第308話 消えた灯りの下で、六つ目の影が見つめていたもの
翌朝、アリシアが目を覚ました時、窓の外には昨日とは違う静けさが広がっていた。
夜のうちに風は弱まり、学院の尖塔を囲む木々も、今はほとんど揺れていない。薄い雲の隙間から差し込む朝日が窓枠を照らし、机の上に置いた日記帳の端へ、柔らかな光の帯を落としていた。
アリシアは寝台の中でゆっくりと身体を起こし、昨日、影の魔法を使った右腕を確かめた。
指を曲げ伸ばししても、痛みはない。肩から肘にかけて残っていた重さも消えており、胸元へ手を当てても、いつもの体温以外に気になる感覚はなかった。
それでも、昨日の廊下で聞いた金属音は、思い出そうとしなくても耳の奥に残っていた。
(……みんな、怪我をしなくてよかった。でも、あの時、もし影が間に合わなかったら……)
そこまで考えたところで、寝台の足元から声がした。
「朝っぱらから難しい顔をするな。お前が寝ている間に、天井の灯具が夢の中まで追いかけてきたのか?」
ノアが前足を伸ばし、大きく欠伸をしていた。黒い毛並みには朝日が細く反射しており、眠そうな金色の目だけが、アリシアの顔をしっかりと見ている。
「……夢には出てこなかったよ。ただ、昨日のことを少し考えてたの」
「だったら、考える順番を間違えるな。最初に確認するのは、今のお前の身体だろうが」
アリシアが腕を持ち上げて見せると、ノアは満足したように尻尾を揺らした。
「痛みも重さもないなら、まずはそれでいい。昨日の反省は必要だが、起きてもいない失敗を何十通りも想像して、自分を疲れさせる必要はねえぞ」
「……うん。ありがとう」
「礼を言うなら朝飯をちゃんと食え。昨日みたいに魔力を使った翌日に、考え事で食事を残したら説教だからな」
アリシアは小さく笑い、寝台から降りた。
制服へ着替える間も、ノアは窓辺に座って外を眺めていた。昨日の強風で散った葉が中庭の隅に集まり、早朝から働く職員たちが、それを箒で掃き寄せている。
昨日の出来事があっても、学院の朝はいつもどおりに始まっていた。
けれど、アリシアには、そのいつもどおりの景色が少し違って見えた。
何も起きていないように見える場所でも、誰かが点検をしている。通路を掃除し、壊れたものを修理し、危険な場所へ人が近づかないようにしている。
自分が昨日、影で支えたのはほんの短い時間だったが、その前にも、そのあとにも、多くの人が働いていたのだ。
(……私が知らないところでも、誰かが誰かの安全を守ってるんだね)
アリシアは制服の袖を整え、鞄へ教科書を入れた。
今日は、昨日の出来事について学院から説明があるかもしれない。
その時、自分が見たことと、分からないことを混ぜずに話せるようにしておきたかった。
◇
学院へ向かう道には、普段より多くの学生がいた。
昨日の設備事故について話している者もいれば、授業の課題を気にしている者もいる。通路の一部が使えないため、中央棟へ向かう学生たちは南側の回廊を通り、いつもより少し長い列を作っていた。
アリシアが正門を抜けると、メリルが遠くから手を振った。
「アリシア! おはよう!」
その声に気づいたテオとフィオナも顔を上げ、エドガーは手元の書類を閉じてから近づいてきた。
「……おはよう、みんな」
アリシアが挨拶すると、メリルは真っ先に右腕へ視線を向けた。
「腕はもう平気? 昨日、休憩室では大丈夫って言ってたけど、朝になって痛くなることもあるでしょう?」
「……うん。今朝は重さもなくなったよ。ノアにも、ちゃんと確かめるように言われたの」
「俺が言わなきゃ、お前は窓の外を眺めながら三十分は考え込んでただろうな」
ノアが得意げに言うと、メリルは安心したように笑った。
「それならよかった。私も昨日、帰ってから何度も思い出しちゃったんだ。灯具が傾いた時の音、結構大きかったよね」
エドガーは周囲の人の流れを確認しながら、少し低い声で答えた。
「俺も覚えている。ただ、今は通路を塞がない方がいい。教室へ向かいながら話そう」
五人は人の流れに合わせ、中央棟へ向かって歩き始めた。
途中、昨日の事故が起きた廊下へ続く通路が見えた。入口には簡易の柵が置かれ、職員が学生たちを別の道へ案内している。
柵の向こうには、天井の一部を点検するための足場が組まれていた。
アリシアは思わず足を緩めた。
昨日、あの場所に人がいた。
自分の影が床を伸び、傾いた灯具の下へ広がった。
その記憶が戻ってきた途端、胸の奥が少し強く鳴った。
「アリシア?」
フィオナの声に、アリシアは顔を向けた。
「……ごめん。ちょっと、昨日のことを思い出して」
フィオナは柵の向こうを一度だけ見てから、アリシアの隣へ歩幅を合わせた。
「無理に見なくてもいいのよ。でも、気になるなら、あとで先生から説明を聞けるかもしれないわ」
アリシアは頷いた。
フィオナはそれ以上尋ねず、隣を歩き続けた。
その静かな気遣いが嬉しくて、アリシアは鞄の持ち手を握り直した。
◇
午前の授業が始まる前、教室へ担当教師が入ってきた。
普段より少し早い時間だったため、学生たちは不思議そうに顔を上げた。
教師は教卓へ書類を置き、教室全体を見渡した。
「昨日、中央棟の廊下で照明設備の一部が外れかける事故がありました。幸い、現時点で大きな怪我の報告はありません。ただし、設備の点検は続いており、原因もまだ確定していません」
教室のあちこちから、小さな声が聞こえた。
教師は学生たちが落ち着くのを待ち、続けた。
「事故の際、周囲にいた学生たちが誘導を手伝い、設備担当者が到着するまで落下を防ぐための魔法が使われました。協力してくれた皆さんには感謝します」
何人かの学生がアリシアたちの方を見た。
アリシアは思わず肩を縮めたが、隣のメリルが机の下で小さく親指を立てたため、少しだけ緊張が和らいだ。
「一方で、今回の出来事については、助けようとした行動だけでなく、その時にどのような危険があったかも確認する必要があります。これは誰かを責めるためではありません。次に似た状況が起きた時、より安全に対応できるようにするためです」
教師は黒板へ、昨日の事故現場を簡略化した図を描いた。
廊下の幅。
照明魔導具の位置。
学生たちがいた場所。
そして、職員が到着した方向。
アリシアはその図を見つめた。
昨日は目の前の灯具に意識を集中していたため、周囲の位置関係をすべて把握できていたわけではない。
図を見ることで、初めて分かることもあった。
「アリシアさん。昨日、影の魔法を使った時、最初に何を見ましたか?」
教師の声に、アリシアは背筋を伸ばした。
「……灯具が傾いて、その下に学生がいたことです。固定具が緩んでいるように見えたのは、ノアが教えてくれました」
教師は頷き、黒板の灯具を指した。
「では、魔法を使った時点で、灯具がどの程度の重さだったかは分かっていましたか?」
「……いいえ。正確には分かっていませんでした」
「その点は、今後の課題ですね。ただ、あなたは灯具を元の位置へ戻そうとせず、周囲の人が離れるまで支えることを優先した。その判断には意味がありました」
アリシアは小さく頷いた。
褒められたことは嬉しかったが、それだけで終わらせてはいけないと思った。
「……先生、もしもっと重かったら、私の影では支えられなかったかもしれません。その場合、どうしたらよかったんでしょうか」
教師は少し考えた。
「状況によります。危険な設備から距離を取ること、周囲へ知らせること、担当者へ助けを求めること。魔法を使う場合も、自分の限界を考えなければなりません。実際の事故では、すべてを正しく判断できるとは限りませんが、選択肢を知っておくことはできます」
エドガーが手を挙げた。
「昨日、俺たちはアリシアが灯具を支えている間に、学生たちを移動させました。ただ、最初から役割を決めていたわけではありません。あの場で別々に動いた結果、うまくいった部分もあると思います」
教師はその言葉に頷いた。
「そのとおりです。偶然うまくいったことと、次も安全にできることは同じではありません。だからこそ、振り返りが必要なのです」
テオはノートへ何かを書き込み、フィオナは黒板の図を静かに見つめていた。
メリルは普段より真剣な表情で教師の説明を聞いている。
アリシアは仲間たちの横顔を見て、昨日の廊下で感じた心強さを思い出した。
(……みんながいたから動けた。でも、次に同じことが起きた時も、誰かが無理をしなくて済むようにしたい)
その思いは、昨日よりもはっきりした形になっていた。
◇
授業が終わると、教師はアリシアたち五人へ声をかけた。
「皆さん、少しだけ時間をもらえますか。昨日の事故について、設備担当者から確認したいことがあるそうです」
五人は顔を見合わせた。
アリシアは少し緊張したが、教師の表情は落ち着いていた。
案内されたのは、中央棟の一階にある小さな会議室だった。
室内には長机が二つ並び、窓際には古い書棚が置かれている。机の上には、昨日の廊下を描いた図面と、設備点検の記録用紙が広げられていた。
設備担当の職員が二人、すでに席についていた。
そのうちの一人は、昨日、アリシアへ影をゆっくり戻すよう指示した人物だった。
「昨日は協力してくれてありがとう。今日は、事故の原因を決めるためではなく、現場で何が見えていたかを確認したいんだ」
職員はそう説明し、五人へ椅子を勧めた。
アリシアはノアを膝の上へ乗せ、机の端に置かれた図面を見た。
図面には照明魔導具の位置が記され、その周囲にいくつかの番号が振られている。
職員は最初に、エドガーへ尋ねた。
「君は、学生たちを壁際へ誘導していたね。最初に動いた時、灯具はどのくらい傾いていた?」
エドガーは少し考え、図面へ目を向けた。
「最初に見た時は、まだ大きく傾いていなかったと思います。金属音がして、周囲の学生が上を見たあと、アリシアが影を伸ばしました。その時には、片側が下がっていました」
「なるほど。音がした時点では、まだ完全には外れていなかったんだね」
職員は記録用紙へ書き込んだ。
続いてメリルとテオ、フィオナにも質問が向けられた。
メリルは後ろから来る学生たちの動きを、テオは職員へ知らせた時の状況を、フィオナは転びかけた下級生の位置を説明した。
それぞれが見ていたものは少しずつ違っていた。
同じ場所にいたのに、全員が同じ出来事を見ていたわけではない。
アリシアはそのことを、不思議な気持ちで聞いていた。
最後に、職員がアリシアへ向き直った。
「君が影を伸ばした時、灯具のどの部分へ力がかかっていたか覚えているかな」
アリシアは少し考え、図面の一角を指した。
「……外装の下側です。最初は広く支えようとしたんですけど、重さがかかる場所が分かったので、途中で影を厚くしました」
職員は頷いた。
「その時、灯具の光はどうなっていた?」
アリシアは思い出そうとした。
金属音。
傾いた外装。
学生たちの悲鳴。
影へ伝わった重さ。
その中で、灯具の光がどう変化したかは、はっきり覚えていなかった。
「……すみません。そこまでは見ていませんでした」
「分からないなら、それでいいよ。無理に思い出す必要はない」
職員は穏やかに答えた。
その時、ノアが膝の上で耳を動かした。
「光なら、俺は見てたぞ」
職員たちの視線がノアへ向いた。
学院ではノアが言葉を話すことを知る者もいたが、初めて直接聞く者は少し驚いた様子だった。
ノアはそんな反応を気にせず、図面へ目を向けた。
「灯具が傾く前から、二つの光が揃っていなかった。片方は普通に点いていたが、もう片方は短く明滅していたな。ただし、金具が外れた原因が光にあるかどうかまでは知らねえぞ」
職員は記録用紙へ視線を落とした。
「なるほど。明滅していた灯具と、固定具が外れた灯具が同じだったかは分かるかな」
「俺が見た限りじゃ、近い位置だった。だが、同じものだと断言するには、もう一度図面を見せてもらいたい」
ノアは慎重に答えた。
職員は図面をノアの方へ向け、灯具の配置を示した。
ノアはしばらく見つめていたが、やがて一つの位置へ前足を置いた。
「俺が見たのは、この辺りだ。だが、昨日の廊下は人が多かったし、角度も違う。記録には『その可能性がある』くらいにしておけ」
アリシアは少し驚いてノアを見た。
普段は自信満々に話すことの多いノアが、ここまで慎重に言葉を選んでいる。
職員もその意図を理解したようだった。
「ありがとう。確認できた範囲をそのまま残すよ」
その返事を聞いて、ノアは満足そうに尻尾を揺らした。
◇
聞き取りが終わる頃、もう一人の職員が別の書類を机へ置いた。
「実は、今回の設備について、昨日の時点では分からなかったことが一つあります」
その言葉に、五人は顔を上げた。
職員は書類の一部を指し示した。
「照明魔導具の固定具については、まだ調査中です。ただ、事故の直前に一部の灯具で起きた明滅について、設備側の記録が残っていました」
アリシアは思わず身を乗り出しかけたが、すぐに姿勢を戻した。
職員は続けた。
「通常、この設備では、点灯や消灯の切り替えがあった場合、簡単な作動記録が残ります。ところが昨日の明滅については、切り替えの指示が記録されていませんでした」
テオが眉を寄せた。
「つまり、誰かが操作したわけではないということですか?」
「そこまでは言えない。操作の記録が残らなかった可能性もあるし、設備内部の問題かもしれない。今の段階では、原因不明の明滅があったということだけだ」
職員はそう答え、記録用紙を閉じた。
エドガーは少し考え、尋ねた。
「昨日の事故とは別に、調査する必要があるということですね」
「そうなるね。固定具の問題と、光の変化が関係しているかどうかも、まだ分かっていない」
フィオナは静かに頷いた。
「同じ時間帯に起きたからといって、同じ原因とは限らないものね」
アリシアはその言葉を聞きながら、胸の奥に小さな引っかかりを覚えていた。
切り替えの指示が残っていない明滅。
昨日の演習で見た、原因を特定できなかった光の変化。
そして、ずっと以前から調べている東側と西側の反応。
どれも、まだ別々の出来事だ。
似ている部分があったとしても、同じものだと決めることはできない。
それでも、アリシアには気になることがあった。
「……あの、昨日の明滅は、どんな間隔だったんでしょうか」
職員は少し驚いたように顔を上げた。
「間隔?」
「……はい。短く光ったのか、長く消えていたのか……。もし記録があるなら、知りたいです」
職員は書類を確認した。
「明滅の細かい間隔までは、この記録には残っていないね。点灯状態に変化があったことは分かるけれど、それ以上は現場で見ていた人の証言が必要になる」
アリシアは頷いた。
「……ありがとうございます」
その答えを聞いても、疑問が消えたわけではなかった。
ただ、今の自分に分かることと、分からないことの境界は、少しはっきりした。
職員は最後に、今回の記録が正式な点検資料として保管されることを説明した。
アリシアたちが見たことも、その一部として残されるという。
会議室を出る時、アリシアは一度だけ振り返った。
机の上には、まだ多くの書類が広げられている。
自分たちが話した内容も、これから別の誰かが確認するのだろう。
そのことを思うと、少し不思議な気持ちになった。
◇
午後の授業を終えたあと、アリシアは学院の図書室へ向かった。
メリルたちはそれぞれ別の用事があり、今日はノアと二人だった。
窓から差し込む夕方の光が書棚の間へ長い影を落とし、机に向かう学生たちの手元を静かに照らしている。紙をめくる音と、遠くで椅子を引く音が、ときおり広い室内へ響いていた。
アリシアはいつもの席へ座り、鞄から古い記録の複写を取り出した。
エレナ・ヴァイスから受け取った公開資料。
そこには、旧札番号と現物の整理番号を照合する際の注意書きが残されている。
欠けた部分が多く、すべての文章を読むことはできない。
それでも、分かる範囲だけを丁寧に書き写すことはできた。
アリシアは日記帳とは別の調査用ノートを開き、昨日までの内容を確認した。
古い目録には、六番目の欄がある。
その欄は物理的に残っているが、記載はない。
旧札番号と現在の整理番号には、対応が確定していないものがある。
照合原簿は別置と記されているが、公開目録では所在を確認できていない。
そして、昨日受け取った資料には、番号だけで判断することを避けるよう求める注意書きが残されていた。
アリシアはそれらを見比べ、少しだけ眉を寄せた。
(……六番目の欄が空白なのは、最初から何も書かれなかったからなのかな。それとも、別の記録に続きがあるのかな……)
答えは出なかった。
けれど、以前よりも確かなことが一つある。
今、見えている記録だけでは、古い目録の意味を決められないということだ。
ノアは机の端へ座り、アリシアの手元を覗き込んだ。
「また同じ紙を眺めてるのか。そろそろ穴が開くぞ」
「……穴は開かないよ」
「分かってる。だが、見つからない原簿を睨んでても、紙の向こうから歩いてくるわけじゃねえ」
アリシアは小さく笑った。
「……うん。でも、昨日の資料に書いてあった注意書き、少し気になってるの」
ノアは片耳を動かした。
「番号だけで判断するな、ってやつか」
「……そう。もし古い札が別の箱へ付け替えられていたら、今の番号だけ見ても分からないことがあると思うの」
ノアは少し考え、尻尾を机の端へ巻きつけた。
「そりゃそうだろうな。だが、付け替えられたと決まったわけでもねえ。古い記録を調べるなら、まずは誰が、いつ、何を確認したのかを探すしかないだろ」
アリシアは頷いた。
「……エレナさんにも、次に会えたら聞いてみようと思う。でも、公開されてない資料まで見せてもらえるとは限らないし……」
「それでいいんだよ。見せてもらえないものを、こっそり覗こうとするな。お前がそんなことを始めたら、俺はまず尻尾で頭を叩く」
アリシアは思わず笑ってしまった。
「……そんなことしないよ」
「なら結構だ」
ノアは満足そうに目を細めた。
アリシアは複写を丁寧に重ね、調査用ノートへ新しい一文を書き加えた。
『旧札番号だけで現物の所在を判断しない。照合原簿の所在は未確認。担当者交代時の記録との関係も不明。』
書き終えると、少しだけ気持ちが落ち着いた。
分からないことを、分からないまま残す。
それは諦めることではない。
次に確かめるための場所を、見失わないようにすることだった。
◇
図書室を出た時には、空が少し赤く染まり始めていた。
アリシアはそのまま生活観測区画へ向かった。
今日は長く滞在する予定ではなかったが、昨日、子供が橋の絵について話していたことが気になっていた。
談話室へ入ると、子供は窓際の机で色鉛筆を並べていた。
顔のない存在は少し離れた椅子に座り、机の上へ向けて身体を傾けている。
胸元の十一の光は、いつもと変わらず安定していた。
アリシアが入ってくると、子供は嬉しそうに顔を上げた。
「アリシア! 今日も来てくれたんだね」
「……うん。少しだけだけど、会いたくなって」
子供は笑い、机の上の絵を指さした。
「今日はね、橋の向こう側を少し描こうと思ったんだけど、やっぱりまだ決められなかったの」
アリシアは椅子へ腰を下ろした。
「……そうなんだ。何か迷ってるの?」
子供は色鉛筆を一本持ち上げ、少し考えてから答えた。
「向こう側に何があるか分からないでしょう。だから、勝手に描いちゃっていいのかなって」
アリシアはその言葉を聞き、少しだけ首を傾げた。
「……絵だから、好きなものを描いてもいいと思うよ。でも、まだ決めたくないなら、そのままでもいいと思う」
子供はしばらく絵を見つめた。
「うん。じゃあ、今日は橋の下をもう少し見てみる」
そう言って、青い色鉛筆を手に取った。
橋の下には、以前から描かれている細い青い線がある。
子供はその線をなぞろうとしたが、途中で手を止めた。
「……ねえ、アリシア」
「……なあに?」
「この線って、川みたいにも見えるけど、川じゃないかもしれないよね」
アリシアは絵を覗き込んだ。
確かに、青い線は橋の下へ続いている。
けれど、それが水を表しているのか、別の何かなのかは分からない。
「……そうだね。青い線だからって、必ず川とは限らないと思う」
子供は少し嬉しそうに頷いた。
「じゃあ、まだ名前をつけないでおこうかな」
アリシアは微笑んだ。
「……うん。それもいいと思うよ」
その時、顔のない存在がゆっくりと手を持ち上げた。
指先は、橋の下の青い線へ向けられている。
子供は驚いたように顔を上げた。
「また、そこなんだね」
顔のない存在はしばらく動かなかった。
アリシアはその様子を静かに見守った。
何度も同じ場所を指している。
けれど、何を伝えようとしているのかは、まだ分からない。
子供は少し考え、青い色鉛筆を机へ置いた。
「……もしかして、ここをもっとよく見たいの?」
顔のない存在は、すぐには反応しなかった。
子供は少しだけ待ったあと、絵を机の中央へ寄せた。
「じゃあ、見やすいようにするね。でも、描き足すのはまだやめておく」
顔のない存在は、ゆっくりと手を下ろした。
アリシアはその動きを見ていたが、意味を決めつけることはしなかった。
子供が自分で考え、相手の反応を待ち、無理に答えを求めない。
その姿が、以前よりも少し頼もしく見えた。
◇
しばらくして、サラが談話室へ入ってきた。
手には、生活観測区画の簡単な記録用紙を持っている。
「今日は絵を描いていたのね」
サラが声をかけると、子供は頷いた。
「うん。でも、まだ完成してないの。橋の向こう側をどうするか、考えてるところ」
サラは絵を覗き込み、穏やかに微笑んだ。
「そうなのね。完成させるかどうかも、あなたが決めていいのよ」
子供は嬉しそうに笑った。
アリシアはその様子を見ながら、昨日の学院での出来事を思い出していた。
誰かを守るために動くこと。
相手の意思を尊重すること。
分からないことを急いで決めないこと。
それらは別々のことのようでいて、どこかでつながっているように感じられた。
ただ、そのつながりを言葉にするのは、まだ難しかった。
サラはアリシアへ視線を向けた。
「昨日の腕はどう?」
「……もう大丈夫です。今朝は重さもありませんでした」
サラは安心したように頷いた。
「それならよかったわ。今日は無理をせず、帰ったらゆっくり休んでね」
「……はい」
アリシアはそう答え、もう一度だけ子供の絵へ目を向けた。
橋の下の青い線。
橋の端の小さな四角。
そして、まだ描かれていない向こう側。
どれも、今は答えのないものだった。
けれど、子供はそれを不安だけで見つめているわけではない。
何を描こうかと考え、誰かと一緒に眺め、まだ決めないことを選んでいる。
その姿を見て、アリシアは少しだけ微笑んだ。
◇
夜、アリシアは自室の机へ向かい、今日の出来事を日記帳へ書き始めた。
学院では、昨日の事故について聞き取りが行われた。
設備の明滅には、操作の記録が残っていない部分があった。
ただし、その原因はまだ分かっていない。
固定具の問題との関係も未確認だった。
アリシアはその内容を丁寧に書き留めた。
続いて、生活観測区画での出来事を記録する。
子供は橋の向こう側をまだ描かず、青い線にも名前をつけなかった。
顔のない存在は、再び橋の下の青い線へ手を向けた。
その意味は不明のままだった。
アリシアは筆を止め、少しだけ考えた。
(……今日も、分からないことが増えた。でも、分からないまま残しておけば、いつか確かめられるかもしれない)
ノアは寝台の上で丸くなり、アリシアの様子を眺めていた。
「今日はずいぶん書いてるな。昨日の反省だけじゃ足りなかったのか?」
アリシアは小さく笑った。
「……今日は、聞いたことが多かったから。忘れないようにしておきたいの」
ノアは片目を細めた。
「なら、書き終えたら寝ろよ。紙の上の謎は逃げねえが、睡眠時間は逃げるからな」
「……うん。もう少しだけ」
アリシアは最後の一文を書き加えた。
『同じように見える出来事でも、同じ原因とは限らない。確かめられたことを大切にしながら、次に何を調べるべきか考えたい。』
書き終えると、アリシアは日記帳を閉じた。
古い目録の六番目の空白は、まだ埋まっていない。
照合原簿の所在も、東側と西側の反応の意味も、分からないままだ。
そして今日、学院の照明設備にも、新たな疑問が残った。
それらが一つにつながっているのか、それとも別々の出来事なのか。
今はまだ、誰にも分からない。
アリシアは窓の外へ目を向けた。
風の弱まった夜空には、雲の隙間から星が見えている。
その光をしばらく眺めてから、アリシアは灯りを落とした。
ノアが寝台の隣へ移動し、いつものように丸くなる。
アリシアは布団へ入り、静かに目を閉じた。
今日、誰かが見た光。
誰かが残した記録。
そして、まだ名前のついていない青い線。
そのすべてを急いで一つの答えへ結びつけることはできない。
けれど、見失わずにいることはできる。
アリシアはその思いを胸に留めながら、穏やかな眠りへ落ちていった。




