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『忘れられた六つ目の神器に選ばれました 〜人見知りな闇の少女と毒舌黒猫の学園英雄譚〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第316話 返らない確認票と、閉じた扉の向こうで


 北側連絡廊下の封鎖が始まってから、学院の朝には新しい音が加わっていた。南側階段へ回る学生たちの靴音に混じって、誘導に立つ職員の呼びかけが聞こえる。以前なら授業開始の鐘が鳴るまで静かだった中央棟の一階にも、今では朝早くから人の気配が絶えなかった。


 アリシアがその変化を意識したのは、いつもの案内板の前で立ち止まったからではない。前方の廊下を歩いていた二人の学生が、揃って同じ方向へ顔を向けたためだった。北側へ続く横廊下の入口で、設備担当の職員が普段より大きな台車を押している。その上には布を掛けられた長い箱と、金具の付いた木製のケースが載っていた。


「また何か運んでるね」


 隣を歩くメリルが声を潜めた。アリシアは頷いたが、台車の中身を推測しようとはしなかった。封鎖の向こうで何が行われているかは、担当者以外には分からない。それでも、今朝の職員たちの表情には、いつもとは違う緊張があった。


 台車を押す職員の後ろから、年配の設備担当者が歩いてくる。彼は柵の前に立っていた誘導員へ短く何かを告げ、通行人を少し離すよう手振りで示した。誘導員は頷き、南側へ向かう学生の流れをゆるやかに曲げた。


「立ち止まらず、南側の通路をご利用ください。設備の点検作業を行っています。危険が確認されたという連絡ではありませんので、慌てずに進んでください」


 その説明に、周囲で足を止めかけていた学生たちが動き出した。アリシアもメリルと歩き始めたが、台車の横を通り過ぎる直前、木製ケースの側面に貼られた白い札が目に入った。札には黒い文字で「仮設記録」と記されている。昨日まで掲示されていた中央記録室の受信欠落を調べるための道具なのだろうか、と考えたところで、ノアが肩の上から声をかけた。


「見るのは構わねえが、歩きながら首をねじるな。お前の前には人がいる」


「……うん。ごめん」


 アリシアは視線を戻した。前を歩いていた学生が曲がり角で速度を落としており、気づかず進めばぶつかっていたかもしれない。自分が何かを見つけた時ほど周囲が見えにくくなるという、昨日の実習で学んだことが頭をよぎった。


 メリルはそのやり取りを聞いて笑ったものの、すぐに真剣な顔になった。


「今日は仮の記録を取るのかな。ちゃんと直るといいね。あの通路が使えないと、図書室から戻る時も遠回りになっちゃうし」


「……そうだね。でも、直ったかどうかを確かめるためにも、記録が必要なんだと思う」


 メリルは少し考え、アリシアへ顔を向けた。


「昨日の実習と似てるかも。動いたから成功、じゃなくて、周りがどうなったかまで確かめるっていうところ」


「……うん。私も、そう思った」


 二人が階段を上がり始めると、後ろから数人の下級生が続いてきた。誰も走らず、手すりに沿って順番に進んでいる。昨日アリシアが案内した学生の姿もその中にあり、目が合うと相手は少し照れたように頭を下げた。アリシアは驚きながらも会釈を返し、胸の奥に生まれた小さな温かさを抱えたまま教室へ向かった。


     ◇


 北側連絡廊下の柵の内側では、設備担当の責任者が二枚の記録板を並べていた。片方には中央記録室から写された受信時刻、もう片方には補助記録器の現場表示が記されている。どちらも同じ設備についての記録だったが、欠けている箇所は完全には一致していなかった。


「仮設の記録器は、まだ本線へつながないでください。最初は独立した状態で時刻を合わせ、こちらの確認に使います」


 責任者が指示すると、若い職員は木製ケースの留め金を外した。内部には小型の記録魔導具が収められており、細い針が透明な板の上で静止している。魔導具の横には手書きの用紙が添えられ、誰が何時に作動させたかを記入する欄が設けられていた。


「現場表示が正しいと仮定して、それを証明するための道具にしてはいけません。こちらの装置も、最初は何も分からないものとして扱います」


「はい。独立した時計との照合から始めます」


 若い職員は慎重に答え、ケースの中へ手を伸ばした。責任者は彼の動作を見守りながら、もう一枚の記録板へ視線を落とした。


 中央記録室が最後に受け取った確認票には、時刻と装置番号が記されていた。しかし、その次に届くはずだった確認票は残っていない。さらに、その後の受信記録には正常な表示がいくつかある。つまり、すべての通信が止まったわけではなかった。


 問題は、欠けた一枚がなぜ届かなかったのかということだった。


 責任者はその欄へ指を置いたまま、しばらく黙っていた。紙の上に並ぶ数字は整然としているのに、ひとつだけ空いた場所が、周囲のどの記録よりも重く見えた。


「……昨日、中央側の記録箱を調べた者は、受信票の綴じ込みまで確認しましたか」


 若い職員が顔を上げた。


「記録箱の内部は確認済みと報告されています。ただ、綴じ込みの順番については、まだ照合中です」


「では、その点も未確認のまま残してください。欠けた票が最初から作られなかったのか、送られなかったのか、受け取られた後に整理されなかったのか。今はどれも決められません」


 責任者は記録板を閉じ、点検口の向こうへ目を向けた。廊下の奥では照明魔導具が弱い光を灯していたが、その明るさだけでは、壁際の細かな部品の状態までは見通せない。作業はまだ始まったばかりだった。


     ◇


 午前の授業が始まると、アリシアは北側の作業について考えるのをやめ、机の上の課題へ集中した。今日は魔力の持続時間と休止の取り方を学ぶ実習で、教師は学生たちへ、短い操作を何度も繰り返す際に自分の状態を確かめるよう指示していた。


 アリシアの課題は、小さな輪を影で持ち上げ、指定された位置へ置くことだった。昨日の木片より軽いが、輪は支える位置を間違えると傾きやすい。彼女は影の先を二つに分け、輪の内側へ触れないよう外縁を支えた。


 最初の試みでは、輪がわずかに揺れた。アリシアはすぐに力を強めず、動きを止めて揺れが収まるのを待った。教師から再開の合図が出てから、影の位置を少し変える。輪はゆっくりと移動し、指定された印の上へ静かに置かれた。


「前より、止める判断が早くなりましたね」


 教師はそう評価したあと、アリシアの顔色を確かめた。


「痛みや息苦しさはありませんか。腕や胸の違和感も含めて、今の状態を教えてください」


「……痛みも、息苦しさもありません。怖さは……二くらいです」


 教師は頷き、記録用紙へ短く書き込んだ。


「分かりました。無理に回数を増やす必要はありません。次の操作まで休んで、状態が変わらないか確かめましょう」


 アリシアは影を完全に引き、椅子へ腰を下ろした。胸の奥に冷たさはなく、指先も普段どおり動く。以前なら、うまくできた直後にもう一度試したくなったかもしれないが、今日は休む時間も実習の一部だと理解していた。


 近くの台では、メリルが風の魔法で薄い板を支えている。板は安定していたものの、長く浮かせようとするうちに風の流れが強くなり、机の端の紙がめくれた。メリルはすぐに魔法を止め、紙を押さえたテオへ申し訳なさそうに笑った。


「ごめん、ちょっと欲張っちゃった。もう少し続けられると思ったんだけど」


「紙が飛んだだけだから大丈夫だよ。でも、今止められたのはよかったと思う」


 テオはめくれた頁を揃え、メリルの方へ戻した。メリルは深く息を吐いてから教師の指示を待ち、次の試みでは時間を短く区切って板を支えた。


 アリシアはその様子を見て、自分だけが学んでいるわけではないと感じた。仲間たちもそれぞれ失敗し、確かめ、やり直している。誰かの成功だけを見て焦る必要はないのだと、実習室に満ちる小さな声や足音が教えてくれているようだった。


     ◇


 昼休み、食堂へ向かう途中で、中央棟の掲示板の前に小さな人だかりができていた。朝とは違う紙が一枚追加されており、そこには私物回収についての新しい連絡が書かれている。


 封鎖区域の入口近くに置かれていた一部の荷物について、安全な位置からの回収が完了した。ただし、奥に残されたものは引き続き対象外であり、回収できた荷物も担当教師を通じて本人へ返却するという。


 アリシアが内容を読み終えたところへ、メリルが隣から覗き込んだ。


「少し戻ってきたんだね。あの子の鞄もあるかな」


「……分からないけど、先生から連絡が来ると思う」


「そうだね。本人に聞きに行くより、まずは待った方がいいのかな」


 メリルはそう言いながら、掲示板の前から一歩離れた。人だかりの向こうでは、回収を待っている学生らしい二人が、少し落ち着かない様子で話している。一人は嬉しそうだったが、もう一人はまだ自分の荷物が対象に入っていないことを気にしているようだった。


 同じ掲示を見ても、受け止め方は人によって違う。アリシアはそのことを意識しながら、食堂へ向かった。


 昼食の席では、エドガーが新しい連絡を読んだと話した。テオは荷物の回収が進んだことを喜び、フィオナは返却の順番について心配している学生もいるだろうと気遣った。


「全部を一度に戻せないなら、どうしても差が出るわよね。安全を優先するのは分かっていても、自分のものがまだだと落ち着かないと思う」


 フィオナがそう言うと、メリルは少し困ったように頷いた。


「私だったら、何度も掲示を見に行っちゃうかも。大事なものが入ってたら、なおさらだよね」


「だからこそ、担当教師を通じて連絡する形にしているんだろう」


 エドガーは落ち着いた声で答えた。


「全員が直接設備担当へ問い合わせたら、点検も回収も進まなくなる。待つ側ができることは限られるが、申請を受け付けたことと連絡方法が決まっているのは重要だ」


 アリシアはスープの器を両手で包みながら、仲間たちの話を聞いていた。温かな湯気が頬に触れる。朝から少し肌寒かったため、その温もりが心地よかった。


「……返ってくるまで、不安なのは変わらないかもしれないね。でも、誰が確認してくれているか分かるだけでも、少し違うと思う」


 フィオナはアリシアへ微笑んだ。


「そうね。待つことができるようにするのも、大切な支えなのかもしれないわ」


 その言葉は、アリシアの中に静かに残った。


     ◇


 午後、アリシアが図書室へ向かおうとした時、廊下の角から一人の職員が急ぎ足で現れた。腕には書類を抱えており、近くにいた別の職員へ声をかけている。


「中央記録室から連絡です。北側の仮設記録器で、確認票の送出時刻と受領時刻を別々に残せるようになりました。ただ、先ほどの試験では、受領の返事が一度だけ遅れています」


 アリシアは思わず足を止めかけたが、すぐに歩道の端へ寄った。職員同士の会話を聞こうとして立ち塞がるのはよくない。それでも、聞こえてきた言葉が気になった。


 送出時刻と受領時刻。


 返事が遅れた。


 以前の東側と西側の反応を思い出しそうになったが、アリシアはそこで考えを止めた。今の設備の記録と、別の場所で観測された反応が同じ仕組みだという根拠はない。時間がずれているという一点だけで、結びつけてはいけない。


 ノアは足元を歩きながら、アリシアを見上げた。


「気になるなら、まず何を聞いたかだけ覚えとけ。余計な答えまで作るなよ」


「……うん。送った時刻と、受け取った時刻を別々に残したってことだよね」


「そうだ。それ以上は、担当者の仕事だ」


 アリシアは頷き、図書室の扉へ向かった。廊下の向こうでは、職員たちが再び北側へ歩いていく。自分が知らないところでも、学院を守るための仕事が続いているのだと感じた。


     ◇


 図書室の奥では、エレナ・ヴァイスが大きな机の上に数冊の資料を並べていた。アリシアが挨拶すると、エレナは作業の手を止め、静かな声で応じた。


「こんにちは、アリシアさん。ちょうど、古い整理資料について一つ確認が取れたところです。少し時間はありますか」


「……はい。大丈夫です」


 アリシアは鞄を椅子の脇へ置き、エレナが示した席へ座った。机の上には原本ではなく、保存担当が作成した複写と、資料の保管履歴をまとめた一覧がある。


「先日お話しした、六つの小区画が記された頁のことです。細い線が折り目の可能性が高いという連絡はお伝えしましたね」


「……はい。まだ確定ではないけど、欄の区切りとは限らないって」


「そのとおりです。今回、保存担当が同じ冊子の前後の頁を調べたところ、同じ位置に折り目らしい痕跡があることが分かりました。ただし、そこに同じ形の区画があるわけではありません」


 エレナは複写を一枚ずつ並べた。アリシアは手を伸ばしかけたが、触れてよいか確かめてから、紙の端をそっと押さえた。前後の頁には文字と数字が記されているものの、六つの小区画に相当する並びは見当たらない。


「……じゃあ、折り目は冊子の保存方法でできたのかもしれないんですね」


「その可能性があります。ただし、折り目の由来もまだ確定していません。大切なのは、区画の数と紙の線を同じ根拠として扱わないことです」


 アリシアはノートを開き、説明された内容を書き留めた。六つの小区画そのものは複写に残っている。しかし、その脇の細線が区切りであるとは言えず、五つの印の形も複写の状態によって見え方が変わる可能性がある。


 エレナは少し間を置いてから、別の一覧を指さした。


「それと、照合原簿についてですが、まだ所在は分かっていません。ただ、旧資料を移した時の保管先一覧に、原簿類をまとめて移管したという記録がありました。個別の名称は載っていないため、探しているものが含まれているとは断定できません」


 アリシアは顔を上げた。これまで「別置」と記されていることは分かっていても、どこへ置かれたかを示す手掛かりはなかった。今回の一覧は、直接の答えではないものの、確認すべき場所を絞るための一歩になるかもしれない。


「……その一覧にある保管先は、今も使われているんですか」


「一部は使われています。ただ、移管当時と現在では管理区分が変わっていますから、今の保管場所を確認するには、さらに別の記録が必要です」


 エレナはアリシアの表情を見て、穏やかに続けた。


「焦らなくても大丈夫ですよ。所在が分からないからといって、資料が失われたと決まったわけではありません。逆に、記録があるから必ず残っているとも言えません。今は、確認できる順番を整理しているところです」


 アリシアは深く頷いた。期待が膨らみかけた胸を、ゆっくり落ち着かせる。新しい手掛かりが見つかると、つい先の答えまで想像したくなる。それでも、エレナの言葉は、自分が確かめられる範囲を見失わないための支えになった。


「……ありがとうございます。何が分かったのか、ちゃんと分けて書いておきます」


「ええ。あなたがそうしてくれるから、私も安心して一緒に確認できます」


 その言葉に、アリシアは少し頬を赤くした。資料を調べることが得意だと思ったことは、まだない。けれど、分からないことを急いで埋めない姿勢が誰かの役に立っていると知り、嬉しさと照れくささが同時に込み上げた。


     ◇


 図書室を出る頃には、窓の外の光が柔らかく傾いていた。アリシアは生活観測区画へ向かいながら、今日聞いたことを頭の中で整理していた。古い保管先一覧の存在は新しい手掛かりだが、照合原簿そのものが見つかったわけではない。北側の設備記録とも、まだ関係は示されていない。


 生活観測区画の入口では、サラが記録用紙を確認していた。アリシアが挨拶すると、サラは顔を上げ、いつもの落ち着いた声で応じた。


「こんにちは。今日は二人とも談話室にいます。体調や胸元の光に変化はありません。午前中は絵を描いて、昼食後には少し休んでいました」


「……ありがとうございます。今、入っても大丈夫ですか」


「ええ。本人たちが嫌がらなければ、いつもどおり話して構いません。ただ、今日は子供が少し考え込んでいた時間がありました。無理に理由を聞き出さず、話したくなったら聞いてあげてください」


 アリシアは頷き、談話室の扉を静かに開いた。


 窓際の机では、子供が絵を広げていた。顔のない存在は隣の椅子に座り、胸元の十一の光を安定して灯している。覆われた木箱は棚の上に置かれたままで、誰かが動かした様子はなかった。


「アリシア、おかえり」


 子供が顔を上げ、少しだけ笑った。いつもならすぐに絵を見せてくれるが、今日は色鉛筆を手にしたまま、机の上を見つめている。


「……ただいま。今日は、何か考えてたの?」


 アリシアは向かいの椅子を指さし、座ってよいか尋ねた。子供が頷いたので、ゆっくり腰を下ろす。絵にはこれまでと同じ橋が描かれ、手前の丸い印と、向こう側の道に置かれた石の目印も残っていた。


 ただ、昨日は石の隣に短い線だけがあった場所に、今日は小さな旗が描かれていた。旗は道の向こうを向いているのではなく、橋の手前へ向けて傾いている。


「……旗にしたんだね」


「うん。木もいいと思ったけど、もし暗くなったら、木はほかの木と間違えるかもしれないから。旗なら、風が吹いたら動くでしょう?」


 子供はそう説明したあと、少しだけ眉を寄せた。


「でも、風が吹かなかったら、動かないんだよね。だから、これでいいのか分からなくなっちゃった」


 アリシアは絵を見つめた。小さな旗には、赤と白の二色が使われている。子供は目印を見つけやすくしたくて、いくつも考えたのだろう。


「……旗が動かなくても、色で分かるかもしれないね。でも、まだ決めなくてもいいと思うよ」


 子供は少し考え、色鉛筆を机へ置いた。


「アリシアは、帰る道が分からなくなったこと、ある?」


 その問いに、アリシアはすぐには答えられなかった。学院の廊下で迷ったことなら何度もある。けれど、子供が尋ねているのは、ただ道順が分からなくなることだけではないように感じられた。


「……あるよ。知らない場所で、どっちへ行けばいいか分からなくなったこともあるし……誰に聞けばいいか分からなくて、困ったこともある」


 子供はアリシアの顔をじっと見つめた。


「その時、どうしたの?」


「……最初は、一人で何とかしようとしたよ。でも、今は、分からない時に聞いてもいいんだって、少しずつ思えるようになったの」


 アリシアは朝に案内した下級生のことを思い出し、静かに続けた。


「今日もね、道が分からなくなった子がいたんだ。私が一緒に歩いたら、ありがとうって言ってくれた。だから、私も誰かに聞いてよかったんだなって、改めて思ったよ」


 子供はしばらく黙っていた。机の上の旗を指でなぞり、橋の手前にある丸い印へ視線を移す。


「……じゃあ、帰る道が分からなくなったら、聞いてもいいんだね」


「……うん。聞ける相手がいるなら、聞いていいと思う」


 子供はゆっくり頷いたものの、まだ何か言いたそうにしていた。アリシアは急かさず、相手が次の言葉を探すのを待った。


 やがて子供は、顔のない存在へ目を向けた。


「でも、この子が何を言いたいのか、分からない時はどうしたらいいのかな」


 アリシアは胸の奥が少し痛むのを感じた。顔のない存在は何度も青い線を指しているが、その意味を誰も確かめられていない。子供は一緒に考えようと声をかけてきたが、答えが返ってこないことを気にしていたのかもしれない。


「……分からないって、伝えてもいいんじゃないかな。分からないまま、分かったふりをするより……もう少し教えてほしいって言ってもいいと思う」


 子供は目を瞬かせた。顔のない存在は二人の会話を聞いているのか、静かに座ったままだった。


「もう少し、教えてほしい……」


 子供はその言葉を小さく繰り返し、絵の青い線へ目を向けた。しばらく考えたあと、顔のない存在へ向き直る。


「ねえ。いつもここを指してくれるでしょう? でも、ぼくにはまだ分からないんだ。もしよかったら、ほかにも教えてくれる?」


 顔のない存在はすぐには動かなかった。胸元の十一の光は安定したままで、急な変化も見られない。アリシアは呼吸を整え、二人の間へ割り込まないよう静かに座っていた。


 やがて、顔のない存在の手がゆっくりと持ち上がった。


 指先は、いつもの青い線へ向けられた。子供は少し肩を落としかけたが、そのまま見守っている。すると、顔のない存在は指先をわずかに動かし、青い線の左端から右端へ、紙に触れないままゆっくりとなぞるような動きをした。


 アリシアは息を呑みそうになった。これまで、顔のない存在は青い線の一箇所を指していることが多かった。線に沿って手を動かす様子を、少なくとも自分は見たことがない。


 子供も目を大きく開いた。


「……動いた。青い線の上を、動いたよね」


 顔のない存在は手を止め、静かに下ろした。何を伝えようとしたのかは分からないが、子供の問いかけに続いて、新しい動きが見られたことは確かだった。


 アリシアはすぐに意味を考えたくなる気持ちを抑え、子供へ目を向けた。


「……うん。私にも、そう見えたよ。でも、どういう意味かは、まだ分からないね」


 子供は頷いた。けれど、その表情には先ほどまでの困惑だけでなく、何かを受け取れたような明るさがあった。


「分からないけど……聞いたら、違うことをしてくれたんだね」


「……そうだね。少なくとも、さっきとは違う動きだった」


 子供は嬉しそうに顔のない存在を見つめた。


「ありがとう。まだ分からないけど、また教えてね。ぼくも、ちゃんと聞くから」


 顔のない存在は返事をしなかった。それでも、子供は急いで答えを求めず、絵を机の中央へ戻した。


 アリシアはその様子を見ながら、胸の奥に温かなものが広がるのを感じた。相手の言葉が分からないことは、何も受け取れないことと同じではない。少なくとも今日は、子供が分からないと伝え、顔のない存在が新しい動きを見せた。その出来事を、意味を決めつけずに大切にしたかった。


     ◇


 談話室を出ると、サラが入口近くの机で記録用紙を開いていた。アリシアは今見たことを伝える前に、子供が落ち着いているかを確かめた。室内では子供が再び色鉛筆を手に取り、顔のない存在の隣で絵を見つめている。急な不安や体調の変化は見られなかった。


「……サラさん。さっき、顔のない存在が青い線を指したあと、線に沿って指を動かしたんです。私が見た範囲では、いつもと少し違う動きでした」


 サラはすぐに記録を始めず、アリシアへ確認した。


「子供が何か尋ねたあとでしたか。それとも、何も言わないうちに動いたのでしょうか」


「……子供が、まだ意味が分からないから、ほかにも教えてほしいって伝えたあとです。でも、それに答えたのかどうかは、分かりません」


 サラは頷き、時刻と発言、観察された動作を分けて記録した。彼女は顔のない存在の意図を推測する言葉を加えず、胸元の光が安定していたことも別の欄へ書き込む。


「ありがとうございます。意味については保留にして、同じ動きが自然に見られるか、今後も観察します。こちらから繰り返し同じ動作を求めることはしません」


「……はい。私も、無理に聞かないようにします」


 サラは記録用紙を閉じ、アリシアへ穏やかに微笑んだ。


「今日は、子供が自分の言葉で『分からない』と伝えられたことも大切だと思います。以前は、相手の反応が分からないと不安そうにしていましたから」


 アリシアはその言葉を聞き、談話室の扉へ目を向けた。子供が少しずつ自分の気持ちを言葉にできるようになっていることは、自分の変化とも重なる。相手がどう思うか怖くても、尋ねることを選べるようになる。その勇気が、今日は小さな形で表れたのだと感じた。


     ◇


 夕暮れの学院では、北側連絡廊下の点検作業がまだ続いていた。学生たちが寮へ戻る頃、中央棟の入口には設備担当からの短い連絡が掲示された。仮設記録器による試験では、送出した確認票の一部について受領の返事が遅れたこと。ただし、遅れが設備の異常を示すのか、記録の処理に時間がかかっただけなのかは未確定であることが記されていた。


 アリシアは掲示を読んだあと、すぐに立ち去らず、少しだけ考えた。送ったことと受け取ったことを分けて記録する。受け取ったと確認できないものは、完了として扱わない。今日エレナから聞いた古い記録の話と似た言葉が頭をよぎったが、それを同じ仕組みだと決める理由はなかった。


 ノアはアリシアの足元で立ち止まり、尻尾をゆっくり揺らした。


「また考え込んでるな。何か分かったのか?」


「……ううん。まだ分からない。でも、今の設備のことも、古い資料のことも、送っただけでは終わらない記録があるんだなって思ったの」


「似た言葉があるからって、同じものとは限らねえぞ」


「……うん。そこは分けて考えるよ」


 アリシアは頷き、掲示板から離れた。北側の柵の向こうには、作業用の灯りがいくつか点っている。職員たちはまだ帰らず、確認を続けているのだろう。


 自分にできることは限られている。それでも、知らないことを知らないままにせず、分かったことを正しく受け取ることはできる。アリシアはそう思いながら、寮へ続く道を歩いた。


     ◇


 夜、自室へ戻ったアリシアは、机の上に日記帳と調査用ノートを並べた。窓の外では風が木々を揺らし、遠くの学院棟にはまだ少し灯りが残っている。ノアは寝台の端へ飛び乗ると、前脚を揃えてアリシアの様子を見守った。


 アリシアはまず、調査用ノートへ今日確認できたことを書いた。古い冊子の前後の頁にも同じ位置の折り目らしい痕跡があること。原簿類をまとめて移管した記録が見つかったが、探している照合原簿が含まれているかは未確定であること。そして、現在の北側設備については、仮設記録器で受領の遅れが観測されたものの、原因はまだ分からないこと。


 それぞれの項目の間には、少し広めの余白を残した。後から新しい情報が増えた時、どこへ書き足せばよいか分かるようにするためだった。以前は余白があると、何かを書かなければならないような気がして落ち着かなかったが、今は空いている場所をそのまま残せる。


 続いて日記帳を開き、生活観測区画での出来事を書き始めた。子供が「分からない」と伝えたこと。顔のない存在が青い線に沿って指を動かしたこと。その意味はまだ分からないが、子供が少し嬉しそうだったこと。


 筆を止めると、アリシアはしばらく頁を見つめた。


(……分からないって言うのは、怖いことだと思ってた。自分だけ分かっていないみたいで、恥ずかしくなることもあった。でも、分からないって伝えたから、今日のあの子は、もう一つ違う動きを見られたんだよね)


 アリシアはゆっくり息を吐き、日記帳を閉じた。今日の出来事が何か大きな答えにつながるかどうかは、まだ分からない。それでも、あの子が自分の言葉で尋ねた瞬間を、忘れたくなかった。


「今日は何を書いてたんだ」


 ノアが寝台から尋ねた。アリシアは椅子を回し、黒猫へ微笑んだ。


「……聞いてもいいんだってこと。分からない時に、ちゃんと聞いてもいいんだなって」


 ノアは少し目を細めた。


「今さら気づいたのか。お前、俺には散々聞いてるだろ」


「……それは、ノアがいつも一緒にいてくれるから」


 思わずそう答えると、ノアは一瞬だけ黙った。アリシアは自分の言葉が少し照れくさくなり、視線を日記帳へ落とす。


 ノアは前脚を伸ばし、寝台の上で身体を丸めた。


「だったら、ほかの奴にも少しずつ聞けばいい。俺だけじゃ、全部の答えは持ってねえからな」


「……うん。そうする」


 アリシアは灯りを落とし、寝台へ入った。ノアの温かな毛並みが腕へ触れ、窓の外からは風の音が静かに届いてくる。


 北側連絡廊下の封鎖は、まだ続いている。古い資料の空白も、帰還印の意味も、照合原簿の所在も分からないままだ。生活観測区画の青い線が何を示しているのかも、答えは出ていない。


 けれど今日は、分からないことを伝えた子供へ、これまでとは違う動きが返ってきた。


 アリシアはその小さな出来事を思い返しながら、ゆっくりと目を閉じた。答えが届くまでの時間を、ただ不安に耐えるだけのものにしなくてもいい。尋ねることも、待つことも、相手の反応を確かめることも、今の自分にはできるのだから。


 その夜、学院の北側では作業用の灯りが遅くまで消えなかった。誰かが記録を送り、別の誰かが受け取ったことを確かめる。閉ざされた回廊の向こうで続くその仕事を、アリシアはまだ詳しく知らない。


 それでも、明日また何かを確かめられるかもしれないという思いが、眠りに落ちる直前の胸に静かに残っていた。

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