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『忘れられた六つ目の神器に選ばれました 〜人見知りな闇の少女と毒舌黒猫の学園英雄譚〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第288話 知らないまま待つことと、確かめるための小さな約束


翌朝、アリシアが目を覚ました時、窓の向こうには薄い雲が広がっていた。


雨が降り出しそうな暗さではなかったが、昨日のように朝日が部屋の奥まで届くこともない。庭の木々は静かな風に揺れ、窓枠の向こうで重なり合う葉の影が、まだ明かりをつけていない室内へ淡く映り込んでいた。


寝台の足元では、ノアが前足を伸ばして大きな欠伸をしている。


アリシアはすぐには起き上がらず、掛布の上に両手を置いたまま、自分の身体の状態を確かめた。頭痛や吐き気はなく、息苦しさも感じない。胸元に冷たい感覚は生じておらず、昨日の授業で使った魔力の影響が残っているような重さもなかった。


ただ、眠気とは少し違う気だるさがあった。


昨日は学院で授業を受け、友人たちと記録について話し合い、帰ってからは生活観測区画で子供と遊んだ。特別に無理をしたつもりはなかったが、一日を通して人と話す時間が長かったことを思い出すと、身体よりも気持ちの方が少し疲れているのかもしれなかった。


(……今日は、いつもより静かに過ごした方がいいかな)


そう考えていると、ノアが寝台の端から顔を覗かせた。


「起きてるなら、起きてるって顔をしろよ。目だけ開けて考え込んでると、また何か難しいことを始めたのかと思うだろ」


「……まだ、何も考えてないよ」


「今の間で考えてただろ」


アリシアは返事に困り、掛布を少しだけ引き上げた。


ノアは呆れたように尻尾を振ったが、急かして寝台から降ろそうとはしなかった。アリシアが自分の調子を確かめていることくらい、長く一緒に過ごしてきた黒猫には分かっているのだろう。


「今日は学院に行く前に、サラたちへ顔を見せるんだったか?」


「……うん。昨日の夜、今日の朝に少しだけ話せるかもしれないって聞いたの。でも、何か新しいことをするわけじゃないって」


「なら、話を聞くだけ聞いてこい。まだ決まってねえことを、勝手に決まったことにするなよ」


アリシアは静かに頷いた。


独立した新しい系列の二件目を終えてから、研究区画では人工刺激を行っていない。


東側では確認があり、西側では確認がなかったという結果は残っているが、その理由が判明したわけではなかった。二件で終了するという約束も変わっておらず、続きの試行を当然のように計画してよい状況ではない。


アリシア自身、あの結果が気にならないわけではなかった。


けれど、気になることと、すぐに確かめなければならないことは違う。


昨日の授業で学んだ言葉が、ふと頭に浮かんだ。


変化がなかったことと、変化を確認できなかったことは同じではない。


それなら、まだ分からない理由を、分かったことにしてはいけないのだろう。


アリシアは寝台から足を下ろし、窓の外を一度見つめた。曇り空の下でも庭の花は静かに咲いており、風が吹くたびに細い茎を揺らしている。


「……今日は、話を聞いて、それから普通に過ごすね」


「それができりゃ上出来だ。ついでに朝飯も普通に食え」


ノアの言葉に、アリシアは小さく笑った。


まだ一日は始まったばかりだった。


◇


朝食を終えたあと、アリシアはノアとともに研究区画へ向かった。


廊下には朝の仕事を始めた職員たちの姿があり、書類を抱えて歩く者や、扉の前で短い確認を交わす者がいた。研究区画へ近づくにつれて足音は少なくなったが、以前のように、その静けさだけで胸が強く緊張することはなかった。


それでも、扉の前に立つと少しだけ指先へ力が入る。


アリシアは扉を叩く前に、自分の呼吸を確かめた。


息苦しさはない。


胸元の冷感もない。


怖さは、まったくないわけではないが、今のところ落ち着いて話せる程度だった。


「入る前からそんなに真剣な顔をするな。今日は扉と戦う日じゃねえぞ」


足元から聞こえたノアの声に、アリシアは少し肩を揺らして笑った。


「……分かってるよ」


扉を叩くと、中からサラの声が返ってきた。


部屋へ入ったアリシアを迎えたのは、サラと記録係、そして安全担当だった。副学院長の姿はなく、若い観測者も別の仕事をしているらしい。


机の上には数冊の帳面が置かれていたが、人工刺激に使う器具は準備されていなかった。


サラはアリシアの顔を見ると、穏やかに微笑んだ。


「おはよう、アリシア。今日は来てくれてありがとう。先に伝えておくけれど、予定しているのは状態の確認と、記録の扱いについての説明だけよ。刺激を行う予定はないし、何かを試してもらうために呼んだわけでもないわ」


アリシアはその言葉を聞き、胸の奥が少し軽くなるのを感じた。


「……はい。分かりました」


サラは椅子を勧めたが、アリシアが座る前に安全担当へ視線を向けた。


「まずは体調を聞かせてもらってもいいかしら。答えにくいことがあれば、そこで止めて構わないから」


アリシアは頷き、椅子へ腰を下ろした。


安全担当は帳面を開き、いつものように落ち着いた声で尋ねた。


「痛み、息苦しさ、胸の冷感、頭痛、吐き気、めまいについて、今朝はどうですか」


「……全部、ありません」


「疲れはどうでしょう。身体の疲れと、気持ちの疲れが違うようなら、分けて話してもらっても構いません」


アリシアは少し考えた。


以前なら、疲れを一つの数字で答えようとしていたかもしれない。


けれど、今朝感じた気だるさは、身体の重さだけでは説明しにくかった。


「……身体は、そんなに疲れてないと思います。でも、昨日は人と話すことが多かったから、気持ちが少し疲れてるかもしれません」


安全担当はすぐに数字へ置き換えようとはせず、その言葉を確かめるように頷いた。


「分かりました。では、今日は気持ちの疲れが少しある状態として記録します。無理に一つの数字へまとめなくても大丈夫です」


アリシアはほっとした。


サラも静かに頷き、続けて尋ねた。


「怖さについてはどうかしら。ここへ来る前と、今とで変化はある?」


「……来る前は、少し緊張しました。でも、今日は刺激をしないって聞いて、少し落ち着きました」


「それならよかったわ。何かを行わないと分かっていても、研究区画へ来るだけで緊張することはあるもの。そこも大切な状態だから、遠慮なく伝えてね」


アリシアは小さく頷いた。


机の端で記録を取っていた記録係は、今のやり取りを簡潔に書き留めていた。アリシアが何も言っていない部分を補うことはなく、サラの説明と本人の報告を分けて記している。


昨日の授業で見た二つの欄が、ふと頭に浮かんだ。


(……ここでも、同じように分けているんだ)


ただし、学院の課題と研究の記録は同じものではない。


アリシアはその違いも忘れないようにしながら、サラの次の言葉を待った。


◇


状態の確認が終わると、サラは机の上に置かれた帳面の一冊へ手を添えた。


「今日は、二件の記録を今後どう扱うかについて、今の段階で決まっていることだけ説明したいの」


アリシアは姿勢を正した。


サラはその様子を見て、少しだけ声を柔らかくした。


「難しい説明を全部覚える必要はないわ。分からなければ途中で聞いていいし、今日は聞きたくないと思ったら、別の日にしても構わないから」


「……大丈夫です。聞きたいです」


サラは頷いた。


「まず、今回の独立した系列は、約束した二件で終了しているわ。東側と西側の判定は、それぞれ決められた手順で記録されていて、あとから都合よく変更することはできないようにしてある」


記録係が帳面を少し開き、封じられた部分を示した。


アリシアはその印を見つめたが、内容を読み取ろうとはしなかった。


「一件目は東側と西側の確認が一致して、二件目は一致しなかった。そこまでは確定した記録として扱うけれど、その違いが何によって生じたのかは、まだ分かっていないわ」


サラはそこで一度言葉を区切り、アリシアの表情を確かめた。


「だから、今回の結果だけで六つ目の神器の働きを説明したり、どちらかの判定が間違っていたと決めたりはしない。今後の検討は必要だけれど、それは新しい刺激をすぐ行うという意味ではないの」


アリシアは静かに頷いた。


胸の奥には、少しだけ複雑な気持ちが残った。


結果が出れば、何かが分かるかもしれないと思っていた。


けれど、実際には、分かったことと分からないことが増えた。


それは残念でもあり、少し安心できることでもあった。


すぐに答えを出さなくていい。


そう言われると、急いで何かを感じ取らなければならないという不安が、少し遠ざかる。


「……あの、サラさん」


「なあに?」


「……二件目で、西側が確認されなかったのは……本当に、何も起きなかったってことなんでしょうか」


サラはすぐには答えなかった。


記録係へ一度視線を向け、それからアリシアへ顔を戻した。


「今の記録から確実に言えるのは、西側で定められた確認条件を満たす反応が記録されなかった、ということよ。西側で何も起きなかったと断定するのとは違うわ」


アリシアは目を瞬かせた。


昨日の黒板に書かれていた言葉が、はっきりと思い出された。


『変化がなかった』


『変化を確認できなかった』


アリシアは膝の上で両手を重ね、少しだけ息を整えた。


「……学院の授業で、似たことを習いました」


サラは興味深そうに微笑んだ。


「そうなの?」


「……はい。見えなかったことと、変化がなかったことは、同じじゃないって」


サラは頷いた。


「大切な考え方ね。ただし、今回の研究では、西側の確認条件をあらかじめ決めていたから、その条件を満たしたかどうかについては明確に記録できるわ。授業で扱った観察の不足と、まったく同じ状況ではないけれど、分からないことを分かったことにしないという点は共通していると思う」


アリシアはその説明をゆっくり受け止めた。


似ているからといって、同じではない。


それでも、学んだことが別の場所で役に立つ場合はある。


サラは続けた。


「それから、まだ開いていない探索的な記録についても、今の段階では扱いを変えない方針よ。今回の結果に合わせて、あとから都合のよい項目だけを選ぶことはしない。開示や検討が必要になれば、決められた手続きを踏んで、記録を残すことになるわ」


アリシアは小さく頷いた。


細かな方法をすべて理解できたわけではなかったが、結果を急いで解釈しないという約束が守られていることは分かった。


「……じゃあ、今日は何か新しいことを決める日じゃないんですね」


「そうね。少なくとも、あなたに新しい試行への参加を求める日ではないわ。今後の検討についても、必要な確認が済むまでは予定として扱わないし、あなたが同意することを前提に話を進めたりもしない」


アリシアは胸の奥にあった小さな緊張が、さらに和らぐのを感じた。


何かを頼まれたら、断りにくいかもしれない。


その不安が、まったくなかったわけではない。


けれど、サラは頼む前から、まだ何も決まっていないことを伝えてくれた。


アリシアはゆっくり顔を上げた。


「……ありがとうございます。私、分からないことがあると、すぐに確かめたくなる時があるんです。でも、今は……待ってもいいんだって思えます」


サラは優しく微笑んだ。


「ええ。待つことも、確かめるための大切な選択よ。何もしない時間が、何も考えていない時間とは限らないもの」


その言葉に、アリシアは静かに頷いた。


◇


研究区画を出る頃には、廊下の窓から柔らかな光が差し込んでいた。


曇り空の向こうで雲が薄くなり、庭の木々の影が少しずつ明るくなっている。


アリシアはノアと並んで歩きながら、先ほどの説明を思い返していた。


新しい試行は決まっていない。


記録は、約束した手順に従って扱われている。


分からないことを、急いで答えに変える必要はない。


それだけでも、今朝ここへ来た意味はあったように思えた。


「で、どうだった?」


ノアが足元から尋ねた。


アリシアは少し考えたあと、答えた。


「……今日は、何もしないって決まってたから、安心して話せた」


「そりゃよかったな。で、余計な約束はしてこなかっただろうな?」


「……してないよ」


「本当か?」


アリシアは少し頬を膨らませた。


「……本当だよ。サラさんも、まだ新しいことは決まってないって言ってた」


ノアは満足そうに頷いた。


「なら、それでいい。お前が何かを知りたいと思うのは勝手だが、知りたいからって何でも試せばいいわけじゃねえからな」


アリシアは静かに頷いた。


以前なら、その言葉を聞いて少し焦ったかもしれない。


自分が何もしなければ、研究が進まないのではないか。


自分がもっと頑張れば、誰かの役に立てるのではないか。


そんな考えが、何度も胸の奥へ浮かんでいた。


けれど、今は少し違う。


自分が無理をしないことも、研究を続けるために必要な条件の一つなのだ。


「……ノア。今日は、学院の授業が終わったら、子供と少し遊びたいな」


「好きにしろ。ただし、疲れたら休めよ」


「……うん。ちゃんと聞いてみる」


ノアは尻尾を揺らした。


「お前が遊びたいからって、向こうも遊びたいとは限らねえしな」


アリシアはその言葉に微笑んだ。


「……うん。だから、聞いてみる」


それは、昨日も子供と一緒に考えたことだった。


相手が何をしたいのかを確かめる。


自分の望みを、相手の望みだと決めつけない。


小さな約束のようなその考え方が、今のアリシアにはとても大切に思えた。


◇


学院へ着くと、午前の授業はすでに始まる少し前だった。


教室には学生たちが集まり、机の上には教科書や帳面が並んでいる。メリルはアリシアの姿に気づくと、明るく手を振った。


「アリシア、おはよう! 今日は少し遅めだったね」


アリシアは頷き、席へ向かった。


「……うん。朝、少し用事があったの」


メリルはそれ以上詳しく尋ねず、隣の席を空けてくれた。


アリシアは鞄を置き、帳面を取り出した。


その時、前の席に座っていたフィオナが振り返った。


「アリシア、今日は大丈夫? 昨日、少し疲れてるように見えたから」


アリシアは少し驚いた。


昨日、自分では大きな疲れを感じていなかった。


けれど、フィオナには少し違って見えていたらしい。


「……うん。今日は、気持ちが少し疲れてるかもしれないけど、身体は大丈夫だよ」


フィオナは安心したように微笑んだ。


「そっか。無理しないでね。もし授業中に困ったことがあったら、言ってくれていいから」


アリシアは小さく頷いた。


「……ありがとう」


メリルも二人の会話を聞き、柔らかく笑った。


「今日は記録を読む授業の続きじゃないし、少し気楽にできるといいね」


その言葉に、アリシアは少しだけ肩の力を抜いた。


昨日のように、自分の考えを何度も発表する授業ではない。


もちろん、授業の内容によっては難しいこともあるだろう。


けれど、今日は今日のことを考えればいい。


朝の研究区画で聞いた言葉が、静かに胸の奥へ残っていた。


まだ決まっていないことを、決まったことにしない。


今の自分にできることを、無理のない範囲で続ける。


アリシアは帳面を開き、授業の始まりを待った。


◇


その日の午後、学院では基礎魔法の理論授業が行われた。


教師は黒板へ簡単な術式を書き、魔力の流れが変化する条件について説明していた。学生たちはそれぞれ帳面へ図を写し、時折質問をしながら授業を進めている。


アリシアは窓際の席で、静かに筆を動かしていた。


朝の研究区画での話が気にならないわけではなかったが、授業中に考え続けることはしなかった。


今は目の前の術式を理解する時間だった。


教師が説明したのは、魔力を一つの方向へ流す時と、複数の方向へ分ける時の違いだった。


アリシアはその図を見ながら、以前の防壁実技を思い出した。


中央から左右へ魔力を分ける時、誰がどこを支えるかによって、負担のかかり方が変わる。


けれど、今日の授業は実技ではない。


教師は術式の基本的な考え方を説明しているだけで、学生たちへ新しい実験を求めてはいなかった。


アリシアは図の横へ、小さく注釈を書き込んだ。


『分ける時は、流れの変化を確認する』


その文字を書いたあと、少しだけ手を止めた。


昨日の授業で学んだことを思い出し、もう一行を加える。


『確認できた範囲を明確にする』


アリシアはその二つの文を見つめ、静かに頷いた。


何かを学ぶことは、すぐに新しい力を得ることだけではない。


今まで見ていたものを、少し違う角度から考えられるようになることもある。


そのことが、今日は少し嬉しかった。


◇


放課後、アリシアは友人たちと校舎の前で別れ、生活観測区画へ戻った。


談話室の扉を開けると、子供は窓際の机で木の駒を並べていた。


昨日作った道は、そのまま残されている。


ただし、今日は道の途中に小さな木片が置かれており、駒が通る場所を少し狭くしていた。


子供はアリシアに気づくと、嬉しそうに顔を上げた。


「アリシア、おかえり!」


「……ただいま。今日も道を作ってたんだね」


「うん! 今日は、途中で止まる場所を作ってみたの」


アリシアは机の上を覗き込んだ。


木の駒が通る道の途中に、少し広くなった場所がある。


そこには小さな木片が二つ置かれ、駒が一度止まれるようになっていた。


「……ここで、休むの?」


子供は嬉しそうに頷いた。


「そう! ずっと進んでると疲れちゃうから、ここで止まってもいいようにしたの」


アリシアはその言葉を聞き、思わず微笑んだ。


昨日までの道は、どこまで進めるかを考えて作っていた。


けれど、今日は途中で止まる場所が増えている。


それは、道が短くなったということではなかった。


むしろ、安心して進める場所が増えたように見えた。


「……いいね。ここなら、疲れた時に休めるね」


子供は満足そうに頷いた。


「うん! それでね、休んだあと、こっちにも行けるようにしたいの」


子供が指さした先には、まだ何も置かれていない机の端があった。


アリシアは少し考えた。


道を伸ばすための木片は、机の横にいくつか残っている。


けれど、子供が今すぐ作りたいのかどうかは、まだ分からない。


「……一緒に作る?」


子供は少し考えたあと、首を横に振った。


「今日は、ここまでにする。続きは明日でもいいかなって」


アリシアは微笑んだ。


「……うん。明日でもいいと思う」


子供は嬉しそうに笑い、木の駒を休憩場所へ置いた。


「じゃあ、この子も今日はここでお休み!」


アリシアはその様子を見つめ、胸の奥が少し温かくなるのを感じた。


進むことだけが大切なのではない。


途中で止まる場所があってもいい。


続きが気になっても、明日まで待っていい。


そのことを、子供は遊びの中で自然に見つけていた。


窓際では、顔のない存在が静かに過ごしていた。


胸元に並ぶ十一の光は、今日も穏やかな明滅を続けている。


覆われた木箱も、決められた場所に置かれたままだった。


アリシアはその方へ視線を向けたが、何かを確かめようとはしなかった。


今は、子供が作った休憩場所を一緒に眺める時間だった。


◇


夕食を終えたあと、アリシアは自室へ戻った。


机の上には、学院の帳面と研究に関する記録が分けて置かれている。


アリシアは椅子へ座り、まず学院の帳面を開いた。


今日の理論授業で書いた図を見直し、分からなかった部分へ小さな印をつける。


明日、教師へ尋ねられるようにするためだった。


その作業を終えると、アリシアは研究の帳面へ視線を向けた。


開こうかどうか、少しだけ迷った。


朝、サラから説明を受けたことが頭に残っている。


東側と西側の判定が食い違った理由は、まだ分からない。


それでも、二件の記録は約束どおりに扱われている。


新しい試行を急ぐ必要もない。


アリシアは研究の帳面へ手を伸ばしかけたが、途中で止めた。


(……今日は、もう十分に考えたかな)


そう思い、手を引っ込めた。


代わりに日記帳を開く。


今日の出来事を、ゆっくり書き始めた。


『今日は朝、サラさんたちと話した。新しい試行は決まっていなくて、今ある記録を大切に扱っていると聞いた。』


『分からないことが残っていても、すぐに何かをしなくていい。待つことも、確かめるために必要な時間なのだと思った。』


『学院では、魔力の流れについて勉強した。昨日学んだことを思い出しながら、確認できた範囲を大切にしたいと思った。』


『帰ってからは、子供が木の駒の道に休憩場所を作っていた。途中で止まってもいい道は、安心して進める道なのかもしれない。』


そこまで書くと、アリシアは筆を置いた。


寝台の上では、ノアが丸くなっている。


アリシアが日記帳を閉じる音を聞くと、黒猫は片目を開けた。


「今日は、ずいぶん早く終わったな」


「……うん。今日は、もう考えすぎないことにしたの」


ノアは少しだけ耳を動かした。


「へえ。珍しいこともあるもんだ」


アリシアは頬を膨らませた。


「……ノア、ひどい」


「事実だろ。まあ、悪いことじゃねえけどな」


アリシアは小さく笑った。


灯りを落とし、寝台へ入る。


窓の外では、夜風が静かに木々を揺らしていた。


研究の答えは、まだ出ていない。


六つ目の神器の正体も、東西の判定が食い違った理由も、分からないままだ。


けれど、今日のアリシアは、その分からなさを急いで埋めようとはしなかった。


必要な記録を残し、必要な確認を行い、まだ決まっていないことは決まっていないままにしておく。


そして、休む時には休む。


その小さな約束を守ることも、これから先へ進むために大切なのだと思えた。


「……おやすみ、ノア」


「おう。明日も無理すんなよ」


アリシアは静かに頷き、目を閉じた。


すべての答えを知る日が、いつ来るのかは分からない。


それでも、今夜は知らないまま眠ってもいい。


そう思えたことが、アリシアにとって何より穏やかな一日の終わりだった。


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