第301話 番号をつなぐ古い表と、引き継がれなかった確認
朝の食堂には、焼きたてのパンと温かなスープの香りが満ちていた。
昨夜のうちに再び降り始めた雨は夜明け前に止み、窓の向こうでは濡れた石畳が朝日を反射している。食堂へ向かう学生たちの靴音が廊下から聞こえ、時折、開け放たれた扉を通って冷たい空気が流れ込んできた。
アリシアは窓際の席に座り、湯気の立つスープを前にして、昨夜の日記に書いたことを思い返していた。
古い保管箱の外側に貼られていた紙札には、現在の整理番号とは異なる数字が残されていた。箱の内側には『引継済。内容照合未了。』という書き込みがあったと記録されており、受入後の整理記録にも、旧札番号と現在の番号の対応が確定していないことが記されていた。
それぞれの記録が同じ事情を示しているのかどうかは、まだ分からない。
けれど、エレナ・ヴァイスは、古い番号と新しい番号を結びつける対応表が存在する場合もあると教えてくれた。
(……もし対応表が残っていたら、あの箱がどこから来たのか、少し分かるかもしれない。でも、表があったとしても、全部が分かるわけじゃないんだよね)
アリシアはスプーンを手に取り、スープを一口飲んだ。
野菜の甘みが広がり、朝の冷えで少し強張っていた身体がゆっくりと温まっていく。考え事をしている間にも、食堂では学生たちが朝食を楽しみ、今日の授業や週末の予定について話していた。
「お前、今日はちゃんと食ってるな」
椅子の足元から、ノアが少し感心したような声を上げた。
アリシアは顔を下げ、黒猫の相棒へ小さく微笑んだ。
「……昨日もちゃんと食べたよ」
「昨日はな。今朝は目が覚めた時から、例の番号のことを考えてただろ」
「……うん。でも、朝ごはんを食べてから考えようって決めたの」
ノアは満足そうに尻尾を揺らした。
「結構なことだ。昔の誰かが残した数字に夢中になって、自分の腹が空いてることまで忘れたら笑えねえからな」
アリシアは少し頬を赤くしながら、パンをちぎった。
以前なら、調べたいことがあると、それだけで頭がいっぱいになってしまうこともあった。
今でも興味を引かれると考え続けてしまうが、だからといって生活を後回しにしていいわけではない。学院で学ぶことも、友人たちと過ごすことも、生活観測区画で子供と話すことも、彼女にとって同じように大切だった。
食堂の扉が開き、メリルとフィオナが並んで入ってきた。
二人はアリシアに気づくと手を振り、朝食を受け取ってから同じ席へやって来た。
「アリシア、おはよう! 今日は早いね」
「……おはよう、メリル。フィオナも、おはよう」
フィオナは穏やかに微笑み、椅子へ腰を下ろした。
「おはよう。昨日は資料室へ行ったのよね。何か分かったことはあった?」
アリシアは少し考え、どこまで説明すれば伝わるかを整理してから口を開いた。
「……古い箱を受け入れたあとの整理記録を見せてもらったの。中に入っていた資料の数は確認されていたけど、内容の照合が終わったという記録は、公開されている帳簿には見つからなかったんだって」
メリルはパンを持つ手を止めた。
「数は数えたけど、中身が何なのか全部確かめたかどうかは分からないってこと?」
「……うん。それから、箱の古い札に書かれていた番号と、今の整理番号がどう対応するのかも分からないみたい」
フィオナは少し眉を寄せた。
「それなら、同じ箱だと判断するための手がかりが足りないのね」
アリシアは頷いた。
「……先生が、古い番号と新しい番号を対応させる表が残っている場合もあるって教えてくれたから、今日はその表があるかどうか確認できたらと思ってるの」
メリルは興味深そうに身を乗り出しかけたが、すぐに椅子へ座り直した。
「見つかるといいね。でも、もし見つからなくても、どういうふうに整理されてたか分かるだけで勉強になりそう」
アリシアはその言葉に微笑んだ。
フィオナも静かに頷き、温かい飲み物へ手を伸ばした。
「今日は授業が終わったら私も少し時間があるわ。ただ、資料室の先生が忙しければ、無理にお願いしない方がいいわね」
「……うん。まずは授業をちゃんと受けてからにする」
ノアが足元で小さく鼻を鳴らした。
「ようやく分かってきたじゃねえか。古い箱の秘密は、朝飯を食い終わるまで待ってくれる」
メリルが吹き出し、フィオナも口元へ手を添えて笑った。
アリシアは少し恥ずかしくなりながらも、二人の笑い声を聞いて肩の力を抜いた。
今日、何が見つかるかは分からない。
それでも、こうして穏やかな朝を過ごせることが、今の自分には何より嬉しかった。
◇
午前の授業では、複数の記録を比較する際の注意点について学んだ。
教師が黒板へ書いたのは、同じ魔導具を異なる時期に点検した三つの記録だった。それぞれには点検日と担当者の欄が設けられていたが、古い記録ほど項目が少なく、新しい記録には追加された確認欄が並んでいる。
学生たちは班ごとに記録を読み、どの項目を比較できるのか考えることになった。
アリシアたちの班では、エドガーが最初に三枚の記録を並べ、共通する項目を指で示した。
「魔力供給部の状態と外装の破損については、三つとも記載がある。ただし、測定方法が同じだったかどうかは書かれていないな」
テオは一番古い記録を覗き込み、少し考えてから口を開いた。
「新しい方には数値があるけど、古い方は『良好』って書いてあるだけだね。これを同じ基準で比べるのは難しそう」
メリルは記録用紙へ視線を落とし、眉を寄せた。
「じゃあ、昔は良好だったけど今は数値が低いから悪くなった、とは言えないんだね。そもそも昔の良好がどのくらいだったのか分からないし」
フィオナは頷き、別の欄へ目を向けた。
「それに、点検した人が違うわ。判断の仕方に違いがあった可能性も考えないといけないわね」
アリシアは四人の話を聞きながら、記録の余白へ小さく書き込んだ。
『比較できる項目と、比較できない項目を分ける。』
その一文を書いた時、昨日の整理記録が頭に浮かんだ。
古い札の番号と現在の整理番号。
二つの数字が同じ箱を示しているかどうかを確かめるには、番号が存在するだけでは足りない。
どの時点で、誰が、何を基準に対応させたのかを確認する必要がある。
教師が班の近くへ来た時、エドガーは記録を示しながら質問した。
「先生、古い記録に項目がない場合は、未確認として扱うべきでしょうか。それとも、当時は点検対象ではなかったと考えるべきですか?」
教師はすぐには答えず、三枚の記録を見比べた。
「この資料だけでは、どちらとも断定できません。項目が存在しない理由は、点検方法の違いかもしれませんし、記録用紙の形式が変わっただけかもしれません」
教師は黒板へ向かい、二つの言葉を書き加えた。
『記載なし』
『未実施』
「この二つは同じではありません。記載がないことを確認できても、作業そのものが行われなかったと判断するには別の根拠が必要です」
アリシアはその説明を聞きながら、静かに頷いた。
昨日の資料室でも、同じようなことを教わった。
内容照合の完了記録が見つからなかったとしても、照合が行われなかったと断定することはできない。
それを理解しているつもりでも、実際の記録を前にすると、つい空欄へ意味を与えたくなってしまう。
(……分からないところがあると、理由を見つけたくなる。でも、理由が分かるまでは、分からないまま残さないといけないんだ)
アリシアは筆を置き、班の仲間たちへ目を向けた。
メリルは教師の説明を聞きながら何度も頷き、テオは記録の違いを整理している。
エドガーは新しく分かったことを資料へ書き込み、フィオナは全員の意見が記録に反映されているか確認していた。
同じ資料を見ていても、気づくことは少しずつ違う。
アリシアはそのことを心強く感じた。
自分一人では見落としてしまうことも、仲間と一緒なら気づけるかもしれない。
そして、誰かが違う意見を持っていても、それを怖がる必要はない。
今の彼女は、少しずつそう思えるようになっていた。
◇
昼休みを終え、午後の授業が終わる頃には、窓の外の空が明るくなっていた。
アリシアは教科書を鞄へしまい、資料室へ向かう準備をした。
フィオナも一緒に行くことになり、二人は廊下を並んで歩いた。
ノアはその少し後ろを歩きながら、時折行き交う学生たちを眺めている。
中央棟へ向かう途中、フィオナが静かに口を開いた。
「アリシア、最近、資料室で先生に質問する時、前より落ち着いて話せるようになったわね」
アリシアは少し驚き、足を緩めた。
「……そう、かな」
「ええ。前は、何かを尋ねる前に何度も言葉を探していたでしょう。今も慎重だけれど、何を知りたいのか、自分の言葉で伝えられていると思うの」
アリシアは視線を落とした。
褒められることには、まだ慣れていない。
けれど、フィオナの言葉は嬉しかった。
「……先生が、ちゃんと待ってくれるからだと思う。それに、分からないって言っても怒られないから」
フィオナは歩調を合わせたまま、穏やかに微笑んだ。
「それもあるでしょうね。でも、質問しようと決めて、実際に伝えているのはアリシア自身よ」
アリシアは少しだけ顔を上げた。
廊下の窓から差し込む光が、フィオナの髪を柔らかく照らしている。
その表情には、無理に励まそうとする様子はなかった。
ただ、友人として感じたことを伝えてくれているのだと分かった。
「……ありがとう、フィオナ」
アリシアが小さく答えると、フィオナは嬉しそうに頷いた。
ノアは二人の後ろから、少しからかうように言った。
「まあ、昔のお前なら、資料室の扉の前で三回くらい引き返してただろうな」
「……ノア、そんなに引き返してないよ」
「そうだったか? 俺の記憶じゃ、もう少し多かった気がするが」
フィオナが笑い、アリシアもつられて微笑んだ。
資料室の扉が見えてきた時、彼女の胸にあった緊張は、朝よりも少し小さくなっていた。
◇
資料室の中には、乾いた紙と木製の書架の匂いが漂っていた。
窓際の閲覧席では数人の学生が資料を広げており、奥の整理机では職員が古い書類を慎重に扱っている。
アリシアとフィオナが受付へ向かうと、いつもの上級生が顔を上げた。
「こんにちは。今日はお二人ですね」
アリシアは丁寧に頭を下げた。
「……こんにちは。昨日、エレナ先生に教えていただいた対応表について、少し確認したくて来ました」
上級生は頷き、奥の整理室へ連絡してくれた。
しばらくすると、エレナ・ヴァイスが薄い綴じ本を手にして現れた。
「こんにちは、アリシアさん、フィオナさん。ちょうど昨日お話しした資料について、確認できたことがあります」
アリシアは思わず顔を上げた。
エレナは二人の反応を見て、穏やかに続けた。
「ただし、最初にお伝えしておきますね。探していた箱の旧札番号と現在の整理番号を、直接結びつける完成済みの対応表は見つかっていません」
アリシアは静かに頷いた。
期待が少しだけしぼむのを感じたが、すぐに気持ちを整えた。
対応表が見つからない可能性は、最初から考えていたことだった。
「……そうなんですね。確認してくださって、ありがとうございます」
エレナは微笑んだ。
「その代わり、同じ受入作業で使われていたと思われる、古い整理番号の照合用紙が公開資料の中に残っていました。完全な対応表ではありませんが、番号をどのように扱おうとしていたのかを知る手がかりにはなるかもしれません」
フィオナは興味深そうに目を向けた。
「照合用紙というのは、作業の途中で使われた記録でしょうか?」
「そのように考えられます。ただし、作成目的を詳しく説明した文書は残っていません。まずは実物の複製を見ながら、確認できる範囲を整理しましょう」
三人は相談用の机へ移動した。
ノアはアリシアの足元へ座り、珍しく静かに耳を向けていた。
エレナが綴じ本を開くと、そこには古い用紙の複製が収められていた。
紙の端は不規則に欠け、中央には細かな折り目が残っている。文字の濃さも一定ではなく、同じ欄の中でも読み取りやすい部分と、ほとんど判別できない部分が混在していた。
アリシアは慎重に視線を落とした。
用紙には、縦に並んだ数字と、横に区切られたいくつかの欄があった。
左側には旧札の番号と思われる数字。
中央には受入時の箱番号。
右側には、確認状況を示す短い記号が書かれている。
けれど、すべての欄が埋まっているわけではなかった。
アリシアは一つずつ数字を追いながら、以前見た受入記録の形式を思い出した。
「……先生、この左側の数字は、箱の外側に貼られていた札の番号と同じ種類なんでしょうか?」
エレナは用紙の見出しを示した。
「見出しには『旧札記載』とありますので、その可能性は高いでしょう。ただし、どの種類の札を対象にしているかまでは説明されていません」
アリシアは頷き、次に中央の欄へ目を向けた。
そこには、いくつかの箱番号が記されている。
しかし、すべての行で数字が対応しているわけではない。
途中には、中央の欄が空白のまま残された行もあった。
フィオナがその部分へ目を留めた。
「ここは、旧札の数字だけが残っているんですね」
エレナは頷いた。
「ええ。右側には確認待ちを示すと思われる記号があります。ただし、この記号がどの段階の確認を意味していたのかは、別の凡例が見つかっていないため断定できません」
アリシアはゆっくりと息を整えた。
古い番号と新しい番号を対応させようとした痕跡がある。
けれど、その作業がすべて終わったわけではないらしい。
昨日まで見ていた『内容照合未了』という書き込みと、似た状況を思わせる。
しかし、同じ作業について書かれたものかどうかは、まだ分からなかった。
アリシアはその違いを意識しながら、用紙の続きを見た。
◇
照合用紙の中ほどには、同じ旧札番号に対して二つの箱番号が書かれた行があった。
アリシアは最初、自分が数字を読み違えたのかと思い、もう一度ゆっくり確認した。
けれど、複製に残された文字は確かに二つだった。
片方の数字には細い線が引かれている。
もう片方の数字の横には、小さな記号が添えられていた。
「……先生、ここは一つの旧札番号に、二つの箱番号が書かれているように見えるんですけど……」
エレナは該当する部分を確認した。
「そうですね。最初に記入した番号を訂正した可能性があります。ただし、線を引いた理由も、どちらが最終的に採用された番号なのかも、この用紙だけでは確定できません」
フィオナは少し考え込んだ。
「同じ番号を別の箱に使っていた可能性もあるのでしょうか?」
「それも考えられます。ただ、現在の資料では、旧札番号が必ず一つの箱だけを示す規則だったかどうかも分かっていません」
アリシアはその説明を聞きながら、帳面へ短く書き込んだ。
『旧札番号は、必ずしも一対一で対応していたとは限らない。』
その時、ノアが足元から小さく声を上げた。
「つまり、数字が同じだからって同じ箱だとは言えねえし、違う数字だからって別の箱だとも限らねえってことか」
エレナは少し驚いたようにノアへ視線を向けたが、すぐに穏やかに頷いた。
「そうですね。少なくとも、この用紙だけでは、番号の関係を単純には判断できません」
アリシアはノアを見下ろし、少しだけ微笑んだ。
ノアは得意そうに尻尾を揺らしたものの、それ以上は何も言わなかった。
エレナは用紙の別の部分を示した。
「それから、こちらには、受入後の整理作業について短い注記があります」
アリシアとフィオナは顔を上げた。
エレナが示した欄には、かすれた文字で一文が残されていた。
『旧札照合、継続確認を要す。』
アリシアはその言葉を静かに読んだ。
古い札の照合には、引き続き確認が必要だった。
それは、昨日まで見ていた記録と矛盾しない。
けれど、照合が完了したという意味ではない。
むしろ、作業が途中だったことを示しているように見えた。
「……この用紙が作られた時点では、まだ確認が終わっていなかったんですね」
アリシアが尋ねると、エレナは慎重に頷いた。
「少なくとも、そのような趣旨の注記が残されています。ただし、どの箱について確認が必要だったのか、すべての箱を対象としていたのかは分かりません」
フィオナは静かに考え込んだ。
「もし、この用紙が作業途中のものなら、完成した表が別に存在した可能性もありますね」
エレナは頷いた。
「ええ。ただし、現時点で公開資料の中には確認できていません。作成されなかったのか、残っていないのか、別の場所で保管されているのかは不明です」
アリシアは用紙を見つめた。
途中まで書かれた数字。
訂正されたように見える行。
空白のまま残された欄。
そして、継続確認を求める短い言葉。
そこには、昔の誰かが資料を整理しようとしていた痕跡が残っている。
けれど、その作業がどこまで進んだのかは分からない。
(……この人たちも、全部を確かめられたわけじゃなかったのかな)
アリシアはそう考えたものの、すぐに視線を落とした。
その人たちが何を感じていたのかは分からない。
仕事として淡々と記録していたのかもしれないし、時間が足りなかっただけかもしれない。
けれど、少なくとも、確認が必要だという情報を残していたことは確かだった。
そのことが、今のアリシアには大切に感じられた。
◇
しばらくして、フィオナが用紙の端へ目を向けた。
そこには、ほかの欄とは少し違う形で、短い文字が書き込まれていた。
「先生、こちらの欄は何でしょうか?」
エレナは身を寄せ、文字を確認した。
アリシアも少しだけ身体を傾けたが、用紙へ触れないよう距離を保った。
その欄には、数字ではなく、短い語句が残されていた。
『照合原簿、別置。』
アリシアは一瞬、呼吸を止めそうになった。
照合原簿。
それは、今見ている用紙とは別に、照合のための記録が存在したことを示しているのだろうか。
エレナはしばらく文字を確認したあと、ゆっくりと口を開いた。
「これは興味深い記載ですね。ただし、ここでいう照合原簿が何を指しているのかは、まだ分かりません」
フィオナは静かに尋ねた。
「別置ということは、別の場所に保管されていたという意味でしょうか?」
「その可能性はあります。ただし、当時の整理作業で『別置』が具体的にどのような扱いを示していたのか、確認が必要です」
エレナは少し考え、続けた。
「少なくとも、この用紙とは別に、照合原簿と呼ばれる記録を参照していた可能性は考えられます。ただし、それが実際に存在したのか、現在まで残っているのかは、まだ分かりません」
アリシアはゆっくり頷いた。
新しい手がかりが見つかった。
けれど、それは答えではない。
むしろ、今まで知らなかった別の記録の存在を考える必要が生まれた。
「……先生、この照合原簿について、公開資料の中で調べることはできますか?」
アリシアが尋ねると、エレナは穏やかに頷いた。
「公開されている目録や受入記録の中に、同じ名称がないか確認することはできます。ただし、今日すぐに見つかるとは限りません」
「……はい。無理のない範囲で大丈夫です」
アリシアは丁寧に答えた。
エレナは微笑み、綴じ本を閉じた。
「今日はここまでにしましょう。新しい情報がいくつか見つかりましたから、まずは整理してみてください」
アリシアとフィオナは頷き、礼を言った。
資料室を出る前に、アリシアはもう一度だけ綴じ本へ視線を向けた。
古い数字と、短い書き込み。
その中に残されていた『照合原簿、別置。』という言葉が、静かに胸へ残っていた。
◇
資料室を出ると、夕方の光が廊下を淡く染めていた。
窓の外では学生たちが帰宅の準備をしており、中庭には穏やかな風が吹いている。
アリシアとフィオナは並んで歩きながら、今日確認したことを振り返った。
「思っていたより、いろいろなことが分かったわね」
フィオナが言うと、アリシアは頷いた。
「……うん。でも、対応表そのものは見つからなかったね」
「そうね。ただ、古い番号を確認しようとしていた記録は残っていたわ。それに、照合原簿という別の記録があった可能性も出てきた」
アリシアは少し考えた。
「……もし原簿が残っていたら、今まで分からなかったことが少し分かるかもしれない。でも、まだ存在するかどうかも分からないんだよね」
フィオナは穏やかに頷いた。
「ええ。だからこそ、次に確かめることができたんだと思うわ」
アリシアはその言葉を聞き、少しだけ微笑んだ。
フィオナは続けた。
「それに、今日のアリシアは、すぐに結論を出そうとしなかったわね。前だったら、何かにつながりそうな言葉を見つけると、少し不安そうになっていた気がするの」
アリシアは視線を落とした。
確かに、以前なら、期待と不安で胸がいっぱいになっていたかもしれない。
けれど、今は少し違う。
分からないことがあるのは、怖いことではない。
確かめられることを一つずつ積み重ねればいい。
そう考えられるようになっていた。
「……フィオナが一緒にいてくれたから、落ち着いて見られたのかもしれない」
アリシアが言うと、フィオナは少し驚いたあと、嬉しそうに微笑んだ。
「そう言ってもらえると嬉しいわ。でも、アリシア自身も、ちゃんと考えていたと思う」
ノアが二人の足元から口を挟んだ。
「まあ、こいつも少しは成長したってことだろ。昔なら『原簿』って言葉を見ただけで、一晩中考え込んでただろうからな」
アリシアは少し頬を赤くした。
「……今でも、少しは考えると思うけど」
「少しで済めばいいけどな」
フィオナが小さく笑い、アリシアもつられて微笑んだ。
三人は穏やかな空気の中を歩き、生活観測区画へ向かった。
◇
談話室へ戻ると、子供は机の上に三枚の絵を並べていた。
家と庭の絵。
森と川の絵。
そして、その間に置かれた橋の絵。
昨日、橋の下に描かれた青い線は、今日は少しだけ長くなっていた。
アリシアが近づくと、子供は嬉しそうに顔を上げた。
「アリシア、おかえり!」
「……ただいま。今日は青い線の続きを描いたんだね」
子供は大きく頷いた。
「うん! でも、まだ川にするかどうか決めてないの」
アリシアは椅子へ腰を下ろし、絵を眺めた。
青い線は橋の下を通り、少しだけ曲がっている。
川にも見えるし、小さな水路にも見える。
けれど、子供はまだ何にするか決めていないようだった。
「……今日は、どこまで描くつもり?」
アリシアが尋ねると、子供は少し考えた。
「今日はここまで。明日また考える。でもね、青い線は消さないでおくの」
アリシアは微笑んだ。
「……うん。そうしたいなら、そのままにしておこうね」
子供は嬉しそうに笑った。
少し離れた場所では、顔のない存在が静かに過ごしていた。
胸元の十一の光は安定しており、覆われた木箱にも変化はない。
アリシアは一度だけそちらへ視線を向けたが、何かを読み取ろうとはしなかった。
今は、子供が自分で選び、自分で考えている時間を大切にしたかった。
子供は絵を片づける前に、アリシアへ尋ねた。
「アリシアは、今日は何をしてきたの?」
アリシアは少し考えた。
資料室で調べたことを、子供へどこまで話すべきだろうか。
難しい数字の話をそのまま伝えても、退屈させてしまうかもしれない。
それに、今は子供自身の時間を大切にしたかった。
「……昔の人が残した記録を、少し調べてきたの」
アリシアが答えると、子供は興味深そうに目を輝かせた。
「昔の人の記録?」
「……うん。何かを整理する時に、どこへしまったのか分かるように数字を書いていたみたいなの。でも、今はその数字が何を示しているのか、分からないところがあるんだ」
子供は少し考え込んだ。
「じゃあ、探し物をしてるの?」
アリシアは小さく微笑んだ。
「……そうかもしれないね。でも、何を探しているのかも、まだ全部は分かっていないの」
子供は不思議そうに首を傾げたが、やがて嬉しそうに笑った。
「じゃあ、見つかったら教えてね!」
アリシアは頷いた。
「……うん。話せることがあったら、教えるね」
子供は満足そうに頷き、三枚の絵を職員へ渡した。
職員は子供の希望を確認し、昨日と同じ順番で保管することを約束した。
アリシアはその様子を見ながら、静かに微笑んだ。
子供は今日も、自分で決めたところまで絵を描いた。
そして、続きを明日に残すことを選んだ。
その時間が、今の子供にとって大切なものなのだろう。
◇
夜、アリシアは自室で日記帳を開いた。
窓の外には星が見え、雨上がりの空気が静かに流れている。
ノアは寝台の上で丸くなり、アリシアが筆を持つ様子を眺めていた。
「今日は、ずいぶん書くことがありそうだな」
アリシアは少し笑った。
「……うん。でも、全部書こうとすると長くなりそうだから、大切なところを整理するつもり」
「それでいい。日記が資料室の目録みたいになったら、後で読むお前が困るだろ」
アリシアは頷き、筆を動かし始めた。
『今日は、古い番号と新しい番号を対応させようとしていたと思われる照合用紙を見せてもらった。完成した対応表ではなく、途中まで書かれた記録だった。』
『同じ旧札番号に複数の箱番号が書かれている部分もあり、どの数字が最終的に採用されたのかは分からない。』
アリシアは一度筆を止めた。
そして、今日見つけた短い言葉を思い出した。
『照合原簿、別置。』
その言葉を日記帳へ丁寧に書き写した。
『照合用紙には、別の場所に照合原簿があることを示しているような記載があった。ただし、何を指すのかは分からないし、現在まで残っているかどうかも確認できていない。』
書き終えると、アリシアは少しだけ息を整えた。
今日も、六つ目の神器の謎は解けていない。
失われた六人目の名前も、古い目録の六番目の空白も、何を意味するのか分からないままだ。
けれど、古い番号を調べる中で、別の照合記録が存在した可能性が見つかった。
それが何を意味するのかは、まだ分からない。
ただ、次に確かめるべきことが少しだけ明確になった。
アリシアは日記帳へ最後の一文を書き加えた。
『子供は、今日は橋の下の青い線を少し長くした。でも、それを川にするかどうかは、まだ決めていない。明日また考えると、自分で決めていた。』
『私も、分からないことを急いで決めず、確かめられることを一つずつ残していきたい。』
書き終えると、アリシアは日記帳を閉じた。
ノアは寝台の上で目を細めた。
「今日は、もう終わりか?」
「……うん。今日はここまで」
「なら寝ろ。明日もまた、考えることがあるんだろ」
アリシアは微笑み、灯りを落とした。
寝台へ入ると、ノアがいつものように隣へ移動し、丸くなって目を閉じた。
窓の外では夜風が木々の葉を揺らし、遠くの森から虫の声が聞こえている。
アリシアはその音を聞きながら、今日見た照合用紙を思い出した。
古い番号と、新しい番号。
その二つを結びつけようとしていた誰かがいた。
けれど、その作業がどこまで進んだのかは、まだ分からない。
もし別の照合原簿が残っていれば、今まで分からなかったことが少し見えてくるかもしれない。
それが六つ目の神器につながるかどうかは、まだ分からない。
今は、分からないままでいい。
明日また、確かめられることから始めればいいのだから。
アリシアは静かに目を閉じた。
今夜も胸に冷たさはなく、身体に痛みもない。
穏やかな夜の中で、彼女はゆっくりと眠りへ落ちていった。




