第313話 閉ざされた北回廊と、返事を待つ人々
北側連絡廊下の封鎖が続いて三度目の朝、学院の中央棟には、いつもより早く人の声が集まっていた。
夜明け前に降った雨はすでに上がっていたが、石畳にはまだ湿り気が残り、中央棟の高い窓から差し込む光も薄い雲に遮られている。学生たちは南側の通路を通るよう指示されており、普段なら静かな回廊にも、教科書を抱えて急ぐ足音や、行き先を確認し合う声が響いていた。
アリシアは中庭の入口で立ち止まり、掲示板の前に集まる学生たちを見つめた。
昨日までとは違う紙が、一枚増えている。
北側連絡廊下の立ち入り制限は継続。ただし、封鎖区域に保管された学生の私物や教材については、担当教師を通じて回収希望を申請できること。回収は設備担当が安全を確認した場所に限り、学生本人による立ち入りは認められないこと。
その下には、申請した物がすぐに戻るとは限らないため、授業に必要な教材は代用品の貸し出しを受けられると記されていた。
「……少し、変わったんだね」
アリシアが呟くと、肩の上のノアが掲示へ目を向けた。
「封鎖を解かずに困ってる奴を助ける方法を用意したわけだ。悪くねえ判断だな」
「……うん。昨日、メリルが話してた子も、少し安心できるかもしれない」
アリシアは掲示をもう一度読み、鞄の持ち手を握り直した。
数日前に照明魔導具が傾いた事故では、危険を目の前にして身体が動いた。けれど、今の北側連絡廊下では、学生が自分から入って何かを確かめることは許されていない。
それは、誰かを助けたくないからではない。
危険が分からない場所へ不用意に入れば、助ける側まで危険にさらされる。そうなれば、ほかの誰かがさらに助けに向かわなければならなくなる。
アリシアは以前より、そのことを具体的に考えられるようになっていた。
「……今日は、何か新しい連絡があるのかな」
「あるかもしれねえし、ねえかもしれねえ。どっちにしても、まずは授業だ。お前が掲示板の前で立ち尽くしてたら、教師に別の意味で呼び出されるぞ」
「……そんなに長く見てないよ」
「俺が三回欠伸するくらいには見てたな」
アリシアが少し頬を膨らませると、ノアは何食わぬ顔で前足を舐めた。
そのやり取りに緊張が和らぎ、アリシアは教室へ向かって歩き始めた。
雨上がりの空気は冷たかったが、廊下を行き交う学生たちの声には、昨日までより少し落ち着きが戻っているように感じられた。
◇
教室では、メリルが一人の女子学生と話していた。
相手はアリシアたちと同じ学年で、普段は別の班に所属している学生だった。腕には代用品らしい薄い教科書を抱えており、メリルが何かを尋ねると、困ったように笑いながら頷いている。
アリシアが近づくと、メリルが手を振った。
「おはよう、アリシア。昨日話した、北側に荷物を置いてきちゃった子なんだけど、今朝、先生から貸し出しの教材を受け取れたんだって」
女子学生は少し照れたように頭を下げた。
「おはよう。ごめんね、朝からこんな話をしていて。荷物が戻らないのは仕方ないって分かってるんだけど、昨日はちょっと落ち着かなくて」
「……ううん。自分の物が戻ってこないと、気になるよね」
アリシアがそう答えると、女子学生の表情が少し緩んだ。
彼女は教材を抱え直し、北側の階段付近に置いてきた鞄の中には、授業で使う筆記具のほかに、家族からもらった小さな布袋が入っているのだと話した。
「大切なものだから、ちゃんと戻ってきてほしいの。でも、職員さんが危険かもしれない場所へ入るのも嫌でしょう。だから、待つしかないんだと思ってた」
メリルは相手の言葉を聞き、少し考え込んだ。
「でも、今日から申請できるんだよね。いつ戻るか分からなくても、どこに何があるか伝えておけば、職員さんも確認しやすいんじゃないかな」
「うん。先生に相談してみるつもり」
女子学生はそう答え、授業の準備へ戻っていった。
その背中を見送りながら、アリシアは胸の奥に残った小さな痛みを感じていた。
自分にとって大切なものが、手の届かない場所にある。
そこにあるはずだと分かっていても、無事かどうかを確かめられない。
それは、ただ物を取り戻せないというだけではないのだろう。
メリルも同じことを考えていたのか、しばらく黙ってから口を開いた。
「私、昨日は教科書がなくて困ってるんだと思ってた。でも、ほかにも大切なものが入ってたんだね。ちゃんと聞いてみないと分からないことってあるんだな」
「……うん。困ってる理由も、人によって違うんだと思う」
その時、後ろからエドガーの声がした。
「それなら、回収申請の時に何が必要なのかを詳しく伝えることも大事だな。鞄だけを探してもらうより、置いた場所や特徴が分かる方が確認しやすいだろう」
テオも頷き、教師へ申請する際には、最後にその荷物を見た時刻や場所を覚えている範囲で伝えるとよいのではないかと話した。
フィオナは少し離れた席から会話を聞いていたが、やがて静かに言葉を添えた。
「でも、覚えていない部分を無理に埋めなくてもいいと思うわ。慌てていた時のことなら、はっきりしないこともあるでしょうから」
アリシアは四人の顔を見渡した。
誰か一人が答えを持っているわけではない。
それでも、相手が何に困っているのかを聞き、できることを考えれば、少しずつ助けになる方法が見えてくる。
そのことが、朝の教室で交わされた短い会話からも感じられた。
◇
午前の授業が始まると、教師は学生たちへ一枚ずつ新しい課題用紙を配った。
そこには、学院内で設備の不具合が起きた場合の連絡手順が簡略化されて記されている。学生が異常を発見した時、担当教師が報告を受けた時、設備担当が現場を確認した時、それぞれ何を記録する必要があるかを考える内容だった。
教師は黒板の前に立ち、学生たちへ説明した。
「今日の課題では、正しい答えを一つ選ぶことより、どの段階で何が分かっているかを整理してください。異常が起きたという報告と、原因が確認されたという報告は違います。また、連絡を送ったことと、相手が受け取ったことも同じではありません」
アリシアはその言葉を聞き、静かに背筋を伸ばした。
昨日までの授業で何度も考えてきた内容だったが、今回は実際の学院で起きている設備点検を思い出さずにはいられなかった。
教師は続けて、現実の設備記録を教材として使用するわけではないことを明確にした。配られた課題は架空の事例であり、現在の北側連絡廊下の原因を推測するためのものではない。
その説明を聞き、アリシアは少し安心した。
現実の出来事に似た課題だからといって、授業で導いた答えをそのまま北側の設備へ当てはめてはいけない。
教師が最初に境界を示してくれたことで、学生たちも落ち着いて考えられるようだった。
五人は机を寄せ、課題用紙を中央に置いた。
最初の事例には、ある教室の照明が一度だけ暗くなり、その後は元の明るさに戻ったと記されている。報告者は学生一人で、ほかの学生が同じ変化を見たかどうかは確認されていなかった。
メリルは用紙を読み終えると、少し首を傾げた。
「この場合、灯りが暗くなったって書けばいいのかな。でも、一人しか見てないなら、ほかの人にも確認した方がいいよね」
エドガーは頷いた。
「報告者が見た事実としては残せる。ただし、教室全体の照明が暗くなったと書くのは早いな。どの灯りを見ていたのかも分からない」
テオは課題用紙の余白へ、報告者、場所、時刻、観察した内容という項目を書き出した。
「ほかの人が見たかどうかは、あとから確認できるなら確認する。でも、最初の報告を消して書き換えるんじゃなくて、追加で記録する方がよさそうだね」
フィオナはそれを聞き、静かに頷いた。
「最初に見た人の言葉と、あとから確認した人の言葉を分けるのね。そうすれば、違うことを見ていた場合も分かるわ」
アリシアは四人の意見を聞きながら、課題用紙へ目を落とした。
数日前、実習用の小さな灯りが一度だけ弱まったことがあった。
その時も、見ていた人によって分かる範囲が違っていた。
自分は影の形が変わったことに気づき、テオは光の境目が動いたことを見ていた。エドガーはその瞬間を直接見ていなかったため、ほかの二人と同じ観察をしたことにはできなかった。
アリシアはその経験を思い出し、ゆっくり口を開いた。
「……同じ場所にいても、みんなが同じものを見てるとは限らないよね。だから、誰が何を見たのかを分けて書いた方が、あとで確かめやすいと思う」
エドガーは頷き、記録欄の見出しを修正した。
教師が机の間を巡回してきた時、五人は自分たちの考えを説明した。
教師は記録の分け方を評価しつつ、もう一つ大切な点を指摘した。
「よく整理できています。ただし、異常を報告する人が、必ずしも詳しい説明をできるとは限りません。驚いていたり、怖がっていたりする場合もあります。その時は、まず安全を確保し、落ち着いて話せる状況をつくることが必要です」
アリシアはその言葉を聞き、手元の筆を止めた。
正確な記録を残すことばかり考えていたが、記録を伝えるのは人間だ。
怖くて言葉が出ない人もいる。
自分が見たことを、うまく説明できない人もいる。
以前の自分なら、きっとそうだった。
アリシアは少しだけ俯き、胸の奥に生まれた感情を落ち着かせた。
(……分からないことを責めるんじゃなくて、話せるように待つことも大事なんだ)
教師は次の班へ移動していったが、その言葉はアリシアの中に長く残った。
◇
昼休みになると、中央棟の掲示板へ新しい連絡が出された。
北側連絡廊下の一部について、設備担当が安全な範囲から現場を確認した結果、照明の状態を記録する補助装置の一つで、確認票が正常に戻っていないことが分かったという内容だった。
ただし、確認票が戻らない理由はまだ特定されていない。
装置そのものの不具合なのか、記録を送る途中で問題が起きたのか、受け取り側の記録に欠落があるのか、引き続き調査する必要があると記されていた。
アリシアは掲示の前で足を止め、文章を最後まで読んだ。
以前より少し具体的な情報が増えている。
けれど、原因はまだ分からない。
その区別を確かめてから、アリシアは隣にいたノアへ目を向けた。
「……確認票が戻ってないんだね」
「ああ。ただし、何が起きたかはまだ分からねえ。そこを忘れるなよ」
「……うん。分かってる」
アリシアは頷いた。
確認票。
その言葉は、昨日まで調べていた古い資料の帰還印を思い出させた。
けれど、現在の設備記録と古い整理作業の記録が同じ仕組みである証拠はない。
似た考え方が使われている可能性はあっても、同じ原因や同じ目的があるとは限らない。
アリシアはそのことを意識しながら、掲示板を離れた。
中庭では、学生たちが新しい連絡について話し合っている。
中には、原因が分からないことを不安に思う者もいた。
しかし、設備担当が何を確認しているのかが少しずつ明らかになったことで、以前より落ち着いた様子の学生もいた。
アリシアはその違いを見ながら、情報が届くことの大切さを感じていた。
◇
昼食の席では、メリルが朝に話していた女子学生のことを教えてくれた。
彼女は担当教師へ荷物の回収希望を申請し、置いた場所と鞄の特徴を伝えたという。まだ回収できるかどうかは分からないが、少なくとも申請が受け付けられたことは確認できたらしい。
「すぐ戻ってくるわけじゃないけど、少し安心したって言ってたよ。何もできずに待ってるだけじゃなくなったからかな」
メリルはそう言いながら、パンを小さくちぎった。
テオは頷き、申請が受け付けられたことと、実際に荷物が戻ることは別だが、次に何を待てばよいか分かるだけでも違うのだろうと話した。
フィオナはその言葉を聞き、静かに微笑んだ。
「大切なものが戻ってくるかどうか、まだ分からないのは不安でしょうけれど、誰かが確認してくれていると分かれば、少し気持ちが落ち着くこともあるわね」
アリシアは頷いた。
自分も、分からないことを一人で抱えていた時より、エレナやノアと話しながら調べている今の方が落ち着いている。
答えが出ていなくても、誰かと一緒に考えられることは、心の支えになる。
その時、エドガーが水筒を置き、少し考え込むように言った。
「ただ、確認を待つ人が増えれば、設備担当の仕事も増えるだろうな。封鎖区域の点検だけでなく、荷物の回収申請にも対応しなければならない」
メリルは少し驚いたように顔を上げた。
「そっか。そうだよね。困ってる人がいるからって、全部すぐにやってもらえるわけじゃないんだ」
テオは頷いた。
「だから、申請する側も必要な情報を整理して伝えることが大事なんだと思う。職員さんが何度も確認し直さなくて済むように」
アリシアはその話を聞き、胸の奥が少し温かくなるのを感じた。
仲間たちは、自分たちが困っていることだけでなく、それを助けようとしている人たちのことも考えている。
以前の自分なら、誰かに迷惑をかけることが怖くて、助けを求めること自体をためらっていたかもしれない。
けれど、今は少し違う。
必要な時に助けを求めることと、相手の負担を考えることは、両立できるのだ。
◇
午後の授業を終えたアリシアは、資料室へ向かう前に一度立ち止まった。
今日は、エレナから新しい資料が見つかったという連絡は受けていない。
昨日、原本の状態確認には時間がかかるかもしれないと説明されていた。
それなら、毎日同じ質問を繰り返すより、調べてもらっている間に自分の考えを整理する方がよいのではないか。
アリシアはそう考え、資料室へ向かう階段ではなく、図書室の方へ歩き始めた。
ノアが隣を歩きながら、少しだけ目を細めた。
「珍しいな。今日はエレナのところへ行かねえのか」
「……うん。昨日、時間がかかるかもしれないって言ってたから。今日は、自分のノートを整理しようと思って」
「ほう。ようやく人の仕事を待てるようになったか」
「……ノア、そんなに私、急いでた?」
「急いでたというより、気になったことを全部その日のうちに確かめようとしてたな。まあ、悪いことじゃねえが、相手の都合もあるからな」
アリシアは少し照れたように笑った。
図書室へ入ると、窓際の机に空席があった。
午後の光が書架の間へ差し込み、古い本の背表紙を淡く照らしている。遠くでは司書が本を棚へ戻しており、学生たちはそれぞれの課題へ静かに取り組んでいた。
アリシアは席へ座り、調査用ノートを開いた。
最初に確認したのは、古い目録の六番目の空白についてだった。
六つの欄が並び、最後の欄だけが空白になっている。
その空白は、削られたものではなく、最初から何も記されていなかったと考えられる状態だった。
ただし、何も書かれていない理由は分からない。
続いて、旧札番号と現物整理番号の対応が未確定であること、照合原簿が別置と記されていること、そして帰還印という言葉が残された引き継ぎ記録について確認した。
六つの小区画が並ぶ複写では、最初の五つに印があり、最後の一つは空白だった。
けれど、その区画が何を示すのかは分からない。
さらに、区画の境目だと思っていた線が、紙の折り目である可能性も残されている。
アリシアはそれらを一つずつ書き直し、確定していることと、まだ確かめられていないことを分けた。
その作業を続けているうちに、ふと気づいたことがあった。
自分はこれまで、六番目の空白に何があったのかを知りたいと思っていた。
けれど、空白の意味を考える前に、その欄が何を記録するためのものだったのかを確かめなければならない。
物の名前を記す欄なのか。
確認した人の印を残す欄なのか。
作業の順番を示す欄なのか。
それによって、空白の意味は大きく変わる。
(……何が書かれていないのかを考える前に、何を書く場所だったのかを知らなくちゃ)
アリシアはその考えをノートへ書き加えた。
そして、少しだけ筆を止めた。
古い目録の六番目の空白と、引き継ぎ記録の六つの小区画。
どちらも、最後が空白になっている。
しかし、同じ数であること以外に、直接つながる証拠はない。
そのことを忘れないよう、アリシアは二つの記録の間に細い線を引き、「関連未確認」と書き込んだ。
ノアは机の端からその文字を覗き込み、静かに頷いた。
「いいじゃねえか。似てるものを見つけた時ほど、違う可能性も残しておけ」
「……うん。そうしないと、間違った答えに近づいちゃうかもしれないから」
「そういうことだ。お前が探してるのは、都合のいい物語じゃなくて、本当に起きたことなんだからな」
アリシアはその言葉を聞き、ゆっくり頷いた。
古い記録の中に、何か大切なことが隠れているのかもしれない。
けれど、それを見つけるためには、今ある情報を正しく扱わなければならない。
アリシアはノートを閉じ、少しだけ肩の力を抜いた。
◇
生活観測区画へ向かうと、談話室には穏やかな夕方の光が差し込んでいた。
窓は少しだけ開けられており、外から入る風が薄いカーテンを揺らしている。机の上には色鉛筆と絵が広げられ、子供はその前で考え込んでいた。
顔のない存在は隣に座り、胸元の十一の光を安定して灯している。
覆われた木箱は、いつもの場所に置かれたままだった。
アリシアが入ってくると、子供は顔を上げた。
「アリシア、おかえり!」
「……ただいま。今日は何を考えてたの?」
子供は絵を指さした。
橋の手前には丸い印があり、橋の向こうへ続く道の途中には、小さな点がいくつか描かれている。
昨日までと大きく変わったところはない。
けれど、子供はその点を指でなぞりながら、少し困ったように笑った。
「目印を描いたんだけどね、もし帰ってくる時に見えなくなったら、どうしようって思ったんだ」
アリシアは椅子へ座り、絵を見た。
「……見えなくなるのが、心配なんだね」
「うん。だって、橋の向こうへ行ったら、どこから来たか分からなくなるかもしれないでしょう?」
子供はそう言い、橋の手前の丸い印へ指を置いた。
「だから、ここに戻ってこられるようにしたいんだ。でも、目印だけじゃ足りないかもしれないって思って」
アリシアは少し考えた。
子供は絵の中で橋を渡ることを想像している。
実際にどこかへ出かけると決めたわけではない。
だからこそ、今はその想像を大切にしながら、一緒に考えることができる。
「……もし、目印が見えなくなったら、どうしたい?」
アリシアが尋ねると、子供は少し驚いたように顔を上げた。
すぐには答えず、絵の上の道を見つめる。
しばらくして、小さな声で言った。
「……誰かに、ここに戻りたいって言えたらいいな」
アリシアはその言葉を聞き、胸の奥が少し温かくなるのを感じた。
帰るための目印。
そして、帰りたいと伝えられる相手。
子供は、自分なりに安心できる方法を考え始めている。
「……うん。戻りたいって言える相手がいたら、安心できるかもしれないね」
子供は頷いた。
「でも、絵の中には、まだ誰も描いてないんだ」
アリシアは少しだけ微笑んだ。
「……誰かを描いてもいいし、描かなくてもいいよ。そこも、あなたが決めていいと思う」
子供はしばらく考え、色鉛筆へ手を伸ばした。
けれど、すぐには描き始めなかった。
代わりに、隣にいる顔のない存在へ目を向けた。
「……ねえ、一緒に橋の向こうへ行ってみたい?」
顔のない存在は、しばらく動かなかった。
子供は返事を急がず、そのまま待っている。
やがて、顔のない存在がゆっくりと手を持ち上げた。
指先は、いつものように橋の下の青い線へ向けられていた。
子供は少しだけ首を傾げた。
「また、そこなんだね。橋の向こうじゃなくて、下の方が気になるのかな」
顔のない存在は、しばらくその位置へ手を向けたままだった。
アリシアは静かに見守った。
何度も同じ場所を指している。
けれど、その意味はまだ分からない。
子供は少し考え、顔のない存在へ微笑みかけた。
「……まだ分からないね。でも、今すぐ決めなくてもいいよ。一緒に考えよう」
顔のない存在は、ゆっくりと手を下ろした。
アリシアはその様子を見ながら、子供の変化を感じていた。
以前は、何かを決めること自体が怖かった。
けれど、今は自分の気持ちを言葉にし、相手の返事を待つことができるようになっている。
その小さな成長が、アリシアにはとても嬉しかった。
◇
しばらくして、サラが談話室へ入ってきた。
手には記録用紙を持っており、子供と顔のない存在の様子を静かに確認している。
アリシアは、子供が帰りたいと伝えられる相手について考えていたことを、本人の前で確かめながらサラへ伝えた。
サラは穏やかに頷き、子供へ目を向けた。
「戻りたいと思った時に、そう言えることは大切ね」
子供は少し照れたように笑った。
「うん。でも、まだ絵の中の話だよ」
「ええ。分かっているわ。今は、絵の中で考えていることなのね」
サラはそう答え、子供の選択を尊重した。
アリシアはそのやり取りを見ながら、今日の授業で学んだことを思い出した。
相手が何を見たのか、何を感じたのかを、急いで決めつけないこと。
そして、話せるようになるまで待つこと。
子供と顔のない存在に接する時も、その考え方は大切なのだろう。
サラは記録用紙へ短く書き込み、アリシアへ静かに声をかけた。
「今日は学院で何かあったの?」
アリシアは、北側連絡廊下の点検が続いていることと、確認票が戻っていないことについて話した。
ただし、原因はまだ分からないことも付け加えた。
サラは最後まで聞き、少し考えてから答えた。
「返事が戻らないと、不安になることもあるわね。でも、返事がない理由は一つではないもの」
「……はい。だから、今は設備担当の人たちが確認してくれるのを待っています」
サラは穏やかに微笑んだ。
「それでいいと思うわ。あなたが全部を確かめなくても、学院にはそれぞれの役割を持った人たちがいるのだから」
アリシアはゆっくり頷いた。
自分にできることを考える。
けれど、自分がすべてを背負おうとしない。
その両方が、今の自分には必要なのだと思えた。
◇
夜、自室へ戻ったアリシアは、机へ向かって日記帳を開いた。
窓の外には薄い雲が流れ、遠くの学院棟にはいくつかの灯りが点っている。
北側連絡廊下は、今日も閉鎖されたままだった。
けれど、設備担当の職員たちは、少しずつ確認を進めている。
アリシアは今日の出来事を書き始めた。
朝、北側に置いた荷物の回収申請ができるようになったこと。
授業では、報告した人が何を見たのかを分けて記録する大切さを学んだこと。
古い資料については、六つの欄が何を記録するためのものだったのかを確かめる必要があると考えたこと。
そして、生活観測区画では、子供が帰りたいと伝えられる相手について考えていたこと。
アリシアは筆を止め、少しだけ考えた。
(……今日は、何かを戻すことだけじゃなくて、戻りたいって伝えられることも大切なんだって思った)
ノアは寝台の上で丸くなり、アリシアを見ていた。
「今日はもう終わりか?」
「……うん。ちゃんと休むよ」
「よし。最近のお前にしちゃ、ずいぶん聞き分けがいいな」
アリシアは小さく笑った。
「……ノアって、褒める時も素直じゃないよね」
「俺はいつだって素直だぞ。お前が勝手に嫌味だと思ってるだけだ」
ノアは得意げに尻尾を揺らした。
アリシアは日記帳を閉じ、灯りを落とした。
古い目録の六番目の空白は、まだ埋まっていない。
照合原簿の所在も分からない。
帰還印の意味も、東側と西側の反応の仕組みも、まだ確かめられていない。
けれど、今は急いで答えを出す必要はない。
分からないことを一つずつ確かめ、誰かの返事を待つ時には、その人の事情も考える。
それが、今の自分にできることだった。
アリシアは寝台へ入り、ノアの温かな毛並みにそっと触れた。
窓の外では、夜風が木々の葉を静かに揺らしている。
明日もまた、何か新しいことが分かるかもしれない。
それでも、分からないことを無理に埋めようとせず、自分の足で確かめていこう。
そんな思いを胸に、アリシアは穏やかな眠りへ落ちていった。




