第294話 古い目録に残された、六番目の記載
翌朝、アリシアが目を覚ました時、雨はすっかり上がっていた。
窓の外には薄い雲が残っていたものの、東の空から差し込む朝日は柔らかく、濡れた庭木の葉を淡い金色に照らしている。昨夜まで続いていた雨の名残は石畳の隙間や木々の根元に残り、開けた窓からは湿った土と若い草の匂いが流れ込んできた。
寝台の足元では、ノアが前足を伸ばして大きな欠伸をしていた。
「……おはよう、ノア」
「おう。ようやく雨が止んだか。これで俺の散歩道も元どおりだな」
アリシアは寝台から起き上がり、窓の向こうを眺めた。
「……今日は、いい天気になりそうだね」
「そうだな。で、昨日から楽しみにしてた展示は、今日だったか?」
「……うん。学院の授業が終わったら、みんなと一緒に見に行く予定なの」
ノアは尻尾をゆっくり揺らした。
「古い記録の読み方を教えてもらうんだったな。まあ、今までとは違うことを学ぶのも悪くねえだろ」
アリシアは頷いた。
昨日、学院の魔法史の授業で学んだことが、まだ心に残っている。
記録に名前が残っていないからといって、誰かが意図的に消したとは限らない。
書かれなかったのかもしれないし、記録そのものが失われたのかもしれない。あるいは、別の形で残されている可能性もある。
失われた六人目について考える時、自分はその違いを十分に意識できていなかった。
(……今日は、何か分かるかな)
そう思ったものの、すぐに小さく首を振った。
展示は、六つ目の神器について調べるために用意されたものではない。
古い資料をどのように読み、どこまで確かめられるのかを学ぶための場所だ。
そこで直接、六人目の名前が見つかるとは限らない。
けれど、調べ方を知ることは、きっと無駄にはならないだろう。
「……ノア。今日は、ちゃんと勉強してくるね」
「おう。ただし、難しい文字を見すぎて頭が痛くなるまで頑張るなよ」
アリシアは小さく笑った。
「……そんなに無理しないよ」
「どうだかな。お前は気になることがあると、時間を忘れるところがあるからな」
ノアの言葉には、反論しにくいところがあった。
アリシアは苦笑しながら身支度を始め、今日もいつもどおり学院へ向かう準備を整えた。
◇
学院の午前の授業は、魔法の基礎運用に関する講義だった。
今日は実技ではなく、複数の魔導具を使用する際の役割分担と、記録の確認方法について学ぶことになっている。
教師は黒板へ簡単な図を書き込み、学生たちへ問いかけた。
「複数人で一つの魔法運用を行う場合、最も重要なことは何でしょうか」
教室のあちこちから手が上がった。
魔力の安定。
役割の明確化。
負担の分散。
異常が生じた時の対応。
学生たちがそれぞれ答えると、教師は頷きながら黒板へ書き加えていった。
「どれも大切です。しかし、今日はもう一つ考えてもらいたいことがあります。それは、誰が何を確認できるのかという点です」
アリシアは帳面へ視線を落とした。
昨日までの授業でも、似た話を聞いている。
けれど、今日は役割分担そのものに焦点が当てられているようだった。
教師は図の中央に一つの円を描き、その周囲へ五つの小さな円を並べた。
「例えば、中央の魔導具を一人が管理し、周囲の四人が別々の位置から状態を確認するとします。この時、全員が同じものを見ているとは限りません」
エドガーが静かに頷いた。
以前の実技で、中央の状態と左右の変化を別々に確認した経験がある。
その時も、誰か一人の感覚だけでは全体を判断できなかった。
教師は説明を続けた。
「一人が変化を確認できなかったとしても、ほかの位置で変化が起きていなかったとは限りません。また、全員が同じ変化を報告した場合でも、その原因が同じであると断定するには別の確認が必要です」
アリシアは筆を動かしながら、昨日サラから聞いた説明を思い出した。
東側と西側の判定。
確認条件を満たしたことと、原因が分かったことは別だという話。
学院の授業と研究の記録は、同じものではない。
それでも、観察した事実と、その意味を分けて考える姿勢には共通する部分があった。
(……一つの結果だけで、全部を決めない)
アリシアはそう考え、教師の説明を最後まで聞いた。
授業の終わりには、学生たちが小さな班に分かれ、架空の運用記録を確認した。
アリシアたち五人も机を寄せ、資料を読み始める。
「ここ、担当者が交代した時刻は書いてあるけど、その前後で何を確認したかが曖昧だな」
エドガーが指摘すると、テオも頷いた。
「それに、中央の状態を確認した人と、右側を見ていた人の報告が一緒にまとめられてる。これだと、誰が何を見たのか分からない」
メリルは資料を覗き込み、少し眉を寄せた。
「こういう記録って、書いた人は分かってるつもりでも、あとから読むと困るんだね」
フィオナは帳面を開き、四人の意見を整理し始めた。
「じゃあ、私たちの班では、確認した人と場所を分けて書くように直してみようか」
アリシアは少し考え、資料の最後を指さした。
「……ここも、少し気になる。『全体に異常なし』って書いてあるけど、全体を確認した人が誰なのか、分からないから」
エドガーは資料を見直し、静かに頷いた。
「確かにそうだな。各担当者の報告をまとめた結果なのか、一人が全体を確認したのかで意味が変わる」
五人はそれぞれの意見を出し合いながら、記録の修正案をまとめていった。
アリシアはその時間を、以前よりも落ち着いて過ごせていることに気づいた。
自分の意見が正しいかどうか不安になることは、今でもある。
けれど、間違っていたら話し合えばいい。
分からないことがあれば、誰かに聞いてもいい。
その安心感が、彼女の言葉を少しずつ増やしていた。
◇
昼休みになると、五人は食堂の窓際にある席へ集まった。
外では雲の切れ間から日差しが差し込み、雨上がりの庭が明るく輝いている。食堂には温かな料理の香りが広がり、学生たちの話し声が穏やかに響いていた。
メリルは席へ腰を下ろすなり、嬉しそうに口を開いた。
「今日の放課後、いよいよ展示だね!」
テオは笑いながら頷いた。
「昨日からずっと楽しみにしてたもんな」
「だって、古い資料って普段はあまり見る機会がないでしょう? それに、アリシアが出した質問の答えも聞けるかもしれないし」
アリシアは少し頬を赤くした。
「……ちゃんと答えてもらえるかは、まだ分からないよ」
フィオナは穏やかに微笑んだ。
「でも、質問を出したこと自体が大切だと思う。答えがすぐに出なくても、どう考えればいいか分かるかもしれないから」
エドガーも頷いた。
「それに、今回の展示は古い資料の読み方が中心なんだろう。六人目について直接何か分かるとは限らないが、調べる方法を知るにはいい機会だ」
アリシアは静かに頷いた。
昨日、自分でも同じことを考えていた。
けれど、仲間たちの口から聞くと、改めて落ち着いて向き合える気がした。
「……うん。今日は、まず学ぶことを大切にしたいな」
メリルは笑顔で頷いた。
「じゃあ、午後の授業が終わったら中央棟の入口で待ち合わせね!」
五人は予定を確認し、食事を始めた。
アリシアは窓の外を眺めながら、少しだけ胸を弾ませていた。
◇
午後の授業を終えたあと、五人は中央棟の資料室へ向かった。
廊下には、展示を見に来た学生たちが数人集まっていた。入口の前には小さな案内板が置かれ、古い文字を模した装飾とともに、展示の内容が簡潔に紹介されている。
資料室へ入ると、紙と木の棚の匂いが漂ってきた。
室内には幾つかの長机が並び、その上に古い文書の複製や説明札が置かれている。壁際には、文字の形が時代によってどのように変化したかを示す図が掲げられていた。
学生たちは思い思いの場所で資料を眺め、展示担当の上級生から説明を受けている。
アリシアは入口で少し足を止めた。
普段の授業とは違う、静かな緊張があった。
古い記録が並ぶ部屋。
そこには、今の自分が知らない時代の人々が残した言葉がある。
そのことを考えると、少し不思議な気持ちになった。
「アリシア、大丈夫?」
フィオナが隣から声をかけた。
アリシアは頷いた。
「……うん。ちょっと緊張してるだけ」
「じゃあ、ゆっくり見て回ろう」
五人は入口に近い展示から順番に見始めた。
最初の机には、古い文字の変遷を示す資料が並んでいた。
同じ意味を持つ言葉でも、時代によって形が変わっている。似た文字が別の意味を持つ場合もあり、学生たちは説明札を読みながら、時折驚いた声を上げていた。
「これ、今の文字と全然違うね」
メリルが目を丸くすると、エドガーは少し笑った。
「形だけで判断すると、読み間違えるだろうな」
テオは隣の資料を指さした。
「こっちは、同じ文字でも地域によって書き方が違ったみたいだ」
アリシアは一枚ずつ丁寧に眺めた。
文字が変わる。
意味が変わる。
書かれた場所や時代によって、同じ言葉でも受け取り方が違う。
そのことを知るだけでも、古い記録を読む難しさが少し分かる気がした。
次の展示には、破損した文書の複製が置かれていた。
紙の端が欠け、幾つかの文字が読み取れなくなっている。
説明札には、判読できる部分と、推測によって補われた部分が区別して示されていた。
アリシアはその前で足を止めた。
「……ここ、昨日聞いたことと同じだね」
フィオナが頷いた。
「うん。分からないところを、分からないまま示すっていう話ね」
展示担当の上級生が近づいてきた。
「その資料、気になりますか?」
アリシアは少し緊張しながら頷いた。
「……はい。昨日、古い記録の欠けた部分について質問した者です」
上級生はすぐに思い出したようだった。
「ああ、昨日の質問を出してくれた人ですね。ちょうど、その内容について先生と確認したところなんです」
アリシアは顔を上げた。
「……本当ですか?」
「はい。少し長くなるかもしれませんが、説明しても大丈夫ですか?」
アリシアは仲間たちの顔を見た。
メリルは笑顔で頷き、フィオナも穏やかに微笑んでいる。
エドガーとテオも、興味深そうに資料へ視線を向けていた。
「……はい。お願いします」
上級生は頷き、展示台の横へ立った。
◇
「古い記録に名前や項目が残っていない場合、まず考えるのは、その空白がどのような状態なのかということです」
上級生は説明用の図を取り出した。
そこには、三種類の空白が描かれている。
一つ目は、紙が破れて文字そのものが失われている状態。
二つ目は、紙は残っているものの、最初から何も書かれていない状態。
三つ目は、文字らしい痕跡があるものの、現在の技術では読み取れない状態だった。
「見た目にはどれも空白に近いですが、意味は違います。破損によって失われたのか、最初から記載されなかったのか、判読できないだけなのか。それによって、調べ方も変わってきます」
アリシアは真剣に頷いた。
昨日の授業で聞いたことが、具体的な形になって目の前に示されている。
上級生は続けた。
「それから、古い記録には写本が残っている場合があります。原本が失われていても、別の時代に作られた写しが残っていれば、内容を比較できることがあります」
エドガーが少し身を乗り出した。
「写本同士で内容が違う場合は、どうするんですか?」
「その場合は、どの写本がいつ作られたのか、どの資料を元にしているのかを調べます。ただし、古い写本だから必ず正しいとは限りません。写し間違いや、後から加えられた説明が含まれている場合もありますから」
テオは静かに頷いた。
「一つの資料だけで決めつけない方がいいんですね」
「そうですね。複数の資料を比較して、どこまで確かめられるかを考えることが大切です」
アリシアはその説明を聞きながら、胸の奥に小さな期待が生まれるのを感じた。
失われた六人目についても、もしかしたら、別の形で残された記録があるのかもしれない。
けれど、それはまだ可能性にすぎない。
今は、そういう調べ方があると知っただけだ。
「……あの、名前が書かれていない場合でも、ほかの記録から、その人がいたことを確かめられることはあるんですか?」
アリシアが尋ねると、上級生は少し考えてから頷いた。
「あります。例えば、ある人物の名前が直接残っていなくても、その人が関わった仕事や、別の人物が書いた記録から、存在が推測される場合があります。ただし、その推測がどの程度確かなのかは、資料ごとに慎重に判断しなければいけません」
アリシアは静かに頷いた。
「……ありがとうございます」
上級生は微笑んだ。
「質問してくれて、こちらも勉強になりました。実は、今回の展示にも、少し似た例があるんです」
そう言って、上級生は奥の展示台を指さした。
「よかったら、あちらも見てみてください」
アリシアたちは礼を言い、示された場所へ向かった。
◇
奥の展示台には、古い目録の複製が置かれていた。
紙は黄ばんだ色をしており、文字の一部は薄くなっている。複製であるため実際に触れることはできないが、原本の傷み具合が分かるように、欠けた部分や染みもそのまま再現されていた。
説明札には、古い時代に作成された物品管理の目録であると書かれている。
アリシアは最初、何気なくその文字を眺めていた。
けれど、項目の並びを見た瞬間、思わず足を止めた。
目録には、六つの項目が並んでいた。
最初の五つには、それぞれ異なる記号と短い説明が残されている。
しかし、六番目の項目だけは、名称にあたる部分が空白になっていた。
アリシアは息を呑んだ。
「……六番目……」
小さな声に、ノアが顔を上げた。
「どうした?」
アリシアはすぐには答えられなかった。
六つ目の神器。
失われた六人目。
その言葉が、目の前の目録と重なってしまった。
けれど、次の瞬間、彼女は自分の考えを落ち着かせようとした。
(……まだ、関係があるって決まったわけじゃない)
目録に六つの項目があるからといって、六つ目の神器に関係するとは限らない。
古い物品管理の記録なら、六つ並んだ項目など珍しくないかもしれない。
アリシアは一度ゆっくり息を整え、説明札を読み直した。
そこには、六番目の名称が空白になっている理由について、次のように書かれていた。
『原本の該当箇所は損傷しておらず、記載の痕跡も確認されていない。現時点では、意図的な未記入か、記載前の状態かを判断できない。』
アリシアはその文章を、もう一度読んだ。
紙が破れているわけではない。
文字が消えた痕跡もない。
ただ、六番目の名称が書かれていない。
それでも、意図的に空けられたとは断定できない。
その説明が、今のアリシアには大切に思えた。
「アリシア?」
フィオナが隣から声をかけた。
アリシアは顔を上げ、少し困ったように微笑んだ。
「……ごめん。六番目って書いてあったから、ちょっと気になっちゃって」
フィオナは目録へ視線を向け、すぐに理解したようだった。
「六つ目の神器のことを思い出したんだね」
「……うん。でも、関係があるかどうかは分からないよ」
エドガーも説明札を読み、静かに頷いた。
「そうだな。これは物品管理の目録で、神器についての資料だとは書かれていない。数字が同じというだけで結びつけるのは危険だ」
アリシアはその言葉に頷いた。
けれど、目録の六番目の空白から、なかなか目を離せなかった。
それは、何か特別な力を感じたからではない。
ただ、名前が書かれていない場所を、どう扱えばいいのか考えたかった。
その時、展示担当の上級生が再び近づいてきた。
「その目録、気になりますか?」
アリシアは少し緊張しながら頷いた。
「……はい。六番目の名前が空白になっているのが、気になって」
上級生は説明札を見て、穏やかに微笑んだ。
「これは、今回の展示で紹介している『未記入の理由が分からない例』なんです。原本には六つの項目が用意されていますが、最後の名称欄だけが空白になっています」
アリシアは頷いた。
「……どうして空白なのかは、まだ分からないんですよね?」
「そうです。記載する前に作業が終わったのかもしれませんし、何らかの理由で名称を書かなかったのかもしれません。ただし、現時点ではどちらとも判断できません」
エドガーが尋ねた。
「この目録が、何を管理していたものなのかは分かっているんですか?」
上級生は説明札の下にある小さな注記を指さした。
「分類上は、古い施設で使われていた備品の管理記録とされています。ただし、具体的な施設名や用途については、確定していません」
アリシアは少し驚いた。
「……施設名も、分からないんですか?」
「はい。目録そのものには場所を示す文字が残っていますが、現在の地名や施設名と一致するかどうかは確認されていません。だから、展示では特定の施設の記録だとは説明していないんです」
アリシアは目録へ視線を戻した。
六つの項目。
最後の名称欄の空白。
施設名が確定していない古い管理記録。
それらが何かを意味しているのか、今は分からない。
けれど、昨日までの自分なら、六番目という数字だけで、何か特別な関係があるのではないかと考えていたかもしれない。
今は、少し違う。
「……この目録について、ほかの資料と比べることはできるんですか?」
アリシアが尋ねると、上級生は少し考えた。
「公開されている範囲では、同じ形式の目録が幾つか残っています。ただし、この目録と直接つながるものかどうかは分かっていません。比較する場合も、年代や記載方法の違いを確認する必要があります」
アリシアは頷いた。
「……ありがとうございます」
上級生は穏やかに微笑んだ。
「もし興味があるなら、資料室の公開目録を調べる方法も案内できますよ。ただし、原本の閲覧や研究用の資料については、別の手続きが必要になる場合があります」
アリシアは少し考えた。
すぐに調べたい気持ちはあった。
けれど、今日は展示を見に来ただけだ。
新しい資料へ進む前に、まず自分が何を知りたいのか整理した方がいいかもしれない。
「……今日は、ここまでにします。でも、また相談してもいいですか?」
「もちろんです。公開資料の範囲なら、案内できることもあると思います」
アリシアは丁寧に頭を下げた。
「……ありがとうございます」
◇
展示室を出たあと、五人は中央棟の廊下にある休憩用の椅子へ腰を下ろした。
窓の外では、午後の日差しが濡れた庭を照らしている。
学生たちが行き交う廊下には穏やかな話し声が響き、遠くからは授業を終えた者たちの笑い声が聞こえてきた。
メリルは少し興奮した様子で口を開いた。
「面白かったね! 古い記録って、ただ読めばいいわけじゃないんだって、よく分かったよ」
テオも頷いた。
「特に、写本の違いを比べる話が興味深かったな。昔の人が書いたものでも、写し方によって内容が変わることがあるんだね」
フィオナはアリシアへ視線を向けた。
「アリシアは、最後の目録が気になってる?」
アリシアは少し迷ったあと、頷いた。
「……うん。でも、六つ目の神器と関係があるって思ってるわけじゃないの。ただ、六番目の名前が空白になっている理由を、どうやって調べるのかが気になって」
エドガーは静かに頷いた。
「それなら、まず目録そのものの出所や年代を確かめる必要があるだろうな。何のために作られたものか分からなければ、六番目の空白だけを取り出して考えても意味がない」
アリシアは頷いた。
「……うん。私も、そう思う」
メリルは少し考え込んだ。
「でもさ、名前が書かれてないところがあるって、なんだか不思議だよね。書く予定だったのかもしれないし、最初から書かないつもりだったのかもしれないし」
フィオナは柔らかく微笑んだ。
「だからこそ、決めつけないことが大切なんだと思う。今日の展示も、そこを伝えたかったんじゃないかな」
アリシアは四人の言葉を聞きながら、少しずつ考えを整理していった。
六番目の空白。
それは、今のところ、ただの古い目録に残された未記入の欄だ。
六つ目の神器や失われた六人目と関係があるという証拠はない。
けれど、空白をどう調べるかを学ぶには、よい例だった。
アリシアはそのことを、大切にしたいと思った。
「……今日は、みんなと一緒に来られてよかった」
小さな声でそう言うと、メリルが嬉しそうに笑った。
「私も! また面白そうな展示があったら、一緒に行こうね」
テオとフィオナも頷き、エドガーは少し照れくさそうに笑った。
五人はしばらく今日の展示について話したあと、それぞれの帰り道へ向かった。
◇
生活観測区画へ戻ると、談話室では子供が昨日の絵を広げていた。
家の周りには、昨日描いた花や道が残されている。
右側の余白には、まだ何も描かれていなかった。
アリシアが近づくと、子供は嬉しそうに顔を上げた。
「アリシア、おかえり!」
「……ただいま。今日は、絵の続きを描いてるの?」
子供は首を横に振った。
「ううん。今日はね、まだ考えてるだけ」
アリシアは微笑んだ。
「……そっか」
子供は紙の余白を指さした。
「ここ、森にしようかなって思ったんだけど、川もいいなって思って。まだ決められないの」
アリシアは椅子へ腰を下ろし、紙を眺めた。
「……どっちも素敵だと思うよ」
「でも、両方描いたら、狭くなっちゃうかもしれない」
子供は少し困ったように笑った。
アリシアはしばらく考えたあと、穏やかに答えた。
「……じゃあ、今日は決めなくてもいいんじゃないかな。別の紙に試しに描いてみてもいいと思うし」
子供は目を輝かせた。
「別の紙!」
「……うん。今の絵を変えなくても、ほかの紙で考えられるから」
子供は嬉しそうに頷いた。
「じゃあ、そうする!」
職員へ相談すると、試し描き用の紙を用意してもらえることになった。
子供は新しい紙へ森と川を描き始め、どちらが家の近くにあると楽しいか考えていた。
アリシアはその姿を見守りながら、今日の展示を思い出した。
古い目録の空白と、子供の絵の余白は違う。
けれど、どちらも、勝手に意味を決めつけてはいけないという点では似ているのかもしれない。
子供の絵は、子供自身がこれから何を描くか選べる場所だ。
古い目録は、過去に何があったのかを確かめるための資料だ。
その違いを忘れずに考えることが大切なのだろう。
窓際では、顔のない存在が穏やかに過ごしていた。
胸元の十一の光は安定した明滅を続け、覆われた木箱にも変化は見られなかった。
アリシアはその姿へ一度だけ視線を向けたが、何か特別な意味を探そうとはしなかった。
今は、子供が自分で絵を描く時間だった。
◇
夜、自室へ戻ったアリシアは、机の上に今日の帳面を広げた。
古い文字の変遷。
破損した文書の扱い。
写本の比較。
そして、六番目の名称欄が空白になっていた古い目録。
アリシアは一つずつ思い返しながら、日記帳へ書き始めた。
『今日は学院の資料室で、古い記録の読み方を学んだ。名前が残っていない場合でも、理由はいろいろ考えられる。破損したのか、最初から書かれなかったのか、読めなくなったのかを、まず確かめることが大切だと知った。』
『展示には、六つの項目がある古い目録があった。六番目の名称欄だけが空白になっていたけれど、六つ目の神器と関係があるという証拠はない。数字が同じだからといって、勝手に結びつけないようにしたい。』
『それでも、古い記録を調べる方法を知ることができたのは嬉しかった。いつか、失われた六人目についても、残された記録から少しずつ確かめられたらいいなと思う。』
アリシアは筆を止め、窓の外へ目を向けた。
夜の庭には、雨上がりの澄んだ空気が残っている。
雲の切れ間から月明かりが差し込み、石畳の上へ淡い光を落としていた。
ノアは寝台の上で丸くなりながら、アリシアへ声をかけた。
「今日の展示、どうだった?」
アリシアは微笑んだ。
「……面白かったよ。すぐに答えが見つかったわけじゃないけど、どうやって調べるのか、少し分かった気がする」
「そりゃよかった。で、六番目の空白が気になったんだって?」
アリシアは少し驚いた。
「……ノア、聞いてたの?」
「当たり前だ。お前の足元にいたんだからな」
アリシアは小さく笑った。
「……うん。でも、関係があるって決めつけないようにしてる」
「それでいい。六つ並んでるものなんざ、世の中にいくらでもある。数字だけで神器と結びつけてたら、食堂の六人掛けの机まで怪しく見えてくるぞ」
アリシアは思わず笑ってしまった。
「……それは、さすがに思わないよ」
「どうだかな。お前は真面目だから、一度気になったら何でも考え込むだろ」
ノアはそう言って、尻尾をゆっくり揺らした。
アリシアは笑いながら頷いた。
「……でも、今日はちゃんと分けて考えられたと思う」
「なら上出来だ。明日も同じようにできるとは限らねえが、少なくとも今日はな」
少し意地悪な言い方だったが、その声には温かさがあった。
アリシアは日記帳を閉じ、机の引き出しへしまった。
今日見た古い目録。
六番目の名称欄に残された空白。
それが何を意味するのかは、まだ分からない。
六つ目の神器や失われた六人目と関係があるという証拠もない。
けれど、古い記録を調べる方法を学んだことで、アリシアは新しい一歩を踏み出せた気がした。
分からないことを、分からないままにしておく。
そのうえで、確かめられることを少しずつ増やしていく。
それは、研究の記録でも、歴史の資料でも、同じように大切なことなのだろう。
アリシアは灯りを落とし、寝台へ入った。
ノアが隣で丸くなり、静かな寝息を立て始める。
窓の外では、雨上がりの夜風が木々の葉を揺らしていた。
六つ目の神器の謎は、まだ解けていない。
失われた六人目の名前も、まだ分からない。
けれど、アリシアは今日、古い記録に残された空白を見つめながら、一つのことを学んだ。
名前が書かれていない場所には、必ずしも隠された答えがあるわけではない。
それでも、そこに何が残され、何が失われたのかを丁寧に確かめることはできる。
その積み重ねが、いつか過去へ続く道になるのかもしれなかった。
アリシアは静かに目を閉じた。
明日もまた、知らないことがあるだろう。
けれど、それを怖がるだけではなく、知りたいと思える自分でいたかった。
そんな小さな願いを胸に、彼女は穏やかな眠りへ落ちていった。




