第320話 届かなかった一枚と、六番目の空白が示す新しい問い
朝の学園は、昨夜の雨をまだ少しだけ残していた。
石畳の継ぎ目には細い水の筋が残り、校舎の壁を這う蔦の葉からは、時折、小さな雫が落ちている。空には薄い雲が広がっていたが、東の方角には淡い青色が見えており、今日一日を雨の中で過ごすことにはならなさそうだった。
アリシアは窓辺に立ち、そんな朝の景色をしばらく眺めていた。
昨夜は、眠れなかったわけではない。
胸に痛みはなく、息苦しさも感じなかった。目を覚ましてから身体の状態を確かめても、指先が不自然に冷えることはなく、影を動かした翌日に残るような重さもなかった。
それでも、頭の中には、どうしても離れないことがあった。
(……あの一枚は、どこへ行ったんだろう)
北側連絡廊下の設備異常に関する記録。
仮設記録器からの通知と、受領を確認するための手続き。
中央記録室で一時保管された可能性のある封筒。
そして、照合関係の原簿類が移されたという記録に残っていた、内容を確認しないまま封を保つという扱い。
それぞれについて、少しずつ分かってきたことはある。
けれど、分からないことの方が、まだずっと多かった。
誰かが意図的に確認票を隠したのか。それとも、保管や移管の途中で、別の書類と一緒になってしまったのか。
そもそも、探している確認票が、今も一枚の紙として残っているのかさえ確定していない。
窓の向こうで、枝にとまっていた小鳥が羽を広げた。
アリシアはその動きを目で追い、それから机の上へ視線を戻した。
昨夜、整理しておいた帳面が置かれている。
開いたページには、三つの言葉が書かれていた。
『記録されたこと』
『確認できたこと』
『まだ分からないこと』
最初の二つは似ているようで、同じではない。
誰かが「届いた」と記録したからといって、受け取るはずだった人が実際に確認したとは限らない。反対に、受け取った人がいても、その事実を示す記録が残っていなければ、あとから確かめることは難しくなる。
アリシアは、その違いを何度も考えていた。
「朝っぱらから難しい顔しやがって」
寝台の方から声がした。
振り返ると、ノアが前足を伸ばしながら欠伸をしていた。黒い毛並みは朝の薄い光を受けて柔らかく光り、金色の瞳だけが、相変わらず妙にはっきりとアリシアを見ている。
「……おはよう、ノア」
「おう。それで、また昨日までの記録を考えてんのか?」
「……うん」
「熱心なのは結構だが、考え続けりゃ答えが勝手に出てくるってもんでもねえぞ」
ノアは寝台から軽く跳び下り、机の横まで歩いてきた。
帳面を覗き込むと、少しだけ耳を動かす。
「記録と確認と、分からねえこと、か。まあ、今のお前にはちょうどいい分け方だな」
「……そうかな」
「少なくとも、分からねえもんを全部『怪しい』で片づけるよりはましだ」
アリシアは小さく頷いた。
怪しいと思うことと、何かが起きたと確かめられることは違う。
北側連絡廊下の問題が長く続いているからといって、すべての記録の不備を一つの原因へ結びつけてはいけない。
「……でも、ノア」
「あん?」
「確認票が見つからないことと、六番目の空白って……関係があるのかな」
ノアはすぐには答えなかった。
机の上に前足を掛け、帳面の端へ視線を落とす。
「関係がある可能性はあるだろうな。だが、関係があると思いたいだけかもしれねえ」
「……うん」
「六番目が空白のまま残ってることと、確認票が見当たらねえこと。どっちも『ない』って話に見えるが、同じ理由でそうなったとは限らねえだろ」
その言葉に、アリシアは少し考えた。
確かに、二つの空白は違っている。
確認票については、本来あるはずの記録が見つからない。
一方、六番目の空白には、少なくとも調べられた範囲で、何かを消し去った痕跡が見つかっていない。
最初から書かれていなかった可能性もある。
別の場所に記録されているのかもしれない。
何を意味する空白なのか、その定義さえまだ十分には分かっていなかった。
「……同じじゃないね」
「そういうこった。で、そこまで分かってんなら、まず朝飯だ」
「……え?」
「え、じゃねえよ。お前、考え事してると時計を見るのを忘れるだろ」
アリシアが壁の時計を見ると、普段より少しだけ時間が進んでいた。
「……あ」
「ほら見ろ。六番目の謎を解く前に、朝の支度で迷子になってどうすんだ」
「……迷子には、ならないよ」
「どうだかな」
ノアの尻尾が愉快そうに揺れた。
アリシアは少し頬を膨らませたものの、結局は小さく笑ってしまった。
帳面を閉じ、鞄へしまう。
まだ答えは出ていない。
けれど、答えが出ていないからこそ、今日も確かめなければならないことがあるのだと思った。
◇
北側連絡廊下の手前には、今日も立入禁止を示す表示が置かれていた。
以前より目立つ位置へ移された案内板には、授業で使う教室へ向かうための迂回経路が記されている。通路の封鎖そのものに大きな変化はなく、設備の安全が確認されるまでは、学生の通行を再開しない方針が続いていた。
アリシアは少し離れた場所で足を止めた。
封鎖された廊下の奥は、ここからではよく見えない。
朝の光が届かないため、閉じられた区画の向こう側はいつもより暗く感じられた。
(……今日も、まだ通れないんだ)
そう思った時、近くで下級生らしい二人が案内板を見上げていることに気づいた。
一人は手にした時間割と通路を交互に見比べ、もう一人は何度か廊下の先を指さしている。
「こっちだと思ったんだけど……」
「でも、この先って通れないんじゃない?」
困ったような声が聞こえた。
アリシアは少し迷った。
以前の自分なら、話し掛けるまでにもっと時間がかかっていたと思う。
知らない相手に声を掛けることは、今でも得意ではない。
けれど、相手が道に迷っていることは分かる。
そして、自分は迂回路を知っている。
「あ、あの……」
二人が振り返った。
アリシアは一瞬だけ肩を強張らせたが、案内板を指さして言葉を続けた。
「……そちらは、今は通れないので……東側の階段から、回った方がいいと思います」
「東側の階段、ですか?」
「……はい。あの角を曲がって、突き当たりの階段を上がると、反対側の廊下へ出られます」
二人は顔を見合わせた。
それから、少し安心したように笑った。
「ありがとうございます! 初めて使う教室なので、迷ってしまって」
「……いえ」
「助かりました!」
下級生たちは丁寧に頭を下げ、教えられた方向へ歩いていった。
アリシアはその背中を見送り、胸の前で小さく手を握った。
(……ちゃんと、伝えられた)
大したことではないのかもしれない。
ただ、知っている道を教えただけだった。
それでも、誰かが困っている時、自分から声を掛けられたことが嬉しかった。
「アリシア!」
明るい声が聞こえた。
振り返ると、メリルがこちらへ歩いてきていた。
「おはよう! 今日も早いね!」
「……おはよう、メリル」
「さっき、下級生に道を教えてた?」
「……うん。少し迷ってたみたい」
「そっか。ここの迂回路、まだ慣れてない子も多いもんね」
メリルは封鎖表示へ視線を向けた。
その表情が、ほんの少しだけ真面目になる。
「北側の廊下、まだ使えないんだね」
「……うん」
「原因、分かったのかな」
アリシアは首を横に振った。
「……まだ、はっきりしたことは聞いてないの」
「そっか」
メリルは少し残念そうに呟いた。
そのあと、アリシアの顔を覗き込む。
「でも、アリシア。無理して調べに行っちゃ駄目だからね」
「……行かないよ」
「本当?」
「……うん。グラン先生にも、自分だけで確かめに行かないって話してるから」
「ならよかった!」
メリルは安心したように笑った。
アリシアは、その笑顔を見て少しだけ肩の力を抜いた。
メリルはいつも明るい。
けれど、ただ明るいだけではない。
アリシアが無理をしそうな時には、きちんと心配してくれる。
そして、何かを決めた時には、その決定を尊重してくれる。
「……メリル」
「ん?」
「ありがとう」
「え? 何が?」
「……心配してくれたから」
メリルは少し照れくさそうに笑った。
「もう、友達なんだから当たり前だよ!」
アリシアは小さく頷いた。
二人は封鎖された廊下の前を離れ、授業のある教室へ向かった。
背後では、別の学生たちが案内板を確認している。
以前なら当たり前に通れた場所が、今は通れない。
その不便さは、学園の日常へ確かに影響していた。
だからこそ、原因が分からないうちに安全だと決めつけてはいけない。
アリシアは歩きながら、もう一度そう思った。
◇
午前の授業では、複数人で行う魔力制御の基礎確認が行われた。
大きな魔法を使う実技ではない。
それぞれが自分の魔力を一定の範囲に保ち、相手の変化を観察しながら、必要に応じて声を掛けるというものだった。
アリシアとメリルは、以前から取り組んでいる二人連携の続きを行うことになった。
「今日は、ちゃんと止まる練習もしたいな」
メリルが準備をしながら言った。
「止まる練習……?」
「うん。魔力を合わせるのも大事だけど、どっちかが難しいと思った時に、すぐ止められるようにしたいんだ」
アリシアは静かに頷いた。
「……うん。私も、その方が安心する」
「じゃあ、始める前に合図を決めよう!」
二人は教師の指示を確認したうえで、開始と停止の声を決めた。
開始前には互いの準備を確認する。
途中で変化を見つけた時には、それを言葉にする。
どちらかが止めたいと言った時には、理由を聞く前に、まず決められた手順で魔力を落とす。
簡単な約束だった。
けれど、実際に行うと、思っていたよりも難しい。
メリルの魔力が少し強くなると、アリシアはそちらへ意識を向けてしまう。
自分の影の状態を確認しようとすると、今度はメリルの変化を見落としそうになる。
両方を完璧に見ようとしても、視線も意識も一つしかない。
「……メリル、少し強くなってる」
「あ、本当だ。じゃあ、少し落とすね」
メリルが出力を調整した。
アリシアはその変化を確かめ、自分の影を一定の範囲に保つ。
影は床の上で薄く広がっていたが、決められた境界を越えることはなかった。
やがて、メリルが声を掛けた。
「アリシア、そっちは大丈夫?」
「……うん。今は、大丈夫」
「分かった。じゃあ、このまま少し続けるね」
アリシアは頷いた。
以前なら、自分が問題ないことを伝えるだけでも緊張していた。
けれど、今は少し違う。
大丈夫だと伝えることも、無理だと伝えることも、相手と一緒に続けるために必要なことだと思えるようになっていた。
しばらくして、影の端に小さな揺れが生じた。
アリシアはすぐに視線を向けた。
強い異常ではない。
けれど、自分の意識が一瞬だけ散ったことは分かった。
「……メリル。一度、止めてもいい?」
「もちろん!」
返事はすぐにあった。
二人は決められた順番で魔力を落とし、実技を終了した。
教師が近づいてきて、記録を確認する。
「今の停止は、どちらから申し出ましたか?」
「……私です」
アリシアが答えた。
「影の端が少し揺れたので……そのまま続けるより、一度止めた方がいいと思いました」
教師は頷いた。
「分かりました。変化を確認したあと、無理に調整を続けなかったのですね」
「……はい」
「それで構いません。今の段階では、揺れを完全になくすことよりも、自分で変化を認識し、相手へ伝えられることが重要です」
メリルが嬉しそうに笑った。
「よかったね、アリシア!」
「……うん」
アリシアも小さく笑った。
自分から止めたいと言えた。
そのことが、思っていた以上に嬉しかった。
ただ、教師の言葉を聞きながら、もう一つ考えていた。
(……伝えることと、相手に届くことは、同じじゃない)
今日のメリルは、すぐに返事をしてくれた。
だから、アリシアは安心して停止できた。
もし返事がなかったら。
もし、声を掛けたことだけが記録され、メリルが聞いたかどうか分からなかったら。
その場合には、同じように進めることはできなかっただろう。
アリシアは、その考えを心の中に残しておいた。
◇
午後、アリシアはグラン先生から、北側連絡廊下に関する確認の時間を設けると伝えられた。
場所は、普段の授業で使う教室ではなかった。
学園側が管理する記録を確認するための小さな部屋であり、そこには必要な資料だけが用意されていた。
アリシアが入室すると、グラン先生は机の上の書類を整理しているところだった。
「来たね、アリシア」
「……はい。よろしくお願いします」
「こちらこそ。今日は新しい実験をするわけではないから、無理に緊張しなくていいよ」
アリシアは小さく頷いた。
ノアは足元を歩き、椅子の近くで腰を下ろした。
「で、何か進んだのか?」
グラン先生はノアへ視線を向けた。
「進んだ部分はある。ただし、原因が判明したという話ではない」
「だろうな」
ノアは短く答えた。
先生は机の上の資料を一枚取り上げた。
「まず、北側連絡廊下の封鎖は継続している。設備が安全に使用できるという判断は、まだ出ていない」
アリシアは頷いた。
「……はい」
「仮設記録器についても、記録の整理が進められている。ただ、これまで確認されていた受領通知の時間差について、すべての説明がついたわけではない」
先生は、二つの時刻が書かれた資料を示した。
片方は、記録器側で残された時刻。
もう片方は、通知を受け取る側で記録された時刻だった。
「時計の差によって説明できる部分はある。だが、その補正を考慮しても、なお確認が必要な差が残っている」
「……その差が、設備の異常なんですか?」
「まだ、そうは言えない」
グラン先生は穏やかに答えた。
「送信側の処理、途中の経路、受信側の処理、記録そのものの扱い。どこで生じた差なのかを、分けて調べる必要がある」
アリシアは資料を見つめた。
数字だけを見れば、確かに違いがある。
けれど、その数字が何を示しているのかを理解しなければ、原因を決めることはできない。
「……受け取った時間と、受け取ったことを確認した時間も、違うかもしれないんですね」
アリシアが言うと、先生は頷いた。
「その通りだよ」
グラン先生は別の紙を机へ置いた。
「今回、記録の扱いを確認する中で、少なくとも三つの段階を混同しない方がいいことが改めて分かった」
先生は順番に指で示した。
「記録が作られた段階。記録が送られた、あるいは移された段階。そして、受け取る側が内容を確認した段階だ」
アリシアは慎重に言葉を追った。
記録が作られた。
記録が移された。
内容が確認された。
どれも似ている。
けれど、一つずつ違っている。
「……送ったことが分かっても、確認されたとは限らない」
「そうだね」
「……でも、確認された記録がなくても、誰も受け取っていないと決まったわけじゃない」
グラン先生は少しだけ目を細めた。
「そこまで考えられたなら、今日の確認には十分意味がある」
アリシアは小さく息を吐いた。
答えが分かったわけではない。
けれど、何を確かめるべきなのかが、少しはっきりしてきた気がした。
ノアが机の下から声を上げる。
「つまり、『渡したつもり』と『受け取った』と『中身を見た』を、全部同じ扱いにしちまうと面倒なことになるってわけか」
「少々乱暴な表現だけれど、方向としては間違っていないね」
「乱暴で悪かったな」
ノアは不満そうに尻尾を揺らした。
そのやり取りに、アリシアは少し笑った。
◇
グラン先生は続いて、中央記録室に関する資料を取り上げた。
「確認票の所在についても、照会は続いている」
アリシアの表情が少し引き締まった。
「……一時保管の封筒、ですか?」
「そう。ただし、ここは特に慎重に考えたい」
先生は資料を机の中央へ置いた。
「一時保管の封筒に関する記録があることと、その封筒の中に探している確認票が入っていることは、別の話だ」
「……はい」
「照合関係の原簿類についても同じだ。移管された資料の中に、内容未照合のまま封を保つ扱いのものがある可能性は調べられている。しかし、そこに目的の原簿が入っていると確認されたわけではない」
アリシアは頷いた。
以前、封緘維持という言葉を聞いた時、胸の奥に小さな期待が生まれたことを覚えている。
もしかしたら、そこに探しているものがあるかもしれない。
誰も見ていないだけで、大切な答えが残っているのかもしれない。
けれど、その期待だけで箱を開けていいわけではない。
何を保管するための箱なのか。
誰が封をしたのか。
どの記録に基づいて移されたのか。
そうした確認が必要だった。
「……封を開ければ、分かることもあるんですよね」
アリシアは控えめに尋ねた。
「可能性はある」
先生は否定しなかった。
「けれど、開けたことによって分からなくなることもある。封の状態や、保管されていた順序が重要な場合もあるからね」
その言葉に、アリシアは少し驚いた。
「……開けると、分からなくなる?」
「たとえば、何かがどの状態で保管されていたかを確認する前に中身を動かしてしまえば、あとからその順序を確かめられなくなることがある。封を開ける行為自体が、新しい変更になるんだ」
アリシアは机の上の資料を見つめた。
見つけたい。
確かめたい。
けれど、早く確かめようとすることで、大切な手掛かりを失う可能性もある。
(……知らないままでいるのも、難しいんだ)
アリシアはそう思った。
答えが気になるからといって、すぐに手を伸ばしてはいけない。
誰かが定めた管理の手順には、理由がある。
その理由を理解しないまま動けば、今よりも分からないことが増えてしまうかもしれない。
「……先生」
「何かな」
「私、封筒の中身が気になります。でも……今は、開けない方がいいんですね」
グラン先生は静かに頷いた。
「少なくとも、私たちが独断で開ける段階ではない。必要な確認は、管理を担当する人たちが進める」
「……はい」
「アリシアには、その結果として共有できることを伝える。共有できないものまで、無理に知ろうとしなくていい」
アリシアは少しだけ肩の力を抜いた。
以前の自分なら、知らないことを申し訳なく感じていたかもしれない。
自分が六つ目の神器に関わっているのだから、自分がもっと調べなければならない。
そんなふうに考えてしまうこともあった。
けれど、今は少し違う。
自分にしかできないことがあるかもしれない。
それでも、自分がすべてを知り、すべてを決める必要はない。
ノアが低い声で言った。
「まあ、箱一つ開けるにしても、開けていい奴と、そうじゃねえ奴がいるってことだ。気になるからって前足突っ込んだら、あとで面倒なことになる」
「……ノアは、前足を突っ込まないでね」
「誰がやるか!」
思いがけず大きな声が返ってきて、アリシアは目を丸くした。
グラン先生が小さく笑う。
「ノアが慎重で助かるよ」
「おい、今のは褒めてんのか?」
「もちろん」
「どうにも信用できねえな」
そのやり取りで、張り詰めていた空気が少し和らいだ。
◇
最後に示されたのは、六つの区画が描かれた記録についての整理だった。
アリシアは、そこに残る空白を見つめた。
五つの区画には、何らかの記録がある。
けれど、六番目に当たる場所には、内容を示す記載がない。
少なくとも、これまでの確認では、文字が消されたという確かな痕跡は見つかっていなかった。
「……ここは、まだ分からないままなんですね」
「そうだね」
グラン先生は頷いた。
「ただ、分からないということも、正確に残しておきたい」
アリシアは先生を見た。
「……正確に?」
「そう。六番目に何もなかったと確認したわけではない。何かが消されたと確認したわけでもない。今分かっているのは、確認された資料には、その部分の内容が記されていないということだ」
アリシアはゆっくり頷いた。
空白がある。
それ以上の意味は、まだ決まっていない。
「……最初から、空けてあった可能性もあるんですよね」
「ある。別の資料で管理されていた可能性も、今の段階では否定できない」
先生はそこで少し言葉を切った。
「ただし、可能性をいくつ並べても、それだけでは証拠にはならない。次に必要なのは、どの確認をすれば可能性を絞れるかを考えることだよ」
アリシアは静かに頷いた。
それは、授業で教わったこととも似ている。
魔力の揺れが見えたからといって、すぐに原因を決めない。
相手の負担が大きいように見えても、本人へ確認せずに判断しない。
記録も、魔法も、人の気持ちも。
確かめないまま答えを決めてしまえば、本当に大切なことを見落とすのかもしれない。
「……先生」
「うん?」
「私、少しだけ……怖いです」
グラン先生は黙ってアリシアを見た。
急かすことも、理由を尋ねることもしなかった。
その沈黙に助けられ、アリシアは言葉を続けた。
「分からないことが、たくさんあって……調べても、すぐに答えが出なくて。もし、ずっと分からなかったらって考えると……」
最後の方は、少し声が小さくなった。
グラン先生は静かに頷いた。
「そう感じるのは自然なことだと思う」
先生は資料を閉じた。
「でも、答えが出るまでの時間が長いからといって、それまでの確認が無意味になるわけではないよ」
「……はい」
「間違った答えを急いで出すより、分からないものを分からないまま扱い、確かめられる部分から進めることにも意味がある」
アリシアは机の上で手を重ねた。
少しだけ緊張が和らいでいく。
「それに、この件を調べているのは君一人ではない」
先生は続けた。
「学園の設備を担当する人たちも、記録を管理する人たちも、それぞれの仕事をしている。君がすべてを背負う必要はないんだ」
「……はい」
アリシアは今度こそ、はっきり頷いた。
グラン先生はその様子を確かめ、最後に確認事項をまとめた。
北側連絡廊下の封鎖は継続する。
仮設記録器の時間差は、原因を決めつけずに調査する。
確認票と一時保管封筒、照合関係の原簿類については、管理記録の照合を続ける。
六番目の空白についても、現段階では意味を確定しない。
アリシアが直接、設備や封緘された資料へ触れることはない。
どれも、新しい答えではなかった。
けれど、今守らなければならない境界が、以前より明確になった。
アリシアはその内容を自分の帳面へ書き留めた。
◇
記録の確認を終えたあと、アリシアは生活観測区画へ向かった。
午後の光はすでに柔らかくなっており、廊下の窓から見える庭には、雨上がりの湿った匂いが残っていた。
生活観測区画の共有室では、子供が机に向かって絵を描いていた。
近くには、顔のない存在もいる。
子供はアリシアの姿に気づくと、ぱっと顔を明るくした。
「アリシア!」
「……こんにちは」
「見て! 今日も描いたんだよ!」
子供は嬉しそうに紙を持ち上げた。
そこには、いくつかの色を使った線が描かれていた。
青い線もある。
アリシアは少しだけ胸が高鳴るのを感じたが、すぐに深呼吸した。
この絵は、子供が描いたものだ。
調査のために作られた資料ではない。
だから、まずは子供自身が何を描いたのかを聞くことが大切だった。
「……きれいだね」
「ほんと?」
「……うん。今日は、色がたくさんあるね」
「そう! こっちは空で、こっちは道!」
子供は指を動かしながら、一つずつ説明してくれた。
青い線は、紙の端から別の場所へ伸びている。
その近くには、短い線や小さな丸も描かれていた。
アリシアは、以前に顔のない存在が示した動きを思い出した。
青い線を左端から右端へなぞるような動き。
そして、その終点で、指先を少し上へ向けるような仕草。
ただし、その意味はまだ分かっていない。
何かを示しているのか。
描かれた線そのものへ反応したのか。
それとも、全く別の理由があるのか。
アリシアには判断できなかった。
「……今日は、どうして青い道を描いたの?」
アリシアが尋ねると、子供は少し考えた。
「青が好きだから!」
「……そうなんだ」
「うん。昨日も青を使ったから、今日も使いたかったの」
アリシアは静かに頷いた。
子供にとって、青い線を描く理由は、とても素直なものだった。
そこへ大人が勝手に別の意味を重ねてしまえば、子供の答えを変えてしまうかもしれない。
「……教えてくれて、ありがとう」
「うん!」
子供は嬉しそうに笑い、再び絵を描き始めた。
アリシアはその隣の椅子へ腰を下ろした。
顔のない存在は、少し離れた場所で静かにしている。
こちらへ近づいてくる様子もなければ、何かを求めるような動きもない。
アリシアは無理に声を掛けず、その場に流れる時間を大切にした。
しばらくすると、子供が顔を上げた。
「アリシアも描く?」
「……私も?」
「うん。一緒に描こう!」
アリシアは少し迷った。
絵を描くことは嫌いではない。
けれど、自分はあまり上手ではないと思っている。
「……あんまり、上手じゃないけど」
「上手じゃなくてもいいよ!」
子供は当たり前のように言った。
「好きなもの描けばいいんだもん」
アリシアは目を丸くした。
そのあと、小さく笑った。
「……そうだね」
子供から紙を一枚受け取り、色鉛筆を選ぶ。
何を描こうか、少しだけ考えた。
最初に思い浮かんだのは、学園の中庭だった。
窓から見える木。
細い道。
小さな花壇。
そして、その近くに座っている黒猫。
アリシアは少しずつ線を描いていった。
猫の耳は少し大きくなってしまった。
尻尾も、本物より長い。
けれど、描いているうちに楽しくなってきた。
「これ、ノア?」
子供が覗き込んだ。
「……うん」
「かわいい!」
「……ありがとう」
その言葉を聞いて、近くにいたノアが顔を上げた。
「おい、俺の尻尾はそんなに長くねえぞ」
アリシアは思わず手を止めた。
「……似てない?」
「耳も妙にでけえし、胴体が丸すぎる」
「……ごめん」
「謝るほどじゃねえけどな。どうせ描くなら、もうちょっと格好よく描け」
子供が声を上げて笑った。
「ノア、かわいいの嫌なの?」
「嫌ってわけじゃねえが、俺には威厳ってもんがあるんだよ」
「いげん?」
「……まあ、分からなくていい」
ノアは諦めたように尻尾を揺らした。
アリシアも、思わず笑ってしまった。
共有室に、穏やかな笑い声が広がる。
顔のない存在は、その場から動かなかった。
けれど、子供は何度かそちらへ視線を向けながら、楽しそうに絵を描き続けていた。
◇
しばらくして、子供が一枚の紙を机の中央へ置いた。
「これ、ここに置いておくね」
青い線の描かれた絵だった。
子供は顔のない存在へ視線を向けた。
「見てもいいし、見なくてもいいよ」
返事はなかった。
子供は少し待ったあと、自分の絵へ戻った。
アリシアはその様子を見守っていた。
以前から、この場所では相手の意思を確かめることが大切にされている。
返事がないことを、勝手に承諾へ変えない。
近づいてこないことを、必ずしも拒絶だと決めつけない。
何かを伝えようとしているように見えても、その意味を急いで確定しない。
それは、簡単なようで難しいことだった。
少し時間が経った頃、顔のない存在が静かに動いた。
アリシアはその変化に気づいたが、身体を乗り出すことはしなかった。
顔のない存在の手が、机の方へ向けられる。
青い線のある紙の近くで、その動きは止まった。
アリシアは呼吸を整え、ただ見守った。
やがて、指先が紙の上へ近づく。
左側から右側へ。
以前にも見られた、線を追うような動きだった。
子供は描く手を止め、静かに見つめていた。
アリシアも、何も言わなかった。
指先が青い線の終点付近へ来ると、動きが少し変わった。
わずかに上を向く。
それから、手は静かに下ろされた。
アリシアは胸の奥が小さく震えるのを感じた。
(……また、同じような動き)
しかし、そこで答えを決めることはしなかった。
何かを知らせようとしているのかもしれない。
青い線が気になっただけかもしれない。
何かを思い出しているようにも見えるが、そうだと確かめられたわけではない。
アリシアは子供へ視線を向けた。
子供も、少し不思議そうにしている。
「……どうしたんだろうね」
子供が小さく呟いた。
「……うん。まだ、分からないね」
アリシアはそう答えた。
子供は少し考えたあと、顔のない存在へ向き直った。
「見てくれて、ありがとう」
返事はなかった。
けれど、子供は満足そうに微笑んだ。
アリシアはその様子を見つめながら、胸の奥が少し温かくなるのを感じた。
分からないことがあっても、相手を大切にすることはできる。
意味が分からなくても、起きたことをそのまま受け止めることはできる。
そして、分からないままでいる時間を、無理に終わらせなくてもいい。
今日のアリシアには、そのことが少しだけはっきり感じられた。
◇
生活観測区画で過ごしたあと、アリシアは担当者へ今日の出来事を伝えた。
報告したのは、実際に見た動きだけだった。
子供が青い線を描いたこと。
顔のない存在が、その線を左から右へ追うような動きをしたこと。
終点付近で、指先がわずかに上を向いたこと。
その動きが以前にも見られていること。
ただし、何を意味するのかは不明であり、北側連絡廊下や六番目の空白との関係も確認されていない。
担当者はその内容を丁寧に聞き取り、必要な範囲で記録した。
「報告してくれてありがとう。今日は、こちらから追加の動作を求めたりはしていないんですね」
「……はい。子供が描いた絵を、見ていた時のことです」
「分かりました。それなら、観察されたこととして残しておきます」
アリシアは頷いた。
担当者は続けた。
「同じような動きが見られたとしても、必ず同じ意味だとは限りません。何かを伝えている可能性も含めて、今は判断を急がないことが大切ですね」
「……はい」
アリシアは小さく答えた。
報告が終わると、少し肩の力が抜けた。
自分が見たことは伝えられた。
けれど、その意味を自分だけで決める必要はない。
その区別ができたことが、少し嬉しかった。
◇
夕方、グラン先生のもとへ、記録管理側から追加の連絡が入った。
アリシアがその場に呼ばれたのは、すべての調査内容を聞くためではない。
これまで共有されていた確認事項について、扱いが変わった部分がないかを知らせるためだった。
先生は机の上の資料を閉じ、アリシアへ向き直った。
「一つ、今後の確認方法について整理が進んだよ」
「……確認方法、ですか?」
「そう。探している確認票と、照合関係の原簿類について、所在の確認と内容の確認を別々の段階として扱うことになった」
アリシアは少し考えた。
「……見つかったかどうかと、中身が何かは、別に確かめるんですね」
「その通りだよ」
グラン先生は頷いた。
「まず、対象となる資料がどの管理記録に含まれているかを確認する。そのあと、必要な権限と手順が整った段階で、内容を確かめるかどうか判断する」
「……はい」
「現時点では、目的の確認票や原簿が見つかったという知らせではない。封緘された資料の中身が確定したわけでもない」
アリシアは静かに頷いた。
期待しすぎないように。
けれど、何も進んでいないと考えないように。
自分の中で、言葉を一つずつ整理していく。
「……先生」
「何かな」
「もし、探しているものが見つからなかったら……どうなるんですか?」
グラン先生は少し考えた。
「その場合は、見つからなかったという結果を残すことになる。そして、別の記録から確認できることがないかを考える」
「……そこで、終わりじゃないんですね」
「もちろん、調査には限界がある。何でも必ず明らかにできるとは言えないよ」
先生は静かに続けた。
「でも、一つの方法で見つからなかったからといって、最初から何もなかったことにはならない。確認できなかった理由も、次の判断に必要な情報になる」
アリシアはその言葉を聞き、ゆっくり頷いた。
自分が探しているものが、必ず見つかるとは限らない。
六番目の空白についても、はっきりした答えに辿り着ける保証はない。
それでも、途中で分かったことを大切にすることはできる。
何を確認したのか。
どこまで分かったのか。
何がまだ分からないのか。
その一つ一つを残しておけば、いつか別の人が続きを確かめられるかもしれない。
「……先生。私、今日、少し分かったことがあります」
「聞かせてくれるかな」
アリシアは膝の上で手を重ねた。
「記録があることと、受け取ったことと、中身を確かめたことは……全部、別なんですね」
「うん」
「それから……分からないことも、分からないって残しておけば、なくなったことにはならないんだと思いました」
グラン先生は、しばらくアリシアを見つめていた。
それから、穏やかに微笑んだ。
「大切なことに気づいたね」
アリシアは少し照れくさくなり、視線を落とした。
「……まだ、よく分からないことばかりですけど」
「それでいいんだよ。今の段階で、すべてを理解している必要はない」
先生はゆっくり頷いた。
「君が自分の状態を確かめ、知っていることと知らないことを分けて考えられる。それは、これから先も役に立つはずだ」
アリシアは小さく頷いた。
◇
自室へ戻った頃には、窓の外の空が夕暮れの色に変わっていた。
雲の端が淡い橙色に染まり、遠くの校舎の屋根には、最後の陽光が細く残っている。
アリシアは鞄を置き、机の前へ座った。
今日の記録をまとめるためだった。
帳面を開くと、朝に書いていた三つの区分が目に入った。
『記録されたこと』
『確認できたこと』
『まだ分からないこと』
アリシアは、その下へ今日の出来事を書き加えていった。
北側連絡廊下の封鎖は継続している。
仮設記録器の通知と受領の時間差は、一部の説明がついているものの、まだ原因を確定できない部分が残っている。
確認票の所在は未確定。
一時保管封筒と照合関係の原簿類は、管理記録を通じた確認が続いている。
六番目の空白についても、内容や意味は分かっていない。
生活観測区画では、顔のない存在が青い線を追うような動きを再び示した。
けれど、その意味は未確定。
書き終えたあと、アリシアはしばらく帳面を見つめていた。
分からないことが多い。
書いてみると、そのことがはっきりする。
けれど、不思議と朝ほど苦しくはなかった。
以前なら、分からないことが増えるたびに、自分が何かを間違えているのではないかと考えてしまっていた。
自分がもっと上手に魔法を使えたら。
もっと勇気があったら。
もっと賢ければ。
そんなふうに、自分の足りない部分ばかりを探してしまうことがあった。
でも、今日は違う。
自分が何もできなかったわけではない。
下級生へ道を教えた。
メリルと一緒に実技を行い、必要な時には停止を申し出た。
先生から説明を聞き、分からないことを質問した。
生活観測区画では、子供と絵を描いて笑った。
顔のない存在の動きを見守り、その意味を勝手に決めずに報告した。
どれも、今日確かにできたことだった。
「おい」
ノアが机の横から声を掛けた。
「……なに?」
「また難しい顔してるぞ」
「……そんな顔、してた?」
「してた。朝ほどじゃねえけどな」
アリシアは少し笑った。
「……今日も、分からないことが多かったなって」
「そりゃそうだろ。昨日分からなかったことが、今日になったら全部分かるなんて都合のいい話、そうそうあるかよ」
「……うん」
「それで、何か進んだのか?」
アリシアは少し考えた。
「……進んだと思う」
「ほう?」
「答えは見つからなかったけど……何を確かめないといけないのか、少し分かったから」
ノアは金色の瞳を細めた。
「なら、十分じゃねえか」
「……そうかな」
「そうだろ。分からねえって言いながら、同じ場所をぐるぐる回ってるだけじゃねえんだからな」
アリシアは静かに頷いた。
そのあと、少しだけ声を落とした。
「……ねえ、ノア」
「何だ」
「六番目の空白って……どうして、ずっと空白なんだろう」
ノアはすぐには答えなかった。
机の上の帳面へ視線を落とし、しばらく黙っている。
「それが分かりゃ、苦労しねえよ」
「……うん」
「ただな、アリシア」
「……なに?」
「空白だからって、最初から何もなかったとは限らねえ。逆に、何かが隠されてるとも限らねえ」
アリシアは頷いた。
今日、何度も聞いたことだった。
けれど、ノアの言葉で聞くと、少し違って感じられた。
「大事なのは、その空白を見て、勝手に話を作らねえことだ」
「……うん」
「お前は六つ目の神器に選ばれた。だから、そこが気になるのは分かる。だが、空白を埋めるために、お前まで無茶する必要はねえ」
アリシアは胸の前へ手を当てた。
痛みはない。
冷たさも感じない。
ただ、ノアの言葉が静かに胸の奥へ残っていた。
「……ありがとう、ノア」
「礼を言われるほどのことじゃねえよ」
「……でも、嬉しかったから」
ノアは少しだけ顔を背けた。
「相変わらず、妙なところで素直な奴だな」
アリシアは小さく笑った。
ノアの尻尾が、机の脚の近くでゆっくり揺れる。
夕暮れの光が、帳面の上へ細長く伸びていた。
◇
その夜、アリシアは寝る前にもう一度だけ帳面を開いた。
昼間の実技で、メリルがすぐに返事をしてくれたこと。
グラン先生が、記録を作ることと確認することの違いを説明してくれたこと。
子供が、自分の好きな色で絵を描いていたこと。
顔のない存在が、青い線の終点で指先を上へ向けたこと。
思い返すと、一日の中には、いくつもの小さな出来事があった。
それぞれを無理に一つの答えへ結びつける必要はない。
けれど、忘れてしまわないように残しておきたい。
アリシアは帳面の最後に、短い文章を書き加えた。
『届いたことと、受け取ったことは同じではない』
『空白があることと、何もなかったことは同じではない』
『分からないことは、分からないまま大切に残しておく』
書き終えて、ゆっくり息を吐く。
少しだけ、心が落ち着いた。
今日も、六つ目の神器の本当の役割は分からなかった。
六番目の空白に何があるのかも、まだ確かめられていない。
北側連絡廊下の封鎖も解除されていない。
探している確認票も、見つかったとは言えない。
それでも、何も変わらなかった一日ではなかった。
分からないことを、分からないと言えるようになった。
自分にできることと、できないことを少しずつ分けられるようになった。
そして、答えを急がずに待つことも、誰かを大切にするための行動なのだと知った。
(……明日も、一つずつ確かめよう)
アリシアは静かに帳面を閉じた。
窓の外では、夜の風が木々の枝を揺らしていた。
月は雲の向こうに隠れており、部屋へ差し込む光はわずかだった。
それでも、アリシアは暗さを怖いとは思わなかった。
寝台へ向かうと、ノアが先に丸くなっている。
「……ノア、おやすみ」
「おう。明日は朝から帳面にかじりつくんじゃねえぞ」
「……気をつける」
「気をつけるだけじゃなくて、ちゃんと飯も食えよ」
「……うん」
アリシアは小さく笑い、寝台へ入った。
目を閉じると、今日見た青い線が心に浮かんだ。
左端から右端へ。
そして、終点で少しだけ上を向いた指先。
それが何を意味しているのか、まだ分からない。
ただ、アリシアは一つだけ思った。
顔のない存在が何かを伝えようとしているのなら、その意味を勝手に決めずに、いつかきちんと受け取れるようになりたい。
もし何かを伝えようとした動きではなかったとしても、今日一緒に過ごした時間を、大切にしたい。
どちらであっても、相手を尊重することは変わらない。
アリシアはその思いを胸に、ゆっくり眠りへ落ちていった。
まだ、六番目の空白は埋まっていない。
けれど、その空白を前にして立ち止まることだけが、今のアリシアにできることではなかった。
確かめられることを確かめる。
知らないことを、知っているふりをしない。
誰かからの返事を待つ時には、その相手にも選ぶ時間があることを忘れない。
そうして少しずつ重ねられる一日が、いつか答えへ繋がるのかもしれない。
夜の静けさの中、机の上には閉じられた帳面が残っていた。
その最後のページには、今日新しく書き加えられた言葉がある。
『まだ分からない。だから、次に確かめることを残しておく』
それは、答えではなかった。
けれど、答えを急がないための、大切な約束だった。




