説明の役割を分けたこと、フィオナが質問へ答えられるよう皆で先に練習したこと。先生はところどころで頷き、彼女が話し終えるまで急がせなかった。


「……それで、分からないことがあっても、何を確認できていないか話せればいいんだって思いました。でも……答えられないことが多いと、相手ががっかりするんじゃないかって、少し怖かったです」


アリシアは膝の上で指を組んだ。自分の記録が疑われたわけではないと分かっていても、人前で不確かな部分を認めることにはまだ緊張が伴う。


「がっかりする人もいるかもしれないね」


グラン先生は、簡単に否定しなかった。アリシアは意外に思って顔を上げたが、先生の表情は穏やかだった。


「けれど、相手が期待しているからといって、分からない部分まで分かったことにはできない。その場では喜んでもらえても、間違った説明で判断を誤らせてしまえば、あとからもっと困らせることになる」


「……はい」


「だから、何を確かめられたかを説明したうえで、まだ確かめられていないことを伝える。その後、必要なら別の人の知識や資料を借りて調べる。今日の君たちの班は、その練習をうまくできたんじゃないかな」


アリシアはフィオナが説明を終えた時の笑顔を思い出した。全部を知っている人が一人で答えるのではなく、それぞれが見た範囲を持ち寄ったからこそ、聞き手に伝えられることが増えたのだ。


「……少しだけ、そう思います。私一人だったら、あんなふうに話せなかったから」


「それなら、今日はとてもよい実習になったね」


グラン先生はそう答えたあと、机の脇へ置いた紙を取り上げた。


「北側の記録についても、一つ共有できることが増えたよ。君が昨日聞いた二つの通知を覚えているかな」


アリシアは背筋を伸ばした。近い時刻に同じ仮設記録器から出され、受信側に残る時刻が同じようには説明できなかった二つの通知である。


「……はい。片方は時計の差を考えると大きな隔たりが残らなくて、もう片方は……相対的に遅れて記録されていたんですよね」


「その通り。今日の回答では、送信側に残る二つの通知の形式は同じだったと確認できた。一方で、受信側の一覧には一つだけ違う印が付いている」


先生は『照合待ち』という文字を、アリシアにも読めるよう紙の上で示した。


「……照合、待ち……?」


「受け取った記録を、何らかの確認が必要な扱いとして分類するための区分かもしれない。ただし、正確な意味と付けられる手順については、今確認を求めているところだよ」


アリシアは少し考えた。送信側では同じ形式だったのに、受信側の記録には違う印がある。そのことは新しく分かったが、遅れて残った理由がその印だと決められたわけではない。


「……その印が付いていたから、遅くなったんですか?」


「まだ、そうとは言えないね。遅れて記録されたあとに印が付いた可能性もあるし、時刻とは直接関係しない区分かもしれない。どの順番で処理されたのかを確認する必要がある」


先生の説明を聞いて、アリシアは小さく頷いた。見つかった違いをすぐ原因へ変えてはいけない。午前中の実習で学んだことが、今聞いている話にも必要だと感じられた。


「……じゃあ、次に確かめるのは、その印がどういう時に付くのか、ですね」


「そうだよ。今は管理側へ手順の確認をお願いしている。君が設備へ近づいたり、封緘された資料を開いたりする必要はない」


ノアが足元で低く鼻を鳴らした。


「外側の札だの受信側の印だの、紙の上で話が進んでるように見えるが、まだ決定打にはならねえってわけか」


「そういうことだね。ただ、どこへ照会すべきかは以前より絞れてきている。そこには意味があると思うよ」


グラン先生は穏やかに答えた。アリシアは机の上の紙を見つめながら、二つの通知を頭の中で比べようとしたが、見たことのない装置の内部まで思い描くのはやめた。知らない仕組みを勝手に補えば、かえって今分かっていることまで曖昧になる。


「……先生、六番目の空白とは、まだ別に考えた方がいいんですよね」


「そうだね。現時点でこの印と古い目録の空白を結びつける根拠はない。もちろん、可能性を調べることはできるけれど、その前にそれぞれの記録を正確に理解する必要がある」


アリシアは頷いた。少し期待が膨らみかけたことに気づいたものの、残念な気持ちばかりではない。何が新しく見つかり、何が依然として分からないのか、先生の話を最後まで聞くことができた。


「……ありがとうございます。今日も、一つだけ覚えて帰ります」


「一つだけ?」


「……同じ形式の通知でも、受信側の記録には違う印が残っていた。でも、その印がどうして付いたかは、まだ分からない。……そういうことですよね」


グラン先生は微笑んだ。


「十分正確だと思うよ」


その答えに、アリシアはほっと息をついた。答えが見つからない日の帰り道にも、確かに持ち帰れる情報がある。だからといって自分が次の調査まで引き受ける必要はないことを、今は少しずつ理解できていた。


◇


生活観測区画の共有室へ入ると、子供は昨日描き始めた空の絵を、机の上に広げていた。


紙の橋は保管箱へしまわれており、机の上には青と白の色鉛筆、それから少し短くなった黄色の色鉛筆が並んでいる。窓から差す夕方の光の中で、子供は大きな雲の輪郭を描こうとしていたらしく、アリシアに気づくと少しだけ手を止めた。


「こんにちは、アリシア。今日はね、空をもっと大きくしたの」


「……こんにちは。昨日より広くなったんだね」


「うん。でも、まだここは描いてないの。何を描こうか考えてるんだ」


子供は紙の右下を指さし、それから鉛筆を持ち直した。少し離れた場所には顔のない存在がいて、普段と変わらず静かに過ごしている。


アリシアは子供の隣へ座り、今描きたいものを尋ねた。子供は青い空の下に家を描いて、その隣へ何かを置きたいと話したが、何を描くかはまだ決めていなかった。


「……思いつくまで空けておいてもいいと思うよ。あとで描きたくなったら、そこに足せるから」


子供は少し考えてから、小さく頷いた。


「じゃあ、今日はここは空けておく。明日、違うものが描きたくなるかもしれないし」


アリシアは微笑んだ。六番目の空白のことが一瞬頭をよぎったが、すぐに目の前の絵へ視線を戻した。子供が紙に余白を残す理由は、今本人が話してくれている。古い目録の空欄と同じ意味を持たせる必要はない。


しばらくして、子供は青い色鉛筆を置いた。机の上に広がった絵を見つめたまま、少し迷うように唇を結んでいる。


「……どうしたの?」


「この絵ね、まだ誰にも見せたくないところがあるの。アリシアはもう見てるけど、ほかの人に見せなくてもいい?」


思いがけない言葉だった。アリシアは子供の横顔を見つめ、その表情が怒っているわけでも、困り果てているわけでもないことを確かめた。


「……うん。見せたくないなら、見せなくていいよ。しまう場所が必要なら、担当の人に一緒に相談しようか」


「描いたら、みんなに見せた方がいいのかなって思ってた。でも、もう少し自分で描いてからにしたいの」


子供の声は小さかったが、言葉ははっきりしていた。アリシアはその気持ちを受け止め、絵の内容についてさらに尋ねることをやめた。


「……分かった。今は、あなたが描いていたいんだね」


「うん。あとで見せたくなったら、アリシアにも見せるよ」


子供は安心したように笑った。ちょうど近くを通った担当者へ事情を伝えると、絵を傷めずに置ける場所について相談できた。子供は自分で紙を持ち上げ、ほかの人が何気なく開いてしまわないよう、保管用の紙ばさみに挟んでもらった。


「これなら、また続きを描けるね」


担当者に言われ、子供は嬉しそうに頷いた。誰かが見たいと言ったとしても、本人が見せるかどうかを決められることを確認してから、アリシアの隣へ戻ってくる。


「ねえ、アリシア。今日はもう描かないで、お話ししてもいい?」


「……もちろん。何のお話にしようか」


「昨日の橋のことでもいいし、今日の空のことでもいいよ。アリシアは何が好き?」


アリシアは少し考えてから、窓の外を指さした。


「……私は、雨が上がったあとの空が好き。雲の隙間から光が差すと、庭の木がいつもと違う色に見えるから」


「へえ。じゃあ、今度雨が上がったら、一緒に窓から見たいな」


「……うん。見られたら、嬉しいな」


二人はそのまま、好きな空の色や雲の形について話した。顔のない存在は離れた場所にいたが、子供は反応を求めて声を掛けることもなく、自分の話したいことを話していた。


アリシアも、今日の会話を何かの観測へ変える必要はないと感じていた。青い色鉛筆を使ったからといって、以前の線の動作と結びつける理由はない。今はただ、子供が描いた空について話したいと望み、その時間を一緒に過ごしているのだ。


◇


夕方、共有室を離れる前に、アリシアは担当者へ今日の出来事を伝えた。


子供が絵の一部をまだ見せたくないと話し、本人の希望に沿って紙ばさみへ保管したこと。誰かが中身を確かめるような働きかけは行わず、子供自身があとで見せるかどうかを決めると話していたこと。それから、顔のない存在については新しい動作を求めたり、反応を引き出したりしていないことを確認した。


担当者は静かに頷いた。


「作品を残したい時も、見せたい時も、本人が決められるようにしたいですね。今日の希望は私たちも共有しておきます。勝手に開いて見てしまわないよう、保管の扱いにも気をつけます」


「……ありがとうございます。あの子、自分で決められて嬉しそうでした」


アリシアが答えると、担当者は少し微笑んだ。以前の生活観測区画では、役割や反応を確かめることが前面に出やすかった時期もあった。今は、何も求められずに休むことや、誰にも見せない絵を描くことも、そこにいる者たちの日常として守られている。


廊下へ出ると、ノアがアリシアの横を歩きながら、低い声で言った。


「見せたくねえって言葉を、ちゃんと聞いてやれてよかったじゃねえか。あいつ、そう言うまで少し迷ってただろ」


「……うん。見せてもらえたら嬉しいけど、まだ見せたくないなら、それでもいいって思ったの」


「そいつでいい。見せてもらうために仲良くしてるわけじゃねえんだからな」


アリシアはその言葉を聞き、歩幅を少し緩めた。子供が自分の絵を見せたいと思う日が来るかもしれないし、そのまま見せないかもしれない。どちらであっても、一緒に話した時間まで違うものになるわけではなかった。


窓の外では夕日が校舎の壁を赤く染めている。アリシアは今日の空の色を覚えておこうと、しばらく歩きながらその景色を眺めた。


◇


夜、自室へ戻ったアリシアは、机の上へ実習の記録紙を広げた。


班で作った配置図には、五人が座った位置と、それぞれが見た範囲が記されている。フィオナが説明の途中で迷った箇所には、質問を受けた時のために書き足した補足も残っていた。アリシアはその文字を見つめ、午前中の教室で皆が順番に言葉を重ねていった時間を思い出した。


(……今日は、誰か一人が全部知っていなくても、ちゃんと説明できた。聞かれたことに答えられない時も、皆で確かめればよかったんだ)


そのあと、グラン先生から共有された内容を小さな帳面へ整理した。二つの通知は送信側では同じ形式として残っていること。受信側の一覧では、片方にだけ『照合待ち』の区分があったこと。その区分がいつ、何のために付けられ、時刻の差と関係するのかはまだ分からないこと。


アリシアは書き終えてから、一度だけ読み直した。新しく分かった点が確かにある。だが、北側連絡廊下を安全に通れるようになったわけではなく、探している確認票も、六番目の空白の意味も、依然として未確定だった。


「おい、今日はそれで終わりか?」


寝台の方からノアが声を掛けた。アリシアは振り返り、少しだけ笑った。


「……うん。今日は、もう書くことがまとまったから」


「珍しいじゃねえか。昨日までなら、同じところを三回くらい読み直してたぞ」


「……読み直すのは、悪いことじゃないよ」


「悪かねえが、寝る時間まで削ってやるこっちゃねえ。で、今日は何が一番嬉しかったんだ?」


アリシアは答えようとして、少しだけ迷った。待ち合わせでメリルに会えたことも、班の説明が無事に終わったことも、子供が自分の絵を大切にしまえたことも、どれも嬉しかったからだ。


「……一つに決めないと、駄目?」


ノアは目を丸くし、それから短く笑った。


「誰が一つに決めろって言ったよ。お前がそう思ったなら、好きなだけあっていいだろ」


アリシアも思わず笑った。聞かれたことへ一つの正解を返さなければならないという気持ちが、まだ少し自分の中に残っているらしい。


「……じゃあ、今日は三つある。朝、メリルと会えて嬉しかったのと、フィオナが自分の言葉で説明できたこと。それから、あの子が絵をしまう時に安心した顔をしてたこと」


「十分じゃねえか。今日はずいぶん賑やかな一日だったな」


「……うん。でも、嫌な疲れ方じゃなかった」


アリシアは身体の状態を一度確かめた。痛みや苦しさはなく、魔力の実技でも無理はしていない。ただ、教室で人前に立った時の緊張が少し残っているようで、肩を回すとじんわりと力が抜けた。


ノアはそれを見て、寝台の端を前足で軽く叩いた。


「だったら今日はさっさと休め。明日はまた授業があるんだろ。答えの出ねえ謎を抱えてても、お前が眠っちゃいけねえ理由にはならねえからな」


「……うん。おやすみ、ノア」


アリシアは帳面を閉じ、明日のために鞄の中身を確かめてから灯りを落とした。窓の外では、昼間に吹いていた風が弱まり、庭木の枝が時折小さく揺れている。寝台へ入ると、朝の中庭でメリルが手を振ってくれた姿が、自然に思い浮かんだ。


明日も同じ時間に待ち合わせると決めたわけではない。それでも、あの場所で会おうと約束した朝が、今日一日を少し楽しみにしてくれたことは確かだった。


北側の記録には、新しく『照合待ち』という印が見つかった。そこから何が分かるのかは、管理側の確認を待たなければならない。アリシアはまだ知らないことを無理に埋めようとせず、教室で五人が記録を持ち寄った時のように、分かっている部分だけを胸の中へ静かに残した。


そのうち眠気が訪れ、窓の外の物音は少しずつ遠くなった。アリシアは今日誰かと交わした言葉をもう一度思い出そうとしたが、途中で考えるのをやめ、安らかな眠りへ身を委ねた。


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