第317話 届いたはずの返事と、影が見つけた小さな違い
朝の学院に、いつもより早い鐘の音が響いた。
それは授業の開始を知らせる鐘ではなく、中央棟の設備点検に伴う臨時の合図だった。普段なら学生たちの話し声で賑わう南側の階段には、今朝は職員が二人立ち、通行する者へ落ち着いた声で案内を続けている。窓の外では薄い雲が東から流れ、夜の間に降った雨が石畳の継ぎ目へ細い水筋を残していた。
アリシアは寮を出たところで足を止め、中央棟の方角へ目を向けた。
遠くから聞こえる鐘の余韻は、いつもの朝より少しだけ長く感じられた。何か危険が起きたのだろうかと胸がざわついたが、周囲の学生たちは走っておらず、誘導に当たる職員の表情にも切迫した様子はない。
「……今の鐘、何だったのかな」
肩の上でノアが耳を動かした。
「知らねえ。だが、少なくとも避難の合図じゃなさそうだな。みんな普通に歩いてるし、職員も落ち着いてる」
「……うん。でも、いつもと違う音だったから」
「気になるなら掲示を見りゃいい。鐘の音だけで勝手に事件を作るなよ」
ノアの言葉に、アリシアは小さく頷いた。
中央棟へ近づくと、入口の掲示板に新しい連絡が貼られていた。今朝の臨時鐘は、北側設備の点検作業に伴い、一部の職員へ集合を知らせるためのものだったらしい。学生の避難や授業の中止を求めるものではなく、南側通路の利用もこれまでどおり続けられると記されている。
アリシアは胸を撫で下ろした。
(……よかった。何か起きたって決まったわけじゃなかったんだ)
そう思いながら掲示の下へ目を移すと、昨日までとは少し違う文面があった。
北側補助記録器の点検において、仮設記録器による送出・受領の確認を継続中。前日の試験では、一部の受領通知に遅れが確認された。ただし、設備全体の故障や、中央記録室への未到達が確定したものではない。
そして最後に、点検のため北側連絡廊下の封鎖を継続すると書かれていた。
アリシアはその文章を読み返した。
送ったこと。
受け取ったこと。
受け取ったと知らせること。
昨日、ノアと話した時には二つの記録を比べることばかり考えていたが、掲示にはもう一つ、受領を知らせる返事について記されている。
「……ノア。受け取ったことと、受け取ったって知らせることは、違うんだね」
ノアは掲示板へ目を向けた。
「当たり前だろ。手紙を受け取っても、返事を書かなきゃ差出人には分からねえ。もっとも、今回の設備がどういう仕組みかは、俺たちには分からねえけどな」
「……うん。だから、遅れたっていうだけでは、何が起きたのか決められないんだね」
「そういうことだ。ようやく話が早くなってきたじゃねえか」
少し得意げな声に、アリシアは思わず笑った。
その時、掲示板の向こうで学生たちの声が大きくなった。
「じゃあ、中央には届いてたのに、返事だけ遅れたってこと?」
「いや、そこまでは書いてないだろ。どっちか分からないってことじゃないのか」
「でも、何日も閉めてるんだから、早く原因を見つけてほしいよな」
数人の学生が掲示を囲み、思い思いに話している。
不安そうな声もあれば、早く通路を使いたいという不満もあった。誰かが大げさに騒いでいるわけではないが、原因が分からないまま日数が過ぎることに、少しずつ疲れを感じているのだろう。
アリシアはその輪へ入らず、通路の端へ移動した。
自分も同じように、早く何かが分かってほしいと思っている。
けれど、原因を急いで決めてしまえば、間違った場所を調べ続けることになるかもしれない。
そんなことを考えていると、後ろから明るい声が聞こえた。
「アリシア、おはよう!」
振り向くと、メリルが鞄を抱えて歩いてきた。その後ろにはテオとフィオナが並び、少し離れてエドガーも階段の方から姿を見せている。
「……おはよう、メリル。みんなも」
「今朝の鐘、びっくりしたね。私、寮の窓から中央棟の方を見ちゃった」
メリルは少し恥ずかしそうに笑い、掲示板へ目を向けた。
「でも、避難じゃなくてよかった。昨日の夜も点検してたみたいだし、職員さんたち、大変そうだね」
テオは掲示を読みながら頷いた。
「今朝は点検のために集まったんだね。授業には影響しないって書いてあるから、僕たちはいつもどおりでよさそうだ」
エドガーは周囲の学生の流れを確認し、落ち着いた声で言った。
「ここで話していると通路が混む。詳しいことは教室でも確認できるだろう。移動しよう」
フィオナも頷き、アリシアの隣へ並んだ。
「昨日、あまり眠れなかったのではないかと少し心配していたの。北側のことも、資料のことも、いろいろ考えていたでしょう?」
アリシアは驚いてフィオナを見た。
「……ううん。昨日はちゃんと休んだよ。ノアにも、早く寝ろって言われたから」
「俺が言わなきゃ、日記帳を開いたまま夜更かししてただろうな」
ノアがすかさず口を挟むと、メリルが笑った。
「ノアって、本当にアリシアのお母さんみたいなこと言うよね」
「誰がお母さんだ。俺はもっと格好いい役割を担ってるんだよ」
その言葉にテオまで笑い、朝から少し緊張していた空気が和らいだ。
アリシアも小さく笑いながら、仲間たちと教室へ向かった。
◇
午前の授業が始まってしばらくした頃、中央棟の北側では、設備担当者たちが前日から続く試験の記録を確認していた。
仮設記録器は独立した状態で動作しており、現場の補助記録器へ直接手を加えることなく、送出と受領の時刻を比較できるようになっている。作業台には複数の記録用紙が並べられ、それぞれの欄には時刻、操作担当者、確認者の署名が記されていた。
責任者は一枚の用紙を取り上げ、若い職員へ示した。
「昨日の三回目の試験について、もう一度確認しましょう。送出の記録はありますね」
「はい。仮設記録器の表示と、操作担当の手書き記録が一致しています」
「中央側の受領記録は?」
「送出から少し遅れて記されています。ただ、受領通知が現場へ返った時刻は、さらに後になっています」
責任者は頷いた。
「つまり、少なくともこの試験では、受領そのものと受領通知の返送に時間差があった可能性があります。ただし、中央側の時刻表示と現場側の時刻表示が完全に同期しているかは、まだ別に確認する必要があります」
若い職員は真剣な表情で記録を見つめた。
「時刻の基準がずれていたら、見かけ上の遅れになる場合もあるということですね」
「そうです。だから、今日は時計の照合を先に行います。装置が何を示しているかを確かめる前に、その数字をどう読めばいいかを確かめなければなりません」
責任者は別の用紙を机へ置いた。
そこには、中央記録室の受信記録から抜き出した時刻が並んでいた。
昨日まで問題になっていた欠落の前後には、正常に受信された記録が存在している。けれど、その間にあるはずの確認票だけが見つからない。
若い職員はしばらく考え、責任者へ尋ねた。
「もし、受領通知だけが遅れたのなら、確認票そのものは中央に届いていた可能性もありますよね」
「可能性はあります。ただし、欠落した確認票については、中央側に受領したという記録も残っていません。昨日の試験結果を、そのまま過去の欠落へ当てはめることはできません」
責任者の声は厳しくなかったが、言葉には明確な線引きがあった。
若い職員は頷き、記録用紙の余白へ「過去の欠落との関連未確認」と書き加えた。
その時、奥の点検口から別の職員が顔を出した。
「責任者、中央記録室から追加の連絡です。欠落した時間帯の記録箱について、綴じ込み順の確認が終わりました」
責任者は顔を上げた。
「結果は?」
「記録箱の中に、該当する確認票は見つかりませんでした。ただ、綴じ込みの順番に不自然な入れ替わりも確認されていません」
責任者は少しだけ眉を寄せた。
「では、現時点で分かるのは、中央記録箱にその票が存在しないということだけですね。作成されなかったのか、送られなかったのか、別の場所へ移されたのかは、まだ不明です」
「はい。中央側では、受信前の記録と整理前の一時保管記録も確認するそうです」
責任者は頷き、連絡内容を別紙へ記した。
記録箱にないことは確認できた。
しかし、それだけでは、確認票がどこで失われたのかは分からない。
責任者は窓の外へ一瞬だけ目を向けた。学生たちが南側の通路を歩いている。封鎖が長引くほど不便をかけることになるが、原因を誤って判断するわけにはいかなかった。
◇
午前の授業を終えたアリシアたちは、昼食のために食堂へ向かっていた。
今日は実習ではなく、魔法を使用する際の観察記録について学ぶ授業だった。教師は学生たちへ、同じ現象を見ても記録の仕方によって後から分かることが変わると説明し、観察した事実と推測を分けて書く練習をさせた。
アリシアは授業中、以前の自分ならどんな記録を書いただろうかと考えていた。
例えば、影で木片を動かした時に布が揺れたなら、以前は「影が布を動かした」と書いてしまったかもしれない。
けれど、実際には影が直接触れたのか、木片の傾きが影響したのか、周囲の空気が動いたのかを確かめなければならない。
その違いを学べたことが、アリシアには嬉しかった。
食堂の入口へ近づくと、メリルが突然足を止めた。
「あっ、あの子だ」
視線の先には、数日前から北側連絡廊下に置いた荷物の回収を待っていた女子学生がいた。彼女は担当教師と話しており、手には布製の鞄を抱えている。
アリシアは思わず目を見開いた。
「……戻ってきたんだ」
メリルは嬉しそうに頷いたが、すぐに少し離れた場所で立ち止まった。
「うん。でも、今は先生と話してるみたいだから、邪魔しない方がいいね」
女子学生は教師から何か説明を受け、何度も頷いていた。
鞄の持ち手を握る手には力が入っている。大切なものが戻ってきた安堵なのか、まだ中身を確かめられていない不安なのか、離れた場所からでは分からない。
やがて教師が去ると、女子学生は鞄を胸元へ抱き寄せた。
メリルが少し迷ったあと、相手へ声をかけた。
「鞄、戻ってきたんだね。よかった」
女子学生は振り向き、ほっとしたように笑った。
「うん。今朝、先生から連絡があって……。入口に近いところに置いてあったから、回収できたんだって」
その声には嬉しさが滲んでいたが、同時に少し疲れも感じられた。
「中身も全部あったの?」
メリルが尋ねると、女子学生は頷いた。
「教科書も、布の袋もあったよ。袋はちょっと汚れてたけど、破れてなかった。先生が確認してくれたから、もう大丈夫」
アリシアはその言葉を聞き、胸の奥が温かくなった。
大切なものが戻ってきた。
それは、北側連絡廊下の問題が解決したという意味ではない。
けれど、待っていた人にとっては確かな前進だった。
「……よかったね」
アリシアが小さく言うと、女子学生は柔らかく微笑んだ。
「ありがとう。何日も待ってたから、ちょっと不安だったんだ。でも、先生がちゃんと連絡してくれて、戻ってくるまでのことも説明してくれたから……待てたんだと思う」
アリシアは頷いた。
返事が届くこと。
それは、必ずしもすぐに結果が出るという意味ではない。
それでも、待っている相手がいると分かるだけで、人は少し安心できる。
女子学生は鞄を抱え直し、友人たちの方へ歩いていった。
メリルはその背中を見送りながら、嬉しそうに笑った。
「よかったね、アリシア。ちゃんと戻ってきた」
「……うん。本当によかった」
テオも頷いた。
「まだ回収できていない荷物もあるだろうけど、こうして一つずつ戻ってくるなら、待っている人たちも少し安心できるかもしれないね」
エドガーは周囲を見渡し、落ち着いた声で言った。
「ただ、これで封鎖が終わったわけじゃない。設備の原因が分かるまでは、今までどおり気をつける必要がある」
フィオナは穏やかに頷いた。
「ええ。でも、今日は一人の不安が少し軽くなったのね。それだけでも、よかったと思うわ」
アリシアは仲間たちの言葉を聞きながら、食堂へ向かった。
◇
午後、アリシアは資料室へ向かった。
昨日、エレナから古い保管先一覧について新しい手掛かりが見つかったと聞いていたため、その後の確認が進んでいるか気になっていた。
ただし、何かが分かったと決めつけて訪ねたわけではない。
資料室の受付で挨拶すると、エレナは少し驚いたように顔を上げた。
「こんにちは、アリシアさん。ちょうど、確認したいことが一つあったところです」
「……私に、ですか?」
「ええ。昨日お話しした保管先一覧について、少しだけ進展がありました」
エレナは机の上の書類を整え、アリシアへ席を勧めた。
アリシアが椅子へ座ると、エレナは一枚の複写を取り出した。
「原簿類をまとめて移管したという記録があったことは、昨日お伝えしましたね」
「……はい。でも、探している照合原簿が含まれているかは、まだ分からないって」
「そのとおりです。今回、その移管記録に付随する受領一覧が見つかりました」
アリシアは思わず身を乗り出しかけたが、すぐに姿勢を戻した。
「……受領一覧、ですか?」
「はい。ただし、これも個別の資料名をすべて記したものではありません。大まかな分類と箱の数が記されているだけです」
エレナは複写の一箇所を指さした。
そこには、古い文字で「照合関係原簿類」と読める記載があった。
アリシアはその文字を見つめた。
照合。
原簿。
これまで探していた言葉と似ている。
けれど、それだけで同じ資料だと決めることはできない。
「……この中に、照合原簿があるかもしれないんですね」
エレナは頷いた。
「可能性はあります。ただし、同じ分類に別の原簿が含まれていた可能性もあります。箱の中身を確認できるかどうか、保存担当へ問い合わせているところです」
アリシアは胸の奥に小さな期待が生まれるのを感じた。
これまで、照合原簿は「別置」と記されていることしか分からなかった。
それが今、移管された原簿類の中に含まれている可能性が出てきた。
まだ答えではない。
それでも、確かめるべき場所が少しずつ見えてきている。
「……ありがとうございます。もし確認できたら、また教えていただけますか」
「もちろんです。ただ、保存状態によっては、すぐに開けられない場合もあります。そこは理解しておいてくださいね」
「……はい。急がなくても大丈夫です」
アリシアはそう答え、ノートへ新しい情報を書き込んだ。
その様子を見て、エレナは少しだけ表情を緩めた。
「以前より、落ち着いて資料を見られるようになりましたね」
アリシアは驚いて顔を上げた。
「……そう、でしょうか」
「ええ。最初の頃は、何か見つかるたびに、その意味をすぐ確かめたそうにしていました。でも今は、分かったことと、まだ分からないことを分けて考えています」
アリシアは少し照れたように俯いた。
「……ノアにも、よく言われるんです。勝手に答えを作るなって」
エレナは小さく笑った。
「厳しい言い方かもしれませんが、大切なことですね。調査では、分からないことを分からないまま残す勇気も必要ですから」
アリシアは頷いた。
その言葉を聞きながら、生活観測区画の子供を思い出していた。
昨日、あの子は顔のない存在へ「まだ分からない」と伝えた。
そして、これまでとは違う動きを見ることができた。
意味は分からなくても、伝えたことによって何かが変わった。
アリシアはその出来事を、静かに胸へ留めた。
◇
資料室を出たあと、アリシアは生活観測区画へ向かった。
夕方の廊下には柔らかな光が差し込み、窓の外では学生たちが寮へ戻り始めている。遠くから聞こえる話し声は穏やかで、朝の臨時鐘に驚いていた空気は、すでに薄れていた。
生活観測区画の入口では、サラが記録用紙を確認していた。
「こんにちは、アリシアさん。今日は少し早いですね」
「……はい。授業が終わってから、資料室へ寄ってきました」
サラは頷き、談話室の方へ目を向けた。
「二人とも落ち着いています。胸元の十一の光にも変化はありません。今日は子供が、昨日の絵について少し考えていたようです」
「……そうなんですね」
「ええ。ただ、まだ何かを決めたわけではありません。話したくなったら聞いてあげてください」
アリシアは頷き、談話室へ入った。
子供は机の上に絵を広げ、色鉛筆を並べていた。
顔のない存在はその隣に座り、胸元の十一の光を安定して灯している。
覆われた木箱は、いつもの棚に置かれたままだった。
「アリシア、おかえり!」
子供が嬉しそうに顔を上げた。
「……ただいま。今日は何を描いてるの?」
子供は絵を指さした。
橋の手前には丸い印があり、向こう側の道には石の目印が描かれている。昨日描き加えられた旗は、そのまま残されていた。
ただし、今日は青い線の横に、小さな矢印のようなものが描かれていた。
「……これは?」
アリシアが尋ねると、子供は少し考えた。
「昨日、この子が青い線の上を指で動かしたでしょう? だから、動いたところを忘れないように描いたんだ」
アリシアは絵を見つめた。
矢印は青い線に沿って描かれている。
けれど、それが何を意味するのかは、まだ分からない。
「……覚えておきたかったんだね」
「うん。だって、いつもと違うことをしてくれたから」
子供は嬉しそうに頷いた。
「でもね、これが水の流れなのか、道なのか、それとも別のものなのかは、まだ分からないんだ」
アリシアは微笑んだ。
「……うん。分からないままでいいと思うよ。見たことを残しておけば、あとで考えられるから」
子供は安心したように笑った。
その時、顔のない存在がゆっくりと手を持ち上げた。
指先は、また青い線へ向けられている。
アリシアは静かに見守った。
子供もすぐには話しかけず、相手の動きを待っている。
顔のない存在は、青い線の左端へ指を向けたあと、昨日と同じように右側へゆっくり動かした。
そして、今度は線の終わりで手を止めた。
子供は目を大きく開いた。
「……また、動いた」
アリシアも頷いた。
「……うん。昨日と似た動きだったね」
顔のない存在は、しばらくその位置へ手を向けたままだった。
子供は少し考え、静かに声をかけた。
「ありがとう。まだ分からないけど、覚えておくね」
顔のない存在はゆっくりと手を下ろした。
アリシアはその様子を見ながら、胸の奥に温かなものが広がるのを感じた。
昨日の動きが、偶然だったのかどうかは分からない。
けれど、今日も似た動きが見られた。
それは、観察できた事実として残せる。
アリシアは子供へ微笑んだ。
「……サラさんにも、今のことを伝えておこうか」
子供は頷いた。
「うん。でも、まだ意味は分からないって、ちゃんと書いてね」
「……もちろん」
アリシアはその言葉を聞き、少しだけ嬉しくなった。
分からないことを、分からないまま伝える。
その大切さを、子供も少しずつ理解しているのかもしれない。
◇
談話室を出ると、アリシアはサラへ今日の出来事を伝えた。
サラは子供の発言と、顔のない存在が見せた動きを分けて記録した。昨日と似た動きが見られたことは確認できたが、意味については保留とする。
「ありがとうございます。繰り返し見られたことは大切な情報ですが、こちらから無理に同じ動きを求めることはしません」
サラはそう言い、記録用紙を閉じた。
アリシアは頷いた。
「……はい。あの子たちが、自分から伝えたい時に、ちゃんと聞けるようにしたいです」
サラは穏やかに微笑んだ。
「それが一番大切だと思います。伝えることも、伝えないことも、本人たちが選べるようにしておきたいですから」
アリシアはその言葉を胸に留めた。
◇
夜、寮へ戻ったアリシアは、机の上に日記帳を開いた。
窓の外では風が木々を揺らし、遠くの学院棟にはまだいくつか灯りが点っている。北側連絡廊下の点検は今日も続いているのだろう。
アリシアは今日の出来事を書き始めた。
朝、臨時の鐘が鳴ったこと。
北側設備の確認票について、受領通知の遅れが調べられていること。
封鎖区域に残されていた鞄が一つ戻り、待っていた学生が安心していたこと。
資料室では、照合関係原簿類の受領一覧が見つかり、探している照合原簿が含まれている可能性が出てきたこと。
そして、生活観測区画では、顔のない存在が昨日と似た動きを見せたこと。
アリシアは筆を止め、少しだけ考えた。
(……今日は、少しずつだけど、いろんなことが進んだんだね。でも、まだ答えが出ていないことも多い。だからこそ、分かったことを大切にしよう)
ノアは寝台の上で丸くなり、アリシアを見ていた。
「今日はもう終わりか?」
「……うん。ちゃんと休むよ」
「よし。明日も朝から授業があるんだからな」
アリシアは小さく笑った。
「……ノアって、本当に私のこと、よく見てるよね」
「当たり前だ。俺はお前の相棒だからな」
その言葉に、アリシアは胸の奥が温かくなった。
以前なら、自分のことを誰かが見ていてくれると考えるだけで、少し怖くなったかもしれない。
けれど、今は違う。
見守ってくれる相手がいることを、嬉しいと思える。
アリシアは日記帳を閉じ、灯りを落とした。
北側連絡廊下の封鎖は、まだ続いている。
古い目録の六番目の空白も、照合原簿の所在も、帰還印の意味も分からない。
東側と西側の反応の仕組みも、生活観測区画の青い線が何を示しているのかも、まだ確かめられていない。
けれど、今日も少しずつ、確かめられたことが増えた。
返事を待っていた学生には、大切な鞄が戻ってきた。
古い資料には、新しい確認先が見つかった。
子供は、顔のない存在の動きを覚えておこうと、自分の絵へ印を描き加えた。
アリシアは寝台へ入り、ノアの温かな毛並みにそっと触れた。
窓の外では、夜風が静かに吹いている。
答えが届くまでの時間は、決して何も起きない時間ではない。
誰かが調べ、誰かが待ち、誰かが自分の言葉で尋ねている。
その一つ一つが、まだ見えない答えへ続く道になるのかもしれない。
アリシアはそんな思いを胸に、ゆっくりと眠りへ落ちていった。




