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『忘れられた六つ目の神器に選ばれました 〜人見知りな闇の少女と毒舌黒猫の学園英雄譚〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第318話 消えた確認票の行方と、六番目の空白に残された問い


 北側連絡廊下の封鎖が続く学院では、朝の冷たい空気に混じって、濡れた石と古い木材の匂いが漂っていた。夜の間に降った雨は日の出前に止んでいたが、中央棟の軒先からは時折水滴が落ち、通路を歩く学生たちの靴音に小さな響きを添えている。


 アリシアは寮を出る前、窓辺に置いていた調査用ノートを鞄へしまった。昨日、エレナ・ヴァイスから聞いた古い受領一覧のことが気になっていたものの、今朝になって新しい連絡が届いているわけではない。だからこそ、授業中まで考え続けないよう、ノートを閉じてから部屋を出ることにした。


 その様子を寝台の上から眺めていたノアが、長い尻尾をゆっくり揺らした。


「珍しいな。今日は朝から資料を広げて、時間ぎりぎりまで考え込むんじゃねえのか」


「……昨日、ちゃんと分けて書いたから。今すぐ考えても、新しいことは分からないと思う」


「ほう。ようやく賢い猫の教えが身についてきたらしい」


「……ノアが賢いのは、知ってるよ」


 アリシアが素直に答えると、ノアは一瞬だけ耳を動かした。いつもなら得意げに言葉を重ねるところだったが、今朝はなぜかすぐに返事をせず、寝台から軽やかに飛び降りる。


「分かってんなら、さっさと行くぞ。遅刻したら俺までだらしねえ猫だと思われる」


 アリシアは小さく笑い、鞄を肩に掛けた。


 廊下へ出ると、同じ寮の学生たちが朝食や授業の話をしながら階段を下りていた。以前なら人の流れへ入ることをためらい、誰もいなくなるまで待っていたこともある。今は少し緊張しながらも、前を歩く学生との距離を確かめ、自分の歩幅で階段を下りられるようになっていた。


 中央棟へ近づいたところで、アリシアは昨日とは違う光景に気づいた。


 北側連絡廊下の入口に設けられた柵の手前で、設備担当の職員が大きな掲示板を移動させている。その隣には、封鎖区域へ入る許可を受けた者の名前と時刻を記録するための机が置かれていた。


 ただし、通路が開放された様子はない。柵の向こうには作業用の灯りが残され、床には立ち入り範囲を示す色付きの紐が張られている。


「……今日は、入口の様子が違うね」


 アリシアが呟くと、ノアも顔を上げた。


「作業のやり方を変えたんだろうな。だからって入れるようになったわけじゃねえぞ」


「……うん。分かってる」


 その時、机の近くで書類を確認していた職員が、別の職員へ声をかけた。


「中央記録室からの返答は、責任者へ直接渡してください。今回は写しだけでなく、照合した記録の番号も必要です」


「分かりました。原本の保管場所についても確認します」


 二人は短く言葉を交わし、片方が中央棟の奥へ向かって歩き出した。


 アリシアはその会話を聞き、昨日までの調査とは少し違う段階へ進んでいるのかもしれないと感じた。しかし、何が判明したのかは分からない。聞こえた言葉だけで答えを想像しそうになる自分に気づき、鞄の持ち手を握り直した。


 その時、背後から聞き慣れた声がした。


「アリシア、おはよう! 今日は早いね」


 振り向くと、メリルが手を振りながら近づいてきた。その後ろではテオとフィオナが並んで歩き、少し離れた場所からエドガーもこちらへ向かっている。


「……おはよう、メリル。今日は、少し早く準備できたから」


「いいなあ。私は朝から教科書を探してたんだよ。昨日、机の上に置いたつもりだったのに、鞄の底に入ってて」


 メリルは困ったように笑いながら、肩に掛けた鞄を軽く叩いた。


「結局見つかったんだからいいじゃないか。朝食を抜くほど探し回ったわけでもないし」


 テオがそう言うと、メリルは少し頬を膨らませた。


「テオはそう言うけど、見つかるまでは本当に焦ったんだからね。今日使う教科書だったし、もし忘れてたら先生に借りなきゃいけなかったんだよ」


 フィオナは二人のやり取りを聞きながら微笑んでいたが、北側の柵へ目を向けると、少し表情を改めた。


「設備の点検、今日も続いているのね。昨日は受領通知の遅れについて掲示されていたけれど、何か分かったのかしら」


「正式な連絡が出るまでは分からないだろう」


 エドガーはそう答え、入口の机を見た。


「ただ、出入りの記録を細かく残しているようだ。点検中に誰が何を確認したかを明確にするつもりなのかもしれない」


 アリシアは頷いた。


 今朝、職員たちが話していた原本の保管場所という言葉が頭に残っている。けれど、それを仲間たちへ伝えたところで、詳しい事情が分かるわけではない。


「……何か分かったら、きっと先生たちが知らせてくれると思う」


 アリシアがそう言うと、メリルは安心したように笑った。


「そうだね。私たちは授業に遅れないようにしなくちゃ」


 五人は南側の階段へ向かい、朝の学生たちの流れへ加わった。


     ◇


 午前の授業では、魔法の操作記録を使った判断練習が行われた。


 教師が学生たちへ配った紙には、三人の実習者が同じ課題へ取り組んだ際の記録が書かれている。魔力の使用量、操作時間、対象物の動き、途中で報告された違和感などが表になっていた。


 ただし、三つの記録は同じ形式ではなかった。


 一つ目は時刻と結果だけが簡潔に書かれ、二つ目には途中の操作まで細かく残されている。三つ目は対象物の動きについて詳しいものの、実習者本人の状態に関する記載が少なかった。


 教師は教壇の前に立ち、学生たちを見渡した。


「今日は、どの実習者が最も優秀だったかを決める授業ではありません。記録を読んだ人が、何を確認できて、何を確認できないのかを考えてください。書かれていないことを、起きなかったこととして扱わないよう注意しましょう」


 アリシアは配られた紙を見つめた。


 最初の記録には、対象物を動かすことに成功したと書かれている。しかし、途中で揺れがあったのか、操作を止めたのか、本人に負担があったのかは分からない。


 二つ目の記録では、途中で対象物が傾いたため、実習者が一度操作を止めている。その後、支える位置を調整して再開し、課題を完了したと記されていた。


 三つ目は対象物の動きが安定していたように見えるが、実習者の体調確認が記録されていない。


「では、二つ目の記録について、気づいたことを話してくれる人はいますか」


 教師の問いかけに、数人の学生が手を挙げた。


 アリシアはすぐには動けなかった。自分にも考えはあるが、教室全体の前で話すことにはまだ緊張する。


 隣のメリルが小さく顔を向けた。


「アリシア、何か気づいた?」


「……うん。途中で止めた理由が書いてあるから、どうして操作を変えたのか分かるなって」


「それ、いいと思う。先生に言ってみたら?」


 メリルは無理に背中を押さず、穏やかな声でそう言った。


 アリシアは少し迷ったあと、ゆっくり手を挙げた。


 教師がこちらを見た瞬間、胸が強く鳴る。それでも、隣にいるメリルの気配を感じながら、アリシアは立ち上がった。


「……二つ目の記録は、途中で対象物が傾いたことと、それに気づいて操作を止めたことが書かれています。だから……最後に成功しただけじゃなくて、途中で何を確かめたのかも分かると思います」


 教室の後ろで椅子が小さく軋んだ。


 アリシアはその音に少し肩を揺らしたが、教師は急かさず、言葉が終わるまで待ってくれた。


「よい着眼点です。操作を止めたという記録は、失敗を示すだけのものではありません。危険を避けるために適切な判断をした証拠になる場合もあります」


 教師は二つ目の記録を指さした。


「ただし、この記録だけで、実習者の判断がすべて正しかったと断定することもできません。記録の目的は、後から確認できる材料を残すことです。評価を先に決め、その評価に合う部分だけを読むことではありません」


 アリシアは頷き、席へ戻った。


 座った途端、張り詰めていた肩から力が抜ける。メリルが机の下で小さく親指を立ててくれたので、アリシアも照れながら微笑んだ。


 授業が進むにつれて、教室のあちこちから意見が出た。


 結果だけでは途中の安全確認が分からないという学生もいれば、詳しい記録でも書いた人が見落としたことまでは残らないと指摘する学生もいた。教師はそれぞれの意見を整理し、記録が万能ではないことを繰り返し説明した。


 アリシアはその話を聞きながら、古い資料と北側の設備記録について考えた。


 どちらにも、書かれていない部分がある。


 けれど、その空白が同じ理由で生まれたとは限らない。


 書かれていないからといって、何も起きなかったわけでもない。


(……空いているところを見つけるだけじゃなくて、その前後に何が残っているかも、ちゃんと確かめないといけないんだ)


 アリシアはその考えをノートへ書き留め、授業の終わりまで集中して教師の話を聞いた。


     ◇


 昼休みが近づく頃、北側連絡廊下では、設備担当者たちが一枚の記録用紙を囲んでいた。


 中央記録室から届いた追加資料には、前日に確認された受領通知の遅れについて、時刻の照合結果が記されている。


 仮設記録器と中央側の時計には、わずかな表示差があった。


 その差を考慮すると、昨日大きな遅れに見えていた部分の一部は説明できた。しかし、すべての差がなくなったわけではない。


 責任者は記録用紙へ指を置き、若い職員へ確認した。


「時刻の補正を加えた後も、受領通知が返るまでに通常より長い間隔が残っていますね」


「はい。ただし、同じ条件で行ったほかの試験では、同程度の遅れは確認されていません」


「では、常に発生する異常ではないということです。発生条件が分からない以上、原因を一つに絞ることはできません」


 責任者はそう言いながら、別の記録板を取り出した。


 そこには、北側連絡廊下の封鎖が始まった日に確認された、中央記録室の受信欠落が記されている。


 当時、現場側の表示には正常な状態が残っていた。


 中央側では、受け取るはずだった確認票が見つからなかった。


 しかし、今回の仮設試験で確認されたのは、受領通知が遅れて返る場合があるということだけだった。


 過去の確認票が同じ理由で欠落したと考えるには、まだ証拠が足りない。


 若い職員は記録板を見つめながら、少し考え込んだ。


「責任者。中央記録室の一時保管記録について、昨日問い合わせていた件ですが……」


「返事が来ましたか」


「はい。該当する時間帯に、通常の記録箱へ綴じ込まれる前の書類を扱った職員がいたそうです」


 責任者の手が止まった。


「それは、欠落した確認票を扱ったという証言ですか」


「いいえ。そこまでは確認できていません。ただ、その時間帯に別の点検記録を整理していたそうで、机の上には複数の用紙があったとのことです」


 責任者はすぐに結論を出さず、職員から渡された連絡用紙を読んだ。


 そこには、当時の担当者が通常の記録箱とは別に、一時的な確認用の封筒を使用していたことが記されている。


 封筒の中身は、作業終了後に別の担当者へ引き継がれたらしい。


 ただし、引き継ぎの記録には、個々の確認票の番号までは書かれていなかった。


「その封筒は、今どこにありますか」


「中央記録室の保管棚に残っている可能性があるそうです。担当者が確認しています」


 責任者は静かに息を吐いた。


「では、まず封筒の所在を確認しましょう。中身が見つかっても、欠落した票があるとは限りません。保管の経緯を含めて、記録を残してください」


 若い職員は頷き、連絡用紙へ新しい確認項目を書き加えた。


 閉ざされた回廊の奥では、仮設記録器が静かに動作を続けている。


 原因はまだ分からない。


 けれど、これまで記録箱の中だけを調べていた確認作業に、新しい調査先が加わった。


     ◇


 昼食の時間、食堂はいつもより賑わっていた。


 南側の通路へ学生が集中しているため、授業を終えてから食堂へ到着するまでに少し時間がかかる。席を探す学生たちが入口近くで立ち止まり、空いた場所を見つけるたびに友人を呼ぶ声が上がっていた。


 アリシアたちは窓際の席を確保し、少し遅めの昼食を取ることになった。


 メリルは椅子へ座ると、ほっとしたように息を吐いた。


「今日は人が多かったね。もう少し遅かったら、席が見つからなかったかも」


「午後の授業が始まるまでには余裕があるよ。急いで食べなくても大丈夫」


 テオがそう言い、トレーを机へ置いた。


 フィオナは窓の外を見ながら、食堂へ入れずに待っている学生たちを気にしていた。


「北側の通路が使えないだけで、いろいろなところへ影響が出るのね。教室の移動だけでなく、食堂へ来る時間まで重なってしまうなんて」


 エドガーは頷いた。


「一つの通路が閉まると、人の流れが変わる。学院側も調整しているが、完全に以前と同じにはできないだろう」


 アリシアはスープの器を持ちながら、周囲の様子へ目を向けた。


 食堂の職員たちは、学生が集中しても慌てず、料理を運び続けている。空いた席を教える学生もいれば、友人のために椅子を寄せる者もいた。


 誰かが大きな魔法を使って解決するような問題ではない。


 それでも、一人ひとりが少しずつ動くことで、混雑はゆっくりと解消されていく。


「……こういう時も、みんなで少しずつ助け合ってるんだね」


 アリシアが呟くと、メリルは笑顔を向けた。


「うん。あ、でもアリシアは、自分の分もちゃんと食べてね。考え事してると、すぐ手が止まるんだから」


「……うん。今日はちゃんと食べるよ」


「昨日もそう言ってた気がするけどな」


 ノアが椅子の脇から口を挟むと、メリルが楽しそうに笑った。


「ノア、そこは見逃してあげてもいいんじゃない?」


「俺が見逃したら、誰がこいつの世話を焼くんだよ」


 アリシアは少し頬を赤くしたが、仲間たちの笑顔を見て、自然と口元が緩んだ。


 食堂の騒がしさの中でも、こうして落ち着いて食事ができる場所がある。


 以前は人の多い場所へ入るだけで緊張していた自分が、今は友人たちと同じ机を囲み、何気ない会話を楽しめている。


 その変化を、アリシアは静かに嬉しく思った。


     ◇


 午後の授業を終えたアリシアが資料室へ向かうと、エレナ・ヴァイスは受付の奥で古い保管一覧を広げていた。


 机の上には、昨日まで見なかった薄い封筒が置かれている。


 アリシアが挨拶すると、エレナは顔を上げ、穏やかに微笑んだ。


「こんにちは、アリシアさん。今日は、少しお話ししたいことがあります」


「……はい。何か、分かったんですか?」


 エレナはすぐには答えず、机の上の封筒へ目を向けた。


「昨日お伝えした『照合関係原簿類』の受領一覧について、保存担当から返答がありました」


 アリシアは椅子へ座り、静かに続きを待った。


「当時の保管先に相当する区画は、現在も学院の管理下にあります。ただし、移管された箱の一部は、後の整理作業で別の場所へ移されています」


「……じゃあ、今の場所を調べないと、分からないんですね」


「ええ。そして今回、その整理作業の記録が一部見つかりました」


 エレナは封筒から一枚の複写を取り出した。


 そこには古い筆跡で、いくつかの箱番号と移動先が記されている。


 アリシアは文字を追いながら、ある一箇所で視線を止めた。


 原簿類。


 その文字の隣には、ほかの箱とは違う短い注記があった。


「……これ、何て書いてあるんでしょうか」


 エレナは頷き、拡大した複写を示した。


「保存担当の見解では、『内容未照合につき、封緘維持』と読める可能性が高いそうです。ただし、最後の二文字は傷みがあるため、完全な確定ではありません」


 アリシアはゆっくりと息を吸った。


 内容未照合。


 封緘維持。


 古い資料に何度も現れていた、照合が終わっていないという記録と似た言葉だった。


 けれど、これが探している照合原簿についての記載なのかは、まだ分からない。


「……その箱は、今も封をしたままなんですか?」


「現在の状態は、まだ確認中です。箱番号が後の整理番号と一致するかどうかも、別の一覧で確かめる必要があります」


 エレナはそこで一度言葉を切り、アリシアの表情を見た。


「ただ、今回の記録によって、当時の整理担当者が、内容を確認できていない資料をそのまま保管しようとしていた可能性が出てきました。これは、単に箱が移されたという情報よりも一歩進んだものです」


 アリシアは頷いた。


 これまで、照合原簿がどこにあるのか分からないことばかり気にしていた。


 しかし、資料を扱った人たちが、何を確認できていなかったのかという問題もある。


 古い記録の中には、引き継ぎが終わったことと、内容の照合が終わったことを別に扱っているものがあった。


 今回の注記も、そうした考え方と関係しているのだろうか。


 アリシアはそう考えたが、すぐに結論へ進まなかった。


「……エレナさん。もし、その箱が見つかったとしても、中身をすぐに確かめられるとは限らないんですよね」


「そのとおりです。保存状態によっては、開封前に専門の確認が必要です。それに、資料の内容が分かったとしても、六つの小区画や帰還印と関係しているとは限りません」


 アリシアは小さく頷いた。


 期待はある。


 けれど、期待だけで答えを決めたくはない。


「……分かりました。今は、箱の所在と、記録の対応を確かめるところなんですね」


 エレナは柔らかく微笑んだ。


「ええ。よく整理できています」


 アリシアはノートへ新しい情報を書き込んだ。


 その手元を見ながら、エレナは少し考えたあと、別の複写を取り出した。


「それから、もう一つだけ確認しておきたいことがあります」


「……はい」


「六つの小区画が記された引き継ぎ資料についてです。最初の五つには印があり、最後の一つは空白でしたね」


 アリシアは頷いた。


「……はい。でも、その印が何を意味しているのかは、まだ分かっていません」


「そうです。今回、保存担当が印の周囲を詳しく調べたところ、少なくとも六番目の区画には、印が消されたと判断できる明確な痕跡は見つからなかったそうです」


 アリシアは目を見開いた。


「……じゃあ、最初から空白だった可能性があるんですか?」


「可能性はあります。ただし、印が押されなかった理由までは分かりません。もともと対象外だったのか、作業が終わっていなかったのか、別の理由があったのか。そこは引き続き未確定です」


 エレナは慎重に言葉を選びながら説明した。


 アリシアは複写の六番目の区画へ目を向けた。


 そこには、確かに何も記されていない。


 けれど、その空白が何かを奪われた跡とは限らない。


 誰かが意図的に残した場所かもしれないし、単に使われなかっただけかもしれない。


 大切なのは、その違いを確かめることだった。


「……ありがとうございます。空白だからって、何かが消されたとは限らないんですね」


「ええ。少なくとも、現時点で消去の証拠はありません」


 エレナはそう答え、複写を封筒へ戻した。


 アリシアはノートの六番目の区画について書いた頁へ、新しい一文を加えた。


『消去の明確な痕跡は未確認。空白の理由は不明。』


 書き終えると、少しだけ胸の奥が落ち着いた。


 空白を見つめるたびに、何かが失われたのではないかと考えてしまうことがあった。


 けれど、今は違う。


 そこに何もないという事実を、そのまま受け取ることができる。


 それは、調査を続けるうえで大切な変化だった。


     ◇


 資料室を出たアリシアは、生活観測区画へ向かった。


 夕方の学院には、昼間の賑わいとは違う穏やかな空気が広がっていた。窓の外では雲の切れ間から淡い光が差し込み、中庭の木々が風に揺れている。


 生活観測区画の入口では、サラが記録用紙を確認していた。


「こんにちは、アリシアさん。今日は二人とも談話室にいますよ」


「……こんにちは。体調は、大丈夫ですか?」


「ええ。子供も顔のない存在も落ち着いています。胸元の十一の光にも変化はありません」


 サラはそう答えたあと、少しだけ声を柔らかくした。


「今日は、子供が昨日の絵を見ながら、少し考えていたようです。何か決めたわけではありませんが、自分から話したいことがあるかもしれません」


 アリシアは頷き、談話室へ入った。


 子供は窓際の机で絵を広げていた。


 顔のない存在は隣の椅子に座り、胸元の十一の光を安定して灯している。


 覆われた木箱は、いつもの棚に置かれたままだった。


「アリシア、おかえり!」


 子供が顔を上げ、嬉しそうに笑った。


「……ただいま。今日は、何を考えてたの?」


 アリシアが尋ねると、子供は絵を指さした。


 橋の手前には丸い印があり、向こう側の道には石と小さな旗が描かれている。


 青い線の横には、昨日描き加えた矢印が残っていた。


「昨日、この子が青い線の上を指で動かしたでしょう? 今日も、同じところを見てたんだ」


 子供はそう言いながら、顔のない存在へ目を向けた。


「でもね、ぼく、まだ分からないんだ。だから、今日は別のことを聞いてみようかなって思ってた」


 アリシアは少し驚いた。


「……別のこと?」


「うん。青い線が何なのかじゃなくて、この橋のどこが好きなのか、聞いてみたいんだ」


 子供は絵の橋を指さした。


「ぼくはね、手前の丸い印が好きなんだ。ここがあれば、帰ってくる場所を忘れない気がするから」


 アリシアは静かに頷いた。


 子供にとって、その丸い印は大切なものなのだろう。


 実際の場所を示していると決まったわけではない。


 けれど、絵の中で帰る場所を持ちたいという気持ちは、何度も言葉にされてきた。


「……大切な印なんだね」


「うん。だから、この子にも好きなところがあるのかなって」


 子供は少し考え、顔のない存在へ向き直った。


「ねえ。ぼくは、この丸い印が好きなんだ。ここがあると、帰ってこられる気がするから。きみは、どこが好き?」


 顔のない存在はすぐには動かなかった。


 胸元の十一の光は安定したままで、急な変化は見られない。


 アリシアは静かに見守った。


 子供も返事を急かさず、相手の様子を待っている。


 やがて、顔のない存在がゆっくりと手を持ち上げた。


 指先は、いつもの青い線へ向けられた。


 子供は小さく笑った。


「やっぱり、そこなんだね」


 けれど、顔のない存在の動きはそれだけでは終わらなかった。


 指先が青い線の左端から右端へゆっくり動き、そのまま線の終わりで止まった。


 そして、ほんの少しだけ上へ向いた。


 アリシアは目を凝らした。


 指先の先には、橋の向こう側へ続く道が描かれている。


 ただし、顔のない存在が道を指したのか、それとも単に手を上げたのかは分からない。


 子供もその違いに気づいたらしく、すぐには答えを出さなかった。


「……青い線の先、なのかな」


 子供はそう呟き、少し考えた。


「でも、まだ分からないね。今日はここまでにしようか」


 顔のない存在はゆっくりと手を下ろした。


 子供は嬉しそうに微笑んだ。


「ありがとう。また教えてね」


 アリシアはその様子を見ながら、胸の奥が温かくなるのを感じた。


 子供は以前よりも、答えを急がなくなっている。


 分からないことを怖がるだけでなく、相手が伝えようとしているかもしれないものを、ゆっくり受け取ろうとしている。


 それは、アリシア自身が少しずつ学んできたこととも重なっていた。


「……今日は、どこが好きか聞いてみたんだね」


 アリシアがそう言うと、子供は頷いた。


「うん。だって、分からないことばっかり聞いてたら、この子も困っちゃうかもしれないから」


 アリシアは微笑んだ。


「……優しいね」


 子供は少し照れたように笑い、絵を机の中央へ戻した。


     ◇


 談話室を出たあと、アリシアはサラへ今日の出来事を伝えた。


 サラは子供の発言と、顔のない存在が見せた動きを分けて記録した。


 青い線に沿って指を動かしたあと、わずかに上へ向けたこと。


 ただし、その動きが何を意味しているのかは不明であること。


 胸元の十一の光には変化がなく、二人とも落ち着いていたこと。


 サラは記録を終えると、穏やかに頷いた。


「ありがとうございます。子供が自分から別の聞き方を考えたことも、大切な変化ですね」


「……はい。私も、少し驚きました」


「相手の気持ちを考えながら尋ねることができるようになってきたのでしょうね。ただ、顔のない存在が何を伝えたかったのかは、まだ分かりません。そこはこれまでどおり慎重に見守ります」


 アリシアは頷いた。


「……はい。私も、勝手に意味を決めないようにします」


 サラは微笑み、記録用紙を閉じた。


     ◇


 夜、寮へ戻ったアリシアは、机の上に調査用ノートを広げた。


 窓の外では風が木々を揺らし、遠くの学院棟にはまだいくつか灯りが点っている。


 北側連絡廊下の点検は、今日も続いているのだろう。


 アリシアは今日確認できたことを書き始めた。


 古い保管先の整理記録に、内容未照合のまま封を維持した可能性がある箱の記載が見つかったこと。


 ただし、その箱が探している照合原簿を含むかどうかは、まだ分からないこと。


 六つの小区画の最後の空白について、印が消されたと判断できる明確な痕跡は見つかっていないこと。


 そして、生活観測区画では、子供が顔のない存在へ新しい聞き方を試したこと。


 アリシアは筆を止め、ノートの余白を見つめた。


(……空白があるからって、何かが失われたとは限らない。返事が遅れたからって、届いていないとは限らない。分からないことを、分からないまま確かめるのは、やっぱり大切なんだね)


 ノアは寝台の上で丸くなり、アリシアを見ていた。


「今日はもう終わりか?」


「……うん。ちゃんと休むよ」


「よし。明日も授業があるんだからな」


 アリシアは小さく笑った。


「……ノアって、最近ずっと同じこと言ってる気がする」


「お前が毎日考え込みすぎるからだろ。俺だって、たまには違うことを言いてえんだよ」


 その言葉に、アリシアは思わず声を出して笑った。


 ノアは少しだけ得意げに尻尾を揺らし、寝台の上で身体を丸め直した。


 アリシアは日記帳を閉じ、灯りを落とした。


 古い目録の六番目の空白は、まだ埋まっていない。


 照合原簿の所在も、帰還印の意味も分からない。


 北側連絡廊下の封鎖も続いており、確認票がどこで失われたのかも、まだ確かめられていない。


 けれど、今日も新しい手掛かりが見つかった。


 古い資料には、確認すべき箱の記録が残されていた。


 現在の設備では、記録箱とは別の一時保管先が調べられ始めている。


 生活観測区画では、子供が相手の気持ちを考えながら、新しい問いかけを試していた。


 それぞれの出来事が、同じ答えへつながるとは限らない。


 けれど、どれも確かに、昨日とは少し違う場所へ進んでいる。


 アリシアは寝台へ入り、ノアの温かな毛並みにそっと触れた。


 窓の外では、夜風が静かに吹いている。


 明日、何が分かるのかは分からない。


 それでも、確かめるべきことがある。


 そして、そのために力を尽くしている人たちがいる。


 アリシアはそんな思いを胸に、ゆっくりと眠りへ落ちていった。

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