↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『忘れられた六つ目の神器に選ばれました 〜人見知りな闇の少女と毒舌黒猫の学園英雄譚〜』  作者: 伊佐波瑞樹


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
321/331

第321話 案内板の向こう側と、まだ届いていない言葉


翌朝、アリシアが目を覚ました時、窓の外には久しぶりに澄んだ青空が広がっていた。


前日まで校舎の上空を覆っていた薄雲は、夜のうちに東へ流れていったらしい。庭木の葉にはまだ雨の名残が残っていたが、窓から差し込む朝日は明るく、机の上に置かれた帳面の表紙を淡い金色に照らしていた。


寝台の中でゆっくり身体を起こしたアリシアは、まず胸元へ手を当てた。


痛みはない。呼吸も苦しくなく、指先に不自然な冷えが広がる感覚もなかった。昨日は大きな魔法を使っていないため、身体に残る疲労も普段と変わらない程度で、朝の状態としては落ち着いている。


(……今日は、大丈夫そう)


そう確かめてから寝台を下りると、足元の敷物の上で丸くなっていたノアが片耳を動かした。


「おう、起きたか。今日は随分と素直に布団から出てきたじゃねえか」


「……おはよう、ノア。昨日も、そんなに遅くなかったと思うけど」


「昨日は起きてから帳面とにらめっこしてただろ。あれを朝の支度が早いとは言わねえんだよ」


ノアは大きく欠伸をし、前足を伸ばしながら身体を起こした。黒い毛並みには寝癖らしい乱れもなく、本人が普段から主張している威厳というものを考えれば、なかなか立派な姿だった。


ただし、尻尾の先だけは眠気が抜けていないのか、床の上をゆっくり左右に揺れている。


「……今日は、ちゃんと準備するよ」


「そいつは結構。で、朝から妙なこと考えてねえだろうな」


「……妙なこと?」


「六番目の空白だの、なくなった確認票だの、昨日寝る前まで考えてたことだよ」


アリシアは少しだけ視線を逸らした。


考えていなかった、と答えることはできない。


目が覚めてから最初に身体の状態を確かめ、そのあと窓の外を見た時にも、頭の片隅には昨日整理した記録のことが残っていた。


ただ、昨日までとは少し違っている。


答えが分からないことへの焦りよりも、今どこまで分かっているのかを忘れないようにしたいという気持ちの方が強かった。


「……少しは、考えてた」


「だろうな。お前のことだから、考えるなって言っても無駄なのは分かってる」


ノアは呆れたように鼻を鳴らし、机の方へ歩いていった。


「ただし、考えてるだけで何かが分かった気になるなよ。昨日だって先生に言われただろ。確認できたことと、そうじゃねえことを混ぜるなって」


「……うん。ちゃんと覚えてる」


「ならいい。今日になったら急に箱の中身が分かるとか、六番目の空白が勝手に埋まるとか、そんな都合のいいことは期待すんな」


アリシアは小さく頷いた。


昨日、グラン先生から聞いた説明は、まだ鮮明に覚えている。


記録が作られたこと。


その記録が送られたこと。


受け取る側が内容を確認したこと。


それぞれは、似ているようで違う。


その違いを確かめるためには、単に一枚の紙を探すだけでは足りない場合もある。


「……ノア」


「あん?」


「もし、私が何かを伝えたつもりでも……相手が聞いてなかったら、それは伝わったことにはならないんだよね」


ノアは少しだけ目を細めた。


「何だ、また難しい話か。まあ、そういうこともあるだろうな」


「……うん」


「ただ、相手が返事しなかったからって、必ず聞いてねえとも限らねえ。聞こえてても答えたくねえ時だってあるし、答えを考えてる途中かもしれねえ」


アリシアは思わず顔を上げた。


そこまでは考えていなかった。


受け取ったかどうか分からないことと、返事がないことも、完全に同じではない。


「……そっか」


「お前の場合、返事がねえと自分が何か間違えたんじゃねえかって考えがちだからな。その辺も忘れんなよ」


ノアはそれだけ言うと、窓際の陽だまりへ移動した。


アリシアはしばらく黒猫の背中を見つめ、それから小さく笑った。


「……ありがとう、ノア」


「礼はいいから支度しろ。遅刻したら、俺まで朝から走らされる」


「……ノア、走るのは嫌い?」


「必要もねえのに走るのが嫌いなんだよ。猫には猫の都合ってもんがある」


いつもの調子で返ってきた答えに、アリシアの頬が緩んだ。


まだ答えの見つかっていないことは多い。


けれど、今日も普段どおりの朝が始まっている。


アリシアは窓を少し開け、涼しい空気を部屋へ入れてから、身支度を始めた。


◇


朝の中央学園は、いつもより少しだけ賑やかだった。


天気が回復したこともあるのだろう。中庭を通って教室へ向かう学生たちの足取りは軽く、石畳の上には明るい話し声が重なっていた。


校舎の窓からは、朝の授業準備をする学生の姿が見える。


開け放たれた窓の向こうで誰かが友人を呼び、別の場所では、提出する課題を鞄の中から探している学生がいた。


アリシアはその様子を横目に見ながら、北側連絡廊下へ向かう通路の手前まで歩いた。


封鎖は、今日も続いている。


立入禁止の表示は昨日と同じ場所に置かれ、その周囲には通行を制限するための仕切りが設けられていた。


設備の安全が確認されていない以上、学生が自由に出入りできない状態は変わらない。


ただ、今日はその手前に、少し大きな人の集まりができていた。


「……?」


アリシアは足を緩めた。


数人の学生が案内板を見ながら話している。


そのうち二人は、迂回路の方向を確認してから東側へ歩き始めたが、別の三人は少し迷ったように立ち止まっていた。


「この矢印、どっちを指してるんだ?」


「東側じゃないの?」


「いや、こっちの階段じゃない?」


聞こえてきた会話に、アリシアは案内板へ視線を向けた。


昨日までは、特に分かりにくいとは感じていなかった。


けれど、今いる場所から眺めてみると、案内板の手前に開かれた扉があり、その扉の影が案内の一部へ重なっていた。


近づいて正面から見れば、経路は読み取れる。


しかし、廊下の反対側から歩いてくる学生には、矢印の先が見えにくくなっているようだった。


(……これだと、初めて通る人は迷うかもしれない)


アリシアは少し迷った。


昨日も下級生に道を教えている。


今日も同じように声を掛ければ、目の前にいる学生たちは教室へ向かえるだろう。


けれど、それだけでは、あとから来る学生がまた迷ってしまうかもしれない。


そう考えているうちに、一人の学生が仕切りの近くまで歩いていった。


封鎖の向こうへ入ろうとしたわけではない。


ただ、案内板の文字を確認しようとして、少し近づきすぎていた。


「あ、あの……」


アリシアは思わず声を掛けた。


学生が振り返る。


突然見知らぬ相手に話し掛けられたことが意外だったのか、少し驚いた顔をしていた。


アリシアは胸の奥に緊張が広がるのを感じながらも、仕切りから離れた位置を指さした。


「……そちらは、今は通れないので……案内を見るなら、少し戻った方がいいと思います」


「あ、すみません。中へ入ろうとしたわけじゃないんです」


「……はい。分かります。でも、近づくと危ないかもしれないので」


学生は一度仕切りを振り返り、すぐに数歩下がった。


「ありがとうございます。実は、別の教室へ行く道が分からなくて」


アリシアは頷き、東側の階段へ続く道順を説明した。


相手は話を聞き終えると、友人たちへ声を掛け、教えられた方向へ歩いていった。


その背中を見送っていると、後ろから聞き慣れた声がした。


「アリシア、おはよう!」


振り返ると、メリルが鞄を肩に掛けて歩いてきていた。


朝の光を受けた髪が軽く揺れ、こちらへ向けられた表情はいつもどおり明るい。


「……おはよう、メリル」


「何かあったの? さっき、みんなで案内板を見てたみたいだけど」


アリシアは少し考え、案内板と開かれた扉の位置を指さした。


「……あのね。ここからだと、迂回路の矢印が少し見えにくいみたいなの」


メリルは指さされた方を見た。


最初は首を傾げていたが、アリシアの立っている位置へ移動すると、すぐに事情を理解したらしい。


「あ、本当だ。正面からなら分かるけど、こっちから来ると矢印の先が隠れちゃうんだね」


「……うん」


「これ、昨日もこうだったのかな?」


アリシアはすぐには答えなかった。


昨日、案内板が置かれていたことは覚えている。


けれど、扉がどの程度開いていたかまでは、はっきり覚えていなかった。


「……ごめん。昨日は、そこまで見てなかった」


「そっか。じゃあ、いつからなのかは分からないね」


メリルは少し考えたあと、扉へ視線を向けた。


「案内板を動かせばいいのかな?」


「……でも、勝手に動かしていいか分からないから」


「そうだよね。封鎖してる場所の案内だし、先生たちに伝えた方がいいかも」


アリシアは安心したように頷いた。


自分たちが困っている学生へ道を教えることはできる。


しかし、学園が設置した案内を勝手に変更してしまえば、別の場所から来る人にとって、かえって分かりにくくなる可能性もある。


「……職員の人に、伝えてみようかな」


「うん! 私も一緒に行くよ」


メリルがすぐに答えた。


その言葉に、アリシアは少しだけ目を丸くした。


「……いいの?」


「もちろん。私も今見たんだから、説明できると思うし」


メリルはそう言って笑った。


「それに、アリシア一人で行くより、二人の方が話しやすいでしょ?」


アリシアは胸の奥が温かくなるのを感じた。


以前なら、自分から職員に相談することだけでも大きな勇気が必要だっただろう。


今も緊張はする。


けれど、隣にメリルがいることで、少しだけ足を動かしやすくなった。


「……ありがとう」


「どういたしまして!」


二人は通行の妨げにならないよう案内板から離れ、近くの学園事務の窓口へ向かった。


◇


学園事務の窓口には、朝の連絡を確認する職員がいた。


学生たちから提出された書類を整理していたその職員は、アリシアたちの姿に気づくと、手元の仕事を一度止めた。


「おはようございます。何か困ったことがありましたか?」


アリシアは少し緊張しながら頭を下げた。


「……おはようございます。北側連絡廊下の案内板について、少しお伝えしたいことがあって……」


途中で声が小さくなりかけたが、隣に立つメリルが急かさず待っていてくれたため、アリシアは一度息を整えることができた。


「……迂回路の矢印が、通路の反対側から来る人には、扉の影で見えにくくなっているみたいなんです」


職員はすぐに答えず、二人の説明を聞き終えてから、窓口に置かれた配置図を取り出した。


「どの位置から見た時に、見えにくくなっていましたか?」


アリシアが配置図を覗き込むと、メリルも隣から顔を寄せた。


図には北側連絡廊下と、その周囲の通路が簡単に描かれている。


アリシアは自分が立っていた場所を指さした。


「……ここです。反対側から来た学生が、どちらへ行けばいいのか迷っていました」


メリルが続けた。


「正面からなら見えるんですけど、こっちからだと矢印の先が扉に隠れちゃうんです。私たちも実際に確かめました」


職員は二人の説明を聞き、配置図へ視線を落とした。


「分かりました。報告ありがとうございます。現場の状態を確認して、必要であれば担当者に案内位置の調整を依頼します」


アリシアは少しだけ肩の力を抜いた。


「……よろしくお願いします」


「こちらこそ。封鎖区域の案内なので、学生さんたちが自分で動かさずに知らせてくれて助かります」


職員は穏やかな表情で続けた。


「ただ、いつから見えにくくなっていたのかは、こちらでも確認する必要があります。今朝の状態については、教えていただいた内容を記録しておきますね」


アリシアはその言葉に、静かに頷いた。


報告した内容が、記録される。


けれど、それだけで案内板が直ったわけではない。


実際に現場を確認し、必要なら調整し、そのあとで学生たちにとって分かりやすくなったかを確かめる。


そうした段階があるのだと、昨日の説明を思い出しながら理解していた。


窓口を離れると、メリルが少し嬉しそうに笑った。


「ちゃんと伝えられたね!」


「……うん」


「それに、職員さんも確認してくれるって言ってたし。よかった」


アリシアは頷いたものの、すぐに何かを言うことはしなかった。


メリルはその様子に気づいたらしく、歩く速さを少し落とした。


「どうしたの?」


「……ううん。ちょっと、考えてたの」


「何を?」


アリシアは自分の考えをどう説明すればいいのか、少し迷った。


「……案内板って、置いてあるだけじゃ……みんながちゃんと道を分かったことにはならないんだなって」


メリルは一度目を丸くした。


それから、先ほどの廊下の様子を思い出したのか、ゆっくり頷いた。


「確かに。案内板はあったのに、迷ってる人がいたもんね」


「……うん」


「でも、だからって案内板が役に立ってないわけでもないよね。見えてる人は、ちゃんと迂回できてたし」


アリシアは顔を上げた。


メリルの言うとおりだった。


案内板を見て道が分かった学生もいた。


一方で、案内板を見ても道が分からなかった学生もいた。


どちらも、今朝そこにあった出来事だった。


「……そうだね。全部が悪いわけじゃない」


「うん。分かりにくいところを直せば、もっとよくなるかもしれないってことだと思う」


メリルはそう言って笑った。


アリシアも、小さく微笑んだ。


(……メリルは、こういうところがすごいな)


自分が一つの問題に目を向けると、その問題ばかりを考えてしまうことがある。


けれど、メリルは違った。


困っている人がいたことだけでなく、すでに役立っている部分にも気づいている。


アリシアは隣を歩く友人の横顔を見つめ、胸の奥へ静かな感謝が広がるのを感じた。


◇


午前の授業が終わる頃には、朝の青空がさらに明るくなっていた。


教室の窓から差し込む日差しは少し強くなり、窓際に座っていた学生たちは、眩しそうに手をかざしたり、机の上の教科書を動かしたりしている。


授業が終わった途端、あちこちから椅子を引く音が聞こえた。


昼食へ向かう学生たちが次々に立ち上がり、教室の中には、午前の授業について話す声が広がっていく。


アリシアは教材を鞄へしまいながら、今日の授業で書き留めた内容をもう一度確認していた。


授業では、魔力制御における情報共有と安全確認について説明が行われていた。


以前の実習で経験したことも多かったが、今日は実際の動作だけでなく、観察した変化をどのような言葉で伝えると相手が判断しやすいかについても考える時間が設けられていた。


アリシアの帳面には、教師が示した例のほかに、自分なりに気づいたことが書き加えられている。


『変化を伝える時は、見えたことと、そう思った理由を分ける』


その一文を見ていると、メリルが隣から声を掛けてきた。


「アリシア、お昼行こう!」


「……うん。今、片づけるね」


「急がなくていいよ。私もまだ鞄の中がぐちゃぐちゃだから」


メリルは苦笑しながら、机の上に広げた教材をまとめ始めた。


その様子に、アリシアは少し笑った。


授業の始まる前にはきちんと整理されていたはずなのに、今は教科書と筆記用具があちこちに散らばっている。


メリルは活発で、思いついたことをすぐに試してみる性格だった。


そのため、授業中に書き留めたメモが増えすぎて、最後には整理し直さなければならなくなることがある。


「……この紙、こっちだよ」


アリシアは机の端へ落ちかけていた小さなメモを指さした。


「あ、本当だ! ありがとう!」


メリルが慌てて紙を拾い上げた時、近くにいた学生たちの会話が耳に入った。


「北側の廊下、まだ閉まってるんだよな」


「そうらしいね。何か大きな事故でもあったのかな」


「昨日、記録がなくなったとか聞いたけど」


アリシアの手が一瞬だけ止まった。


自分たちが確認している内容と、少し似ている言葉が聞こえたからだった。


ただし、その会話に参加している学生が何を知っているのかは分からない。


北側連絡廊下が封鎖されていることは、学園内で広く知られている。


しかし、記録に関する調査の内容が、どこまで共有されているかは別の問題だった。


学生の一人が続けた。


「でも、何か盗まれたって話もあるよ?」


「え、本当に?」


「いや、詳しくは知らないけど」


アリシアは思わず顔を上げた。


(……盗まれたって、決まってないのに)


胸の奥へ小さな不安が広がった。


確認票が見つからないことと、誰かが持ち去ったことは違う。


その区別が曖昧なまま話が広まれば、実際には何もしていない人まで疑われるかもしれない。


けれど、アリシアには、その学生たちの話をすべて正せるほどの情報もなかった。


何を伝えてよいのか、どこまでが共有された内容なのか。


そこを自分で決めることもできない。


そんな迷いを察したのか、メリルが静かに声を掛けた。


「アリシア、大丈夫?」


「……うん」


返事をしながらも、アリシアの視線はまだ近くの学生たちへ向いていた。


メリルは少し考えたあと、椅子から立ち上がった。


「ねえ、ちょっといい?」


学生たちが振り返る。


メリルは普段と変わらない声で続けた。


「北側の廊下って、まだ調査中なんだよね。だから、盗まれたって決まったわけじゃないと思うよ」


言われた学生は、少し困ったように頭を掻いた。


「そうなの? 誰かが言ってたから、そういうことかと思ってた」


「私も詳しいことは知らないけど、分からないことを決まったみたいに話すのは、ちょっと違うかなって」


メリルは相手を責めるような口調ではなかった。


ただ、自分が分かっている範囲と、分からない範囲を区別して話している。


学生たちは顔を見合わせたあと、一人が苦笑した。


「確かに、俺も誰から聞いたのか覚えてないな。悪い、変な話を広めるところだった」


「ううん。気になるのは分かるよ。私も早く通れるようになってほしいし」


メリルが笑うと、学生たちの表情も少し和らいだ。


そのまま話題は別の授業のことへ移り、教室には再び普段どおりの賑やかさが戻っていった。


アリシアはその様子を見つめていた。


噂が完全になくなったわけではないだろう。


別の場所では、また違う話が広まっているかもしれない。


けれど、今ここで決めつけずに話せたことには、意味があったと思う。


「……メリル」


「ん?」


「ありがとう」


メリルは少し首を傾げた。


「何で? 私も気になったから言っただけだよ」


「……でも、私、どう言えばいいか分からなかったから」


アリシアがそう答えると、メリルは少しだけ照れくさそうに笑った。


「私だって、全部分かってるわけじゃないよ。でも、分からないことを分からないって言うくらいなら、できるかなって」


その言葉は、昨日アリシアが帳面に書いたことと、どこか似ていた。


アリシアは頷き、鞄の留め具を閉じた。


それから、メリルと並んで教室を出た。


◇


昼食の時間は、穏やかに過ぎていった。


食堂には学生たちの話し声と食器の触れ合う音が広がり、窓際の席には暖かな日差しが落ちていた。


アリシアとメリルは空いている席へ腰を下ろし、午前の授業について話しながら食事を進めた。


メリルは今日の授業で、観察した変化を言葉にすることが思ったより難しかったと話していた。


「例えば、魔力が変だって言うだけじゃ、相手も困っちゃうでしょ? でも、じゃあ何がどう変なのって聞かれると、急には説明できなくて」


メリルは匙を置き、少し考えるように眉を寄せた。


「強くなったのか、揺れたのか、形が変わったのか。ちゃんと見てるつもりでも、言葉にすると意外と曖昧なんだよね」


アリシアは頷いた。


「……私も、そう思う。影が揺れた時も、どこがどう揺れたのか、あとから考えると分からなくなることがあるから」


「そうそう! だから、見えた時にちゃんと伝えた方がいいんだろうけど、慌てると余計に難しいんだよね」


メリルは困ったように笑った。


アリシアも、少しだけ笑みを浮かべた。


以前なら、メリルのように明るく自分の失敗を話せることが羨ましいと感じていたかもしれない。


今は、その気持ちだけではない。


メリルが自分の難しかったことを話してくれるからこそ、アリシアも安心して自分の苦手な部分を伝えられる。


完璧な姿を見せ合うのではなく、まだできないことも一緒に考えられる。


そんな関係になれたことが、嬉しかった。


「……ねえ、メリル」


「なに?」


「私、前より少しだけ……分からないって言いやすくなった気がする」


メリルは手を止めた。


すぐに笑って答えるかと思ったが、そうはしなかった。


しばらくアリシアの顔を見つめ、それから穏やかに微笑んだ。


「うん。私も、そう思うよ」


「……そうかな」


「そうだよ。前は、何か聞かれると、答えなきゃってすごく頑張ってたでしょ。でも最近は、分からない時にちゃんと考えてから、分からないって言えるようになってきたと思う」


アリシアは少し頬を赤くした。


メリルは続けた。


「それって、簡単なことじゃないと思うんだ。私なんか、分からなくても勢いで答えちゃうことあるし」


「……メリルは、ちゃんと考えてるよ」


「ありがとう。でも、勢いが先に出ることもあるんだよね」


メリルは苦笑しながら肩をすくめた。


「だから、アリシアが慎重に考えてくれると助かるんだ。私も一回考え直せるから」


アリシアは目を伏せた。


自分の慎重さは、ずっと弱さだと思っていた。


何かを決めるまで時間がかかる。


誰かに話し掛ける前に迷ってしまう。


間違えることが怖くて、言葉が出なくなる。


その全部を、直さなければいけないものだと考えていた。


けれど、メリルは今、その慎重さが役に立っていると言ってくれた。


(……私の苦手なところも、全部なくさなくていいのかな)


もちろん、必要な時に行動できるようになることは大切だ。


誰かが困っているのに、怖いからといって何もできなければ、あとで後悔するかもしれない。


それでも、慎重に考えること自体が悪いわけではない。


大切なのは、考えたあとにどうするか。


そして、必要な時には誰かと相談できることなのだと思った。


「……ありがとう、メリル」


アリシアが小さく言うと、メリルは笑った。


「どういたしまして。ほら、冷めないうちに食べよう!」


「……うん」


二人は食事を再開した。


窓の向こうでは、昼休みを楽しむ学生たちが中庭を歩いている。


その光景は、特別なものではなかった。


けれど、アリシアにとっては、今日も大切にしておきたい時間だった。


◇


午後の授業を終えたあと、アリシアはグラン先生のもとへ向かった。


今日、特別な実験が予定されているわけではない。


北側連絡廊下に関する新しい結論が出たという連絡も受けていなかった。


ただ、午前中に案内板の見え方について報告したことを、先生にも伝えておこうと考えたのだった。


グラン先生のいる部屋へ入ると、机の上には数冊の資料が並べられていた。


先生はアリシアの姿に気づくと、書類から顔を上げた。


「アリシア、こんにちは。今日はどうしたんだい?」


「……こんにちは。少し、お伝えしたいことがあって」


アリシアは朝の出来事を説明した。


案内板が設置されていたこと。


見る位置によって矢印の一部が隠れていたこと。


迷っている学生がいたこと。


メリルと一緒に学園事務へ報告したこと。


そして、職員から現場を確認すると伝えられたこと。


グラン先生は途中で話を遮らず、最後まで聞いてくれた。


「なるほど。案内板そのものがなくなっていたわけではなく、見る位置によって必要な情報が読み取りにくくなっていたんだね」


「……はい」


「職員へ報告したのは適切だったと思う。封鎖区域の案内は、設備の管理と関係しているからね」


アリシアは少し安心した。


ただ、先生はそこで話を終わらせなかった。


「アリシアは、その案内板を見て何を考えたのかな?」


不意に尋ねられ、アリシアは少しだけ目を丸くした。


先生は穏やかな表情のまま待っている。


正しい答えを急いで求められているわけではないと分かり、アリシアは自分の考えを整理した。


「……案内板が置いてあっても、みんなに道が伝わったことにはならないんだなって、思いました」


先生は静かに頷いた。


「うん」


「でも、メリルが……ちゃんと役に立ってる部分もあるって言ってくれて。案内を見て分かった人もいるから……全部が駄目だったわけじゃないんだって」


アリシアは膝の上で手を重ねた。


「……だから、何ができていて、何ができていないのかを、分けて考えた方がいいのかなって」


グラン先生は少しだけ微笑んだ。


「いい考え方だと思うよ」


その言葉に、アリシアは小さく息を吐いた。


先生は机の上の資料を一枚取り上げた。


「記録の確認でも、似たようなことがある。例えば、ある連絡が発信されたという記録が残っていても、その連絡を受け取るべき人全員が内容を理解したとは限らない」


アリシアは頷いた。


昨日も聞いた説明だった。


けれど、今朝の案内板の出来事を経験したあとでは、少し違った形で理解できる。


「一方で、受け取ったことを示す記録が残っていないからといって、誰も受け取っていないと決めることもできない」


先生は続けた。


「大切なのは、どの段階まで確認できているかを明確にすることだ。発信したことを確認できたなら、そこまでは分かっている。受け取ったことが確認できなければ、その部分は未確認として残す」


アリシアは静かに頷いた。


「……じゃあ、確認票が見つからないことも……」


言いかけて、少しだけ言葉を止めた。


グラン先生は急かさず待った。


「……確認されなかったって、決まったわけじゃないんですよね」


「そうだね。ただし、確認されたとも言えない」


先生ははっきり答えた。


「今の時点で、どちらかに決めることはできないんだ」


アリシアは頷いた。


期待した答えではなかった。


けれど、必要な答えだった。


確認票が見つかれば、何かが分かるかもしれない。


しかし、見つからないこと自体を、誰かの意図や過去の出来事へ結びつけてはいけない。


そうした考え方を、自分の中で少しずつ受け入れられるようになっていた。


「……先生。確認票のことは、まだ調べているんですよね」


「うん。管理記録との照合は続いている。ただ、昨日から今までの間に、君へ確定した結果として伝えられる新しい内容はないよ」


アリシアは静かに頷いた。


「……分かりました」


残念ではない、と言えば嘘になる。


どこかで、少しでも新しいことが見つかっているかもしれないと期待していた。


けれど、その期待だけを理由に、まだ確認されていないことを聞き出そうとは思わなかった。


グラン先生はアリシアの表情を見て、少しだけ声を和らげた。


「新しい結果がないことを、何もしていないことと同じに考えなくていいんだよ」


アリシアが顔を上げると、先生は続けた。


「記録の所在を確認するためには、管理している人たちが一つずつ手続きを追う必要がある。封緘された資料についても、開封してよいかを含めて、適切な判断が必要になる」


「……はい」


「その過程が終わるまでは、結果を急いで伝えることができない場合もある。それは、調査が止まっているという意味ではないんだ」


アリシアはその説明を聞き、胸の奥に残っていた小さな焦りが和らいでいくのを感じた。


自分からは見えない場所でも、誰かが必要な確認を続けている。


だからといって、必ず答えが見つかるわけではない。


それでも、一人で全部を背負おうとしなくていいことは、確かだった。


「……先生、ありがとうございます」


「こちらこそ、今朝のことを知らせてくれてありがとう。学生たちが実際にどう案内を受け取っているかは、管理する側だけでは気づきにくい場合もあるからね」


アリシアは少しだけ頬を赤くした。


自分がしたことは、困っている学生に気づき、メリルと一緒に職員へ伝えただけだった。


けれど、その小さな行動も、誰かの役に立つことがある。


そう考えると、胸の奥が静かに温かくなった。


◇


グラン先生の部屋を出たあと、アリシアは生活観測区画へ向かった。


廊下には午後の光が差し込み、窓の外では庭木の葉が風に揺れている。


遠くから学生たちの声が聞こえていたが、生活観測区画へ近づくにつれて、その賑やかさは少しずつ遠ざかっていった。


共有室の扉を開けると、子供が机の上で紙を折っていた。


近くには、顔のない存在がいる。


子供はアリシアの姿を見つけると、顔を明るくした。


「アリシア! 見て!」


「……こんにちは。今日は、何を作ってるの?」


「橋!」


子供は嬉しそうに答え、机の上に並べた紙を指さした。


色の違う紙が何枚か使われており、そのうちの一枚は細長く折り曲げられている。


両端には小さな木の駒が置かれ、間を渡すように紙がかけられていた。


「……橋なんだね」


「うん! こっちと、こっちをつなぐの!」


子供は二つの木の駒を指さした。


それから、紙の橋の上へ小さな駒を置こうとした。


しかし、橋はまだ少し柔らかく、駒の重さで中央が沈んでしまった。


「あれ?」


子供は首を傾げた。


もう一度試してみるが、やはり同じように紙が曲がってしまう。


アリシアは隣の椅子へ腰を下ろし、その様子を見守った。


「……難しい?」


「うん。渡れないの」


子供は少し困ったように笑った。


アリシアは紙の橋を見つめた。


折り方を変えれば、もう少し丈夫になるかもしれない。


けれど、子供が自分で作りたいと思っているなら、すぐに手を出す必要はない。


「……一緒に考えてもいい?」


アリシアが尋ねると、子供は嬉しそうに頷いた。


「うん!」


「……じゃあ、どうしたらいいかな」


子供はしばらく紙を見つめ、それから別の紙を一枚取り出した。


「二枚にする!」


重ねた紙を橋にかけてみる。


先ほどより少し丈夫になったものの、小さな駒を中央へ置くと、まだ沈んでしまった。


「うーん……」


子供は唇を尖らせた。


アリシアはその様子を見ながら、少し考えた。


「……紙を、折ってみる?」


「折る?」


「……うん。まっすぐのままより、少し形を変えたら、強くなるかもしれないから」


子供は目を輝かせた。


「やってみる!」


アリシアは紙を一枚取り、端を折り曲げてみせた。


ただし、最後まで作ってしまうことはしなかった。


子供が自分で試せるように、最初の折り方だけを見せる。


子供はその動きを真似し、少し不格好ながらも紙を折り始めた。


何度か失敗したあと、ようやく細長い形ができあがった。


「できた!」


「……うん。上手だね」


子供は嬉しそうに笑い、その紙を二つの木の駒の間へかけた。


今度は、先ほどよりしっかりとした橋になっている。


小さな駒を中央へ置くと、紙は少しだけ沈んだものの、落ちることはなかった。


「わあ!」


子供が声を上げた。


「渡れた!」


アリシアも思わず笑った。


「……よかったね」


「うん! アリシア、ありがとう!」


子供はそう言ってから、すぐに別の紙へ手を伸ばした。


「もう一個作る!」


アリシアは小さく頷き、その様子を見守った。


最初の橋がうまく作れたからといって、次も必ずうまくいくとは限らない。


けれど、子供は楽しそうだった。


失敗しても、すぐに別の方法を試してみる。


その姿には、以前よりも自分で選ぶことへの迷いが少なくなっているように感じられた。


ただし、それが何を意味する成長なのかを、アリシアが一人で決める必要はない。


今は、子供が楽しそうに遊んでいる。


それだけでも、大切なことだった。


◇


しばらくすると、子供は作った橋をいくつか並べ始めた。


机の上には、紙の橋と木の駒で作られた小さな道ができあがっている。


そのうちの一つは、ほかの橋より少し長く、途中で曲がる形になっていた。


「ここは、遠回りする道!」


子供が嬉しそうに説明した。


「こっちは近いけど、橋が壊れちゃうから、遠回りした方がいいの」


アリシアは目を丸くした。


今朝、北側連絡廊下の迂回路について考えたばかりだったからだ。


ただ、その偶然を何かの意味へ結びつける必要はない。


子供にとっては、今目の前にある遊びの中で、道を選んでいるだけなのだから。


「……遠回りでも、渡れる道があるんだね」


「うん!」


子供は頷き、木の駒をゆっくり動かした。


「こっちなら、落ちないよ」


アリシアは微笑んだ。


少し離れた場所では、顔のない存在が静かにその様子を見ていた。


子供は一度そちらへ視線を向け、それから小さな紙の橋を一つ取り上げた。


「これ、使う?」


返事はなかった。


子供は少し待ったあと、橋を机の端へ置いた。


「ここに置いておくね。使いたくなったら、使っていいよ」


アリシアはその言葉を聞き、胸の奥が少し温かくなった。


以前から、生活観測区画では相手の意思を尊重することが大切にされている。


返事がないからといって、無理に誘い続けない。


けれど、返事がないことを、相手がもう何もしたくないと決めつける理由にもしない。


子供は今、そのことを遊びの中で自然に行っていた。


しばらくして、顔のない存在がゆっくりと手を動かした。


その動きは、机の端に置かれた橋へ向けられているように見えた。


アリシアは静かに見守った。


顔のない存在の手は、橋の近くで止まった。


紙へ触れることはなかったが、すぐに引っ込めることもなかった。


子供はその様子を見つめていた。


「……ここにあるよ」


子供が小さく言った。


それ以上は何も言わなかった。


顔のない存在はしばらくその位置に手を置いたあと、静かに下ろした。


アリシアはその動きを目で追った。


橋を使いたかったのかもしれない。


ただ近くにあるものへ手を伸ばしただけかもしれない。


何か別の理由があった可能性もある。


けれど、その意味は分からない。


アリシアは子供へ視線を向けた。


子供は少し考えたあと、紙の橋をそのまま机の端へ残した。


「あとで使ってもいいからね」


そう言って、自分の遊びへ戻っていった。


アリシアは小さく微笑んだ。


(……待つって、何もしないこととは違うんだ)


無理に動かさないこと。


選べるものを残しておくこと。


そして、相手が自分で決められるようにすること。


それもまた、誰かと一緒に過ごすために必要なことなのだと思った。


◇


夕方になり、アリシアは生活観測区画で見たことを担当者へ伝えた。


今日は青い線を用いた遊びではなかった。


子供は紙の橋を作り、顔のない存在へ使用を提案した。


顔のない存在は橋へ手を近づけるような動きを見せたが、実際に使用したわけではない。


その動きが何を意味するのかは、分かっていない。


担当者は一つずつ確認しながら、必要な部分を記録した。


「今日も、こちらから動作を求めたわけではないんですね」


「……はい。子供が自分で作って、使うかどうか聞いていました」


アリシアが答えると、担当者は頷いた。


「分かりました。子供が自分で提案し、相手の返事を待ったということも、合わせて残しておきます」


アリシアは静かに頷いた。


報告を終えて廊下へ出ると、窓の外には夕暮れの光が広がっていた。


朝の青空とは違い、空の端には淡い橙色が混じっている。


遠くの校舎の屋根が夕日に照らされ、石畳には長い影が伸びていた。


ノアはアリシアの隣を歩きながら、低い声で言った。


「今日は随分と橋ばっかり見てたな」


「……うん。子供が、楽しそうだったから」


「まあ、あれだけ喜んでりゃ、作った甲斐もあるだろ」


ノアは尻尾を揺らした。


「ただ、紙の橋が丈夫になったからって、何でも渡れると思うなよ」


アリシアは少し笑った。


「……分かってるよ」


「どうだかな。お前、何か一つできるようになると、次も頑張ろうとするところがあるからな」


その言葉に、アリシアは少しだけ視線を落とした。


否定はできなかった。


誰かの役に立てたことが嬉しいと、もっと何かをしたくなる。


知らないことを少し理解できると、次も確かめたくなる。


その気持ちは、悪いものではないと思う。


けれど、無理をしていい理由にもならない。


「……今日は、ちゃんと休むよ」


「そいつは結構」


ノアは満足そうに頷いた。


アリシアは少しだけ笑い、夕暮れの廊下を歩き続けた。


◇


自室へ戻る前、アリシアは朝に通った廊下の近くを通りかかった。


北側連絡廊下の封鎖表示は、変わらず設置されている。


通行を制限する仕切りも、そのままだった。


ただ、朝に気になっていた案内板の周囲では、学園の職員が何かを確認していた。


アリシアは少し離れた場所で足を止めた。


職員は配置図のようなものを手にし、廊下の反対側から案内板を見ている。


そのあと、開かれた扉の位置を確かめ、別の職員へ何かを説明していた。


案内板が動かされたわけではない。


新しい表示が設置されたわけでもない。


けれど、朝に伝えたことについて、実際に現場を確認している様子が見えた。


(……見に来てくれたんだ)


アリシアは少しだけ嬉しくなった。


自分たちの報告が、職員へ届いている。


少なくとも、そのことは確かめられた。


しかし、案内板が改善されたかどうかは、まだ分からない。


今後どう扱われるのかも、自分では決められない。


アリシアはその区別を意識しながら、静かにその場を離れた。


歩き始めた時、背後から学生たちの話し声が聞こえた。


「まだ通れないのか」


「うん。でも、こっちから回ればいいらしいよ」


「少し遠いな」


「仕方ないよ。安全になるまでは、通らない方がいいんだろうし」


何気ない会話だった。


けれど、アリシアは少しだけ足を緩めた。


封鎖された廊下は、今日もそこにある。


それによって不便を感じている学生もいる。


早く通れるようになってほしいと思う人もいる。


けれど、安全を確かめる前に通行を再開してほしいと望んでいるわけではない。


学園の中では、それぞれの学生が、自分なりに今の状況を受け止めていた。


アリシアはそのことを、改めて感じていた。


◇


その頃、グラン先生は机の上に置かれた記録を整理していた。


北側連絡廊下に関する調査は、まだ続いている。


仮設記録器の時刻差についても、確認票の所在についても、最終的な結論は出ていない。


中央記録室の一時保管封筒や、照合関係原簿類の移管記録についても、管理側の確認を待つ必要がある。


先生は資料の一枚へ視線を落とした。


そこには、確認の対象と、まだ結論を出せない事項が分けて記されている。


以前であれば、一つの不明点を解消するために、別の資料をすぐ参照したくなる場面だった。


しかし、今は資料の保管状態や、確認できる権限の範囲も考えなければならない。


内容未照合のまま封緘が維持されている資料については、必要な手続きを経ずに開封することはできない。


そのことを、先生自身も改めて意識していた。


(……急いで知ろうとすることが、必ずしも正しいとは限らない)


グラン先生はペンを取り、資料の確認欄へ短い注意事項を書き加えた。


所在確認と内容確認を区別すること。


保管状態の変更を伴う場合には、管理側の判断を優先すること。


確認できなかった事項についても、その範囲を明確に残すこと。


どれも、新しい発見ではない。


けれど、今後の調査を誤った方向へ進めないためには、必要な整理だった。


先生はそのあと、アリシアから聞いた朝の案内板の報告を思い返した。


学生に向けて案内が出されている。


それでも、見る位置によっては十分に伝わらない。


管理する側が想定した経路と、実際に学生が受け取る情報は、必ずしも一致しない。


そのことを、アリシアは自分で気づいて知らせてくれた。


先生は小さく息を吐いた。


以前のアリシアなら、職員へ相談すること自体に強い緊張を感じ、目の前の学生へ道を教えるだけで精いっぱいだったかもしれない。


今も、人見知りな性格がなくなったわけではない。


けれど、怖さを感じながらも、必要なことを伝える力を少しずつ身につけている。


そして何より、調査の答えを自分一人で出そうとしなくなってきた。


グラン先生は、その変化を大切にしたいと思った。


六つ目の神器に関わる謎は、まだ多い。


過去の観測で確認された東西の反応も、その仕組みや意味がすべて明らかになったわけではない。


生活観測区画で見られる動作についても、無理に一つの役割へ結びつけるべきではない。


その中で、アリシア自身が学園生活を続け、友人と笑い、困っている人を助けられること。


それは、調査の結果とは別に守られるべきものだった。


先生は資料を閉じ、窓の外へ目を向けた。


夕暮れの光が、校舎の壁を静かに照らしている。


明日も確認は続くだろう。


新しい情報が見つかるかもしれないし、何も確定しないかもしれない。


けれど、どちらであっても、確かめられた範囲を正確に残していくことに変わりはなかった。


◇


夜、アリシアは机の前で今日の出来事を整理していた。


窓の外には暗い空が広がり、遠くの校舎の窓には、まだいくつか明かりが残っている。


机の上には学院用の帳面と、生活観測区画での出来事を自分なりに整理するための小さなメモが置かれていた。


アリシアはまず、朝の案内板について書いた。


見る位置によって矢印が隠れていたこと。


迷っている学生がいたこと。


メリルと一緒に学園事務へ報告したこと。


夕方には職員が現場を確認していたこと。


そして、案内板の改善が完了したかどうかは、まだ確認できていないこと。


そこまで書き終えると、少しだけ手を止めた。


今日の出来事を一つずつ振り返ってみると、朝に考えていたことと似たものが、いくつも見つかった。


伝えたつもりでも、相手に届いているか分からないことがある。


届いていても、相手が内容を理解したとは限らない。


返事がなくても、必ずしも聞いていないとは言えない。


そして、何かができていないからといって、それまでに行われたことが全部無意味になるわけではない。


(……今日も、少しだけ分かったことがある)


アリシアはその思いを胸に、帳面の次の欄へ視線を移した。


生活観測区画では、子供が紙の橋を作っていた。


顔のない存在は、橋へ手を近づけるような動きを見せた。


けれど、使用したわけではない。


何を意味するのかも分かっていない。


その事実を、そのまま書き留める。


以前なら、そこから何かの意味を探そうとしていたかもしれない。


六つ目の神器。


青い線。


東側と西側の反応。


六番目の空白。


何か一つ共通するものが見つかれば、すべてが繋がるのではないかと考えてしまうこともあった。


けれど、今日の紙の橋は、子供が遊びの中で作ったものだった。


それを、最初から何かの手掛かりとして扱う必要はない。


「おい、アリシア」


寝台の上からノアが声を掛けた。


アリシアは顔を上げた。


「……なに?」


「また書きすぎてねえか?」


「……今日は、そんなに書いてないよ」


「本当か?」


ノアは疑わしそうな目を向けた。


アリシアは少しだけ笑い、帳面を閉じた。


「……もう終わりにする」


「そいつは結構。で、今日は何か面白いことでもあったのか?」


アリシアは少し考えた。


面白いこと。


そう言われると、最初に思い浮かんだのは、子供が作った紙の橋だった。


「……子供が、紙で橋を作ったの」


「見てたから知ってる」


「……最初は、すぐに曲がっちゃって。でも、折り方を変えたら、ちゃんと渡れるようになったんだよ」


ノアは片耳を動かした。


「ほう。それで?」


「……すごく嬉しそうだった」


アリシアは微笑んだ。


「失敗しても、もう一回やってみようって……すぐに別の紙を持ってきて」


その時の子供の笑顔を思い出すと、自然と声が柔らかくなった。


ノアは少しだけ目を細めた。


「まあ、楽しそうだったな。ああいうのは、作ってる本人が面白がってるのが一番だろ」


「……うん」


「で、お前はどうだった?」


アリシアは少し目を丸くした。


「……私?」


「そうだよ。子供が楽しそうだったのは分かった。お前自身はどうだったんだ?」


アリシアはすぐには答えなかった。


今日一日を振り返る。


朝は、案内板のことで少し緊張した。


職員へ報告する時も、声が小さくなりかけた。


教室で北側連絡廊下の噂を聞いた時には、不安になった。


グラン先生から新しい結論がないと聞いた時には、少しだけ残念だった。


けれど、それだけではない。


メリルと一緒に考えられたことが嬉しかった。


昼食の時間に、自分の慎重さを認めてもらえたことが温かかった。


子供が紙の橋を作る姿を見て、自分も楽しい気持ちになった。


そして、夕方には、朝に伝えたことについて職員が確認している様子を見ることができた。


「……私も、楽しかった」


アリシアはゆっくり答えた。


「……少し緊張したこともあったけど。でも、今日は……みんなと話せて、嬉しかった」


ノアはしばらくアリシアを見つめていた。


それから、いつものように少しだけ呆れた声を出した。


「なら、いいじゃねえか。難しいことばっかり考えて、そういうのを忘れんなよ」


アリシアは小さく笑った。


「……うん」


「お前は六つ目の神器に選ばれたからって、毎日謎解きしてなきゃならねえわけじゃねえんだからな」


その言葉に、アリシアは静かに頷いた。


ノアは続けた。


「学校へ行って、友達と飯食って、変な噂を聞いたら困って、子供と遊んで笑って。それだって、お前の一日だろ」


アリシアは胸の奥が少し温かくなるのを感じた。


六つ目の神器に選ばれたことは、今の自分にとって大きな出来事だった。


そこから始まった出会いも、知らなかった世界も、まだ解決していない問題も、たくさんある。


けれど、それだけが自分のすべてではない。


アリシアは学園の学生であり、メリルの友達であり、ノアと一緒に過ごす少女でもある。


そして、生活観測区画の子供と笑い合う時間も、確かに自分の毎日の一部になっていた。


「……ありがとう、ノア」


「だから、礼はいいっての」


ノアは照れ隠しのように顔を背けた。


アリシアはその様子を見て、思わず笑った。


窓の外では、夜の風が木々の葉を揺らしている。


机の上には、今日書き留めた帳面が残っていた。


そこには、北側連絡廊下のことも、記録のことも、生活観測区画での出来事も記されている。


けれど、アリシアは最後に、もう一つだけ書き加えることにした。


『分からないことを確かめる時間も、誰かと笑って過ごす時間も、どちらも大切にしたい』


書き終えたあと、しばらくその一文を見つめた。


以前なら、こんなことを書くのは少し恥ずかしかったかもしれない。


自分が何を大切にしたいのかを、はっきり言葉にすること。


それもまた、アリシアにとっては小さな勇気が必要なことだった。


けれど、今は書いてよかったと思えた。


今日も、六番目の空白は埋まっていない。


欠落した確認票の所在も分かっていない。


北側連絡廊下の安全も、まだ確認されていない。


顔のない存在が示す動きについても、意味は明らかになっていない。


それでも、今日一日が無意味だったわけではなかった。


困っている学生へ声を掛けた。


友達と一緒に報告した。


曖昧な噂を、決めつけずに受け止めた。


子供が自分で橋を作る時間を、一緒に楽しんだ。


そして、分からないことを分からないまま残すことも、少しずつ怖くなくなってきた。


(……明日も、ちゃんと自分の一日を過ごそう)


アリシアは静かに帳面を閉じた。


寝台の上では、ノアがすでに丸くなっている。


「……ノア、おやすみ」


「おう。明日は朝から難しい顔すんなよ」


「……気をつける」


「あと、ちゃんと飯食え」


「……うん」


「それと、迷子になってる学生を見つけても、全部お前一人で案内しようとするなよ」


アリシアは少しだけ笑った。


「……分かってる。困ったら、誰かに相談する」


「ならいい」


ノアは満足そうに目を閉じた。


アリシアも寝台へ入り、ゆっくり目を閉じた。


暗い部屋の中で、今日見た紙の橋が心に浮かんだ。


最初は、すぐに曲がってしまった橋。


けれど、子供が自分で考え、折り方を変えたことで、小さな駒を渡せるようになった橋。


その姿は、どこか今の自分に似ている気がした。


最初から何でもできるわけではない。


分からないことも、怖いこともある。


それでも、一つずつ考えながら、自分にできる方法を探していく。


必要なら、誰かに助けてもらってもいい。


そうして少しずつ進めば、以前は渡れなかった場所へも、いつか辿り着けるかもしれない。


アリシアはその思いを胸に、静かに眠りへ落ちていった。


北側連絡廊下の封鎖は、明日も続くかもしれない。


記録の確認にも、まだ時間が必要だろう。


けれど、アリシアはもう、答えが出るまで自分の毎日を止めておく必要はないと知っていた。


分からないことは、分からないまま大切に残しておく。


確かめられることがあれば、必要な手順を守って一つずつ確かめる。


そして、その間にも、自分のそばにいる人たちとの時間を大切にする。


それが今のアリシアにできる、確かな歩み方だった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。