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『忘れられた六つ目の神器に選ばれました 〜人見知りな闇の少女と毒舌黒猫の学園英雄譚〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第319話 封筒の中に残された一枚と、帰る場所を選ぶ小さな手


 北側連絡廊下の封鎖が始まってから、学院の中央棟では、朝の人の流れが少しずつ変わっていた。南側の階段を利用する学生たちは以前より早めに教室へ向かうようになり、誘導に立つ職員も、誰がどこへ行こうとしているのかを尋ねる前に、必要な案内をできるようになっている。


 その朝、アリシアが中央棟へ到着した時には、すでに一階の掲示板の前に十人ほどの学生が集まっていた。いつもの点検連絡を読んでいるにしては、少し様子が違う。声を潜めて話す者がいる一方で、紙の下端を指さしながら、友人へ何かを説明している学生もいた。


 アリシアは人だかりの後ろで足を止めた。


 窓から差し込む朝日が掲示板の表面を照らし、紙の白さを際立たせている。昨日まで降ったり止んだりしていた雨は上がり、開け放たれた南側の窓からは、湿った土と草の匂いが流れ込んでいた。


「……何か、新しい連絡があるのかな」


 肩に乗ったノアが、集まっている学生たちへ目を向けた。


「そうらしいな。だが、見えねえからって無理に割り込むなよ。どうせ全員が読み終わるまで紙は逃げねえ」


「……うん。待つよ」


 アリシアは通行の邪魔にならない場所へ移動し、学生たちが少しずつ離れるのを待った。


 やがて掲示板の前が空くと、そこには新しい連絡が二枚貼られていた。一枚は北側連絡廊下の設備点検について、もう一枚は封鎖区域に残された私物の回収状況についてだった。


 アリシアが最初に目を向けたのは、設備点検の連絡だった。


『中央記録室の一時保管資料について追加確認を実施。通常の記録箱とは別に保管されていた封筒が確認され、内部の書類について照合作業を進めています。現時点で設備異常の原因は確定しておらず、北側連絡廊下の封鎖は継続します』


 アリシアはゆっくりと文章を読み返した。


 昨日、中央記録室で使われていた一時保管用の封筒について、職員たちが調べているという話を耳にしていた。今朝の掲示は、その封筒が実際に見つかったことを知らせている。


 ただし、中に何が入っていたのかまでは書かれていない。


「……封筒、見つかったんだね」


「そうだな。だが、探してる確認票が入ってたとは書いてねえぞ」


 ノアの言葉に、アリシアは頷いた。


「……うん。でも、調べる場所が一つ、確かめられたんだね」


 そう答えながら、もう一枚の掲示へ目を移す。


 私物の回収については、入口に近い区域の確認が進み、追加で数点の荷物が回収されたことが記されていた。奥の区域については依然として安全確認が終わっておらず、回収の見通しを示せないという。


 昨日、鞄が戻ってきた女子学生の嬉しそうな顔が思い浮かんだ。


 同じように待っている学生が、まだ何人もいるのだろう。


 アリシアは掲示板から一歩離れ、周囲を見渡した。少し離れたところでは、荷物の回収を待っているらしい男子学生が、友人へ困ったように話している。


「俺のはまだ奥なんだよな。先生から連絡は来てるけど、いつになるか分からないって」


「必要なものがあるなら、授業用の道具は貸してもらえるんじゃないか?」


「それは借りてる。でも、祖父にもらった筆箱だから、できれば早く戻ってきてほしいんだ」


 その声を聞いたアリシアは、胸の奥が少し痛んだ。


 授業に必要なものなら、別の道具で代わりにできるかもしれない。けれど、誰かから贈られたものや、大切な思い出があるものは、同じ形の品物を用意しても代わりにはならない。


 アリシアは声をかけようか迷った。


 けれど、相手は友人と話している最中で、自分が突然近づいても困らせてしまうかもしれない。少し考えたあと、無理に会話へ入ることはせず、その場を離れた。


 すると、廊下の向こうからメリルが歩いてきた。


「アリシア、おはよう! 今日は掲示板の前が混んでたね」


「……おはよう、メリル。新しい連絡が出てたよ」


 アリシアが説明すると、メリルは掲示板へ目を向けた。


「封筒が見つかったんだ。じゃあ、少し進んだのかな」


「……うん。でも、中身はまだ調べてるみたい」


「そっか。早く分かるといいね」


 メリルはそう言ったあと、近くで話していた男子学生へ視線を向けた。


「……あの子、まだ荷物が戻ってないんだね」


「……うん。おじいさんにもらった筆箱があるんだって」


 メリルの表情が少し曇った。


「それは心配だよね。私も、大切なものが戻ってこなかったら、ずっと気になっちゃうと思う」


 二人はしばらく黙っていた。


 やがてメリルは、少し考え込むように首を傾げた。


「でも、先生に連絡はもらえてるんだよね。それなら、今は待つしかないのかな」


「……うん。危ないところへ取りに行くことはできないし……でも、待ってる間に困ることがあったら、先生に相談できると思う」


 メリルは頷いた。


「そうだね。私たちにできることがあったら、その時に手伝おう」


 アリシアは小さく微笑んだ。


 何でも自分たちで解決しようとしなくてもいい。


 誰かが困っていることに気づき、必要な時に手を貸せるようにしておく。


 それも、今の自分にできる大切なことなのだと思った。


     ◇


 午前の授業では、魔法を使った共同作業についての実習が行われた。


 実習室の中央には、木製の小さな橋が設置されていた。橋といっても、人が渡るものではなく、机の上に置かれた模型である。両端には印が付けられ、学生たちは二人一組で、橋の上を小さな球体が安全に移動できるよう魔法を使うことになっていた。


 教師は学生たちへ、最初に課題の説明を行った。


「今日の目的は、球体を速く運ぶことではありません。二人が互いの操作を確認しながら、途中で問題が起きた時に安全に止められるかを確かめます。片方が操作し、もう片方が観察する役割を基本としますが、必要に応じて交代してください」


 アリシアはメリルと組み、模型の前へ立った。


 木製の橋は幅が狭く、中央部分にはわずかな傾斜がある。球体は軽いが、強く押せばすぐに転がってしまいそうだった。


「最初は私が風で動かしてみるね。アリシア、横から見ててくれる?」


「……うん。何かあったら、すぐに言うね」


 メリルは頷き、球体の後ろへ小さな風を送った。


 球体はゆっくりと動き始め、橋の中央へ向かって進んでいく。


 アリシアは横から様子を見守った。


 最初は安定していたが、中央の傾斜へ差しかかったところで、球体が少し右へ寄った。


「……メリル、右側に寄ってる。少し止めた方がいいかも」


 メリルはすぐに風を弱め、球体の動きを止めた。


「ありがとう。思ったより傾いてたね」


 アリシアは橋の中央を見つめた。


 球体が寄ったのは、風の向きだけが原因ではないかもしれない。橋そのものの傾斜も影響しているように見える。


「……橋の真ん中、少し右へ傾いてるみたい。だから、風を弱くしても、球がそっちへ動くのかもしれない」


 メリルは模型を横から覗き込み、頷いた。


「本当だ。じゃあ、もう少し手前から風の向きを調整した方がいいかな」


「……うん。でも、急に変えると反対側へ行っちゃうかもしれないから、少しずつがいいと思う」


 二人は教師へ確認を取り、球体を最初の位置へ戻した。


 今度はメリルが風の向きを少しずつ調整し、アリシアが球体の位置を見守る。


 中央の傾斜へ差しかかった時、球体は一度だけ揺れたものの、大きく右へ寄ることなく通過した。


 橋の終わりにある印へ到達すると、メリルは魔法を止めた。


「できた!」


 メリルが嬉しそうに笑い、アリシアもほっと息を吐いた。


「……うん。よかった」


 教師は二人の記録を確認し、穏やかに頷いた。


「よくできました。最初の試みで球体が寄った時、すぐに止めた判断がよかったですね。それから、原因を一つに決めず、橋の傾斜も確認したことが大切です」


 アリシアは少し照れながら頷いた。


 教師は続けて、二人へ問いかけた。


「では、次は役割を交代してみましょう。アリシアさんが影で球体を動かし、メリルさんが観察します。ただし、影が球体へ直接触れる方法だけでなく、橋の周囲へ影を配置する方法も考えてみてください」


 アリシアは少し驚いた。


「……周囲へ、ですか?」


「ええ。球体を動かす力と、万が一転がり落ちそうになった時に受け止める準備を分けて考えてみましょう。ただし、影を広げすぎる必要はありません。あなたの負担が増えない範囲で行ってください」


 アリシアは頷き、橋の模型へ目を向けた。


 以前なら、球体を動かすことだけに集中していたかもしれない。


 けれど、今は違う。


 何かが起きた時に止められるよう、先に準備することも大切だと分かっている。


 アリシアは影を細く伸ばし、球体の後ろへ添えた。


 同時に、橋の右側へごく薄い影を配置する。


 影は球体へ触れない位置にあり、落下を防ぐための受け皿のような形を作っていた。


「……メリル、始めるね」


「うん。ちゃんと見てるよ」


 アリシアはゆっくりと球体を押した。


 球体は橋の中央へ向かって進み、傾斜へ差しかかったところで少し右へ寄った。


「アリシア、右へ寄ってる。でも、まだ橋の上だよ」


 メリルの声を聞き、アリシアは影の動きを止めた。


 球体はわずかに揺れたが、橋から落ちることはなかった。


 アリシアは一度息を整え、影の位置を少し調整した。


 再び動かすと、球体は中央を通過し、終点の印へゆっくり到達した。


 教師は記録用紙へ何かを書き込み、二人へ微笑んだ。


「よい連携でした。特に、観察役の声を聞いてから操作を止めるまでが落ち着いていましたね。影を安全のために配置したことも、適切な判断でした」


 アリシアは胸の奥が温かくなるのを感じた。


 影は、何かを動かすためだけのものではない。


 誰かが困った時に支えたり、危険を避けたりするためにも使える。


 そのことを、実習を重ねるたびに少しずつ実感していた。


     ◇


 昼休み、北側連絡廊下の設備担当者たちは、中央記録室から届いた一時保管用の封筒を確認していた。


 封筒は古びたものではなく、封鎖が始まった日の点検作業で使われた比較的新しいものだった。表面には担当者の名前と日付が記され、裏側には一度開封したことを示す印が残されている。


 責任者は封筒を机の中央へ置き、立ち会いの職員二人へ目を向けた。


「中身の確認を始めます。書類を取り出す順番と、記載されている番号を記録してください。該当する確認票が見つかっても、その時点で原因が判明したとは扱いません」


 若い職員が頷き、記録用紙を用意した。


 責任者は封筒の口を開き、中の書類を一枚ずつ取り出していく。


 最初に出てきたのは、設備点検の作業記録だった。


 次に、中央記録室の受信状態を確認するための一覧があった。


 その後ろには、別の装置に関する確認票が数枚重ねられている。


 若い職員は一枚ずつ番号を読み上げ、記録用紙へ書き込んだ。


 やがて、封筒の奥から一枚の薄い紙が現れた。


 ほかの確認票よりも少し小さく、端が折れている。


 責任者はその紙を取り上げ、表面へ目を向けた。


 そこには、北側補助記録器の番号が記されていた。


 若い職員が息を呑んだ。


「……責任者。これ、欠落していた時間帯の番号ではありませんか」


 責任者はすぐに答えず、記録板と照らし合わせた。


 装置番号は一致している。


 日付も一致している。


 そして、送出時刻として記された数字も、これまで中央記録室の記録箱に見つからなかった確認票のものと一致していた。


 ただし、紙の下部にある受領欄は空白だった。


 責任者はしばらく黙っていた。


 やがて、落ち着いた声で言った。


「該当する可能性が高い確認票が見つかりました。ただし、これが中央側で正式に受領された票なのか、受信前の控えなのかは、まだ確認が必要です」


 若い職員は頷いたものの、表情には興奮が残っていた。


「でも、少なくとも紙そのものは残っていたんですね」


「そうです。そして、通常の記録箱ではなく、一時保管用の封筒に入っていた。その事実は記録できます」


 責任者は確認票を透明な保護板の上へ置き、ほかの書類と混ざらないようにした。


 紙の下部には、受領欄のほかに、小さな印を押すための空欄があった。


 そこにも、何も記されていない。


 若い職員はその空白を見つめた。


「受領の印がないということは、やっぱり届いていなかったんでしょうか」


 責任者は首を横に振った。


「それはまだ分かりません。受領欄が空白だからといって、実際に受け取られていないとは限らない。記入前に保管された可能性もありますし、別の記録で受領が確認されている可能性もあります」


 責任者は確認票の端へ目を向けた。


 折れた部分には、薄い鉛筆の線が残っている。


 それが何かの印なのか、整理中についたものなのかは分からない。


「この紙がいつ封筒へ入れられたのか、誰が扱ったのかを確認しましょう。それから、受領欄が空白のまま保管された理由も調べます」


 若い職員は頷き、記録用紙へ新しい確認項目を書き加えた。


 封筒の中から、探していた番号の紙が見つかった。


 それは確かな前進だった。


 けれど、北側連絡廊下の封鎖を解除できるほどの答えには、まだ届いていなかった。


     ◇


 午後の授業を終えたアリシアが中央棟の掲示板の前を通ると、設備担当から新しい連絡が追加されていた。


 昼休みの間に、一時保管用の封筒から、欠落していた時間帯に対応する確認票が見つかったことが記されている。


 ただし、その確認票は受領欄が空白であり、正式な受領記録として扱えるかどうかは確認中だった。


 アリシアは掲示を読み、思わず息を止めた。


「……見つかったんだ」


 ノアが足元から掲示を見上げた。


「番号の合う紙がな。受領の証拠が揃ったわけじゃねえ」


「……うん。でも、今までどこにあるか分からなかったものが、見つかったんだね」


 アリシアは小さく頷いた。


 胸の奥には、嬉しさと慎重さが同時にあった。


 探していたものが見つかることは、確かに大切だ。


 けれど、それが何を示しているのかを確かめなければ、答えにはならない。


 その時、近くで掲示を読んでいた学生が声を上げた。


「じゃあ、もう直るんじゃないの?」


 別の学生が首を傾げた。


「いや、原因はまだ分からないって書いてあるぞ」


「でも、なくなった紙が見つかったんだろ?」


「紙が見つかったことと、設備が安全かどうかは別じゃないか」


 学生たちの会話を聞きながら、アリシアは静かに掲示板から離れた。


 自分も、以前なら同じように考えていたかもしれない。


 何か一つ見つかれば、すべてが分かるような気がしてしまう。


 けれど、今は違う。


 答えへ近づくことと、答えが出ることは、同じではない。


 アリシアはその違いを胸に留め、資料室へ向かった。


     ◇


 資料室では、エレナ・ヴァイスが古い整理記録を確認していた。


 アリシアが挨拶すると、エレナは穏やかに微笑んだ。


「こんにちは、アリシアさん。今日は少し嬉しそうですね」


「……はい。北側の確認票が見つかったって、掲示に書いてあったので」


 エレナは頷いた。


「それはよかったですね。ただ、まだ調査は続いているのでしょう?」


「……はい。受領欄が空白で、正式な記録かどうかは分からないそうです」


 アリシアがそう答えると、エレナは少し感心したように微笑んだ。


「きちんと確認していますね」


 アリシアは照れながら頷いた。


 エレナは机の上の資料を整え、別の複写を取り出した。


「こちらも、少し進展がありました。昨日お話しした『内容未照合につき、封緘維持』と読める記録について、保存担当から追加の確認が届いています」


 アリシアは椅子へ座り、続きを待った。


「当時の整理番号と、現在の保管番号を照合したところ、対応する可能性の高い箱が一つ見つかりました」


「……箱が、見つかったんですか?」


「ええ。ただし、まだ現物の内容を確認したわけではありません。外側の番号と移管記録が一致する可能性が高いという段階です」


 エレナは複写を机へ置いた。


 そこには、古い箱番号と現在の整理番号が並んでいる。


 アリシアは文字を追いながら、胸の奥に期待が広がるのを感じた。


 照合原簿の所在は、まだ分からない。


 けれど、探している資料が含まれているかもしれない箱が、実際に確認された。


 それは昨日までよりも確かな前進だった。


「……その箱は、開けられるんですか?」


 エレナは首を横に振った。


「まだです。保存状態を確認してから、必要な手続きを踏むことになります。封が維持されているかどうかも、現物を見なければ分かりません」


 アリシアは頷いた。


「……分かりました。急いで開けたら、資料が傷んでしまうかもしれないですもんね」


「そのとおりです。大切な資料ほど、扱いには慎重さが必要です」


 エレナはそう言い、少しだけ表情を柔らかくした。


「それに、箱が見つかったとしても、中に照合原簿があるとは限りません。そこは忘れないでくださいね」


「……はい。ちゃんと分けて考えます」


 アリシアはノートへ新しい情報を書き込んだ。


 古い箱番号と現在の整理番号が対応する可能性。


 現物の内容は未確認。


 開封の可否も未定。


 そして、照合原簿が含まれているかどうかも不明。


 書き終えると、アリシアは少しだけ息を吐いた。


 新しい手掛かりが見つかるたびに、胸が高鳴る。


 けれど、今はその気持ちを否定しなくてもいいと思えた。


 期待することと、決めつけることは違う。


 期待を持ちながら、確かめるべきことを確かめていけばいい。


     ◇


 資料室を出たあと、アリシアは生活観測区画へ向かった。


 夕方の廊下には柔らかな光が差し込み、窓の外では中庭の木々が静かに揺れていた。


 生活観測区画の入口では、サラが記録用紙を確認していた。


「こんにちは、アリシアさん。今日も二人とも落ち着いていますよ」


「……こんにちは。胸元の光は、大丈夫ですか?」


「ええ。十一の光は安定しています。子供も顔のない存在も、体調に変化はありません」


 アリシアは頷き、談話室へ入った。


 子供は窓際の机で絵を広げていた。


 顔のない存在は隣の椅子に座り、胸元の十一の光を安定して灯している。


 覆われた木箱は、いつもの棚に置かれたままだった。


「アリシア、おかえり!」


 子供が嬉しそうに顔を上げた。


「……ただいま。今日は何を描いてるの?」


 アリシアが尋ねると、子供は絵を指さした。


 橋の手前には丸い印があり、向こう側の道には石と小さな旗が描かれている。


 青い線の横には、以前描き加えた矢印が残っていた。


 ただし、今日は橋の手前に、小さな人影が二つ描かれていた。


「……二人、いるんだね」


 アリシアがそう言うと、子供は頷いた。


「うん。ぼくと、この子」


 子供は隣の顔のない存在へ目を向けた。


「橋の向こうへ行くかどうかは、まだ決めてないんだ。でも、もし行くなら、一緒がいいなって思って」


 アリシアは静かに頷いた。


 子供は以前から、橋の向こう側を見たいという気持ちを持っていた。


 けれど、帰ってこられるかどうかを心配しており、実際に渡ることは決めていない。


 今日の絵も、その気持ちを表したものなのだろう。


「……一緒にいたいんだね」


「うん。でも、この子が行きたいかどうかは、まだ分からないから」


 子供は少し考え、顔のない存在へ向き直った。


「ねえ。ぼくは、もし橋を渡るなら、きみと一緒がいいんだ。でも、きみはどうしたい?」


 顔のない存在はすぐには動かなかった。


 胸元の十一の光は安定したままで、急な変化は見られない。


 アリシアは静かに見守った。


 子供も返事を急かさず、相手の様子を待っている。


 やがて、顔のない存在がゆっくりと手を持ち上げた。


 指先は、青い線へ向けられた。


 子供は少しだけ首を傾げた。


「……また、そこなんだね」


 顔のない存在は青い線の左端から右端へ指を動かし、その先で手を止めた。


 そして、今度はゆっくりと手を戻し、橋の手前に描かれた二つの人影の近くへ指先を向けた。


 アリシアは思わず息を呑んだ。


 これまで、顔のない存在は青い線を繰り返し指していた。


 昨日は線の先へ少し手を上げる動きが見られたが、今日はそこから戻り、橋の手前へ指を向けた。


 ただし、その動きが何を意味するのかは分からない。


 子供もすぐには答えを出さなかった。


「……戻ってきた、のかな」


 子供はそう呟き、少し考えた。


「でも、まだ分からないね」


 アリシアは頷いた。


「……うん。でも、今までとは違う動きだったね」


 子供は嬉しそうに微笑んだ。


「うん。だから、覚えておく」


 そう言うと、子供は色鉛筆を手に取り、青い線の横へ小さな曲がった矢印を描き加えた。


 アリシアはその様子を見ながら、胸の奥が温かくなるのを感じた。


 子供は、分からないことを怖がるだけではなくなっている。


 相手の動きを見て、自分なりに覚えておこうとしている。


 そして、相手が何を望んでいるのかを、急いで決めつけなくなっている。


 それは、アリシア自身が少しずつ学んできたこととも重なっていた。


「……今日は、二人の絵を描いたんだね」


 アリシアがそう言うと、子供は頷いた。


「うん。だって、もし帰るなら、一緒に帰りたいから」


 アリシアはその言葉を聞き、少しだけ胸が締めつけられるのを感じた。


 帰る場所。


 帰りたい相手。


 それは、子供にとって大切なものなのだろう。


 アリシアは静かに微笑んだ。


「……うん。大切なことだね」


     ◇


 談話室を出たあと、アリシアはサラへ今日の出来事を伝えた。


 サラは子供の発言と、顔のない存在が見せた動きを分けて記録した。


 青い線に沿って指を動かしたあと、橋の手前に描かれた二つの人影の近くへ指を戻したこと。


 ただし、その動きが何を意味するのかは不明であること。


 胸元の十一の光には変化がなく、二人とも落ち着いていたこと。


 サラは記録を終えると、穏やかに頷いた。


「ありがとうございます。子供が、相手の意思を確かめようとしていることも、大切な変化ですね」


「……はい。私も、少し驚きました」


「相手がどうしたいのかを考えることは、簡単ではありません。特に、言葉で返事をもらえない相手なら、なおさらです」


 アリシアは頷いた。


「……でも、分からないからって、勝手に決めたくないです」


 サラは柔らかく微笑んだ。


「ええ。その気持ちを大切にしてください」


     ◇


 夜、寮へ戻ったアリシアは、机の上に日記帳を開いた。


 窓の外では風が木々を揺らし、遠くの学院棟にはまだいくつか灯りが点っている。


 北側連絡廊下の点検は、今日も続いているのだろう。


 アリシアは今日の出来事を書き始めた。


 朝、中央記録室の一時保管用の封筒が見つかったこと。


 昼には、その中から欠落していた時間帯に対応する確認票が見つかったこと。


 ただし、受領欄は空白であり、正式な受領記録として扱えるかどうかは未確認であること。


 資料室では、照合原簿が含まれているかもしれない箱の現在の整理番号が見つかったこと。


 そして、生活観測区画では、子供が顔のない存在と一緒に帰りたいという気持ちを絵に描いたこと。


 アリシアは筆を止め、少しだけ考えた。


(……今日は、見つからなかったものが一つ見つかった。でも、それで全部が分かったわけじゃない。見つかったものを、どう確かめるかが大切なんだね)


 ノアは寝台の上で丸くなり、アリシアを見ていた。


「今日はもう終わりか?」


「……うん。ちゃんと休むよ」


「よし。明日も授業があるんだからな」


 アリシアは小さく笑った。


「……ノア、最近ずっと同じこと言ってるよ」


「お前が毎日考え込みすぎるからだろ。俺だって、たまには違うことを言いてえんだよ」


 その言葉に、アリシアは思わず声を出して笑った。


 ノアは少しだけ得意げに尻尾を揺らし、寝台の上で身体を丸め直した。


 アリシアは日記帳を閉じ、灯りを落とした。


 北側連絡廊下の封鎖は、まだ続いている。


 確認票は見つかったが、受領欄が空白のまま残されていた理由は分からない。


 古い目録の六番目の空白も、照合原簿の所在も、帰還印の意味も、まだ確かめられていない。


 生活観測区画の青い線が何を示しているのかも、答えは出ていない。


 けれど、今日も確かな前進があった。


 探していた確認票が見つかった。


 古い資料を収めた可能性のある箱の番号が見つかった。


 子供は、自分と顔のない存在が一緒に帰る姿を描いた。


 それぞれの出来事が、同じ答えへつながるとは限らない。


 それでも、何かを確かめようとする人たちの手によって、少しずつ道が見えてきている。


 アリシアは寝台へ入り、ノアの温かな毛並みにそっと触れた。


 窓の外では、夜風が静かに吹いている。


 明日、どんな返事が届くのかは分からない。


 けれど、返事を待つことは、何もしないことではない。


 誰かが調べ、誰かが記録し、誰かが自分の言葉で尋ねている。


 その積み重ねが、いつか大切な答えへつながるのかもしれない。


 アリシアはそんな思いを胸に、ゆっくりと眠りへ落ちていった。

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