第293話 消された名前ではなく、残された空白を探して
その日の朝、アリシアが目を覚ました時、窓の外では細かな雨が降っていた。
昨夜のうちに降り始めたらしく、庭の石畳は濃い灰色に濡れ、木々の枝先からは雫が絶え間なく落ちている。雨脚は強くなかったが、空一面を覆う雲のために部屋の中はいつもより薄暗く、窓辺の小机に置いた帳面も、まだ夜の続きのような色をしていた。
寝台の足元では、ノアが前足を伸ばして大きな欠伸をしている。
「……おはよう、ノア」
「おう。今日はずいぶん静かな朝だな。雨のおかげで、廊下を走り回る連中も少しは大人しくなるかもしれねえ」
アリシアは寝台から起き上がり、窓の向こうへ目を向けた。
「……雨、嫌いじゃないよ。音を聞いてると、少し落ち着くから」
「お前らしい感想だな。俺としては、毛が濡れるから歓迎できねえが」
「……ノアは、外に出なくてもいいでしょう?」
「それとこれとは別だ。雨が降ってるだけで、窓の外を見回る楽しみが減るんだよ」
少し不満そうに尻尾を振る黒猫を見て、アリシアは小さく笑った。
昨日、サラから受け取った説明用の紙は、机の引き出しにしまってある。研究の記録について聞きたいことを聞き、東側と西側の判定が何を意味するのか、以前よりも整理できた一日だった。
けれど、すべてが分かったわけではない。
六つ目の神器の働きも、失われた六人目の歴史も、まだ多くの部分が明らかになっていなかった。
(……でも、昨日はちゃんと聞けた)
そのことを思い返すと、胸の奥に小さな安心が生まれた。
以前のアリシアなら、分からないことを残したまま説明を終えるのが怖かったかもしれない。自分が理解できなかったせいで、何か大切なことを見落とすのではないかと考え、必要以上に思い詰めていたこともあった。
今は、分からないことがあると認めても、誰かに責められるわけではないと知っている。
そして、すぐに答えを出さなくても、自分の日常が失われるわけではない。
「……今日は、学院で何をするんだろう」
アリシアが呟くと、ノアは寝台から軽やかに飛び降りた。
「さあな。だが、昨日の話を聞いたからって、いきなり神器の謎を解く授業が始まるわけじゃねえだろ」
「……それは、分かってるよ」
「だったら、まず朝飯だ。考えるのは腹に何か入れてからにしろ」
アリシアは頷き、身支度を始めた。
胸の痛みも息苦しさもなく、冷感も感じられない。昨日の面談で少し疲れたものの、十分に休んだおかげか、身体の重さも残っていなかった。
雨音に包まれた静かな朝は、いつもと少し違って見えた。
けれど、いつもと違うからといって、何か悪いことが起きるとは限らない。
アリシアはそう思いながら、ノアと一緒に部屋を出た。
◇
学院へ向かう途中、渡り廊下には雨を避けて歩く学生たちが集まっていた。
濡れた外套を払う者、靴についた泥を気にする者、教室まで走ろうとして友人に袖を引かれる者。普段なら広々としている通路も、今朝は人の声と足音で賑わっていた。
アリシアは人の流れを避け、廊下の端をゆっくり歩いた。
ノアは濡れていない場所を選びながら、彼女の隣を進んでいる。
「アリシア!」
聞き慣れた声に顔を上げると、少し先でメリルが手を振っていた。
隣にはフィオナもいて、二人とも外套の肩を少し濡らしている。
「おはよう。今日は雨がすごいね。朝はまだ小降りだったのに、学院へ来る途中で急に強くなっちゃって」
「……おはよう、メリル、フィオナ。二人とも大丈夫?」
アリシアが尋ねると、フィオナは濡れた袖を軽く持ち上げて笑った。
「大丈夫よ。着替えるほどじゃないし、教室に入る前に少し乾かせば平気。アリシアはあまり濡れなかった?」
「……うん。屋根のある道を通ってきたから」
「正解だな」
ノアが口を挟むと、メリルは少し悔しそうな顔をした。
「私もそっちを通ればよかったなあ。近道しようと思ったのが失敗だったよ」
「近道がいつも早いとは限らねえってことだ」
「ノア、朝から厳しい!」
メリルの抗議に、三人は思わず笑った。
その時、廊下の向こうから数人の学生が急ぎ足で近づいてきた。先頭の学生が濡れた床で足を滑らせかけ、抱えていた資料を落としてしまう。
紙が石床へ散らばり、周囲から小さな驚きの声が上がった。
「あっ、まずい!」
学生が慌てて屈み込むと、近くにいた者たちが次々と手を貸した。
アリシアも少し迷ったあと、足元へ滑ってきた紙を拾い上げた。
「……これ、落としましたよ」
「あ、ありがとう! 助かったよ。雨で床が滑るって分かってたのに、急いじゃって」
学生は申し訳なさそうに笑い、紙を受け取った。
その中の一枚には、古い文字の写しのようなものが描かれていた。アリシアは何気なく目に留めたが、すぐに視線を外した。
人の資料を勝手に読むつもりはなかった。
学生は散らばった紙を揃えると、周囲の人たちにも礼を言い、今度は慎重な足取りで廊下を進んでいった。
メリルはその後ろ姿を見送りながら、少し首を傾げた。
「今の、史料研究の授業の資料かな。古い文字が見えた気がしたけど」
フィオナも頷いた。
「たぶんそうね。今週、上級生の歴史資料の展示があるって聞いたわ。古い文献の読み方を紹介する、小さな学内展示らしいけど」
アリシアは思わず顔を上げた。
「……古い文献?」
「うん。学院の資料室に残っている古い記録を、学生たちが調べて展示するんだって。難しい研究発表というより、どうやって読めるようにするかを見せるものらしいよ」
フィオナはそう説明してから、アリシアの表情に気づいた。
「気になる?」
アリシアは少し考え、頷いた。
「……うん。昔の記録って、どんなふうに残されているのかなって」
メリルは明るく笑った。
「じゃあ、授業が終わって時間があったら、案内を見に行ってみる? 展示そのものはまだ準備中かもしれないけど、掲示板に予定が出てると思う」
「……いいの?」
「もちろん。私も少し興味あるし」
フィオナも頷いた。
「私も一緒に行きたいな。昨日の授業で、記録の読み方って大切なんだなって思ったところだから」
アリシアは二人を見つめ、嬉しそうに微笑んだ。
「……ありがとう」
雨の降る廊下を、三人は並んで歩き始めた。
古い文字が書かれた紙を一枚見ただけで、何かが分かったわけではない。
けれど、アリシアの心には、小さな興味が生まれていた。
◇
午前の授業は、魔法史の基礎に関する講義だった。
教師は黒板へ幾つかの年代を書き込み、魔導具の発達と記録方法の変化について説明していた。
古い時代には、出来事を石碑や金属板へ刻むことが多かったという。後の時代になるにつれて紙の記録が増え、写本や整理された目録が作られるようになったが、それによってすべての情報が正確に伝わったわけではない。
「記録が増えれば、必ず歴史が明らかになるというものではありません」
教師は教室を見渡しながら言った。
「書かれた内容が正しいかどうかだけでなく、誰が、何のために、どのような状況で書いたのかを考える必要があります。また、現存している記録が、当時存在した記録のすべてとは限りません」
アリシアは静かに筆を動かした。
昨日、サラから聞いた説明と、少し似ている気がした。
研究の記録も、歴史の記録も、書かれていることだけで判断してはいけない。
何が確認され、何が残されていないのか。
その違いを理解することが大切なのだろう。
教師は黒板の端へ、古い目録を模した図を書いた。
縦に並んだ項目のうち、一つだけが空白になっている。
「では、この目録を見てください。五つの項目には名称が残っていますが、中央の一項目には名称がありません。この場合、どのような可能性が考えられるでしょうか」
教室のあちこちで手が上がった。
最初に指名された学生は、記録が破損した可能性を挙げた。
別の学生は、写しを作る時に書き忘れたのではないかと答えた。
さらに別の学生が、何らかの理由で意図的に記載しなかった可能性を口にすると、教室には小さなざわめきが広がった。
教師はどの答えも否定せず、黒板へ並べて書いた。
「いずれも可能性としては考えられます。しかし、この図だけで、どれが正しいか判断できますか?」
学生たちは互いの顔を見合わせた。
やがて、後方の席から「できません」という声が上がる。
「そのとおりです。空白があることと、誰かが名前を消したことは同じではありません。意図的に消されたと考えるなら、その判断を支える別の証拠が必要になります」
アリシアは筆を止めた。
胸の奥で、何かが静かに引っかかった。
(……空白があることと、消されたことは、同じじゃない)
失われた六人目。
その言葉を、アリシアはこれまで何度も耳にしてきた。
六つ目の神器の歴史を調べる中で、六人目に関する情報が十分に残されていないことも知っている。
けれど、自分はいつの間にか、六人目の名前が誰かによって消されたのではないかと、どこかで考えていなかっただろうか。
記録が残っていないことには、幾つもの理由が考えられる。
書かれなかったのかもしれない。
書かれたものが失われたのかもしれない。
別の名前や役割で記されているのかもしれない。
そして、意図的に隠された可能性も、証拠がないうちは可能性の一つにすぎない。
アリシアは帳面へ、教師の言葉を書き留めた。
その時、隣の席から小さな声が聞こえた。
「……アリシア、何か気になった?」
フィオナだった。
アリシアは少し迷ったあと、頷いた。
「……うん。でも、あとで話すね」
フィオナは柔らかく微笑んだ。
「分かった。授業が終わってから聞くね」
アリシアは再び黒板へ目を向けた。
今は授業の途中だ。
気になったことがあっても、すぐに答えを探し始める必要はない。
そう思えたおかげで、残りの説明も落ち着いて聞くことができた。
◇
授業が終わると、教室には椅子を引く音と学生たちの話し声が広がった。
窓の外では雨が少し弱まり、曇った空の下に学院の中庭がぼんやりと見えている。
アリシアが帳面を閉じようとしていると、フィオナが隣へ椅子を寄せた。
「さっきの話、聞いてもいい?」
「……うん」
アリシアは少し緊張しながら、授業中に考えたことを伝えた。
失われた六人目について、自分は記録が消された可能性を強く考えすぎていたのかもしれないこと。
けれど、そもそも記録がどのように残され、何が欠けているのかを十分に知らないこと。
そして、古い記録の読み方を学べば、何か新しい視点を持てるのではないかと思ったこと。
フィオナは途中で口を挟まず、最後まで聞いていた。
「なるほど……。六人目について何か分かったわけじゃなくて、どうやって調べるかを考えたんだね」
「……うん。私が勝手に調べていいことなのかも、まだ分からないけど」
「だったら、まず公開されている資料がどこまであるのか、先生に聞いてみるのはどうかな」
フィオナの提案に、アリシアは顔を上げた。
「……先生に?」
「うん。研究区画の記録と、学院で一般に学べる歴史資料は別でしょう? 私たちが見てもいい資料なのか、どんなことが書かれているのかを確認するだけなら、授業の延長として相談できると思う」
アリシアは少し考えた。
昨日、サラから説明された研究記録には、取り扱いの境界がある。
開封していない探索的指標も、勝手に確認してはいけない。
けれど、学院の授業で扱われる一般の歴史資料なら、別の手続きで閲覧できるものもあるはずだった。
それらを混同しないことが大切なのだろう。
「……そうだね。まず、聞いてみたい」
その時、後ろからエドガーが近づいてきた。
「何の話だ?」
フィオナが簡単に説明すると、エドガーは興味深そうに眉を上げた。
「古い史料の読み方か。確かに、六人目について調べるなら、何が残っていないかだけでなく、現存する記録の成り立ちを知る必要があるな」
アリシアは少し驚いた。
「……エドガーも、そう思う?」
「ああ。ただし、歴史の記録と神器の研究記録は別物だ。そこを混ぜて結論を出すのは危険だと思う」
エドガーはそう言ってから、少し声を和らげた。
「でも、古い資料の調べ方を学ぶこと自体は、悪いことじゃない。むしろ、今までとは違う方法で考えられるかもしれないな」
その言葉に、アリシアは小さく頷いた。
やがてメリルとテオも合流し、五人は昼食へ向かうことになった。
廊下へ出ると、雨に濡れた窓の向こうで、庭師が水の溜まった通路を確認していた。通りかかった学生が滑らないよう、職員が注意を呼びかけている。
アリシアはその光景を眺めながら、今朝の出来事を思い出した。
急いで歩けば、見落とすものがある。
それは、古い記録を読む時にも同じなのかもしれなかった。
◇
昼食の席では、午前の魔法史の授業が話題になった。
メリルは焼き野菜を皿へ取り分けながら、少し困った顔をしている。
「私、昔の文字って苦手なんだよね。形が似てるものが多いし、今と意味が違う言葉もあるでしょう?」
テオは笑いながら頷いた。
「分かる。前に古い地図を見た時、道の名前だと思ったものが、実は土地の使い方を表す言葉だったことがある」
「それは間違えるよね!」
メリルが声を上げると、エドガーは少し考えてから口を開いた。
「だからこそ、専門の知識が必要なんだろうな。文字が読めることと、内容を正しく理解できることは別だ」
アリシアはその言葉を聞き、頷いた。
「……今日の先生も、似たことを言ってたね」
フィオナは杯を置き、アリシアへ穏やかな視線を向けた。
「アリシア、午後の授業が終わったら、展示の案内を見に行く?」
「……うん。もし、みんなの時間が大丈夫なら」
メリルはすぐに頷いた。
「私は大丈夫!」
「俺も、急ぎの用事はないよ」
テオが答えると、エドガーも少し笑った。
「せっかくだから一緒に行こう。展示の内容によっては、授業の復習にもなるだろうしな」
アリシアは四人の顔を見つめた。
自分が興味を持ったことに、仲間たちが一緒に関わろうとしてくれる。
以前なら、そのことを申し訳なく思っていたかもしれない。
自分のために時間を使わせてしまうのではないかと考え、誘いを断っていた可能性もある。
けれど、今は少し違った。
「……ありがとう。みんなと一緒なら、心強いな」
メリルは嬉しそうに笑った。
「じゃあ決まり! でも、展示を見に行く前に、午後の授業をちゃんと終わらせないとね」
「それを忘れるのは、お前くらいじゃないか?」
エドガーが冗談めかして言うと、メリルは頬を膨らませた。
「忘れないよ! ちょっと楽しみになっただけ!」
テオが笑い、フィオナも口元を緩めた。
アリシアはそのやり取りを見ながら、静かに微笑んだ。
失われた六人目について、まだ何も新しいことは分かっていない。
それでも、誰かと一緒に考えられることが嬉しかった。
◇
午後の授業を終えた五人は、学院の中央棟へ向かった。
雨はほとんど止んでいたが、廊下の窓にはまだ細かな雫が残っている。中央棟の入口付近には、授業を終えた学生たちが集まり、掲示板の前では数人が何かを読んでいた。
メリルが先に案内を見つけた。
「あった! これだね」
掲示板には、古い文献の読み方を紹介する学内展示の案内が貼られていた。
展示は翌日から数日間の予定で、学院の資料室が保管する公開可能な史料の複製や、古い文字の変遷を示す資料が紹介されるという。
学生による解説も行われるが、研究上の制限がある原本は展示されず、閲覧できる範囲もあらかじめ定められているらしい。
アリシアは案内をゆっくり読んだ。
「……明日からなんだね」
「そうみたい。今日は準備中だから、まだ入れないんだ」
メリルが答えると、テオは掲示板の下にある小さな説明を指さした。
「でも、事前に質問を受け付けてるみたいだよ。歴史資料の読み方について、聞きたいことがあれば書いておけるって」
そこには、展示担当者へ渡す質問用紙が用意されていた。
アリシアは紙を見つめた。
聞きたいことはある。
けれど、それをどう書けばいいのか、少し迷った。
失われた六人目のことを直接書くべきだろうか。
それとも、もっと一般的な質問にした方がいいのだろうか。
考え込んでいると、ノアが足元から声を上げた。
「おい。質問用紙を前にして固まるな。今朝から考えてたことを、まず整理してみろ」
アリシアは小さく頷いた。
「……うん」
フィオナは隣で、急かさずに待っていた。
エドガーも掲示板の案内を読み直し、質問できる範囲を確かめている。
やがて、アリシアは用紙へゆっくりと文字を書き始めた。
『古い記録に名前や項目が残っていない場合、何が分かっていて、何が分からないのかを、どのように調べるのでしょうか。』
書き終えたあと、アリシアは少しだけ不安になった。
質問が漠然としすぎているかもしれない。
けれど、今の自分が本当に知りたいことは、そこにあった。
「……これで、いいかな」
フィオナは用紙を見て、穏やかに頷いた。
「いいと思う。特定の資料について勝手に判断してほしいわけじゃなくて、調べ方を聞いているんでしょう?」
「……うん」
エドガーも頷いた。
「質問の範囲がはっきりしている。答える側も、一般的な方法として説明しやすいと思う」
アリシアは少し安心し、用紙を指定された箱へ入れた。
その時、背後から声がした。
「質問、出してくれたんですか?」
振り返ると、展示準備の腕章をつけた上級生が立っていた。
腕には幾つかの資料を抱えており、穏やかな表情で五人を見つめている。
「ありがとうございます。まだ準備中なので、今日は展示を見てもらえないんですけど、質問は担当の先生と確認しておきますね」
アリシアは少し緊張しながら頭を下げた。
「……よろしくお願いします」
上級生は笑顔で頷いた。
「こちらこそ。古い資料って、最初は何を見ればいいか分からないことも多いですから。難しい質問でも、分かる範囲で説明できればと思っています」
その言葉を聞き、アリシアは少しだけ勇気を出した。
「……あの、一つだけ聞いてもいいですか?」
「もちろん。今答えられることなら」
「……展示では、古い記録の原本じゃなくて、複製を使うんですよね?」
「そうです。原本は傷みやすいものもありますし、保存上の理由で一般公開できない資料もあります。だから、今回は公開が認められたものの複製を中心に使います」
アリシアは頷いた。
「……複製でも、元の記録と違うところがあるかもしれないんですか?」
上級生は少し感心したように目を見開いた。
「いい質問ですね。もちろん、できるだけ正確に写しますけど、古い文字が判読できない場所や、紙が欠けている部分もあります。そういう時は、分からないところを分からないまま示すことが大切なんです」
アリシアはその説明を聞き、静かに頷いた。
上級生は抱えていた資料の端を整えながら、さらに続けた。
「たとえば、文字が一つ欠けているからといって、前後の意味だけで勝手に埋めてしまうと、読む人が本当にそこに書かれていたと思ってしまうでしょう? 推測して補う場合でも、推測だと分かる形にしなければいけません」
アリシアは胸の奥に、小さな驚きを感じた。
研究の記録で、確認できたことと推測を分けるのと同じだ。
歴史の資料でも、その境界が大切にされている。
「……ありがとうございます。少し分かった気がします」
「よかった。明日からの展示でも、似たような例を紹介する予定です。よかったら見に来てくださいね」
アリシアは微笑んだ。
「……はい。楽しみにしています」
上級生は五人へ軽く頭を下げ、準備のために廊下の奥へ向かっていった。
その後ろ姿を見送りながら、メリルが小さく息を吐いた。
「なんだか、面白そうだね。古い文字って難しいだけだと思ってたけど、分からないところをどう扱うかにも、ちゃんと決まりがあるんだ」
テオも頷いた。
「それに、読めないところを無理に埋めないっていうのは、今日の授業ともつながってる気がする」
フィオナはアリシアへ顔を向けた。
「明日、時間が合えば一緒に見に来ようか」
アリシアは少し考え、頷いた。
「……うん。でも、みんなの予定が大丈夫だったらでいいよ」
メリルは明るく笑った。
「もちろん! 無理な時はそう言うから、心配しなくていいよ」
その言葉に、アリシアも笑った。
約束は、必ず守らなければならない重荷ではない。
お互いの都合や気持ちを確かめながら、決めていけるものなのだ。
◇
五人と別れたあと、アリシアはノアと一緒に生活観測区画へ戻った。
雨上がりの庭には湿った土の匂いが漂い、石畳の隙間には小さな水たまりが残っている。雲の切れ間から薄い光が差し込み、濡れた葉の上で細かな雫がきらめいていた。
談話室へ入ると、子供は机の前に座り、小さな家の周りに並べた道を眺めていた。
昨日、自分で作った家の周囲を回る道は、そのまま残されている。
ただし、今日は木の駒を動かして遊んでいる様子ではなかった。
子供は一枚の紙を前に置き、色鉛筆を手にしている。
「アリシア、おかえり!」
「……ただいま。今日は絵を描いてるの?」
子供は嬉しそうに頷いた。
「うん。おうちの絵!」
紙には、小さな屋根のある家と、その周りを回る道が描かれていた。
木の駒らしい小さな人影も描かれているが、実際の木片とは少し形が違う。家の窓は大きく、庭には黄色い花が幾つも咲いていた。
アリシアは椅子へ腰を下ろし、絵を眺めた。
「……きれいだね。お花も描いたんだ」
「うん。木のおうちにはお花がないから、絵には描いてみたの」
子供は少し得意そうに笑った。
それから、紙の端を指さした。
「ここ、まだ何も描いてないんだよ」
アリシアが目を向けると、家の右側には広い余白が残されていた。
昨日の木の道も、その先はまだ決められていない。
「……これから何か描くの?」
「まだ分からない。森にしようかなって思ったけど、川もいいなって思って。それから、ほかのおうちがあってもいいかもしれないし」
子供は色鉛筆を机へ置き、少し困ったように笑った。
「いろいろ考えたら、決められなくなっちゃった」
アリシアは紙の余白を見つめた。
何も描かれていない場所。
そこには、まだ何もない。
けれど、何もないからといって、何かが失われたとは限らない。
これから描くために残されている場所かもしれない。
アリシアは午前の授業を思い出し、少しだけ微笑んだ。
「……今は、決めなくてもいいんじゃないかな」
子供は顔を上げた。
「いいの?」
「……うん。何を描きたいか決まってから、描いてもいいと思う」
子供はしばらく紙を眺めていたが、やがて大きく頷いた。
「じゃあ、今日はここまでにする!」
アリシアは笑った。
「……うん。そうしよう」
子供は紙を大切そうに持ち上げ、乾かすために机の端へ置いた。
それから、ふと思い出したように尋ねた。
「アリシアは、今日何か見つけた?」
アリシアは少し考えた。
六つ目の神器について、新しい事実が分かったわけではない。
失われた六人目の名前を見つけたわけでもない。
けれど、古い記録の調べ方について、学べる機会があると知った。
「……うん。昔の記録を、どうやって読むのか教えてもらえる場所を見つけたよ」
子供は興味深そうに首を傾げた。
「昔の記録?」
「……うん。ずっと前に書かれたことを、今の人がどうやって確かめるのか、教えてもらえるんだって」
子供は少し考え、机の上の絵を見つめた。
「じゃあ、この絵も、ずっとあとになったら昔の絵になる?」
アリシアは思わず目を瞬かせた。
その発想は、考えたことがなかった。
「……そうだね。ずっと大切に残しておいたら、そうなるかもしれない」
子供は嬉しそうに笑った。
「じゃあ、残しておきたい!」
アリシアは頷いた。
「……うん。でも、どうやって残すかは、職員さんと相談しようね。紙が傷まないようにできるかもしれないから」
「分かった!」
子供は紙を見つめ、少し真剣な表情になった。
「でも、あとで見た人は、ここに何を描こうとしてたか分からないね」
子供が指さしたのは、右側の余白だった。
アリシアは静かに頷いた。
「……うん。描いていない理由は、絵だけじゃ分からないかもしれない」
「じゃあ、ここには『まだ決めてない』って書いておこうかな」
アリシアは思わず微笑んだ。
「……それ、いいと思う」
子供は嬉しそうに頷き、紙の端へ小さな文字を書き加えた。
まだ決めていない。
その言葉は、余白を埋めるための絵ではなかった。
けれど、なぜそこが空いているのかを、未来の誰かへ伝える言葉になった。
アリシアはその様子を見つめながら、胸の奥に静かな温かさが広がるのを感じた。
◇
談話室の窓際では、顔のない存在が穏やかに過ごしていた。
胸元の十一の光は、いつものように安定した明滅を続けている。近くに置かれた覆い付きの木箱にも変化はなく、誰かが開けたり、中のものへ触れたりした様子はなかった。
子供は絵を職員へ見せに行く前に、顔のない存在の方を向いた。
「この絵、見たい?」
顔のない存在は、すぐには動かなかった。
子供は返事を急がず、紙を胸の前で持ったまま待っている。
やがて、顔のない存在はゆっくりと身体の向きを変えた。
子供はその動きを見て、嬉しそうに笑った。
「じゃあ、ここに置くね」
紙は窓際の小机へ置かれた。
子供は絵の家や花について説明したが、相手がどこまで理解しているのかを勝手に決めつけることはなかった。
アリシアは少し離れた場所から、その様子を見守っていた。
以前なら、顔のない存在の小さな動きに何か特別な意味があるのではないかと考えていたかもしれない。
けれど、今は違う。
顔のない存在が絵の方を向いたことは分かる。
その理由や気持ちまでは、まだ分からない。
それでも、子供が自分の絵を見せたいと思い、その機会を持てたことは確かだった。
アリシアはその事実を大切にしたかった。
子供が説明を終えると、職員が近づいてきた。
「素敵な絵ですね。残しておきたいなら、保管する方法を一緒に考えましょうか」
子供は大きく頷いた。
「うん! でも、まだ描き終わってないの。だから、あとでまた描けるようにしたい」
「分かりました。では、すぐにしまい込まず、続きを描きたい時に取り出せるようにしましょう」
その返事を聞き、子供は安心したように笑った。
アリシアも小さく息を吐いた。
大切に残すことと、もう触れられなくすることは同じではない。
子供の絵は、まだ完成していない。
だからこそ、これから描き足す自由も残されている。
アリシアはそのことを、嬉しく思った。
◇
一方、学院の資料室では、翌日から始まる展示の準備が続いていた。
長机の上には複製した古い文書が並び、学生たちが説明札の位置を確かめている。窓際では、紙が湿気を含まないよう職員が室内の状態を確認していた。
午前に廊下で資料を落とした上級生も、その中にいた。
彼は資料を一枚ずつ揃えながら、隣の学生へ声をかけた。
「質問箱、もう見た?」
「まだ。何か来てた?」
「さっき一枚入ってた。古い記録に名前や項目が残っていない場合、どうやって調べるのかって」
隣の学生は少し考え込んだ。
「それ、結構難しい質問だね。欠けた部分をどう扱うかって話なら、展示でも説明できそうだけど」
「うん。だから、担当の先生にも相談してみようと思ってる」
二人は準備中の展示台へ目を向けた。
そこには、古い目録の複製が置かれている。
原本の一部が傷んでいるため、写しには判読できない箇所があり、その部分は空欄として示されていた。
隣の学生は説明札を読み直し、少し眉を寄せた。
「これ、今の書き方だと、最初から何も書かれてなかったみたいに見えない?」
上級生も札へ目を向けた。
確かに、そこには『名称不明』とだけ書かれている。
しかし、実際には名称が存在しなかったと分かっているわけではない。
原本の損傷によって、現在は読み取れないという状態だった。
「……そうだね。『原本の損傷により判読できない』って書いた方が正確だ」
「うん。その方が、見た人も勘違いしないと思う」
二人は説明札を書き直すことにした。
大きな発見ではない。
展示の内容が劇的に変わるわけでもない。
けれど、古い記録を扱う者として、曖昧な説明をそのままにしないことは大切だった。
上級生は質問箱から取り出した紙をもう一度見つめた。
そこに書かれた問いは、特定の名前を探しているようにも読めた。
しかし、質問者が何を調べようとしているのかは分からない。
だからこそ、勝手に事情を想像するのではなく、一般的な方法として答えるべきだろう。
「明日、先生に確認してから説明しよう」
上級生がそう言うと、隣の学生も頷いた。
資料室の外では、雨が再び静かに降り始めていた。
◇
夕食を終えたあと、アリシアは自室へ戻り、今日の授業で取った帳面を開いた。
ノアは窓際の椅子へ飛び乗り、外の雨を眺めている。
「今日は、ずいぶん考え事が増えたみたいだな」
アリシアは少し笑った。
「……うん。でも、昨日とは違うことを考えてるよ」
「ほう。何だ?」
「……失われた六人目のこと。今までは、どうして名前が残ってないんだろうって考えてたけど……そもそも、どんな記録に、何が残っているのかを、私はちゃんと知らないんだなって思ったの」
ノアは窓の外から視線を戻した。
「なるほどな。名前が消されたのか、最初から書かれなかったのか、途中で記録が失われたのか。それすら分からねえってことか」
「……うん。だから、すぐに答えを探す前に、古い記録の読み方を知りたいなって」
ノアは少し考えたあと、鼻を鳴らした。
「悪くねえ。少なくとも、根拠もなく『誰かが隠したに違いねえ』って決めつけるよりは、ずっとましだ」
アリシアは頷いた。
けれど、少しだけ気になることがあった。
「……ノアは、六人目のこと、どう思う?」
ノアはすぐには答えなかった。
窓の外で雨粒が硝子を滑り、細い筋を作っている。
黒猫はその一つを目で追ってから、静かに口を開いた。
「俺にも分からねえことは多い。六つ目の神器について、今ある記録だけで説明できないことがあるのは確かだ。だが、だからって都合よく物語を作るつもりはねえよ」
アリシアはノアの顔を見つめた。
「……物語?」
「ああ。昔の誰かが全部を隠したとか、六人目だけが特別な秘密を知ってたとか、そういう話は面白いかもしれねえ。けど、面白い話と本当にあったことは別だろ」
アリシアは静かに頷いた。
「……うん」
「ただな」
ノアはそこで少し声を落とした。
「記録が残ってねえからって、その誰かが存在しなかったことにもならねえ。そこは忘れるなよ」
アリシアは息を呑んだ。
名前が分からない。
何をしたのかも分からない。
けれど、失われた六人目について調べようとしているのは、その人がどのような存在だったのかを知りたいからだ。
記録が不十分であることと、その人の存在を軽く扱っていいことは違う。
(……名前が分からなくても、その人が生きていた時間は、あったのかもしれない)
アリシアは帳面へ視線を落とした。
六人目がどのような人だったのかは、まだ分からない。
優しい人だったのか、厳しい人だったのか。
誰かと笑い合ったことがあったのか。
何を望み、何を恐れ、どのような選択をしたのか。
今の自分には、想像することしかできない。
そして、その想像を事実として扱ってはいけない。
けれど、知りたいと思う気持ちまで否定する必要はないはずだった。
「……ノア。私、六人目のことを知りたい」
アリシアはゆっくりと言った。
「……神器のことを知るためだけじゃなくて、その人がどんなふうに生きていたのか、少しでも分かったらいいなって思うの」
ノアはしばらく黙っていた。
それから、いつものように少し意地悪そうな声で答えた。
「ずいぶん欲張りになったな、お前も」
アリシアは少し頬を赤くした。
「……そうかな」
「そうだろ。昔のお前なら、自分が神器に選ばれた理由だけで頭がいっぱいだった。今は、会ったこともねえ誰かのことまで知りたがってる」
アリシアは返す言葉を探した。
ノアはそんな彼女を見つめ、尻尾をゆっくり動かした。
「別に悪いことじゃねえよ。ただし、知りたいからって無茶をするな。昔の記録を読むのも、研究を進めるのも、守るべき決まりはあるんだからな」
「……うん。分かってる」
「なら、まずは明日の展示だ。そこで何か学べるなら、それで十分だろ」
アリシアは微笑んだ。
「……うん。楽しみだな」
◇
その夜、アリシアは日記帳を開き、今日の出来事を書き始めた。
学院の廊下で古い文字の資料を見かけたこと。
魔法史の授業で、記録の空白には幾つもの理由が考えられると学んだこと。
仲間たちと展示の案内を見に行き、自分で質問を書いて提出したこと。
そして、子供が描いた家の絵に、まだ決めていない場所が残されていたこと。
書き進めるうちに、アリシアはふと筆を止めた。
今日一日の中には、幾つもの空白があった。
古い記録の読めない部分。
失われた六人目について、まだ分からないこと。
子供の絵に残された、何も描かれていない場所。
それらは、同じものではない。
古い記録の欠損は、未来の誰かが自由に埋めていい場所ではない。
六人目の歴史も、都合のよい想像で作り直していいものではない。
一方で、子供の絵の余白は、子供自身がこれから何を描くか選べる場所だった。
同じように何も書かれていなくても、その意味は違う。
アリシアはそのことに気づき、静かに息を吐いた。
(……空白があるからって、全部同じように考えちゃいけないんだ)
帳面へ、ゆっくりと文字を書き加える。
『今日、古い記録に名前が残っていない理由は、一つとは限らないと学んだ。誰かが消したと決めつけることも、最初から何もなかったと決めつけることも、今はできない。』
『六人目について、私はまだ知らないことが多い。だから、まずは残っている記録を、どうやって確かめるのか学びたい。』
『子供の絵には、まだ描かれていない場所がある。でも、それは子供がこれから何を描くか決められる場所。古い記録の空白とは、違う。』
最後の一行を書き終えた時、アリシアは少しだけ笑った。
今日は、六つ目の神器の謎が解けた日ではない。
失われた六人目の名前が見つかった日でもない。
けれど、何を調べるべきなのか、以前よりも少しだけ分かった気がした。
それは、大きな発見とは呼べないかもしれない。
それでも、アリシアにとっては大切な変化だった。
「おい、そろそろ終わりにしろよ」
寝台の上から、ノアの声がした。
アリシアは顔を上げ、微笑んだ。
「……うん。もう終わるよ」
「明日も学院があるんだろ。展示が楽しみだからって、寝不足で行くんじゃねえぞ」
「……分かってる。ちゃんと寝るね」
アリシアは日記帳を閉じ、灯りを落とした。
寝台へ入ると、ノアがいつもの場所へ丸くなる。
窓の外では、雨が静かに降り続いていた。
生活観測区画の談話室には、子供の描いた家の絵が残されている。
その右側には、まだ何も描かれていない場所がある。
けれど、そこには小さな文字で『まだ決めてない』と書かれていた。
アリシアはその絵を思い浮かべながら、目を閉じた。
失われた六人目の歴史にも、まだ分からない場所がある。
そこには、子供の絵のように、自由に未来を描き足すことはできない。
けれど、残されたものを丁寧に確かめ、何が分かっていて、何が分からないのかを知ることはできるはずだった。
その先に、いつか誰かの名前が見つかるかもしれない。
あるいは、名前ではなく、別の形でその人の存在を知ることになるのかもしれない。
今は、どちらとも分からない。
それでもアリシアは、初めてその分からなさを、怖さだけではなく、知りたいという気持ちで見つめられるようになっていた。
雨音が少しずつ遠くなっていく。
ノアの穏やかな寝息を聞きながら、アリシアは静かに眠りへ落ちていった。
まだ名前のない問いは、答えを急がず、彼女の明日を待っていた。




