第315話 閉ざされた回廊に届いた声と、六番目の印を探す手
北側連絡廊下の封鎖が続く学院では、朝の鐘が鳴るよりも早く、中央棟の南側に学生たちの列ができていた。
夜明け前の雨はすでに上がっていたものの、石畳にはまだ湿り気が残り、靴底が触れるたびに小さな水音が響いている。普段なら中庭を横切って北側の階段へ向かう学生たちも、今朝は南側へ回らなければならず、掲示板の前では時間割を確かめる声がいくつも重なっていた。
アリシアは少し離れた場所で立ち止まり、新しく貼られた案内へ目を向けた。
北側連絡廊下の立ち入り制限は継続すること。現場表示と中央記録室の受信記録について、一部の照合が完了したこと。ただし、原因はまだ特定されておらず、学生は引き続き指定された通路を利用すること。
その下には、封鎖区域に残された私物の回収についても追記されていた。
申請済みの荷物は、設備担当が安全を確認できた場所から順次回収する。回収の可否や時期については、担当教師を通じて本人へ連絡する。
「……少し、進んだんだね」
アリシアが呟くと、肩の上に乗ったノアが掲示を見上げた。
「一部の照合が終わっただけだ。原因が分かったわけでも、通路が開いたわけでもねえぞ」
「……うん。それは分かってる。でも、昨日より確かめられたことが増えたんだなって」
「だったら、そのまま受け取っとけ。分かってねえ部分まで勝手に埋めなきゃ、それでいい」
ノアはそう言って尻尾を揺らした。
アリシアは掲示をもう一度確認し、鞄の持ち手を握り直した。
数日前、落ちかけた照明魔導具を影で支えた時には、考えるより先に身体が動いた。あの瞬間、誰かが怪我をするかもしれないという恐怖は確かにあったが、それ以上に、目の前の危険を見過ごしたくないという思いが強かった。
けれど、今は違う。
封鎖された回廊の向こうでは、設備担当が原因を調べている。自分が勝手に立ち入れば、その人たちの仕事を妨げるばかりか、新たな危険を生む可能性もある。
(……助けたいと思うことと、何でも自分で確かめに行くことは、違うんだよね)
アリシアは胸の内でそう確かめ、南側通路へ向かった。
階段の手前まで来た時だった。
「あれ……。こっちで合ってるのかな」
小さな声が聞こえた。
通路の端で、一人の下級生が時間割と案内板を交互に見ていた。まだ学院の制服が少し身体に馴染んでいない様子で、鞄を胸元へ抱えたまま、右へ進むべきか左へ進むべきか迷っている。
後ろから学生たちが近づいてくると、その子は慌てて壁際へ寄った。
アリシアは一度足を止めた。
知らない相手に声をかけるのは、今でも緊張する。
相手が本当に困っているのか、それとも自分で考えたいだけなのかも分からない。
それでも、下級生がもう一度案内板を見上げ、不安そうに唇を噛んだのを見て、アリシアは小さく息を吸った。
「……あの、教室を探してるの?」
下級生が振り向いた。
「は、はい。北側の階段を使うつもりだったんですけど、閉まっていて……。南側から行く道が、よく分からなくて」
「……時間割、見せてもらってもいい?」
下級生が差し出した紙には、中央棟二階の教室番号が記されていた。
アリシアは案内板と照らし合わせ、封鎖区域を通らない経路を確かめた。
「……この階段を上がって、右へ曲がると、二階の案内板があるよ。私も途中まで同じ道だから、一緒に行こうか」
下級生の表情が明るくなった。
「ありがとうございます! 昨日も少し迷ってしまって、今日は早く来たんですけど……」
「……私も、最初はよく迷ったよ」
思わずそう答えると、下級生は驚いたように目を丸くした。
「先輩も、ですか?」
「……うん。知らない場所は、今でも少し苦手」
その言葉に、相手は安心したように笑った。
アリシアも小さく微笑み、二人で階段へ向かった。
「おい、アリシア」
肩の上からノアが口を挟んだ。
「案内するのはいいが、自分の教室まで忘れるなよ」
「……忘れないよ」
「どうだかな。人の心配を始めると、自分の予定が頭から抜けることがあるからな」
下級生は黒猫が話したことに驚き、次の瞬間には小さく笑った。
「面白い猫さんですね」
「面白いだけじゃねえぞ。賢くて頼りになる猫だ」
「……自分で言っちゃうんだ」
アリシアが呟くと、ノアは得意げに胸を張った。
階段の途中で下級生と別れたあとも、アリシアの胸には温かな余韻が残っていた。
誰かに声をかけることができた。
それだけなら、以前にも少しずつ経験している。
けれど今日は、相手の困りごとを聞き、案内板で確かめ、一緒に歩くところまで、自分で選んで行動できた。
小さな出来事だったが、アリシアにとっては確かな変化だった。
◇
教室へ入ると、メリルが窓際の席から手を振った。
「おはよう、アリシア! 今日はちょっと遅かったね」
「……うん。途中で、教室を探してる子がいたから」
アリシアが事情を話すと、メリルは嬉しそうに笑った。
「そっか。ちゃんと案内できたんだね」
「……案内板を見ながらだったけど」
「それでいいじゃない。間違えないように確かめたんでしょう?」
メリルの言葉に、アリシアは少し照れたように頷いた。
隣ではテオが教科書を開いていたが、二人の会話を聞いて顔を上げた。
「北側が閉まってから、まだ移動に慣れていない学生もいるみたいだね。案内板は増えたけど、普段と違う道を歩くと、どこにいるのか分からなくなることもあるし」
「だからって、全員が同じ場所に立ち止まったら余計に混雑する」
エドガーが手元の紙を閉じながら言った。
「今朝も階段の手前で人が詰まりかけていた。先生方が移動時刻をずらしてくれているから昨日ほどではないが、まだ注意は必要だろう」
フィオナも席へ戻り、穏やかに頷いた。
「知らない道を通る時は、急いでいる人ほど不安になるものね。少し早く出るだけでも違うのでしょうけれど、授業の都合で難しい人もいるでしょうし」
アリシアは四人の話を聞きながら、朝の下級生を思い出した。
あの子は、昨日迷ったから今日は早く来たと言っていた。
自分なりに工夫していたのだ。
それでも、道が分からなくなってしまった。
「……迷った人が悪いわけじゃないんだよね」
アリシアが静かに言うと、メリルが頷いた。
「うん。今はいつもと違うんだもん。誰だって困ることはあるよ」
その言葉に、アリシアは少しだけ肩の力を抜いた。
以前の自分なら、道を間違えただけでも、ひどく落ち込んでいたかもしれない。
けれど、間違えた時に尋ねられる相手がいれば、やり直すことができる。
それは、今の自分が少しずつ知り始めたことでもあった。
◇
午前の授業では、二人一組で行う魔法制御の実習が予定されていた。
実習室の中央には、小さな木片と薄い布を置いた台が並んでいる。教師は学生たちを集め、今日の課題が単なる魔法の成功ではなく、互いに状況を伝え合いながら安全に作業を進めることだと説明した。
「一人が魔法を使い、もう一人が周囲の状態を確認します。動かす側は、自分の魔法へ意識を集中するため、ほかの変化に気づきにくくなる場合があります。確認する側は、気づいたことを具体的に伝えてください」
教師は実習台の上の布を指さした。
「ただし、何かが動いたからといって、すぐに危険だと決めつける必要はありません。何が、どの方向へ、どの程度動いたのか。それを伝えたうえで、必要なら作業を止めるのです」
アリシアは静かに頷いた。
数日前、落ちかけた照明魔導具を影で支えた時のことを思い出す。
あの時、自分は灯具を落とさないことに集中していた。
周囲の学生がどこにいるのか、職員がいつ到着するのか、すべてを見ていたわけではない。
メリルたちが声をかけ、別の役割を担ってくれたからこそ、無理に影を広げずに済んだのだ。
アリシアはメリルと組み、実習台へ向かった。
最初はアリシアが木片を動かす役割だった。
「準備できた?」
メリルが尋ねる。
「……うん。木片の下に影を入れるね」
アリシアは足元から細い影を伸ばし、木片の下へ滑り込ませた。
魔力を流すと、影は薄い板のように広がり、木片をゆっくり持ち上げる。
その時、メリルが声をかけた。
「アリシア、右側の布が少し揺れてる。影は触れてないけど、木片が右へ傾いてるかもしれない」
アリシアはすぐに動きを止めた。
影の支えを急に変えれば、木片が揺れるかもしれない。
そのため、まず現在の形を保ち、メリルの言葉を確かめる。
「……ありがとう。右側の支えを少し厚くするね」
「うん。今は大丈夫。ゆっくりでいいよ」
アリシアは影をわずかに調整した。
木片の傾きが戻り、布の揺れも収まった。
そのまま元の位置へ下ろすと、教師が頷いた。
「よくできました。確認する側が具体的に伝え、動かす側が一度止めてから調整できています。二人とも、相手の役割を尊重できていますね」
「ありがとうございます!」
「……ありがとうございます」
メリルは嬉しそうに笑い、アリシアへ顔を向けた。
「やったね。アリシアがすぐ止めてくれたから、私も落ち着いて見られたよ」
「……メリルが教えてくれたから、気づけたんだよ」
「じゃあ、二人でできたってことだね」
その言葉に、アリシアは笑顔で頷いた。
続いて役割を交代した。
メリルは風の魔法で木片を少し持ち上げ、アリシアが周囲の状態を確認する。
最初の試みでは、風が木片の下を通り抜け、隣の布を大きく揺らした。
「あっ、ごめん!」
メリルが慌てて魔力を弱める。
アリシアは布の動きを見ながら、落ち着いて声をかけた。
「……大丈夫。布が揺れただけで、木片はまだ台の上にあるよ。もう少し風を低くしてみたらどうかな」
メリルは深く息を吸った。
「うん。ありがとう。今度は、横から少しずつ動かしてみる」
再び風が流れ、木片がゆっくり動いた。
布は少し揺れたものの、先ほどほど大きくは動かなかった。
教師は二人の様子を確認し、風の向きと強さを調整した点を評価した。
メリルは満足そうに息を吐いた。
「難しかったけど、面白かったね」
「……うん。私も、確認する側になってみて、気づくことがあったよ」
アリシアは実習台へ目を向けた。
影を使う時には、どうしても自分の魔力の形へ意識が向く。
けれど、外から見ている人には、別の変化が見えることもある。
その違いを伝え合うことができれば、一人では気づけない危険を減らせる。
アリシアはその学びを、胸の中へ静かに留めた。
◇
昼休みになる少し前、中央棟の掲示板へ新しい連絡が貼られた。
北側補助記録器の現場表示と、中央記録室の受信記録について、一部の時刻が一致していることが確認されたという内容だった。
ただし、異常が報告された時間帯には、依然として欠落が残っている。
原因の特定には至っておらず、北側連絡廊下の封鎖は継続する。
アリシアは掲示を読み、少しだけ考え込んだ。
現場と中央の記録が一致している部分がある。
けれど、問題が起きた時間帯には、まだ確かめられていない部分が残っている。
ノアが肩の上で耳を動かした。
「何か気になるのか?」
「……うん。二つの記録を比べても、分かるところと、分からないところがあるんだなって」
「そりゃそうだろ。記録が二つあれば何でも分かるってわけじゃねえ。両方に同じ欠け方があったら、それだけじゃ埋まらねえこともある」
アリシアは頷いた。
古い資料の調査でも、似たような難しさがあった。
旧札番号と現物整理番号の対応は未確定。
照合原簿は別置と記されているが、所在は分からない。
六つの小区画には五つの印と一つの空白が残されているものの、その用途は確認できていない。
ただし、現在の設備記録と古い整理記録が、同じ仕組みで動いていたという証拠はない。
アリシアはその違いを意識しながら、掲示板を離れた。
中庭へ出ると、雲の切れ間から陽光が差し込み、雨に濡れた石畳を淡く照らしていた。
昼食へ向かう学生たちの声が、少しずつ明るさを取り戻している。
アリシアはその中を歩きながら、今朝の下級生の笑顔を思い出した。
分からない時に、尋ねられる相手がいる。
それだけでも、人は少し安心できるのかもしれない。
◇
昼食の席では、メリルが朝に話していた女子学生のことを教えてくれた。
北側連絡廊下に置いてきた鞄について、担当教師から新しい返事が届いたらしい。
まだ回収はできていない。
けれど、申請が設備担当へ引き継がれたことと、安全を確認できる範囲で順番に対応することが伝えられたという。
「すぐ戻ってくるわけじゃないけど、昨日より安心したって言ってたよ。ちゃんと届いてるって分かったからかな」
メリルはそう言いながら、パンを小さくちぎった。
テオは頷いた。
「返事があると、次に何を待てばいいのか分かるからね。何も分からないまま待つよりは、気持ちが落ち着くと思う」
エドガーは水筒を置き、少し考えた。
「ただ、回収できるかどうかは別だ。安全が確認できない場所なら、無理に取りに行くべきじゃない」
フィオナも穏やかに頷いた。
「そうね。でも、待っている人の気持ちを考えて連絡することは大切だわ。返事がないままだと、忘れられてしまったのではないかと不安になることもあるでしょうから」
アリシアはその言葉を聞き、胸の奥が少し温かくなるのを感じた。
返事が届くこと。
それは、すべてが解決したという意味ではない。
けれど、相手が自分の言葉を受け取ってくれたと分かるだけで、少し安心できることがある。
生活観測区画の子供が、帰りたいと伝えられる相手がいたら安心できると話していたことを思い出す。
あの子が考えていたのは、絵の中の橋と帰り道についてだった。
現実の外出を決めたわけではない。
それでも、自分の気持ちを誰かへ伝えたいという思いは、アリシアにも理解できるものだった。
「……返事って、何かが終わったことを知らせるだけじゃないんだね」
アリシアが呟くと、フィオナが顔を向けた。
「どういうこと?」
「……まだ終わってなくても、ちゃんと聞いてるよって伝えることができるんだなって」
フィオナは少し考え、柔らかく微笑んだ。
「ええ。そうね。相手が待っていることを知っていると伝えるだけでも、意味があるのだと思うわ」
メリルも頷いた。
「それなら、私も何か頼まれた時は、すぐにできなくても返事するようにしようかな。できるかどうか分からない時は、そう言えばいいんだもんね」
「それが一番いいと思うよ」
テオが笑う。
「できないことを、できるって言っちゃうよりずっといい」
エドガーも同意し、五人の会話はそのまま午後の授業の予定へ移っていった。
アリシアは仲間たちの声を聞きながら、以前よりも自然にその輪の中へいられることを嬉しく感じていた。
◇
午後の授業が終わると、アリシアは資料室へ向かった。
今日はエレナから新しい連絡が来ていたわけではない。
けれど、昨日整理したノートを見直すうちに、一つだけ確かめたいことができていた。
資料室の受付では、エレナ・ヴァイスが書類を揃えていた。
アリシアの姿を見つけると、エレナは穏やかに微笑んだ。
「こんにちは、アリシアさん。今日は何か確認したいことがありますか?」
「……はい。昨日の話を聞いて、少し考えたことがあって」
アリシアは鞄から調査用ノートを取り出し、六つの小区画について書いた頁を開いた。
「……この区画って、最初の五つには印があって、最後の一つが空白なんですよね。でも、その印が何を意味しているのかは、まだ分かっていないんですよね」
エレナは頷いた。
「ええ。現時点では、用途を確定できる資料は見つかっていません」
アリシアは少しだけ息を整えた。
「……もし、これが作業の完了を示す印だったとしても、最後の空白が何を意味するのかは、まだ分からないですよね」
「そのとおりです。仮に完了印だったとしても、未完了なのか、記入漏れなのか、そもそも対象外だったのかは、別に確認する必要があります」
アリシアは頷いた。
空白がある。
その事実だけでは、何かが失われたとは言えない。
何も記されていない理由を確かめる必要がある。
エレナは少し考え、机の上の一覧へ目を向けた。
「ただ、今日一つだけ新しいことが分かりました」
アリシアは顔を上げた。
「……新しいこと、ですか?」
「はい。原本の状態確認を依頼していた保存担当から、追加の連絡がありました」
エレナは一覧の一箇所を指さした。
「六つの小区画が記された頁について、複写に見える細い線は、紙の折り目である可能性が高いそうです。ただし、原本を傷めずに確認できる範囲での判断なので、完全に確定したわけではありません」
アリシアは少し驚いたように目を見開いた。
紙の折り目。
もしそうなら、六つの区画が最初から一続きの欄として使われていたとは限らない。
エレナは続けた。
「また、印の形についても、複写では細部がつぶれている部分があるそうです。最初の五つが異なる形に見えることは確認できますが、それぞれ別の意味を持つ印なのか、同じ用途の印が摩耗や複写の状態によって違って見えるのかは、まだ分かりません」
アリシアはゆっくり頷いた。
これまで、五つの印が違う形をしていることに、何か意味があるのかもしれないと考えていた。
けれど、複写の状態によって見え方が変わる可能性もある。
そのことを考えれば、印の違いだけで何かを判断することはできない。
「……ありがとうございます。分からないことが、少しはっきりした気がします」
エレナは穏やかに微笑んだ。
「そうですね。調査では、答えが増えるだけでなく、どこまで分からないのかが明確になることも大切です」
アリシアはその言葉を胸に留めた。
分からないことを、分からないまま残す。
それは、何も進んでいないという意味ではない。
むしろ、間違った答えへ進まないための、大切な確認なのだ。
◇
資料室を出たあと、アリシアは生活観測区画へ向かった。
夕方の廊下には、窓から差し込む光が長い影をつくっている。
中庭では、学生たちが授業を終えて寮へ戻り始めていた。
アリシアはその人の流れを横目に見ながら、ゆっくり歩いた。
ノアは隣を歩き、時折尻尾を揺らしている。
「今日は少し進んだな」
「……うん。でも、六つの区画が何を意味してるのかは、まだ分からないよ」
「そりゃそうだ。紙の折り目かもしれねえって分かっただけでも、昨日よりはましだろ」
アリシアは小さく笑った。
「……ノアって、そういう言い方するよね」
「事実を言ってるだけだ。お前が勝手に難しく考えすぎなんだよ」
その言葉に、アリシアは少しだけ肩の力を抜いた。
資料室での調査は、すぐに答えが出るものではない。
けれど、何を確かめる必要があるかは、少しずつ明らかになっている。
それだけでも、前へ進んでいるのだと思えた。
◇
生活観測区画の談話室では、子供が机の上に絵を広げていた。
顔のない存在はその隣に座り、胸元の十一の光を安定して灯している。
覆われた木箱は、いつもの場所に置かれたままだった。
アリシアが入ってくると、子供は嬉しそうに顔を上げた。
「アリシア、おかえり!」
「……ただいま。今日は何を描いてるの?」
子供は絵を指さした。
橋の手前には丸い印があり、橋の向こうへ続く道の途中には、小さな石の目印が描かれている。
今日は、その石の隣に、小さな線が一本描き加えられていた。
「……これは?」
「昨日、石の目印を描いたでしょう? でも、石だけだと、ほかの石と間違えちゃうかもしれないから、隣に小さな木を描こうかなって思ったんだ」
アリシアは絵を見つめた。
まだ木の形にはなっていない。
ただ、石の隣に短い線が一本あるだけだった。
「……いいね。石と木が一緒にあれば、見つけやすいかもしれないね」
子供は嬉しそうに頷いた。
「うん。でも、まだ木にするかどうかは決めてないんだ。花でもいいし、旗でもいいし」
アリシアは微笑んだ。
「……少しずつ決めていけばいいと思うよ」
子供は安心したように笑い、色鉛筆を机へ置いた。
その時、顔のない存在がゆっくりと手を持ち上げた。
指先は、いつものように橋の下の青い線へ向けられている。
子供はその動きを見て、少しだけ首を傾げた。
「また、そこなんだね」
顔のない存在は、しばらくその位置へ手を向けたままだった。
アリシアは静かに見守った。
何度も同じ場所を指している。
けれど、その意味はまだ分からない。
子供は少し考え、青い線へ目を向けた。
「……ねえ、ここが水だったら、橋の下を通って、どこかへ流れていくのかな」
アリシアは少し考えた。
「……水だったら、流れていくこともあると思う。でも、この青い線が水かどうかは、まだ決めてないんだよね」
「うん。だから、まだ分からない」
子供はそう答え、顔のない存在へ微笑みかけた。
「でも、気になるんだね。また一緒に考えよう」
顔のない存在は、ゆっくりと手を下ろした。
アリシアはその様子を見ながら、今日の授業で学んだことを思い出した。
伝えること。
受け取ること。
そして、受け取ったあとに行動すること。
子供と顔のない存在のやり取りも、少しずつ変わっているのかもしれない。
ただし、顔のない存在が何を伝えようとしているのかは、まだ分からない。
アリシアはその違いを意識しながら、二人の様子を見守った。
◇
夜、自室へ戻ったアリシアは、机へ向かって日記帳を開いた。
窓の外には薄い雲が流れ、遠くの学院棟にはいくつかの灯りが点っている。
北側連絡廊下は、今日も閉鎖されたままだった。
けれど、設備担当の職員たちは、少しずつ確認を進めている。
アリシアは今日の出来事を書き始めた。
朝、教室を探していた下級生を案内したこと。
授業では、二人で魔法を使う時に、伝えることと受け取ることの両方が大切だと学んだこと。
北側の設備について、現場表示と中央の受信記録の一部が一致していると確認されたこと。
資料室では、六つの小区画が記された頁の細い線が、紙の折り目である可能性が高いと分かったこと。
そして、生活観測区画では、子供が帰り道の目印を少しずつ考えていたこと。
アリシアは筆を止め、少しだけ考えた。
(……今日も、全部の答えが出たわけじゃない。でも、少しずつ、何を確かめればいいのかが分かってきた)
ノアは寝台の上で丸くなり、アリシアを見ていた。
「今日はもう終わりか?」
「……うん。ちゃんと休むよ」
「よし。最近のお前にしちゃ、ずいぶん聞き分けがいいな」
アリシアは小さく笑った。
「……ノアって、褒める時も素直じゃないよね」
「俺はいつだって素直だぞ。お前が勝手に嫌味だと思ってるだけだ」
ノアは得意げに尻尾を揺らした。
アリシアは日記帳を閉じ、灯りを落とした。
古い目録の六番目の空白は、まだ埋まっていない。
照合原簿の所在も分からない。
帰還印の意味も、東側と西側の反応の仕組みも、まだ確かめられていない。
けれど、今は急いで答えを出す必要はない。
確認できることを一つずつ積み重ね、分からないことは分からないまま残しておく。
それが、今の自分にできることだった。
アリシアは寝台へ入り、ノアの温かな毛並みにそっと触れた。
窓の外では、夜風が木々の葉を静かに揺らしている。
明日もまた、何か新しいことが分かるかもしれない。
それでも、分からないことを無理に埋めようとせず、自分の足で確かめていこう。
そんな思いを胸に、アリシアは穏やかな眠りへ落ちていった。




