第31話 結界の継ぎ目
翌日の放課後。
アリシアは図書館へ向かう中庭で、いつもより少しだけ足を遅くしていた。
空は薄く曇っている。
雨の匂いはまだない。
けれど、雲の下にいるせいか、白い校舎も、石畳も、どこか色を抑えられて見えた。
今日、図書館で結界担当の説明を受ける。
昨日見つかった結界灯の黒い干渉痕。
それが何だったのか。
どれほど危険なのか。
夜の守り手の資料や、影喰いの残滓と関係があるのか。
分からないことは多い。
けれど、分からないまま一人で考え続けるよりは、ずっといい。
アリシアは鞄の紐を握り直した。
中には練習帳と、リーネが作った調査記録紙が入っている。
ノアは隣を歩いていた。
黒い尻尾が、曇り空の下でゆっくり揺れている。
「緊張してるわね」
ノアが言った。
「うん」
「でも逃げる顔ではない」
「本当?」
「ええ。怖がりながら行く顔」
「それは……いいの?」
「悪くないわ」
ノアは前を向いたまま続ける。
「怖いのに行けるなら、それは進んでるってことよ」
アリシアは少しだけ胸が温かくなった。
「ありがとう」
「礼はいいわ」
「でも、言いたいから」
「知ってる」
最近、ノアはその返しを少し諦めている。
それが少し嬉しい。
図書館の入口には、すでにメリルがいた。
杖を持ち、記録用の紙を抱えている。
アリシアを見ると、ほっとしたように笑った。
「アリシアちゃん」
「メリルさん」
「リーネさんは中にいるよ。シオン君も……たぶん来てる」
「たぶん?」
「入口の柱の陰で本を読んでたから」
メリルが少し苦笑する。
アリシアが視線を向けると、確かに柱の近くに緑髪の少年がいた。
シオンは薄い本を片手に、こちらをちらりと見た。
「何、その確認したみたいな目」
「あ、こんにちは」
「こんにちは。真面目だね、今日も」
皮肉っぽい声。
けれど、もう強く刺さる感じはしなかった。
アリシアは小さく頭を下げる。
「来てくれて、ありがとうございます」
「また礼。今日はまだ何もしてないけど」
「来てくれたので」
シオンは少しだけ眉を上げ、それから視線を逸らした。
「……調子狂う」
メリルが小さく笑った。
図書館に入ると、紙の匂いと静けさが迎えてくれる。
受付には司書が立っていた。
その隣に、見慣れない女性がいる。
濃い灰色の制服の上に、銀糸で縁取られた短い外套を羽織っていた。
年齢は三十代くらいだろうか。
髪は栗色で、後ろできっちりまとめられている。
眼差しは鋭いが、冷たくはない。
腰には小さな魔導具の入った革袋が下げられていた。
「皆さん、揃いましたね」
司書が言う。
リーネはすでに受付横で記録紙を持って待っていた。
彼女は軽く会釈する。
「時間通りです」
シオンが小声で言う。
「リーネが時間に遅れるところ、見たことない」
「遅れる理由がありません」
「強い」
灰色の外套の女性が、アリシアたちを見る。
「結界管理室所属、マリナ・ウェルズです。昨日の結界灯を確認した者です」
アリシアは慌てて頭を下げる。
「ア、アリシアです」
「メリルです」
「リーネです」
「シオン」
シオンだけ短い。
マリナはそれを気にした様子もなく頷いた。
「今日は見学と説明のみです。異常箇所への接触は認めません。質問は受けますが、危険な実験はしません」
「はい」
アリシアたちは返事をした。
ノアは足元で静かに座っている。
マリナの視線がノアへ落ちた。
「この黒猫が、最初に違和感を示したと?」
アリシアの胸が少し跳ねる。
「は、はい。ノアは……魔力の違和感に敏感で」
マリナはしゃがみ、ノアをじっと見た。
ノアは普通の猫の顔で瞬きする。
「にゃあ」
マリナは少しだけ目を細めた。
「賢そうな従魔ですね」
「あ、ありがとうございます」
「従魔の感覚は侮れません。特に結界の継ぎ目は、人間より獣の方が先に気づくことがあります」
ノアは何も言わない。
だが、少し満足げに尻尾を揺らした。
説明は、昨日の窓側の閲覧席で行われた。
結界灯は一時的に取り外され、代わりに透明な箱の中に置かれている。
箱の周囲には小さな銀の札が貼られていた。
近づきすぎないよう、床には白い紐で境界が作られている。
アリシアはその白い紐の前で足を止めた。
触らない。
近づきすぎない。
見るだけ。
マリナは結界灯を指した。
「これは図書館の窓際を守る補助結界灯です。外部から流れ込む微細な魔力、虫型の小魔性、古い資料に反応する浮遊魔力などを防ぎます」
リーネがすぐに記録する。
「補助結界灯。外部微細魔力、小魔性、浮遊魔力対策」
シオンが小声で言う。
「記録速度が怖い」
「黙って聞いてください」
「はいはい」
マリナは続ける。
「昨日確認された干渉痕は、この結界灯の接合部にありました。結界そのものを破ろうとしたというより、継ぎ目を探った痕です」
アリシアは結界灯を見る。
透明な箱の中にある小さな灯。
今は消えている。
でも、昨日はその周囲に黒い線が一瞬だけ浮かんだ。
「継ぎ目を探るって……誰かが、外から?」
メリルが聞く。
マリナは頷いた。
「その可能性があります。ただし、人間が意図的に行ったとは限りません。魔力の流れ、低位魔性、古い呪素の残滓が、結界の弱い部分に反応することもあります」
「呪素……」
アリシアは少し体を固くした。
マリナはそれに気づき、声を落ち着かせる。
「怖い言葉に聞こえるでしょうが、微量の呪素は古い遺物や戦場跡にも残ります。すぐに危険というわけではありません」
「はい……」
「大事なのは、量と性質です。今回の干渉痕は微弱です。結界内へ侵入した形跡もありません」
少しだけ安心する。
けれど、完全には安心できない。
リーネが質問した。
「影喰いの残滓との関連は?」
マリナは少し考えた。
「現時点では不明です。ただ、影喰いは魔力の薄い場所や、古い記録の隙間に潜む性質があります。結界の継ぎ目に何らかの揺らぎがあれば、発生しやすくなる可能性はあります」
「つまり、結界灯の干渉が先で、影喰いが後という可能性もある?」
シオンが言った。
マリナは彼を見る。
「可能性の一つです。逆に、影喰いの発生が結界灯を弱めた可能性もあります。今は順序を断定できません」
事実。
推測。
仮説。
アリシアは頭の中で分けた。
事実。
結界灯に干渉痕があった。
影喰いの残滓が見つかった。
推測。
関連があるかもしれない。
まだ断定できない。
マリナは小さな魔導具を取り出した。
銀の輪と、透明な石がついた棒のようなもの。
「この測定具で、残っている干渉痕を可視化します。近づかないでください」
全員が一歩下がる。
マリナが測定具を箱へ向けると、透明な石が薄く光った。
結界灯の周囲に、細い線が浮かび上がる。
黒。
けれど真っ黒ではない。
灰色に近い黒い線が、灯の接合部を撫でるように残っていた。
アリシアの胸の奥が、かすかに震えた。
夜の井戸が、遠くで水面を揺らしたような感覚。
ノアの耳も動く。
「アリシアさん」
リーネが小声で言う。
「何か感じますか」
アリシアは線を見つめる。
触らない。
近づかない。
ただ見る。
「……嫌な感じではないけど、落ち着かないです」
言葉を選ぶ。
「影喰いの時みたいに、動いてる感じは少ないです。でも……何かが、ここを探した跡みたいに見えます」
マリナがアリシアを見る。
「見えるのですか?」
「あ……少し。黒い線が」
「測定具なしでも?」
アリシアは迷った。
今、線は測定具で可視化されている。
でも昨日は、一瞬見えた。
「昨日は、一瞬だけ見えました。今日は測定具の光があるから、はっきり見えます」
マリナは静かに頷いた。
「特殊魔力反応との関連があるかもしれませんね」
その言葉に、アリシアは少し身構える。
だが、マリナの声は責めるものではなかった。
「黒い反応を持つからこそ、黒系統の干渉痕を見やすい可能性があります。これは役立つ感覚です。ただし、危険も伴います」
「危険……」
「見えるものには近づきたくなる。気づいた者は、自分で確認したくなる。ですが、あなたが見えるからといって、あなたが処理しなければならないわけではありません」
アリシアの胸に、その言葉がまっすぐ入った。
あなたが処理しなければならないわけではない。
全部を止めようとするな。
自分だけが全部を背負わない。
同じことを、別の人にも言われている。
アリシアは小さく頷いた。
「はい」
メリルが少し安心したように隣で息を吐く。
リーネは記録する。
シオンは静かに結界灯を見ていた。
彼の皮肉っぽい顔が、少しだけ真剣になっている。
「風の流れは?」
リーネがシオンに聞いた。
「ん?」
「あなたには、何か分かりますか」
シオンは面倒そうに眉を動かした。
「僕、測定具じゃないんだけど」
「風属性としての感覚です」
「はいはい」
シオンは結界灯から少し離れた位置で目を細めた。
風の魔力を使っているのかは分からない。
でも、彼の周りの空気がほんの少し揺れた気がした。
「……流れが変だね」
「変?」
メリルが聞く。
「窓の外から内側に向かう流れが、結界灯の手前で少し曲がってる。普通なら弾かれて終わるはずなのに、曲がって、触って、戻ってる感じ」
マリナがすぐに反応した。
「興味深いですね。結界担当の測定でも、押し込みではなく探触に近い結果が出ています」
「探触?」
「探るように触れる干渉です」
シオンは肩をすくめた。
「じゃあ、何かが中へ入りたかったわけじゃなくて、どこが薄いか見てた?」
マリナは慎重に答えた。
「その可能性があります」
空気が少し重くなる。
何かが、結界の薄い場所を探していた。
それは誰かの意思なのか。
魔性の本能なのか。
古い呪素の流れなのか。
分からない。
けれど、ただの偶然として流せる感じではなかった。
アリシアは胸元を押さえた。
ノアが足元で静かに言う。
「呼吸」
アリシアは小さく息を吸った。
怖い。
でも、飲まれない。
マリナは測定具の光を消した。
黒い線も消える。
「この結界灯は回収し、代替品を置きます。図書館全体の結界も再点検します。皆さんは、異常を見つけた場合、今まで通り報告してください」
「はい」
アリシアたちは返事をした。
説明が終わり、閲覧席へ戻る。
四人と一匹は、自然と同じ机に集まっていた。
リーネが記録紙を広げる。
「情報を整理します」
シオンが椅子に座りながら言った。
「出た。整理」
「必要です」
「分かってるよ」
リーネは淡々と書く。
「事実。結界灯に外部からの微弱干渉痕。結界破壊なし。侵入形跡なし。干渉は探触に近い。シオンの風感覚でも、流れが曲がって触れて戻っている」
メリルが補足する。
「アリシアちゃんは、黒い線が見えた。嫌な感じではないけど落ち着かないって」
「ノアは?」
リーネが聞く。
アリシアはノアを見る。
「ノアは……影喰いとは違うって。昨日もそう言ってた」
ノアは黙っている。
リーネは記録する。
「ノア反応。影喰いとは別種」
シオンがノアを見て言う。
「ほんとに調査班の一員だね、この猫」
ノアは鳴かない。
ただ、シオンを見上げた。
シオンは少し笑う。
「はいはい、失礼しました」
アリシアは少し驚いた。
シオンがノアに謝ったように見えた。
本人は謝ったつもりではないかもしれないが。
メリルが言う。
「推測は?」
リーネは紙の欄を変える。
「推測。影喰いの発生と結界灯の干渉に関連がある可能性。夜の守り手関連資料を調べている時期と重なる。外部から何かが図書館の結界を探っている可能性」
アリシアの胸が重くなる。
「怖いね……」
メリルが小さく言う。
アリシアは頷いた。
「うん」
シオンは頬杖をつく。
「でも、今のところ侵入はない。探ってるだけ。怖がるなら、そこは分けた方がいい」
リーネが少し意外そうにシオンを見る。
「まともな整理です」
「僕を何だと思ってるの」
「皮肉屋」
「間違ってないけどさ」
メリルが小さく笑った。
アリシアも少しだけ笑う。
怖い話をしているのに、少しだけ空気が緩んだ。
それがありがたかった。
リーネは最後に書く。
「対応。資料調査は司書管理下。異常発見時は接触禁止、即報告。結界灯周辺は立ち入り制限。私たちは記録継続」
「それでいいと思います」
アリシアは言った。
自分でも少し驚いた。
意見を言えた。
しかも、はっきりと。
リーネが頷く。
「では、それで記録します」
図書館を出る頃には、外は夕方になっていた。
曇り空の隙間から、淡い夕日が差している。
中庭の石畳に、長い影が落ちていた。
アリシアはその影を見つめる。
結界の継ぎ目。
光と闇の境界。
人と人の距離。
全部、境目がある。
境目は弱い場所かもしれない。
でも、役割を分ける場所でもある。
自分は今、その境目を見る役割を持ち始めている。
怖い。
けれど、それだけではない。
寮へ戻る途中、メリルが言った。
「今日、アリシアちゃん、ちゃんと意見言えてたね」
「え……」
「最後に、それでいいと思いますって」
「あ……」
アリシアは少し顔を赤くした。
「言ってから、自分でもびっくりした」
「すごく自然だったよ」
「本当?」
「うん」
メリルは柔らかく笑う。
「調査班の一員って感じだった」
アリシアの胸が温かくなる。
調査班の一員。
自分にも役割がある。
その言葉が、また胸に残った。
夜、部屋に戻ったアリシアは練習帳を開いた。
『今日は、結界担当のマリナ先生から、結界灯の説明を受けました。昨日の黒い線は、外部からの微弱な干渉痕でした。結界を破ったわけではなく、継ぎ目を探るようなものだったそうです』
書きながら、あの黒い線を思い出す。
嫌ではない。
でも落ち着かない。
探られている感じ。
『マリナ先生に、見えるからといって私が処理しなければならないわけではないと言われました。私はそれを覚えておきたいです』
ペンが少し止まる。
大事な言葉だった。
さらに書く。
『リーネさん、メリルさん、シオンさんと情報を整理しました。シオンさんも風の感覚で、流れが曲がって触れて戻っていると言いました。みんなで事実、推測、対応を分けました。私は最後に、それでいいと思いますと言えました』
アリシアは少しだけ笑った。
自分の意見。
小さくても、言えた。
最後に書く。
『私は、結界の継ぎ目を見るのが怖いです。でも、一人で触りません。一人で止めようとしません。見えたら、報告します』
ノアが机の上に飛び乗る。
「今日は?」
アリシアが聞くと、ノアは少し考えた。
「九十七点」
「昨日と同じ」
「安定して高いということよ」
「そっか……」
「結界灯の説明を聞けた。黒い線を見ても踏み込まなかった。マリナの言葉を受け取れた。最後に意見も言えた」
「減点は?」
「黒い線を見た時、胸を押さえすぎ。周囲に不安が少し出てた」
「うぅ……」
「でも、呼吸できた」
ノアは尻尾を揺らした。
「だから今日は良い」
アリシアは頷いた。
窓の外は夜になっていた。
曇り空で星は見えない。
それでも、学園の魔導灯が淡く光っている。
その灯りの境目に、影が落ちる。
アリシアは練習帳の最後に一行を書き足した。
『境界は怖い。でも、境界を見つけられるなら、守れるものもあるかもしれない』
ノアはその一文を見て、静かに目を細めた。
「悪くないわ」
アリシアは小さく笑った。
その時だった。
窓の外。
遠くの中庭の端で、ひとつの魔導灯が一瞬だけ揺らいだ。
ほんのわずか。
普通なら見逃すような、淡い揺れ。
けれどアリシアは気づいた。
胸の奥の夜が、かすかに波立つ。
「……ノア」
声が小さく震える。
ノアも窓の外を見た。
金色の瞳が細くなる。
遠くの灯りの足元に、細い黒い線が一瞬だけ走った。
そして、消えた。
アリシアは立ち上がった。
怖い。
でも、もう一人で抱えない。
「報告しよう」
ノアが言うより先に、アリシアはそう言った。
ノアは一瞬だけアリシアを見て、それから頷いた。
「行くわよ」
「うん」
アリシアは練習帳を掴み、部屋の扉へ向かった。
夜は、静かに動き始めていた。




