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『忘れられた六つ目の神器に選ばれました 〜人見知りな闇の少女と毒舌黒猫の学園英雄譚〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第302話 見つからない原簿と、初めて届いた返事


 朝の光が窓辺に差し込んだ時、アリシアは机の上に置かれた帳面を見つめていた。


 昨夜のうちに雨雲はすっかり流れ去り、学院の中庭には澄んだ青空が広がっている。開けた窓から入り込む風には少しだけ冷たさが残っていたが、遠くで聞こえる鳥の声や、朝の準備をする人々の足音は、いつもと変わらない穏やかな一日の始まりを告げていた。


 机の上には、昨日の資料室で書き留めた内容が整理されている。


 古い保管箱の紙札に残された数字と、現在の整理番号を結びつける完成済みの対応表は見つからなかった。しかし、同じ受入作業に関係すると考えられる照合用紙が残っており、その端には『照合原簿、別置。』という短い記載があった。


 その原簿が実際に作られたのか、現在も残っているのかは分からない。


 アリシアは昨夜、そのことを何度も考えた。


 けれど、今朝になって帳面を読み返すうちに、少し違う疑問が浮かんできた。


(……もし原簿が見つからなかったら、私たちはどうすればいいんだろう。別の記録を探し続けるのか、それとも、今ある資料だけで考えられることを整理するのか)


 古い資料を調べ始めてから、分からないことが一つ見つかるたびに、別の記録を探してきた。


 それは決して無駄ではなかったし、調べたことで明らかになった事実もある。しかし、記録が残っている限り際限なく調べ続けることが、必ずしも正しいとは限らないのではないか。


 アリシアは筆を手に取り、帳面の余白へ新しい問いを書き加えた。


『原簿が見つからなかった場合、現在の資料から何を確かめられるか。』


 その文字を眺めていると、寝台の上から大きな欠伸が聞こえた。


「お前、今日はずいぶん難しい顔をしてるな。昨日の原簿とやらが夢にでも出てきたか?」


 ノアは前足を伸ばしながら身体を起こし、机の方へ尻尾を向けた。


 アリシアは振り返り、少しだけ笑った。


「……夢には出てこなかったよ。ただ、見つからなかった時のことを考えてたの」


「見つからなかった時?」


「……うん。今までは、次に何を探せばいいのかばかり考えてたでしょう。でも、どこかで記録が途切れていたら、それ以上は分からないこともあるんじゃないかなって」


 ノアは寝台から床へ降りると、ゆっくり机の近くまで歩いてきた。


「そりゃあるだろ。何百年も前の紙が、全部残ってる方がよっぽど不思議だ」


 アリシアは静かに頷いた。


 分かっていたはずのことだった。


 古い資料には、失われたものもあれば、書かれなかったものもある。最初から記録する必要がないと考えられていたことだって、きっとあるだろう。


「……でも、見つからないって分かったら、少し残念だと思う」


「そりゃそうだ。残念だと思うことまで禁止されたら、調べ物なんてやってられねえだろ」


 ノアは机の脚へ身体を寄せ、黒い尻尾をゆっくり揺らした。


「ただな、見つからなかったからって、都合のいい答えを勝手に作るなよ。逆に、見つからないものを探すためだけに、お前の毎日を全部使う必要もねえ」


 アリシアはその言葉を聞き、帳面を閉じた。


 今日、資料室へ行けるかどうかは分からない。


 エレナ・ヴァイスが原簿の所在を確認してくれるとしても、すぐに結果が出るとは限らない。今は、いつもの学院生活を大切にしながら、必要な時に相談すればいい。


「……うん。今日は、まず授業を頑張るね」


「それがいい。ついでに朝飯も忘れるな。昨日は食ってたからって、今日も安心とは限らねえからな」


 アリシアは思わず笑い、身支度を始めた。


 机の上の帳面は閉じたままにしておいた。


 古い記録について考える時間も大切だったが、今日はそれ以外にも、自分の目で見て、自分の言葉で話したいことがある。


 そんな気持ちが、胸の奥に静かに芽生えていた。


     ◇


 午前の授業が始まる前、教室では少し変わった話題が広がっていた。


 昨日、学院の掲示板に新しい案内が貼り出されたらしい。今度行われる共同演習では、複数の班が一つの課題に取り組み、それぞれの記録を引き継ぎながら作業を進めることになるという。


 アリシアが教室へ入ると、メリルが真っ先に手を振った。


「アリシア、おはよう! ねえ、掲示板の案内見た?」


「……おはよう、メリル。まだ見てないけど、何かあったの?」


 メリルは隣の席を指し示し、アリシアが鞄を置くのを待ってから説明を始めた。


「今度の共同演習、班ごとに別々の作業をするんじゃなくて、前の班が途中までやった作業を次の班が引き継ぐんだって。しかも、最初の班が全部説明してくれるわけじゃないみたい」


 アリシアは少し驚いた。


 普段の演習では、同じ班の仲間と相談しながら最後まで作業を進めることが多い。途中で別の班へ引き継ぐとなれば、記録の書き方や伝える内容が今まで以上に重要になるだろう。


「……それは、少し難しそうだね」


「そうなの! 私、途中で何か書き忘れそうで心配なんだよね。自分では覚えてるつもりでも、次の人には分からないことってあるでしょう?」


 メリルは困ったように笑いながら、机の上に置いた案内の写しを広げた。


 そこには、共同演習の目的として、作業内容の正確な伝達と、未確認事項の明示が挙げられていた。


 アリシアはその言葉に目を留めた。


 未確認事項の明示。


 昨日まで資料室で調べていたことと、少し似ている。


 けれど、古い資料とは違い、今回の演習では実際に作業を引き継ぐ相手がいる。


 自分たちが書いた記録を、別の誰かが読んで判断するのだ。


 そのことを考えると、アリシアは少し緊張した。


 やがてエドガーとテオが教室へ入り、フィオナも席に着いた。


 エドガーは掲示板の案内について聞くと、興味深そうに頷いた。


「作業を引き継ぐなら、何を終えていて、何を終えていないか明確にする必要があるな。結果だけ書いても、次の班が同じ条件で続けられるとは限らない」


 テオは椅子の背へ軽く身体を預け、少し考えてから言った。


「でもさ、全部細かく書こうとすると、今度は読む方が大変にならないかな。大切なことが埋もれちゃうかもしれないし」


 フィオナはその意見に頷いた。


「確かに、記録を増やせばいいというものでもないわね。次の人が何を判断する必要があるのか、それを考えて書くことが大切なのかもしれないわ」


 アリシアは四人の話を聞きながら、少し迷ったあとで口を開いた。


「……あの、私、一つ思ったことがあるんだけど」


 メリルがすぐに顔を向けた。


「うん、なになに?」


 アリシアは全員の視線が集まったことに少し緊張したものの、机の上で指を握りしめずに済んだ。


「……引き継ぐ人が、何をまだ知らないのかも書いておくといいのかなって。例えば、装置の状態を確認したけど、原因までは分からなかった時に、原因を確かめてないって書いておけば、次の人が間違えにくいと思うの」


 エドガーは少し考え、静かに頷いた。


「それは大事だな。確認したことだけじゃなく、確認していない範囲も分かるようにするわけか」


 テオも納得したように笑った。


「なるほど。そうすれば、前の班が全部調べ終わったと思い込まずに済むね」


 フィオナはアリシアへ穏やかな視線を向けた。


「いい考えだと思うわ。特に、まだ確かめていないことを、次の人が事実として扱ってしまうのは危険だもの」


 アリシアは少し頬を赤くした。


 自分の考えを伝えることは、今でも勇気がいる。


 けれど、仲間たちは言葉を急かさず、最後まで聞いてくれた。


 それが嬉しくて、アリシアは小さく微笑んだ。


「……ありがとう。私も、ちゃんと書けるように考えてみるね」


 その時、授業開始を知らせる鐘が鳴った。


 学生たちはそれぞれの席へ戻り、教室には少しずつ静けさが広がっていった。


     ◇


 午前の講義では、共同演習に先立って、記録を引き継ぐ際の注意点が説明された。


 教師は黒板へ二つの作業記録を書き出し、学生たちへ問いかけた。


 一つ目には『外装確認済。異常なし。』とだけ記されている。


 二つ目には、確認した部位、確認方法、作業時刻、未確認の部位が簡潔に整理されていた。


「この二つの記録を受け取った時、次の担当者が安全に作業を続けやすいのはどちらでしょうか」


 多くの学生が二つ目を選んだ。


 教師は頷いたものの、すぐに別の問いを投げかけた。


「では、二つ目の記録に書かれていない部分について、皆さんはどう判断しますか」


 教室の中に少しだけ沈黙が生まれた。


 前列の学生が手を挙げ、記載がなければ未確認として扱うと答えた。


 教師はその意見を認めたうえで、さらに説明を続けた。


「ただし、記録にないことが、必ずしも作業されていないことを意味するわけではありません。だからこそ、引き継ぐ側は未確認事項を明示し、受け取る側も不明な点を確認する必要があります」


 アリシアは筆を動かしながら、胸の奥に小さな緊張を覚えた。


 古い保管箱の内側に残された書き込みが、自然と思い浮かんだからだ。


『引継済。内容照合未了。』


 あの短い一文を書いた人は、何を伝えようとしたのだろう。


 引き継ぎを受けた人に、まだ確認が終わっていないことを知らせたかったのかもしれない。


 あるいは、単に管理上の状態を記録しただけなのかもしれない。


 どちらにしても、書き込みが残されていたことによって、後から資料を調べる自分たちは、当時の作業に未確認事項があった可能性を知ることができた。


 アリシアはその事実を、以前よりも少し身近に感じていた。


 教師は講義の最後に、学生たちへ短い課題を出した。


「皆さんには、今日のうちに、誰かへ作業を引き継ぐ時に必要だと思うことを三つ考えてもらいます。正解を一つに決める必要はありませんが、なぜ必要だと思うのか、自分の言葉で説明できるようにしてください」


 アリシアは帳面の端へ三つの項目を書き始めた。


 確認したこと。


 まだ確認していないこと。


 そして、次に何をする必要があるのか。


 そこまで書いて、少し考えた。


 けれど、最後の項目は、必ずしも自分が決めるべきことではないかもしれない。


 引き継いだ人には、その人自身の判断がある。


 自分が必要だと思ったことを、次の人も必ず行わなければならないわけではない。


 アリシアは最後の一文を書き直した。


『次に確認できることと、判断を委ねる部分を分ける。』


 書き終えた時、少しだけ気持ちが落ち着いた。


 それは、今の自分が大切にしたいことでもあった。


     ◇


 放課後、アリシアは資料室へ向かう前に、フィオナと中庭のベンチへ腰を下ろした。


 空は朝からよく晴れており、石畳には木々の影が長く伸びている。少し離れた場所では学生たちが談笑し、校舎へ戻る者や、訓練場へ向かう者の姿が見えた。


 フィオナは鞄から小さな水筒を取り出し、温かい飲み物を一口飲んだ。


「今日は資料室へ行く予定?」


 アリシアは少し考えてから頷いた。


「……うん。でも、昨日の原簿について、先生がもう確認できたかどうかは分からないから、少しだけ様子を見に行こうと思ってるの」


 フィオナは穏やかに頷いた。


「それなら、私も一緒に行くわ。ただ、何も見つかっていなかったとしても、落ち込まなくていいと思うの」


 アリシアはその言葉を聞き、少しだけ笑った。


「……うん。今朝、ノアにも似たようなことを言われたよ」


「ノアらしいわね」


 フィオナは微笑み、しばらく中庭を眺めていた。


 やがて、少し真面目な表情になって口を開いた。


「ねえ、アリシア。最近のあなたを見ていて、少し気になっていたことがあるの」


 アリシアは顔を上げた。


「……何?」


「古い資料を調べること自体は、あなたにとって大切なことだと思うわ。でも、調べれば調べるほど、何かを見つけなければならないと思ってしまうことはない?」


 アリシアはすぐには答えられなかった。


 フィオナの声には責めるような響きはなく、ただ心配していることが伝わってくる。


 だからこそ、曖昧に笑って済ませることはしたくなかった。


 アリシアは膝の上で両手を重ね、少し考えてから答えた。


「……あると思う。何かにつながりそうな記録を見つけると、次も見つけなきゃって思うことがあるの」


 フィオナは黙って続きを待っていた。


 アリシアは中庭の木々へ視線を向けた。


「……でも、最近は少し違う気もする。前は、分からないことがあると怖かったけど、今は、分からないって言えるようになってきたから」


 フィオナは静かに頷いた。


「それならよかったわ。私は、アリシアが調べ物をするのを止めたいわけじゃないの。ただ、あなたが一人で何かを背負い込んでしまわないか、それが心配だったの」


 アリシアは胸の奥が温かくなるのを感じた。


 フィオナは、自分が何を調べているのか、すべてを知っているわけではない。


 それでも、友人として心配してくれている。


 そのことが、何より嬉しかった。


「……ありがとう。もし、また一人で考えすぎそうになったら、相談してもいい?」


 フィオナは柔らかく微笑んだ。


「もちろん。私に分かることなら、一緒に考えるわ」


 アリシアは小さく頷いた。


 ベンチの足元では、ノアが二人の会話を聞きながら尻尾を揺らしていた。


「まったく、お前は心配してくれる相手に恵まれてるな。俺だけじゃ足りねえってのは、少し気に入らねえが」


 アリシアは思わず笑った。


「……ノアにも、いつも相談してるよ」


「知ってる。だからこそ、たまには別の相手にも相談しろって言ってんだ」


 フィオナが楽しそうに笑い、アリシアも少しだけ肩の力を抜いた。


 夕方の風が中庭を通り抜け、木々の葉が静かに揺れた。


 その音を聞きながら、アリシアは自分が以前よりも多くの人と話せるようになったことを、改めて感じていた。


     ◇


 資料室へ着くと、エレナ・ヴァイスは奥の整理机で書類を確認していた。


 アリシアたちが受付で用件を伝えると、しばらくしてエレナが姿を見せた。


「こんにちは、アリシアさん、フィオナさん。昨日の照合原簿についてですね」


 アリシアは丁寧に頭を下げた。


「……こんにちは。はい。でも、まだ確認が終わっていなかったら、別の日でも大丈夫です」


 エレナは穏やかに微笑んだ。


「ありがとうございます。実は、公開資料の目録を確認したところ、少し分かったことがあります。ただし、探している原簿そのものは、まだ見つかっていません」


 アリシアは頷き、案内された相談用の机へ向かった。


 エレナが持ってきたのは、昨日の照合用紙とは別の、古い資料の移管状況をまとめた一覧だった。


 その中には、資料群ごとの保管場所の変更や、整理作業の進行状況が記されている。


 エレナは該当する部分を指さした。


「昨日の用紙にあった『照合原簿』という名称と完全に一致する資料は、公開目録では確認できませんでした。ただし、同じ受入作業に関係すると考えられる記録群の中に、照合用の原資料が別の保管区分へ移されたことを示す記載があります」


 アリシアは慎重に文字を追った。


 そこには、資料群の一部について、整理途中の原資料を別区分で保管したことが記されていた。


 ただし、移された資料の名称は詳しく書かれていない。


「……先生、これが昨日の原簿かもしれないんですか?」


 アリシアが尋ねると、エレナはすぐには頷かなかった。


「可能性はありますが、同一の資料だと判断できる根拠はありません。昨日の照合用紙に書かれていた『別置』が、この移管を指しているかどうかも不明です」


 フィオナは一覧を見つめ、少し考えた。


「別の保管区分へ移されたことは分かっても、何が移されたのかは分からないんですね」


「そのとおりです。さらに、この移管記録は、現在の保管場所まで追跡できる形式にはなっていません」


 エレナは別の欄へ目を向けた。


「ただし、ここで一つ注意していただきたいことがあります。この記録群については、後の整理作業で複数の保管区分が統合された可能性があるため、現在の目録上の名称と、当時の名称が一致していないかもしれません」


 アリシアは静かに頷いた。


 古い番号と新しい番号。


 古い保管区分と現在の保管区分。


 資料が移されるたびに、管理方法も変わっていた可能性がある。


 その中で、対応関係が失われたものもあるのだろう。


「……じゃあ、原簿が残っていても、今の目録では別の名前になっているかもしれないんですね」


 エレナは頷いた。


「ええ。ただし、だからといって、名称が似ている資料をすべて同じものと考えることはできません。内容や作成時期、保管経緯を確認する必要があります」


 アリシアは帳面へ書き留めた。


 今のところ、原簿は見つかっていない。


 しかし、同じ受入作業に関係すると考えられる資料の一部が、別の保管区分へ移された記録はある。


 それが昨日の原簿を指しているかどうかは不明。


 ここまでが、今日確かめられたことだった。


 アリシアは少し考えてから、エレナへ尋ねた。


「……先生、もし原簿が見つからなかったら、今ある資料から確かめられることは、もうあまりないんでしょうか?」


 エレナはその問いを聞き、少しだけ表情を和らげた。


「そうですね。少なくとも、旧札番号と現在の整理番号を直接結びつけるという目的については、現在の公開資料だけでは限界があるかもしれません」


 アリシアは静かに頷いた。


 エレナは続けた。


「ただし、調査の限界が分かることも、一つの成果です。どこまで確認できて、どこから先は根拠が不足しているのか。それを整理しておけば、後から別の資料が見つかった時にも、無理なく調査を再開できます」


 その言葉を聞いた時、アリシアは少しだけ胸の奥が軽くなるのを感じた。


 何かを見つけ続けなければならないわけではない。


 今ある資料で分かる範囲を整理し、必要ならそこで一度区切ることもできる。


 それは、調査を諦めることとは違うのだ。


「……ありがとうございます。少し、安心しました」


 エレナは穏やかに微笑んだ。


「調べ物は、必ず答えが見つかるとは限りません。でも、何を確かめたのかを丁寧に残しておけば、その時間が無駄になるわけではありませんよ」


 アリシアは丁寧に礼を言った。


 今日の相談は、そこで終えることにした。


 原簿の所在は分からないままだったが、今の調査をどこで区切るべきか、少しだけ考えられるようになった。


     ◇


 資料室を出た後、アリシアとフィオナは生活観測区画へ向かった。


 廊下には夕方の光が差し込み、窓の外では学生たちが訓練場から戻ってきている。


 フィオナはアリシアの隣を歩きながら、静かに口を開いた。


「今日は、原簿そのものは見つからなかったわね」


 アリシアは頷いた。


「……うん。でも、今ある資料だけでは分からないこともあるって、ちゃんと考えられるようになった気がする」


 フィオナは穏やかに微笑んだ。


「それは大切なことだと思うわ。何かを調べていると、どうしても答えを見つけたくなるもの。でも、分からないことを分からないまま残すのも、勇気がいることなのかもしれないわね」


 アリシアは少し考えた。


 確かに、分からないことを認めるのは簡単ではない。


 特に、自分がずっと知りたいと思っていることなら、なおさらだ。


 けれど、今の彼女は、分からないことがあるからといって、自分を責める必要はないと思えるようになっていた。


「……うん。私も、そう思う」


 アリシアが小さく答えると、フィオナは嬉しそうに頷いた。


 ノアは二人の足元を歩きながら、少しからかうように言った。


「ようやく分かってきたじゃねえか。世の中には、いくら考えても分からねえことがあるんだよ」


 アリシアは微笑んだ。


「……でも、分かることもあるかもしれないから、考えるのはやめないよ」


 ノアは小さく鼻を鳴らした。


「それでいい。ただし、考えすぎて飯を忘れるなよ」


 フィオナが笑い、アリシアもつられて笑った。


 三人は穏やかな空気の中を歩き、生活観測区画へ向かった。


     ◇


 談話室へ戻ると、子供は机の上に三枚の絵を並べていた。


 家と庭の絵。


 森と川の絵。


 そして、その間に置かれた橋の絵。


 昨日まで橋の下に描かれていた青い線は、今日は少しだけ太くなっていた。


 アリシアが近づくと、子供は嬉しそうに顔を上げた。


「アリシア、おかえり!」


「……ただいま。今日は青い線を少し太くしたんだね」


 子供は大きく頷いた。


「うん! でも、まだ川にするかどうか決めてないの」


 アリシアは椅子へ腰を下ろし、絵を眺めた。


 青い線は橋の下を通り、少しだけ曲がっている。


 川にも見えるし、小さな水路にも見える。


 けれど、子供はまだ何にするか決めていないようだった。


「……今日は、どこまで描くつもり?」


 アリシアが尋ねると、子供は少し考えた。


「今日はここまで。明日また考える。でもね、青い線は消さないでおくの」


 アリシアは微笑んだ。


「……うん。そうしたいなら、そのままにしておこうね」


 子供は嬉しそうに笑った。


 少し離れた場所では、顔のない存在が静かに過ごしていた。


 胸元の十一の光は安定しており、覆われた木箱にも変化はない。


 アリシアは一度だけそちらへ視線を向けたが、何かを読み取ろうとはしなかった。


 今は、子供が自分で選び、自分で考えている時間を大切にしたかった。


 その時、子供がふと顔のない存在へ視線を向けた。


「ねえ、今日は一緒に絵を見てくれる?」


 顔のない存在は、すぐには動かなかった。


 けれど、少し時間を置いてから、ゆっくりと子供の方へ身体を向けた。


 子供は嬉しそうに笑った。


「ありがとう! じゃあ、ここに座ってね」


 職員はその様子を見守りながら、必要な距離を保っていた。


 顔のない存在は、子供の近くに置かれた椅子へ静かに腰を下ろした。


 胸元の十一の光は、変わらず安定している。


 アリシアはその様子を見ながら、少しだけ胸の奥が温かくなるのを感じた。


 子供が自分から誘い、顔のない存在がそれに応じた。


 それは、特別な観測の結果ではない。


 ただ、同じ場所で過ごす二人の間に生まれた、小さなやり取りだった。


 子供は絵を指さしながら、楽しそうに説明を始めた。


「ここがおうちで、こっちが森なの。それでね、真ん中に橋があるんだけど、下に何があるかはまだ決めてないんだ」


 顔のない存在は静かに絵へ向き合っていた。


 子供はしばらく話したあと、少し考えてから尋ねた。


「ねえ、あなたは何がいいと思う?」


 アリシアは思わず顔を上げた。


 職員も、少しだけ姿勢を正した。


 けれど、誰も答えを急がせなかった。


 顔のない存在は、しばらく絵を見つめていた。


 やがて、ゆっくりと片手を動かし、橋の下に描かれた青い線の少し手前で指を止めた。


 紙には触れていない。


 ただ、その場所を示すような動きだった。


 子供は目を輝かせた。


「ここ?」


 顔のない存在は、静かに頷いたように見えた。


 アリシアは息を整えながら、その様子を見守った。


 それが何を意味するのかは分からない。


 青い線を指したかったのかもしれないし、橋の下に何かを描きたいと思ったのかもしれない。


 けれど、子供はその動きを嬉しそうに受け止めていた。


「じゃあ、ここに何か描いてみようかな。でも、今日はまだ決めないでおくね」


 子供はそう言って笑った。


 顔のない存在は、ゆっくりと手を下ろした。


 その時、胸元の十一の光のうち、一つがほんのわずかに明るくなったように見えた。


 アリシアは目を凝らしかけたが、すぐに視線を戻した。


 光の変化が実際にあったのか、夕方の光の加減だったのかは分からない。


 それに、今は何かを確かめるための時間ではない。


 子供と顔のない存在が、自分たちの意思で絵を見ている時間だった。


 アリシアはそのことを忘れないようにした。


     ◇


 しばらくして、子供は絵を片づけることにした。


 職員が近づき、三枚の紙をいつもの順番で保管する準備を始める。


 子供は最後に、顔のない存在へ向き直った。


「今日は一緒に見てくれてありがとう。また明日も見てくれる?」


 顔のない存在は、すぐには答えなかった。


 けれど、少し時間を置いてから、ゆっくりと頷いた。


 子供は嬉しそうに笑った。


「やった! じゃあ、明日も一緒に考えようね!」


 アリシアはそのやり取りを見ながら、胸の奥に静かな温かさが広がるのを感じた。


 顔のない存在が何を考えているのかは分からない。


 けれど、子供の誘いに応じ、明日も一緒に絵を見ることを受け入れたように見えた。


 それは、今までの生活の中で積み重ねてきた時間があってこそ生まれたものなのかもしれない。


 アリシアはそう考えながらも、その意味を決めつけることはしなかった。


 ただ、子供が嬉しそうに笑っていること。


 顔のない存在が、自分から手を動かしたこと。


 その二つを、今は大切に覚えておきたいと思った。


 職員は二人の様子を確認し、無理な負担がないことを確かめてから、いつもの生活の流れへ戻した。


 覆われた木箱には誰も触れず、特別な観測も行われなかった。


 談話室には穏やかな空気が残り、窓の外では夕方の光が少しずつ薄れていった。


     ◇


 夜、アリシアは自室で日記帳を開いた。


 窓の外には星が見え、遠くの森から虫の声が聞こえている。


 ノアは寝台の上で丸くなり、アリシアが筆を持つ様子を眺めていた。


「今日は、ずいぶん考えることがあったな」


 アリシアは小さく頷いた。


「……うん。でも、資料室のことより、子供とあの子のやり取りの方が、ずっと心に残ってるかもしれない」


 ノアは少しだけ目を細めた。


「まあ、あれは珍しかったな。自分から手を動かして、子供の絵を指したんだからよ」


 アリシアは静かに頷いた。


「……うん。でも、何を伝えたかったのかは分からないんだよね」


「そりゃそうだ。だからって、何も伝わらなかったわけじゃねえだろ」


 アリシアはその言葉を聞き、少し考えた。


 確かに、子供は嬉しそうだった。


 顔のない存在も、子供の誘いに応じていた。


 そのやり取りには、言葉では説明しきれないものがあった。


「……そうだね。分からないことはあるけど、嬉しかったことまで消えるわけじゃないんだね」


 ノアは満足そうに尻尾を揺らした。


「そういうことだ。何でもかんでも記録の数字に変えようとするなよ」


 アリシアは小さく笑い、日記帳へ筆を走らせた。


『今日は、照合原簿の所在について確認した。原簿そのものは見つからなかったけれど、同じ受入作業に関係すると思われる資料の一部が、別の保管区分へ移された記録があった。』


『ただし、それが探している原簿と同じものかどうかは分からない。現在の公開資料だけでは、旧札番号と整理番号の対応を確定できない可能性がある。』


 アリシアは一度筆を止め、少し考えてから続きを書いた。


『今日は、分からないことをどこまで調べるべきなのか、少し考えた。何かを見つけ続けなければならないわけではない。今ある資料で分かる範囲を整理し、必要ならそこで一度区切ることも大切なのだと思う。』


 そこまで書いてから、アリシアは子供のことを思い出した。


 橋の下の青い線。


 顔のない存在が、その近くを指したように見えたこと。


 子供が嬉しそうに笑い、明日も一緒に考えようと誘ったこと。


 そして、顔のない存在が静かに頷いたこと。


 アリシアはその出来事を、できるだけ自分が見たとおりに書き留めた。


『今日は、子供が顔のない存在を絵に誘った。顔のない存在は近くに座り、橋の下の青い線の近くへ手を伸ばした。何を示したかったのかは分からない。』


『でも、子供は嬉しそうだった。明日も一緒に絵を見ようと誘うと、顔のない存在は頷いたように見えた。』


 アリシアは筆を置き、しばらく日記帳を眺めていた。


 古い記録の中には、何を引き継いだのか分からない言葉が残されている。


 けれど、今目の前で起きたことについては、自分の目で見たことを残せる。


 それでも、すべての意味が分かるわけではない。


 相手が何を感じていたのか、何を伝えたかったのかは、本人にしか分からないこともある。


(……だからこそ、ちゃんと聞ける時には聞きたい。分からないまま決めつけるんじゃなくて、相手が伝えようとしていることを待てるようになりたい)


 アリシアは静かに息を整えた。


 今まで、彼女は自分の気持ちを言葉にすることが苦手だった。


 何かを伝えようとしても、途中で怖くなってしまうことがあった。


 けれど、周りの人たちは、そんな自分の言葉を待ってくれた。


 ノアも、フィオナも、メリルも、エドガーも、テオも。


 そして、生活観測区画で出会った人たちも。


 だからこそ、今度は自分が、誰かの言葉を待てる人になりたいと思った。


 アリシアは日記帳を閉じ、灯りを落とした。


 寝台へ入ると、ノアがいつものように隣へ移動し、丸くなって目を閉じた。


 窓の外では夜風が木々の葉を揺らし、遠くの森から虫の声が聞こえている。


 アリシアはその音を聞きながら、今日の出来事を静かに思い返した。


 見つからなかった原簿。


 まだ対応が分からない古い番号。


 そして、子供の誘いに応じて、初めて自分から絵の一部を示したように見えた顔のない存在。


 何もかもが、すぐに答えへつながるわけではない。


 けれど、今日という一日の中で、確かに新しいやり取りが生まれた。


 そのことが、今のアリシアには嬉しかった。


 胸に冷たさはなく、身体に痛みもない。


 穏やかな夜の中で、彼女はゆっくりと眠りへ落ちていった。


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