第295話 六番目の空白を、誰かの名前に変える前に
翌朝、アリシアが目を覚ました時、窓の外には薄い霧が漂っていた。
昨日の雨が残した湿気のせいだろうか。庭の石畳はまだところどころ濡れており、低い植え込みの向こうにある木々は、白い靄の中で輪郭を曖昧にしていた。空は明るくなり始めていたものの、朝日が差し込むまでにはもう少し時間がかかりそうだった。
アリシアは寝台の中でゆっくり身体を起こし、胸元へ手を当てた。
痛みはない。息苦しさもなく、東側の刺激を受けた時に経験したような冷感も感じられなかった。昨日は古い資料の展示を長く見ていたため、夜には少し目が疲れていたが、今朝はその重さも残っていない。
「おい、起きたなら窓を開ける前に外を見ろよ。今朝は霧が濃いぞ」
寝台の足元から、ノアの声が聞こえた。
「……うん。見えてるよ」
「ならいい。昨日みたいに勢いよく窓を開けて、湿った風を部屋へ入れるんじゃねえぞ。俺の寝床まで冷えたらどうする」
アリシアは思わず笑った。
「……ノアの寝床は、私の寝台でしょう?」
「だから困るんだろうが。お前が寒くなれば布団を引っ張るし、俺の寝る場所まで狭くなる」
「……そんなに引っ張ってないと思うけど」
「寝てる本人には分からねえもんだ」
ノアは得意げに尻尾を振った。
アリシアは笑いながら寝台を下り、窓のそばへ歩いた。
霧の向こうには、いつもの庭がある。
見えなくなったわけではない。ただ、今は遠くまで確かめられないだけだった。
(……昨日の目録も、少し似てるのかな)
そう考えたところで、アリシアは小さく首を振った。
霧の向こうに庭があることは、自分が毎日見ているから知っている。
けれど、古い目録の六番目の欄に何が書かれるはずだったのかは、まだ誰にも分かっていない。
見えないものがあるからといって、同じように考えてはいけない。
昨日、資料室で教えてもらったことが、静かに胸へ戻ってきた。
「……ノア。昨日の目録のこと、少し考えてたの」
「朝からか。熱心なのは結構だが、飯を食う前に頭を使いすぎるなよ」
「……うん。でも、あの六番目の空白が、どうしてあのまま残っていたのか、気になって」
ノアは前足で顔を洗うのをやめた。
「気になるのは構わねえ。だが、昨日も言っただろ。六つ並んでるってだけで、神器と結びつけるなよ」
「……分かってる。だから、今日は目録そのものについて、もう少し知りたいなって思ったの」
アリシアは窓辺の机へ目を向けた。
昨夜の日記帳には、展示で学んだことを書き留めてある。
六番目の名称欄は空白だった。
原本の該当箇所に損傷はなく、記載の痕跡も確認されていない。
しかし、意図的に空けられたのか、記載前の状態なのかは判断できない。
それが、今のところ確かめられていることだった。
「……昨日、上級生の人が、公開目録を調べる方法も教えられるって言ってくれたでしょう?」
「ああ。だが、研究用の資料まで好き勝手に見られるわけじゃねえとも言ってたな」
「……うん。だから、まず先生に相談してみようと思うの」
ノアは少しだけ目を細めた。
「それならいいんじゃねえか。調べる前に、何を調べていいのか確かめる。お前にしちゃ、ずいぶん手順を考えるようになったな」
アリシアは少し頬を赤くした。
「……前から、ちゃんと考えてたつもりだよ」
「つもりと実際は違うからな。まあ、今のお前なら、その違いも分かるだろ」
からかうような口調だったが、ノアの声は穏やかだった。
アリシアは窓から離れ、制服へ着替え始めた。
霧が晴れるかどうかは、まだ分からない。
けれど、今朝の自分がすることは決まっている。
学院へ行き、授業を受ける。
仲間たちと話し、必要なことを確かめる。
そして、もし時間があれば、資料室の先生へ相談してみる。
その一つ一つを、無理のない速さで進めればいい。
◇
学院へ向かう道では、霧が少しずつ薄くなっていた。
石畳の上を歩く学生たちの姿も、遠くから見分けられるようになっている。中庭では職員が雨上がりの通路を確認しており、木の根元に溜まった水を排水溝へ流していた。
アリシアはノアと並び、渡り廊下へ入った。
昨日の展示を思い出すと、少し胸が弾む。
古い文字の形や、破損した文書の扱い方。
写本を比べる時に注意すること。
そして、名前が残っていないという事実だけでは、その理由を決められないこと。
知らなかったことを知るのは、楽しかった。
その楽しさを感じられる自分に、アリシアは少し驚いてもいた。
以前なら、六つ目の神器に関係するかもしれないものを見つけるたび、胸の奥に重い不安が生まれていた。
自分が何かを見落とせば、誰かが危険な目に遭うのではないか。
自分が答えを見つけなければ、何も前へ進まないのではないか。
そんなふうに考えてしまうことがあった。
今も、完全に不安がなくなったわけではない。
けれど、昨日の展示では、すぐに答えを見つけられなくても落ち着いていられた。
それは、アリシアにとって小さくない変化だった。
「アリシア、おはよう!」
前方からメリルの声が聞こえた。
顔を上げると、渡り廊下の柱のそばで、メリルとテオが話していた。
「……おはよう、メリル、テオ」
「おはよう。今日は霧がすごかったね」
テオが笑いながら言った。
「僕、いつもの道を歩いてたのに、途中で曲がる場所を一つ間違えそうになったよ」
メリルは隣で大きく頷いた。
「分かる! 私も中庭の木が見えなくて、もう少し先だと思って歩いちゃった」
「お前ら、目印が見えねえ時くらい、足元の道を確かめろよ」
ノアが呆れたように言うと、メリルは苦笑した。
「そうなんだけど、毎日通ってると、つい同じように歩いちゃうんだよね」
アリシアは二人の話を聞きながら、静かに微笑んだ。
霧が濃い時には、いつも見えているものが見えなくなる。
それでも、足元を確かめながら歩けば、道を間違えずに進める。
そのことを考えたが、今度は無理に古い目録へ結びつけようとはしなかった。
朝の霧は、ただ朝の霧だ。
仲間たちと笑いながら学院へ向かう時間も、それだけで大切なものだった。
◇
午前の授業では、魔力を用いた基礎的な防護術について学んだ。
教師は学生たちへ、一定の範囲を保護する小さな結界の構造を説明したあと、二人一組で確認する課題を出した。
今日は大きな魔力を使う実技ではない。
机の上に置かれた練習用の魔導具へ、弱い魔力を流し、表示される状態を読み取る授業だった。
アリシアはフィオナと組み、慎重に作業を始めた。
「アリシア、準備は大丈夫?」
「……うん。フィオナは?」
「私も大丈夫。じゃあ、最初は私が記録するね」
フィオナは帳面を開き、アリシアが魔導具へ手を近づけるのを待った。
アリシアは教師から説明された範囲を確認し、必要な量だけ魔力を流す。
魔導具の中央に淡い光が灯り、周囲の細い線へゆっくりと広がっていった。
「……中央、点灯。外側も、順番に光ってる」
フィオナは落ち着いた声で確認した。
アリシアは魔力を一定に保ち、指定された時間が過ぎるのを待った。
やがて教師の合図が聞こえ、魔力の供給を止める。
光はゆっくり消え、魔導具は元の状態へ戻った。
「……終わったよ」
「ありがとう。今のところ、記録する範囲では問題なさそうね」
フィオナはそう言ってから、アリシアの顔を見た。
「身体は大丈夫?」
「……うん。痛みも息苦しさもないよ。疲れも、ほとんどないと思う」
「分かった。じゃあ、次は役割を交代しようか」
アリシアは頷き、記録用の帳面を受け取った。
フィオナが魔導具へ魔力を流すと、中央の光が穏やかに灯る。
アリシアは表示を確認し、変化を一つずつ書き留めた。
以前の自分なら、誰かの状態を見守ることに緊張して、必要以上に身構えていたかもしれない。
けれど、今は教師が示した範囲の中で、何を確認すればいいのか分かっている。
異常があれば報告する。
分からないことがあれば、勝手に判断しない。
そして、問題がなければ、必要以上に心配しなくてもいい。
その区別が、少しずつ身についてきた。
授業の終わりには、教師が各組の記録を確認した。
「観察した内容と、そこから考えたことが分けられていますね。良い記録です」
アリシアとフィオナの帳面を見た教師は、そう言って頷いた。
「ただし、次回は観察を始めた時刻も書いておきましょう。同じ変化でも、いつ確認したかによって意味が変わることがあります」
フィオナはすぐに頷いた。
「はい。次から気をつけます」
アリシアも小さく頭を下げた。
「……ありがとうございます」
教師が離れると、フィオナは少し笑った。
「全部できたと思ってたけど、まだ書き足した方がいいことがあったね」
「……うん。でも、教えてもらえてよかった」
「そうね。次はもっと分かりやすくできそう」
アリシアはその言葉に頷いた。
記録は、一度書けば終わりではない。
何が足りなかったのかを知り、次に生かすことも大切なのだ。
◇
昼休み、五人はいつもの食堂へ集まった。
窓際の席には明るい日差しが差し込み、朝の霧が嘘のように庭がよく見えている。食堂の中では学生たちが楽しそうに話し、食器の触れ合う音があちこちから聞こえていた。
アリシアは食事を始める前に、少しだけ仲間たちの顔を見た。
「……あの、みんなに相談してもいい?」
メリルがすぐに頷いた。
「もちろん。どうしたの?」
「……昨日の資料室で見た、六番目の欄が空白になっている目録のことなんだけど」
エドガーが顔を上げた。
「公開目録を調べる方法について、聞いてみたいんだな?」
アリシアは少し驚いた。
「……うん。どうして分かったの?」
「昨日、展示担当の上級生が案内できると言ってただろ。お前が気にしていたから、もしかしたらと思ったんだ」
エドガーはそう言って、穏やかに笑った。
アリシアは小さく頷いた。
「……でも、私が勝手に調べ始めていいのか分からなくて。だから、まず先生に相談したいなって」
フィオナは静かに頷いた。
「いいと思う。公開されている歴史資料を学ぶことと、研究区画の記録を扱うことは別だから、そこを確認しておくのは大切だと思う」
テオも同意した。
「それに、どこまでが公開されているのか分かれば、無理に調べようとしなくて済むしね」
メリルは少し考えてから口を開いた。
「私も一緒に行こうか? 昨日の展示、面白かったし」
アリシアは嬉しく思ったが、すぐには頷かなかった。
みんなにも予定がある。
自分が相談したいからといって、全員に付き合ってもらう必要はない。
「……ありがとう。でも、今日は先生に相談するだけだから、みんなは無理しなくていいよ」
メリルは一瞬きょとんとしたあと、柔らかく笑った。
「そっか。じゃあ、私は今日は別の用事を済ませようかな。でも、あとで話を聞かせてくれたら嬉しい」
「……うん。もちろん」
フィオナも頷いた。
「私も今日は少し課題を進めたいから、また別の時に一緒に調べられたらいいな」
テオは午後の予定を思い出したように言った。
「僕も先生に提出するものがあるから、今日は先に戻るよ」
エドガーは少し考えたあと、アリシアへ顔を向けた。
「俺は時間があるけど、どうする? 一緒に行ってもいいし、お前が一人で相談したいなら、それでも構わない」
アリシアはその言葉に、少し胸が温かくなった。
以前なら、一人で相談することが怖くて、誰かについてきてもらおうとしていたかもしれない。
けれど、昨日は自分で質問用紙を書き、上級生へ話しかけることができた。
今日も、少しだけ挑戦してみたい。
「……ありがとう、エドガー。でも、今日は私が聞いてみるね」
エドガーは微笑んだ。
「分かった。もし資料の読み方で分からないことがあったら、あとで一緒に考えよう」
「……うん」
アリシアは頷き、食事へ手を伸ばした。
誰かと一緒に行くことも、一人で行くことも、自分で選んでいい。
その当たり前のことが、今の彼女には嬉しかった。
◇
午後の授業を終えたあと、アリシアはノアと一緒に中央棟へ向かった。
資料室の前には、昨日と同じ展示案内が置かれている。
今日は見学者が少ない時間帯らしく、室内から聞こえる声も穏やかだった。
アリシアは入口で一度立ち止まり、深く息を吸った。
「……ノア。ちょっと緊張する」
「だろうな。だが、昨日だってちゃんと質問できただろ」
「……うん」
「なら、今日も同じだ。分からないことを聞きに来ただけなんだから、変に構えるな」
アリシアは小さく頷き、資料室へ入った。
受付の机には、昨日説明してくれた上級生が座っていた。
彼はアリシアに気づくと、穏やかに微笑んだ。
「あ、昨日の方ですね。こんにちは」
「……こんにちは。昨日は、ありがとうございました」
「いえいえ。今日は展示の続きを見に来たんですか?」
アリシアは少し迷ったあと、勇気を出して答えた。
「……昨日、公開目録を調べる方法を教えていただけるって聞いたので、少し相談したくて」
上級生はすぐに頷いた。
「分かりました。では、担当の先生がいらっしゃるか確認してきますね。少し待っていてもらえますか?」
「……はい。ありがとうございます」
アリシアは受付の近くにある椅子へ腰を下ろした。
ノアは足元で静かに座っている。
資料室の中では、数人の学生が展示を見ながら小声で話していた。
昨日は五人で来た場所。
今日は自分とノアだけでいる。
少し心細さはあったが、不思議と逃げ出したい気持ちにはならなかった。
やがて、上級生が一人の女性を連れて戻ってきた。
落ち着いた灰色の髪を後ろでまとめ、紺色の上着を着た女性だった。
「お待たせしました。こちらが資料室の管理を担当している、エレナ・ヴァイス先生です」
女性はアリシアへ穏やかに微笑んだ。
「こんにちは。古い目録について質問があるそうですね」
アリシアは立ち上がり、丁寧に頭を下げた。
「……はい。アリシアです。よろしくお願いします」
「こちらこそ。急いで答えを出す必要はありませんから、聞きたいことを順番に話してください」
その言葉に、アリシアは少し安心した。
エレナは受付から少し離れた相談用の机へ案内し、アリシアが座るのを待ってから向かい側へ腰を下ろした。
ノアも椅子のそばへ移動し、二人の話を聞くように座った。
◇
「昨日の展示で、六つの項目が並んだ古い目録を見ました」
アリシアはゆっくりと話し始めた。
「……六番目の名称欄だけが空白になっていて、その理由はまだ分からないと書かれていました。私は、その目録がどういうものなのか、もう少し知りたいと思ったんです」
エレナは頷いた。
「なるほど。では、まず確認したいのですが、あなたはその目録に何か特別な意味があると考えていますか?」
アリシアは少し考えた。
六つ目の神器のことを思い出したのは事実だ。
けれど、関係があると判断できる材料は何もない。
「……六番目という数字が気になったのは、本当です。でも、それだけで何かと関係があるとは思っていません」
エレナは静かに頷いた。
「それなら、よい出発点だと思います。気になった理由を自覚しながら、その理由だけで結論を決めないことは、史料を読むうえで大切です」
アリシアは少しだけ肩の力を抜いた。
エレナは机の上へ一枚の説明用紙を置いた。
そこには、資料室で公開している目録の種類と、閲覧方法が簡潔にまとめられていた。
「まず、昨日の展示にあった目録は、公開可能な複製資料です。原本は保存管理の対象になっているため、一般の学生が直接手に取ることはできません。ただし、複製と、それに付随する公開済みの説明情報は閲覧できます」
「……公開されている説明情報、ですか?」
「ええ。例えば、資料の保存状態、推定される年代、どのような経緯で資料室へ収められたかといった情報です。ただし、すべてが分かっているわけではありません」
エレナは一度言葉を切り、アリシアの反応を確かめた。
「ここで大切なのは、資料そのものに書かれている内容と、後の時代に調査した人が付け加えた説明を区別することです」
アリシアは頷いた。
「……昨日、写本の説明でも似た話を聞きました」
「そうですね。例えば、古い目録に『北の倉庫』と書かれていたとしても、それが現在のどの建物を指すのかは別の問題です。後の研究者が候補を挙げることはできますが、確定していないなら、そのように示す必要があります」
アリシアは帳面を開き、ゆっくり書き留めた。
エレナはその様子を見て、少し微笑んだ。
「急がなくて大丈夫ですよ。必要なら、あとで説明用紙を持ち帰れるようにします」
「……ありがとうございます」
アリシアは顔を上げた。
エレナは続けた。
「それから、六番目の空白についてですが、昨日の説明札に書かれていた以上のことは、現在の公開情報からは分かっていません」
アリシアは静かに頷いた。
「……はい」
「該当する欄に文字の痕跡は確認されていません。しかし、それが意図的な未記入だったのか、記入される前の状態だったのか、あるいは別の事情があったのかは判断できません」
エレナの声は穏やかだった。
期待を持たせるような言い方でも、興味を否定するような言い方でもない。
ただ、分かっている範囲を丁寧に伝えてくれている。
アリシアはそのことに安心した。
「……じゃあ、今のところ、六番目の名前を知る方法はないんですね」
「少なくとも、昨日の目録だけから名前を特定することはできません。ただし、関連する資料が見つかれば、目録が作られた背景について理解が進む可能性はあります」
アリシアは少し考えた。
「……関連する資料かどうかは、どうやって確かめるんですか?」
エレナは説明用紙の一部を指さした。
「まず年代や記載形式、用いられている文字、資料の出所などを比べます。似ている部分があっても、それだけで同じ施設の記録とは判断できません。逆に、見た目が違っていても、同じ時代の別の記録に関係する情報が残っている場合もあります」
アリシアはゆっくり頷いた。
昨日、エドガーが言っていたこととつながっている。
空白だけを見るのではなく、目録全体を確かめる。
そして、目録そのものが何を示しているのかを知る。
それが最初の段階なのだろう。
「……先生。私、公開されている範囲で、同じ形式の目録を見てみたいです」
アリシアは少し緊張しながら言った。
「……でも、今日すぐに全部を調べたいわけじゃありません。どういう資料があるのか、まず知りたいんです」
エレナは穏やかに微笑んだ。
「分かりました。それなら、公開目録の索引から始めましょう。今日は閲覧方法を説明して、実際の比較は別の日にしても構いません」
アリシアはほっと息を吐いた。
「……はい。お願いします」
◇
エレナは資料室の奥にある閲覧机へ案内した。
そこには、厚い索引帳と、資料番号を記した小さな札が並んでいた。
索引帳の表紙には、公開史料の分類と記載年代についての説明が書かれている。
アリシアは椅子へ座り、エレナが示したページを開いた。
そこには、幾つもの資料番号と短い説明が並んでいた。
古い物品管理の目録。
施設の修繕記録。
物資の受け渡しを記した帳簿。
儀礼で使われた道具の一覧。
文字の形が似ているものもあれば、まったく違うものもある。
アリシアは一つずつ目を通した。
「……こんなに、たくさんあるんですね」
「ええ。ただし、ここに載っているのは公開できる資料だけです。保存状態や管理上の理由で、一般閲覧の対象になっていないものもあります」
エレナは説明を続けた。
「そして、索引に載っているからといって、内容がすべて解読されているわけではありません。年代や用途が推定の段階にあるものもあります」
アリシアは頷いた。
目録に載っていることと、内容が分かっていることは違う。
その違いを忘れないよう、帳面へ短く書き留めた。
エレナは索引帳の一項目を指さした。
「昨日展示していた目録はこちらです。資料番号と、公開されている説明の範囲が記載されています」
アリシアは目を向けた。
そこには、昨日見た目録の説明があった。
推定年代は幅を持たせて示されている。
用途については、物品管理の記録と考えられているものの、具体的な施設名は確定していない。
六番目の名称欄についても、昨日の説明札と同じ内容が記されていた。
アリシアは静かに読み進めた。
何か新しい名前が見つかるのではないかと、少し期待していた自分に気づく。
けれど、そこには特別な発見はなかった。
昨日知ったことが、もう少し詳しく整理されているだけだった。
それでも、不思議と落胆は小さかった。
(……今は、これでいいんだ)
分からないことを確かめに来た。
そして、まだ分からないと確認できた。
それも、大切な結果なのだろう。
エレナはアリシアの表情を見て、穏やかに尋ねた。
「何か気になることはありますか?」
アリシアは少し考えた。
「……この目録の六番目だけじゃなくて、ほかの目録にも空白があるんですか?」
エレナは頷いた。
「あります。例えば、こちらの資料では、三番目の欄が未記入です。別の資料では、最後の二つの項目が書かれていません」
アリシアは示された項目を見つめた。
三番目の空白。
二つ続いた空白。
どれも、昨日の目録とは違う形式だった。
「……空白って、珍しいことじゃないんですね」
「そうですね。もちろん、資料によって事情は異なりますが、未記入の欄があること自体は特別なことではありません」
エレナは少し声を和らげた。
「だからこそ、空白があるという事実だけで、何か重要な意味が隠されていると考えない方がいいのです」
アリシアは静かに頷いた。
昨日、六番目の空白を見た時の胸の高鳴りを思い出した。
六つ目の神器。
失われた六人目。
その二つを考えていたからこそ、六番目という数字が強く目に留まった。
けれど、ほかの目録にも空白はある。
六番目だけが特別だとは、今のところ言えない。
「……先生。私、昨日の目録を見た時、少し期待してしまったんです」
アリシアは小さな声で言った。
「……六番目って書いてあったから、何か知りたいことにつながるんじゃないかって。でも、そう思っただけで、関係がある証拠は何もなかったんです」
エレナは急かさずに聞いていた。
アリシアは少し迷いながら、言葉を続けた。
「……それでも、気になってしまって。そういう気持ちがあると、資料を正しく読めなくなるんでしょうか」
エレナはしばらく考えたあと、静かに答えた。
「興味を持つこと自体は、悪いことではありません。むしろ、何かを知りたいと思う気持ちが、調べるきっかけになることもあります」
アリシアは顔を上げた。
「……はい」
「ただし、自分が期待している答えと、資料から確かめられることを分ける必要があります。期待があると自覚していれば、その影響を確かめながら調べることができます」
エレナは索引帳へ視線を落とした。
「例えば、あなたが六番目の空白に興味を持ったなら、六番目以外の空白も見てみる。似た形式の目録がほかにあるか調べる。そうすれば、最初に感じた特別さが、本当に資料の特徴なのか考えられます」
アリシアはゆっくり頷いた。
自分の気持ちを否定する必要はない。
けれど、その気持ちだけで答えを決めてはいけない。
それが、エレナの伝えたいことなのだろう。
「……ありがとうございます。少し、安心しました」
エレナは微笑んだ。
「よかった。調べることは、答えを急いで見つける競争ではありませんから」
アリシアはその言葉を、静かに胸へしまった。
◇
相談を終えた頃には、窓の外の光が少し傾き始めていた。
エレナは公開目録の利用方法をまとめた説明用紙をアリシアへ渡し、次に来る時は受付で声をかければよいと教えてくれた。
「今日はここまでにしましょうか。初めて見る資料が多かったでしょうし、少し休んでから整理した方がいいと思います」
アリシアは頷いた。
「……はい。今日はありがとうございました」
「こちらこそ。丁寧に質問してくれて、嬉しかったですよ」
エレナは穏やかに微笑んだ。
「また気になることがあれば、公開できる範囲で一緒に確認しましょう。ただし、研究用の資料や閲覧制限のある記録については、必要な手続きを守ってくださいね」
「……はい。分かりました」
アリシアは深く頭を下げ、資料室を出た。
廊下へ出ると、ノアが隣へ歩いてきた。
「どうだった?」
アリシアは説明用紙を胸の前で持ちながら、少し考えた。
「……六番目の空白について、新しいことは分からなかったよ」
「そうか」
「……でも、ほかの目録にも空白があるって知った。それから、何かを期待していても、その気持ちと資料から分かることを分ければいいんだって」
ノアは小さく鼻を鳴らした。
「なるほどな。つまり、六番目だからって特別扱いするなってことか」
「……うん」
「そりゃ、いい勉強になったじゃねえか」
アリシアは微笑んだ。
「……そうだね」
ノアは少しだけ歩調を緩めた。
「で、疲れてねえか?」
アリシアは自分の身体へ意識を向けた。
胸の痛みも息苦しさもない。
冷感も感じられない。
ただ、長い時間資料を読んでいたせいか、目の奥に少し重さがあった。
「……少し目が疲れたかな。でも、休めば大丈夫だと思う」
「なら、今日はもう資料を読むなよ。せっかく先生も休めって言ってくれたんだからな」
アリシアは頷いた。
「……うん。今日はここまでにする」
その返事を聞き、ノアは満足そうに尻尾を揺らした。
◇
生活観測区画へ戻ると、談話室には穏やかな午後の光が差し込んでいた。
子供は机の上に二枚の紙を広げ、どちらを見ようか考えているところだった。
一枚には、小さな家と花の咲く庭が描かれている。
もう一枚には、昨日試しに描き始めた森と川の絵があった。
アリシアが近づくと、子供は嬉しそうに顔を上げた。
「アリシア、おかえり!」
「……ただいま。今日は、絵を見比べてるの?」
「うん! 昨日、別の紙に描いてみたでしょう? それでね、森と川を両方描いたら、どうなるかなって考えてるの」
アリシアは椅子へ腰を下ろし、二枚の絵を眺めた。
森の絵には背の高い木が並び、川の絵には丸い石と小さな橋が描かれていた。
どちらも、子供が楽しみながら描いたことが伝わってくる。
「……どっちも素敵だね」
子供は嬉しそうに笑った。
「でも、まだ決めてないんだ」
「……うん。昨日もそう言ってたね」
「だからね、今日はこの二つを並べてみたの。そしたら、森の向こうに川があってもいいかなって思ったんだ」
アリシアは少し驚いた。
「……なるほど。別々に描いたから、そういう考え方ができたんだね」
子供は大きく頷いた。
「うん! でも、まだおうちの絵には描かないの。もう少し考えたいから」
アリシアは微笑んだ。
「……うん。それでいいと思う」
子供は二枚の絵を大切そうに並べ直した。
その様子を見ながら、アリシアは今日の資料室で聞いた話を思い出した。
一つの資料だけで判断しない。
似たものを比べ、違うところを確かめる。
けれど、子供の絵は過去の記録ではない。
これから何を描くか、子供自身が決めるためのものだ。
アリシアはその違いを意識しながら、静かに見守った。
やがて子供が顔を上げた。
「アリシアは、今日何か見つけた?」
アリシアは少し考えた。
「……うん。昔の記録には、名前が書かれていない場所がほかにもあるって知ったよ」
子供は首を傾げた。
「名前がないの?」
「……うん。でも、どうして書かれていないのかは、記録によって違うんだって」
子供はしばらく考えてから、自分の絵の余白を見つめた。
「じゃあ、ここも名前がない場所?」
アリシアは微笑んだ。
「……ここは、まだ何を描くか決めていない場所だね」
「うん。私が決めるの」
子供はそう言って、少し誇らしげに笑った。
アリシアは頷いた。
「……そうだね。あなたが決めていい場所だよ」
子供は嬉しそうに二枚の絵を見比べ始めた。
アリシアはその姿を見守りながら、今日の出来事を心の中で整理した。
六番目の空白には、まだ名前がない。
けれど、だからといって、自分が勝手に名前を与えていいわけではない。
子供の絵の余白も、アリシアが代わりに描いていい場所ではない。
それぞれの空白には、それぞれの理由と意味がある。
その違いを忘れずにいたかった。
◇
談話室の窓際では、顔のない存在が静かに過ごしていた。
胸元の十一の光は、いつものように安定した明滅を続けている。
覆い付きの木箱にも変化はなく、誰かが開けようとした様子はなかった。
アリシアは一度だけそちらへ視線を向けた。
以前なら、顔のない存在が何かを示しているのではないかと、光の一つ一つを気にしていたかもしれない。
けれど、今はそうしなかった。
顔のない存在が穏やかに過ごしていること。
子供が自分の絵を描いていること。
それらは、何かの謎を解くためだけに存在しているわけではない。
アリシアはそのことを、忘れたくなかった。
子供が絵を片づけ始めると、職員が近づいてきた。
「今日はここまでにしますか?」
子供は頷いた。
「うん。でも、明日また見たい」
「分かりました。では、取り出しやすい場所に置いておきましょう」
職員は二枚の紙を丁寧に重ね、子供が指定した棚へしまった。
子供は安心したように笑い、アリシアへ顔を向けた。
「明日、続きを考えるね」
「……うん。楽しみにしてる」
アリシアは微笑んだ。
何かを完成させることだけが、大切なのではない。
考えている時間も、迷っている時間も、その人のものなのだ。
◇
夕食のあと、アリシアは自室へ戻った。
机の上には、今日エレナから受け取った説明用紙が置かれている。
アリシアはそれを一度眺めたが、ノアの言葉を思い出し、詳しく読み直すことはしなかった。
今日はもう十分に考えた。
今夜は、分かったことを短く整理するだけにしよう。
そう決めて、日記帳を開いた。
『今日は資料室のエレナ・ヴァイス先生に、公開目録の調べ方を教えてもらった。昨日の六番目の空白について、新しい名前や意味が分かったわけではない。』
『ほかの目録にも、三番目や最後の二つの欄が空白になっているものがあると知った。だから、六番目が空白だからといって、それだけで特別な意味があるとは言えない。』
『私は六つ目の神器のことを考えていたから、六番目という数字が気になった。そういう気持ちがあってもいいけれど、期待している答えと、資料から確かめられることを分ける必要がある。』
アリシアは筆を止め、少し考えた。
そして、最後に一行を書き加えた。
『名前がない場所を、私の想像だけで埋めないようにしたい。』
書き終えると、胸の奥が少し軽くなった。
六つ目の神器の謎は、まだ解けていない。
失われた六人目の名前も、まだ分からない。
けれど、今日の自分は、分からないことを無理に埋めようとはしなかった。
そのことを、少しだけ誇らしく思えた。
「おい、終わったか?」
寝台の上からノアの声がした。
アリシアは顔を上げ、微笑んだ。
「……うん。今日はもう終わり」
「よし。じゃあ、さっさと寝ろ。明日も学院があるんだろ」
「……うん」
アリシアは日記帳を閉じ、机の引き出しへしまった。
それから灯りを落とし、寝台へ入った。
ノアが隣で丸くなり、静かな寝息を立て始める。
窓の外では、夜風が木々の葉を揺らしていた。
朝の霧は、もうすっかり晴れている。
けれど、遠くの景色が見えるようになったからといって、すべてを知ったわけではない。
アリシアはそのことを、今なら自然に受け止められる気がした。
古い目録の六番目の空白。
失われた六人目の歴史。
そして、六つ目の神器が持つ本当の意味。
まだ分からないことは多い。
それでも、答えを急ぐ必要はない。
確かめられることを確かめ、分からないことは分からないまま残す。
誰かの名前を、自分の想像で作り出さない。
その慎重さは、遠回りに見えるかもしれない。
けれど、過去に生きた誰かを知ろうとするなら、きっと必要なことなのだろう。
アリシアは静かに目を閉じた。
明日もまた、知らないことがあるだろう。
けれど、それを怖がるだけではなく、知りたいと思える自分でいたかった。
そんな願いを胸に、彼女は穏やかな眠りへ落ちていった。




