第307話 誰かの帰り道を守る影と、途切れた光の向こう側
朝の学院には、いつもより強い風が吹いていた。
東の空には薄い雲が幾重にも流れ、中央棟の尖塔に取り付けられた風向計が、金属の軋む音を立てながら向きを変えている。石畳に落ちた木の葉は、学生たちの足元を追い越すように転がり、植え込みの向こうでは庭師が飛ばされた枝を拾い集めていた。
アリシアは制服の襟元を押さえながら、学院の正門をくぐった。
肩に掛けた鞄の中には、昨日エレナから受け取った公開資料の複写が入っている。昨夜、確認した内容を日記帳へ書き終えてからは、それ以上調べずに眠ったため、今朝は頭も身体もすっきりしていた。
ただ、古い記録のことを考えなかったわけではない。
旧札番号だけで所在を判断してはいけないという意味にも読める、欠けた注意書き。
その記録が残された時期に、整理作業の担当者が交代していたこと。
そして、今も見つかっていない照合原簿。
どれも気になる事実だったが、今すぐ答えを出せるものではなかった。
「おい、アリシア。前を見ろ。考え事をしながら歩くと、あの落ち葉の山に突っ込むぞ」
石壁の上を歩いていたノアの声に、アリシアは顔を上げた。
すぐ前では、風に巻き上げられた落ち葉が小さな渦を作っていた。避けるほど危険なものではなかったが、アリシアが足を止めた途端、葉の一枚が顔の前を横切り、思わず目を閉じる。
「……びっくりした」
「だから言っただろ。古い紙のことを考えるのは結構だが、今朝の風はお前の都合に合わせちゃくれねえぞ」
ノアは得意そうに尻尾を立てたものの、次の突風で耳を伏せると、さっさと石壁から飛び降りた。
アリシアはその様子を見て、小さく笑った。
「……ノアも、風には気をつけてね」
「俺は猫だからな。着地には自信がある。だが、尻尾を勝手に横へ流されるのは気に食わねえ」
そんなやり取りをしながら中央棟へ向かっていると、前方の渡り廊下に人だかりができていることに気づいた。
普段なら学生たちが行き交う通路の中央に、学院の職員が立っている。
その足元には、小さな金属片がいくつか置かれていた。
アリシアが近づくと、職員の一人が学生たちへ説明している声が聞こえた。
「北側の渡り廊下で、照明魔導具の点検を行っています。通行は南側へ迂回してください。危険な状態ではありませんが、作業が終わるまでは近づかないようお願いします」
学生たちは少し不満そうにしながらも、指示に従って進路を変えていた。
アリシアも南側へ向かおうとしたが、ふと渡り廊下の天井へ目を向けた。
そこには、昨日の演習で扱ったものと同じ形式の照明魔導具が取り付けられている。
ただし、実習用の小型装置とは違い、廊下全体を照らすために複数の灯具が連結されていた。
今は朝なので、すべてが点灯しているわけではない。
それでも、建物の陰になる部分では、いくつかの灯具が淡い光を放っていた。
「……昨日の魔導具と、似てる」
アリシアが呟くと、ノアも天井を見上げた。
「似てるも何も、同じ系統の設備だろうな。だが、あっちは学院の設備だ。お前が勝手に触るもんじゃねえぞ」
「……うん。分かってる」
アリシアは頷き、職員の案内に従って南側へ歩き出した。
昨日の演習では、原因が分からない変化を確認した時、作業を止めて担当教員へ引き継いだ。
その判断が、実際の設備点検でも大切なのだろう。
アリシアはそう考えながら、少し遠回りになる廊下を進んだ。
◇
午前の授業が始まる前、教室では昨日の共同演習について話題になっていた。
メリルは机の上へ教科書を置きながら、窓の外を眺めている。
「今日、すごい風だね。朝、正門のところで髪がぐちゃぐちゃになっちゃった。せっかく結び直したのに、教室へ来るまでにまた乱れたんだから」
そう言って髪を押さえるメリルに、テオが笑った。
「僕も途中で書類を飛ばされそうになったよ。ちゃんと鞄へ入れておいてよかった」
エドガーは窓際に立ち、北側の渡り廊下へ目を向けていた。
「それより、あっちの点検はまだ終わっていないみたいだな。朝から職員が何人も出入りしている」
フィオナは教科書を開く手を止めた。
「照明設備の点検でしょう? 昨日の演習と同じような魔導具を使っていると聞いたけれど、何か問題があったのかしら」
「詳しいことは知らない。ただ、通行を止めているなら、点検が終わるまで待つしかないだろう」
エドガーはそう答え、席へ戻った。
アリシアはその会話を聞きながら、昨日の記録用紙を思い出していた。
自分たちが見た影の変化と、北側の渡り廊下で行われている点検が関係しているかどうかは分からない。
同じ系統の魔導具だからといって、同じ問題が起きているとは限らないからだ。
「……昨日の演習のこと、先生に聞いてみようかな」
アリシアが小さく言うと、フィオナが顔を向けた。
「何か気になることがあるの?」
「……北側の照明も、似た魔導具だったから。でも、同じことが起きてるとは限らないし、今の私たちにできることはないと思う」
テオは頷いた。
「それなら、授業が始まったら先生に聞いてみてもいいかもしれないね。昨日の記録がどう扱われたか、僕も気になる」
メリルは少し考え、机へ両手を置いた。
「そういえば、私たちが書いた記録って、次の班にちゃんと渡ったのかな。昨日は提出して終わりだったから、そこまでは見てなかったよね」
エドガーはその言葉に頷いた。
「引き継いだ先でどう判断されたかを知るのも、勉強になるだろうな」
五人は授業の始まりを待ち、教師が入室すると、昨日の演習について質問した。
教師は記録の確認状況を説明し、各班の報告がどのように扱われたかを簡単に伝えた。
アリシアたちが提出した記録については、点灯中に見られた変化が未確認事項として引き継がれ、担当教員による追加確認の対象になっているという。
「皆さんの班は、確認できなかったことをそのまま残していましたね。あの判断は適切でした。原因を推測することより、どの範囲まで確認したかを明確にすることが大切な場面でしたから」
教師はそう言い、教室全体へ視線を向けた。
「ただし、今日の授業では、もう一つ考えてもらいたいことがあります。記録を残すだけでなく、実際に問題が起きた時、誰が何を判断するのかということです」
学生たちは静かになった。
教師は黒板へ、簡単な状況を書き始めた。
設備の一部に異常が疑われる。
周囲には一般の学生がいる。
担当者はまだ到着していない。
その時、現場にいる者は何をすべきか。
アリシアは黒板を見つめた。
昨日までの演習では、目の前の魔導具について考えていた。
けれど、実際の設備では、その周囲を人が歩いている。
もし何かが起きれば、作業をしている人だけでなく、近くにいる人たちにも影響するかもしれない。
その違いを、今日の授業では考えることになるのだろう。
◇
授業が進むにつれ、教室ではいくつもの意見が出された。
異常が疑われる場所へ近づかないこと。
担当者へ知らせること。
周囲の人を安全な場所へ誘導すること。
そして、自分たちだけで原因を調べようとしないこと。
どれも、言葉にすれば難しいことではない。
しかし、教師が状況を少しずつ変えていくと、判断は簡単ではなくなった。
「では、通路の一部が使えなくなり、別の道へ迂回しなければならない場合はどうでしょう。周囲には、その建物に詳しくない学生もいます」
教師が尋ねると、教室の後方から手が挙がった。
「案内を出すべきだと思います。ただ、急いでいる人が多いと、見落とされるかもしれません」
「では、案内を出すだけで十分でしょうか」
別の学生が考え込み、隣の友人と小声で相談した。
メリルはアリシアたちの方へ身を寄せた。
「案内を出しても、みんながちゃんと見るとは限らないよね。私も急いでたら、掲示板を見落とすことがあるし」
テオは頷いた。
「それなら、分かれ道のところに人がいた方がいいかもしれない。でも、その人もずっと立っていられるわけじゃないから、交代する時の引き継ぎが必要になるね」
エドガーは少し考え、黒板へ目を向けた。
「それに、迂回先が安全かどうかを確認しないといけない。元の通路が危ないからって、別の危険な場所へ案内したら意味がないからな」
フィオナは三人の意見を聞き、静かに頷いた。
「誰かが一度判断したことを、そのまま続けるだけでは足りないのね。状況が変わったら、案内する側も判断を変えなければならないもの」
アリシアはその言葉を聞き、少しだけ考えた。
生活観測区画で、子供が庭へ出るかどうかを選んだ時のことが思い浮かぶ。
昨日できたことを、今日も必ずしなければならないわけではない。
周囲の状態が変われば、安全な選択も変わる。
そして、本人の気持ちが変わることもある。
「……あの、先生」
アリシアが手を挙げると、教師は頷いた。
「はい、アリシアさん」
「……もし、案内している途中で、相手が別の道へ行きたいと言ったら、どうしたらいいんでしょう。安全な道が決まっていても、その人が不安に思っていたら……」
教師は少し考え、黒板へ向き直った。
「よい質問です。まず、その人がなぜ不安を感じているのかを確認する必要があります。ただし、危険な場所へ戻ることを認めるわけにはいきません」
アリシアは頷いた。
「……じゃあ、安全な範囲で、ほかの道を選べるか考えるんですね」
「そうですね。安全を守ることと、相手の意思を無視することは同じではありません。状況によっては、立ち止まって説明することも必要です」
教室の中で、何人かの学生が頷いた。
アリシアは少しだけ安心した。
誰かを守ることは、その人の代わりにすべてを決めることではない。
その考えは、生活観測区画で学んできたこととも重なっていた。
けれど、今日の授業では、もう一つ大切なことを考えなければならなかった。
相手が自分で選べるようにするためには、まず安全な場所を用意する必要がある。
そのために、誰かが動かなければならない場面もあるのだ。
◇
昼休みを過ぎる頃、朝から続いていた風はさらに強くなっていた。
学院の中庭では、植え込みの枝が大きく揺れ、噴水の水が風に押されて片側へ流れている。学生たちは外で昼食を取るのを諦め、食堂や廊下の窓際へ集まっていた。
アリシアたちも食堂で昼食を終え、午後の授業へ向かうために中央棟の廊下を歩いていた。
北側の渡り廊下は、まだ一部の通行が制限されている。
そのため、南側の廊下には普段より多くの学生が集まっていた。
「今日はこっち、ずいぶん混んでるね」
メリルは前方の人の流れを見ながら、少し困ったように笑った。
「午後の授業まで時間はあるけど、あまりゆっくりしてると遅れちゃいそう」
エドガーは周囲を見渡し、落ち着いた声で答えた。
「急いでも通れる人数は変わらない。人の流れに合わせて進もう」
テオは廊下の先へ目を向けた。
「向こうの階段も混んでるみたいだね。別の階段へ回った方がいいかな」
フィオナは壁際にある案内板を確認した。
「西側の階段なら通れるはずよ。ただ、あちらも別の教室へ向かう学生がいるから、少し遠回りになるわね」
アリシアは四人の会話を聞きながら、周囲の学生たちへ視線を向けた。
急いでいる者もいれば、友人と話しながら歩いている者もいる。
普段より混雑しているものの、今のところ大きな混乱はなかった。
その時、廊下の奥で金属がぶつかるような音が響いた。
何人かの学生が足を止め、天井を見上げる。
続いて、低い振動音が廊下を伝わってきた。
アリシアも思わず顔を上げた。
天井に並ぶ照明魔導具のうち、二つが不規則に明滅している。
昼間のため周囲は明るかったが、建物の陰になった部分では、光の変化がはっきりと分かった。
「……何だ?」
エドガーが呟いた直後、廊下の奥から職員の声が聞こえた。
「皆さん、その場で押し合わず、壁際へ寄ってください! 設備の状態を確認します!」
学生たちの間にざわめきが広がった。
アリシアは周囲を見渡した。
人の流れが止まり、後ろから来た学生たちが何が起きたのか分からず、前へ進もうとしている。
その中で、廊下の中央にいた小柄な学生が、押されるように一歩よろめいた。
アリシアは反射的に身体を動かしかけたが、すぐに足を止めた。
人が密集している場所へ飛び込めば、かえって混乱を大きくするかもしれない。
「……メリル、後ろの人たちに、止まってもらえるように伝えてくれる?」
アリシアが声をかけると、メリルは一瞬驚いたものの、すぐに頷いた。
「分かった!」
メリルは後ろへ向き直り、少し大きな声で呼びかけた。
「前で設備の確認をしてるみたい! 押さないで、少し待ってください!」
テオは廊下の端にいる職員へ近づき、状況を確認しようとした。
エドガーは近くの学生たちへ声をかけ、通路の中央を空けるように促している。
フィオナは壁際にいた下級生へ、落ち着いてその場で待つように伝えた。
五人がそれぞれ動き始めたことで、周囲の学生たちも少しずつ状況を理解し始めた。
しかし、天井の振動音はまだ続いていた。
アリシアはその音を聞きながら、廊下の奥へ視線を向けた。
照明魔導具の一つが、細かく震えている。
外装そのものが大きく動いているわけではない。
けれど、天井との接合部から、微かな金属音が聞こえていた。
その下には、まだ数人の学生が立っている。
アリシアの胸が強く鳴った。
(……あそこにいる人たちを、先に離さないと。でも、私が急に動いたら、周りの人が驚くかもしれない)
その時、ノアがアリシアの足元へ近づいた。
「アリシア、上を見ろ。あの灯具、固定具の一つが緩んでやがる」
アリシアは息を呑んだ。
確かに、金属製の留め具の片側が、わずかに浮いているように見える。
ただし、今すぐ落ちるかどうかまでは分からない。
アリシアは近くの職員へ声をかけようとした。
けれど、その前に、廊下の奥で短い金属音が響いた。
留め具の一部が外れ、灯具の片側が傾いた。
周囲から悲鳴が上がる。
アリシアは反射的に右手を伸ばした。
「……影よ、支えて!」
足元に落ちていた自分の影が、床の上を滑るように伸びた。
それは廊下の壁際を伝い、傾いた灯具の真下へ広がる。
アリシアは灯具そのものを強引に引き戻そうとはしなかった。
まず、その下にいる学生たちを守る必要があった。
影は床から立ち上がり、薄い幕のように広がった。
次の瞬間、外れかけた灯具が大きく傾き、金属の外装が影の幕へ触れた。
重い衝撃が、アリシアの腕へ伝わってくる。
影は揺れたが、すぐには崩れなかった。
「……みんな、そこから離れて!」
アリシアの声が廊下へ響いた。
普段の彼女を知る学生たちは、一瞬だけ驚いた顔をした。
けれど、頭上の灯具が傾いているのを見て、すぐに動き始めた。
エドガーが近くの学生たちを壁際へ誘導し、フィオナは転びかけた下級生の腕を支えた。
メリルは後ろから押されそうになっていた学生たちへ声をかけ、テオは職員へ状況を伝えている。
廊下には緊張した声が飛び交ったが、誰かが無理に前へ進もうとする動きは少しずつ収まっていった。
アリシアは影を維持しながら、灯具の重さを確かめた。
完全に落下しているわけではない。
片側の固定具はまだ残っており、影が支えているのは傾いた外装の一部だった。
それでも、金属の重さは腕へじわじわと伝わってくる。
指先が少し震えた。
(……長くは支えられない。でも、みんなが離れるまでなら……)
アリシアは呼吸を整え、影の形を少しだけ変えた。
広く張った幕の中央を厚くし、灯具の下に支えを作る。
その一方で、周囲へ広がりすぎた部分を縮め、通路を塞がないようにした。
以前の自分なら、怖さのあまり影を大きく広げてしまったかもしれない。
けれど、今は何を守るために魔法を使っているのか、はっきりと考えられた。
灯具を壊さないことではない。
自分が一人で解決することでもない。
下にいる人たちが、安全な場所へ移動できるまで支えることだった。
「アリシア!」
エドガーの声が聞こえた。
「下にいた学生は全員離れた! 職員も来ている!」
アリシアは顔を上げた。
廊下の奥から、設備担当の職員が二人駆け寄ってくる。
そのうちの一人が、天井の固定具を確認し、もう一人が周囲の安全を確かめていた。
「影で支えている学生さん、そのまま少しだけ維持できますか!」
職員の声に、アリシアは頷いた。
「……はい。でも、あまり長くは……」
「分かりました。こちらで補助固定を入れます。合図するまで、急に力を抜かないでください!」
職員は携帯していた固定用の魔導具を取り出し、傾いた灯具へ向けた。
淡い光が金属の外装を包み、天井との間に補助の支えが作られる。
アリシアは影へかかる重さが少しずつ軽くなるのを感じた。
職員が固定状態を確認し、声をかけた。
「もう大丈夫です。ゆっくり影を戻してください」
アリシアは小さく息を吐き、影を少しずつ床へ戻した。
灯具は補助固定に支えられ、傾いた状態のまま静止している。
影が完全に足元へ戻った時、アリシアは膝の力が少し抜けるのを感じた。
けれど、倒れるほどではなかった。
ノアがすぐに近づき、足元から顔を上げた。
「おい、アリシア。胸はどうだ? 冷たくねえか」
アリシアは胸元へ手を当て、呼吸を確かめた。
冷たさはない。
痛みもなく、息苦しさも感じなかった。
ただ、影を支えに使った腕には、少し重さが残っている。
「……大丈夫。胸は冷たくないし、痛くもないよ。でも、腕が少し疲れたかも」
ノアはその答えを聞き、少しだけ耳を伏せた。
「なら、無理に動くな。今は職員の仕事だ。お前が最後まで面倒を見る必要はねえ」
アリシアは頷いた。
その時、近くにいた教師が駆け寄ってきた。
「アリシアさん、怪我はありませんか?」
「……はい。少し疲れただけです」
教師はアリシアの様子を確認し、休憩用の椅子へ案内した。
アリシアは一度だけ振り返り、廊下の様子を見た。
学生たちは職員の誘導で安全な場所へ移動している。
傾いた灯具の下には誰もおらず、設備担当者が周囲を確認していた。
その光景を見て、ようやく胸の奥の緊張が少しずつほどけていった。
◇
廊下の混乱が落ち着いたあと、アリシアは近くの休憩室で状態を確認してもらった。
窓際の椅子へ座ると、腕の重さが少しはっきり感じられた。
職員から水を渡され、ゆっくり口をつける。
ノアは隣の椅子へ飛び乗り、アリシアの顔をじっと見ていた。
「無茶しやがって」
低い声だった。
アリシアは少しだけ視線を落とした。
「……ごめんね」
「謝れって言ってるんじゃねえ。あの場で誰かを守ろうとしたことまで、間違いだとは言わねえよ」
ノアは尻尾を一度だけ揺らした。
「ただ、お前は影を使えるからって、何でも一人で支えようとするな。今回は職員が来たからよかったが、もっと重いものだったらどうするつもりだった?」
アリシアはすぐには答えられなかった。
確かに、灯具の重さを最初から正確に分かっていたわけではない。
影で支えられるかどうかも、完全な確信があったわけではなかった。
それでも、あの瞬間、下にいた学生たちを守りたいと思った。
「……怖かった。でも、あそこに人がいたから、何もしないのも怖かったの」
アリシアは両手を膝の上で重ね、ゆっくり続けた。
「……だから、みんなが離れるまで支えようと思った。ずっと一人で支えるつもりじゃなかったけど、どのくらい持つかは、ちゃんと分かってなかった」
ノアはしばらく黙っていた。
やがて、小さく息を吐いた。
「なら、次はそこも考えろ。助けるための力を使って、お前が倒れたら、助けられる側も困るんだからな」
アリシアは頷いた。
「……うん。気をつける」
その時、休憩室の扉が開き、メリルたちが入ってきた。
メリルはアリシアの姿を見るなり、ほっとしたように肩を下ろした。
「よかった……! 先生から大きな怪我はないって聞いたけど、顔を見るまでは心配だったよ」
アリシアは少し驚き、慌てて微笑んだ。
「……心配かけてごめんね。もう大丈夫だよ」
メリルは首を横に振り、アリシアの隣へ座った。
「謝らなくていいよ。でも、さっきの影、すごかったね。私、最初は何が起きたのか分からなかった」
テオは少し離れた椅子へ腰を下ろし、落ち着いた声で言った。
「アリシアが支えてくれたから、下にいた人たちが移動する時間を作れたんだと思う。でも、エドガーが声をかけてくれなかったら、僕もどこへ案内すればいいか迷ってた」
エドガーは少し照れくさそうに眉を寄せた。
「俺も、フィオナが下級生を支えてくれて助かった。あのまま転んでいたら、後ろの人たちまで巻き込まれていたかもしれない」
フィオナは静かに頷いた。
「みんなが別々の場所を見ていたから、できたことだと思うわ。アリシアが灯具を支えている間、私たちは周囲を動かすことができたもの」
アリシアは四人の顔を見渡した。
自分が影を伸ばした時、周囲のすべてを見ることはできなかった。
誰がどこにいたのか。
どの学生が転びそうになっていたのか。
職員がどこから来たのか。
それらを確かめられたのは、仲間たちがそれぞれの場所で動いてくれたからだった。
「……みんな、ありがとう。私、一人だったら、あの人たちを安全なところまで案内できなかったと思う」
アリシアがそう言うと、メリルは少しだけ目を潤ませた。
「私も、アリシアが声をかけてくれなかったら、どうしたらいいか分からなかったよ。怖かったけど、やることが分かったら動けたの」
その言葉に、アリシアは胸の奥が温かくなるのを感じた。
怖かったのは、自分だけではなかった。
それでも、仲間たちは動いてくれた。
誰か一人が勇敢だったからではない。
それぞれが、自分にできることを選んだのだ。
休憩室にはしばらく穏やかな沈黙が流れた。
窓の外では風が木々を揺らしていたが、先ほどの廊下の騒ぎは遠くなっている。
アリシアは水をもう一口飲み、ゆっくりと息を整えた。
◇
その後、設備担当者から簡単な説明があった。
北側の渡り廊下で行われていた点検と、今回の灯具の固定具が外れたことについて、現時点では直接の関係は確認されていない。
今回の設備は、強風による建物の振動や、固定具の状態など、複数の可能性を含めて調査する必要があるという。
学生たちへは、原因が分かるまで周辺の通行制限を続けることが伝えられた。
アリシアはその説明を聞き、静かに頷いた。
昨日の演習で見た光の変化と、今日の出来事が関係しているかどうかも、まだ分からない。
同じ系統の魔導具で起きたことだからといって、同じ原因だと決めつけることはできなかった。
けれど、今日の出来事を通して、アリシアは一つのことを強く感じていた。
記録を残すことは大切だ。
原因を確かめることも大切だ。
しかし、目の前で誰かが危険にさらされている時には、まずその人を守るために動かなければならない。
その判断をするためにも、普段から何を確認し、何を知らないのかを意識しておく必要がある。
アリシアは自分の手を見下ろした。
影を支えに使った時の感覚が、まだ指先に残っている。
以前よりも、力の向け方を考えられるようになった。
けれど、すべてを思いどおりにできるわけではない。
そのことを忘れずにいたかった。
◇
夕方、アリシアはノアと一緒に生活観測区画へ向かった。
腕の重さは休憩によって少し軽くなっていたが、今日は無理をせず、短い時間だけ顔を出すことにした。
談話室へ入ると、子供は窓際の机で絵を描いていた。
顔のない存在は少し離れた椅子に座り、静かにその様子を見守っている。
胸元の十一の光は安定しており、覆われた木箱にも変化は見られなかった。
アリシアが入ってくると、子供は嬉しそうに顔を上げた。
「アリシア、おかえり!」
「……ただいま」
アリシアが微笑むと、子供は机の上の絵を指さした。
「今日はね、橋の向こう側に何を描くか、少し考えてたの。でも、まだ決めてないんだ」
アリシアは椅子へ腰を下ろし、絵を覗き込んだ。
橋の下の青い線は、昨日と同じように残っている。
橋の端に描かれた小さな四角と、そこへ続く細い茶色の線も、そのままだった。
「……今日は、何か描き足したの?」
アリシアが尋ねると、子供は少しだけ首を傾げた。
「ううん。今日は見てただけ。でもね、橋の向こう側って、何があるか分からないでしょう。だから、行ってみたいって思うこともあるけど、ちょっと怖いかもしれないなって」
アリシアはその言葉を聞き、少しだけ胸が温かくなった。
子供は、まだ描かれていない場所について、自分なりに考えている。
それが現実のどこかを示しているのか、ただの想像なのかは分からない。
けれど、今はその違いを決める必要はなかった。
「……そうだね。知らない場所へ行くのは、楽しみな気持ちもあるけど、怖いこともあると思う」
子供は頷いた。
「うん。でも、もし行ってみて怖かったら、戻ってもいいんだよね?」
アリシアは微笑んだ。
「……うん。戻れる場所があるって、大切だと思うよ」
子供は嬉しそうに笑った。
「じゃあ、橋のこっち側にも、おうちを描こうかな」
そう言って茶色の色鉛筆を手に取ったが、すぐには描き始めなかった。
しばらく絵を眺めたあと、子供は色鉛筆を机へ置いた。
「……やっぱり、今日はまだ決めない」
アリシアは静かに頷いた。
「……うん。決めたくなった時でいいと思うよ」
子供は安心したように笑い、顔のない存在へ向き直った。
「ねえ、今日も一緒に見てくれる?」
顔のない存在は、しばらく動かなかった。
けれど、やがてゆっくりと立ち上がり、子供の隣へ歩いてきた。
子供は嬉しそうに笑い、机の上へ絵を広げ直した。
顔のない存在は絵へ身体を向け、しばらく静かに見つめていた。
そのあと、片手がゆっくり持ち上がった。
指先は、橋の下の青い線へ向けられていた。
子供は少し驚いたように目を丸くした。
「また、そこが気になるんだね」
顔のない存在は、しばらくその位置へ手を向けていた。
アリシアはその動きを見守った。
何度も同じ場所へ手を向けている。
けれど、その意味はまだ分からない。
子供は少し考え、絵を見つめた。
「……青い線って、何なのかな。私もまだ決めてないんだけど、あなたは何か知ってるの?」
顔のない存在は、すぐには動かなかった。
子供は返事を待ったが、しばらくすると小さく笑った。
「分からなくてもいいよ。また一緒に考えようね」
顔のない存在は、ゆっくりと手を下ろした。
アリシアはそのやり取りを見ながら、静かに微笑んだ。
今日、学院で起きた出来事とは違う、穏やかな時間だった。
けれど、ここにも大切なことがある。
相手が何を考えているか分からなくても、急いで答えを求めないこと。
そして、分からないままでも、一緒に過ごすことができるということ。
アリシアはそのことを、改めて胸に留めた。
◇
生活観測区画を出る前、アリシアはサラへ今日の出来事を簡単に伝えた。
サラはアリシアの腕の状態を確認し、無理をしていないか尋ねた。
「……少し疲れましたけど、休んだら楽になりました。胸の冷たさも、痛みもありません」
アリシアが答えると、サラは静かに頷いた。
「それならよかったわ。でも、今日はもう無理をしないでね。誰かを守るために力を使ったあとほど、自分の状態を確かめることが大切だから」
アリシアは頷いた。
「……はい」
サラは少し考え、続けた。
「今日の出来事で、怖かったことはなかった?」
アリシアはすぐには答えられなかった。
傾いた灯具。
下にいた学生たち。
影へ伝わってきた重さ。
その時の光景が、ゆっくりと胸の中へ戻ってくる。
「……怖かったです。もし間に合わなかったらって思いました」
アリシアは両手を重ね、少しだけ視線を落とした。
「……でも、みんなが一緒に動いてくれたから、助けられました。私一人だったら、きっとできなかったと思います」
サラは穏やかに頷いた。
「そうね。誰かを守ることは、一人で全部を背負うことではないもの。助けを求めたり、役割を分けたりすることも、大切な力よ」
アリシアはその言葉を聞き、少しだけ胸が温かくなった。
今日、自分は影を使った。
けれど、仲間たちもそれぞれの場所で動いてくれた。
職員たちが来て、設備を固定してくれた。
誰か一人の力だけで、あの場を守れたわけではない。
「……ありがとうございます。今日は、早めに休みます」
アリシアがそう言うと、サラは微笑んだ。
「ええ。それがいいと思うわ」
◇
夜、アリシアは自室の机へ向かい、日記帳を開いた。
窓の外では、昼間ほどではないものの、まだ風が木々の葉を揺らしている。
ノアは寝台の上で丸くなり、アリシアが筆を持つ様子を眺めていた。
アリシアは今日の出来事を、少しずつ書き始めた。
『学院の廊下で、照明魔導具の固定具が外れかけた。下に学生がいたため、影で灯具を支え、周囲の人が離れる時間を作った。』
『メリル、テオ、エドガー、フィオナが、それぞれ周囲の学生を案内してくれた。設備担当の職員が補助固定を行い、そのあと影を戻した。』
アリシアは筆を止め、少しだけ手を見つめた。
今はもう、腕の重さもほとんど残っていない。
けれど、あの時の緊張は、まだ胸の奥に残っていた。
怖かった。
間に合わないかもしれないと思った。
それでも、何かをしなければならないと感じた。
アリシアはゆっくり息を吐き、続きを書いた。
『影を使った時、どのくらい支えられるかは分からなかった。今後は、自分の力でできることと、ほかの人へ助けを求めることを、もっと早く考えたい。』
そこまで書いてから、アリシアは少しだけ微笑んだ。
今日の自分は、以前よりも少しだけ勇気を出せたと思う。
けれど、勇気があることと、無理をすることは同じではない。
その違いを、忘れずにいたかった。
「……ノア、今日はありがとう」
アリシアが声をかけると、ノアは片目を開けた。
「何だ、急に」
「……灯具の固定具が緩んでるって教えてくれたでしょう。それに、あとでちゃんと休むように言ってくれたから」
ノアは少しだけ尻尾を揺らした。
「俺は見えたことを言っただけだ。お前が無茶しすぎないように見張るのも、いつもの仕事みてえなもんだしな」
アリシアは小さく笑った。
「……それでも、ありがとう」
ノアは少しだけ顔を背けた。
「まったく、お前はそういうところだけ妙に素直だな」
その声には、いつもの毒舌の奥に、少しだけ柔らかい響きがあった。
アリシアは日記帳へ最後の一文を書き加えた。
『誰かを守るために、私にもできることがある。でも、それは一人で全部を背負うことではない。』
書き終えると、アリシアは日記帳を閉じた。
古い目録の六番目の空白は、まだ埋まっていない。
照合原簿の行方も、東側と西側で観測された反応の意味も、分からないままだ。
けれど、今日、学院で起きた出来事は、アリシアにとって確かな経験になった。
自分の影は、誰かを怖がらせるためだけのものではない。
誰かが安全な場所へ移動するまで、その時間を支えることもできる。
そして、その力を使う時には、仲間たちの存在を信じていい。
アリシアは灯りを落とし、寝台へ入った。
ノアはいつものように隣へ移動し、丸くなって目を閉じた。
窓の外では、風が少しずつ弱まり始めている。
胸に冷たさはなく、身体に痛みもない。
アリシアは穏やかな呼吸を続けながら、ゆっくりと目を閉じた。
今日、影が支えたのは、傾いた灯具そのものではなかったのかもしれない。
その下にいた誰かが、安全な場所へ戻るための、ほんの短い時間。
そして、その時間を作るために動いた仲間たちの思いだった。
アリシアはそのことを胸に留めながら、静かな眠りへ落ちていった。




