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『忘れられた六つ目の神器に選ばれました 〜人見知りな闇の少女と毒舌黒猫の学園英雄譚〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第306話 消された行き先と、影がつないだ引き継ぎ



 朝の学院には、昨夜の冷え込みがまだ残っていた。


 中央棟へ続く石畳には薄い朝露が降り、植え込みの葉先から落ちた雫が、歩いていく学生たちの靴元で小さく弾けている。東の空はよく晴れていたが、建物の陰へ入ると空気がひんやりとして、アリシアは制服の襟元を少しだけ引き寄せた。


 肩の高さにある石壁の上を、黒猫のノアが器用に歩いている。


「で、今日は放課後に資料室か。昨日の手紙に書いてあった、例の注意書きを見に行くんだな」


「……うん。エレナ先生に、詳しく教えてもらおうと思ってるの。でも、今日は共同演習の続きもあるから、授業が終わってからになるけど」


「順番を決められるようになったのは結構なことだ。もっとも、お前の場合は予定を決めたあとで、別の心配事を三つくらい増やす癖があるがな」


 アリシアは思わずノアを見上げた。


「……そんなに増やしてないと思う」


「昨日の夜、寝る前に手紙を二回読み直してただろ。あれで心配してないと言い張るなら、俺は猫じゃなくて立派な白馬だ」


 黒い毛並みを朝日に光らせながら言われても、まったく説得力がなかった。


 アリシアが小さく笑うと、ノアは不満そうに尻尾を揺らしたが、それ以上からかうことはしなかった。


 鞄の内側には、エレナ・ヴァイスから届いた封筒が入っている。


 照合原簿そのものは見つかっていない。


 けれど、同じ時期の整理作業について残された別の記録に、原簿の取扱いに注意するような書き込みがあったという。


 昨日、その知らせを受け取った時、アリシアはすぐに資料室へ向かいたい気持ちを覚えた。それでも、先に約束していた生活観測区画での時間を選び、子供が庭へ行かずに絵を描くことを自分で決めた話を聞いた。


 今朝になっても、その選択を後悔してはいなかった。


(……調べたい気持ちはある。でも、急いで行ったからって、読めない文字が読めるようになるわけじゃない。先生のお話を、落ち着いて聞こう)


 中央棟の入口では、学生たちが何人か立ち止まり、掲示板を見上げていた。


 共同演習の班ごとの順番が張り出されているらしい。


 アリシアが人の輪の外側から覗こうとすると、先に到着していたメリルがこちらに気づき、手を振った。


「アリシア! こっちこっち! 私たちの班、午前中の二番目だって!」


 その声に何人かが振り返り、アリシアは反射的に肩をすくめた。けれど、メリルが人の間に少しだけ場所を作ってくれたので、小さく礼を言って掲示板へ近づいた。


 今日の演習では、昨日まで準備していた引き継ぎ用紙を実際に使うことになっていた。


 複数の班が同じ設備の点検作業を順番に担当し、途中で作業を引き継ぐ。


 最初の班がすべてを終えるわけではない。


 途中で担当者が替わることを前提に、何を確認したのか、何を確認できていないのか、次の班がどこから判断を始めればいいのかを残す。


 それが今回の課題だった。


「昨日、先生が最後に言ってたでしょう。途中で予想外のことが起きるかもしれないって。私、そこがちょっと気になるんだよね」


 メリルは掲示板から視線を戻し、声を落とした。


「記録を書く練習だと思ってたけど、何か仕掛けがあるのかな。魔導具が急に壊れるとか、前の班の記録が間違ってるとか」


「先生が用意した演習なんだから、危険なことはさせないと思うけどね」


 背後から聞こえたテオの声に、メリルが振り返る。


 エドガーとフィオナも一緒だった。


 テオは掲示板へ目を向けながら、少し困ったように笑った。


「ただ、記録が完全じゃない状況はあるかもしれない。昨日、僕たちが確認したのは外装だけだったし、次の班がその続きをするなら、どこまで分かっているかが大事になるから」


「だったら、まず前の班の記録を読むことだな。自分たちの作業を始める前に、何が引き継がれているかを確認しよう」


 エドガーがそう言うと、フィオナは静かに頷いた。


「それと、分からないことがあったら、最初から決めつけないことね。アリシアが昨日言ってくれたように、確認できていない部分をそのまま残す判断も必要だと思うわ」


 四人の視線が集まり、アリシアは少しだけ頬を赤くした。


 自分が言ったことを覚えていてくれたのは嬉しい。


 けれど、全員から期待されると、まだ少し緊張する。


「……私も、間違えるかもしれないから。みんなで確かめながら進めたい」


 アリシアがそう答えると、エドガーは真面目な表情で頷いた。


「もちろんだ。一人で全部見つける必要はない。俺たちは班なんだからな」


 メリルがその言葉に勢いよく頷き、テオは「それなら安心だね」と笑った。


 フィオナはアリシアの表情が少し和らいだことに気づき、何も言わずに隣へ並んだ。


 朝の鐘が鳴り始め、学生たちはそれぞれの教室へ歩き出した。


 アリシアも仲間たちと一緒に廊下へ入ったが、鞄の中の封筒には手を伸ばさなかった。


 今は、目の前の授業に集中しようと思った。


     ◇


 共同演習が行われる実習棟は、中央棟の北側にあった。


 天井の高い実習室には、金属製の作業台が六つ並び、各台の周囲には安全用の境界線が引かれている。壁際には魔力供給を遮断する装置と、緊急時に教師を呼ぶための呼鈴が設けられていた。


 今日の課題に使うのは、廊下や倉庫などで使用される小型照明魔導具だった。


 学生たちが扱うものは演習用に調整されており、供給される魔力も低く制限されている。それでも、内部の接続を誤れば光が不安定になることがあるため、教師の許可なく覆いを外したり、供給部へ触れたりすることは禁止されていた。


 アリシアたちの班が作業台へ近づくと、前の班の学生が記録用紙を差し出した。


「外装の目視確認は終わっています。内部の点検はまだで、教師の立ち会いが必要です。あと、点灯確認の時に一度だけ光が弱くなったように見えたんですが、再現できませんでした」


 説明した学生は、少し申し訳なさそうに眉を寄せた。


「記録には書いてあります。でも、見間違いだった可能性もあるので、異常があったとは断定していません」


 エドガーは用紙を受け取り、記載内容へ目を通した。


「分かった。確認した範囲と、まだ分からない部分を引き継ぐ。説明してくれてありがとう」


 前の班が離れると、五人は作業台の周囲へ集まった。


 メリルは記録用紙を読み上げながら、確認済みの項目へ印をつけていく。


 テオは魔導具の位置と安全装置を確認し、フィオナは教師の指示書と照らし合わせて作業範囲を整理した。


 アリシアは前の班の記録の最後にある一文へ目を留めた。


『点灯時、一時的な光量低下の可能性あり。原因未確認。』


 たった一行だった。


 けれど、その一行があることで、次に何を確かめるべきかが変わる。


「……この光が弱くなったっていうのは、どのくらいだったんだろう」


 アリシアが呟くと、テオが記録を覗き込んだ。


「時間は書いてないね。すぐ戻ったのか、しばらく続いたのかも分からない」


「前の班へ聞きに行けるか、先生に確認しよう。記録だけで判断するより、本人から聞いた方がいいこともある」


 エドガーがそう提案し、教師へ声をかけた。


 教師は前の班への確認を許可したが、同時に一つの条件を付けた。


「質問して構いません。ただし、口頭で聞いた内容も記録してください。あとから別の人が読む時、何が最初の記録に書かれていて、何が追加で確認された情報なのか分かるようにすること」


 アリシアはその言葉を聞き、静かに頷いた。


 エドガーとテオが前の班へ確認に行っている間、メリルは記録用紙の空欄を見つめていた。


「ねえ、アリシア。これって、もし本当に光が弱くなったなら、もう一回点けてみた方がいいのかな」


「……先生の許可があれば、そういう確認もあると思う。でも、先に前の班が何をしたのか聞いた方がいいかもしれない」


「そうだよね。何回も点けたり消したりしてたなら、別の原因があるかもしれないし」


 メリルは頷いたものの、少し落ち着かない様子だった。


 普段の実習では、決められた手順に従って作業を終えればよかった。


 しかし、今日は途中から作業を引き継いでいる。


 自分たちが最初から見ていたわけではないため、何かを確認するたびに、その前の状態を考える必要があった。


 フィオナはそんなメリルの様子に気づき、机の上の用紙を少し手前へ寄せた。


「全部を今すぐ決めなくても大丈夫よ。まず、私たちが確かめたいことを整理しましょう。前の班が何を見たか分かれば、必要な確認も絞れるはずだから」


 メリルは少し息を吐き、笑みを浮かべた。


「うん。ありがとう。何だか、ちゃんと終わらせなきゃって焦っちゃった」


「終わらせることも大事だけど、次の班へ安全に渡せることも課題だからね」


 フィオナがそう答えた時、エドガーとテオが戻ってきた。


 前の班によれば、光が弱くなったように見えたのは最初の点灯直後だったという。時間は一呼吸にも満たず、その後は同じ現象を確認できなかった。


 ただし、記録した学生自身も、周囲の明るさが変わった影響だった可能性を否定できないと話していた。


 五人はその情報を追加記録へ書き込み、教師へ確認を求めた。


 教師は記録を読み、頷いた。


「では、こちらの監督下で一度だけ点灯確認を行いましょう。何か気になることがあれば、結果を急がずに止めてください」


 作業台の周囲に、他の班の学生も数人集まってきた。


 演習では互いの作業を見学することが許可されており、異なる班がどのように判断するかを学ぶことも目的の一つだった。


 教師が安全装置を確認し、魔導具へ低い魔力を供給した。


 小さな乳白色の石が淡く光り、作業台の上へ柔らかな明かりを落とす。


 最初の数呼吸は、何も起きなかった。


 メリルが記録へ「点灯を確認」と書きかけた時、アリシアは魔導具の下に落ちる影が、一瞬だけ揺れたことに気づいた。


 光そのものが弱くなったのか。


 それとも、石の内側で光の向きが変わったのか。


 判断できるほど長い変化ではなかった。


「……先生、少し待ってください」


 自分でも驚くほどはっきりした声が出た。


 周囲の学生が振り返り、アリシアの胸が強く鳴った。


 けれど、教師はすぐに供給を止め、落ち着いた声で尋ねた。


「何か確認しましたか?」


 アリシアは作業台の下へ視線を向けたまま、ゆっくり答えた。


「……光が弱くなったかどうかは、分かりません。でも、下にできていた影の形が、一瞬だけ変わったように見えました。私の見間違いかもしれないです」


 教師は頷き、供給を完全に遮断した。


「よく伝えてくれました。今の段階で原因を決める必要はありません。ほかに見えた人はいますか?」


 テオが少し考え、手を挙げた。


「僕は石の光を見ていました。明るさが変わったかどうかは分かりませんが、アリシアが声をかける直前に、光の端が少し動いたようには見えました」


 エドガーは首を横に振った。


「俺は供給部の表示を確認していたから、光そのものは見ていない。表示には目立つ変化はなかったと思うが、細かな数値までは読めなかった」


 フィオナとメリルも、それぞれ見ていた場所を説明した。


 五人の認識は、完全には一致していなかった。


 教師はそれを聞き終えると、少しだけ微笑んだ。


「では、今の結果をどう記録しますか?」


 メリルは筆を握り直し、しばらく考えた。


「……光が弱くなった、とは書けないと思います。でも、何もなかったとも書けません」


 エドガーが頷いた。


「供給部の表示に大きな変化は見られなかった。ただし、細かな変化を確認できる状態ではなかった、と書こう」


 テオは記録用紙へ視線を落とした。


「それから、アリシアが影の変化を見たことと、僕が光の端の動きを見たことは、別々に残した方がいいね。同じ現象だったかどうかは分からないから」


 フィオナは最後に、教師へ尋ねた。


「このまま次の点検へ進んでもいいのでしょうか。それとも、今の変化について確認できる先生へ引き継ぐべきでしょうか」


 教師は少しだけ表情を引き締めた。


「よい質問です。今回の演習では、供給部の詳細な点検は学生の担当範囲に含まれていません。したがって、皆さんが原因を突き止める必要はありません」


 その言葉に、メリルはほっとしたように肩を下ろした。


 けれど、教師の説明はそこで終わらなかった。


「ただし、確認できなかった現象を『問題なし』として引き継いではいけません。必要な情報を残し、適切な担当者へ渡すことも、点検作業の一部です」


 アリシアはその言葉を聞き、胸の奥が静かに引き締まるのを感じた。


 自分たちがすべてを解決しなくてもいい。


 けれど、分からないことを分からないまま放置するのではなく、次の人が判断できる形で渡す責任がある。


 五人は作業を一度中断し、記録用紙を整え直した。


 メリルが確認済みの項目を書き、テオが観察された変化を整理する。エドガーは作業を止めた時点の状態を確認し、フィオナは教師の指示によって供給を遮断したことを明記した。


 アリシアは最後に、次の担当者へ伝える欄へ短い文章を書き加えた。


『点灯中に影の形の変化を観察したが、光量低下との関係および原因は未確認。学生による追加点灯は行わず、担当教員の判断を待つこと。』


 書き終えた時、手のひらには少し汗が滲んでいた。


 けれど、今度はその文字を消したくならなかった。


 自分が見たことを、見た範囲で伝えた。


 それ以上でも、それ以下でもない。


 教師が用紙を確認し、次の班へ引き継ぐことを許可すると、見学していた学生たちの間から小さな声が上がった。


「原因が分からなくても、そこで終わっていいんだな」


「でも、記録が曖昧だったら、次の班は困るだろうね」


「最初の班が一行残してくれたから、今回も気をつけられたんだと思う」


 その声を聞きながら、アリシアは前の班から渡された記録用紙へ目を向けた。


 もし最初の学生が、見間違いかもしれないと思って何も書かなかったら。


 自分たちは、同じ変化に気づけただろうか。


 答えは分からない。


 けれど、あの一行があったからこそ、注意して見ることができたのは確かだった。


     ◇


 演習が終わると、実習室には道具を片づける音と、学生たちの話し声が広がった。


 メリルは記録用紙を提出したあと、長く息を吐いた。


「思ってたより、ずっと緊張した……。私、途中で『異常なし』って書きそうになったもん」


 テオは笑いながら、机の端に置かれた筆を片づけた。


「僕も、最初は一度点けて終わりだと思ってた。でも、前の班が何を見たか聞いておいてよかったね」


 エドガーは腕を組み、少し離れた作業台を見た。


「それに、アリシアが止めてくれなかったら、俺たちは表示だけ見て作業を終えていたかもしれない。見ている場所が違うと、気づくことも違うんだな」


 アリシアは慌てて首を横に振った。


「……私も、影しか見てなかったから。エドガーが供給部を見てくれていたし、テオも光を見てくれていたから、みんなで確かめられたんだと思う」


 その言葉に、フィオナが柔らかく微笑んだ。


「そうね。でも、気づいたことを言葉にしてくれたのはアリシアよ。自分の見たものに自信がなくても、伝えることはできるのだと、私も勉強になったわ」


 アリシアは返事を探し、少しだけ視線を落とした。


 褒められることには、まだ慣れない。


 それでも、以前のように自分の意見を否定したくなる気持ちは、あまり湧いてこなかった。


「……ありがとう。次も、みんなで考えたい」


 小さく答えると、メリルが嬉しそうに笑った。


「もちろん! 今度は私も、書く前にちゃんと確かめるね」


 教室へ戻る廊下には、昼の明るい光が差し込んでいた。


 窓の外を歩く学生たちの声が聞こえ、遠くの訓練場からは魔法の練習に使う標的が動く音が響いている。


 アリシアはその景色を眺めながら、今日の演習を思い返した。


 古い記録を調べている時、自分は何度も、書かれていないことに悩んできた。


 けれど、今日、自分たちが記録を残す側になってみて、初めて分かったこともある。


 何かが起きた時、その場にいた全員が同じものを見ているわけではない。


 何を見たのか。


 何を見られなかったのか。


 何を確かめる前に作業を止めたのか。


 その違いを残すことは、思っていたより難しかった。


(……昔の人たちも、こんなふうに、途中で誰かへ渡さなきゃいけなかったのかな)


 アリシアは鞄の中の封筒を思い出した。


 今日の放課後、エレナが見つけた記録について話を聞く。


 そこには、当時の人が何を残そうとしたのか、少しだけ手がかりがあるかもしれない。


 けれど、今のアリシアは、その期待を確信へ変えないようにしていた。


     ◇


 放課後の資料室には、午後の光が長く差し込んでいた。


 高い書架の間には古い紙と木材の匂いが漂い、窓辺の机では数人の学生が静かに資料を読んでいる。受付の奥では、エレナ・ヴァイスが書類を整理していた。


 アリシアが声をかけると、エレナは顔を上げ、穏やかに微笑んだ。


「いらっしゃい、アリシアさん。昨日のお手紙は届きましたか?」


「……はい。今日は、書いてあった記録について教えていただきたくて来ました」


「もちろんです。ただ、先にお伝えしておきますね。今回見つかったものは、照合原簿そのものではありません。それに、書かれている内容も一部しか読めていないので、期待しているような答えが得られるとは限りません」


 アリシアは頷いた。


「……分かっています。読めるところだけでも、何が書いてあるのか知りたいです」


 エレナはその返事を聞き、机の上に用意していた薄い資料袋を開いた。


 中から取り出されたのは、古い整理作業記録の複写だった。


 原本は保存上の理由から別の場所で管理されており、アリシアが見ることを許可されたのは公開範囲の複写だけだった。


 紙には細かな罫線が引かれ、日付らしい数字と、作業項目を示す短い文字が並んでいる。


 そのうちの一箇所だけ、欄の外へはみ出すように手書きの文章が添えられていた。


「こちらです」


 エレナが指先で示した部分には、薄くかすれた文字が残っていた。


 アリシアは身を乗り出しかけたが、すぐに姿勢を整えた。


 古い文字の中には、これまで見てきた資料と似た形のものもある。


 けれど、途中で筆跡が重なっていたり、紙の傷と文字が区別しにくくなっていたりして、すぐには読めなかった。


「……『原簿』って、ここに書いてあるんですか?」


「はい。そこは比較的はっきりしています。ただし、その前の二文字が『照合』なのかどうかは、原本を見ても判断が分かれるところです」


 エレナは別の紙を取り出し、判読できた範囲だけを写した転記を見せた。


 そこには、次のように記されていた。


『……原簿、移管時……照合……。旧札番号をもって……所在……することなかれ。』


 アリシアは息を呑んだ。


 最後の部分だけは、比較的はっきり読める。


 けれど、文章全体として何を指示しているのかは、分からなかった。


「……『旧札番号をもって、所在……することなかれ』」


 アリシアは小さく読み上げ、途中で口を閉じた。


 空白の部分を、自分の想像で埋めてしまいそうになったからだった。


 エレナはその様子を見て、静かに頷いた。


「そこが今回、注意していただきたい部分です。『旧札番号をもって』というところと、末尾の『することなかれ』は、比較的読みやすいのですが、その間の文字が欠けています」


 アリシアは複写へ目を落とした。


「……旧札番号だけで、何かを判断しちゃいけないって意味でしょうか」


「その可能性はあります。ただ、何を判断してはいけないのかまでは、今の状態では確定できません」


 エレナは机の端に置いた別紙へ指を移した。


「たとえば、旧札番号だけで保管場所を決めてはいけない、という意味だったのかもしれません。あるいは、旧札番号だけで原簿の所在を断定してはいけない、という注意だった可能性もあります」


 アリシアは頷きかけ、そこで止まった。


 どちらも、ありそうな説明に聞こえる。


 けれど、どちらか一つが正しいと決める根拠は、まだない。


「……この書き込みは、前に見せてもらった照合用紙と同じ人が書いたものなんでしょうか」


「それも分かりません。筆跡には似ている部分がありますが、当時の事務記録では同じような書き方をする人が多かったようですし、複写だけで同一人物と判断することはできません」


 エレナは少し言葉を切り、アリシアの表情を確かめた。


「それから、もう一つ大切なことがあります。この注意書きが残された記録は、以前見つかった照合用紙とは別の綴りに含まれていました。作業時期は近いようですが、同じ箱について書かれたものだとは確認できていません」


 アリシアはその説明を聞き、胸の中でいくつかの情報を整理した。


 旧札番号。


 照合用紙。


 別置された原簿。


 そして、今回の注意書き。


 言葉だけを並べれば、すべてが一つの出来事につながっているように見える。


 けれど、記録の出どころはそれぞれ違い、同じものを指している証拠はまだない。


「……じゃあ、この注意書きが見つかったからって、前の箱の原簿がどこにあるか分かったわけじゃないんですね」


「そのとおりです。ただ、旧札番号の扱いについて、当時の整理担当者が何らかの注意を残していた可能性は高くなりました」


 エレナは穏やかに答えた。


 その声には、落胆を和らげようとするような曖昧な慰めはなかった。


 分かったことを分かったと言い、分からないことを分からないと言う。


 アリシアは、その姿勢に安心を覚えた。


 資料の中に答えがないことは、残念だった。


 けれど、ないものをあるように扱われる方が、今はずっと怖かった。


「……先生、この書き込みがある記録は、どうして今まで見つからなかったんですか?」


 エレナは少し考え、机の上に置かれた目録へ目を向けた。


「見つからなかったというより、今まで調べていた分類とは別のところに入っていたんです。こちらは保管箱の内容を整理する記録ではなく、作業中の連絡事項をまとめた綴りでした」


「……連絡事項?」


「ええ。担当者の交代や、作業を一時的に止めた理由、ほかの部署へ確認を依頼したことなどが記されるものです。ただし、すべての作業が残されているわけではありません」


 エレナは別の頁を開き、いくつかの短い記録を示した。


 そこには、棚の修理が終わるまで移動を控えるようにという指示や、確認担当者の不在によって作業を翌日に延ばしたことなどが書かれていた。


 アリシアはそれらを読み、今日の共同演習を思い出した。


 自分たちも、作業を止めた理由を書いた。


 原因が分からない現象を、次の担当者へ引き継ぐためだった。


「……今日、学院で似たようなことをしたんです」


 思わず口にすると、エレナが顔を上げた。


「そうなのですか?」


「……共同演習で、前の班から魔導具の点検を引き継ぎました。途中で光の様子が少し変わったかもしれなくて、でも原因が分からなかったので、先生に相談して作業を止めたんです」


 アリシアは言葉を選びながら、五人で記録を残したことを説明した。


 エレナは途中で遮らず、静かに耳を傾けていた。


「……それで、作業を止めた理由も、誰が何を見たのかも、分けて書きました。今この記録を見ていると、昔の人も、次の人が困らないように何かを書き残そうとしたのかなって思って」


 エレナは少しだけ微笑んだ。


「そうかもしれませんね。ただ、その人が何を考えていたかまでは、今の資料からは分かりません」


 アリシアは頷いた。


 その返事を聞いても、がっかりはしなかった。


 むしろ、今日の演習で感じたことが、少し違う形で胸の中へ戻ってきた。


 自分たちは、見たことをすべて書けたわけではない。


 短い時間に起きた変化を、正確に説明することも難しかった。


 それでも、次の人が誤解しないように、言葉を選んだ。


 昔の記録を書いた人も、同じように何かを伝えようとしたのかもしれない。


 けれど、その意図を今の自分が勝手に決めてはいけない。


「……先生、この記録の前後には、何か続きがありますか?」


 アリシアが尋ねると、エレナは綴りの目録を開いた。


「あります。ただし、今回の注意書きと直接つながるかどうかは分かりません。前の頁には、整理作業の担当が替わったことが記されています。後ろの頁には、別の保管区画について確認を依頼した記録があります」


「……担当が替わったんですか?」


「ええ。理由は書かれていません。単なる勤務上の交代だったのか、作業の区切りだったのかも分かりません」


 アリシアは少し考えた。


 担当が替わる。


 その前後で注意書きが残される。


 今日の演習と似た状況にも見える。


 けれど、それだけで何かが隠されたとは言えない。


「……後ろの頁に書かれている保管区画は、前に見た箱が置かれていた場所と同じなんでしょうか」


「今の整理番号では、同じ場所ではありません。ただし、当時の区画名と現在の区画名が一対一で対応しているとは限りません」


 エレナはそこで、机の上に一枚の図を広げた。


 それは現在の保管区画の見取り図ではなく、古い整理記録に記載された区画名を、確認できる範囲で並べた表だった。


 いくつかの欄には線が引かれ、別の名称へ移されたことが分かる。


 けれど、途中で線が途切れている箇所もあった。


「この時期、保管場所の名称が何度か変更されています。現在の区画名から過去の場所をたどることはできますが、すべての移動が記録されているわけではありません」


 アリシアは表を見つめた。


 古い札の番号が、そのまま今の箱の番号を示すとは限らない。


 同じように、古い区画名が、そのまま今の保管場所を示すとも限らない。


 今日見つかった注意書きは、そうした問題と関係しているのかもしれない。


 しかし、まだ推測の域を出ない。


「……先生、もしこの先も原簿が見つからなかったら、どうしたらいいんでしょう」


 尋ねたあとで、アリシアは少しだけ後悔した。


 それは、エレナにも答えられない質問かもしれない。


 けれど、エレナは困った顔をしなかった。


 机の上の複写を丁寧に揃え、少し考えてから答えた。


「見つからなかったという結果を、きちんと残すことになると思います。ただし、それは『原簿が存在しなかった』という結論とは違います」


 アリシアは静かに頷いた。


「……探した範囲では、見つからなかったってことですね」


「そうです。そして、今後別の資料が見つかれば、また確認できます。調査を一度区切ることと、可能性をすべて閉じてしまうことは同じではありません」


 その言葉は、アリシアの胸にゆっくりと染み込んだ。


 答えが見つかるまで、ずっと探し続けなければならないと思っていた時期があった。


 けれど、今は少し違う。


 探せる範囲を確かめ、分からないことを残し、必要になった時にまた調べる。


 それも、一つの向き合い方なのだろう。


「……ありがとうございます。今日見せてもらったこと、ちゃんと整理しておきます」


 アリシアが頭を下げると、エレナは穏やかに微笑んだ。


「ええ。複写の公開範囲については、こちらで確認したものをお渡しできます。ただし、判読できない部分を推測で補わないようにしてくださいね」


「……はい」


 アリシアは資料を受け取り、丁寧に鞄へしまった。


 その時、窓の外から夕方の鐘が聞こえてきた。


 資料室の机に差し込んでいた光は、いつの間にか少し赤みを帯びている。


 アリシアは立ち上がり、エレナへもう一度礼を言った。


 今日、新しい答えが見つかったわけではない。


 けれど、古い記録をどう読むべきかについて、確かな一つの注意を受け取った。


 それを忘れずにいたいと思った。


     ◇


 資料室を出ると、廊下の窓辺でノアが待っていた。


 黒い尻尾がゆっくり揺れ、アリシアが近づくと、片耳だけがこちらを向いた。


「どうだった? 原簿は見つかったか?」


「……ううん。やっぱり、原簿そのものは見つかってない。でも、旧札番号だけで何かを判断しちゃいけないっていう注意書きかもしれないものがあったの」


「かもしれない、ねえ。相変わらず、はっきりしねえ話だな」


 ノアはそう言いながらも、アリシアの顔をじっと見ていた。


「で、お前はどう思った?」


 アリシアは少し考え、窓の外へ目を向けた。


 夕方の学院では、授業を終えた学生たちが中庭を歩いている。


 笑い声が聞こえ、遠くの訓練場からは片づけの音が響いていた。


「……今日、演習で記録を引き継いだでしょう。あの時、私たちも全部は分からなかったけど、次の人が困らないように書こうとしたの」


 ノアは黙って聞いていた。


「……昔の人も、そうだったのかもしれない。でも、今残ってる文字だけで、その人が何を考えてたか決めるのは違うと思った」


 ノアは少しだけ目を細めた。


「なるほどな。古い紙に書かれた一言を、都合のいい答えに変えないってことか」


「……うん。それに、分からないことがあっても、ちゃんと残しておけば、次の人が考えられるから」


 アリシアはそう答え、鞄の中の複写へ手を添えた。


 今日の演習で自分たちが残した記録も、次の班が読むことになる。


 自分がその場にいなくても、見たことや考えたことの一部は伝わる。


 それは、少し不思議な感覚だった。


 ノアは小さく鼻を鳴らした。


「まあ、悪くねえ考えだ。もっとも、お前が今夜また古い文字を眺めて寝不足になったら、俺がその紙を踏んづけてやるからな」


 アリシアは思わず笑った。


「……それは困るよ。大事な複写なんだから」


「だったら、ほどほどにしとけ。俺の肉球は遠慮を知らねえぞ」


 そんなやり取りをしながら、二人は生活観測区画へ向かった。


     ◇


 夕方の談話室では、子供が窓際の机で絵を描いていた。


 庭へ続く扉は閉じられており、今日は外へ出る予定もなかった。


 子供は昨日、自分から庭へ行かないことを選び、室内で過ごした。


 その選択は今日も尊重されている。


 顔のない存在は少し離れた椅子に座り、子供の手元を静かに見ていた。


 胸元の十一の光は、変わらず穏やかに灯っている。


 覆われた木箱にも、目立った変化はなかった。


 アリシアが入ってくると、子供は嬉しそうに顔を上げた。


「アリシア、おかえり!」


「……ただいま。今日は何を描いてるの?」


 子供は机の上の絵を指さした。


 真ん中の橋の絵には、昨日描いた小さな四角が残っている。


 けれど、その隣に、新しく細い茶色の線が一本加えられていた。


「ここね、道にしてみようかなって思ったの。でも、まだ決めてないんだ」


 アリシアは椅子へ腰を下ろし、絵を覗き込んだ。


「……橋へ続く道?」


「うん。橋って、向こう側へ行くためにあるんでしょう。でも、橋のところまで行く道がなかったら、どうやって渡るのかなって思ったの」


 アリシアはその言葉を聞き、少しだけ目を見開いた。


 子供は絵を描きながら、自分なりに考えている。


 橋の下の青い線が何なのかは、まだ決まっていない。


 けれど、橋へ続く道について考え始めた。


 それは、昨日までとは少し違う変化だった。


「……なるほど。橋のところまで行く道があったら、向こう側へ渡れるかもしれないね」


 子供は嬉しそうに頷いた。


「うん! でも、道がなくても、草の上を歩けるかもしれないし、別のところから行けるかもしれないでしょう。だから、まだ考えてるの」


 アリシアは微笑んだ。


「……いろんな行き方があるんだね」


「そう! それにね、向こう側へ行きたいかどうかも、まだ分からないんだ」


 子供はそう言って、絵の向こう岸へ指を置いた。


 そこには、まだ何も描かれていない白い場所が広がっている。


「向こう側に何があるか、決めてないから」


 アリシアはしばらく、その白い部分を見つめた。


 何も描かれていない場所。


 けれど、それは必ずしも、何もない場所という意味ではない。


 子供がまだ何を描くか決めていないだけかもしれない。


 あるいは、何も描かずに残しておきたい場所なのかもしれない。


 その違いを、今の自分は大切にしたいと思った。


「……決めたくなった時に、決めればいいと思うよ」


 アリシアがそう言うと、子供は安心したように笑った。


「うん。今日は、ここまでにする!」


 子供は色鉛筆を置き、顔のない存在へ向き直った。


「ねえ、今日も一緒に見てくれる?」


 顔のない存在は、すぐには動かなかった。


 けれど、しばらくするとゆっくり椅子から立ち上がり、子供の隣へ歩いてきた。


 子供は嬉しそうに笑い、机の上へ絵を広げ直した。


「今日はね、ここに道を描こうかなって思ったの。でも、まだ決めてないんだよ」


 顔のない存在は絵へ身体を向けた。


 しばらくして、片手がゆっくり持ち上がった。


 指先は、橋の下の青い線へ向けられていた。


 子供は少し驚いたように目を丸くした。


「また青い線?」


 顔のない存在は、しばらくその位置へ手を向けていた。


 アリシアはその動きを見守った。


 これまでにも、同じ青い線へ手を向けることがあった。


 けれど、その意味は分からない。


 子供は少し考え、絵を見つめた。


「……青い線、気になるんだね。でも、今日は道のことを考えたいの」


 顔のない存在は、ゆっくりと手を下ろした。


 子供は嬉しそうに笑った。


「また今度、一緒に考えようね」


 アリシアはそのやり取りを見ながら、胸の奥が温かくなるのを感じた。


 相手が何かを示そうとしているように見えても、その意味をすぐに決める必要はない。


 そして、相手の反応を受け止めながら、自分が考えたいことを選ぶこともできる。


 子供は、その両方を少しずつ覚えているようだった。


     ◇


 談話室を出たあと、アリシアはサラと廊下で短く話した。


 窓の外では夕日が庭を赤く照らし、石畳の上に長い影が伸びている。


 サラは今日の子供の様子について説明し、外へ出ることを無理に勧めていないと伝えた。


「今日は絵を描く時間を楽しんでいたわ。庭へ行くかどうかについては、本人から話が出ていないので、こちらから繰り返し尋ねることもしていないの」


 アリシアは静かに頷いた。


「……それでいいと思います。あの子、今日は橋の向こう側に何を描くか考えていました」


 サラは穏やかに微笑んだ。


「そう。自分で考えたいことが増えているのね」


 アリシアは少し考え、今日の演習で感じたことを思い出した。


「……サラさん、今日、学院で引き継ぎの演習をしたんです。途中で分からないことがあっても、次の人が困らないように記録を残す練習でした」


 サラは興味深そうに顔を向けた。


「どんなことを学んだの?」


「……自分が見たことと、見ていないことを分けて書くのが、思っていたより難しかったです。でも、みんなで考えたら、少しずつ整理できました」


 アリシアは言葉を選びながら続けた。


「……それで、あの子たちのことも、私が見たことだけで全部分かったと思わないようにしたいなって」


 サラはしばらく黙っていた。


 その沈黙は、アリシアの言葉を確かめるためのものだった。


「大切な考え方だと思うわ。特に、言葉で気持ちを伝えることが難しい相手については、周りの人が意味を決めつけないことが必要だから」


 アリシアは頷いた。


 顔のない存在が青い線へ手を向けた理由は、まだ分からない。


 けれど、その動きを見た子供が何を感じ、どう受け止めたかは、本人の言葉から少しずつ知ることができる。


 その二つを混同しないことが大切なのだろう。


「……私も、ちゃんと待てるようになりたいです」


 アリシアがそう言うと、サラは穏やかに微笑んだ。


「もう、少しずつできていると思うわ。でも、待つことと、何もしないことは同じではないからね。必要な時には、相手が安心して選べるように準備することも大切よ」


 アリシアはその言葉を胸に留めた。


 庭へ続く扉の前で、子供が自分の意思を確かめられるようにしたこと。


 顔のない存在を、明確な希望がないまま外へ連れ出さなかったこと。


 そして、今日も二人がそれぞれの時間を過ごせるようにしていたこと。


 どれも、ただ待っていただけではなかった。


 相手が選べるように、周囲が考え続けている。


 アリシアはそのことを、改めて大切にしたいと思った。


     ◇


 夜、アリシアは自室の机へ向かい、エレナから受け取った複写を広げていた。


 窓の外には薄い雲が流れ、遠くの森から虫の声が聞こえている。


 ノアは寝台の上で丸くなり、時折尻尾を揺らしながらアリシアの様子を眺めていた。


 アリシアは複写の文字を一つずつ確認し、日記帳へ今日分かったことを書き留めていった。


『照合原簿そのものは未発見。』


『同時期の整理作業に関する別の記録に、原簿の取扱いについて注意を促す可能性のある書き込みが確認された。』


『旧札番号をもって何かを判断することを禁じるような文面があるが、欠損部分があり、具体的な意味は確定できない。』


 そこまで書いてから、アリシアは筆を止めた。


 今日の演習では、自分たちが確認した範囲を明確にすることが大切だった。


 ならば、古い記録についても同じように整理しなければならない。


 アリシアは新しい行を作り、続きを書いた。


『今回の注意書きが、以前確認した保管箱や照合用紙と直接関係するかどうかは不明。』


『当時の担当者が交代していた記録はあるが、交代理由や注意書きとの関係は未確認。』


 筆を置くと、アリシアは静かに息を吐いた。


 新しい手がかりは増えた。


 けれど、謎が一気に解けたわけではない。


 むしろ、今まで一つにつながっているように見えていたものを、もう一度分けて考える必要があるのかもしれない。


「……ノア、今日は少しだけ分かったことが増えたよ」


 アリシアが言うと、ノアは片目を開けた。


「そうか。で、原簿は見つかったのか?」


「……ううん。でも、旧札番号だけで何かを決めちゃいけないっていう注意があったかもしれないの」


 ノアは少しだけ耳を動かした。


「なるほどな。番号が同じだから同じものだ、って簡単には言えねえわけか」


「……うん。それに、昔の保管場所の名前も、今と同じとは限らないんだって」


 ノアは小さく鼻を鳴らした。


「面倒な話だな。だが、面倒だからって適当に決めたら、余計に面倒なことになる」


 アリシアは小さく笑った。


「……そうだね」


 ノアは少しだけ身体を伸ばし、続けた。


「それで、明日も資料室へ行くのか?」


 アリシアは少し考え、首を横に振った。


「……今のところは、行かないつもり。先生から新しい連絡があれば別だけど、今日聞いたことを整理しておきたいから」


 ノアは満足そうに目を細めた。


「結構。たまには古い紙にも休暇をやれ」


 アリシアは微笑み、複写を丁寧に封筒へ戻した。


 机の上には、今日の演習で使った記録用紙の控えも置かれている。


 自分たちが書いた文字と、遠い昔に誰かが残した文字。


 その二つは、同じものではない。


 けれど、どちらも次の人へ何かを伝えようとしている。


 アリシアはそのことを考えながら、日記帳へ最後の一文を書き加えた。


『分からないことを隠さずに残すことは、次の人が自分で考えるための助けになるのかもしれない。』


 書き終えると、アリシアは日記帳を閉じた。


 六つ目の神器の正体は、まだ分からない。


 古い目録の六番目の空白も、照合原簿の行方も、答えは出ていない。


 けれど、今のアリシアには、焦って答えを作る必要はないと思えた。


 確かめられることを確かめる。


 分からないことは、分からないまま残す。


 そして、必要な時には誰かと一緒に考える。


 今日の演習で仲間たちと学んだことも、エレナから教わったことも、サラとの会話も、少しずつ同じ場所へつながっているように感じられた。


 アリシアは灯りを落とし、寝台へ入った。


 ノアはいつものように隣へ移動し、丸くなって目を閉じた。


 窓の外では夜風が木々の葉を揺らし、遠くの森から虫の声が聞こえている。


 胸に冷たさはなく、身体に痛みもない。


 アリシアは穏やかな呼吸を続けながら、ゆっくりと目を閉じた。


 今日、古い記録の余白から見つかった注意書き。


 そして、学院の実習で、自分たちが次の班へ残した記録。


 どちらも、すべてを説明できるものではなかった。


 けれど、誰かが途中で立ち止まった場所を、次の人が知ることはできる。


 そのことを胸に留めながら、アリシアは静かな眠りへ落ちていった。

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