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『忘れられた六つ目の神器に選ばれました 〜人見知りな闇の少女と毒舌黒猫の学園英雄譚〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第299話 箱の外側に残された、誰かの引き継ぎ


 翌朝、アリシアが目を覚ますと、窓の向こうでは細かな雨が降っていた。


 昨夜まで見えていた星空は厚い雲に覆われ、庭の石畳には小さな水たまりができている。雨粒が窓枠を叩く音は静かで、遠くの木々が風に揺れるたび、葉にたまった雫がまとまって落ちる音が聞こえた。


 アリシアは寝台の中で身体を起こし、しばらく窓の外を眺めていた。


 昨日、フィオナと一緒に資料室で調べたことが、まだ頭の中に残っている。


 古い六欄の目録が入っていた保管箱には、受入時の整理番号が付けられていた。その番号の途中には一つ抜けがあったものの、同じ時期に整理された別の箱にも似た例が見つかり、番号が飛んでいること自体は珍しくないと分かった。


 そして、別の保管箱にも古い備品記録が残されていた。


 ただし、六欄の目録とは形式が異なり、作成された場所や時期も明確ではない。


 関係があると判断できる材料は、まだ見つかっていなかった。


(……昨日は、番号の抜けを確かめることができた。今日は、何を調べればいいんだろう)


 アリシアはそう考えたものの、すぐに答えを探し始めることはしなかった。


 資料室へ行けば何かが見つかるとは限らないし、毎日通わなければならない理由もない。


 それでも、古い記録がどのように整理されてきたのかについては、もう少し知りたいと思っていた。


「朝から雨を見つめて考え事か。今度は雲の数でも数えるつもりか?」


 寝台の足元で丸くなっていたノアが、片目を開けて言った。


 アリシアは振り返り、少しだけ微笑んだ。


「……違うよ。昨日の資料室のことを考えてたの」


「だろうな。お前がそんな顔をしてる時は、大抵あの古い目録のことだ」


 ノアは大きく伸びをし、寝台の端へ移動した。


「それで、今日は何を調べるつもりなんだ?」


「……まだ決めてないの。昨日は別の箱にも番号の抜けがあるって分かったけど、だからって、次に何を見ればいいのかは分からなくて」


 アリシアはそう答えながら、机の上に置かれた帳面へ視線を向けた。


 昨日書いた記録には、比較した箱の特徴や、番号の抜けについて分かったことが整理されている。


 けれど、その先へ進むための問いは、まだ書かれていなかった。


 ノアは少し考えたあと、尻尾を揺らした。


「だったら、昨日見た箱そのものについて聞いてみたらどうだ?」


「……箱そのもの?」


「そうだ。中に入っていた紙ばかり見てるが、その紙を入れていた箱にも何か書いてあったかもしれねえだろ」


 アリシアは思わず顔を上げた。


 昨日まで調べていたのは、保管箱の受入記録だった。


 箱の中に入っていた文書や、それぞれに付けられた番号については確認した。


 けれど、箱そのものがどのような状態だったのか、表面に何か書かれていたのかについては、まだ詳しく聞いていなかった。


「……確かに、そうかもしれない」


 アリシアが呟くと、ノアは少し得意そうに目を細めた。


「まあ、古い箱が残ってるかどうかも分からねえけどな。捨てられてたら、それまでだ」


「……うん。まずは、記録があるかどうか聞いてみる」


「その前に朝飯だぞ。昨日も言ったが、古い紙は逃げねえからな」


 アリシアは小さく笑い、寝台から立ち上がった。


 雨はまだ静かに降り続いている。


 今日は傘を持っていかなければならない。


 そんな当たり前のことを考えながら身支度を始めると、頭の中にあった疑問も、少しずつ落ち着いた形へ変わっていった。


     ◇


 学院へ向かう道では、雨に濡れた石畳が鈍い光を反射していた。


 中庭の噴水は雨粒の波紋に囲まれ、普段よりも静かな音を立てている。学生たちは傘や外套を使いながら足早に歩いており、屋根のある通路にはいつもより多くの人が集まっていた。


 アリシアは傘を畳み、教室へ入った。


 室内ではメリルが窓際に立ち、雨の様子を眺めていた。


「おはよう、アリシア! 今日はすごい雨じゃないけど、ずっと降りそうだね」


「……おはよう、メリル。うん。帰る頃には止んでくれるといいね」


 アリシアが答えると、メリルは明るく笑った。


「そうだね。でも、雨の日って教室がいつもより静かになるから、私は結構好きなんだ」


 アリシアは少し驚いて窓の外を見た。


 確かに、今日は廊下を走る学生も少なく、教室の中にも落ち着いた空気が流れている。


 雨音が周囲の小さな物音を包み込み、普段なら気になる話し声も柔らかく聞こえた。


「……私も、こういう雨なら好きかもしれない」


 アリシアが微笑むと、メリルは嬉しそうに頷いた。


 やがてエドガーとテオが教室へ入り、少し遅れてフィオナも姿を見せた。


 五人は挨拶を交わし、それぞれの席へ向かった。


 授業が始まるまでの短い時間、アリシアは昨日の資料室についてフィオナと話した。


「……昨日は一緒に来てくれてありがとう」


 アリシアがそう言うと、フィオナは穏やかに微笑んだ。


「こちらこそ。私も勉強になったわ。番号が抜けているだけで、何か特別な理由があると思ってしまいそうだったもの」


「……うん。私も最初はそうだった」


 アリシアは少し考えてから続けた。


「……それでね、今日は箱そのものについて聞いてみようかなって思ってるの」


 フィオナは首を傾げた。


「箱そのもの?」


「……うん。中に入っていた資料のことは聞いたけど、箱の外側に何か書かれていたのかは、まだ知らないから」


 フィオナは少し考え込んだ。


「なるほど。箱に昔の管理札が付いていた可能性もあるのね」


「……そう。でも、残っているかどうかも分からないし、何も書かれていなかったかもしれない」


 フィオナは頷いた。


「それでも、聞いてみる価値はありそうね。ただ、今日は雨だから、資料室がいつもより忙しいかもしれないわ」


 アリシアはその言葉を聞き、少しだけ考えた。


 雨の日には、屋外で過ごせない学生が資料室や図書室へ集まることもある。


 エレナ・ヴァイスが忙しければ、無理に時間を取ってもらう必要はない。


「……うん。もし忙しそうだったら、別の日にするね」


 フィオナは安心したように微笑んだ。


 その時、授業開始を知らせる鐘が鳴った。


 学生たちは席へ戻り、教室の中に静けさが広がった。


     ◇


 午前の授業では、魔導具の管理記録と実際の保管方法について学んだ。


 教師は教卓の上へ二つの小さな木箱を置き、それぞれの蓋を開いた。


 一つには訓練用の魔導具が丁寧に収められている。


 もう一つには同じ形の魔導具が入っていたが、内部の仕切りが一部外れ、部品を固定する布も古くなっていた。


「今日は、保管状態の違いが記録へどのような影響を与えるか考えてもらいます」


 教師は学生たちを見渡した。


「同じ魔導具でも、保管方法によって状態が変化することがあります。また、保管箱に書かれた情報が、内部の物品と一致しているとは限りません」


 アリシアはその説明を聞きながら、朝考えていたことを思い出した。


 箱の外側に何か書かれていたとしても、それが中に入っていた資料の本来の名前とは限らない。


 後から整理した人が書いた可能性もある。


 教師は一つ目の箱を指さした。


「こちらの箱には、外側に『訓練用・標準型』と記されています。しかし、この表示だけで内部の魔導具が標準型であると判断してよいでしょうか」


 教室のあちこちから、否定する声が上がった。


 教師は頷き、箱の中から魔導具を取り出した。


「そのとおりです。表示と内容が一致しているかは、実際に確認する必要があります。さらに、箱が別の用途で再利用されている場合もあります」


 アリシアは帳面へ書き留めた。


 箱の表示と中身は、必ずしも一致しない。


 古い資料についても、同じことが言えるかもしれない。


 ただし、今の授業で扱っているのは訓練用魔導具の管理方法であり、古い文書の歴史的な意味を直接説明するものではない。


 アリシアはその違いを意識しながら、教師の説明へ耳を傾けた。


 授業の後半では、学生たちが二つの箱の状態を比較し、保管記録を作る課題が行われた。


 アリシアたちの班では、エドガーが魔導具の形式を確認し、テオが箱の外側に書かれた情報を記録した。


 メリルは内部の仕切りや布の状態を確認し、フィオナは保管上の危険がないかを見守る。


 アリシアはそれぞれの記録を整理しながら、気づいたことを書き加えた。


『箱の表示は確認済み。ただし、表示が付けられた時期は不明。』


 エドガーはその一文を見て、少し考えた。


「確かに、今の箱に書かれているからといって、最初から同じ表示だったとは限らないな」


 メリルも頷いた。


「それに、箱だけ別のものと取り替えた可能性もあるよね」


 テオは箱の底を確認しながら、少し笑った。


「こういうことを考え始めると、ただの箱でも調べることが多いね」


 アリシアは小さく微笑んだ。


「……うん。でも、何が分かっているのか整理すると、少し見やすくなる気がする」


 フィオナはその言葉を聞き、穏やかに頷いた。


 五人は協力して記録を完成させ、教師へ提出した。


 演習は予定された範囲で終了し、魔導具の操作による異常もなかった。


 アリシアは帳面を閉じながら、今日の授業で学んだことを大切に覚えておこうと思った。


     ◇


 昼休みになると、五人は食堂へ向かった。


 雨はまだ降り続いており、窓の外では学生たちが屋根のある通路を行き交っている。


 食堂の中には温かいスープの香りが広がり、普段よりも多くの学生が席を埋めていた。


 アリシアたちは窓際から少し離れた席を見つけ、食事を始めた。


 メリルは温かいパンをちぎりながら、午前の授業について話した。


「今日の箱の話、思ったより難しかったね。外側に書いてあることだけじゃ駄目だし、中身を見ても、いつ入れられたのかまでは分からないし」


 エドガーは頷いた。


「記録を作る時には、確認できたことを残すしかないからな。分からない部分を無理に埋めると、後から読む人が困る」


 テオは少し考えてから言った。


「でも、箱に何か書いてあれば、少なくとも誰かがそういう分類をしたことは分かるよね。それがいつなのかは別として」


 アリシアはその言葉に顔を上げた。


「……うん。私も、そう思った」


 メリルはアリシアの表情を見て、少し笑った。


「もしかして、資料室の箱のこと考えてる?」


 アリシアは少し頬を赤くした。


「……うん。昨日見た受入記録の箱に、何か書かれていたのかなって」


 エドガーは興味深そうに頷いた。


「それなら、箱の状態を記録した資料が残っているかもしれないな。ただし、今の授業と同じで、箱の表示が元の資料の意味を示すとは限らない」


「……うん。そこは気をつけたいと思ってる」


 アリシアはそう答えた。


 フィオナは食事の手を止め、アリシアへ穏やかな視線を向けた。


「今日は資料室へ行く予定?」


「……うん。でも、先生が忙しかったら、また別の日にするつもり」


 メリルは明るく笑った。


「それがいいと思う! それに、毎日何か見つけなきゃいけないわけじゃないもんね」


 アリシアは頷いた。


 何かを見つけたい気持ちはある。


 けれど、見つからない日があっても、それで自分の価値が変わるわけではない。


 そのことを、今は少しずつ理解できるようになっていた。


     ◇


 午後の授業が終わる頃には、雨は小降りになっていた。


 アリシアは仲間たちと別れ、ノアとともに中央棟の資料室へ向かった。


 廊下には湿った空気が残っており、開いた窓からは雨上がりの土の匂いが流れ込んでくる。


 資料室の入口には、いつもの案内板が置かれていた。


 室内には数人の学生がいたが、昨日ほど混雑していない。


 アリシアが受付へ近づくと、上級生が顔を上げた。


「こんにちは。今日も公開目録についてでしょうか?」


「……はい。少しだけ、受入時の保管箱について聞きたいことがあって」


 上級生は頷き、エレナ・ヴァイスへ確認してくれた。


 しばらくすると、エレナが奥の整理室から姿を見せた。


「こんにちは、アリシアさん。今日はどんなことを確かめたいのかしら」


 アリシアは丁寧に頭を下げた。


「……こんにちは。昨日まで、箱の中に入っていた資料や整理番号を見せていただいたんですけど、その箱自体に何か書かれていたのか、記録が残っているか知りたくて」


 エレナは少し考えた。


「保管箱の外側の記録ですね。受入時の状態をまとめた資料が残っている場合があります。公開できる範囲で確認してみましょう」


 アリシアは頷き、相談用の机へ案内された。


 ノアは足元へ座り、静かに周囲を見渡している。


 エレナは棚から薄い綴じ本を取り出し、机の上へ置いた。


「こちらは、古い資料を受け入れた時の状態記録です。すべての箱について詳しい情報が残っているわけではありませんが、昨日見た箱については簡単な記載があります」


 アリシアは身を乗り出しかけたが、すぐに姿勢を整えた。


 エレナはその様子を見て、穏やかに微笑んだ。


「急がなくても大丈夫ですよ。まずは、何が記録されているのか一緒に確認しましょう」


「……はい」


 アリシアは小さく頷いた。


     ◇


 状態記録には、保管箱の材質や大きさ、受入時の破損状況が記されていた。


 六欄の古い目録が入っていた箱は、木製の小型保管箱として登録されている。


 外側には古い紙札が貼られていたが、その一部は剥がれ、文字も薄くなっていた。


 アリシアはその記載を読み、少し驚いた。


「……紙札が、あったんですね」


 エレナは頷いた。


「ええ。ただし、紙札に書かれていた内容は完全には判読できなかったようです。現在の公開記録には、読み取れた部分だけが転記されています」


 アリシアは慎重に文字を追った。


 そこには、いくつかの数字と、短い語句が残されていた。


 けれど、施設名や所有者の名前を示すものではない。


 少なくとも、公開されている転記からは、そのような情報を確認できなかった。


「……この数字は、整理番号とは違うんですか?」


 アリシアが尋ねると、エレナは別の欄を指さした。


「現在の受入番号とは一致していません。紙札に書かれた数字が、以前の管理番号だった可能性はありますが、対応する記録が見つかっていないため、確定はできません」


 アリシアは頷いた。


 紙札があった。


 そこには数字が書かれていた。


 けれど、その数字が何を示すのかは分からない。


 昨日まで調べていた整理番号とは別の情報だったが、それだけで何か特別な意味があるとは言えなかった。


 エレナは説明を続けた。


「それから、この箱については、受入時に蓋が交換されていた可能性があると記されています」


 アリシアは顔を上げた。


「……蓋が、交換されていたんですか?」


「可能性がある、という段階です。箱本体と蓋では木材の加工方法が少し異なっており、金具の位置にもずれがあったそうです。ただし、いつ交換されたのか、最初から別の部材を組み合わせて作られたのかは分かっていません」


 アリシアはその説明を聞きながら、午前の授業を思い出した。


 箱の外側に書かれた情報が、必ずしも中身と一致するとは限らない。


 さらに、箱の一部が後から交換されていた可能性まである。


 そうなると、紙札がいつ貼られたのかについても、慎重に考える必要があるだろう。


「……じゃあ、紙札も最初から貼られていたとは限らないんですね」


 エレナは頷いた。


「そのとおりです。箱の製作時に貼られたものか、別の用途で使われた時に貼られたものか、移管の際に付けられたものかは、現在の記録だけでは判断できません」


 アリシアは帳面へ書き留めた。


 その時、エレナが状態記録の別の部分へ目を向けた。


「ただ、もう一つ確認しておきたい記載があります」


 アリシアは顔を上げた。


「……何でしょうか?」


 エレナは少しだけ間を置き、該当する欄を示した。


「箱の内側に、紙札とは別の書き込みがあったと記録されています」


 アリシアは思わず息を止めかけた。


 けれど、すぐに呼吸を整え、続きを待った。


 エレナは穏やかな声で説明した。


「内側の書き込みは、受入時の担当者が確認したものです。ただし、現在の公開資料には、その全文は載っていません。保存状態の問題で、判読できた部分だけが記録されています」


 アリシアは静かに頷いた。


「……何が書かれていたんですか?」


 エレナは転記された部分を指さした。


 そこには、短い一文が残されていた。


『引継済。内容照合未了。』


 アリシアはその文字を、ゆっくりと読んだ。


 引き継ぎは済んでいる。


 けれど、内容の照合は終わっていない。


 その意味を考えた時、胸の奥に小さな緊張が生まれた。


「……これは、箱の中身を確認しないまま引き継いだってことですか?」


 エレナはすぐには頷かなかった。


「その可能性はあります。ただし、何を引き継いだのか、どの段階の照合が終わっていなかったのかは分かりません。箱そのものを引き継いだのか、管理上の責任を引き継いだのか、内容の一覧を引き継いだのかも、記録だけでは判断できません」


 アリシアはその説明を聞きながら、もう一度文字を見つめた。


 短い一文だった。


 けれど、そこには誰かが何かを引き継ぎ、その時点で確認できていないことがあったという情報が残されている。


 それがいつのことなのかは分からない。


 誰が書いたのかも分からない。


 六欄の目録と直接関係するかどうかも、まだ確かめられていない。


 それでも、今まで見てきた数字の抜けとは少し違うものに感じられた。


 アリシアは静かに息を整えた。


(……誰かが、まだ確かめていないことを残していたんだ)


 その考えが浮かんだ時、彼女は少しだけ胸の奥が温かくなるのを感じた。


 けれど、それは真相に近づいた喜びとは違っていた。


 昔の誰かも、分からないことを分からないまま残そうとしていたのかもしれない。


 そう思ったことが、今の自分と少し重なったのだった。


     ◇


 エレナはアリシアが落ち着くのを待ってから、説明を続けた。


「この書き込みについては、注意が必要です。まず、箱の内側に書かれていたという記録はありますが、現在の公開複製では文字の状態を直接確認できません」


 アリシアは頷いた。


「……はい」


「それから、転記された一文が、いつ書かれたものなのかも分かっていません。箱の製作時とは限りませんし、資料が入れられた時とも限りません」


 エレナは静かに続けた。


「さらに、この書き込みが六欄の目録について述べたものだと考える根拠もありません。箱の中には複数の文書が入っていたのですから」


 アリシアは帳面へ視線を落とした。


 確かに、箱には六欄の目録だけが入っていたわけではない。


 修繕費用の一覧や、判読できない報告書なども含まれていた。


 書き込みが何を指していたのかは分からない。


「……でも、誰かが引き継ぎをしたっていう記録は残っているんですね」


 アリシアが尋ねると、エレナは頷いた。


「少なくとも、そのような文言が箱の内側に記されていたと、受入時の担当者が記録しています。ただし、実際にどのような引き継ぎが行われたのかは、別の資料で確認する必要があります」


 アリシアはゆっくり頷いた。


 新しい情報が見つかった。


 けれど、それは答えではない。


 むしろ、さらに確かめるべきことが増えた。


 エレナは状態記録を閉じる前に、もう一つ説明を加えた。


「こうした短い書き込みは、後から読む人にとって大切な手がかりになることがあります。ただし、短い言葉ほど、前後の事情を想像で補ってしまいやすいものです」


 アリシアは顔を上げた。


「……想像で、補ってしまう」


「ええ。例えば『引継済』という言葉を見て、誰から誰へ引き継がれたのか、何が引き継がれたのかまで分かった気になってしまうことがあります。でも、実際にはそこまで書かれていません」


 アリシアは静かに頷いた。


 その言葉は、今の自分に必要なものだった。


 六つ目の神器の謎を調べる中で、何かにつながりそうな言葉を見つけると、つい期待してしまう。


 けれど、その期待だけで、書かれていないことまで事実にしてはいけない。


「……先生、今日のことを、仲間に話してもいいですか?」


 アリシアが尋ねると、エレナは頷いた。


「公開されている記録の範囲であれば構いません。ただし、転記された一文が何を意味するのかについては、まだ確定していないことを忘れないでくださいね」


「……はい。気をつけます」


 アリシアは丁寧に礼を言った。


 今日の相談は、そこで終えることにした。


 まだ聞きたいことはあったが、エレナがほかの資料整理を進めていることも分かっていた。


 何より、自分自身も、今見た情報を一度落ち着いて考える必要があると感じていた。


     ◇


 資料室を出ると、雨はほとんど止んでいた。


 中央棟の廊下には夕方の淡い光が差し込み、窓の外では濡れた木々の葉が静かに揺れている。


 アリシアは鞄の中の帳面を確かめながら、ゆっくり歩き始めた。


 ノアは隣を歩き、しばらく黙っていた。


 やがて、廊下の人通りが少なくなったところで口を開いた。


「今日は、ちょっと気になるものが見つかったな」


 アリシアは頷いた。


「……うん。でも、何を引き継いだのかは分からないんだよね」


「そうだな。箱の中身かもしれねえし、箱そのものかもしれねえ。管理の仕事を引き継いだだけかもしれねえ」


 ノアは尻尾を揺らしながら続けた。


「それに、あの六欄の目録と関係があるかどうかも分からねえ」


「……うん。そこは、ちゃんと分けて考えたい」


 アリシアは少し考えてから、静かに言った。


「……でもね、昔の誰かが『まだ確認できていない』って残していたのが、少し嬉しかったの」


 ノアは顔を上げた。


「嬉しかった?」


「……うん。全部分かったふりをしないで、まだ確かめていないことを残していたのかなって思って」


 アリシアはそこで少し言葉を止めた。


 もちろん、それが書き込みを残した人の本当の気持ちだったとは限らない。


 単なる事務的な記録だった可能性もある。


 それでも、今の自分には、その短い一文が少しだけ大切に感じられた。


「……私も、分からないことをちゃんと残したいから」


 ノアはしばらく黙っていたが、やがて小さく鼻を鳴らした。


「まあ、そういう受け取り方をするのは自由だろ。ただし、昔の誰かがお前と同じ気持ちだったって決めつけるなよ」


 アリシアは微笑んだ。


「……うん。分かってる」


 ノアは満足そうに尻尾を揺らした。


 二人は並んで生活観測区画へ向かった。


     ◇


 談話室へ戻ると、子供は机の上に三枚の絵を広げていた。


 家と庭の絵。


 森と川の絵。


 そして、その間に置かれた白い紙。


 昨日、真ん中の紙に描かれた小さな橋は、今日は少しだけ形が変わっていた。


 橋の両側に短い道が描き加えられ、橋の下にはまだ何も描かれていない。


 アリシアが近づくと、子供は嬉しそうに顔を上げた。


「アリシア、おかえり!」


「……ただいま。今日は橋の続きを描いたんだね」


 子供は大きく頷いた。


「うん! でもね、まだ川にするか道にするか決めてないの」


 アリシアは椅子へ腰を下ろし、絵を眺めた。


 橋の両側には細い道が伸びている。


 けれど、その道がどこへ続くのかは、まだはっきり描かれていなかった。


「……橋の向こうは、森につながるの?」


 アリシアが尋ねると、子供は少し考えた。


「うーん、そうしようかなって思ってる。でも、おうちの庭につながってもいいし、途中に小さな広場があってもいいかなって」


 アリシアは微笑んだ。


「……いろいろ考えてるんだね」


「うん! だって、まだ何でも描けるから」


 子供は嬉しそうに笑った。


 アリシアはその様子を見守りながら、今日の資料室で見た短い一文を思い出した。


『引継済。内容照合未了。』


 昔の誰かが残した、確認の途中であることを示す言葉。


 そして、今目の前では、子供が自分の絵をまだ完成させていない。


 もちろん、その二つは同じものではない。


 けれど、何かが途中であることを、途中のまま残すという点では、少し似ているように感じられた。


 アリシアは子供へ視線を戻した。


「……今日は、どこまで描くつもり?」


 子供は少し考えた。


「今日は橋の両側だけ。下に何があるかは、明日また考える」


 アリシアは頷いた。


「……うん。楽しみだね」


 子供は嬉しそうに笑った。


 少し離れた場所では、顔のない存在が静かに過ごしていた。


 胸元の十一の光は安定しており、覆われた木箱にも変化はない。


 アリシアは一度だけそちらへ視線を向けたが、何かを読み取ろうとはしなかった。


 今は、子供が自分で考え、自分で描いている時間を大切にしたかった。


     ◇


 やがて職員が近づき、子供へ声をかけた。


「今日は、ここまでにしますか?」


 子供は頷いた。


「うん。でも、明日も続きが描けるように、同じ順番で置いておいてほしい」


 職員は微笑んだ。


「分かりました。昨日と同じように、三枚の順番が分かるようにしておきますね」


 子供は安心したように笑った。


 アリシアはそのやり取りを見ながら、少し考えた。


 絵を残す時、紙だけを保存すればいいわけではない。


 どの順番で並べていたのか。


 どこまで描くつもりだったのか。


 何をまだ決めていなかったのか。


 そうしたことも、後から見返す時には大切になるかもしれない。


 けれど、子供が望んでいないことまで記録する必要はない。


 アリシアはその違いを意識しながら、職員と子供の会話を静かに見守った。


 子供は最後に、真ん中の紙の裏へ短い言葉を残してもらった。


『橋の下は、まだ決めていない。明日また考える。』


 職員は書いた内容を読み上げ、子供が頷いてから紙を片づけた。


 アリシアはその様子を見て、穏やかに微笑んだ。


 今日も、子供は自分の意思で続きを決めた。


 そのことが、何より大切だった。


     ◇


 夜、アリシアは自室で日記帳を開いた。


 窓の外では雨がすっかり止み、雲の切れ間から月が見えている。


 庭の石畳にはまだ水たまりが残っていたが、夜風は穏やかで、遠くの木々が静かに揺れていた。


 ノアは寝台の上で丸くなり、アリシアが筆を持つ様子を眺めていた。


「今日は何を書くんだ?」


 アリシアは少し考えてから答えた。


「……資料室で見た、箱の内側の書き込みのこと。それから、子供の絵のことも書こうと思ってる」


「また古い紙と絵の組み合わせか。お前の日記、最近はずいぶん真面目だな」


 アリシアは小さく笑った。


「……そうかな。でも、どっちも今日、大切だと思ったことだから」


 ノアは小さく鼻を鳴らし、目を閉じた。


 アリシアは筆を動かし始めた。


『今日は、古い目録が入っていた保管箱の状態記録を見せてもらった。箱の外側には古い紙札があり、内側には別の書き込みがあったと記録されていた。』


『紙札の数字が何を示すのかは分からない。箱の蓋も、後から交換された可能性があるらしい。』


 アリシアは一度筆を止めた。


 そして、今日見た短い一文を思い出した。


『引継済。内容照合未了。』


 その言葉を、日記帳へ丁寧に書き写した。


『箱の内側には、こう書かれていたと記録されている。ただし、誰が、いつ、何を引き継いだのかは分からない。六欄の目録との関係も確認できていない。』


 そこまで書いて、アリシアは少しだけ息を整えた。


 今日、新しい情報が見つかった。


 けれど、それは六つ目の神器の謎を解く答えではない。


 ただ、古い箱に、誰かが何かを引き継いだことを示す言葉が残されていた。


 その事実が、今の自分には少し大切に感じられた。


 アリシアは続きを書いた。


『私は、その言葉を見て、昔の誰かも分からないことを分からないまま残そうとしていたのかもしれないと思った。でも、それは私の想像であって、確かめられた事実ではない。』


 書き終えると、少しだけ心が落ち着いた。


 ノアが寝台から声をかけた。


「今日は、ちゃんと想像と事実を分けて書けたみたいだな」


 アリシアは振り返り、微笑んだ。


「……うん。ノアにも、先生にも、何度も教えてもらったから」


「俺は別に、教師になった覚えはねえけどな」


 ノアは少し得意げに尻尾を揺らした。


 アリシアは小さく笑い、日記帳へ最後の一文を書き加えた。


『子供は、今日は橋の両側に道を描いた。でも、橋の下に何があるのかは、まだ決めていない。明日また考えると、自分で決めていた。』


『私も、まだ分からないことを急いで埋めず、確かめられることを一つずつ残していきたい。』


 書き終えると、アリシアは日記帳を閉じた。


 今日も、六つ目の神器の謎は解けていない。


 失われた六人目の名前も、古い目録の六番目の空白も、まだ分からないままだ。


 けれど、箱の内側に残された短い書き込みは、今まで知らなかった情報だった。


 それが何を意味するのかは、まだ分からない。


 誰が何を引き継いだのかも、どのような確認が終わっていなかったのかも、確かめられていない。


 それでも、今日の記録を見たことで、次に何を調べればいいのか、少しだけ考えられるようになった。


 アリシアは灯りを落とし、寝台へ入った。


 ノアはいつものように隣へ移動し、丸くなって目を閉じた。


 窓の外では、雨上がりの夜風が木々の葉を揺らしている。


 アリシアはその音を聞きながら、今日見た短い一文を思い出した。


 引き継ぎは済んでいる。


 けれど、内容の照合は終わっていない。


 その言葉が、いつ、誰によって残されたのかは分からない。


 けれど、もし昔の誰かが確認できなかったことを残したのなら、後から読む自分たちは、その違いを大切にしなければならないのだろう。


(……私も、誰かへ何かを引き継ぐ時には、分からないことをちゃんと伝えられる人になりたい)


 アリシアは静かに目を閉じた。


 今夜も胸に冷たさはなく、身体に痛みもない。


 穏やかな夜の中で、彼女はゆっくりと眠りへ落ちていった。


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