第323話 同じ時刻に出た二つの知らせと、しまっても消えない約束
翌朝、北側連絡廊下へ続く通路には、昨日よりも少し落ち着いた空気が戻っていた。
新しく取り付けられた補助案内は、曲がり角の手前からでも見えるようになっている。学生たちは足を止めることなく東側の階段へ向かい、以前の道を使おうとして仕切りの前で引き返す者も、アリシアが見ている範囲ではいなかった。開いた扉が案内板の一部を隠す問題も、位置の調整によって解消されているようだった。
ただし、通路の奥にある封鎖の仕切りは、そのまま残っている。
アリシアは教科書の入った鞄を抱え直し、立入禁止の札に一度だけ目を向けた。朝の陽光は仕切りの手前まで届いていたが、その向こうで何が行われているのかは分からない。昨日グラン先生から教わったのも、封緘された資料の外側について確認が進んだということであって、設備を安全に使えるようになったという知らせではなかった。
「おはよう、アリシア。今日は案内板をじっと見ないんだね」
斜め後ろから聞こえた声に振り返ると、メリルが笑いながら近づいてきた。昨日までの様子を見ていたからこその言葉らしく、アリシアの隣へ並ぶと、彼女も仕切りの方へ軽く視線を向けた。
「……おはよう。もう、道が分からなくて困ってる人はいなさそうだから」
「うん。さっき私の前を歩いてた子も、案内を見てすぐに曲がっていったよ。これなら、授業のたびに道を尋ねる人も減りそうだね」
二人の少し前では、別の学生たちが朝の課題について話しながら東側へ進んでいた。その中の一人が案内を見上げたものの、友人との会話を止める必要もなく歩き続ける。アリシアには、昨日職員へ伝えたことが今朝のこうした小さな動きへつながっているのが、少し不思議だった。
「……でも、まだ封鎖は続くんだよね」
「そうだね。早く通れるようになったら嬉しいけど、危ないかもしれないうちは仕方ないよ。私、遠回りで朝の時間を使いすぎないように、昨日から少し早く出ることにしたんだ」
メリルは自分の鞄を軽く持ち上げた。そこからは筆記具の入った小袋が覗いており、朝の支度で少し慌てたらしいことが見て取れた。
「……それなら、私も明日は少し早く待ってるね」
「えっ、待ち合わせしようってこと? うれしい! でも無理して早起きしなくていいからね。私がいつも通り間に合えばいいだけなんだし」
アリシアは照れくさくなって目を伏せた。自分から誰かと朝を一緒に過ごしたいと言ったことに、言葉にしてから気づいたのだ。メリルはその様子をからかうことなく、教室へ向かう足取りをほんの少し緩めてくれた。
「……無理じゃないよ。メリルと一緒に歩けたら、嬉しいから」
「じゃあ、明日はいつもの中庭の入り口で会おう。もしどっちかが遅れそうなら、先に教室へ行くってことで。待ってる方も授業に遅れちゃったら大変だもん」
「……うん。それがいいと思う」
無理のない約束が一つできたことが、アリシアには嬉しかった。相手のために何かをすることと、自分たち両方の都合を大切にすることは、どちらか一つを選ばなければならないものではない。そんな当たり前のことを、メリルとのやり取りの中で少しずつ覚えている気がした。
ノアは二人の足元を歩きながら、わざとらしく大きな溜息をついた。
「明日の朝は俺も付き合わされるわけか。まあ、お前が布団の中で考え事を始めるよりは健全だろうな」
「……ノアも一緒の方が、私は嬉しいよ」
「調子のいいこと言いやがって。寝坊したら起こしてやるが、三回も呼ばせるなよ」
メリルが声を立てて笑い、アリシアもつられて微笑んだ。三人が東側の階段を上っていく間にも、封鎖の表示が外される気配はなかったが、それを確かめるために何度も後ろを振り向くことはなかった。
◇
午前の実習室では、前日に使った魔力灯が机の中央へ並べられていた。ただし、今日はその周囲に小さな仕切り板が置かれ、座る場所によって灯りの見える部分が違うようになっている。
教師は学生たちが着席するのを待ってから、教卓の上に同じ配置を作ってみせた。
「昨日は、見えた現象と原因についての考えを分けて記録しました。今日はもう一歩進めて、誰がどの位置から見たかも残してみましょう。ある人には見えたことが、別の人には見えない場合があります。どちらかが間違っていると決める前に、観察条件を確認する練習です」
アリシアは机の端に置かれた仕切り板へ視線を向けた。近くから見ると何でもない木の板なのに、正面の席からは魔力灯の下側が隠れ、少し斜めの席からは右端が見えなくなるように置かれている。
今回の班は、アリシアとメリルのほかに、エドガー、テオ、フィオナが一緒だった。
「これ、全員が同じことを書いたら失敗ってわけじゃなさそうだな」
エドガーが配置を確かめながら言うと、テオは記録紙を指で押さえ、首を傾げた。
「むしろ同じに見えたとしても、その理由を確かめないといけないんだと思う。板がある以上、見え方が違って当然の場所もあるから」
「私は、先に誰が何をするか決めたいな。観察する人まで途中で動いたら、どの位置から見たか分からなくなりそう」
フィオナの提案に、メリルはすぐ頷いた。
「そうだね。じゃあ最初は私が灯りをつける役をやるよ。アリシアは正面、テオは右側、フィオナは少し離れた席。エドガーは時間と終了の合図をお願いしてもいい?」
エドガーは教師が示した終了条件を確認し、皆へ見える位置に記録紙を置いた。アリシアは自分の席に腰を下ろし、灯りの下端が仕切りによって隠れていることを確かめる。
「……始める前に、少しだけいい?」
四人の視線が集まり、アリシアは喉の奥がきゅっと狭くなるのを感じた。それでも、視線を下げたまま終わらせずに続けた。
「……見えないところがあったら、『見えなかった』って書いてもいいんだよね。見えてないのに、ほかの人の記録を真似したら……自分が見たことじゃなくなるから」
フィオナがゆっくり頷いた。
「私もそう思う。それと、途中で疲れたり、灯りが見えづらくなったりしたら、その時点で知らせよう。無理して続けて記録が曖昧になっても困るもの」
「賛成! じゃあ、止めたい人がいたら合図を出して、そのあとで理由を話そう。急に動くと危ないから、魔力は決められた順番で落とすってことで」
メリルの声はいつものように明るかったが、言葉は軽くなかった。皆が頷いたのを確かめてから魔力灯の前へ手をかざし、教師の開始合図に合わせて少量の魔力を流す。
灯りは淡い琥珀色に点った。正面に座るアリシアには、上半分の光がゆっくり強まる様子が見えたものの、仕切りの向こうにある下端がどうなっているのかは分からない。
少し時間が経つと、光の右側が一度だけ細く揺れたように見えた。アリシアはすぐには声に出さず、最初に見えた位置と揺れが起こった順序を記憶し、手元の紙へ短く記した。
「終了だ。メリル、ゆっくり落としてくれ」
エドガーの声に合わせて、メリルが魔力を減らす。灯りが消え、教師による終了確認を受けてから、五人はそれぞれの記録紙を机の中央に寄せた。
最初に声を上げたのはテオだった。
「僕の位置からは、光の右端は板で隠れてた。左の方は安定して見えたけど、アリシアが書いた揺れは確かめられなかったんだ」
フィオナは自分の紙へ目を落としたまま、慎重に言葉を選んだ。
「私は光が少し弱くなるところが見えたと思う。でも距離があるから、同じ大きさの揺れを見落とした可能性はあるわ。二人の記録と違っていても、どちらかを直す理由にはならないと思う」
「俺は時刻の合図を見てたから、細かい明るさまで追えてない。皆の記録を見たあとで『そういえば揺れた』なんて付け足すのも違うな」
エドガーが困ったように笑うと、メリルも自分の手を見つめた。
「私は魔力を増やしたつもりはなかったよ。だけど、ちょうど途中で少し呼吸を整えたから、その影響があったのかもしれないし、関係なかったのかもしれない」
アリシアは記録紙を見比べた。皆が同じ灯りを見ていたはずなのに、書かれている内容は少しずつ違っている。初めは何かを揃えなければならない気がしたが、今は無理に揃えれば誰かの観察を失うのだと分かった。
「……先生に出す記録は、一枚にまとめるのかな」
「まとめる欄はあるけど、元の五枚も一緒に提出するよう書いてあるよ」
テオが説明書の一行を指さした。フィオナはほっとしたように口元を緩め、アリシアも少し肩の力を抜いた。
「じゃあ、まとめには『正面から右端の揺れが見えた』『右側からはその部分が見えなかった』って並べて書こう。違う場所で何が見えたか、あとから読んでも分かるように」
メリルの提案で、五人は記録の整理を始めた。フィオナは文章の途中に曖昧な表現があると、どこまでを観察とするのか皆へ尋ね、エドガーは合図の前後関係を確かめる。アリシアも自分が右端の揺れを見た位置について、仕切りとの距離を含めて説明した。
そこへ教師が巡回してきた。
「どの班も、記録を一つに揃えようとして苦労しているようですね。皆さんはどうですか?」
メリルが五枚の紙を示し、全員の見え方が異なったことを説明する。教師はそれぞれの席と仕切りの位置を一度確かめてから、資料を見下ろした。
「よい整理です。最後に一つ、注意しましょう。見えなかったという記録は、そこに変化がなかったという証明ではありません。今回はそれぞれが別の範囲を観察していたのですから、記録の差をそのまま現象の差へ置き換えないことが大切です」
その言葉に、アリシアは無意識に指先を握った。
(……見えなかったことと、起きなかったことは違う。昨日まで考えていたことにも、似ているけれど……今日は、自分の目で確かめられた)
頭の中で言葉を確かめるうち、席の向こうでメリルがこちらへ微笑んだ。アリシアも小さく頷き返し、五人で整えた記録紙の最後に、自分たちが確認できなかった部分を残していった。
◇
昼休みの食堂は、焼きたてのパンと温かな煮込み料理の匂いで満ちていた。窓際の席はほとんど埋まっていたが、アリシアたちは中庭の木が見える奥のテーブルに場所を見つけ、昼食の盆を並べた。
エドガーとテオは先ほどの実習についてまだ話し足りないらしく、食事を始めてからも、観察位置を変えた場合には何が見えるのかと考えていた。メリルは二人の会話を聞きながら、自分が灯りを点けた時の感覚を説明し、フィオナは少し離れた席から見た色合いについて補足した。
「こうして話すと、同じ机にいたのに、みんな全然違うことをしてたんだな」
エドガーが言うと、テオが頷いた。
「記録に残ってる情報が違うだけじゃなくて、最初から見られる範囲が違ったんだ。全員の紙を集めれば一つの完璧な記録になる、とも限らないと思うよ。誰も見てなかったところは、そのまま残るんだから」
「でも、一人よりは少し多く見られたよね。私は灯りの右端が揺れたって、アリシアの紙を読むまで知らなかったもの」
フィオナの言葉に、アリシアは少しだけ頬を赤くした。自分の観察が役に立ったと知るのは嬉しかったが、それ以上に、フィオナが自分の記録を素直に受け止めてくれたことがありがたかった。
「……私は、フィオナが光の全体を見てくれてたのが助かった。近くで見てると、どうしても一か所に目が向いちゃうから」
「そう言ってもらえると安心するわ。途中で私だけ違うことを書いたかと思って、ちょっと不安だったの」
フィオナが笑うと、メリルは卓上に置いた水差しを皆の方へ寄せた。
「じゃあ、次は見る場所を交換してみたいな。今日の記録がどれだけ場所の影響を受けたか、別の位置から試せば少し分かるかもしれないし」
「次の授業で同じことをするかは分からないぞ」
エドガーが笑い混じりに指摘すると、メリルは肩をすくめた。
「そりゃそうだけど、考えるだけならいいでしょ? 先生に言われたことだけ覚えるより、自分で次の確認を考えるのって面白いじゃない」
アリシアは友人たちの会話を聞きながら、匙を持つ手を止めた。北側連絡廊下の調査でも、今分かっていることを整理するだけでなく、次に何を確かめればよいのかが話し合われていた。だが、こちらは授業と違い、自分たちだけで観察の条件を変えたり、資料へ触れたりできるものではない。
同じ考え方が役に立つ部分はあっても、同じように扱ってよいわけではなかった。
「アリシア、何か気になることがあった?」
隣のメリルが小声で尋ねた。ほかの三人が煮込みの具材について話し始めたのを見てから、アリシアは首を少し横へ振った。
「……ううん。今の実習で、考えたことがあって。でも、まだちゃんと話せる形にはなってないの」
「じゃあ、あとで話したくなったら聞くよ。今すぐ答えを出さなくてもいいし、話したくないことならそれでもいいよ」
メリルはそれだけ言うと、食べかけのパンを小さくちぎった。自分から尋ねておきながら、それ以上言葉を重ねないところが、アリシアには嬉しかった。
「……ありがとう。もう少し考えたら、話すね」
「うん。じゃあ、まずはお昼を食べよう。午後になってお腹が鳴ったら、今度こそ先生にも聞こえちゃうかもしれないから」
思わず笑ってしまったアリシアを見て、メリルも顔を綻ばせた。遠くのテーブルでは誰かが椅子を引き、窓の外では風に揺れる木の葉が光を散らしている。謎のことを考える時間があっても、友人たちと温かい食事を味わう時間がなくなるわけではなかった。
◇
同じ頃、グラン先生の机には、北側連絡廊下に関する記録の写しが二組並べられていた。
中央記録室から届いた新しい照会結果は、昨日確認された封緘資料の外装管理札とは、別の系統のものだった。仮設記録器の通知時刻と、それを受け取る側に残された時刻について、比較に使える記録が追加で確認されたのである。
先生は窓から差す光を遮らない位置へ資料を動かし、それぞれの欄を照らし合わせた。初めに確認されていた時差の中には、記録に使われた時計の差で説明できそうな部分があった。しかし、すべての通知について同じ補正を当てはめれば済むわけではないことも、以前から問題になっていた。
今回、管理担当者が比較可能と判断したのは、同じ仮設記録器から近い時刻に発せられた二つの通知だった。
一つは、送信側と受信側の記録を既知の時計差に沿って見比べると、大きな隔たりが残らない。もう一つは、同じように比較しても、受信側の記録が相対的に遅れて残っていた。
同じ機器からの通知であっても、両方が同じ扱いだったとは言い切れない。そのことは、新しく確かめられた記録上の差だった。
ただ、二つの通知が通った経路や、受け取る側でどのような処理を受けたかについては、まだ確認が揃っていない。先生はその点を重視し、片方だけが遅れたことを、特定の設備の不具合や意図的な操作へ結びつけないよう注意書きを残した。
(……単純な時計の差だけでは、少なくとも今見えている二つの記録を同じようには説明できない。だが、遅れが生じた場所までは、この紙だけで分からないな)
先生は少し考えたあと、担当者へ返す照会事項をまとめた。二つの通知について、送信側で同じ種類として扱われたのか、受信側で記録するまでの手順は共通だったのか、照合可能な資料が残っているかを確認したいという内容だった。
封緘された資料の開封を求めるものではない。北側の設備へ直接触れる指示でもない。今ある記録の範囲で、どこまで比較できるかを確かめるための依頼だった。
窓の外から、学生たちの笑い声が聞こえてきた。
グラン先生は一度ペンを置き、中庭を歩く生徒たちへ視線を向けた。北側の廊下を使えないことは不便だろうが、だからといって調査の結論を急いではならない。資料の上で何が分かっても、設備そのものの安全が別途確認されない限り、封鎖を解除する理由にはならないからだ。
先生は返書の末尾を読み直し、確定していない原因を記していないことを確かめてから、所定の手続きへ回した。
◇
午後の授業を終えたアリシアがグラン先生のもとを訪れた時、室内には紙を整理するかすかな音だけが響いていた。
今日は特別な実験の予定も、新しい魔法の確認もない。アリシアが立ち寄ったのは、午前の班実習で考えたことを一つ尋ねたかったからだった。先生へ会う前に、今日何を聞きたいのかを自分なりに考え直していたため、扉を叩く時の緊張はいつもより小さかった。
「こんにちは、アリシア。授業はどうだったかな」
「……こんにちは。今日は、みんなで同じ魔力灯を違う位置から見て、記録を比べました」
先生は筆を置き、椅子を勧めた。アリシアはそこへ腰を下ろし、ノアは足元で静かに伏せた。
「……同じ灯りを見てたのに、私には見えた揺れが、テオには見えなかったんです。でも、テオの記録が間違いってわけじゃなくて……最初から、見える場所が違っていたから」
「なるほど。先生からは、どう記録するように言われたのかな」
「……全員が見たことを残すように、って。誰かに見えなかったから、変化がなかったとは決めないようにとも言われました」
アリシアは膝の上で指を重ね、少しだけ顔を上げた。
「……それで、北側の記録のことを思い出したんです。確認票が見つからないのと、確認していないのは違うって、先生に教わったから。でも、同じように考えていいところと、そうじゃないところがあるのかなって……」
グラン先生はしばらく考えた。急いで肯定するのではなく、アリシアが経験した実習と、北側の資料確認との違いを整理しているようだった。
「共通する考え方はあるよ。記録が残っていないことだけで、ある出来事が起きなかったと決めつけない点だ。ただ、今日の実習では観察位置が分かっている。北側の記録の場合は、記録の作成や移管、受領のどの段階に確認できていない部分があるかも調べる必要があるんだ」
「……見る場所が決まってたかどうか、だけじゃないんですね」
「そうだね。似た問題に見えても、条件を一つずつ確認しなければならない。君が授業で学んだ方法をそのまま設備へ当てはめるのではなく、何を参考にできるか考えるのがいいと思う」
アリシアは頷き、教室で提出した班の記録を思い出した。自分が見た右端の揺れも、別の位置へ移れば同じように見えるとは限らない。それでも、別の人の記録を合わせれば、次に見るべき位置を選ぶ手掛かりになるかもしれなかった。
先生は机の上に置いた一枚の資料へ目を向けた。
「ちょうど今日、仮設記録器の通知についても、追加で比較できるものが確認された。君に共有できる範囲で話しておこう」
アリシアは少し背筋を伸ばしたが、先生はすぐに続けた。
「最初にはっきりさせておくね。原因が分かったわけでも、廊下の封鎖を解除できるようになったわけでもない」
「……はい。そこは、分けて聞きます」
その返事を聞くと、グラン先生は小さく微笑んだ。
「近い時刻に同じ仮設記録器から出された二つの通知を比べたところ、時計の差を考慮したあとも、受け取る側の記録に違いが残ることが確認されたんだ。一方は大きな隔たりが残らず、もう一方は相対的に遅れて記録されていた」
アリシアは一度、先生の言葉を頭の中で並べ直した。
「……同じ記録器から、近い時間に出たのに……両方が同じように届いたわけじゃなかったんですか?」
「正確には、受信側へ残った時刻に差があるということだね。その差が送られている途中で生じたのか、受け取ったあとに記録されるまでの間に生じたのかは、まだ分からない」
アリシアは自分の質問が少し先へ進みすぎていたことに気づいた。先生が言ったのは、実際に誰かが通知を受け取った瞬間を見たという話ではない。受信側の記録上で、時間の違いが確認されたということだった。
「……ごめんなさい。『届いた』って言うと、もう受け取ったことまで分かってるみたいになりますね」
「謝らなくていいよ。言葉を使いながら、自分で違いに気づけたことが大切だと思う」
グラン先生は資料を示しながら、二つの通知を仮に一つ目、二つ目と呼んで説明を続けた。どちらも近い時刻に記録器から発せられたが、相手側へ残った時刻の差には同じ説明が当てはまらない。けれど、その理由はまだ調べる必要がある。
「……じゃあ、次は二つの通知が、どんなふうに記録されたのかを確かめるんですね」
「そう。管理側で比較できる情報を確認してもらうよう依頼している。君が直接設備を調べる必要はないし、資料の封を開けて確かめる話でもないよ」
その言葉を聞き、アリシアは指先の力を緩めた。少しだけ、以前に東側の刺激と西側の応答を観測した時のことが頭をよぎったが、すぐに二つを同じものとして扱ってはいけないと思い直した。あの時の間隔は呼吸を基準に観察したものであり、今聞いているのは仮設記録器と受信側に残った時刻の比較である。
「……前に見た東と西の反応とは、まだ関係があるって分かったわけじゃないんですよね」
「そうだね。今回の時差を、あの観測と直接結びつける根拠はない。別の調査として、分かっていることを整理しておこう」
グラン先生ははっきり答えた。アリシアはその言葉を聞き、胸に残っていた小さな焦りが静まっていくのを感じた。
話が終わると、先生は体調にも目を向けてくれた。アリシアは今日の実習が小規模な魔力制御に限られ、痛みや息苦しさ、不自然な冷えはなかったことを伝える。
「分かった。変化があった時には、いつもの約束どおり早めに知らせてね。怖さや身体の不調についても、無理に我慢しなくていい」
「……はい。今日もメリルが、身体は大丈夫って聞いてくれました」
「いい友達だね」
アリシアはその言葉に、照れくさそうに微笑んだ。先生から伝えられた新しい情報は小さく、まだ答えには届かない。それでも、今のアリシアには、その大きさを無理に膨らませず受け取ることができた。
◇
生活観測区画へ向かう廊下には、夕方の光が斜めに差し込んでいた。授業の終わった校舎にはまだ人の気配があったが、共有室に近づくと、聞こえてくる音は靴底が床を擦る小さな響きや、遠くで誰かが扉を閉じる気配だけになる。
アリシアが共有室を覗くと、子供は机の前で、昨日まで並べていた紙の橋を一つずつ手に取っていた。橋を支えていた木の駒は端へまとめられ、細長い紙の何枚かには、重さを支えた時にできた折り癖が残っている。
「……こんにちは。今日は、橋を直してるの?」
子供は顔を上げ、少し迷うように紙を見つめてから首を横に振った。
「こんにちは、アリシア。今日はね、橋をしまおうかなって思ってるの」
「……そうなんだ」
昨日までは次々に新しい橋を作っていた子供が、今日は片づけることを考えている。アリシアは少し意外に思ったが、理由を決めつけるのではなく、机の脇に椅子を置いて座った。
「……何か、困ったことがあった?」
「ううん、困ってないよ。でも、ほかの遊びもしたくなったの。ここに橋がいっぱいあると、紙を広げられないから」
子供は机の空いている場所へ手を広げ、そこへ新しい紙を置きたいのだと説明した。顔は曇っておらず、昨日作ったものを嫌になったわけでもなさそうだった。
「……だったら、しまってもいいと思うよ。使いたくなった時に、また出せる場所があるといいね」
アリシアが答えると、子供は机の端にある小さな橋へ視線を向けた。それは、顔のない存在が使いたくなったら使ってもいいと伝え、担当者と相談して残していたものだった。
「でも、これ……使っていいよって言ったんだよね」
子供は橋の端を指先でそっと持ち上げた。その目には、先ほどとは違う迷いが浮かんでいた。
「使っていいって言ったのに、しまっちゃったら駄目かな。まだ使いたかったら、困るかな」
アリシアはすぐには返事をしなかった。子供が心配しているのは、橋が壊れることではない。昨日伝えた言葉が、相手にとってどんな約束になっているのか分からないことなのだと思った。
少し離れた場所には、顔のない存在が静かにしていた。二人の会話を理解しているかどうか、今この瞬間に橋へ関心があるのかどうか、アリシアには確かめられない。
「……使っていいって言ったことは、大切だと思う。でも、それがずっと机に置いておく約束だったかどうかは、別じゃないかな」
「別なの?」
「……うん。橋はあなたが作ったものだし、ほかの遊びをしたくなったなら、しまいたいって言ってもいいと思う。もし誰かが使いたいって伝えてくれたら、その時にもう一度出せるか、相談できるから」
子供はしばらく橋を見つめていた。紙の端を軽く折り直し、アリシアへ顔を上げる。
「じゃあ、しまう前に、こっちにも教えた方がいい?」
「……教えたいなら、いいと思う。返事をしてもらおうとして、何度も聞かなくてもいいよ」
子供は頷き、小さな橋を両手で持ったまま、顔のない存在の方を向いた。
「この橋、今日はしまうね。また使いたくなったら、出せるようにしておくよ」
返事はなかった。顔のない存在がこちらへ近づくことも、橋へ手を伸ばすこともなかったが、子供は言い直して反応を求めることなく、橋を机の端へ戻した。
そのまま片づけ始めようとして、ふと思い出したようにアリシアを見る。
「どこにしまおう。勝手にしまったら、探す時に分からなくなっちゃうよね」
「……担当の人に、置き場所を聞いてみようか。一緒にしまうなら、あとで出す時も分かりやすいと思う」
子供は嬉しそうに頷き、近くにいた担当者へ声を掛けた。共有室の棚には工作に使う紙を入れる箱があるが、完成したものを残しておく場合は空いている保管箱を使えるという。子供は自分で箱を選び、壊したくない橋だけをそっと並べていった。
折り目がすっかり緩んだ紙については、しばらく悩んだあと、次に工作をする時の材料へ戻すことにした。全部を同じように残すのではなく、一つずつ見ながら決めている。
「この長いのは取っておく。こっちは、また折り直せるからいいや」
子供が言うと、担当者は紙を分ける場所を教えた。アリシアは手伝ってほしいと頼まれた時にだけ箱を支え、橋の選び方には口を出さなかった。
最後に残った小さな橋を、子供はほんの少し長く見つめた。先ほど顔のない存在へ声を掛けたものである。
「これも、しまっていいんだよね」
「……うん。今は、あなたがしまいたいと思ってるんだよね」
「うん。明日は、別の絵を描きたいから」
子供はようやく笑って、その橋を箱の中へ置いた。担当者に保管場所を確認してもらうと、机の上には新しい紙を広げられるだけの空間が戻ってきた。
子供はその広くなった机を眺め、まるで新しい遊び場を見つけたような顔になった。
「明日はここに、大きい空を描こうかな。それとも、今日は少しだけ描いてみようかな」
「……どっちでもいいよ。疲れてたら、休んでもいいし」
「じゃあ、今日はちょっとだけ描く!」
子供は青い色鉛筆を取り、紙の上へ短い線を引き始めた。以前のように、その色や線へ何か特別な意味を探そうとはしなかった。本人が何を描いているか話したくなったら、その時に聞けばいい。
やがて、子供は顔を上げた。
「アリシア、見て。これは空の下の、おうちの屋根」
指さされた紙には、青い空の下へ小さな三角形が描かれていた。アリシアはその隣に座ったまま、子供の説明へ耳を傾ける。
「……素敵だね。橋をしまったから、新しい絵を描く場所ができたんだね」
「うん! でも橋も、なくなってないよ。箱の中にあるから」
子供は当然のことのように言い、また色鉛筆を走らせた。アリシアはその言葉を聞き、胸の奥がふっと軽くなるのを感じた。
(……見えるところからなくなっても、捨てたわけじゃない。残しておきたいものは、ちゃんと場所を決めてしまっておけるんだ)
ただ、それを北側の資料の話と同じにしてはいけないことも分かっていた。今ここにある橋は、子供が自分で保管場所を決め、担当者もその場所を知っている。一方、探している確認票については、どこにあるかさえ確かめられていないのだから。
アリシアは新しい絵の上に描かれていく雲を眺めながら、今日この場所で起きたことを、無理に別の意味へ変えずに受け止めようと思った。
◇
共有室を出る前、アリシアは担当者へ、子供が紙の橋の保管方法を自分で相談し、次に使う時のために場所を確認したことを伝えた。担当者は自分も一緒に確認した内容だと頷き、子供の希望に沿って作業の区切りをつけたことを記録するという。
顔のない存在が橋の片づけに反応したかどうかについては、アリシアの見ていた範囲で明確な動作は確認できていない。そのことも、見えたもの以上の解釈を加えず伝えた。
「今日は、あの子の方から片づけたいと言ってくれましたね。作ることを楽しむのも、しまうことを選ぶのも、どちらも自分で決めていいんだと思います」
担当者の言葉に、アリシアは静かに頷いた。子供が作った橋をいつまでも残すことが、必ずしも本人のためになるわけではない。作りたい時には作り、別のことをしたくなったら片づけられることも、この場所で守りたい日常の一つなのだと感じた。
部屋を出ると、ノアが隣へ並んだ。
「ずっと机に置いてなきゃならねえと思ったら、あいつも次の遊びができねえからな。しまう場所があってよかったじゃねえか」
「……うん。最初は、私もちょっと迷ったの。使っていいよって言ったのに、しまっていいのかなって」
「他人に貸すって言ったからって、持ち主が一生そこに置いとかなきゃならねえ決まりはねえだろ。もっとも、勝手に持っていったら困るから、場所は分かるようにしとくのがいいだろうがな」
アリシアは小さく笑った。いつもの荒っぽい口調なのに、ノアは子供が気にしていた部分をちゃんと覚えている。
「……ノアなら、あの橋を渡ってみたい?」
「紙の橋に俺が乗ったらどうなると思ってんだ。最初の駒より重いに決まってるだろ」
「……じゃあ、ノア用の大きい橋を作ったら?」
ノアはちらりとアリシアを見上げた。
「それなら考えてやってもいいが、まず渡る理由を用意しろよ。俺は見世物じゃねえんだからな」
アリシアは声を抑えて笑った。ノアは不服そうに鼻を鳴らしたものの、歩く速さを変えず、アリシアの隣から離れなかった。
◇
寮へ戻る前、アリシアは中庭の入り口で足を止めた。朝、メリルと明日の待ち合わせを決めた場所には、夕暮れの影が長く伸びており、花壇の向こうには東側の校舎へ向かう学生たちの姿が見える。
北側へ続く道の方から、迂回路の案内を確かめる学生が二人歩いてきた。新しい補助案内のおかげで迷わずに進めたのか、特に足を止める様子はない。封鎖は変わらないが、今ここを歩いている人たちの時間は、昨日より少しだけ円滑になっている。
アリシアは鞄の中の帳面へ、手を触れなかった。今日のうちに書き残したいことはあるし、あとで落ち着いて整理するつもりだ。それでも、今この景色を見ながら急いで言葉を探す必要はないと思えた。
「どうした。何か忘れ物か?」
ノアが足元から尋ねる。アリシアは首を横に振り、メリルと約束した中庭の入り口を見た。
「……明日、メリルとここで会う約束をしたの。もしどちらかが遅れそうなら、先に教室へ行くって決めたんだ」
「へえ。珍しくちゃんと逃げ道まで用意した約束じゃねえか」
「……逃げ道じゃないよ。二人とも困らないように、決めたの」
ノアは一瞬だけ目を丸くしたあと、口元を緩めたように見えた。
「そうかい。なら、明日は二人とも気楽に来られるな」
アリシアは頷いた。約束をしたからといって、何があっても同じ場所で待ち続けなければならないわけではない。時間や状況が変わったら、二人で決めた範囲で別の行動を選んでもいい。
子供が橋をしまったことも、少し似ている気がした。ただし、その似ているという感覚はアリシア自身のものであって、誰かの行動に特別な意味が隠されているという話ではない。
(……続けたいことは大切にして、変えた方がいい時には、ちゃんと話せるようになりたい)
風が吹き、花壇の葉がさらさらと鳴った。アリシアは鞄を持ち直し、寮へ向かって歩き始めた。
今日、北側の仮設記録器から近い時刻に出された二つの通知について、受信側へ残った時刻の差が同じではないことが確認された。だが、その違いが生じた場所も、理由も、まだ分かっていない。確認票の所在や六番目の空白、顔のない存在が以前に示した青い線の動きについても、変わらず調べるべきことが残っている。
それでも、今日は確かめられたものがあった。班の仲間たちが、それぞれ違う位置から見た事実を一枚へ無理に揃えずに残せたこと。子供が自分の作った橋を、また使える場所へ自分でしまえたこと。そして、自分から友人との明日の約束を提案できたこと。
夕暮れの空は静かに色を深め、中央学園の窓には一つずつ明かりが灯り始めていた。アリシアはその光を見上げながら、明日の中庭でメリルに会えたら、まず何を話そうかと考えた。
答えの出ていない謎のことではなくてもいい。今夜はちゃんと眠れたか、朝の風が冷たかったか、昨日の実習で自分が見落としたことに何か気づけたか。そんな他愛のない言葉から始まる明日を、少しだけ楽しみに思っていた。




