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『忘れられた六つ目の神器に選ばれました 〜人見知りな闇の少女と毒舌黒猫の学園英雄譚〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第325話 返事が届くまでの距離と、遅れを生まなかった印


翌朝、アリシアが中庭へ出た時、昨日の待ち合わせをした場所には、まだ誰も立っていなかった。


淡い朝日が花壇の縁を照らし、石畳の隙間には夜露が細く残っている。メリルと今日は待ち合わせをしていないから、そこで足を止める必要はないはずだったが、アリシアは昨日、手を振りながら歩いてきた友人の姿を思い出し、ほんの少し歩幅を緩めた。


(……約束した朝が、一回だけでも嬉しかったんだな)


自分から誘い、無理のない時間と場所を決め、相手が来ない場合のことまで話し合えた。以前なら、そこまで口にする前に考えすぎてしまっただろう。昨日の朝を思い出しても、緊張したことより、メリルの笑顔の方が先に浮かんでくる。


「何だ、今日は待ち合わせじゃねえだろ。そこに立ってたら、昨日の続きが始まるとでも思ってんのか」


ノアが足元で尻尾を立てた。アリシアは少し慌てて首を横に振り、歩き始める。


「……そうじゃないよ。昨日、ここで会ったなって思っただけ」


「なら結構。よかったことを思い出すのは構わねえが、相手も今日また来るはずだなんて決めつけんなよ」


「……うん。今日は、教室で会えたら話すつもり」


そう答えると、ノアは満足したように鼻を鳴らした。中庭には、いつもどおり登校する学生の声が行き交っている。約束がなくてもそれぞれの朝は始まり、約束がなくなったからといって、昨日の嬉しさまで消えるわけではなかった。


北側連絡廊下へ続く通路には、補助案内が変わらず取り付けられていた。曲がり角から見える矢印のおかげで、初めて迂回路を使うらしい学生も、立入禁止の仕切りへ近づかずに東側の階段へ向かっていく。封鎖そのものは続いていたが、アリシアは案内板を何度も確かめる代わりに、教室へ向かう足を止めずにいた。


途中で下級生が二人、通路の反対側から歩いてきた。一人が手にした教室案内を見上げ、もう一人に何かを説明している。二人は補助案内の前で短く言葉を交わしたあと、迷うことなく階段を上っていった。


(……ちゃんと使われてる)


それが分かっただけで、アリシアは少し嬉しかった。見えにくさを報告したのは自分たちでも、案内を直したのは学園の職員であり、利用するのはそこを歩く学生たちである。誰か一人が全部を行ったのではなく、それぞれの仕事がつながって、ようやく毎日の道が少し歩きやすくなったのだ。


◇


午前の実習室には、いつもの魔力灯に加えて、小さな合図板と記録用の札が用意されていた。机は五人が向かい合う形ではなく、少しずつ間隔を空けて並べられている。隣の席の声は聞こえるが、実習用の仕切りに遮られる場所もあり、一人の学生が全員の手元を同時に見ることはできない配置だった。


アリシアが着席すると、すでに来ていたメリルが笑顔で手を振った。エドガーは合図板の裏面を確かめており、テオは教師から配られた説明書を読み、フィオナは机の距離を測るように席の間を見渡している。


「アリシア、おはよう! 昨日は一緒に歩けて楽しかったね。今日は待ち合わせじゃないけど、ちゃんと教室で会えた!」


「……おはよう、メリル。私も、昨日は嬉しかった」


メリルの言い方がおかしくて、アリシアは小さく笑った。その声を聞いたフィオナも表情を和らげたが、目はすぐに机の上の札へ戻っていく。


「今日は何をするのかしら。昨日は見たことを説明したけれど、今度は人から人へ伝える練習みたいね」


「そうらしいな。机が離れてるってことは、一人が全部見て判断するのは無理だ。まあ、合図を順番に渡すんだろうけど」


エドガーが言うと、テオは説明書を持ち上げた。


「正確には、渡したかどうかも記録するみたいだよ。合図を出した側と、受け取った側がそれぞれ確認する欄がある。途中で分からなくなったら先へ進まない、って注意も書いてある」


教師が教壇へ立つと、実習室のざわめきが少しずつ収まった。今日の課題は、五人で小さな魔力灯を安全に点け、決められた段階で消灯することだった。ただし、魔力そのものを強く使うのではなく、開始前の確認、途中の引き継ぎ、停止の伝達を練習するために、出力はごく小さく制限されている。


「合図を出した人が『伝えた』と感じても、相手が受け取れたとは限りません。反対に、返事がなかった理由も、一つには決められません。今日は、返事が確認できない時にどこで止まるかを、班ごとに考えてください」


教師は机に置いた札を示した。そこには『準備』『開始』『停止』の三種類だけが書かれている。実習で使う合図は、かつて観測された東西の刺激とはまったく別の、教室内の取り決めだった。


五人は最初の役割を相談した。メリルが最初の確認を出し、エドガーがその返事を引き継ぐ。テオは魔力灯の操作を担当し、フィオナは全体の停止確認を受け持つことになった。アリシアは、合図がどこまで確認されたかを記録する位置に座る。


「アリシア、見えないところは推測で埋めなくていいからね。私も聞こえた言葉はちゃんと残すよ」


フィオナがそう言うと、アリシアは頷いた。昨日、フィオナが人前で説明する前に何度も記録を確かめていた姿を覚えている。今日は彼女自身が、ほかの人の緊張まで気に掛けてくれていた。


「……ありがとう。私も、聞こえなかったらそう書くね」


最初の練習は順調に進むように見えた。メリルが準備の合図を出し、エドガーが復唱する。テオが手元の灯りへわずかな魔力を流すと、机の上に小さな光が点った。教室のほかの班でも似た作業が始まっており、椅子を引く音や教師へ質問する声が重なっていた。


アリシアは合図の順番を書き留めていたが、途中で一つ気になることに気づいた。エドガーがテオへ次の指示を送った時、テオは合図板へ目を向けたものの、返事をしなかったのだ。光の状態を確かめていて聞こえなかったのか、返事を省いたのかは分からない。


ところが、エドガーはテオが板を見たことを、受け取った合図だと考えたらしい。


「よし、伝わったな。次の段階へ行こう」


エドガーが言い終える前に、アリシアは自分の記録紙へ目を落とした。そこには、テオからの受領確認を示す欄がまだ空いている。自分には返事が聞こえていないだけかもしれないが、少なくとも確認できたとは書けなかった。


「……あの、少し待って」


思ったより小さな声が出た。隣の班の話し声と重なり、エドガーは気づかず合図板へ手を伸ばしかける。アリシアの胸がきゅっと縮んだが、今は迷っている間にも次の操作が進むかもしれない。


「……停止してください。返事を、まだ確認できていません」


今度は届く声だった。フィオナがすぐに停止の札を掲げ、エドガーも手を止める。テオは決められた手順で魔力を下げ、魔力灯の光がゆっくり消えた。教師が近くから状態を確かめ、全員が操作を終えたことを確認する。


静かになった机の周囲で、アリシアは自分の声が少し震えていたことに気づいた。エドガーが驚いた顔をしていたため、相手を責めたように聞こえたのではないかと心配になり、つい謝りかける。


「……ごめん、私、急に……」


「いや、止めてくれて助かった。俺、テオがこっち見たから返事したと思い込んでたんだ」


エドガーは合図板から手を離し、テオへ顔を向けた。テオは少し困ったように笑いながら、操作していた机の位置を示す。


「僕は板が動いたのは見たよ。でも、合図を全部読めたわけじゃなかった。灯りが一度揺れたから、そっちを確かめてたんだ。だから返事をしないで、次の指示を待ってた」


「なるほどな。俺が見たのは、お前が顔を上げたところだけだったわけか」


エドガーは大きく息を吐いた。テオも頷き、二人はどちらかを責めることなく記録を見直した。フィオナはまだ停止の札を手にしていたが、全員の確認が終わっていると分かると、ようやく机へ置いた。


「今の停止、私は必要だったと思うわ。準備ができていない人のまま先へ進まなくて済んだもの」


「うん! それに、アリシアの最初の声は私にもよく聞こえなかった。次からは、聞こえなかったら聞き返すようにしよう」


メリルがそう言うと、アリシアは少しだけ肩の力を抜いた。怖かったことは消えなかったが、自分から止めたいと伝えたことを、皆が必要な判断として受け止めてくれている。


教師は五人の記録を見比べ、穏やかに話した。


「今の班は、手順を途中で止めましたね。失敗を隠そうとせず、どの段階で確認が途切れたかを調べられているのはよいことです。ただし、停止を申し出た人だけが責任を負う形にはしないでください。確認を受け取れなかった側も、次にどうすればよいか一緒に考える必要があります」


その言葉を聞いて、アリシアは膝の上で指を握り直した。止めるために声を出すのは緊張したが、止めたあとに一人だけ取り残されることの方が、以前はもっと怖かった。今は、四人が同じ机を囲み、何が起きたかを自分の言葉で話してくれている。


◇


二度目の練習の前に、五人は合図の渡し方を変えることにした。


エドガーは板を見せるだけでなく、相手の名前と確認してほしい内容を短く伝える。テオは操作中に返事ができない場合、手を止めてから返す。返事が聞こえなければ、次の段階へ進むのではなく、もう一度確かめる。アリシアは記録を続けるが、自分だけが異常に気づく役にならないよう、フィオナも別の位置から確認することになった。


「それだと、二人が同じところを見ることになるかな」


アリシアが尋ねると、フィオナは首を横に振った。


「私は操作が終わったかどうかを見るわ。アリシアは言葉が届いたかどうかを記録してくれるでしょう。同じ役割じゃないし、どちらかが見落とした時にも確かめられると思う」


「……そっか。じゃあ、私は声の確認をするね」


今度の開始前には、全員が一度ずつ自分の役割を言葉にした。メリルは明るい声で準備の合図を送り、エドガーがそれを受けたことを返し、テオが操作に入る前に確認を行う。魔力灯の小さな光が点ると、机に落ちる影がゆっくり形を変えた。


途中でエドガーが次の確認を送った時、テオからの返事はすぐにはなかった。アリシアは記録紙の空いた欄を見て、胸の奥に緊張が戻るのを感じた。しかし、今度はエドガー自身が次の札へ手を伸ばさず、少し待ってから声を掛け直した。


「テオ、次へ進める状態か確認してくれ。難しければ、こっちは待つ」


「待って。まだ灯りが落ち着いてない。もう少ししたら返事するよ」


テオは魔力を一定に保ったまま答えた。エドガーは頷き、アリシアも未確認の欄へ勝手に印を付けなかった。やがてテオが準備完了を伝えると、五人は決めた順序で操作を進め、教師の終了合図に合わせて魔力灯を消した。


全員が手を離したあと、メリルがほっと息を吐いた。


「今のは、途中で少し待ったけど、慌てなくて済んだね。最初より声を掛ける回数が増えたのに、何をすればいいかは分かりやすかった気がする」


「俺も同じだ。返事が来ない間は進まないって決めてあると、こっちも勝手に判断しなくて済む」


エドガーが言うと、テオは操作していた手を軽く開いた。


「僕としても、少し待ってもらえるって分かってる方が集中できたよ。急いで返事しなきゃと思うと、手元の確認を途中で切り上げそうになるから」


フィオナは二人のやり取りを聞き、口元を和らげた。


「私は前の練習で停止の札を持つ時、少し怖かったの。でも、今日は誰かが遅れても、それだけで失敗って思わなくてよくなった気がする」


アリシアはフィオナの顔を見た。昨日、皆の前で説明することを怖がっていた彼女が、今日は自分の感じた不安を皆へ伝えている。そのことが嬉しくて、言葉にする前に少しだけ頬が緩んだ。


「……私も。声が届かなかった時、止めていいのか迷ったけど……皆が一緒に考えてくれたから、次は落ち着いて確認できた」


五人の記録を見た教師は、停止が必要だった最初の練習と、途中で確認を待ちながら進められた二度目の練習を、区別して残すよう指示した。どちらかを成功、もう片方を失敗として消してしまえば、何を変えたことで安全に進められるようになったか分からなくなるからだ。


隣の班でも、一度止めるべきか迷ったという声が上がっていた。教師は複数の机を回り、急いで終わらせることが目的ではないと繰り返し説明する。アリシアたちの班では、二度目の記録紙に「返事を待ってから続行」と書き加え、その前の空欄も消さずに残した。


それは小さな実習だった。けれど、アリシアにとっては、止まった時の気まずさを皆で受け止め、そのあと別の方法を試せたことが、何より心に残った。


◇


昼休みの食堂では、いつもより学生たちの声が大きく聞こえた。実習を終えた班が同じように昼食を取っているらしく、あちこちから札の扱い方や停止の合図についての話題が聞こえてくる。


アリシアたち五人は窓際から少し離れた丸いテーブルに座った。メリルが盆を置くなり、「今日はみんな、お疲れさま」と言ったので、エドガーが大げさに肩を落としてみせる。


「本当に疲れたよ。魔力を使ったのはテオとメリルが中心なのに、俺は声を出して待ってただけでこんなに疲れるとは思わなかった」


「声を出したあと、相手の返事を待つのって意外と落ち着かないものね。私は停止札を持ってるだけでも、いつ出すべきか考えちゃった」


フィオナが言うと、テオは頷いた。


「僕は返事をしない時、皆を困らせたんじゃないかって思ってた。でも、先に操作を安定させる必要があったから、返事するためだけに手を動かすのは危ない気もしたんだ」


「だったら、『ちょっと待って』って言えるといいね。でもそれも難しい時は、待つって決めておけばいいんだと思う」


メリルは温かな料理へ匙を入れながら言った。アリシアは皆の言葉を聞き、最初の練習で自分の声が届かなかった時のことを思い出した。もしあの時、エドガーが先へ進んでしまったらと考えるとまだ少し怖いが、今はその先を想像して責め合うより、実際に止められたことを大切にしたかった。


「……私、最初に小さな声で『待って』って言った時、届かなかったのが怖かった。でも、二回目には、ちゃんと聞いてもらえたから……自分で止めたいって伝えられてよかった」


少し迷いながら話すと、メリルが隣で頷いた。


「最初の声、私も聞こえなかったんだ。ごめんね。でも、だからこそ、途中で誰かの顔を見るだけじゃなくて、返事を確かめようって決められたんだと思う」


エドガーは匙を置き、アリシアへ向き直った。


「俺も謝りたかった。テオがこっちを見たから分かったって、勝手に決めたんだ。アリシアが止めなかったら、確認しないまま進んでたと思う」


アリシアは慌てて首を横に振った。謝ってもらうために止めたわけではない。ただ、エドガーが自分の判断を言葉にしてくれたことは嬉しかった。


「……責めたいわけじゃないよ。次は、みんなが安心して続けられたらいいなって思っただけ」


「うん。それなら、俺も同じだ」


その返事に、アリシアは胸の奥が温かくなった。エドガーは気まずさを隠すように笑い、メリルが別の話題を持ち出す。フィオナはその様子を見ながら静かに食事を進めていたが、やがてアリシアへ小声で話し掛けた。


「昨日、私が説明する前に、皆へ練習を提案してくれたでしょう。今日はその時のことを思い出して、私も停止の札を持とうって決めたの。怖くないわけじゃないけれど、誰かが止めたい時に、ちゃんと見ていたいと思ったから」


アリシアは少し目を丸くした。昨日自分が口にした提案が、今日のフィオナの選択につながっていたとは思わなかった。


「……ありがとう。フィオナが札を出してくれて、安心したよ」


「それなら、よかった」


二人は微笑み合い、再び食事へ向かった。窓の外では雲がゆっくり流れ、食堂の床には日差しが斜めに落ちている。五人それぞれに疲れはあったが、その疲れを一人で抱え込まずに話せた昼休みだった。


◇


午後、グラン先生のところへ中央記録室から照会結果が届いた。


前日に確認された『照合待ち』という補助区分について、受信側の管理手順書から分かる範囲が整理されたものだった。資料に目を通したグラン先生は、まず二つの通知を比較した前日の記録を開き、今回の回答と矛盾している部分がないか確かめた。


手順書によれば、『照合待ち』は受信側の一覧へ記録が作成されたあと、内容の確認が終わっていないものを区別するために付ける扱いになっている。少なくとも手順上は、この補助区分を付ける操作そのものが、一覧に最初の時刻を記す処理より前に行われることはない。


先生はその一文を読み、筆を持つ手を止めた。


(……補助区分は、記録ができたあとに付く。なら、その印を付けた操作が、最初の受信記録時刻を遅らせたと考えるのは、少なくとも手順書の説明とは合わない)


ただし、これで時間差の原因が分かったわけではない。現場で実際に手順どおり処理されたかどうかは別に確認が必要であり、『照合待ち』の理由が何だったのかも記録だけでは分からない。さらに、受信側の一覧に記録が作られる前の段階で何が起きていたかについても、今の回答では明らかになっていなかった。


グラン先生は、先に書き留めていた仮説の一つへ、慎重に線を引いた。『照合待ちの印を付けるために、受信側の最初の時刻が遅れた』という考えは、通常の手順が守られていたなら成り立たない。完全に否定するには個別の処理経過を確かめる必要があるが、その仮説を中心に調査を進める理由は弱くなった。


管理担当者からの返書には、二つの通知について個別の処理順序を確認できるか、引き続き調べる旨も記されていた。受信側一覧への登録前に残された情報があるかどうかも、今後の照会対象になるという。封緘された原簿類の内容を確かめたという知らせではなく、探している確認票が見つかったという報告でもなかった。


先生は机の上の別の紙へ、今回の更新を整理した。


『確認:補助区分「照合待ち」は、通常手順では受信側一覧の作成後に付く』


『未確認:対象となる二つの通知で、実際にいつ付与されたか』


『未確認:受信側一覧の記録時刻に差が残った原因』


今まで分からなかった部分に、一つだけ境界が引かれた。何が起きたかはまだ分からなくても、少なくとも通常の手順でどの順序になるのかが分かったのだ。先生は外の廊下から聞こえてきた学生の足音へ一度耳を傾け、それから資料を閉じた。


◇


放課後、アリシアはグラン先生の部屋を訪れた。今日の実習で、受領の返事を聞けないまま次の操作へ進みそうになったことを、先生にも報告しておきたかったからだった。


扉を叩いて入ると、先生は机の上の書類を重ね、アリシアが座れるよう椅子を勧めてくれた。ノアは足元で一度背中を伸ばし、窓際の日陰へ腰を下ろす。


「……こんにちは。今日は五人で、合図を引き継ぐ実習をしました」


「こんにちは、アリシア。どんなところが難しかったかな」


アリシアは少し考え、最初の練習で起きたことを順番に説明した。エドガーはテオが板を見たことを、返事を受け取ったのと同じように考えたこと。実際にはテオは合図を十分に読めておらず、アリシアにも返事が聞こえなかったこと。それでも、自分から停止を伝え、フィオナが札を掲げたことで、次の操作へ進まずに済んだこと。


グラン先生は途中で口を挟まず、最後まで聞いた。


「……でも、最初の『待って』は小さくて、届かなかったんです。二回目は言えたけど……少し怖かった」


アリシアは膝の上へ視線を落とした。皆が受け止めてくれたことは嬉しかったが、声を大きくした瞬間の緊張はまだ身体に残っていた。


「伝える必要があると思って、もう一度はっきり言えたんだね。難しいことだったと思うよ」


先生の言葉に、アリシアは小さく頷いた。


「ただ、今後も君だけが聞き逃しを見つけなければならないわけではない。班のほかの人たちにも、確認できなかったら止まる責任がある。そのことは覚えておいてほしい」


「……はい。二回目は、エドガーが自分で返事を待ってくれました。フィオナも、停止の確認をしてくれて……私だけが見ていなくても大丈夫でした」


その答えに、グラン先生は穏やかに頷いた。


「それなら、とてもよい練習になったと思う。途中で止まった事実も、どうやって次へ進めたかも、両方残せたんだね」


アリシアは微笑んだ。最初に止まったことが失敗として消されなかったのが、何より安心できた。うまくいかなかった理由を確かめたからこそ、二回目には全員が落ち着いて進めたのだ。


先生はそこで机の上の一枚を取り上げた。


「北側の記録についても、今日一つ分かったことがある。昨日伝えた『照合待ち』という印の、通常の扱いが確認できたんだ」


アリシアは少し背筋を伸ばした。自分が聞きたかった実習の話が終わったあとだったので、慌てて答えを求めるのではなく、先生の説明を待った。


「受信側の手順書では、まず一覧に記録を作り、そのあと内容を確かめていないものに『照合待ち』の区分を付けることになっている。だから、手順どおりなら、その印を付けた操作自体が、一覧へ最初の時刻を記すことを遅らせたわけではないんだ」


アリシアは頭の中で順番を確かめた。最初に一覧ができる。そのあとに印が付く。もし順番がそのとおりなら、後から行う作業が、先に記された時刻そのものを遅らせる理由にはならない。


「……じゃあ、印があったから遅れた、って考えるのは違うんですね」


「通常の手順が守られていたなら、その説明は難しい。ただ、実際にどう処理されたかまではまだ確認できていないから、完全に否定したとまでは言わない方が正確だね」


先生はそこで少しだけ表情を引き締めた。


「分かったのは手順の順序だよ。なぜ片方の記録だけに印があったのかも、時刻差がどこで生じたのかも、まだ調査が必要なんだ」


アリシアはゆっくり頷いた。昨日は違う印が見つかったことで、何か大きな秘密が判明したのではないかと少し期待していた。しかし今日は、その印だけを原因として扱うことが難しいと分かった。それは残念な知らせにも思えたが、間違った方向へ進まないための大切な確認でもあった。


「……一つ分からなくなったんじゃなくて、一つ、違うかもしれないことが分かったんですね」


「そうだね。何かを確かめる時には、当たっていそうな考えを増やすだけではなく、合わない説明を慎重に除いていくことも必要なんだよ」


アリシアはその言葉を聞き、午前の実習で一度止まった場面を思い出した。エドガーがテオの視線を返事と考えた時、誰かが確認していなければ、そのまま次へ進んでしまったかもしれない。今日の記録調査でも、印を見つけたことをすぐ答えへつなげず、順番を確かめたからこそ分かったことがある。


「……でも、授業と北側の設備は、同じじゃないですよね」


アリシアがそう付け加えると、先生は微笑んだ。


「その通り。考え方が似ていても、具体的な仕組みや安全条件は違う。君が班の実習でできたからといって、北側の設備へ同じ方法を試してよいわけではないからね」


「……はい。そこは、ちゃんと分けます」


先生は最後に、今後の確認が管理担当者によって進められることを伝えた。封緘資料の中身は未照合のままであり、欠落した確認票や六番目の空白についても、新たに確定した事実はない。アリシアはそれを聞いたうえで、今日分かった順序だけを自分の帳面へ書き留めた。


◇


夕方、生活観測区画の共有室では、子供が窓際の小さな机で絵を描いていた。昨日までは自分の絵の一部をほかの人へ見せたくないと話し、保管用の紙ばさみにしまっていたが、今日はそこから一枚だけ紙を取り出している。


アリシアが挨拶すると、子供は顔を上げ、少し嬉しそうに笑った。


「こんにちは、アリシア。昨日の絵の続きを描いてるの。でも、今日はちょっとだけ見せたいところがあるんだ」


「……こんにちは。見せてくれるの?」


「うん。でも、全部じゃなくて、ここだけ」


子供は紙の一部を別の紙で覆い、青い空と家の屋根が描かれた角だけをアリシアへ向けた。そこには昨日見せてもらった部分の続きらしく、小さな雲が増えている。覆われたところには何が描かれているのか、アリシアには見えなかった。


「……空が広くなったね。雲も増えたんだ」


「そう! 昨日の夕方みたいな空にしようと思ったの。でも、まだここから先は自分だけで見ていたいの」


子供は覆いの紙を押さえながら説明した。その指に力が入っているのを見て、アリシアは身を乗り出さず、見せられた部分だけへ視線を向けた。


「……うん。見せてくれたところ、とてもきれい。ありがとう」


子供は安心したように笑い、紙を机へ戻した。


「昨日は、誰にも見せたくないって思ってたの。でも、今日はアリシアには少し見てほしくなったんだ。明日は、また気が変わるかもしれないけど」


「……それでもいいよ。今日見せてくれたことは、嬉しいけど……明日も見せなきゃいけないわけじゃないから」


アリシアは自分でも少し驚くほど自然に答えていた。以前なら、何かを見せてもらえた嬉しさから、次も見たいと期待してしまったかもしれない。しかし今は、その日の気持ちを尊重することも、一緒に過ごすために大切だと感じている。


子供はしばらく絵を眺めたあと、窓の外へ視線を向けた。夕方の空には薄い雲が流れており、昨日話していた雨上がりの空とは違うものの、家の屋根の向こうが淡い色に染まっている。


「ねえ、アリシア。今日は雨が降らなかったけど、空を一緒に見てもいい?」


「……もちろん。窓からなら、よく見えるよ」


二人は窓際へ並んだ。子供は外の雲の形を指さし、アリシアは自分には鳥の羽のように見えると話した。子供には長い船のように見えたらしく、二人は同じ雲を眺めながら、どこが羽でどこが船なのかを笑って比べた。


少し離れた場所には顔のない存在が静かにいた。アリシアはその姿が視界に入っても、窓へ来るよう誘ったり、絵を見せようとしたりしなかった。子供が今日望んでいるのは、アリシアと一緒に空を眺めることであり、それ以外の反応を求める必要はない。


しばらくして、子供がぽつりと言った。


「さっきの絵ね、全部見せなかったけど、アリシアは怒らないんだね」


アリシアはその言葉に胸が少し痛くなった。誰かに見せないと決めただけで、怒られるかもしれないと考えていたのだろうか。けれど、その理由を勝手に過去の出来事へ結びつけることはできない。


「……怒らないよ。あなたの絵だから、あなたが決めていいんだよ」


「そっか。じゃあ、見せたいところだけ見せてもいいんだね」


「……うん。見せたくなくなったら、途中でやめてもいい」


子供はゆっくり頷いた。窓の外で雲が少し形を変え、さっきまで船に見えたところが、今度は細長い葉のようになっていた。子供は嬉しそうにその変化を指さし、二人はまた違うものに見えると言い合った。


そのあと子供は、絵を紙ばさみへ戻した。しまう場所を担当者と一緒に確かめ、見せる範囲についても本人が選んだことを伝える。アリシアは子供が話したくない部分について触れず、必要なことだけを担当者へ報告した。


「今日は、自分から見せたい部分を選べたんですね」


担当者が穏やかに言うと、子供は嬉しそうに頷いた。


「うん。明日はどうするか、まだ決めてないの」


「それでいいですよ。明日になってから考えましょう」


子供は安心した顔で紙ばさみを閉じた。アリシアはその様子を見て、誰かの返事を待つことと同じくらい、相手が返事を変えたり、まだ決めないことを選んだりできる時間が大切なのだと感じた。


◇


夜、アリシアは自室の机に向かい、今日の記録を整理していた。窓の外はすっかり暗くなり、庭木の影が月明かりの下でゆっくり揺れている。机の端ではノアが丸くなり、時折片耳だけを動かしていた。


最初に書いたのは、五人での実習についてだった。エドガーがテオの視線を返事と受け取りそうになったこと、アリシアが停止を申し出てフィオナが札を掲げたこと、二度目には返事が確認できるまで進まない方法を皆で選んだこと。どちらも消さずに残したからこそ、何を変えたのかが分かる。


次に、グラン先生から聞いた北側の記録を整理した。『照合待ち』の補助区分は、通常の手順では受信側の一覧に記録が作成されたあとで付けられる。そのため、印を付けた操作が最初の時刻差を生んだと考えるのは難しい。ただし、個別の通知で実際にどのような順序になっていたか、時刻差の原因が何かについては未確認である。


(……分からないことが一つ減ったというより、間違えそうだった考え方に気づけたのかな)


アリシアは筆先を止めた。答えの見つからない日が続いていても、毎日同じ場所へ戻っているわけではない。今日は、原因だと思いかけたものが、少なくとも通常の手順では原因になりにくいと分かった。


その時、ノアが机の上で顔を上げた。


「今日は、ずいぶん丁寧に書いてやがるな。まあ、昨日までと違って、同じことを何度も書き直してるわけじゃねえようだが」


「……うん。今日は、止めた時のことも残しておきたいから」


「ほう。あの実習か。お前、声を出す時は少し震えてたな」


アリシアは頬を赤くした。自分ではできるだけ落ち着いていたつもりだったが、ノアには分かっていたらしい。


「……怖かったよ。エドガーに嫌な顔をされたらどうしようって、少し思った。でも、返事が確認できてないのに進む方がよくないと思ったから」


「で、止めたらどうなった?」


「……皆で、次はどうするか考えた。誰も私を責めなかったし、フィオナも停止の札を出してくれた」


ノアは短く鼻を鳴らした。


「なら、それが今日確かめられたことだろ。怖くても止められた。止めたあと、周りがどう動いたかも見られた。次からも必ず同じになるとは限らねえが、今日のことまでなかったことにすんなよ」


アリシアは静かに頷いた。実習で一度止まった瞬間は、できれば思い出したくないくらい緊張した。それでも、あの時の自分を失敗しただけだと思わなくてよいことが嬉しかった。


「……それから、子供が今日は絵を少しだけ見せてくれたの」


「見てたから知ってる。お前、ずいぶん嬉しそうだったぞ」


「……うん。でも、全部は見せたくないって。私、それでもいいよって言えたから……嬉しかった」


ノアは少しだけ目を細めた。


「そいつは相手が決めることだ。見せてもらえた分だけ大事にしときゃいいんだよ。残りを見せてもらうために仲良くしてるわけじゃねえだろ」


「……うん。明日、気が変わっても大丈夫だって、伝えたよ」


「なら上等だ」


アリシアは帳面の最後に、今日一番残しておきたい言葉を書いた。


『返事が確認できなければ、先へ進まない。止まった理由を、誰か一人のせいにしない』


そこまで書いてから、少し考え、もう一行だけ添える。


『自分で決めたことを変える時も、相手へ伝えてよい』


二つの言葉を読み返すと、アリシアは静かに帳面を閉じた。北側連絡廊下の封鎖は続き、欠けた確認票も見つからず、六番目の空白についても新しい答えは出ていない。けれど、今日の実習で一度止まったことも、子供が絵を部分的に見せると決めたことも、明日へ持ち越してよい大切な出来事だった。


寝台へ向かう前、アリシアは窓の外を見た。中庭の道には人影がなく、朝にメリルと会った場所も夜の静けさに包まれている。明日また同じ場所で会う約束はしていないが、教室へ行けば、きっと今日の記録について話すことができるだろう。


「……おやすみ、ノア。明日も、ちゃんと自分の言葉で話せたらいいな」


「話せねえ時があっても構わねえよ。必要な時に黙って我慢しなきゃ、それで十分だ」


ノアはそう言って寝台へ跳び乗り、いつもの場所で丸くなった。アリシアは小さく笑い、灯りを落とした。


部屋に静けさが戻ると、昼間の実習室で聞いた声が、遠い記憶のように浮かんだ。返事が聞こえなかった時間、停止を伝えた瞬間、皆が同じ机を囲んで次の方法を考えたこと。そのどれか一つだけで、今日の経験を言い表すことはできない。


アリシアは布団の中でゆっくり息を整えた。まだ届いていない言葉があるなら、届くまで待つこともできる。けれど、待つだけでよいのか迷った時には、誰かと相談して次の方法を考えればいい。そう思うと、胸の奥に残っていた小さな緊張が和らいでいった。


窓の外で風が葉を揺らす音を聞きながら、アリシアは静かに眠りへ落ちていった。


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