第290話 帰る場所があるから、知らない明日へ歩いていける
朝の光が窓辺へ届く頃、アリシアは小さな物音で目を覚ました。
昨夜のうちに風が強くなったのだろう。窓の外では木々の枝がゆっくり揺れ、時折、葉の擦れ合う音が部屋の中まで聞こえてくる。空はよく晴れていたが、庭の石畳には薄い影が重なり、朝の冷たい空気が窓枠の隙間からわずかに入り込んでいた。
寝台の足元では、ノアが前足を折り畳み、尻尾を身体へ巻きつけている。
アリシアは掛布を肩まで引き上げたまま、しばらく天井を見つめていた。
昨日は学院で観察記録の扱いについて学び、友人たちと、分からないことを正直に伝える大切さについて話した。帰ってからは生活観測区画の子供と木の駒の道を直し、夜にはその出来事を日記へ書き残している。
何か大きな事件が起きたわけではなかった。
それでも、昨日の一日を思い返すと、以前よりも自分の気持ちを落ち着いて受け止められたように思う。
(……見えなかったことも、言っていいんだ)
その考えは、眠っている間にも消えなかったらしい。
アリシアは胸元へ手を添え、いつものように身体の状態を確かめた。痛みや息苦しさはなく、胸の冷感も感じられない。頭痛や吐き気、めまいもなく、身体を動かしてみても、特別な重さはなかった。
ただ、今日は少しだけ緊張していた。
何か予定が決まっているわけではない。研究区画から新しい試行の連絡があったわけでもなく、学院で特別な実技が行われるという話も聞いていない。
それなのに、胸の奥に小さな落ち着かなさが残っていた。
(……どうしてだろう)
理由を探そうとして、アリシアは途中で考えるのを止めた。
昨日、分からないことを無理に説明しなくてもいいと学んだばかりだった。
自分の気持ちについても、同じなのかもしれない。
何となく緊張している朝があっても、それだけで悪いことが起きるとは限らない。
「おい、アリシア。起きてるなら、そろそろ支度しろよ」
ノアが片目を開け、寝台の端から顔を上げた。
「……おはよう、ノア」
「おう。今日はまた、ずいぶん静かな朝だな。何か考え込んでたのか?」
アリシアは少し迷ってから頷いた。
「……うん。でも、何を考えてるのか、自分でもよく分からないの」
ノアはしばらく彼女を見つめたあと、前足を伸ばして欠伸をした。
「なら、分からねえままでいいだろ。朝から自分の頭の中を全部調べる必要なんざねえよ」
「……でも、少し緊張してるみたいで」
「緊張してるからって、必ず理由が一つあるとは限らねえ。寝起きでぼんやりしてるだけかもしれねえし、昨日の疲れが少し残ってるのかもしれねえ。気になるなら様子を見りゃいいが、今ここで答えを出そうとするな」
アリシアは目を瞬かせた。
ノアの言い方は相変わらずぶっきらぼうだったが、言われてみればそのとおりだった。
何かを感じた時、その理由をすぐに突き止めなければならないわけではない。
気になることがあれば、自分の状態を確かめる。
必要なら誰かに相談する。
それでも分からなければ、分からないまま少し待ってみる。
アリシアはゆっくり息を吐いた。
「……そうだね。今日は、まず朝ご飯を食べてから考える」
「最初からそうしろ。腹が減ってる時に難しいことを考えたって、ろくな答えは出ねえぞ」
ノアは満足そうに尻尾を揺らした。
アリシアは思わず笑ってしまった。
窓の外では、朝の風がもう一度木々を揺らしていた。
◇
談話室へ入ると、子供は窓際の机で木の駒を並べていた。
朝食の準備はすでに整っていたが、まだ全員が席につく前だったため、子供は昨日作った道を眺めながら、何かを考えているらしい。
机の上には、曲がり角のある道と、その途中に設けられた休憩場所が残されている。
昨日、うまくつながらなかった部分は子供自身が直し、木の駒が通れるようになった。
その先には、まだ何も置かれていない空間がある。
アリシアが近づくと、子供は嬉しそうに顔を上げた。
「アリシア、おはよう! 今日はね、おうちを作ろうと思うの」
「……おはよう。昨日、道の先に作りたいって言ってたね」
「うん。でも、どんなおうちにするか、まだ決めてないんだ」
子供は机の端に置かれた木片を指さした。
四角い板や細長い棒、屋根に使えそうな三角形の木片が並んでいる。
どれも特別な魔導具ではなく、子供が安全に遊べるように整えられた木のおもちゃだった。
アリシアは隣へ腰を下ろし、木片を眺めた。
「……どんなおうちがいいかな」
子供は少し考え込んだ。
「うーん……大きいおうちもいいけど、小さいおうちもかわいいよね。でも、小さすぎると木の駒が入れないかもしれない」
アリシアは微笑んだ。
「……じゃあ、まず駒が入れるくらいの大きさを考えてみる?」
子供は嬉しそうに頷いた。
けれど、すぐに木片を組み立て始めることはしなかった。
子供は木の駒を一つ手に取り、道の休憩場所へ置いた。
「ねえ、アリシア。この子、おうちに帰る途中なのかな?」
アリシアは少し驚いた。
昨日までは、駒が道を通れるかどうかを考えていた。
今日は、その駒がどこから来て、どこへ向かうのかを想像しているらしい。
「……そうかもしれないね。どこかへ出かけて、帰ってくる途中なのかな」
「じゃあ、おうちには誰か待ってるのかな?」
子供は木の駒を指先で動かしながら、真剣な顔で考えていた。
アリシアはその横顔を見つめた。
子供が何を想像しているのか、すべては分からない。
けれど、帰る場所や待っている人について考えていることは伝わってきた。
「……待ってる人がいてもいいし、一人で帰ってきてもいいと思うよ」
子供は目を瞬かせた。
「一人でもいいの?」
「……うん。誰かと一緒に暮らすおうちでもいいし、一人で安心して休めるおうちでもいいと思う。どんなおうちにしたいかは、作る人が決めていいんじゃないかな」
子供はしばらく考えたあと、嬉しそうに笑った。
「じゃあね、どっちでもいいおうちにする!」
アリシアは少し首を傾げた。
「……どっちでもいいおうち?」
「うん! 一人で帰ってきても休めるし、誰かと一緒に帰ってきても入れるおうち!」
その言葉に、アリシアは胸の奥が温かくなるのを感じた。
子供は木の駒を休憩場所へ戻し、朝食の席へ向かった。
アリシアも立ち上がりながら、机の上の道を振り返った。
まだ完成していない小さな家。
その形を考えるだけでも、子供は楽しそうだった。
(……帰る場所、か)
アリシアはふと、山奥で祖父と暮らしていた頃の家を思い出した。
朝になると聞こえてきた鳥の声。
薪の匂いが残る部屋。
窓辺に差し込む光と、いつも近くにいたノア。
今は中央学園で暮らし、生活観測区画にも大切な人たちがいる。
あの家へ帰る日がいつになるのかは、まだ分からない。
けれど、帰る場所を思い出すことと、今いる場所を大切にすることは、きっと両立できる。
アリシアはその考えを胸に残し、朝食の席へ向かった。
◇
学院へ着く頃には、朝の風も少し穏やかになっていた。
校舎の前には学生たちが集まり、授業の開始を待ちながら話をしている。庭の木々は少しずつ秋の色を深め、石畳の端には黄色くなった葉がいくつも落ちていた。
アリシアはノアと並んで歩きながら、今朝の子供の言葉を思い返していた。
一人で帰ってきても休める。
誰かと一緒に帰ってきても入れる。
そんな家を作りたいと、子供は言っていた。
アリシアはその考えが好きだった。
誰かと一緒にいることも、一人で過ごすことも、どちらか一方だけが正しいわけではない。
人と話すのが苦手な自分にとって、その違いはとても大切なことのように思えた。
「おい、前を見ろよ」
ノアの声に、アリシアははっとして顔を上げた。
少し先では、学生たちが立ち止まって話している。
アリシアは慌てて歩調を緩め、ぶつからないように道の端へ寄った。
「……ごめん、ノア」
「俺に謝る必要はねえ。考え事するのは勝手だが、歩く時は足元も見ろ」
アリシアは頷いた。
ノアは呆れたように尻尾を振ったが、それ以上は何も言わなかった。
教室へ入ると、メリルが窓際の席で帳面を広げていた。
「アリシア、おはよう! 今日は少し早いね」
「……おはよう、メリル。うん、朝の支度が早く終わったの」
メリルは嬉しそうに頷き、隣の席を空けてくれた。
アリシアが鞄を置いていると、フィオナも教室へ入ってきた。
彼女は二人の姿を見つけると、柔らかく微笑んだ。
「おはよう。昨日の授業、家に帰ってから少し見直したんだけど、やっぱり観察した範囲を分けて書くのって難しいね」
メリルは頷いた。
「分かる。私も、何となく見えたことを全部まとめて書いちゃいそうになるんだよね」
アリシアは二人の話を聞きながら、昨日の記録を思い出した。
見えたことと、考えられる理由を分ける。
確認できた範囲を明確にする。
そして、分からないことを分かったことにしない。
その考え方は、少しずつ自分の中へ馴染んできていた。
「……私も、まだ難しいと思う。でも、昨日みたいにみんなで確認できると、少し安心する」
フィオナは頷いた。
「うん。私もそう思う。自分だけで全部書こうとすると、間違えちゃいそうで怖いけど、みんなで見直せるなら少し気が楽になる」
メリルは二人の顔を見比べ、嬉しそうに笑った。
「じゃあ、今日も分からないところがあったら相談しようね」
アリシアとフィオナは頷いた。
少し遅れてエドガーとテオも教室へ入り、五人は自然に集まった。
朝の鐘が鳴るまでの短い時間、彼らは昨日の授業について話し合いながら、今日の準備を進めた。
◇
午前の授業では、魔法を扱う際の判断について学ぶことになった。
教師は黒板へ三つの言葉を書いた。
『続ける』
『止める』
『相談する』
教室の学生たちは、その文字を見つめながら静かに耳を傾けていた。
教師は黒板の前へ立ち、落ち着いた声で説明を始めた。
「魔法を使う時、私たちはつい、成功させることを目標に考えがちです。もちろん、技術を身につけるためには、練習を続けることも大切です。しかし、状況によっては、続けるよりも止める方が適切な場合があります」
教師は一度言葉を区切り、学生たちを見渡した。
「そして、続けるか止めるかを、その場で一人だけで決められないこともあります。その時に必要なのが、相談するという選択です」
アリシアは静かに頷いた。
以前の防壁実技で、五人は一度停止した。
フィオナが中央の負担を伝え、全員で状況を確認したうえで、無理に続けないことを選んだ。
その経験が、今日の授業の内容と重なっていた。
教師は黒板へ簡単な状況を書き加えた。
『班で魔法を維持している時、一人が負担の増加を感じた。しかし、ほかの担当者には明確な異常が見えていない。』
「この場合、どのように行動するべきでしょうか。まずは班ごとに話し合ってください」
教室のあちこちで、学生たちが机を寄せ始めた。
アリシアたちも五人で顔を見合わせた。
エドガーは黒板を見つめ、少し考えてから口を開いた。
「負担を感じた本人が申告しているなら、ほかの担当者に異常が見えなくても、その報告を無視して続けるべきではないと思う」
テオは頷いた。
「そうだな。見えないから問題がないとは限らないし、負担が増えているなら、その時点で確認が必要だ」
メリルは少し考え込んだあと、フィオナへ顔を向けた。
「前の実技の時も、フィオナが言ってくれたから止められたよね。あの時、私たちが『まだ大丈夫そうだから続けよう』って言ってたら、フィオナはもっと困ってたと思う」
フィオナは少しだけ頬を赤くした。
「……うん。あの時は、自分が難しいって言っていいのか迷ってたから、みんなが止めてくれて安心した」
アリシアは四人の話を聞きながら、胸の奥が少し温かくなるのを感じた。
以前の実技では、停止することが失敗のように思えた瞬間もあった。
けれど、今は違う。
安全に止められたことが、次の判断へつながっている。
「……私も、止めて確認した方がいいと思う。負担を感じてる人がいるなら、その人の言葉を大切にしたいから」
エドガーは頷いた。
「そうだな。ただ、止める時にも手順が必要だ。急に魔力を切れば別の危険が生じる場合もあるから、教師の指示や決められた停止方法に従うべきだと思う」
テオも同意した。
「つまり、負担の申告を受けたら、まず安全な停止を優先して、その後に状況を確認する。続けるかどうかは、確認が済んでから判断するということだな」
メリルは帳面へ意見を書き留めた。
フィオナはその文字を見つめ、静かに頷いた。
アリシアは、五人が同じ方向を見ていることに安心した。
誰かが無理をしてまで成功させる必要はない。
困った時には、困ったと言っていい。
そして、その言葉を聞いた人たちは、まず安全を考える。
それが、今の五人にとって大切な約束になっていた。
◇
話し合いの時間が終わると、教師は各班の意見を聞いて回った。
ある班は、まず負担を感じた人へ詳しく尋ねるべきだと答えた。
別の班は、ほかの担当者に異常が見えていないなら、少しだけ出力を下げて様子を見る方法を提案した。
教師はそれぞれの意見を聞いたあと、黒板へ戻った。
「皆さん、よく考えています。ただし、実際の魔法の運用では、危険の種類や術式の性質によって、適切な停止方法が変わります。今日の例では、負担の申告があった時点で、あらかじめ定めた安全手順に従うことが必要です」
教師は黒板の三つの言葉を指さした。
「続けることだけが成果ではありません。止める判断ができたことも、相談して危険を避けられたことも、重要な技術です」
アリシアはその言葉を帳面へ書き留めた。
以前なら、止めることを選んだ自分を、少し弱いと思っていたかもしれない。
けれど、今はそう思わない。
止めることにも勇気がいる。
相談することにも勇気がいる。
そして、誰かの言葉を信じて立ち止まることにも、勇気が必要なのだ。
授業の終わりが近づくと、教師は学生たちへ小さな課題を出した。
「今日の内容を踏まえて、自分がこれから大切にしたい判断を一つ書いてください。難しい言葉でまとめる必要はありません。自分の言葉で考えてみましょう」
アリシアは帳面を開き、少し考えた。
続ける。
止める。
相談する。
どれも大切な選択だった。
けれど、今の自分が特に忘れたくないことは、少し違うところにある気がした。
アリシアは筆を取り、ゆっくり書き始めた。
『自分だけで決められない時は、分からないことを隠さず、誰かに相談する。』
その文字を見つめ、アリシアは静かに頷いた。
まだ緊張することはある。
誰かに助けを求める時、言葉がうまく出てこないこともあるだろう。
それでも、少しずつ練習していけばいい。
今日の授業は、そのための小さな一歩になったように思えた。
◇
昼休みになると、五人は食堂の窓際へ集まった。
外では風が少し強くなっていたが、室内には温かな料理の香りが広がり、学生たちの話し声が穏やかに響いている。
メリルは食事を始める前に、午前の授業で書いた自分の言葉を見直していた。
「私ね、『誰かが困ってる時は、ちゃんと聞く』って書いたんだ」
フィオナは嬉しそうに微笑んだ。
「メリルらしいね。私も似たことを書いたよ。『難しい時は、早めに伝える』って」
エドガーは頷き、自分の帳面を閉じた。
「俺は『安全な停止を判断できるように、事前の手順を確認する』と書いた。実技では、止めようと思っても方法が分からなければ困るからな」
テオは少し笑った。
「俺は『自分の担当範囲だけで全体を判断しない』だな。前の実技でも、右側から見えないことがあったし」
四人の視線が、自然にアリシアへ向けられた。
アリシアは少し頬を赤くしたが、今日は目を逸らさなかった。
「……私は、自分だけで決められない時は、分からないことを隠さず相談するって書いたの」
メリルは嬉しそうに笑った。
「いいね。それ、すごく大事だと思う」
フィオナも頷いた。
「うん。私も、前の実技で相談できてよかったと思ってるから」
エドガーは四人の顔を見渡し、静かに口を開いた。
「それぞれ違うことを書いているけど、つながっている部分も多いな。誰かが難しいと伝えた時、それを聞く人がいて、安全な方法を考えられることが必要なんだと思う」
テオは頷いた。
「一人で全部できなくても、班としてできることはあるからな」
アリシアは四人の言葉を聞きながら、胸の奥が温かくなるのを感じた。
以前の自分は、闇の力を持っていることを怖がられないか、誰かの役に立てるのかと、いつも不安に思っていた。
けれど、今はこうして一緒に学ぶ友人たちがいる。
自分の言葉を聞いてくれる人たちがいる。
そして、自分も誰かの言葉を聞き、必要な時には支えられるようになりたいと思っている。
それは、神器の力だけでは得られなかったものだった。
(……私、少しずつ変われてるのかな)
アリシアは心の中でそう呟いた。
すぐに答えは出なかった。
けれど、今はその問いを急いで確かめなくてもいいと思えた。
◇
午後の授業が終わる頃には、空に薄い雲が広がり始めていた。
校舎の窓から差し込む光は少し柔らかくなり、廊下には帰り支度をする学生たちの声が響いている。
アリシアは鞄をまとめ、友人たちと一緒に教室を出た。
階段を下りる途中、フィオナが少し足を緩めた。
「ねえ、アリシア。今日の授業で書いたことなんだけど……」
アリシアは振り返った。
「……うん?」
フィオナは少し迷ったあと、穏やかに微笑んだ。
「私、前の実技で難しいって言えたのは、アリシアたちが聞いてくれるって思えたからなんだ。だから、今日の授業でまたそのことを考えられてよかった」
アリシアは少し驚いた。
自分が特別なことをしたとは思っていなかった。
ただ、フィオナの言葉を聞き、必要な時に支えようとしただけだった。
けれど、そのことがフィオナの安心につながっていたのなら、嬉しかった。
「……私も、フィオナがちゃんと伝えてくれたから、止めることを怖がらなくていいんだって思えたの」
フィオナは少し頬を赤くした。
「そっか。じゃあ、私たち、お互いに助けてもらってたんだね」
アリシアは微笑んだ。
「……うん。そうだと思う」
二人は顔を見合わせ、小さく笑った。
少し先では、メリルがエドガーとテオを呼び止め、明日の授業の予定について話している。
アリシアとフィオナもその輪へ加わり、五人は校舎の外へ向かった。
庭の木々は風に揺れ、落ち葉が石畳の上をゆっくり転がっていた。
アリシアはその景色を眺めながら、今日の授業で書いた言葉を思い返した。
分からないことを隠さず、相談する。
その小さな約束を、これからも大切にしていきたいと思った。
◇
生活観測区画へ戻ると、談話室には夕方の光が差し込んでいた。
子供は机の前に座り、朝から考えていた家の形を、木片を並べながら試している。
アリシアが扉を開けると、子供はすぐに顔を上げた。
「アリシア! おかえり!」
「……ただいま。おうち、考えてたんだね」
「うん! でも、まだ作ってないの。アリシアと一緒に考えたかったから」
アリシアは少しだけ胸が温かくなった。
けれど、子供が自分を待っていてくれたことを、当然のように受け取ってはいけないとも思った。
「……待っててくれたんだね。ありがとう。でも、私がいない時に作ってもいいんだよ」
子供は少し驚いたように目を瞬かせた。
「いいの?」
「……うん。これは、あなたが作ってる道だから。私と一緒に考えたい時は一緒に考えればいいし、自分で作りたい時は、自分で作ってもいいと思う」
子供はしばらく考えたあと、嬉しそうに笑った。
「じゃあ、今日は一緒に作りたい!」
アリシアは頷いた。
「……うん。私も、今日は一緒に作りたいな」
子供は嬉しそうに木片を並べ始めた。
アリシアは隣へ座り、机の上の道を眺めた。
休憩場所から伸びた道は、少し曲がりながら机の端へ続いている。
その先には、家を作るための空間が残されていた。
子供は四角い木片を二つ並べ、壁のように立てようとした。
けれど、片方の木片が少し傾き、すぐに倒れてしまう。
「あれ……?」
子供は首を傾げ、もう一度試した。
今度は少し長く立っていたが、屋根に使おうとした三角形の木片を乗せると、また倒れてしまった。
子供は少し困ったように眉を寄せた。
「うーん……おうちって、難しいね」
アリシアはすぐに手を伸ばさず、子供の様子を見守った。
昨日、道を直した時も、子供はまず自分で考えたいと言っていた。
今日も、同じかもしれない。
「……どうしたい?」
アリシアが尋ねると、子供は木片を見つめたまま答えた。
「ちゃんと立つおうちにしたい。でも、どうしたらいいか分からないの」
アリシアは少し考えた。
木片を立てるだけでは、屋根の重さを支えにくい。
けれど、子供が作りたい家の形を変えてしまうのも違う気がした。
「……じゃあ、壁を少し広くしてみるのはどうかな。屋根を乗せる前に、倒れないか確かめてみよう」
子供は頷き、木片の位置を少し変えた。
アリシアは必要な時だけ手を添え、子供が自分で形を整えられるように待った。
何度か試すうちに、壁は少しずつ安定していった。
子供は嬉しそうに屋根の木片を持ち上げた。
「じゃあ、乗せてみる!」
アリシアは頷いた。
「……うん。ゆっくりね」
子供は慎重に屋根を乗せた。
今度は、家が倒れなかった。
「できた!」
子供は嬉しそうに声を上げ、両手を小さく持ち上げた。
アリシアも思わず笑顔になった。
「……うん。ちゃんと立ったね」
子供は家の周りを眺め、少し考え込んだ。
「でも、入口がないね」
アリシアは目を瞬かせた。
確かに、壁を安定させることばかり考えていたため、木の駒が入る場所を作っていなかった。
子供は少し困ったように笑った。
「おうちができたのに、帰れないね」
アリシアも小さく笑った。
「……そうだね。じゃあ、入口を作ろうか」
子供は頷き、壁の一部を少し動かした。
けれど、今度は屋根が傾きそうになった。
アリシアは慌てて支えようとしたが、子供が先に手を伸ばした。
「大丈夫! もう一回考えてみる!」
アリシアはその言葉を聞き、手を止めた。
子供は真剣な顔で木片を見つめ、少しずつ位置を変えていく。
アリシアは隣で待ちながら、必要な時だけ声を掛けた。
やがて、壁の間に小さな隙間ができた。
木の駒を通してみると、少し狭かったが、ゆっくり動かせば中へ入ることができた。
子供は嬉しそうに笑った。
「入れた!」
アリシアも頷いた。
「……うん。ちゃんと帰れたね」
子供は木の駒を家の中へ置き、しばらく眺めていた。
それから、ふと顔を上げた。
「ねえ、アリシア。このおうち、名前をつけてもいい?」
アリシアは微笑んだ。
「……うん。どんな名前にしたいの?」
子供は少し考え込んだ。
窓の外では、夕方の風が木々を揺らしている。
談話室の奥では、職員が静かに片づけを進めていた。
顔のない存在は、いつもの場所で穏やかに過ごしている。
子供はその様子を一度見つめ、それから机の上の小さな家へ視線を戻した。
「……帰ってきてもいいおうち、って名前がいい」
アリシアは少し驚いた。
子供は照れくさそうに笑った。
「だって、一人でも帰ってきていいし、誰かと一緒でもいいでしょう? 疲れたら休んで、また出かけてもいいし」
アリシアは胸の奥が温かくなるのを感じた。
その名前には、子供が今日まで考えてきたことが詰まっているように思えた。
道を作り、休む場所を作り、その先へ家を作った。
どこへ行くかを決める前に、帰ってきてもいい場所を作ったのだ。
「……素敵な名前だと思う」
子供は嬉しそうに笑った。
「じゃあ、決まり!」
アリシアは頷いた。
机の上には、小さな木の家が立っている。
特別に立派な家ではない。
壁は少し曲がっているし、屋根も左右で高さが違う。
けれど、木の駒が帰ってこられる入口があり、休める場所がある。
それだけで、十分に家らしく見えた。
◇
しばらくして、子供は木の駒を道の端へ置いた。
休憩場所から家までの道を、ゆっくり進ませていく。
途中で少し曲がり、狭い場所を通り抜け、最後に家の入口へたどり着いた。
子供は満足そうに頷いた。
「帰ってきた!」
アリシアは微笑んだ。
「……うん。おかえり、だね」
子供は木の駒を家の中へ置き、少しだけ考え込んだ。
「ねえ、アリシア。明日は、このおうちからまた出かける道を作ってもいいかな?」
アリシアは頷いた。
「……うん。いいと思うよ」
「でも、どこへ行くかはまだ決めてないの」
子供は少し困ったように笑った。
アリシアはその表情を見つめ、穏やかに答えた。
「……まだ決めなくてもいいんじゃないかな。明日、作りたくなった時に考えてもいいと思う」
子供は少し考えたあと、嬉しそうに頷いた。
「うん! じゃあ、今日はここまでにする!」
アリシアは微笑んだ。
子供は木の駒を家の中へ置いたまま、机の上の道を満足そうに眺めている。
その姿を見ながら、アリシアは自分の胸の奥にも、少し似た気持ちがあることに気づいた。
研究の答えは、まだ分からない。
六つ目の神器の正体も、東西の判定が食い違った理由も、今すぐには説明できない。
けれど、分からないままでも、学院へ通い、友人たちと学び、子供と遊ぶことはできる。
そして、疲れた時には休める場所がある。
そのことが、今のアリシアにはとても大切に思えた。
窓際では、顔のない存在が静かに過ごしていた。
胸元に並ぶ十一の光は、今日も穏やかな明滅を続けている。
覆われた木箱も、決められた場所に置かれたままだった。
アリシアはその方へ視線を向けたが、何かを確かめようとはしなかった。
今は、子供が作った家を一緒に眺める時間だった。
◇
夕食を終えたあと、アリシアは自室へ戻った。
机の上には学院の帳面と研究の記録が分けて置かれている。
アリシアは椅子へ座り、まず学院の帳面を開いた。
今日の授業で書いた三つの言葉が目に入る。
『続ける』
『止める』
『相談する』
アリシアはその文字をしばらく見つめた。
どれも大切な選択だった。
以前なら、続けることだけが正しいと思っていたかもしれない。
何かを途中で止めることは、失敗することのように感じていた。
誰かに相談することも、自分だけではできないと認めるようで、少し怖かった。
けれど、今は違う。
止めることにも意味がある。
相談することにも意味がある。
そして、休んだあとにまた進むこともできる。
アリシアは帳面を閉じ、日記帳を開いた。
今日の出来事を、ゆっくり書き始める。
『今日は学院で、続けること、止めること、相談することについて学んだ。どれも大切な選択で、状況によって必要な判断が違うと分かった。』
『メリルたちと話して、難しい時には早めに伝えること、誰かの言葉を聞くこと、安全な方法を考えることが大切だと思った。』
『帰ってからは、子供と一緒に木の駒の道の先へおうちを作った。壁が倒れたり、入口がなくなったりしたけれど、少しずつ直して完成した。』
『おうちの名前は、「帰ってきてもいいおうち」になった。』
アリシアはそこで筆を止めた。
子供がつけた名前を思い返すと、自然に微笑みが浮かんだ。
帰ってきてもいい場所。
疲れたら休める場所。
そして、また出かけたくなった時には、新しい道へ進める場所。
その考え方は、今の自分にも必要なものなのかもしれない。
アリシアは日記帳へ、最後の一行を書き加えた。
『帰る場所があるから、まだ知らない明日へも歩いていけるのかもしれない。』
その文字を見つめ、アリシアは静かに頷いた。
寝台の上では、ノアが丸くなっている。
「おい。今日はずいぶん長く書いてたな」
アリシアは日記帳を閉じた。
「……うん。今日は、書きたいことがたくさんあったの」
「ほう。研究のことか?」
アリシアは少しだけ首を振った。
「……今日は、学院のことと、子供と作ったおうちのこと」
ノアは片耳を動かした。
「おうち?」
「……うん。木の駒が帰ってこられるおうちを作ったの。名前は、『帰ってきてもいいおうち』なんだって」
ノアはしばらく黙っていた。
それから、少しだけ口元を緩めたように見えた。
「へえ。悪くねえ名前じゃねえか」
アリシアは嬉しそうに微笑んだ。
「……うん。私も、そう思う」
ノアは尻尾をゆっくり揺らした。
「で、お前は今日はちゃんと休めたのか?」
「……うん。学院から帰ってきて、少し休んでから遊んだよ」
「ならいい。明日も同じようにしろよ」
アリシアは小さく笑った。
「……ノア、最近そればっかり言ってる」
「お前が忘れそうになるから言ってんだよ。まあ、少しは覚えてきたみてえだけどな」
その言葉に、アリシアは頬を膨らませかけたが、すぐに笑ってしまった。
灯りを落とし、寝台へ入る。
窓の外では、夜風が静かに木々を揺らしていた。
今日も、研究の答えは出ていない。
六つ目の神器の正体も、東西の判定が食い違った理由も、分からないままだ。
けれど、今夜のアリシアは、その分からなさを急いで埋めようとはしなかった。
必要な時に立ち止まり、誰かに相談し、分からないことを正直に伝える。
そして、疲れた時には休む。
その小さな約束を守りながら、また明日へ進めばいい。
アリシアは隣で丸くなったノアへ視線を向けた。
「……おやすみ、ノア」
「おう。明日もちゃんと朝飯食えよ」
アリシアは静かに頷き、目を閉じた。
机の上には、今日書いた日記帳が置かれている。
その中には、子供が作った小さな家の名前が残されていた。
帰ってきてもいいおうち。
そこから伸びる道が、明日どこへ続くのかは、まだ分からない。
けれど、今はそれでいい。
帰る場所があることを知っているからこそ、まだ知らない道へも、少しずつ歩いていけるのだ。
夜の静けさの中で、アリシアはゆっくり眠りへ落ちていった。




