↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『忘れられた六つ目の神器に選ばれました 〜人見知りな闇の少女と毒舌黒猫の学園英雄譚〜』  作者: 伊佐波瑞樹


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
303/331

第303話 扉の向こうへ行きたいと、あの子が初めて願った日


 朝の生活観測区画には、焼きたてのパンの香りと、食器が触れ合う控えめな音が漂っていた。


 窓の外には薄い雲が広がっていたが、雨の気配はなく、建物を囲む木々の葉が穏やかな風に揺れている。談話室へ続く廊下には朝日が斜めに差し込み、壁際に置かれた小さな鉢植えの影を床へ伸ばしていた。


 子供は朝食を終えると、いつものように三枚の絵を机へ並べた。


 家と庭を描いた一枚目、橋を描いた真ん中の一枚、そして森と川を描いた三枚目。昨日、顔のない存在が指を伸ばした橋の下には、少し太くなった青い線が残っている。


 子供はその線をしばらく眺めていたが、今日は色鉛筆を手に取らなかった。


 代わりに、窓の方へ顔を向けた。


 談話室の窓からは、建物の内側に設けられた小さな庭が見える。石畳の通路と低い植え込みがあり、その先には木製の長椅子が置かれていた。生活観測区画の職員が手入れをしている場所で、季節の花がいくつか咲いている。


 子供は以前から、その庭を窓越しに眺めることがあった。


 けれど、今日はいつもより長く外を見ていた。


「ねえ」


 近くで記録を整理していた職員が顔を上げた。


「どうしたの?」


 子供は窓の外を指さし、少しだけ言葉を探した。


「……あそこって、行ってもいいところ?」


 職員はすぐには答えなかった。


 庭は生活観測区画に隣接しているが、これまで子供と顔のない存在が自由に出入りしていた場所ではない。建物の外へ出ることには、室内とは異なる安全上の確認が必要になる。


 ただ、子供が自分から外へ行きたいと尋ねたのは初めてだった。


 職員は机の上の記録を閉じ、子供の目線に合わせて椅子へ腰を下ろした。


「お庭のことかな。どうして行ってみたいと思ったの?」


 子供は少し考え、窓辺へ歩いていった。


「昨日、あの子と絵を見たでしょう。橋の下に何を描こうかなって考えてたんだけど、外にあるものを見たら、何か思いつくかもしれないって思ったの」


 職員は静かに頷いた。


 子供はさらに続けた。


「それにね、あそこにお花があるでしょう。前から近くで見てみたかったの。でも、勝手に行ったら駄目かなって思ってたから」


 その言葉を聞いた職員は、少しだけ表情を和らげた。


 子供は今まで、生活観測区画の中で自分の希望を少しずつ伝えられるようになっていた。食事の内容や休む時間、遊びたいこと、何もしないで過ごしたい時の気持ちも、以前より言葉にできるようになっている。


 それでも、建物の外へ行きたいという願いは、これまで口にしていなかった。


「教えてくれてありがとう。お庭へ行けるかどうかは、安全を確認してから相談する必要があるの。今すぐ行けるとは約束できないけれど、行ってみたいと思っていることは、ちゃんと伝えるね」


 子供は少し残念そうに窓を見たものの、すぐに職員へ向き直った。


「じゃあ、相談してくれる?」


「もちろん。それから、もし行けることになっても、その日に気が変わったら、行かなくてもいいんだよ」


 子供は不思議そうに首を傾げた。


「行きたいって言ったのに?」


「うん。行きたいと思う日もあれば、今日はやめておこうと思う日もあるでしょう。どちらでも大丈夫なの」


 子供はしばらく考え、それから小さく頷いた。


「分かった。じゃあ、今日は行けるかどうか聞いてみる」


 職員は微笑み、子供の希望を記録した。


 その時、談話室の奥にいた顔のない存在が、ゆっくりと窓の方へ身体を向けた。


 胸元の十一の光は、いつもと変わらず穏やかに灯っている。


 子供はその姿に気づくと、嬉しそうに声をかけた。


「ねえ、あなたもお庭、見てみたい?」


 顔のない存在は、すぐには動かなかった。


 職員は子供の問いかけを止めず、答えを急がせることもしなかった。


 やがて、顔のない存在は椅子から立ち上がり、窓の近くまで歩いてきた。


 そして、子供の隣に並ぶと、庭の方へ顔を向けた。


 子供は目を輝かせた。


「一緒に行きたいのかな?」


 職員は二人の様子を見ながら、穏やかな声で答えた。


「お庭に興味があるのかもしれないね。でも、一緒に行きたいかどうかは、まだ分からないから、決めつけずに聞いてみよう」


 子供は頷き、顔のない存在へ向き直った。


「もし行けることになったら、一緒に行く? 嫌だったら、ここにいてもいいよ」


 顔のない存在は窓の外を見つめたまま、しばらく動かなかった。


 その沈黙を、子供は急かさなかった。


 やがて、ゆっくりと片手が上がった。


 指先は窓ガラスに触れることなく、その向こうの庭へ向けられていた。


 職員はその動きを静かに見守った。


 何かを示そうとしているようには見える。


 けれど、それが外へ行きたいという意思表示なのか、ただ庭に興味を示しただけなのかは、まだ判断できない。


 子供は嬉しそうに笑いながらも、もう一度だけ尋ねた。


「お庭、気になるんだね。行けるかどうか分かったら、また聞くね」


 顔のない存在は、ゆっくりと手を下ろした。


 職員はその一連のやり取りを、見たまま記録へ残した。


 そこには、二人が庭へ行くことを決めたとは書かなかった。


 ただ、子供が外へ行きたいと希望したことと、顔のない存在が窓の向こうへ手を向けたことを、別々の事実として記した。


     ◇


 同じ頃、学院では午前の授業が始まろうとしていた。


 アリシアは教室の窓際で教科書を開きながら、昨日の出来事を思い返していた。


 顔のない存在が、子供の絵に自分から手を伸ばしたこと。


 そして、翌日も一緒に絵を見るという誘いに、頷いたように見えたこと。


 あの時、胸元の光が一瞬だけ明るくなったようにも見えたが、照明の影響かもしれず、実際の変化だったかどうかは分からない。


 それでも、アリシアの心に残っていたのは、光のことではなかった。


 子供が嬉しそうに笑ったことだった。


(……あの子は、何かを伝えようとしていたのかな。もしそうなら、私たちは、ちゃんと待てていたのかな)


 以前の自分なら、相手の反応が分からないと不安になり、何度も確かめたくなっていたかもしれない。


 けれど、昨日はそうしなかった。


 相手が何を伝えたかったのか分からなくても、子供との時間を途中で止めずに済んだ。


 それが、少し嬉しかった。


「アリシア、今日は共同演習の準備をするんだって」


 隣の席からメリルが声をかけた。


 アリシアは顔を上げ、机の上に置かれた案内用紙へ目を向けた。


「……うん。昨日、先生が説明してくれた引き継ぎの演習だよね」


「そうそう。今日は実際に作業するんじゃなくて、どういう記録を残すか考えるみたい。私、昨日の夜に少し考えてきたんだけど、書くことが多くなりすぎちゃって」


 メリルは苦笑しながら、鞄から一枚の紙を取り出した。


 そこには細かな文字がびっしりと並んでいる。


 アリシアは思わず目を丸くした。


「……すごい。こんなに考えたの?」


「うん。でも、途中から何が大切なのか分からなくなっちゃった。全部書けば安心かなって思ったんだけど、読む人が大変そうだよね」


 アリシアは紙を見つめ、少し考えた。


 記録を残すことは大切だ。


 けれど、情報が多すぎると、本当に必要なことが見つけにくくなる。


 それは、古い資料を調べる中でも感じていたことだった。


「……確認したことと、まだ確認していないことを、分けて書くのはどうかな。それから、次の人が最初に知っておいた方がいいことを、上にまとめるとか」


 メリルは目を輝かせた。


「それ、いいかも! じゃあ、作業の結果と注意することを分けてみようかな」


 アリシアは微笑み、メリルが紙へ線を引き始める様子を見守った。


 そこへエドガーとテオがやって来た。


 二人も演習の準備について話していたらしく、エドガーは手にした資料を机へ置いた。


「昨日の課題、考えてきたか?」


 メリルは勢いよく頷いた。


「考えてきたよ! ちょっと多くなりすぎたけど、今アリシアと整理してたところ!」


 テオは紙を覗き込み、思わず笑った。


「これ、全部引き継ぎに書くつもりだったの? 読むだけで授業が終わっちゃいそうだね」


「だから今、減らしてるんだってば!」


 メリルが頬を膨らませると、エドガーは苦笑しながら椅子を引いた。


「でも、最初に必要だと思うことを全部出すのは悪くない。そこから優先順位をつければいいんだからな」


 フィオナも加わり、五人はそれぞれの考えを出し合った。


 誰か一人の意見に決めるのではなく、次の班が困りそうなことを想像しながら、記録の形を整えていく。


 アリシアはその話し合いの中で、ふと一つのことに気づいた。


 引き継ぎとは、前の人が決めたことを、そのまま次の人へ押しつけることではない。


 前の人が何をして、何を確かめられなかったのかを伝え、次の人が自分で判断できるようにすることなのだ。


 その考えは、昨日まで資料室で見ていた古い書き込みと、少し違う意味で心に残った。


     ◇


 午前の授業が終わった頃、生活観測区画では、子供の希望について職員たちが相談していた。


 窓際の小さな机には、庭の見取り図と、普段の生活記録が置かれている。


 サラは子供から直接聞いた希望と、顔のない存在が示した動きを確認しながら、担当職員の説明に耳を傾けていた。


「子供は、庭の花を近くで見たいことと、絵を描くために外のものを見たいことを話しています。顔のない存在については、窓の外へ手を向ける動きがありましたが、外へ出ることへの同意とまでは判断していません」


 サラは頷いた。


「その区別は必要ね。子供の希望は明確だけれど、もう一人の意思については、別に確認する必要があるわ」


 職員は見取り図へ目を落とした。


「庭へ出るには、談話室から廊下を通り、外側の扉を開ける必要があります。距離は長くありませんが、今までの生活範囲とは違う場所になります」


 サラは図面を見ながら、静かに考えた。


 生活観測区画は、子供と顔のない存在を閉じ込めるための場所ではない。


 食事をし、眠り、遊び、何もしない時間を持つための場所として整えられてきた。


 けれど、安全上の理由から、移動できる範囲にはまだ制限がある。


 その制限をどう扱うかは、慎重に考えなければならなかった。


「庭そのものの安全確認は、以前から行われているのよね」


「はい。ただし、子供と顔のない存在が利用することを前提にした確認ではありません。足元の状態、出入口、周囲からの視線、途中で戻りたくなった場合の動線については、改めて確認が必要です」


 サラは頷いた。


「それから、外へ出ることを観測の機会として扱わないこと。子供が花を見たいと言ったからといって、何かの反応を確かめる理由にはならないわ」


 職員は真剣な表情で頷いた。


 東側の刺激と西側の反応については、これまでに慎重な観測が行われている。


 しかし、因果関係は証明されていない。


 六つの探索指標も封じられたままで、新しい試験を始める許可は出ていない。


 子供が庭へ出たいと望んだことを、研究上の都合へ結びつけてはいけない。


「もし実施するなら、生活上の外出として扱いましょう。本人たちが希望する範囲で、短い時間から始めることは検討できると思うわ。ただし、今日は準備と安全確認までにして、実際に出るかどうかは改めて相談しましょう」


 サラがそう言うと、職員は記録へ書き込んだ。


「分かりました。子供には、まだ決まっていないことも含めて説明します」


「ええ。期待させるために約束を先にするのではなく、今どこまで考えているかを伝えてあげて」


 サラは窓の外へ視線を向けた。


 庭には白い小さな花が咲き、風に揺れている。


 室内から眺めるだけでも美しい場所だったが、近くへ行けば土の匂いや葉の手触り、風の冷たさも感じられるだろう。


 それらは、誰かが研究のために与える刺激ではない。


 ただ、外にある世界の一部だった。


(……あの子たちが外へ行きたいと思った時、その願いをどう受け止めるか。私たちが試されているのは、きっとそこなのね)


 サラは静かに息を整え、必要な確認事項を一つずつ整理し始めた。


     ◇


 放課後、アリシアはフィオナたちと別れ、ノアと一緒に生活観測区画へ向かった。


 今日は資料室へ寄る予定はなかった。


 昨日まで調べていた照合原簿については、公開資料の範囲で所在を確認できていない。エレナ・ヴァイスから新しい連絡がない限り、今は調査結果を整理することにしていた。


 アリシアは廊下を歩きながら、今日の授業で考えたことを思い返していた。


 引き継ぐ人が、自分で判断できるようにすること。


 分からないことを隠さず、何が未確認なのか伝えること。


 それは、古い記録だけでなく、今の生活にも必要な考え方なのかもしれない。


「今日は資料室に寄らねえんだな」


 ノアが隣を歩きながら尋ねた。


 アリシアは頷いた。


「……うん。先生から何か分かったって連絡があれば別だけど、今は一度、調べたことを整理しようと思ってるの」


「ようやく古い紙から目を離したか。紙の方も少しは休めて喜んでるだろうよ」


 アリシアは小さく笑った。


「……紙は疲れないと思うけど」


「そりゃそうだ。疲れるのは読んでるお前の方だからな」


 ノアの言葉に、アリシアは少しだけ肩をすくめた。


 それでも、今日は不思議と気持ちが軽かった。


 何かを見つけなければならないという焦りが、少しずつ薄れている。


 その代わりに、今ある時間を大切にしたいという気持ちが強くなっていた。


 生活観測区画の入口へ着くと、いつもの職員が二人を迎えてくれた。


「おかえりなさい、アリシアさん。今日は少し、お話ししておきたいことがあります」


 アリシアは足を止めた。


 職員の声は落ち着いていたが、いつもとは少し違う真剣さがあった。


「……何かあったんですか?」


「心配するような異常が起きたわけではありません。実は、今朝、あの子から新しい希望が出たんです」


 アリシアは顔を上げた。


 職員は廊下の先にある談話室へ視線を向け、穏やかに続けた。


「窓の外に見える庭へ行ってみたい、と」


 アリシアは思わず瞬きをした。


 庭へ行きたい。


 その言葉は、彼女にとって予想していなかったものだった。


 けれど、少し考えれば不思議なことではない。


 子供は毎日、窓の外を眺めている。


 絵を描き、橋や家や森について考え、自分で選ぶことを少しずつ増やしてきた。


 そんな子供が、外へ行ってみたいと思うのは自然なことだった。


「……そうなんですね」


 アリシアはゆっくり頷いた。


「……あの子、自分から言ったんですか?」


「はい。花を近くで見たいことと、絵を描くために外のものを見てみたいことを話してくれました」


 アリシアの胸に、静かな喜びが広がった。


 子供が自分の願いを言葉にした。


 それは、何か特別な力を示したわけでも、古い謎の答えが見つかったわけでもない。


 けれど、今のアリシアには、とても大切な出来事に思えた。


「……行けるんでしょうか?」


 アリシアが尋ねると、職員は慎重に答えた。


「今は安全確認を進めているところです。まだ決定ではありません。ただ、サラさんとも相談して、生活上の希望として検討することになりました」


 アリシアは頷いた。


 職員はさらに説明した。


「顔のない存在も窓の外へ手を向ける動きを見せましたが、それだけで外出を希望しているとは判断していません。本人の意思を別に確認する必要があります」


 アリシアはその言葉を聞き、少しだけ表情を引き締めた。


「……はい。あの子が行きたいからって、もう一人も同じ気持ちとは限らないですよね」


「そうですね。二人とも、それぞれに選べるようにしたいと思っています」


 アリシアは丁寧に頷き、談話室へ向かった。


 ノアはその隣を歩きながら、小さく呟いた。


「外へ出たい、か。ずいぶん大きな一歩じゃねえか」


 アリシアはノアを見下ろした。


「……うん。でも、急がなくていいんだよね」


「そうだな。外へ出ることより、自分で行きたいって言えたことの方が、今は大事かもしれねえ」


 アリシアは静かに頷いた。


 その言葉を胸に留めながら、談話室の扉を開けた。


     ◇


 談話室では、子供が窓際の机に座り、三枚の絵を並べていた。


 顔のない存在は少し離れた椅子に腰を下ろし、窓の外へ身体を向けている。胸元の十一の光は安定しており、覆われた木箱にも変化は見られなかった。


 アリシアが入ってくると、子供はすぐに顔を上げた。


「アリシア、おかえり!」


「……ただいま」


 アリシアが微笑むと、子供は椅子から立ち上がり、窓の方を指さした。


「ねえ、聞いて! 今日ね、お庭に行ってみたいってお願いしたの!」


 その声には、期待と少しの緊張が混ざっていた。


 アリシアは子供の目線に合わせて椅子へ腰を下ろし、ゆっくり頷いた。


「……うん。さっき、職員さんから聞いたよ。自分からお願いしたんだね」


 子供は嬉しそうに笑った。


「そう! あそこにお花があるでしょう。近くで見てみたいの。それから、橋の下に何を描くか考える時、外のものを見たら何か思いつくかなって」


 アリシアは窓の外へ視線を向けた。


 庭には低い植え込みがあり、その手前に小さな花壇がある。


 白い花と淡い紫色の花が、風に揺れていた。


「……きれいだね。窓から見ても分かるけど、近くで見たら、また違うのかもしれないね」


 子供は大きく頷いた。


「うん! それにね、外の風って、どんな感じなのかなって思ったの」


 アリシアは少し驚いた。


 子供は今まで、窓から入る風を感じることはあっても、自分から外の風について話したことはなかった。


「……外の風、気になるんだね」


「うん。窓から入ってくる風と同じなのかな。それとも、もっといっぱい吹いてるのかな」


 子供は楽しそうに話しながら、窓の外を眺めた。


 アリシアはその横顔を見つめ、胸の奥が温かくなるのを感じた。


 以前の子供は、何かをしていいかどうか、周りの様子を確かめることが多かった。


 今でも慎重なところはある。


 けれど、今日は自分の興味を言葉にしている。


 それが嬉しかった。


「……行けるようになるといいね」


 アリシアが言うと、子供は頷いた。


「うん。でも、まだ決まってないんだって。安全かどうか確かめてから相談するって言われたの」


 その言葉を聞き、アリシアは少し安心した。


 子供は、今すぐ行けると約束されたわけではないことを理解している。


 それでも、希望を伝えたこと自体を喜んでいるようだった。


「……待っている間に、何かしたいことはある?」


 アリシアが尋ねると、子供は少し考えた。


「今日はね、お庭に行ったら何を見たいか考えたいの。でも、全部決めちゃうと、行った時につまらないかな」


 アリシアは小さく笑った。


「……じゃあ、一つだけ決めて、あとは行ってから考えるのはどうかな」


 子供は目を輝かせた。


「それ、いいね!」


 そして、机の上に置かれた三枚の絵へ目を向けた。


「じゃあ、私はお花を見る! それから、橋の下に何を描くかは、まだ決めないでおく!」


 アリシアは頷いた。


「……うん。それでいいと思うよ」


 子供は満足そうに笑った。


 その笑顔を見ながら、アリシアはふと、顔のない存在へ視線を向けた。


 窓の近くに座っているその存在は、こちらの会話を聞いているのかどうか分からない。


 けれど、今朝は自分から窓の外へ手を向けたという。


 アリシアは少し迷ったあと、子供へ尋ねた。


「……あの子にも、お庭のことを話したんだって?」


 子供は頷いた。


「うん。窓の外を指したみたいだったの。でも、行きたいかどうかは、まだ分からないんだって」


 アリシアは静かに頷いた。


「……そうだね。もし行けることになったら、その時にまた聞いてみようか」


 子供は少し考え、嬉しそうに笑った。


「うん! でも、嫌だったらここにいてもいいよって言うね」


 アリシアは微笑んだ。


 その言葉が、今の子供から自然に出てきたことが嬉しかった。


 誰かと一緒に何かをしたいと思うこと。


 そして、相手が同じことを望んでいるとは限らないと考えられること。


 その二つを、子供は少しずつ学んでいる。


 アリシアはその姿を見ながら、自分も同じように学んできたのだと思った。


     ◇


 夕方が近づく頃、サラが談話室へやって来た。


 子供は窓際で絵を見ていたが、サラの姿に気づくと顔を上げた。


「サラさん!」


 サラは穏やかに微笑み、子供の近くへ歩いてきた。


「こんにちは。今日は、お庭へ行ってみたいってお話ししてくれたんですってね」


 子供は大きく頷いた。


「うん! お花を見たいの。それから、外の風も感じてみたい!」


 サラはその言葉を聞き、静かに頷いた。


「教えてくれてありがとう。今、職員さんたちと一緒に、お庭へ行くために必要なことを確認しているところなの」


 子供は少し身を乗り出した。


「じゃあ、行ける?」


 サラは急いで答えず、子供の目を見て話した。


「まだ決まっていないの。お庭の足元や、途中で戻りたくなった時にすぐ戻れるかどうか、それから、安心して過ごせる場所かどうかを確かめる必要があるわ」


 子供は少し残念そうにしたが、すぐに頷いた。


「そっか。じゃあ、まだ待つんだね」


「ええ。でも、あなたが行きたいと思っていることは、ちゃんと分かっているわ。それから、もし行けることになっても、無理に行く必要はないのよ」


 子供は不思議そうに首を傾げた。


「行きたいって言ったのに?」


 サラは柔らかく微笑んだ。


「そう。今は行きたいと思っていても、その日になったら少し怖くなるかもしれないでしょう。そういう時は、やめてもいいの」


 子供はしばらく考え、それから頷いた。


「分かった。じゃあ、行けるようになったら、もう一回考える」


 サラは嬉しそうに頷いた。


「それでいいわ」


 アリシアは二人のやり取りを静かに見守っていた。


 サラは子供の希望を否定しなかった。


 けれど、すぐに叶えると約束することもしなかった。


 その間にある時間を、子供自身が考えるための時間として残している。


 アリシアはそのことに、静かな安心を覚えた。


 サラは続けて、顔のない存在へ視線を向けた。


「それから、もう一人にも、外へ行きたいかどうかを確認したいと思っているの。ただ、今すぐ答えを求めるつもりはないわ」


 子供は頷いた。


「うん。あの子も、自分で決めた方がいいもんね」


 サラは穏やかに微笑んだ。


「そうね。あなたと同じように、あの子にも選ぶ時間が必要だと思うの」


 その時、顔のない存在がゆっくりと身体を動かした。


 窓の外へ向けていた顔を、子供とサラの方へ向ける。


 胸元の十一の光は、変わらず安定していた。


 サラはその動きを見守り、静かに声をかけた。


「お庭のことを話しているの。外へ行くかどうかは、まだ決まっていないわ。もし興味があるなら、あとで一緒に考えてもいいし、今は何も決めなくてもいいのよ」


 顔のない存在は、しばらく動かなかった。


 サラはそれ以上問いかけず、子供の方へ視線を戻した。


 その時、子供が小さく声を上げた。


「あっ」


 アリシアも顔を向けた。


 顔のない存在が、ゆっくりと片手を持ち上げていた。


 その指先は、窓の外ではなく、机の上に置かれた三枚の絵へ向けられている。


 子供は少し驚いたように目を丸くした。


「絵?」


 顔のない存在は、ゆっくりと手を下ろした。


 子供はしばらく考え、それから嬉しそうに笑った。


「じゃあ、今日も一緒に見ようか!」


 サラはその様子を静かに見守った。


 顔のない存在が何を伝えたかったのかは分からない。


 庭へ行くことについて答えたかったのかもしれないし、ただ絵に興味を示しただけなのかもしれない。


 けれど、子供はその動きを受け止め、自分の言葉で誘い直していた。


 アリシアはそのやり取りを見ながら、胸の奥に静かな温かさが広がるのを感じた。


 言葉がなくても、何かを伝えようとすることはできる。


 けれど、その意味を決めるのは簡単ではない。


 だからこそ、急がず、何度でも確かめながら、一緒に過ごしていくことが大切なのだろう。


     ◇


 その夜、アリシアは自室の机に向かい、今日の出来事を日記帳へ書き留めていた。


 窓の外には薄い雲が流れ、時折、星の光がその隙間から覗いている。遠くの森からは虫の声が聞こえ、部屋の中には穏やかな静けさが満ちていた。


 ノアは寝台の上で丸くなり、アリシアが筆を動かす様子を眺めていた。


「今日は、古い紙の話じゃねえんだな」


 アリシアは少し笑った。


「……うん。今日は、あの子がお庭に行きたいって言ったことを書いてるの」


 ノアは尻尾を揺らした。


「そりゃ、古い番号が一つ見つかるより、よっぽど大きな出来事かもしれねえな」


 アリシアは静かに頷いた。


「……うん。あの子、自分から行きたいって言ったんだって。お花を見たいとか、外の風を感じたいとか、いろいろ考えてたみたい」


 ノアは少しだけ目を細めた。


「いいじゃねえか。外に興味を持つのは、別に悪いことじゃねえ」


「……うん。でも、まだ行けるかどうかは決まってないの。安全を確かめてから相談するんだって」


 ノアは頷いた。


「そりゃそうだろ。外へ出るなら、今までとは違うことも考えなきゃならねえからな」


 アリシアは筆を止め、少し考えた。


 生活観測区画は、子供と顔のない存在が安心して過ごせるように整えられてきた場所だった。


 食事をし、眠り、遊び、何もしない時間を持つこと。


 それらを当たり前の生活として大切にしてきた。


 けれど、子供は今日、その場所の外へ目を向けた。


 窓の向こうにある花や風に興味を持ち、自分から行ってみたいと願った。


 そのことは、アリシアにとって大きな意味を持っていた。


「……ノア、私ね、少し嬉しかったんだ」


 アリシアが言うと、ノアは顔を上げた。


「何がだ?」


「……あの子が、行きたいって言えたこと。前は、何かをしていいかどうか、すごく気にしてたでしょう。でも今日は、自分からお願いしたんだって」


 ノアはしばらく黙っていた。


 やがて、少しだけ柔らかい声で答えた。


「そうだな。あいつも、自分で選べることが増えてきたんだろ」


 アリシアは頷いた。


 その言葉を聞きながら、胸の奥に温かなものが広がっていく。


 自分も、以前は人前で話すことが怖かった。


 何かをお願いする時には、相手の顔色を何度も確かめていた。


 けれど、ノアや友人たちと過ごす中で、少しずつ自分の言葉を伝えられるようになった。


 子供も、同じように変わってきているのかもしれない。


 アリシアは日記帳へ筆を走らせた。


『今日は、子供が自分から庭へ行きたいと希望した。花を近くで見たいことと、外の風を感じてみたいことを話してくれた。』


『安全確認が必要なため、まだ外出は決まっていない。子供はそのことを理解し、行けるようになったらもう一度考えると言っていた。』


 アリシアは一度筆を止め、顔のない存在のことを思い出した。


 窓の外へ手を向けたこと。


 そして、夕方には三枚の絵へ手を向けたこと。


 それらが何を意味していたのかは、まだ分からない。


 けれど、少なくとも、周囲の人たちはその動きを無理に解釈しようとはしなかった。


 アリシアはそのことも書き留めた。


『顔のない存在は、窓の外へ手を向ける動きを見せた。ただし、外へ行きたいという意思表示かどうかは分からない。夕方には絵の方へ手を向けたが、その意味も確定していない。』


『二人がそれぞれ自分で選べるように、急がずに待ちたい。』


 書き終えると、アリシアは静かに息を整えた。


 古い目録の六番目の空白。


 見つからない照合原簿。


 東側と西側で観測された反応。


 それらの謎は、まだ解けていない。


 けれど、今日、子供が口にした願いは、それらとは違う意味で大切なものだった。


 六つ目の神器について知ることは、今もアリシアにとって大切な目標だ。


 しかし、そのために、目の前にいる人たちの生活や希望を後回しにしてはいけない。


 アリシアは日記帳を閉じ、窓の外へ目を向けた。


 夜の庭は暗く、昼間に見えた花の色も分からない。


 それでも、明日の朝になれば、また光が差し込むだろう。


 子供が見てみたいと願った花も、きっとそこに咲いている。


(……もしお庭へ行けるようになったら、あの子は何を見つけるんだろう。何を感じて、どんなことを話してくれるのかな)


 アリシアは少しだけ微笑んだ。


 その答えは、まだ分からない。


 けれど、今度は古い記録の中ではなく、目の前にいる子供自身が教えてくれるかもしれない。


 ノアが寝台の上で大きく欠伸をした。


「そろそろ寝ろよ。明日も授業があるんだろ」


「……うん。もう寝るね」


 アリシアは灯りを落とし、寝台へ入った。


 ノアはいつものように隣へ移動し、丸くなって目を閉じた。


 窓の外では風が木々の葉を揺らし、遠くの森から虫の声が聞こえている。


 胸に冷たさはなく、身体に痛みもない。


 アリシアは穏やかな呼吸を続けながら、ゆっくりと目を閉じた。


 今日、子供が口にした小さな願い。


 それが、明日すぐに叶うとは限らない。


 けれど、誰かが自分の望みを言葉にし、その言葉を周りの人たちが受け止めた。


 その事実は、もう消えない。


 アリシアはそのことを胸に留めながら、静かな眠りへ落ちていった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。