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『忘れられた六つ目の神器に選ばれました 〜人見知りな闇の少女と毒舌黒猫の学園英雄譚〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第311話 返事の届かない場所へ、影は道をつくる


 朝の学院に、普段とは違う鐘が鳴った。


 授業の始まりを知らせる澄んだ音ではない。低く、短い鐘が二度続き、間を置いてもう一度響くと、中庭を横切っていた学生たちが足を止めた。霧の薄く残る石畳の向こうでは、中央棟の入口に立つ職員が掲示板へ紙を留め、近くにいた学生へ落ち着いて別の通路を使うよう説明している。


 アリシアは正門から続く坂道の途中で立ち止まった。鞄の持ち手を握る指に力が入り、肩に乗っていたノアが耳を立てる。数日前、照明魔導具が傾いた廊下の光景が脳裏をよぎったが、今朝の鐘だけで何かが再び壊れたと決めるわけにはいかなかった。


「……ノア、あの鐘は?」


「授業開始じゃねえのは確かだな。走るなよ、アリシア。何が起きたか知らねえうちに人の流れへ突っ込むのが一番まずい」


 ノアの言葉に頷き、アリシアは道の端へ寄った。学生たちの間では、北側の通路がまた閉鎖されたのではないか、朝の点検で何か見つかったのではないかと囁きが交わされている。だが、そのどれも伝聞にすぎず、職員の説明を聞いた者が戻ってくるまで、確かな情報はなかった。


 やがて掲示板の前から戻ってきた上級生が、友人へ向かって声をかけた。


「中央棟の一部で、朝の点検中に照明系統の応答が途切れたんだって。怪我人は出ていないけど、設備担当が確認するまで北側の連絡廊下は通れないそうだ」


 アリシアはその言葉を聞き、無意識に胸元へ手を当てた。冷たさも痛みもない。身体は落ち着いているのに、返事が途切れたという言葉だけが、昨夜調査用ノートへ書いた「帰還印」と重なって、胸の奥に残った。


(……設備の応答と、昔の引き継ぎ記録は別のこと。似た言葉が出てきたからって、結びつけちゃいけない)


 自分へそう言い聞かせながら、アリシアは職員のいる掲示板へ近づいた。掲示には北側連絡廊下の立ち入り制限と、中央棟の授業を一部別室へ移すことが記されている。設備の故障原因や復旧時刻については、まだ何も書かれていなかった。


 職員は学生たちへ、南側通路を使う際も急がず、廊下の混雑を避けるよう呼びかけていた。アリシアはその指示を確かめてから歩き出し、ノアは彼女の肩で尻尾を揺らした。


「今朝は資料より先に、目の前の道を確かめろってことだな」


「……うん。みんなにも、ちゃんと伝えよう」


 アリシアは足元の濡れた石畳を踏みしめ、教室へ向かった。まだ何も分かっていない朝だったが、分からないままでもできることはある。そう思えるようになった自分の変化を、彼女は少しだけ感じていた。


     ◇


 教室へ着くと、メリルが窓際の席から立ち上がった。いつもなら勢いよく手を振るところだが、今日は周囲の学生たちが掲示の内容を話しているせいか、声を抑えてアリシアを呼んだ。


「おはよう、アリシア。北側がまた使えなくなったんだってね。今朝、別の組の子が、中央棟の階段のところで灯りが消えたって話してたんだけど……」


「……掲示には、照明系統の応答が途切れたって書いてあったよ。原因はまだ調べてるみたい」


 メリルは口を閉じ、少し気まずそうに笑った。自分も噂を聞いて不安になっていたのだろう。アリシアが責めるような顔をしなかったので、彼女は安心した様子で椅子へ座り直した。


「そうだよね。灯りが消えたのかどうかも、どこのことなのかも、私、ちゃんと聞いてなかった。昨日の実習であれだけ確認する範囲が大事だって習ったのに、朝から慌てちゃった」


「……私も、鐘を聞いた時はびっくりしたよ。ノアが止めてくれなかったら、急いで掲示板へ行こうとしてたかもしれない」


「まったく、どいつもこいつも鐘に追い立てられすぎだ。鳴らした方は走れなんて一言も言ってねえだろ」


 ノアの皮肉に、メリルはようやくいつもの調子で笑った。テオとエドガーも席へ戻ってきて、二人が確認した情報を机の上で照らし合わせる。フィオナは窓の外の人の流れを見ながら、南側通路に学生が集中していることを心配していた。


 始業前に担当教師が教室へ入り、中央棟の一部の設備を点検するため、午前の実技授業を教室での演習に変更すると告げた。廊下での事故と今朝の応答途絶との関係は調査中であり、関連があるともないとも、現時点では断定できないという説明だった。


 教室の後方から、一人の学生が手を挙げた。


「先生、応答が途切れたっていうのは、照明が全部消えたという意味ですか?」


「いい質問ですね。現時点で私が受けている連絡では、設備の状態を確認するための応答が一部で戻らなくなった、ということです。照明が消えた範囲や原因について、授業担当の私が確かな説明をすることはできません。詳しいことは設備担当の報告を待ちましょう」


 教師は曖昧な部分を曖昧なままにせず、どこまでが自分の知る情報かを明らかにした。アリシアはその姿を見て、昨日まで学んだ記録の扱い方が、紙の上だけのものではないと感じた。


 予定が変わった授業では、設備異常の連絡を受けた際、何を確かめてから次の担当者へ伝えるかを班ごとに考えることになった。教師は学生たちへ、架空の事例を記した紙を配った。そこには、灯りの一部が弱まったという報告、別の場所で聞こえた金属音、そして確認できていない通路の状態が並べられている。


 エドガーは紙を読み終えると、全員へ目を向けた。


「まず、同じ原因だと決めつけないことだな。連絡を受けた時刻も違うし、報告した人が見た範囲も違う」


 テオは記入欄を指し、最初に必要なのは現在の安全な通路と、立ち入りを避ける場所の確認だと提案した。フィオナは、移動に時間のかかる学生や不安で動けなくなる人への配慮を加え、メリルは大きな声で呼びかけるだけでは聞き取れない人がいるかもしれないと気づいた。


 アリシアは四人の意見を聞きながら、紙の端へ小さな線を引いた。


「……連絡を送ったあと、相手が受け取ったかどうかも確認した方がいいと思う。伝えたつもりでも、届いてなかったら、次の人は動けないから」


 エドガーが頷き、教師の方へ視線を向けた。


「受領確認まで含める、ということか。たしかに、報告した事実だけでは次の担当者が知ったことにはならないな」


 アリシアは小さく頷いた。昨日、資料室で見た帰還印という言葉が頭に浮かんだが、今の提案は古い記録の意味を知っているからではない。目の前の課題を考えた時、相手へ届いたことを確かめる必要があると思ったのだ。


 教師は各班の意見を聞き、連絡経路の確認が重要であることを説明した。ただし、受領の返事がない場合には、その理由を勝手に決めず、別の連絡手段を使うか、安全な範囲で確認する必要があるとも付け加えた。


 アリシアはその説明を聞き、ノートへ書き留めた。返事がないことは、拒絶されたという意味でも、何かが壊れたという意味でもない。確かめる方法が残っているなら、そこで立ち止まって考えることができる。


     ◇


 昼前になると、南側通路の混雑は朝より落ち着いていた。授業の移動時刻をずらしたため、学生たちが一度に集まらなくなったのだと職員が説明している。


 アリシアたちは昼食を取るため、中央棟から少し離れた中庭の屋根付き回廊へ向かった。雨上がりの土の匂いが花壇から漂い、石の柱に沿って伸びる蔦には小さな雫が残っている。空は明るくなっていたが、雲が動くたびに足元の影の濃さが変わり、アリシアは無意識にその輪郭を目で追った。


 メリルが弁当を開きながら、朝の演習について話し始めた。


「連絡を送っただけじゃ終わらない、って考え方、私はすごく大事だと思った。昨日までなら、誰かに知らせた時点で安心しちゃってたかもしれない」


「でも、返事を待っている間に危険が大きくなる場合もあるよね」とテオが言った。「その時は、待つだけじゃなくて別の人にも知らせる必要がある。順番を決めておかないと、誰も動けなくなりそうだ」


 フィオナは紙包みを膝に置き、少し離れた通路を歩く下級生たちへ目を向けた。今朝の鐘が鳴った時、廊下の途中で立ち止まっていた学生がいたことを思い出したらしい。


「急に予定が変わると、何をすればいいのか分からなくなる人もいるものね。私だって、最初に掲示を見た時は少し怖かったわ。だから、落ち着いて説明してくれる人がいるだけで違うと思う」


 アリシアはその言葉に頷いた。数日前の廊下で、フィオナが下級生へ声をかけ、メリルとエドガーが人の流れを整え、テオが職員を呼んだことを思い出す。あの時、自分は影を伸ばすことに集中していたが、ほかの誰かが何を必要としているかを見ていた仲間がいた。


「……あの時、みんながいてくれてよかった。私一人だったら、灯具を支えることしか考えられなかったと思う」


 メリルは箸を止め、アリシアの顔を見た。彼女はいつものように勢いよく褒めるのではなく、少し考えてから答えた。


「私も、一人だったら何をしたらいいか分からなかったと思う。アリシアが支えてくれたから、後ろの子たちへ声をかけられたんだよ。誰か一人が全部できたわけじゃないんだから、そこはお互いさまにしよう?」


 アリシアはその言葉を聞き、ゆっくり息を吐いた。自分が守ったと思っていた時間は、仲間たちもまた自分を支えてくれた時間だったのだ。そう考えると、事故の記憶に混じっていた怖さが少し和らぎ、代わりに温かな感情が残った。


 ノアはアリシアの弁当箱を覗き込み、わざとらしく咳払いをした。


「感動してるところ悪いが、話に夢中になって飯を冷ますなよ。今朝もちゃんと食ったんだから、昼も同じくらい真面目にやれ」


「……ノア、食事のことになると本当に厳しいね」


「お前が考え事で食うのを忘れるからだろ。俺のせいにするな」


 メリルが笑い、テオも肩を揺らした。アリシアは頬を赤くしながらパンを口へ運んだが、その味はいつもより少しだけはっきり感じられた。


     ◇


 午後、学院の設備担当から新たな掲示が出た。


 北側連絡廊下の点検は継続するものの、朝の応答途絶について、学生が立ち入る区域で危険が広がっているという報告はない。ただし原因は未確定で、設備の再起動は職員が行うため、学生は封鎖区域へ近づかないこと。掲示の最後には、気になる光の変化を見ても、自分で魔導具へ触れず、時刻と場所を担当者へ伝えるよう書かれていた。


 アリシアは掲示を読み、胸の奥の緊張が少し緩むのを感じた。完全に安全が確認されたわけではないが、何をしてはいけないか、何を伝えればよいかが明確になっている。曖昧な噂より、今できる行動を示す言葉の方が、ずっと頼りになった。


 その日の授業を終えたアリシアは、資料室へ向かう前にノアへ相談した。昨日、エレナが見せてくれた引き継ぎ欄の複写について、もう一度確かめたいことがあったのだ。


「……今日は、長く調べるつもりはないの。昨日の六つの区画について、同じ形式の記録がほかにもあるか、エレナさんが確認できたか聞いてみたい」


「聞くだけならいい。だが、まだ調べてる途中だと言われたら、そこで引き下がれよ。相手にも仕事があるし、お前にも帰る場所がある」


 アリシアは頷いた。ノアが最後の言葉を少し強く言ったのは、昨日、生活観測区画の子供が描いた丸い目印を思い出したからかもしれない。だが、ノアは何も説明せず、先に廊下を歩き始めた。


 資料室へ向かう階段では、学生たちが授業の話をしながらすれ違った。古い石壁には窓からの光が斜めに落ち、階段の角へ長い影をつくっている。アリシアは手すりに指を添え、ゆっくりと上った。


     ◇


 資料室の受付では、エレナ・ヴァイスが書類の束へ細い紐をかけていた。アリシアが声をかけると、エレナは顔を上げ、仕事の手を止めて微笑んだ。


「こんにちは、アリシアさん。昨日の資料のことでしょうか」


「……はい。でも、お忙しかったら、また別の日にします」


「大丈夫ですよ。ちょうど整理が一段落したところです。ただ、昨日の六つの区画については、まだ結論が出ていません」


 エレナはそう前置きしてから、受付の奥にある小机へ案内した。机の上には昨日の複写と、別の綴りから抜き出した頁番号の一覧が置かれている。原本そのものではなく、公開閲覧が認められた範囲の複写であることを、エレナは最初に説明した。


「同じ時期の整理記録をいくつか確認しました。六つの小区画が並ぶ形式は、今のところ昨日の頁以外では見つかっていません。ただし、調べられた資料はまだ一部だけです」


 アリシアは頷き、ノートを開いた。昨日の六つの区画を思い出すと、最後の空白に目が向いてしまう。けれど、ほかに同じ形式が見つからないというだけでは、その意味が特別だと証明されたわけではない。


「……帰還印っていう言葉は、ほかにもありましたか?」


 エレナは一覧の一箇所へ指を置いた。


「似た表現なら、一件だけ確認できました。ただし、こちらは『帰還印』ではなく、『受領戻りを待つ』と読める記載です。文字が欠けているため、完全な文章ではありませんし、昨日の引き継ぎ欄と同じ作業を指すかどうかも分かりません」


 アリシアは息を詰めかけたが、すぐに落ち着いた。似た表現が見つかったことは手がかりになる。しかし、言葉が似ていることと、同じ仕組みで運用されていたことは別だ。


 エレナは複写の余白へ鉛筆で印をつけ、文字の読める部分を示した。


「この頁では、別の保管場所へ送る資料について、送り出した日付と、受け取りを確認した日付を分けて記録していたようです。ただ、対象の資料名が欠けています。照合原簿のことだと判断できる記載はありません」


「……送った日と、受け取ったことを確かめた日が、別々に残っていたんですね」


「ええ。少なくとも、そのように読める欄があります。昨日の帰還印が同じ意味なら、受領側から戻る確認を待っていた可能性はありますが、まだ比較が必要です」


 アリシアはノートへ書き込んだ。送付と受領確認を別に扱う例がある。帰還印の意味は未確定。六つの区画との関係も不明。記録を分けて書くうちに、頭の中で混ざりかけていた情報が少しずつ整っていった。


 その時、エレナは昨日の複写を裏返し、紙の端へ目を向けた。


「もう一つ、昨日は説明しなかった点があります。重要な発見というほどではありませんが、あなたが記録の扱いを学んでいるなら、知っておいた方がよいかもしれません」


 アリシアは顔を上げた。エレナは六つの小区画がある頁の複写を指し、端に見える細い線を示した。


「この線は、欄を区切るためのものか、複写した際に写り込んだ紙の折り目か、まだ判別できません。もし折り目なら、六つの区画がもともと一続きだったとは限らないんです」


 アリシアは驚いて紙を見つめた。昨日は六つ並んだ小区画にばかり気を取られ、欄の外側にある細い線を意識していなかった。エレナが示す部分は薄く、複写の濃淡だけでは確かに判断しにくい。


「……じゃあ、最後の一つが空白だったとしても、同じ作業の六番目だったかどうか、まだ分からないんですね」


「そうです。資料の状態を確かめないうちに、並び方だけで意味を決めるのは危険です。原本の保存状態や閲覧条件を確認できる担当者に、必要なら照会します」


 アリシアは深く頷いた。六という数に引き寄せられる自分の気持ちを、エレナは責めなかった。代わりに、何を確かめれば思い込みから離れられるかを教えてくれている。


 ノアが机の端で尻尾を揺らした。


「数字が並んでりゃ意味があると思いたくなるが、紙の折れ目ひとつで話が変わるってことか。古い資料ってのは、ずいぶん意地が悪いな」


 エレナは少し笑った。


「資料が意地悪なのではなく、私たちが知らない事情をたくさん抱えているのでしょうね。だからこそ、分からないことを残したまま、別の角度から確かめる必要があるのだと思います」


 アリシアはその言葉を聞き、昨日の学院での実習を思い出した。見える範囲だけを確認したのに、全体に異常がないと書いてしまえば、次の人が困る。古い資料を読む時も、同じことが起きるのだろう。


 エレナは一覧を閉じ、次に確認する資料の候補を示した。受領確認を扱った別の整理綴りが公開目録に存在するか調べること、六つの区画が記された頁の原本状態について照会できるか確認すること。この二つは、今の段階で無理なく進められる調査だった。


「ただし、すぐに結果が出るとは限りません。原本の状態確認には時間がかかる場合がありますし、公開できない情報が含まれていれば、閲覧できる範囲も限られます」


「……分かりました。ありがとうございます。今日、分かったことだけでも、ちゃんと整理しておきます」


 アリシアは複写を丁寧に返し、ノートを閉じた。原簿の所在は分からないままだが、探し方を誤らないための情報が増えた。帰還印という言葉が示すものを急いで決めず、送付と受領確認の記録を別々に追うことが、今は大切なのだと思えた。


     ◇


 資料室を出ると、夕方の廊下には人影が少なくなっていた。遠くから聞こえる授業終わりの声は石壁に反響し、窓の外では雲の切れ間から差した光が中庭の木々を照らしている。


 アリシアは歩きながら、今日の話をノアへ整理して伝えた。六つの小区画がほかの記録に見つからなかったこと、似た受領確認の記載が一件あったこと、そして区画の境目だと思っていた線が折り目かもしれないこと。ノアは途中で口を挟まずに聞き終え、階段の踊り場で立ち止まった。


「要するに、昨日より分かったこともあるが、昨日まで分かったつもりになってた部分も減ったってわけだな」


「……うん。ちょっと不思議だけど、前よりちゃんと調べられてる気がする」


「そりゃいいことだ。間違った答えを一つ増やすより、間違えそうな道を一つ消す方が役に立つ時もある」


 アリシアは微笑んだ。ノアの言い方は相変わらず辛辣だが、その奥にある考えは温かい。自分が急いで答えを求める時、ノアはいつも足元を確かめるよう促してくれる。


 その時、廊下の向こうから設備担当の職員が二人、書類を抱えて歩いてきた。アリシアは道を譲り、壁際へ寄ったが、職員たちの会話が短く耳に入った。


「南側の補助記録は戻ったそうです。ただ、北側の一部はまだ確認待ちで……」


 続きは聞こえなかった。職員たちは足を止めず、別の階段へ向かっていった。


 アリシアはその背中を見送った。今朝の設備異常について、少しずつ確認が進んでいるのだろう。だが、偶然聞こえた会話だけでは、何が戻ったのか、何を確認待ちとしているのかは分からない。


(……聞こえた言葉だけで、全部分かった気にならないようにしよう)


 アリシアはそう考え、ノアとともに生活観測区画へ向かった。


     ◇


 生活観測区画の談話室では、窓が少しだけ開けられていた。夕方の風が薄いカーテンを揺らし、机の上に置かれた色鉛筆の影が、木目に沿って細く伸びている。子供はいつもの絵を広げていたが、今日は橋の絵を描き足してはいなかった。


 顔のない存在は子供の隣に座り、胸元の十一の光を安定させている。覆われた木箱は所定の場所に置かれたままで、近づいた形跡もない。サラは少し離れた机で記録用紙を確認しており、アリシアの姿を見つけると静かに会釈した。


「アリシア、おかえり!」


 子供が顔を上げると、アリシアは思わず笑顔になった。学院では一日中、返事や記録について考えていたが、ここで交わされる「おかえり」は、紙の上の確認印とはまったく違う温かさを持っていた。


「……ただいま。今日は絵を描いてなかったの?」


「うん。今日は、絵を見ながら考えてたんだ。橋の向こうへ行く道は描いたけど、帰ってくる道も同じでいいのかなって」


 アリシアは椅子へ腰を下ろし、絵を見た。橋の手前には昨日描かれた小さな丸があり、橋の向こうへ続く道は途中で終わっている。青い線と小さな四角、細い茶色の線も残っていたが、それぞれが何を表すかはまだ決まっていなかった。


「……同じ道を戻ってきてもいいと思うよ。でも、別の道を描きたいなら、それもあなたが決めていいんじゃないかな」


 子供は少し考え、丸い印へ指を置いた。


「でもね、もし橋の向こうで怖くなったら、こっちの丸が見えなくなるかもしれないでしょう。そうしたら、どこへ帰ればいいのか分からなくなるのが嫌なんだ」


 その声は大きくなかったが、言葉の最後にかすかな不安が混じっていた。アリシアはすぐに安心させる言葉を返そうとして、思いとどまった。子供が何を怖いと思っているのか、まだ十分に聞いていない。


「……丸が見えなくなるのが、怖いんだね。橋の向こうへ行くこと自体も、少し怖い?」


 子供は頷き、色鉛筆を一本手に取ったまま、しばらく黙っていた。窓から入る風が紙の端を揺らし、顔のない存在はその動きを静かに見つめている。


「うん。向こうに何があるか分からないから。でも、ずっとここにいるだけじゃなくて、いつか見てみたい気持ちもあるんだ。だから、戻ってこられるって分かるものが欲しいの」


 アリシアは子供の顔を見つめた。怖さと好奇心が同時にあることは、自分にも覚えがある。初めて学院の人たちと話した時も、影を人前で使うことを決めた時も、怖さがなくなってから動けたわけではなかった。


「……そうなんだね。戻る場所が分かると、少し安心できるんだね」


「うん。でも、まだ橋を渡るかどうかは決めてないよ。絵の中の話だし、ほんとうにどこかへ行くってことじゃないから」


 アリシアは頷いた。子供自身が、絵の中の選択と実際の外出を区別している。その境界を大切にしたいと思った。


「……分かってるよ。今日は絵を見て考える日なんだね」


 子供は安心したように笑った。顔のない存在は、二人の会話の間も静かに座っていたが、やがてゆっくりと手を上げ、いつもの青い線へ指先を向けた。


 子供はその動きに気づき、少しだけ身を乗り出した。


「また、ここなんだね。ぼくが帰る道を考えてる時も、そこが気になるの?」


 顔のない存在は答えず、指先をその位置へ向けたままにしている。アリシアはその沈黙を無理に意味づけず、子供がどう受け取るかを見守った。


 子供はしばらく考えたあと、青い色鉛筆を持ち上げた。しかし線をなぞる直前で手を止め、顔のない存在へ目を向けた。


「ここを描き直してほしいのか、それとも見てほしいだけなのか、まだ分からないね。だから今日は変えないでおくよ。でも、もし嫌だったら、ぼくが描く前に教えてね」


 顔のない存在は、しばらくして手を下ろした。肯定なのか、単に動きを終えたのかは分からない。それでも子供は焦らず、青い色鉛筆を机へ戻した。


 サラは少し離れた場所からそのやり取りを見守り、記録用紙へ短く書き込んだ。子供が何を尋ね、顔のない存在がどう動いたかを、意味を決めずに残しているのだろう。


 アリシアは机の上の丸い印へ視線を戻した。帰ってくるための目印は、まだ木にも家にもなっていない。それでも、子供がそこに印を置いた理由は、昨日より少しだけはっきりした気がした。


     ◇


 サラが記録を終えると、子供は色鉛筆を片づけ始めた。アリシアも手伝おうとしたが、子供は「今日は自分でやってみる」と言い、鉛筆を色ごとに揃えて箱へ戻した。


 アリシアはその隣で見守り、一本だけ机の端へ転がった鉛筆を指さした。子供は自分で気づいて拾い、少し誇らしそうに笑った。以前なら、誰かが代わりに片づけてしまったかもしれない小さな場面だった。


 サラは子供たちが別の机へ移ったのを見てから、アリシアへ静かに声をかけた。


「今日は学院で何かあったの? 少し考え込んでいるように見えたけれど」


 アリシアは朝の鐘と設備点検の話をした。応答が途切れたという連絡があったこと、立ち入り制限が続いていること、原因はまだ分からないこと。サラは途中で遮らず、アリシアが話し終えるまで待った。


「そうだったのね。怪我人が出ていないと聞いて、少し安心したわ。でも、原因が分からないうちは気になるでしょう」


「……はい。昔の資料でも、確認が戻ってこないものは完了にしない、っていう記録が見つかったので、つい言葉が重なってしまって」


 サラは少しだけ首を傾げた。


「その二つが同じ仕組みだという証拠は、まだないのよね」


「……はい。ないです。だから、混ぜないようにしています」


 サラは穏やかに頷いた。アリシアの言葉には、以前より落ち着いた確かさがあった。気になるものを見つけると怖くなって黙り込んでいた少女が、今は自分の疑問を言葉にし、分からない部分まで相手へ伝えようとしている。


「それなら、今できることを大切にしてね。調べることも必要だけれど、何もかも一人で確かめようとしなくていいのよ」


 アリシアはサラの顔を見た。数日前の廊下で、仲間たちが自分の周囲を支えてくれたことが思い出される。資料室ではエレナが調べ方を教え、ここではサラが子供たちの意思を守っている。自分だけが何かを背負っているわけではないのだ。


「……はい。今日は、帰ったらちゃんと休みます」


 サラは微笑んだが、すぐに記録用紙へ目を落とし、別の話題を口にした。


「そういえば、子供が今日は『戻る場所が分かるものが欲しい』と話していたでしょう。あの言葉は、今後の関わり方を考えるうえでも大切にしたいと思っているの。だからといって、すぐ外へ連れ出すという意味ではないけれどね」


 アリシアは頷いた。子供が庭へ一歩出た日のことも、翌日には室内で過ごすと選んだことも、どちらも本人の意思だった。帰る場所を確かめたいという気持ちも、今すぐ何かを試すための合図ではない。


「……子供が決めるまで、待ちたいです。でも、待つだけじゃなくて、安心できるように一緒に考えることはできると思います」


「ええ。そうね。あなたが今日、絵の中の話と実際の外出を分けて聞いてくれたことも、きっと役に立ったと思うわ」


 サラの言葉に、アリシアは少し照れたように俯いた。褒められることにはまだ慣れないが、以前のように否定したくなる気持ちは薄れていた。


     ◇


 アリシアが帰る支度を始めた頃、談話室の窓辺から小さな声がした。


「ねえ、アリシア。明日も絵を見に来てくれる?」


 子供は色鉛筆の箱を抱え、机の横に立っていた。顔のない存在はその隣に座り、胸元の光を静かに灯している。


 アリシアは少し考えてから答えた。


「……授業が終わって、来られる時間があったら来るね。もし遅くなったら、サラさんに伝えてもらうようにするよ」


 子供は頷いた。必ず来ると言われなかったことにがっかりする様子はなく、むしろ、来られない時にも知らせてもらえると分かって安心したようだった。


「うん。分かった。じゃあ、ぼくも描きたくなったら続きを描いておくね。まだ何にするか分からないけど」


「……楽しみにしてる。でも、描きたくなかったら、そのままでもいいからね」


 子供は笑い、顔のない存在の方へ向き直った。二人はしばらく絵を眺め、アリシアが扉へ向かっても、急いで追いかけてくることはなかった。


 廊下へ出ると、ノアが足元へ降り立った。


「今日はずいぶん、返事の話ばかりしたな。学院でも資料室でも、ここでも」


「……そうだね。でも、全部同じ意味じゃないんだよね」


「当たり前だ。魔導具の応答と古い紙の印と、あの子の『おかえり』を一緒くたにされたら、俺だって困る」


 アリシアは小さく笑った。ノアの言葉は少し乱暴だったが、今日一日を通して自分が確かめたかったことを、簡潔に表しているように思えた。


 返事がないことには、いろいろな理由がある。まだ届いていないのかもしれないし、受け取った人が確かめている途中なのかもしれない。あるいは、そもそも返事を求めるべきではない場面だってある。


 その違いを見失わずにいたいと、アリシアは思った。


     ◇


 夜の寮へ戻る頃には、学院の空に星が見え始めていた。中庭の灯りは普段どおりに点っていたが、北側の連絡廊下へ続く窓だけは、点検のため暗くなっている。遠くから見れば小さな違いでも、そこで働く職員たちにとっては、まだ終わっていない仕事があるのだろう。


 アリシアは自室へ戻り、手を洗ってから机へ向かった。鞄から調査用ノートを取り出し、今日エレナに聞いたことを整理する。六つの小区画の形式はほかの確認済み資料にはまだ見つかっていないこと、似た受領確認の記載が一件あること、複写の細い線が折り目かもしれないこと。どれも結論ではないが、次に確かめるべきことを教えてくれる。


 ノアは寝台の上で前足を舐めながら、アリシアの手元を見ていた。


「今夜は書きすぎるなよ。朝から鐘だの点検だの、落ち着かねえ一日だったんだからな」


「……うん。今日は、ここまでにする」


 アリシアは最後の行に『送付の記録と受領確認の記録は区別する。六つの区画の意味は未確定。原本の状態確認を待つ』と書き、筆を置いた。続けて日記帳を開いたが、そこには資料の内容ではなく、子供が話した言葉を残した。


『橋の向こうへ行ってみたい気持ちもあるけれど、戻る場所が分からなくなるのは怖い。だから、帰ってくる時の目印が欲しい。』


 アリシアはその文章を見つめ、少しだけ胸が締めつけられるのを感じた。自分にも、知らない場所へ進むのが怖かった時がある。今だって怖さがなくなったわけではないが、戻って話せる相手や、助けを求められる場所が増えたことで、少しずつ前へ進めるようになった。


(……あの子にも、そういう場所が増えたらいいな。行きたい時に進めて、戻りたい時に戻れるように)


 彼女は日記帳を閉じ、窓の外へ目を向けた。北側の暗い窓は、まだ明かりを取り戻していない。しかし、その向こうでは職員が安全を確かめ、記録を残し、必要な人へ連絡しているはずだった。


 アリシアは灯りを落とす前に、机の上の調査用ノートへもう一度目を向けた。古い目録の六番目の空白も、帰還印の意味も、まだ分からない。東側と西側の反応についても、これまでに観測された時間差が何を示すのかは確定していない。


 それでも、今日は確かなことが一つ増えた。答えを待つ時、ただ黙って立ち尽くすだけが方法ではない。届いたかどうかを確かめる道を探し、別の人と情報を分け合い、危険を避けながら次の一歩を考えることができる。


 寝台へ入ると、ノアがいつものように隣へ移動した。アリシアはその温かな毛並みにそっと触れ、静かに息を吐いた。


「……ノア、今日はありがとう」


「何だ、急に。俺は朝からいつもどおり、お前が余計な方向へ走らねえように見張ってただけだぞ」


「……それが、嬉しかったの」


 ノアは少しだけ黙り、それからアリシアの手へ頭を押しつけた。


「だったら明日も、ちゃんと自分の足で歩け。俺は隣にいるが、お前の代わりに全部決めてやるつもりはねえからな」


 アリシアは小さく頷き、目を閉じた。窓の外では夜風が木々を揺らし、遠くの学院棟から時折、点検作業のかすかな音が届いていた。


 その音が消えるまで、彼女はしばらく眠らずにいた。けれど、不安に押しつぶされるような夜ではなかった。まだ終わっていない仕事があることと、今は休んでよいことを、少しずつ両立できるようになっていた。


     ◇


 同じ夜、中央棟の設備記録室では、担当職員が二枚の報告用紙を並べていた。


 一枚は、朝に応答が途切れた北側の照明系統についてのもの。もう一枚は、南側の補助記録が正常に受信されたことを示すものだった。職員は記録時刻を照らし合わせ、北側の欄にまだ受領確認が付いていないことを確かめると、筆先を止めた。


 隣にいた同僚が、疲れた声で尋ねた。


「まだ戻ってこないのか?」


「記録上は、まだだ。ただ、機器そのものが反応していないのか、途中の記録が欠けているのかは分からない。現場の確認が終わるまで、原因は書けないな」


 職員はそう答え、未確認の欄を空白のまま残した。推測で印を付ければ、次の担当者が確認済みだと思ってしまう。たとえ夜が更けても、その線だけは越えられなかった。


 窓の外では、学院の北側だけが暗く沈んでいた。だが、その暗さの中で何が起きているのかを、今ここにいる二人はまだ知らない。


 職員は新しい確認依頼を書き、翌朝の担当者へ渡す書類の上へ重ねた。返事のない欄を埋めるためではなく、返事がない理由を確かめるために。


 夜の記録室には、紙を揃える音だけが静かに響いていた。

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