第310話 六番目の空白に残された、帰還を告げる印
朝の鐘が鳴るよりも少し早く、アリシアは目を覚ました。
窓の向こうには薄い霧が漂い、学院の中庭を囲む木々が、白い布をかぶせられたようにぼんやりと浮かんでいる。昨夜のうちに雨は上がったらしく、窓枠に残った雫が朝日を受けて淡く光っていた。
寝台の足元では、黒猫のノアが丸くなっている。
いつもならアリシアが起き上がる気配だけで何か一言言ってくるのに、今朝は片耳を動かしただけだった。
アリシアは毛布をめくり、静かに身体を起こした。
昨日の実習で使った魔力は少なく、腕にも胸にも異常はない。数日前、廊下で傾いた照明魔導具を影で支えた時の疲れも、すっかり消えていた。
ただ、昨夜は眠る直前まで、あることが気になっていた。
古い整理記録に残された、担当者の交代。
別の場所に置かれたと記された照合原簿。
そして、六番目だけが空白になっている古い目録。
それらの関係は、まだ分からない。
けれど昨日、共同実習で引き継ぎの記録を作ってから、アリシアには一つの疑問が生まれていた。
(……もし、原簿を別の場所へ移した人がいたなら、その人は次の担当者へ何を伝えたんだろう)
照合原簿の所在を探すことばかり考えていたが、移動そのものを記録した書類があるとは限らない。
それでも、担当者が替わる時には、作業を終えたものと、まだ終わっていないものを伝える必要がある。
昨日の実習では、まさにそれを学んだ。
アリシアは机の上に置かれた調査用ノートへ目を向けた。
昨夜、最後に書いた質問が、まだ開いた頁に残っている。
『照合原簿が別置とされた時、引き継ぎ先について何か記録が残されているか。』
文字を見つめていると、背後から眠そうな声がした。
「朝から紙とにらめっこか。お前、とうとう夢の中でも資料整理を始めたんじゃねえだろうな」
振り返ると、ノアが寝台の上で大きく伸びをしていた。
「……おはよう、ノア」
「おう。それで、今朝の悩みは何だ。昨日の魔導具か、古い原簿か、それとも昼飯の献立か」
「……原簿のこと。昨日、引き継ぎの練習をしたでしょう。それで、少し気になったことがあって」
アリシアが説明すると、ノアは机へ飛び乗り、ノートを覗き込んだ。
「なるほどな。物の行き先が分からねえなら、物を渡した時の記録を探すってわけか」
「……うん。でも、そういう記録が残ってるかどうかも分からないの」
「そりゃそうだ。だが、探す場所を決めるための質問としては悪くねえ。少なくとも、六番目の欄を眺めて『何か書いてくれ』って祈るよりは現実的だ」
アリシアは小さく笑った。
「……そんなこと、してないよ」
「顔はしてたぞ。古い紙に同情されそうなくらいな」
ノアは尻尾でノートの端を軽く叩き、それから窓の外へ目を向けた。
「ただし、今日も資料室へ行くつもりなら、先に授業の予定を確認しろよ。最近のお前は、学院の生徒なのか資料室の住人なのか分からなくなってきたからな」
「……ちゃんと授業も受けてるよ」
「知ってる。だから言ってるんだ」
アリシアは少しだけ頬を膨らませたが、ノアの言葉に腹は立たなかった。
心配してくれていることは、もう分かっている。
彼女は調査用ノートを閉じ、制服へ着替えるために立ち上がった。
今日も一日が始まる。
古い記録のことだけではなく、学院で学ぶことも、仲間たちと過ごす時間も、大切にしたかった。
◇
午前の授業は、魔法の基礎制御を応用した実技訓練だった。
訓練場には低い石柱がいくつも並び、その間に小さな標的が置かれている。学生たちは決められた範囲で魔法を使い、標的へ力を加えるのではなく、周囲の物を動かさずに指定された位置だけへ作用させる練習を行うことになっていた。
アリシアたち五人も、教師の指示に従って準備を始めた。
メリルは標的の配置を確認しながら、楽しそうに笑っている。
「今日は昨日みたいな記録ばっかりじゃないんだね。こういう実技、久しぶりな気がする!」
「昨日も魔導具を扱っただろう」
エドガーが答えると、メリルは首を振った。
「そうじゃなくて、自分の魔法を使う方! もちろん記録も大事だけど、私はやっぱり身体を動かす方が好きだな」
テオは手順書を確認しながら、苦笑した。
「気持ちは分かるけど、今日は力の強さより細かい制御が大事らしいよ。勢いよく動かしたら、標的の周りまで崩しちゃうかもしれない」
フィオナはアリシアへ目を向けた。
「アリシアは影の形を細かく変えられるでしょう。今日の課題には向いているかもしれないわね」
アリシアは少し考えてから答えた。
「……でも、細かく動かすのって、意外と難しいんだよ。大きく広げる方が簡単な時もあるから」
その言葉に、ノアがすかさず口を挟んだ。
「そうそう。こいつの影は昔から、本人が遠慮してる時ほど妙に元気だからな」
「……ノア」
「何だ。間違ったことは言ってねえぞ」
メリルが笑い、テオも口元を緩めた。
アリシアは恥ずかしくなって視線を落としたが、以前のように周囲の笑い声を怖いとは感じなかった。
今の笑いは、自分を傷つけるためのものではない。
そのことが分かるだけで、胸の奥はずいぶん軽くなる。
やがて教師が開始を告げ、学生たちは順番に魔法を使い始めた。
アリシアの課題は、三本の石柱の間に置かれた小さな金属輪を、柱へ触れずに指定された台へ移動させることだった。
金属輪は手のひらに収まるほどの大きさで、少し力を加えるだけでも転がってしまう。
アリシアは石柱の影を見つめ、ゆっくり息を整えた。
(……強く動かす必要はない。輪が転がらないように、下から支えて……)
足元の影が静かに伸びた。
黒い帯は石柱の間を通り、金属輪の下へ薄く広がる。
そのまま持ち上げようとした瞬間、輪がわずかに傾いた。
アリシアは慌てて力を強めかけたが、すぐに思い直した。
強く支えれば、今度は反対側へ傾くかもしれない。
彼女は影の端を少しだけ厚くし、輪の重心を確かめるように動かした。
金属輪が静かに持ち上がる。
周囲の石柱には触れていない。
アリシアは慎重に影を移動させ、指定された台へ輪を下ろした。
小さな金属音が響き、輪は倒れずに止まった。
「……できた」
思わず呟くと、隣で見ていたメリルが嬉しそうに手を叩いた。
「すごい! 今、ほとんど揺れなかったよ!」
エドガーも頷いた。
「途中で傾いた時、すぐに持ち上げずに調整したのがよかったんだろうな」
アリシアは自分の影を見下ろした。
数日前、廊下で灯具を支えた時には、落下を防ぐために影を厚く広げた。
けれど、今日の課題では、力を大きくするよりも、必要な場所だけを支えることが大切だった。
同じ影の魔法でも、使い方によって求められることは違う。
教師は記録板へ何かを書き込み、アリシアへ声をかけた。
「今の制御はよくできていました。ただし、最初に輪が傾いた時、少し魔力が増えましたね。あの場面で落ち着いて修正できたことは評価できますが、最初から安定させる練習も続けましょう」
「……はい。ありがとうございます」
アリシアは頭を下げた。
完璧ではなかった。
それでも、失敗しかけた時に、自分で考えて修正できた。
そのことが嬉しかった。
◇
昼休み、五人は中庭の端にある長椅子へ集まった。
朝の霧はすっかり晴れ、濡れていた石畳も少しずつ乾き始めている。花壇の近くでは小鳥が地面をつつき、遠くの訓練場からは午後の授業に備える学生たちの声が聞こえていた。
メリルは昼食を広げながら、アリシアへ顔を向けた。
「ねえ、アリシア。今日の影の使い方、前よりずっと細かくなってたよね」
「……そうかな」
「うん! 前はもっと大きく広げることが多かった気がするけど、今日は必要なところだけ動かしてた」
テオも頷いた。
「確かに。魔法の強さだけじゃなくて、使う範囲を決められるようになってるんだと思う」
アリシアは少し照れながら、膝の上の昼食へ目を落とした。
「……まだ練習中だけど。前より、何をしたいのか考えてから動かせるようになった気がする」
エドガーはその言葉を聞き、静かに頷いた。
「それは大きな変化だと思う。力が強いだけでは、守れないものもあるからな」
フィオナは柔らかく微笑んだ。
「そうね。昨日の引き継ぎの実習でも感じたけれど、何をするかだけでなく、どこまでやるかを決めることも大切なのだと思うわ」
アリシアは仲間たちの顔を見渡した。
自分の変化を、こうして言葉にしてくれる人たちがいる。
以前なら、そんなことは想像もできなかった。
人前で魔法を使うだけで緊張し、失敗したらどうしようと考えていた。
今も緊張はする。
けれど、失敗しかけた時に、すぐ自分を責めることは少なくなった。
(……みんながいてくれるから、少しずつ変われてるんだね)
アリシアは小さく微笑み、昼食を口へ運んだ。
その時、ノアが長椅子の端から顔を上げた。
「おい、アリシア。今日は放課後、どこへ行くつもりだ?」
「……資料室へ行こうと思ってる。エレナさんに、少し聞きたいことがあるから」
「また古い紙か。まあ、今朝の話なら、聞く価値はあるだろうな」
メリルが興味深そうに顔を向けた。
「アリシア、まだ昔の記録を調べてるんだね。何か新しく分かったの?」
アリシアは少し考えた。
古い目録のことは、すべてを詳しく話せるわけではない。
けれど、公開されている記録について調べていることなら、説明できる。
「……まだ大きなことは分かってないの。でも、昔の整理作業で、担当する人が替わった記録があったから、その時に何を引き継いだのか気になって」
テオは少し驚いたように目を丸くした。
「昨日の実習みたいだね」
「……うん。だから、もしかしたら何か残ってるかもしれないって思ったの」
エドガーは頷いた。
「確かに、物の所在が分からない時は、移動した記録だけでなく、担当者の引き継ぎも手がかりになるかもしれないな」
フィオナは静かに微笑んだ。
「見つかるといいわね。でも、無理はしないでね」
「……うん。ありがとう」
アリシアはそう答え、鞄の中の調査用ノートを思い出した。
今日、何かが見つかるとは限らない。
それでも、次に確かめたいことは決まっている。
今は、それだけで十分だった。
◇
放課後の資料室には、午後の柔らかな光が差し込んでいた。
高い書架の間には古い紙の匂いが漂い、窓際の机では数人の学生が静かに資料を読んでいる。受付の奥では、エレナ・ヴァイスが書類を整理していた。
アリシアが声をかけると、エレナは顔を上げ、穏やかに微笑んだ。
「いらっしゃい、アリシアさん。今日は何か調べたいことがありますか?」
「……はい。前に見せてもらった、整理作業の担当者が替わった記録について、少し聞きたいことがあって」
エレナは手元の書類を揃え、椅子を勧めた。
「もちろんです。どの部分が気になりましたか?」
アリシアは調査用ノートを開き、昨夜書いた質問を示した。
「……照合原簿が別の場所へ置かれた時、次の担当者へ何か引き継いだ記録が残っていないかなって思ったんです」
エレナはその文章を読み、少しだけ考え込んだ。
「なるほど。原簿そのものの所在ではなく、引き継ぎの記録ですね」
「……はい。昨日、学院で同じような実習をしたので、気になって」
エレナは静かに頷いた。
「よい着眼点だと思います。ただし、当時の整理作業について、すべての引き継ぎ記録が残っているとは限りません」
「……分かっています。公開されている範囲で、何か確認できればと思って」
その返事を聞くと、エレナは立ち上がり、奥の書架へ向かった。
しばらくして戻ってきた時、手には薄い資料袋があった。
「実は、前回お見せした整理作業記録について、関連する頁をもう一度確認していたんです。担当者交代の前後に、別の綴りへ移された記録がないか調べていました」
アリシアは思わず背筋を伸ばした。
「……何か、見つかったんですか?」
「一つだけ、気になる記載がありました。ただし、これがあなたの調べている原簿と直接関係するかどうかは、まだ分かりません」
エレナはそう前置きし、資料袋から一枚の複写を取り出した。
それは、古い整理作業の引き継ぎ欄を写したものだった。
紙の端は欠けており、文字の一部もかすれている。
けれど、中央には比較的はっきりとした短い文章が残されていた。
『未了分、次番へ送る。帰還印なきもの、完了に含めず。』
アリシアはその文字を見つめた。
帰還印。
聞き慣れない言葉だった。
「……帰還印、ですか?」
「はい。そこは比較的はっきり読めます。ただし、何を帰還と呼んでいたのかは分かりません」
エレナは別の紙を取り出し、説明を続けた。
「当時の整理作業では、資料や保管箱を別の場所へ送る際、受け取り側から確認が戻ってきたことを示す印が使われていた可能性があります。ただし、この記録だけでは、帰還印が具体的に何を意味するのか断定できません」
アリシアは静かに頷いた。
帰還。
その言葉から、何かが戻ってくる様子を想像してしまう。
けれど、ここでは物そのものが戻るという意味ではないのかもしれない。
受け取ったという知らせが戻ること。
確認が終わったという返事が戻ること。
そうした事務的な意味で使われていた可能性もある。
「……じゃあ、何かを送っただけでは、作業が終わったことにはならなかったんでしょうか」
エレナは少し考え、頷いた。
「そのように読める部分はあります。ただし、すべての作業に同じ規則が適用されていたかどうかは分かりません」
アリシアは複写へ目を落とした。
『帰還印なきもの、完了に含めず。』
その一文は、昨日の引き継ぎ実習で学んだことと、どこか似ているように感じられた。
自分たちが記録を渡しただけでは、次の班が正しく受け取ったかどうかまでは分からない。
相手が受け取り、内容を確認して初めて、引き継ぎが成立する。
そう考えると、帰還印という言葉にも意味があるように思えた。
けれど、それはあくまで一つの解釈だった。
「……先生、この記録に書いてある『次番』って、次の担当者のことですか?」
「その可能性があります。ただ、次の作業番号や、次の整理区分を指している場合もあります。前後の記録が欠けているため、今は確定できません」
アリシアは頷いた。
また一つ、分からないことが増えた。
けれど、今回は少し違う。
今まで探していたのは、原簿がどこへ行ったのかという情報だった。
今回の記録は、何かが送られたあと、確認が戻ってくるまで完了としないという考え方を示している。
それが原簿と関係するなら、探すべきものは原簿そのものだけではないのかもしれない。
「……もし、この帰還印が原簿の引き継ぎにも使われていたなら、受け取った側の記録が残っている可能性もあるんでしょうか」
エレナは少し驚いたように目を上げた。
そして、ゆっくりと微笑んだ。
「ええ。その可能性は考えられます。ただし、今の段階では、この記録が照合原簿を指している証拠はありません」
「……はい。そこは、ちゃんと分けて考えます」
アリシアが答えると、エレナは満足そうに頷いた。
「それなら、次に調べる方向としてはよいと思います。送った側の記録だけでなく、受け取った側の確認記録が残っていないか、公開目録の範囲で調べてみましょう」
アリシアは胸の奥が少し温かくなるのを感じた。
答えが見つかったわけではない。
けれど、探す方向が一つ増えた。
それは、今までとは違う前進だった。
◇
エレナはさらに、複写の下部にある小さな欄を示した。
「もう一つ、気になる部分があります」
アリシアは顔を近づけた。
そこには、六つの小さな区画が横に並んでいた。
ただし、古い目録の六番目の欄とは形式が違う。
それぞれの区画には小さな印が記されており、最後の一つだけが空白になっていた。
アリシアの胸が、少しだけ強く鳴った。
「……六つ、ありますね」
「ええ。ただし、これが何を数えているのかは分かりません。作業区分かもしれませんし、確認担当者の数かもしれません」
エレナは慎重に説明した。
「そして、最後の欄が空白であることも、古い目録の六番目の空白と直接関係するとは限りません」
アリシアは頷いた。
六つ並んだ欄。
最後の空白。
あまりにも似ている。
けれど、似ているからといって、同じ意味だとは限らない。
アリシアはゆっくり息を整えた。
(……落ち着いて。今は、同じだって決めちゃいけない)
彼女は複写をもう一度見た。
六つの区画のうち、最初の五つには小さな印がある。
それぞれの印は、完全に同じ形ではなかった。
丸に近いものもあれば、斜めの線が入っているものもある。
最後の欄だけには、何も記されていない。
「……先生、この印は、全部同じ意味なんでしょうか」
エレナは少し考えた。
「それも、まだ分かりません。印の形が違うのは、担当者の筆跡の違いかもしれませんし、別の状態を示している可能性もあります」
アリシアは頷いた。
「……じゃあ、六つ目が空白だからって、何かが欠けていたとは限らないんですね」
「そうです。最初から使われない欄だった可能性もありますし、作業が未完了だった可能性もあります。ただし、どちらかを選ぶには、ほかの記録が必要です」
アリシアはしばらく黙っていた。
古い目録の六番目の空白。
今回の引き継ぎ記録の六番目の空白。
それらが同じ意味を持つのかどうかは、まだ分からない。
けれど、今回の記録には、少なくとも一つの明確な言葉が残っている。
『帰還印なきもの、完了に含めず。』
もし、この六つの欄が何かの確認状況を示しているなら、最後の空白は未完了を意味するのかもしれない。
しかし、それも仮説にすぎない。
アリシアはその考えを、すぐに結論へ変えないようにした。
「……先生、この記録の形式が、ほかにも使われていたか調べられますか?」
エレナは微笑んだ。
「ええ。それは比較しやすい部分ですね。同じ時期の別の整理記録に、似た欄があるか確認してみましょう」
アリシアはほっと息を吐いた。
六つという数に意味があるのか。
最後の空白に意味があるのか。
それを考える前に、まず同じ形式の記録がほかにもあるかを調べる。
その方が、確かな答えに近づける気がした。
◇
資料室を出た時、夕方の鐘が鳴り始めていた。
廊下の窓から差し込む光は赤みを帯び、石壁の上へ長い影を落としている。
ノアは窓辺で待っていた。
アリシアが近づくと、片目を開けて顔を上げた。
「で、今日は何が見つかった?」
「……帰還印っていう言葉が残ってたの」
「帰還印?」
「……うん。何かを送ったあと、確認が戻ってくるまで作業を終わったことにしない、って意味かもしれないんだって」
ノアは少し考え、尻尾を揺らした。
「なるほどな。送っただけじゃ終わりじゃねえ。受け取ったって返事が戻ってきて、ようやく一区切りってわけか」
「……そういう意味かもしれない。でも、まだ確定じゃないの」
「分かってる。お前もずいぶん慎重になったな」
ノアは少しだけ目を細めた。
「で、それが六つ目の神器とどう関係するんだ?」
アリシアは首を横に振った。
「……まだ分からない。今回の記録にも六つの欄があって、最後だけ空白だったけど、古い目録と同じ意味とは限らないから」
ノアは一瞬だけ黙った。
それから、低い声で言った。
「六つ、か」
アリシアはノアを見た。
ノアの金色の目は、いつものように鋭かった。
けれど、そこには少しだけ考え込むような色があった。
「……ノア?」
「いや、何でもねえ。数が同じだからって、飛びつくのは危険だ。お前の判断で正しい」
ノアはそう言い、窓辺から飛び降りた。
「ただ、帰還印って言葉は覚えておけ。もし本当に何かを送って、返事を待つ仕組みがあったなら、送る側だけ見てても分からねえことがある」
アリシアは頷いた。
その言葉は、以前から調べている東側と西側の反応を思い出させた。
東側で観測された刺激。
そのあと、西側で確認された反応。
けれど、両者が直接つながっている証拠はない。
ただ、送る側と受け取る側という考え方が、少しだけ重なって見えた。
(……でも、今は別々に考えよう。似ているだけで、同じ仕組みだとは限らないから)
アリシアは胸の奥に生まれた期待を、静かに落ち着かせた。
◇
生活観測区画へ向かうと、談話室には穏やかな夕方の光が差し込んでいた。
子供は窓際の机で絵を描いており、顔のない存在はその隣に座っている。
胸元の十一の光は安定しており、覆われた木箱にも目立った変化はなかった。
アリシアが入ってくると、子供は嬉しそうに顔を上げた。
「アリシア、おかえり!」
「……ただいま。今日は何を描いてるの?」
子供は机の上の絵を指さした。
橋の向こう側には、昨日描いた小さな道が残っている。
その道の先には、まだ何も描かれていない。
けれど、橋の手前に、小さな丸い印が一つ加えられていた。
「……ここに、丸を描いたんだね」
「うん。まだ何にするか決めてないんだけど、何か目印があったらいいなって思ったの」
アリシアは少しだけ目を丸くした。
「……目印?」
「うん。橋を渡って向こう側へ行ったら、帰ってくる時に、どこから来たか分からなくなるかもしれないでしょう?」
子供はそう言い、橋の手前の丸い印を指さした。
「だから、ここに何かあったら、戻ってくる時に分かるかなって」
アリシアはその言葉を聞き、胸の奥が少し温かくなるのを感じた。
帰ってくるための目印。
今日、資料室で見た帰還印という言葉が、ふと頭をよぎった。
けれど、子供が描いた丸い印と、古い整理記録の帰還印が関係するはずだと考える理由はない。
子供は自分の絵について、自分なりに考えている。
それだけで十分だった。
「……そうだね。帰る時に分かる場所があると、安心できるかもしれないね」
アリシアがそう答えると、子供は嬉しそうに頷いた。
「うん。でも、まだ丸のままにしておく。おうちにするか、木にするか、決めてないから」
アリシアは微笑んだ。
「……うん。決めたくなった時でいいと思うよ」
その時、顔のない存在がゆっくりと手を持ち上げた。
指先は、橋の下の青い線へ向けられている。
子供は少しだけ首を傾げた。
「また、そこなんだね」
顔のない存在は、しばらくその位置へ手を向けていた。
アリシアはその動きを静かに見守った。
何度も同じ場所を指している。
けれど、その意味はまだ分からない。
子供は少し考え、青い線へ目を向けた。
「……ねえ、ここって、橋の下にあるでしょう。もし水だったら、流れていくのかな」
アリシアは少し考えた。
「……水だったら、流れることもあると思う。でも、この絵の青い線が水かどうかは、まだ決めてないんだよね」
「うん。だから、まだ分からない」
子供はそう答え、顔のない存在へ微笑みかけた。
「でも、気になるんだね。また一緒に考えよう」
顔のない存在は、ゆっくりと手を下ろした。
アリシアはその様子を見ながら、静かに息を吐いた。
今日、子供は帰るための目印を描いた。
それは、誰かに言われたからではない。
自分で考え、自分で選んだものだった。
その小さな変化が、アリシアにはとても大切に思えた。
◇
しばらくして、サラが談話室へ入ってきた。
手には記録用紙を持っており、子供と顔のない存在の様子を静かに確認している。
「今日は新しい印を描いたのね」
サラが声をかけると、子供は頷いた。
「うん。帰ってくる時の目印にしようと思ったの。でも、まだ何にするか決めてないんだ」
サラは穏やかに微笑んだ。
「そうなのね。自分で考えて描いたのね」
子供は嬉しそうに頷いた。
アリシアはその様子を見ながら、今日の資料室での出来事を思い出していた。
帰還印。
六つ並んだ欄。
最後の空白。
それらは、まだ何を意味しているのか分からない。
けれど、子供が描いた目印を見て、アリシアは一つのことを考えた。
何かを送り出すことと、帰ってこられることは、同じではない。
帰るためには、戻る場所が必要なのかもしれない。
その考えは、子供の絵についてのものだった。
古い記録の意味を説明するものではない。
それでも、アリシアの胸には静かな余韻が残った。
◇
夜、自室へ戻ったアリシアは、机へ向かって調査用ノートを開いた。
窓の外には薄い雲が流れ、遠くの森から虫の声が聞こえている。
ノアは寝台の上で丸くなり、アリシアの様子を眺めていた。
アリシアは今日見つかった記録について、丁寧に書き始めた。
『整理作業の引き継ぎ欄に、「未了分、次番へ送る。帰還印なきもの、完了に含めず」との記載あり。』
『帰還印の意味は未確定。受け取り側からの確認を示す可能性があるが、別の意味も考えられる。』
『同じ記録に六つの区画があり、最後の一つは空白。ただし、古い目録の六番目の空白との関係は未確認。』
そこまで書いてから、アリシアは筆を止めた。
六つ目の神器。
六番目の空白。
六つ並んだ区画。
数だけを見れば、何かがつながっているように感じられる。
けれど、今はまだ、何も確かめられていない。
アリシアはゆっくり息を吐き、続きを書いた。
『次に確認したいこと。同じ形式の引き継ぎ欄が、ほかの整理記録にも存在するか。帰還印がどのような場面で使われていたか。』
書き終えると、少しだけ気持ちが落ち着いた。
ノアが寝台の上から声をかけた。
「今日は何か、進んだのか?」
アリシアは顔を上げた。
「……うん。答えはまだ分からないけど、次に調べたいことが増えたよ」
「そりゃ結構。で、今日はもう寝るんだろうな?」
「……うん。もう少しだけ日記を書いたら」
ノアは呆れたように尻尾を揺らした。
「まったく、お前の『もう少し』は信用ならねえんだよな」
アリシアは小さく笑い、日記帳を開いた。
今日、子供は橋の手前に丸い目印を描いた。
帰ってくる時に、どこから来たか分かるようにするためだった。
そのことを書き留めながら、アリシアは少しだけ微笑んだ。
古い記録の帰還印と、子供の絵の目印。
それらが同じ意味を持つわけではない。
けれど、どちらにも、何かが戻ってくることを確かめたいという思いがあるのかもしれない。
アリシアはその考えを、日記帳の最後にそっと書き加えた。
『帰ってこられる場所があることは、安心につながるのかもしれない。』
書き終えると、アリシアは日記帳を閉じた。
古い目録の六番目の空白は、まだ埋まっていない。
照合原簿の所在も分からない。
東側と西側の反応の意味も、子供の絵の青い線が何を表しているのかも、まだ確かめられていない。
けれど、今日、新しい言葉が一つ見つかった。
帰還印。
それは、古い記録の中で、何かが完了したことを確かめるための印だったのかもしれない。
もしそうなら、送ることだけではなく、戻ってくることにも意味があったのだろう。
アリシアは灯りを落とし、寝台へ入った。
ノアはいつものように隣へ移動し、丸くなって目を閉じた。
窓の外では、夜風が木々の葉を静かに揺らしている。
アリシアは穏やかな呼吸を続けながら、ゆっくりと目を閉じた。
六つ目の空白に、まだ答えはない。
けれど、その空白を埋めるために、急いで何かを書き込む必要もない。
今はただ、確かめられることを一つずつ積み重ねていこう。
そんな思いを胸に、アリシアは静かな眠りへ落ちていった。




