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『忘れられた六つ目の神器に選ばれました 〜人見知りな闇の少女と毒舌黒猫の学園英雄譚〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第289話 休む場所の先に、まだ知らない道が続いている



翌朝、アリシアが目を覚ました時、窓の外には柔らかな日差しが広がっていた。


昨夜まで空を覆っていた雲は東の方角へ流れ、生活観測区画の庭には、朝露をまとった草花が静かに揺れている。窓枠の向こうで重なり合う葉の間から光が差し込み、床に落ちた影をゆっくりと動かしていた。建物の奥では朝の仕事を始めた職員たちの足音が聞こえ、時折、食器の触れ合う小さな音が廊下を伝わってくる。


アリシアは掛布を膝の上へ整え、しばらくその音に耳を傾けていた。昨日は研究区画でサラたちから記録の扱いについて説明を受け、その後は学院の授業を終えてから、子供が作った木の駒の道を一緒に眺めた。特別に大きな出来事があった一日ではなかったが、寝る前に思い返した時には、不思議と心が落ち着いていた。


研究の新しい試行は決まっていない。独立した系列は約束した二件で終了し、東側と西側の判定が食い違った理由についても、まだ答えは出ていなかった。


それでも、結果が分からないことと、何も進んでいないことは同じではないのだと、少しずつ思えるようになっていた。


(……今日は、昨日より気持ちが軽いかもしれない)


アリシアは胸元へそっと手を添え、自分の身体の状態を確かめた。痛みや息苦しさはなく、胸の冷感も生じていない。頭痛や吐き気、めまいも感じられず、昨日の朝にあった気持ちの疲れも、眠ったことで和らいでいるようだった。


もっとも、朝の調子がよいからといって、一日中同じ状態でいられるとは限らない。以前なら、そのことを考えただけで少し不安になったかもしれないが、今は疲れた時に休めばいいと思える。


寝台の足元で、黒い尻尾がゆっくりと持ち上がった。


「おい、アリシア。起きてるんなら、そろそろ支度しろよ。さっきから窓ばっかり眺めてるが、外の木に何か用でもあるのか?」


ノアは前足を伸ばし、大きな欠伸をしたあと、半分だけ開いた目でアリシアを見上げた。その毛並みには朝日が当たり、黒い背中の輪郭がわずかに柔らかく見えている。


「……木に用事はないよ。ただ、今日はいい天気だなって思って」


「そりゃ見りゃ分かる。昨日は曇ってたからな。それより、身体の具合はどうなんだ?」


からかうような口調から、最後の問いだけ少し落ち着いた声へ変わった。アリシアはその変化に気づき、掛布の上で重ねていた手をほどいた。


「……痛いところもないし、息も苦しくないよ。昨日より元気だと思う」


「気分だけで無茶するなよ。元気な朝に張り切って、夕方にはぐったりするなんてのは、お前がやりそうなことだからな」


「……そんなに、いつも無茶してないと思うんだけど」


「自分で気づいてねえところが厄介なんだよ。まあ、最近は少しマシになってきたけどな」


アリシアは頬を膨らませかけたが、ノアが本気で責めているわけではないことも分かっていた。以前なら、心配をかけてしまったと思ってすぐに謝っていたかもしれない。けれど今は、心配してくれる相手に自分の状態を伝え、そのうえで一緒に考えることができる。


「……今日は、帰ってから子供と道の続きを考える約束をしてるの。でも、疲れてたら休んでいいって、あの子も言ってくれたから」


「へえ。ずいぶん立派な約束じゃねえか。お前も見習って、言ったことをちゃんと守れよ」


ノアはそう言って寝台から降り、扉の方へ歩き始めた。


アリシアはその後ろ姿を見送りながら、昨日の夕方、子供が作った休憩場所を思い出した。木の駒が通る道の途中に少し広い場所があり、そこで一度止まってから、また先へ進めるようになっている。


道の続きを作らなくても、昨日の道が消えるわけではない。


休んだあとに、また進めばいい。


そんな当たり前のことを、木の駒を並べる遊びから教わった気がして、アリシアは小さく笑った。


◇


朝食の時間になると、談話室には焼きたてのパンと温かなスープの香りが広がっていた。


窓際の机には食器が並べられ、子供は椅子に座って、まだ湯気の立っているスープを慎重に冷ましている。少し離れた場所では、顔のない存在が静かに過ごしており、胸元に並ぶ十一の光は、これまでと変わらない穏やかな明滅を続けていた。


アリシアが席につくと、子供はすぐに顔を上げた。


「アリシア、おはよう! 昨日の道、ちゃんと残ってたよ」


「……おはよう。うん、よかったね。休む場所も、そのままだった?」


「うん! でもね、今日はその先を作りたいんだ。休んだあと、どこへ行けるようにしようかなって考えてたの」


子供は匙を置き、机の向こうにある木の駒の道へ目を向けた。昨日のうちに片づける必要のない範囲を世話役と相談していたため、曲がり角と休憩場所を残したまま、ほかの人が使う部分は空けてある。


アリシアはパンを小さくちぎりながら、子供の話に耳を傾けた。


「……行きたい場所があるの?」


「まだ決めてないの。最初はずっと長い道にしようと思ったんだけど、長くするだけだと、どこに着くのか分からないでしょう?」


子供は少し真剣な顔で考え込み、それから思いついたように続けた。


「だから、何かを作ろうかなって。おうちとか、お店とか、誰かが待ってる場所とか!」


アリシアはその言葉に微笑んだ。


道を伸ばすことそのものが楽しいのだと思っていたが、子供はその先にある場所についても考え始めているらしい。昨日までは木の駒を通せるかどうかを気にしていたのに、今日は駒がどこへ向かうのかを想像している。


「……楽しそうだね。どんな場所にするか、ゆっくり考えていいと思うよ」


「うん! アリシアも帰ってきたら、一緒に考えてくれる?」


アリシアはすぐに返事をしかけ、少しだけ口を閉じた。


今日は学院で授業がある。帰る時間が普段どおりなら遊べると思うが、授業の内容や疲れ具合によっては、長く一緒にいられないかもしれない。


以前のアリシアなら、子供が楽しみにしていることを優先して、無理をしてでも約束を守ろうとしただろう。


けれど、相手の期待に応えるために、自分の状態を隠す必要はない。


「……うん。帰ってきて、元気だったら一緒に考えたいな。もし疲れてたら、少し休んでからでもいい?」


子供は一度瞬きをしたあと、嬉しそうに頷いた。


「もちろん! 道は逃げないもん。アリシアが休んでる間、私も別のことして遊べるし」


その返事に、アリシアは胸の奥が温かくなるのを感じた。


「……ありがとう。じゃあ、帰ってきたら、また相談しようね」


「うん、約束!」


子供は満足そうに笑い、冷めたスープを匙ですくった。


窓際では、顔のない存在が変わらず静かに過ごしている。アリシアはその姿を見つめたが、何か特別な意味を読み取ろうとはしなかった。胸元の十一の光にも新しい変化は見られず、覆われた木箱も、決められた場所に置かれたままだ。


今は朝食の時間だった。


子供が自分の考えを話し、アリシアがそれを聞く。


顔のない存在も、そこにいることを許されている。


以前は研究の対象として見られていた者たちが、こうして朝の時間を過ごせていることを、アリシアは大切に思った。


◇


学院へ向かう道には、朝の光が柔らかく差し込んでいた。


石畳の端には昨夜の風で落ちた葉が集まり、学生たちが通るたびに乾いた音を立てている。校舎の屋根が見え始める頃には登校する学生の数も増え、友人同士で話しながら歩く者や、教科書を抱えて急ぎ足になる者の姿が目立ってきた。


アリシアはノアと並んで歩きながら、昨日の理論授業で質問したことを思い返していた。


魔力を複数の方向へ分ける場合、流れの変化をどのように捉えるのか。


教師は図を使って丁寧に説明してくれたが、理解した内容を自分の言葉で整理するには、もう少し時間が必要だった。


(……昨日、質問できてよかった。分からなかったところを、そのままにしなくて済んだから)


アリシアは鞄の中の帳面へ目を向けた。


今朝、少し早く支度が終わったので、昨日書いた注釈を見直してきた。すべてを理解できたとは言えないものの、どこが分かっていて、どこから先が曖昧なのかは、以前よりはっきりしている。


ノアはアリシアの歩調が少し遅くなったことに気づき、隣で足を止めた。


「また授業のことを考えてるのか?」


「……うん。でも、今日は心配してるわけじゃないよ。昨日、先生に聞いたところを思い出してたの」


「ならいいが、歩きながら帳面を取り出すなよ。前を見て歩け」


アリシアは少し驚き、鞄へ伸ばしかけていた手を止めた。


「……まだ、取り出してないよ」


「取り出そうとしてただろ。お前の考えてることなんざ、だいたい顔に出てるんだよ」


ノアは得意げに尻尾を揺らし、先に歩き始めた。


アリシアは苦笑しながら、そのあとを追った。


校門の近くでは、数人の学生が昨日の実技について話していた。魔導具の扱いが難しかったという声や、記録の書き方で迷ったという声が聞こえてくる。


アリシアはその会話に耳を傾けたが、無理に加わろうとはしなかった。


昨日、自分たちの班でも小さな確認課題を行った。


エドガーが出力を担当し、メリルとテオが左右を観察し、フィオナが記録を取った。アリシアは全体を確認する役割だったが、中央の光がわずかに揺れたように見えた時、それが本当に変化だったのかどうか、確信を持てなかった。


そのため、不確かな観察として報告した。


教師はその報告を認め、確定した変化として扱わないよう説明してくれた。


アリシアはその時のことを思い出し、少しだけ胸を張った。


分からなかったことを正直に伝えるのは、今でも勇気がいる。


それでも、昨日は最後まで自分の言葉で伝えられた。


今日も同じようにできるかは分からないが、少なくとも、できなかった時に自分を責める必要はないのだと思えた。


◇


教室へ入ると、メリルが窓際の席で帳面を広げていた。


アリシアに気づくと、彼女は明るく手を振った。机の上には昨日の確認課題で使った図があり、余白にはいくつかの書き込みが増えている。


「アリシア、おはよう! 昨日の記録、ちょっと見直してたんだけど、私たちの班って、思ったよりちゃんと役割を分けられてたんだね」


アリシアは挨拶を返し、メリルの隣へ歩み寄った。


「……うん。フィオナが記録をしてくれたから、あとで見直しやすかったね」


「そうなの。私、左側を見てる時は気づかなかったんだけど、テオの報告と比べると、同じ『安定してる』でも見てた場所が少し違うんだよね」


メリルは帳面を傾け、左右に描かれた線を指さした。


左側の観察では中央寄りの明るさを中心に確認していたのに対し、右側では端まで視線を動かしていたことが記録されている。どちらが正しいという話ではなく、それぞれが何を確認したのかを明確にする必要があるのだと、メリルは説明した。


アリシアは図を見つめ、静かに頷いた。


「……私も、全体を見てたつもりだったけど、中央の光が揺れた時、左右がどうなってたかは、ちゃんと見えてなかったと思う」


メリルは少し考えたあと、柔らかく微笑んだ。


「でも、それをちゃんと伝えてくれたでしょう? だから、私たちも記録を見直せるんだと思う。もしアリシアが何も言わなかったら、中央のことは考えなかったかもしれないし」


アリシアは少し頬を赤くした。


「……そうかな」


「うん。それに、昨日のフィオナ、すごく頑張ってたよね。最初は筆を持つ手が少し緊張してたみたいだけど、最後は自分で記録をまとめられてたし」


メリルの言葉に、アリシアは昨日のフィオナの姿を思い出した。


前の防壁実技では、フィオナは中央を支える役割を担い、負担が増えたことを自分から申告した。その結果、五人は一度停止し、安全を確認してから改めて取り組むことができた。


昨日はそのフィオナが、自分から記録役を希望した。


アリシアは手伝おうかと声を掛けたが、フィオナはまず自分でやってみたいと答えていた。


その言葉が、今も心に残っている。


(……フィオナも、自分で選んだんだ)


アリシアは帳面の端へ視線を落とした。


誰かを助けたいと思うことと、その人の役割を代わりに引き受けることは違う。


必要な時に支えられるようにしておくことも、大切な関わり方なのだろう。


その時、教室の入口からフィオナが入ってきた。


彼女は二人の姿を見つけると、小さく手を振り、少し急ぎ足で近づいてきた。


「おはよう。二人とも、昨日の記録を見てたの?」


メリルが頷き、帳面を見せた。


「うん。フィオナが書いてくれた記録、すごく見やすかったよ。今、アリシアと話してたところ」


フィオナは少し驚いたように目を丸くした。


それから、照れくさそうに微笑んだ。


「そう言ってもらえると嬉しい。でも、書くことに集中してたから、途中でみんなの顔を見られなかったんだ。何か困ってる人がいたら気づけたかなって、あとから少し考えちゃって」


アリシアはその言葉を聞き、静かに首を振った。


「……フィオナは記録を担当してたんだから、全部を見る必要はなかったと思う。困った時は、私たちが伝える約束だったでしょう?」


フィオナは少し考え込み、それから頷いた。


「……そうだね。私、記録をちゃんとしなきゃって思ってたから、ほかのことまで気にしすぎてたのかもしれない」


メリルは二人の顔を見比べ、嬉しそうに笑った。


「みんなで分けた役割なんだから、一人で全部できなくてもいいんだよね。次に何かする時も、最初に相談して決めようよ」


アリシアとフィオナは頷いた。


教室の奥では、エドガーとテオが机を寄せて何かを話している。


朝の鐘が鳴るまでには、まだ少し時間があった。


五人は自然に集まり、昨日の記録を見ながら、今日の授業の準備を始めた。


◇


午前の授業では、教師が魔力の流れを示す図を黒板へ描き、学生たちへいくつかの問いを投げかけた。


昨日の確認課題で扱ったのは、一方向へ魔力を流した時の基本的な状態だった。今日はその内容を踏まえ、複数の流れが重なる場合に、どのような条件を確認する必要があるのかを考えることになっていた。


教師は黒板の中央へ一本の線を描き、そこから左右へ枝分かれする細い線を加えた。


「昨日の課題では、魔力の出力を決められた範囲内に保ち、観察できたことを記録しました。今日は、流れが複数の方向へ分かれる場合について考えます。ただし、実際にこの術式を動かすわけではありません。まずは図を使って、どこに注意すべきかを整理しましょう」


学生たちは帳面を開き、黒板へ視線を向けた。


教師は中央の線を指さした。


「中央から左右へ魔力が分かれる時、片方の流れが弱く見えたとします。その時、中央の出力が不足していると断定してよいでしょうか?」


教室のあちこちで、小さな話し声が生まれた。


何人かは首を傾げ、別の学生は帳面へ図を書き込みながら考えている。


アリシアは昨日の授業を思い出した。


中央の光が揺れたように見えた時、自分はその変化を確定できなかった。


もし、あの時に左右の明るさまで変化していたとしても、それだけで中央の出力が原因だと決めることはできなかっただろう。


教師は学生たちが考える時間を十分に取ったあと、一人の学生を指名した。


指名された学生は少し緊張した様子で立ち上がり、黒板を見つめた。


「……中央の出力が足りなければ、左右のどちらかが弱くなることはあると思います。でも、それだけが原因とは限らないんじゃないでしょうか」


教師は穏やかに頷いた。


「そうですね。では、ほかにどのような条件が考えられますか?」


学生は少し考え込んだあと、左右の線を指さした。


「……流れる先の抵抗が違うとか、どこかで魔力がうまく通っていないとか……」


「よい考えです。今の段階では、いくつかの可能性が考えられます。だからこそ、最初に見えた変化だけで原因を決めつけず、確認できる条件を整理する必要があります」


教師は黒板へいくつかの項目を書き加えた。


中央の出力。


左右の流れ。


観察した位置。


確認した時間。


そして、途中で変化した条件。


アリシアはそれらを帳面へ写しながら、静かに頷いた。


昨日、サラが話してくれたこととも、少し似ている。


東側と西側の判定が食い違ったからといって、すぐに理由が分かるわけではない。


ただし、学院の授業で扱っている術式と、研究区画で確認している現象は別のものだ。


似ている考え方があるからといって、同じ仕組みだと決めてはいけない。


アリシアはそのことを意識しながら、黒板へ視線を戻した。


◇


授業の後半、教師は学生たちへ小さな課題を出した。


各班には、中央から左右へ魔力が分かれる術式の図と、いくつかの観察記録が配られた。記録には明るさの変化や出力の状態が書かれているが、一部には観察した位置が記されておらず、変化が起きた時刻も曖昧だった。


学生たちは、その記録から確実に言えることと、追加の確認が必要なことを分けるよう求められた。


アリシアたちの班では、エドガーが最初に記録を読み上げた。


「中央の出力を一定に保っていた時、左側の明るさが弱くなったという報告がある。ただ、右側については『変化なし』としか書かれていないな」


メリルは記録を覗き込み、少し眉を寄せた。


「これだと、右側をどこまで見てたのか分からないね。全部見てたのか、端だけ見てたのかも書いてない」


テオは頷き、図の右側を指さした。


「それに、左側が弱くなったのと同じ時間に確認していたかどうかも曖昧だ。左右を比べるなら、同じタイミングで見ていたかどうかは大事だと思う」


フィオナは三人の意見を聞きながら、静かに考えていた。


昨日、記録を担当した時のことが思い浮かぶ。


エドガーが魔力を流し、メリルとテオが左右を観察していた。


アリシアは中央の光が揺れたように見えたと報告したが、その変化は確定していなかった。


フィオナはその言葉を、確定した変化として書かず、不確かな観察として残した。


あの時は少し緊張したが、今なら、その書き方が大切だった理由を以前より理解できる。


(……見えたことと、考えたことを分けるのって、やっぱり大事なんだ)


フィオナは記録から顔を上げた。


「……私、昨日の記録を思い出したんだけど、観察した人が『変化なし』って書いていても、その人がどこを見ていたか分からなかったら、あとで困ると思う」


エドガーは頷いた。


「そうだな。報告が間違っているとは限らないが、そのまま全体の状態を説明する材料にするのは難しい」


メリルは帳面へ線を引き、二つの欄を作った。


左側には『確認できたこと』、右側には『まだ確認が必要なこと』と書き込む。


アリシアはその文字を見つめ、少しだけ安心した。


分からないことを分からないまま残すための方法が、少しずつ見つかっていく。


それは、答えを出すために急ぐこととは違う。


むしろ、急いで答えを出さないために必要な作業なのだろう。


アリシアは少し迷ったあと、記録の一行を指さした。


「……ここに、『左側が弱くなったので、中央の出力が不足していた』って書いてあるけど……」


四人の視線が集まり、アリシアは少しだけ声を小さくした。


それでも、途中で言葉を止めずに続けた。


「……左側が弱くなったことは見えたのかもしれないけど、中央の出力が不足していたかどうかは、まだ分からないんじゃないかな」


エドガーは記録を見つめ直し、静かに頷いた。


「確かにそうだ。中央の出力が一定だったという記録があるなら、少なくともその説明とは食い違う部分がある。別の条件が影響した可能性も考えないといけないな」


テオも同意した。


「なら、確実に言える部分と、考えられる理由を別々に書いた方がいい。理由の方は、まだ候補として残しておくべきだと思う」


メリルは二つの欄へ書き込みを始めた。


アリシアはその様子を見守りながら、胸の奥に小さな温かさを感じた。


自分が気づいたことを、四人が一緒に考えてくれた。


すぐに正解が分かったわけではない。


けれど、分からないことを分からないまま残すための言葉が、少しずつ見つかっていく。


◇


昼休みの食堂は、いつもより少し賑やかだった。


窓の外では雲が薄くなり、庭の石畳に残っていた水気もほとんど乾いている。厨房から運ばれてくる温かな料理の香りが広がり、長い机のあちこちで学生たちが授業の話や午後の予定について言葉を交わしていた。


五人は窓際の席へ集まり、それぞれの食事を並べた。


アリシアは温かなスープとパンを選び、ノアは足元で静かに丸くなっている。


食事を始めてしばらくすると、フィオナが午前の授業について話し始めた。


「今日、先生に聞かれた時、少し緊張したんだ。でも、途中で難しくなったら伝えたいって言えたのは、前の実技があったからだと思う」


メリルはスープの匙を置き、フィオナへ微笑みかけた。


「私も、あの時のことを思い出したよ。フィオナが早めに言ってくれたから、みんなで止められたんだもんね」


フィオナは少し照れたように笑った。


「でも、最初は本当に迷ったんだよ。自分が難しいって言ったら、みんなの練習を止めちゃうと思って」


その言葉に、エドガーは静かに頷いた。


「俺も、あの時は構造枠を維持することに集中していた。フィオナが言ってくれなければ、中央の負担が増えていることを、すぐには判断できなかったと思う」


テオは杯を置き、少し考えてから口を開いた。


「俺も右側を支えていたから、中央のことは報告を受けるまで分からなかった。だから、今ならあの停止は必要だったと思える。続けていたらどうなったかは分からないけど、分からないまま無理に続ける理由もなかった」


アリシアは四人の話を聞きながら、パンを小さくちぎった。


以前の実技では、フィオナが難しいと伝えたことで、五人は一度立ち止まった。


その時は、少し残念な気持ちもあった。


けれど、今はその経験が、次の授業で考える材料になっている。


難しい状態を正直に伝え、安全に止めたからこそ、落ち着いて振り返ることができたのだ。


アリシアは少し迷ってから、四人へ顔を向けた。


「……私、今日の授業で、少し安心したことがあるの」


メリルが優しく頷いた。


「うん。何?」


「……見えなかったことを、ちゃんと伝えていいんだって分かったこと。私、何かを見落としたら、役に立てなかったって思われるんじゃないかって、少し怖かったから」


その言葉に、メリルの表情が柔らかくなった。


エドガーもテオも、すぐには返事をしなかった。


フィオナはアリシアの気持ちを考えるように、少しだけ視線を落とした。


やがて、メリルが静かに口を開いた。


「アリシアが見えなかったことを言ってくれたら、私は助かると思う。だって、見えてないところが分かれば、次は誰がそこを見るか考えられるでしょう?」


アリシアは顔を上げた。


メリルは続けた。


「それに、私だって全部は見えないよ。昨日も左側ばっかり見てたし、今日の授業で考えるまで、そこまで気にしてなかったんだから」


エドガーは頷き、少し真剣な声で言った。


「俺も同じだ。構造枠を担当していると、全体を把握しているつもりになることがある。でも、実際にはほかの担当者の報告が必要だ。だから、見えなかった部分を隠される方が困る」


テオは穏やかに微笑んだ。


「俺たちは五人で一つの班なんだから、一人が全部を見なくてもいいと思う。ただ、誰も見ていない場所があるなら、それを知っておくことは大切だな」


フィオナも小さく頷いた。


「私も、中央で難しくなった時、みんなが聞いてくれて安心した。だから、アリシアが分からないことを言ってくれても、私は嫌だと思わないよ」


アリシアは四人の顔を順番に見つめた。


胸の奥にあった小さな不安が、ゆっくりほどけていく。


誰かの役に立ちたいという気持ちは、今も変わらない。


けれど、役に立つために、何でも分かっている必要はない。


分からないことを伝えることも、誰かを支える方法の一つなのだ。


「……ありがとう。私、少しずつだけど、ちゃんと言えるようになりたい」


アリシアがそう答えると、メリルは嬉しそうに笑った。


五人はその後も食事を続けながら、午後の授業について話し合った。


食堂の賑やかな声は変わらず続いていたが、アリシアにはその時間が、いつもより少し穏やかに感じられた。


◇


午後の授業が終わる頃には、空はすっかり晴れていた。


校舎の窓から差し込む日差しは柔らかく、廊下を歩く学生たちの影が床の上へ長く伸びている。授業を終えた学生たちは、それぞれの予定に合わせて教室を出ていき、廊下には楽しげな話し声と足音が重なっていた。


アリシアたちも鞄をまとめ、校舎の外へ向かった。


階段を下りる途中、フィオナが少し足を緩めた。


「ねえ、アリシア。今日の授業で話してたことなんだけど……」


アリシアは振り返り、フィオナの隣へ並んだ。


「……うん?」


フィオナは少し迷ったあと、穏やかに微笑んだ。


「見えなかったことを伝えるのって、勇気がいるよね。私も、前の実技で難しいって言うのが怖かったから、少し分かる気がする」


アリシアは静かに頷いた。


フィオナは階段の手すりへ軽く指を添え、続けた。


「でも、今日アリシアが先生に話してるのを聞いて、私ももう少し正直に言っていいんだって思えたの。だから、ありがとうって言いたかった」


アリシアは少し驚いて目を丸くした。


自分が何か特別なことをしたとは思っていなかった。


ただ、怖かったことを正直に話しただけだった。


それでも、その言葉がフィオナの気持ちを少し軽くしたのなら、嬉しかった。


「……私も、フィオナが前にちゃんと伝えてくれたから、今日のことを考えられたんだと思う」


フィオナは少し頬を赤くした。


「そっか。じゃあ、お互いさまだね」


アリシアは微笑んだ。


「……うん。お互いさま」


二人が階段を下り終えると、少し先で待っていたメリルが手を振った。


エドガーとテオも一緒にいる。


アリシアとフィオナは顔を見合わせ、小さく笑ってから三人の方へ歩き出した。


◇


校舎の外へ出ると、夕方の風が頬を撫でた。


庭の木々は少しずつ色を変え始めており、枝の間には淡い黄色や赤色の葉が混じっている。石畳の端には落ち葉が集まり、学生たちが通るたびに小さな音を立てていた。


メリルは空を見上げ、嬉しそうに言った。


「今日は午後から晴れてよかったね。朝はまだ地面が濡れてたから、帰る頃にはまた雨が降るのかと思ってた」


エドガーは頷き、鞄の位置を直した。


「明日も晴れるといいな。次の実技の予定はまだ聞いていないが、外で確認する課題があるなら、足元が乾いている方が安全だ」


テオは少し笑った。


「エドガーは、もう次の実技のことを考えてるのか」


「準備できることはしておきたいだけだ。もちろん、内容が分からないうちから勝手に練習するつもりはない」


その返事に、メリルが楽しそうに笑った。


アリシアも少しだけ頬を緩めた。


以前なら、こうした会話の中へ入ることが難しかった。


けれど、今は聞いているだけでも安心できる。


無理に話さなくても、誰かが置いていくわけではない。


自分の言葉が見つかった時には、みんなが待ってくれる。


五人は校舎の前でしばらく話したあと、それぞれの帰り道へ向かった。


アリシアはノアと一緒に、生活観測区画へ続く通路を歩き始めた。


◇


帰り道、ノアはアリシアの隣を歩きながら、少しだけ目を細めた。


「今日は、ずいぶん真面目な授業だったみてえだな」


アリシアは頷いた。


「……うん。記録のことを考えたの。見えたことと、分からないことを分けて書く練習」


「ほう。で、お前は何を見つけた?」


アリシアは少し考えた。


今日の授業で学んだことは、ひとつではなかった。


観察した範囲を明確にすること。


見えたことと考えられる理由を分けること。


記録した人を責めずに、不足している情報を確認すること。


そして、見えなかったことを正直に伝えること。


「……見えなかったことも、大事なんだって分かった」


ノアは少しだけ耳を動かした。


「当たり前だろ。見えなかったものを見えたことにしたら、あとで面倒なことになる」


アリシアは小さく笑った。


「……ノアは、いつも簡単に言うね」


「簡単なことを難しく考えすぎるのが、お前の悪い癖だからな」


その言い方に、アリシアは少し頬を膨らませた。


ノアは気にする様子もなく、尻尾をゆっくり動かした。


「だが、今日の話は悪くねえ。見えなかったことを言えるなら、誰かがそこを見てくれるかもしれねえからな」


アリシアは静かに頷いた。


その言葉は、今日メリルたちが話してくれたことと重なっていた。


一人で全部を見る必要はない。


分からない場所があれば、誰かに伝えればいい。


誰かが難しい時には、相談して支える方法を考えればいい。


それは、研究の結果を急いで解釈しないことにも、少し似ている気がした。


けれど、アリシアはそこで考えるのを止めた。


今は学院から帰る途中だった。


研究の新しい計画が決まったわけではないし、今日の授業をそのまま研究の答えにすることもできない。


ただ、今日学んだことを、これからの自分の行動へ少しずつ生かしていけばいい。


「……ノア。私、今日はちょっと嬉しかった」


ノアは顔を上げた。


「何がだ?」


「……みんなが、分からないことを言ってもいいって言ってくれたこと。私も、みんなの役に立てるかもしれないって思えたから」


ノアはしばらく黙っていた。


それから、少しだけ口元を緩めたように見えた。


「そりゃよかったな。だが、役に立とうとして無理すんなよ。お前が倒れたら、今度はそいつらが心配するんだからな」


アリシアは小さく笑った。


「……うん。分かってる」


二人は並んで歩き続けた。


生活観測区画の建物が見えてくる頃には、夕方の光が庭の石畳を淡く染めていた。


◇


談話室へ入ると、子供が机の上に木の駒を並べていた。


昨日作った道は、曲がり角と分かれ道を残したまま、少しだけ形を変えている。子供はアリシアの姿に気づくと、嬉しそうに顔を上げた。


「アリシア! おかえり!」


「……ただいま。今日も道を作ってたんだね」


「うん! でも、今日はちょっと困ってるの」


子供は机の上の道を指さした。


分かれ道の先に、小さな隙間ができている。


木の駒を通そうとすると、そこで引っかかってしまうらしい。


アリシアは隣へ座り、道の形を眺めた。


「……ここが、うまくつながらないんだね」


「うん。昨日はできたのに、今日は変なところで止まっちゃうの」


子供は少し不満そうに頬を膨らませた。


アリシアは手を伸ばしかけたが、すぐに止めた。


昨日も、子供は自分で道を直したがっていた。


今日も同じとは限らない。


だから、まず尋ねることにした。


「……一緒に考える? それとも、もう少し自分でやってみる?」


子供は少し考えた。


それから、木の駒を手に取った。


「もう一回、自分でやってみる。できなかったら、アリシアに聞くね」


アリシアは微笑んだ。


「……うん。待ってるね」


子供は道の隙間をじっと見つめ、板の位置を少しずつ動かし始めた。


最初はうまくいかなかったが、何度か試すうちに、隙間が少し狭くなった。


それでも、駒は途中で引っかかってしまう。


子供はしばらく考え込んだあと、アリシアへ顔を向けた。


「……ねえ、アリシア。ここ、どうしたらいいと思う?」


アリシアは机の上の道を見つめた。


すぐに板を動かせば、通れるようになるかもしれない。


けれど、子供がどこを直したいと思っているのか、まだ分からなかった。


「……この道は、まっすぐにしたい? それとも、曲がったままがいい?」


子供は少し考え、曲がり角を指さした。


「曲がったままがいい。こっちから来たら、ぐるっと回れるようにしたいの」


アリシアは頷いた。


「……そっか。じゃあ、ここを少しだけ広くしてみるのはどうかな?」


子供は板を見つめ直した。


それから、アリシアが示した場所を少し動かした。


今度は、駒がゆっくり隙間を通り抜けた。


「できた!」


子供は嬉しそうに声を上げた。


アリシアも思わず笑顔になった。


「……うん。ちゃんと通れたね」


子供は何度も駒を通し、満足そうに頷いた。


アリシアはその様子を見守りながら、今日の授業で学んだことを思い出した。


見えなかったことを伝える。


分からないことを尋ねる。


相手が何をしたいのかを確かめる。


それだけで、すぐにすべてが解決するわけではない。


けれど、誰かと一緒に考えるための道は、少しずつ開けていくのかもしれない。


談話室の窓際では、顔のない存在が静かに過ごしていた。


胸元に並ぶ十一の光は、今日も穏やかな明滅を続けている。


厚い布に覆われた木箱も、決められた場所に置かれたままだった。


アリシアはその方へ無理に近づくことなく、目の前の道へ視線を戻した。


今は、子供と一緒に遊ぶ時間だった。


◇


夜、自室へ戻ったアリシアは、机の前へ座った。


今日の授業で使った帳面を開くと、午前中に書いた二つの言葉が目に入った。


『変化がなかった』


『変化を確認できなかった』


アリシアはその文字をしばらく見つめた。


似ているようで、意味の違う二つの言葉。


今日の授業では、その違いを何度も考えた。


見えなかったことを、見えたことにしない。


分からなかったことを、分かったことにしない。


そして、分からないことを伝えた人を責めない。


アリシアは日記帳を開き、ゆっくり筆を走らせた。


『今日は学院で、観察したことと、考えられる理由を分ける授業を受けた。見えなかったことを正直に伝えるのは、少し勇気がいると思った。』


『でも、メリルたちは、分からないことを言ってもいいと話してくれた。フィオナも、前の実技で難しいと伝えた時のことを話してくれた。』


『一人で全部を見る必要はない。見えなかった場所があるなら、それを伝えて、みんなで考えればいい。』


そこまで書くと、アリシアは筆を止めた。


研究の帳面は、机の端に閉じたまま置かれている。


新しい独立前向き系列は、決められた二件で終了している。


一件目は東側と西側の確認が一致し、二件目は食い違った。


その結果から、六つ目の神器の仕組みが分かったわけではない。


けれど、今日のアリシアは、そのことを以前ほど不安に感じなかった。


分からないことを、分からないまま大切に残しておく。


そのために、正確に見て、正確に伝える。


そして、必要な時には誰かと一緒に考える。


アリシアは日記帳へ、もう一行を書き加えた。


『見えなかったことを伝えるのも、誰かを支える勇気なのかもしれない。』


その文字を見つめ、アリシアは少しだけ微笑んだ。


寝台の上では、ノアが丸くなっている。


「おい。今日はもう寝るぞ」


アリシアは日記帳を閉じた。


「……うん。もう終わったよ」


「今日は研究の帳面を開かなかったのか?」


「……うん。今日は、学院で学んだことを書いた」


ノアは満足そうに鼻を鳴らした。


「そりゃ結構。少しは休み方を覚えてきたじゃねえか」


アリシアは小さく笑った。


「……ノア、最近そればっかり言ってる」


「お前がちゃんと休めるようになるまで、何度でも言ってやるよ」


その返事に、アリシアは少しだけ頬を緩めた。


灯りを落とし、寝台へ入る。


窓の外では、夜風が静かに木々を揺らしていた。


研究の答えは、まだ出ていない。


六つ目の神器の正体も、東西の判定が食い違った理由も、分からないままだ。


けれど、今日のアリシアは、分からないことを怖がるだけではなかった。


見えなかったことを伝えられる。


難しい時には、助けを求められる。


誰かが困っている時には、相手の望みを確かめてから手を差し伸べられる。


そうした小さな勇気を、少しずつ積み重ねていける。


アリシアは隣で丸くなったノアへ視線を向けた。


「……おやすみ、ノア」


「おう。明日もちゃんと朝飯食えよ」


アリシアは小さく頷き、静かに目を閉じた。


今日、何か大きな発見をしたわけではない。


それでも、見えなかったことを正直に伝え、誰かと一緒に考えられた一日は、確かに大切な時間だった。


夜の静けさの中で、アリシアはゆっくり眠りへ落ちていった。


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