第314話 北回廊に残された二つの記録と、影が守る帰り道
中央棟の北側連絡廊下に設けられた柵の向こうで、設備担当の職員が膝をついていた。
朝の光はまだ弱く、廊下の高い窓から差し込む灰色がかった明るさだけでは、床に置かれた工具の細かな刻印までは見えない。職員は携帯用の照明魔導具を低い位置へ置き、壁際の点検口を開いたまま、内部に収められた細い導線を一本ずつ確認していた。
その少し後ろでは、別の職員が記録板を抱えている。
「北側補助記録器、現場表示は正常。昨日の停止時刻以降、表示値に大きな乱れはありません。ただし、中央記録室へ戻る確認票は、まだ欠けたままです」
記録板を持つ職員が読み上げると、点検口の前にいた年配の職員は、すぐには返事をしなかった。導線の接続部分を目で追い、器具へ触れる前に、隣の職員へ現在の表示をもう一度確認させる。
「現場で正常に見えることと、記録が正常に届いていることは別だ。そこを混ぜるな。昨夜の報告では、中央側の受信欄にも欠落がある。まずは、どこまで確かめられたかを揃えよう」
「はい。北側の現場表示は確認済み、中央側の受信記録は一部未確認として残します」
年配の職員は頷き、ようやく工具へ手を伸ばした。
廊下の奥では、以前傾いた照明魔導具のあった場所も、引き続き立ち入りが制限されている。あの事故で緩んだ灯具と、今回の記録欠落が同じ原因によるものかどうかは、まだ判明していなかった。
設備担当は二つの問題を別々の項目として記録し、確認できた部分だけを順番に埋めている。
その作業を見守っていた責任者が、記録板の余白へ指を置いた。
「今朝の確認結果を中央へ送ってくれ。ただし、送信した時刻と、中央側が受け取った時刻は別に残す。受領の返事が来るまでは、この欄に完了印を付けないように」
若い職員は頷き、記録板を抱え直した。
北側連絡廊下には、工具が金属へ触れる小さな音と、遠くの中庭から届く学生たちの声が重なっていた。
学院の一日は、すでに始まっている。
けれど、この場所では、まだ終わっていない確認があった。
◇
アリシアが中央棟へ到着した時、南側の通路はいつもより混雑していた。
封鎖区域を避けるために移動経路が変わり、授業へ向かう学生たちが同じ階段へ集まっている。職員が通路の途中に立ち、急ぐ学生へ声をかけながら、人の流れが一箇所へ集中しないよう誘導していた。
アリシアは鞄を身体の前へ寄せ、壁際をゆっくり歩いた。
肩の上に乗ったノアは、行き交う学生たちの足元を見下ろしている。
「昨日より人が多いな。急ぐなよ、アリシア。前の奴が止まったら、お前も止まれ」
「……うん。分かってる」
アリシアは頷いたが、階段へ近づくにつれて、周囲の声が少し大きくなっていくのを感じた。
学生たちは授業に遅れないよう歩いているだけで、誰かが騒ぎを起こしているわけではない。それでも、人が集まれば足音も会話も重なり、普段は気にならない小さな音まで強く響く。
アリシアは以前なら、このような場所で自分の歩く速度を決めることさえ難しかった。
後ろから誰かが近づくと、邪魔になっているのではないかと不安になり、必要以上に急いでしまうことがあった。
けれど、今日は違った。
前を歩く学生との距離を確かめ、階段の手前で一度足を止める。後ろから来た学生が少し驚いたように速度を落としたが、アリシアは慌てて走り出さず、通路が空くのを待った。
「……先にどうぞ」
隣にいた下級生へ声をかけると、相手は小さく頭を下げた。
「ありがとうございます」
その学生は友人と一緒に階段を上がり、アリシアは少し間を置いてから後に続いた。
ノアが耳を動かした。
「今のは悪くなかったな。譲るなら譲る、進むなら進む。どっちつかずで立ち尽くすより、ずっと安全だ」
「……ありがとう。でも、まだ少し緊張するよ」
「緊張するのは勝手だ。足元を見られなくなるほど慌てなきゃ、それでいい」
アリシアは小さく笑った。
ノアの言葉はいつも少し厳しい。
けれど、その厳しさに以前ほど身構えなくなったのは、彼が自分を急かしているのではなく、落ち着いて歩けるよう支えてくれていると分かっているからだった。
◇
教室へ入ると、メリルが窓際の席から手を振った。
その隣ではテオが教科書を開き、エドガーは朝の掲示内容を書き写している。フィオナは机の上に置いた紙を揃えながら、少し離れた席の学生へ何かを説明していた。
アリシアが近づくと、メリルは嬉しそうに声をかけた。
「おはよう、アリシア。今朝、北側の点検が少し進んだみたいだよ」
「……そうなの?」
「うん。掲示板にはまだ詳しいことは書いてなかったけど、設備担当の人が、現場の表示を確認できたって先生に話してたんだって」
アリシアは少し考えた。
現場の表示が確認できた。
それは、設備の状態を知るための一つの情報だろう。
けれど、それだけで記録が正常に戻ったとは限らない。
「……現場の表示が確認できたんだね。でも、中央の記録が戻ったかどうかは、まだ分からないのかな」
メリルは頷いた。
「そうみたい。だから、封鎖は続くんだって」
テオが顔を上げた。
「設備担当の人たちは、現場と中央の両方を調べてるんだね。昨日の説明でも、記録が戻らない理由は一つじゃないって言ってたし」
エドガーは手元の紙を閉じた。
「原因を一つに決める前に、どこまで確認できたかを揃える必要があるんだろう。現場の表示が正常でも、記録の経路に問題があれば、中央では状態を正しく把握できない」
フィオナも席へ戻り、穏やかに頷いた。
「だから、まだ通れないのね。少し不便だけれど、確認が終わるまでは仕方ないわ」
アリシアは四人の言葉を聞きながら、胸の奥に小さな安心を感じていた。
誰かが急いで答えを出そうとしているわけではない。
確認できたことを少しずつ積み重ね、その結果に合わせて判断を変えている。
それは、昨日まで授業で学んできたことと同じだった。
◇
午前の授業では、魔法を使用する際の周囲への影響について学ぶことになった。
教師は教室の中央へ小さな台を置き、その上に軽い布と木片を並べた。学生たちは班ごとに魔法を使い、物を動かす際に周囲のものへどのような影響が出るかを観察する。
ただし、今日は大きな力を使うことは求められていない。
むしろ、必要以上に魔力を広げず、狭い範囲で安定して扱うことが課題だった。
教師は学生たちへ説明した。
「魔法を使う時、目的のものだけを見ていると、周囲への影響を見落とすことがあります。特に複数の人がいる場所では、魔法が届く範囲を自分で把握することが重要です」
アリシアは静かに頷いた。
数日前の廊下では、落ちかけた照明魔導具を影で支えた。
あの時は、誰かが怪我をする前に動かなければならなかった。
けれど、影を広げれば、周囲の人が驚いたり、足元が見えにくくなったりする可能性もある。
自分の魔法が誰かを守るためのものであっても、使い方を誤れば別の危険を生むことがある。
アリシアはそのことを意識しながら、実習台へ向かった。
最初の課題では、木片を少しだけ持ち上げ、隣に置かれた布を動かさずに元の位置へ戻す。
アリシアは影を細く伸ばし、木片の下へ滑り込ませた。
影の先端が木片へ触れると、彼女は一度動きを止めた。
布との距離を確かめ、必要な部分だけへ魔力を集中させる。
木片がゆっくり持ち上がった。
隣の布は、ほとんど動かなかった。
アリシアはそのまま木片を元の位置へ戻し、影を静かに引いた。
教師は頷いた。
「よくできました。目的のものだけでなく、周囲の状態も確認できていますね」
「……ありがとうございます」
アリシアは小さく頭を下げた。
メリルは隣で嬉しそうに笑っていたが、今回はすぐに褒め言葉を口にせず、自分の課題へ目を向けた。
彼女は風の魔法で木片を動かそうとしたが、最初の試みでは隣の布が少し揺れた。
「あっ……。やっぱり、風だと周りにも影響が出ちゃうね」
メリルは少し困ったように笑った。
アリシアはその様子を見ながら、少し考えた。
「……風を当てる場所を、もう少し低くしてみたらどうかな。木片の上じゃなくて、横から少しずつ動かすように」
メリルは顔を上げた。
「なるほど。最初から持ち上げようとしなくてもいいんだね」
彼女はもう一度姿勢を整え、魔力を弱めてから風を送った。
木片はゆっくりと横へ動き、隣の布は先ほどより小さく揺れただけだった。
メリルは嬉しそうに笑った。
「できた! ありがとう、アリシア!」
「……ううん。私も、メリルの魔法を見て勉強になったよ」
そのやり取りを見ていたノアが、机の端から口を挟んだ。
「ま、影も風も、使い方次第ってことだな。力任せにやりゃいいってもんじゃねえ」
メリルは少し頬を膨らませた。
「ノア、たまには素直に褒めてくれてもいいのに」
「今、ちゃんと褒めただろ。使い方次第でうまくいくって言ってやったんだからな」
周囲の学生たちから小さな笑いが起きた。
アリシアも思わず笑ってしまった。
授業の中で交わされるこうした会話が、以前よりずっと自然に感じられるようになっていた。
◇
昼休みになる少し前、中央棟の掲示板へ新しい連絡が出された。
設備担当が北側補助記録器の現場表示を確認したこと。
中央記録室では、同じ時間帯の受信記録に一部欠落が残っていること。
そして、現場と中央の記録を照合するため、引き続き点検を行うこと。
アリシアは掲示を読み、少しだけ目を細めた。
現場の記録。
中央の記録。
同じ設備についての情報なのに、確認できている範囲が違う。
その違いを揃えるために、設備担当が調べている。
アリシアはノアへ目を向けた。
「……二つの記録を比べてるんだね」
「ああ。片方だけ見ても分からねえなら、両方を確かめるしかねえだろ」
「……うん。でも、古い資料の照合原簿とは、まだ関係ないよね」
「当たり前だ。今の設備記録と、昔の整理記録が同じものなわけねえ。似た考え方があっても、それだけでつながるわけじゃねえからな」
アリシアは頷いた。
それでも、二つの記録を照らし合わせるという考え方は、古い資料を調べる時にも役立つかもしれない。
送った側の記録だけでは分からないことがある。
受け取った側の記録だけでも、分からないことがある。
だから、両方を確かめる。
その考えを、アリシアは心の中へ静かに留めた。
◇
昼食の席では、エドガーが新しい掲示について話し始めた。
「現場表示が正常でも、中央の受信記録が欠けているなら、設備担当は慎重になるだろうな。どこで記録が途切れたのかを確かめないと、同じことがまた起きる可能性もある」
テオは頷いた。
「でも、今の段階では、どこが悪いのか分からないんだよね。だから、原因を決めつけないようにしないと」
フィオナは水筒を置き、少し考えてから口を開いた。
「確認する人たちも大変でしょうね。授業の予定を変えるだけでも、先生方は忙しそうだったもの」
メリルは頷き、朝に話していた女子学生のことを思い出したようだった。
「そういえば、荷物の回収申請をした子、まだ返事は来てないんだって。でも、先生が申請を受け付けたって確認してくれたから、昨日より落ち着いてたよ」
アリシアはその言葉を聞き、少しだけ安心した。
荷物が戻ってきたわけではない。
けれど、申請が受け付けられたことを確認できた。
それだけでも、待つ人の気持ちは変わる。
「……返事が来るまでの間も、何もできないわけじゃないんだね」
アリシアが呟くと、フィオナが微笑んだ。
「そうね。必要なことを伝えて、相手が受け取ったと分かれば、あとは待つこともできるもの」
メリルは少し考え、パンを口へ運んだ。
「でも、待つのって難しいよね。私だったら、何度も先生に聞きたくなっちゃうかも」
エドガーは苦笑した。
「聞くこと自体は悪くないが、同じことを何度も聞けば、相手の仕事を止めることになる。いつ頃確認できるか分からないなら、連絡が来る方法を決めておく方がいいだろうな」
テオも頷いた。
「そうすれば、待ってる間に別のことができるしね」
アリシアは仲間たちの会話を聞きながら、昨日、資料室へ行かずに図書室でノートを整理したことを思い出した。
エレナが調べてくれている間、自分もできることを進める。
返事が来るまで、ただ不安になって待つだけではない。
その考え方が、少しずつ自分の中へ根づいているように感じられた。
◇
午後の授業が終わると、アリシアは資料室へ向かった。
今日はエレナから連絡が来ていたわけではないが、昨日整理したノートの内容について、一つだけ確認したいことがあった。
資料室の入口では、数人の学生が閲覧申請の用紙を書いている。
アリシアは順番を待ち、受付の前へ進んだ。
エレナ・ヴァイスは机の上の書類を揃えていたが、アリシアの姿を見つけると穏やかに微笑んだ。
「こんにちは、アリシアさん。今日は何か確認したいことがありますか?」
「……はい。昨日、自分のノートを整理していて、少し気になったことがあって」
アリシアは鞄から調査用ノートを取り出し、古い目録の六番目の空白と、引き継ぎ記録の六つの小区画について書いた頁を開いた。
「……この二つは、どちらも最後が空白になっているんですけど、そもそも何を記録する欄だったのか、まだ分かっていないんですよね」
エレナは頷いた。
「ええ。古い目録の欄については、周囲の記載から整理項目の一部だった可能性がありますが、正確な用途は確定していません。引き継ぎ記録の小区画についても、印の意味や並び方はまだ調査中です」
アリシアは少しだけ息を整えた。
「……だから、空白に何があったのかを考える前に、何を書くための欄だったのかを確かめた方がいいと思ったんです」
エレナはその言葉を聞き、少し驚いたように目を見開いた。
そして、ゆっくり微笑んだ。
「とても大切な視点ですね。空白そのものに意味がある場合もありますが、まず欄の用途を知らなければ、何が欠けているのか判断できません」
アリシアは少し照れたように俯いた。
エレナは机の引き出しから、別の整理資料の一覧を取り出した。
「実は、原本の状態確認について、担当部署から返事がありました」
アリシアは顔を上げた。
「……返事が?」
「はい。ただし、まだ原本を直接確認できたわけではありません。保存担当から、該当頁の状態について、追加の確認が必要だという連絡が来ています」
エレナは一覧の一箇所を指さした。
「複写に見える細い線が、欄の区切りなのか、紙の折り目なのかについては、現時点では判別できないそうです。保存状態を損なわない方法で確認できるか、担当者が検討しています」
アリシアは頷いた。
まだ答えは出ていない。
けれど、確認が進んでいることは分かった。
「……ありがとうございます。急いで確かめようとしなくても、大丈夫です」
エレナは穏やかに微笑んだ。
「そう言ってもらえると助かります。古い資料は、一度傷めてしまうと元に戻せないことがありますから。分からない部分があっても、保存を優先しなければならない場合があるんです」
アリシアはその言葉を聞き、深く頷いた。
自分が知りたいからといって、資料を傷つけてよいわけではない。
確かめる方法にも、守らなければならない条件がある。
それは、生活観測区画で子供や顔のない存在の意思を尊重することにも、少し似ているように感じられた。
ただし、資料と人は同じではない。
大切にする理由も、守るべきものも違う。
アリシアはその違いを意識しながら、エレナの説明を聞き続けた。
◇
資料室を出たあと、アリシアは生活観測区画へ向かった。
夕方の廊下には、窓から差し込む光が長い影をつくっている。
中庭では、学生たちが授業を終えて寮へ戻り始めていた。
アリシアはその人の流れを横目に見ながら、ゆっくり歩いた。
ノアは隣を歩き、時折尻尾を揺らしている。
「今日は少し進んだな」
「……うん。でも、まだ分からないことも多いよ」
「そりゃそうだ。全部分かったら、調べる必要なんてねえからな」
アリシアは小さく笑った。
「……ノアって、そういう言い方するよね」
「事実を言ってるだけだ。お前が勝手に難しく考えすぎなんだよ」
その言葉に、アリシアは少しだけ肩の力を抜いた。
資料室での調査は、すぐに答えが出るものではない。
けれど、何を確かめる必要があるかは、少しずつ明らかになっている。
それだけでも、前へ進んでいるのだと思えた。
◇
生活観測区画の談話室では、子供が机の上に絵を広げていた。
顔のない存在はその隣に座り、胸元の十一の光を安定して灯している。
覆われた木箱は、いつもの場所に置かれたままだった。
アリシアが入ってくると、子供は嬉しそうに顔を上げた。
「アリシア、おかえり!」
「……ただいま。今日は何を描いてるの?」
子供は絵を指さした。
橋の手前には丸い印があり、橋の向こうへ続く道の途中には、小さな点がいくつか描かれている。
今日は、その点の一つが、少しだけ大きくなっていた。
「……これは?」
「昨日、目印を何にするか考えてたでしょう? 今日は、一つだけ石にしてみたんだ」
アリシアは絵を見つめた。
道の途中に、小さな灰色の石が描かれている。
ほかの点は、まだ何になるか決まっていない。
「……いいね。これなら、帰ってくる時に見つけやすいかもしれないね」
子供は嬉しそうに頷いた。
「うん。でも、全部石にするかどうかは、まだ決めてないんだ。木でもいいし、花でもいいし」
アリシアは微笑んだ。
「……少しずつ決めていけばいいと思うよ」
子供は安心したように笑い、色鉛筆を机へ置いた。
その時、顔のない存在がゆっくりと手を持ち上げた。
指先は、いつものように橋の下の青い線へ向けられている。
子供はその動きを見て、少しだけ首を傾げた。
「また、そこなんだね」
顔のない存在は、しばらくその位置へ手を向けたままだった。
アリシアは静かに見守った。
何度も同じ場所を指している。
けれど、その意味はまだ分からない。
子供は少し考え、青い線へ目を向けた。
「……ねえ、ここが水だったら、橋の下を通って、どこかへ流れていくのかな」
アリシアは少し考えた。
「……水だったら、流れていくこともあると思う。でも、この青い線が水かどうかは、まだ決めてないんだよね」
「うん。だから、まだ分からない」
子供はそう答え、顔のない存在へ微笑みかけた。
「でも、気になるんだね。また一緒に考えよう」
顔のない存在は、ゆっくりと手を下ろした。
アリシアはその様子を見ながら、今日の授業で学んだことを思い出した。
目的のものだけでなく、周囲の状態も確かめること。
そして、何かを動かす時には、必要以上に力を広げないこと。
子供の絵についても、同じように、必要以上に意味を与えない方がよいのかもしれない。
まだ決まっていない部分は、そのまま残しておく。
本人が考えられる時間を守る。
それが、今の自分にできることだった。
◇
夜、自室へ戻ったアリシアは、机へ向かって日記帳を開いた。
窓の外には薄い雲が流れ、遠くの学院棟にはいくつかの灯りが点っている。
北側連絡廊下は、今日も閉鎖されたままだった。
けれど、設備担当の職員たちは、少しずつ確認を進めている。
アリシアは今日の出来事を書き始めた。
朝、南側通路が混雑していたこと。
授業では、魔法を使う時に周囲への影響を確かめる大切さを学んだこと。
北側の設備について、現場表示と中央の受信記録を別々に確認していること。
資料室では、古い引き継ぎ記録の原本状態について、追加確認が必要だと分かったこと。
そして、生活観測区画では、子供が帰り道の目印の一つを石にしたこと。
アリシアは筆を止め、少しだけ考えた。
(……今日も、全部の答えが出たわけじゃない。でも、何を確かめればいいのかは、少しずつ分かってきた)
ノアは寝台の上で丸くなり、アリシアを見ていた。
「今日はもう終わりか?」
「……うん。ちゃんと休むよ」
「よし。最近のお前にしちゃ、ずいぶん聞き分けがいいな」
アリシアは小さく笑った。
「……ノアって、褒める時も素直じゃないよね」
「俺はいつだって素直だぞ。お前が勝手に嫌味だと思ってるだけだ」
ノアは得意げに尻尾を揺らした。
アリシアは日記帳を閉じ、灯りを落とした。
古い目録の六番目の空白は、まだ埋まっていない。
照合原簿の所在も分からない。
帰還印の意味も、東側と西側の反応の仕組みも、まだ確かめられていない。
けれど、今は急いで答えを出す必要はない。
確認できることを一つずつ積み重ね、分からないことは分からないまま残しておく。
それが、今の自分にできることだった。
アリシアは寝台へ入り、ノアの温かな毛並みにそっと触れた。
窓の外では、夜風が木々の葉を静かに揺らしている。
明日もまた、何か新しいことが分かるかもしれない。
それでも、分からないことを無理に埋めようとせず、自分の足で確かめていこう。
そんな思いを胸に、アリシアは穏やかな眠りへ落ちていった。




