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『忘れられた六つ目の神器に選ばれました 〜人見知りな闇の少女と毒舌黒猫の学園英雄譚〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第287話 見えなかったことを、伝えられる勇気


朝の学院には、昨夜のうちに降った雨の名残があった。


校舎へ続く石畳はところどころ色を濃くし、植え込みの葉先には小さな水滴が残っている。雲の切れ間から差し込む朝日がそれらを照らすたび、庭のあちこちで淡い光が瞬き、登校してくる学生たちの足音が湿った地面に柔らかく響いていた。


アリシアは学院の門をくぐる少し手前で歩調を緩め、鞄の肩紐を握り直した。昨日は久しぶりに友人たちと授業を受け、午後には小さな魔導具を使って魔力の流れを確認したが、帰ってからも強い疲労は感じなかった。


今朝も身体の調子は落ち着いている。


痛みや息苦しさはなく、胸に冷たい感覚が生じることもなかった。昨日より少し早く目が覚めたため、朝食も慌てずに済み、生活観測区画を出る前には世話役へ挨拶する余裕もあった。


それでも、校門の向こうに集まる学生たちを見ると、胸の奥にいつもの緊張が生まれる。


(……昨日は、ちゃんと話せた。今日も同じようにできるかは分からないけど、最初から怖がらなくてもいいよね)


アリシアは小さく息を整え、隣を歩くノアへ目を向けた。


黒猫は朝露で濡れた石畳を器用に避けながら歩いている。尻尾をゆったりと揺らす姿はいつもどおり気ままで、登校する学生の一人が振り返っても、気にする様子はなかった。


「何だよ。また門の前で考え事か?」


「……ちょっとだけ。今日は、昨日の授業の続きをするのかなって」


「昨日の続きなら、昨日のうちに先生が何か言ってただろ。聞いてなかったのか?」


アリシアは少し頬を赤くした。


「……聞いてたよ。今日は、記録を使って考える授業もあるって。でも、どんなことをするのかまでは……」


「だったら、行って聞けばいいだろ。授業の内容を門の前で全部予想してたら、鐘が鳴っちまうぞ」


ノアの言い方は相変わらずだったが、アリシアは思わず笑ってしまった。


研究に関わるようになってから、何かが始まる前にできるだけ多くのことを知っておきたいと思う場面が増えた。準備をすること自体は悪くないものの、まだ知らされていない内容まで考え続けても、答えが出るとは限らない。


ノアはアリシアが再び歩き始めたのを確かめると、少しだけ速度を落として隣へ並んだ。


「それに、お前は昨日、見えたことをちゃんと伝えたんだろ。今日は見えなかったものまで無理に見つけようとするなよ」


その言葉に、アリシアは足元へ視線を落とした。


昨日、教師から教わったことを思い出す。


変化が起きた場所を具体的に伝えること。


変化がなかった場所についても、確認できた範囲を正しく伝えること。


そして、分からなかったことを、分かったことにしないこと。


「……うん。見えなかったら、見えなかったって言う」


「そういうことだ。魔法の授業でまで、お前が研究室の連中みたいな顔をする必要はねえからな」


「……研究室の人たち、そんなに難しい顔してる?」


「お前も含めてな」


アリシアは返す言葉を探したが、結局何も思いつかず、小さく笑いながら校舎へ向かった。


朝の鐘が鳴るまでには、まだ少し時間があった。


◇


教室へ入ると、メリルが窓際の席で帳面を広げていた。


彼女はアリシアに気づくと顔を上げ、いつもの明るい笑顔を向けてくれた。机の上には昨日の授業で描いた魔導具の図があり、余白には細かな書き込みが増えている。


「アリシア、おはよう! 昨日の記録、ちょっと見直してたんだけど、私たちが見ていた場所って、思ったより偏ってたみたい」


アリシアは挨拶を返し、メリルの隣へ歩み寄った。


「……偏ってた?」


「うん。エドガーが中央を変えた時、私は左側ばっかり見てたでしょう。テオは右側を見てくれてたけど、途中で全体がどうなっていたかは、アリシアに頼ってたところがあったと思うの」


メリルは帳面を少し傾け、中央から左右へ伸びる線を指でなぞった。


「だから、全員が自分の担当を見ているだけじゃ足りない時もあるんだなって。昨日は先生に褒めてもらえたけど、まだ考えることがあるよね」


アリシアは図を眺めながら頷いた。


自分は全体を見る役割だったが、魔導具のすべてを同時に見られたわけではない。左側の線が一度揺れたことには気づいたものの、その瞬間に中央や右側がどう変化していたかを、正確に説明する自信はなかった。


(……私も、全部見えてたわけじゃない)


そのことを考えると、少しだけ落ち着かない気持ちになった。


昨日は、変化を見つけて報告できたことが嬉しかった。


けれど、嬉しかったからといって、自分が見落としたかもしれない部分まで消えるわけではない。


アリシアは椅子へ腰を下ろし、鞄から帳面を取り出した。


「……私も、左側の線が揺れた時、ほかの場所をちゃんと見てなかったかもしれない。だから、全部は分からないんだ」


メリルは少し驚いたように顔を上げたが、すぐに柔らかく微笑んだ。


「そっか。じゃあ、そこも今日の授業で考えられるといいね。私も、自分が見てなかった場所を、見たことにしないようにしなきゃ」


その返事を聞いて、アリシアの肩から少し力が抜けた。


見落としたかもしれないことを話したからといって、責められるわけではなかった。


メリルは不足している部分を一緒に考えようとしてくれる。


それが、今のアリシアには何より心強かった。


ほどなくして、エドガーとテオが教室へ入ってきた。


エドガーは二人が帳面を見比べていることに気づくと、少し興味深そうに近づいてきた。


「昨日の記録か。ちょうど俺も気になるところがあったんだが、何か分かったことはあるか?」


メリルが今の話を説明すると、エドガーは腕を組んで考え込んだ。


「なるほど。確かに、俺も中央の出力を維持することに集中していたから、左右の変化を直接確認できたわけじゃない。報告を受けて初めて分かった部分がある」


テオは机の端に置かれた図を覗き込み、右側の線を指さした。


「俺は右側に大きな変化がなかったと思っていたけど、厳密には、俺が見ていた時間と場所の範囲でそう判断しただけだ。ほかの瞬間まで変化がなかったとは言い切れないな」


アリシアは二人の言葉を聞き、少しだけ目を丸くした。


自分だけが、すべてを見られていなかったわけではない。


それぞれが担当する場所を見ていたからこそ、見えていない部分も生まれていた。


エドガーは帳面の余白へ小さな四角を描き、その中へ「確認した範囲」と書き込んだ。


「次に記録するなら、見えた結果だけじゃなく、どこを見ていたのかも残した方がよさそうだな。あとから比べる時に、判断の根拠が分かる」


メリルが頷き、アリシアも自分の帳面へ同じ言葉を書き留めた。


教室の奥では、ほかの学生たちも少しずつ席についている。


朝の賑やかさが落ち着き始めた頃、フィオナが教室へ入ってきた。


彼女は四人の姿を見つけると、小さく手を振って近づいてきた。


「おはよう。みんな、もう授業の話をしてるの?」


メリルが笑って頷き、椅子を少し引いた。


「うん。でも、まだ始まったばっかり。フィオナも一緒に考えようよ」


フィオナは嬉しそうに微笑み、五人は朝の鐘が鳴るまで、昨日の記録について話し合った。


◇


午前の授業では、教師が教室の前方へ大きな記録板を運び込んできた。


板の表面には、複数の線と数字が書かれている。


昨日使用した小型魔導具の図に似ていたが、今日の記録には一部が空白になっている場所もあった。


教師は記録板を黒板の横へ立てかけ、学生たちへ向き直った。


「今日は、観察した結果をどのように整理するかを考えます。昨日は魔力の流れを実際に確認しましたが、今日はその記録を使って、何が分かるのか、何がまだ分からないのかを区別してみましょう」


学生たちは帳面を開き、記録板へ視線を向けた。


教師は中央の数字を指さした。


「この記録では、中央の出力を決められた範囲で変化させています。左側では一度だけ明るさの変化が報告され、右側では大きな変化が報告されませんでした。では、右側には変化がなかったと断定してよいでしょうか?」


教室のあちこちで、小さな話し声が生まれた。


何人かは首を傾げ、別の学生は記録板の空白を見つめている。


アリシアは昨日の自分たちの話し合いを思い出した。


右側に大きな変化が見られなかったことと、右側に変化がまったくなかったことは、同じではない。


テオが見ていた範囲では、変化を確認できなかった。


けれど、その記録だけで、すべての瞬間について言い切ることはできない。


教師は学生たちが考える時間を十分に取ったあと、一人の学生を指名した。


指名された学生は少し緊張した様子で立ち上がった。


「……右側の担当者が変化を見なかったなら、変化はなかったんじゃないでしょうか」


教師は否定せず、穏やかに尋ねた。


「そう考えた理由は分かりました。では、右側の担当者が、すべての場所を同時に確認できていたかどうかは、この記録から分かりますか?」


学生は記録板を見つめ直した。


少し間を置いてから、首を横に振る。


「……そこまでは書いてありません」


「そうですね。だから、ここで確実に言えるのは、担当者が観察した範囲で大きな変化を報告しなかった、ということです。実際に変化がなかった可能性もありますが、観察できなかった可能性まで消えるわけではありません」


教師は黒板へ二つの文を書いた。


『変化がなかった』


『変化を確認できなかった』


教室の空気が少し静かになった。


似ているようで、意味の違う二つの言葉。


アリシアはその文字を見つめながら、胸の奥に小さな緊張を覚えた。


(……研究の時にも、似たことを聞いた)


以前、サラは言っていた。


何も感じなかったことも、そのまま記録になる。


感じていないものを探して報告する必要はない。


その言葉を思い出した瞬間、アリシアは無意識に胸元へ手を近づけかけた。


けれど、途中で気づいて手を膝の上へ戻した。


今は研究の時間ではない。


目の前にあるのは、学院の授業で使う模擬術式の記録だった。


似ている考え方があっても、研究の結果と授業の結果を同じものとして扱ってはいけない。


アリシアは一度息を整え、黒板へ視線を戻した。


◇


授業の途中、教師は学生たちへ短い課題を出した。


それぞれの班に配られた記録には、魔導具の中央と左右の明るさについて、いくつかの報告が書かれている。


ただし、記録の一部には観察位置が記されておらず、変化の時刻も曖昧だった。


学生たちは、その記録から確実に言えることと、まだ確認が必要なことを分けるよう求められた。


アリシアたちの班では、エドガーが最初に記録を読み上げた。


「中央の出力を一段階下げたあと、左側の明るさが弱くなったという報告がある。ただ、右側については『変化なし』としか書かれていないな」


メリルは記録を覗き込み、少し眉を寄せた。


「これだと、右側をどこまで見てたのか分からないね。全部見てたのか、端だけ見てたのかも書いてない」


テオは頷き、記録板の端を指さした。


「それに、中央を下げた直後なのか、少し時間が経ってからなのかも曖昧だ。左右を比べるなら、同じタイミングで確認できていたかどうかも必要だと思う」


フィオナは二人の意見を聞きながら、静かに考えていた。


以前の防壁実技で、中央の負担を申告した時のことが思い浮かぶ。


あの時、彼女は自分の担当部分が苦しくなってきたことを伝えた。


けれど、左右の担当者がどの程度補助を増やしていたのか、正確には分かっていなかった。


今なら、あの時の自分が知っていたことと、知らなかったことを少し分けて考えられる。


(……私が感じた負担は本当だった。でも、どうして増えたのかまでは、私だけじゃ分からなかったんだ)


フィオナは記録板から顔を上げた。


「……私、中央の担当者が『負担が増えた』って書いていたら、それは大事な報告だと思う。でも、その理由まで中央の人が分かってるとは限らないよね」


エドガーは頷いた。


「そうだな。負担が増えたという報告と、負担が増えた原因の説明は分けるべきだろう」


メリルはフィオナへ微笑みかけた。


「それって、前の実技でも大事だったことだよね。フィオナが難しいって言ってくれたから、私たちは止められたけど、原因を全部調べてから止めたわけじゃなかったし」


フィオナは少し照れたように笑った。


「うん。あの時は、原因を考える余裕もなかったから」


アリシアは四人の話を聞きながら、配られた記録へ視線を落とした。


その中には、観察した結果と、観察した人の考えが一つの文になっている部分があった。


アリシアは少し迷ったあと、その行を指さした。


「……ここに、『左側が弱くなったので、中央の出力が足りなかった』って書いてあるけど……」


四人の視線が集まり、アリシアは少しだけ声を小さくした。


それでも、途中で言葉を止めずに続けた。


「……左側が弱くなったことは見えたのかもしれないけど、中央の出力が足りなかったかどうかは、まだ分からないんじゃないかな」


エドガーは記録を見つめ直し、静かに頷いた。


「確かにそうだ。中央の出力が変化したことは記録にあるが、それだけが原因だとは限らない。別の条件が影響した可能性もある」


テオも同意した。


「なら、確実に言える部分と、考えられる理由を別々に書いた方がいいな」


メリルは帳面へ線を引き、二つの欄を作った。


左側には『観察されたこと』、右側には『考えられること』と書き込む。


アリシアはその文字を見つめ、少しだけ安心した。


自分が感じた違和感を、四人が一緒に考えてくれた。


すぐに正解が分かったわけではない。


けれど、分からないことを分からないまま残すための言葉が、少しずつ見つかっていく。


◇


班ごとの話し合いが進むにつれ、教室のあちこちからさまざまな意見が聞こえてきた。


ある班では、記録に書かれた数字をそのまま比べようとしていた。


別の班では、観察した位置が分からないことを問題にしている。


教師は机の間を歩きながら、それぞれの班へ声を掛けていた。


アリシアたちの机へ近づいた時、教師は二つに分けられた欄を見て足を止めた。


「なるほど。観察されたことと、考えられる理由を分けたのですね」


エドガーが頷き、班で話し合った内容を説明した。


教師は最後まで聞いたあと、記録板の一行を指さした。


「では、この『右側に変化なし』という報告は、どちらへ入れますか?」


メリルは少し考え込んだ。


「……観察されたこと、でしょうか。でも、どこまで見ていたのか分からないから、そのままだと少し困ります」


「その通りです。報告が存在したことは事実ですが、その報告が何を保証するかは別の問題ですね」


教師は五人の顔を順番に見た。


「観察記録を整理する時には、記録を書いた人を疑う必要はありません。ただ、その人が何を見て、何を見ていなかったのかを区別することは大切です。記録を丁寧に扱うことと、記録した人を責めることは違いますから」


アリシアはその言葉を聞き、少しだけ顔を上げた。


見えなかったことを伝えるのは、時々怖い。


自分の役割を果たせなかったと思われるのではないか。


もっとよく見ていれば分かったはずだと言われるのではないか。


そんな不安が、胸の奥に生まれることがある。


けれど、教師は今、記録の不足を見つけることと、誰かを責めることは違うと説明してくれた。


(……分からなかったって言っても、いいんだ)


アリシアは静かに息を吐いた。


教師は続けて、五人へもう一つ問いかけた。


「では、皆さんが次に同じような観察をするなら、何を変えたいですか?」


エドガーが最初に答えた。


「観察する位置と時間を、事前にもう少し明確に決めたいです。そうすれば、記録をあとから比べやすくなると思います」


メリルは頷きながら言葉を継いだ。


「私は、変化がなかった時も、どこを見ていたのか書きたいです。見えなかった理由までは分からなくても、確認した範囲は残せるので」


テオは少し考えてから、右側の記録を指さした。


「報告する言葉もそろえた方がいいと思います。同じ変化を見ても、担当者によって表現が違うと、あとで比較しにくくなるかもしれません」


フィオナは三人の意見を聞き、少しだけ迷った。


それから、教師へ視線を向けた。


「……私は、途中で難しくなった時に、そのことを伝えられるようにしたいです。最後まで見られなかった場合も、どこまで確認できたのか残した方がいいと思うので」


教師は穏やかに頷いた。


「大切な意見ですね。観察を続けることより、安全に中断することを優先すべき場合もあります。その時に記録が途中で終わったとしても、無理に続きを埋める必要はありません」


最後に、教師の視線がアリシアへ向いた。


アリシアは少し緊張したが、四人が待ってくれていることに気づき、ゆっくり口を開いた。


「……私は、見えたことを、できるだけ正確に伝えたいです。でも、見えなかったことも、ちゃんと伝えたいと思います」


教師は頷き、アリシアが続けるのを待った。


「……全部見えていたわけじゃないのに、分かったことにしてしまうと、あとでみんなが困るかもしれないから。だから、分からなかった時も、そう言えるようになりたいです」


言い終えた時、アリシアの指先には少し力が入っていた。


教師はその様子を見て、穏やかに微笑んだ。


「よい考えです。観察の役割を担う人にとって、分からないことを正直に伝えるのは、決して簡単なことではありません。ですが、その正直さが、ほかの人の判断を支える場合もあります」


アリシアは小さく頷いた。


教師が次の班へ向かったあと、メリルが机の下でそっと親指を立ててみせた。


アリシアは少し驚き、それから照れくさそうに笑った。


◇


昼休みの食堂は、いつもより少し賑やかだった。


窓の外では雲が薄くなり、庭の石畳に残っていた水気もほとんど乾いている。厨房から運ばれてくる温かな料理の香りが広がり、長い机のあちこちで学生たちが授業の話や午後の予定について言葉を交わしていた。


五人は窓際の席へ集まり、それぞれの食事を並べた。


アリシアは温かなスープとパンを選び、ノアは足元で静かに丸くなっている。


食事を始めてしばらくすると、フィオナが午前の授業について話し始めた。


「今日、先生に聞かれた時、少し緊張したんだ。でも、途中で難しくなったら伝えたいって言えたのは、前の実技があったからだと思う」


メリルはスープの匙を置き、フィオナへ微笑みかけた。


「私も、あの時のことを思い出したよ。フィオナが早めに言ってくれたから、みんなで止められたんだもんね」


フィオナは少し照れたように笑った。


「でも、最初は本当に迷ったんだよ。自分が難しいって言ったら、みんなの練習を止めちゃうと思って」


その言葉に、エドガーは静かに頷いた。


「俺も、あの時は構造枠を維持することに集中していた。フィオナが言ってくれなければ、中央の負担が増えていることを、すぐには判断できなかったと思う」


テオは杯を置き、少し考えてから口を開いた。


「俺も右側を支えていたから、中央のことは報告を受けるまで分からなかった。だから、今ならあの停止は必要だったと思える。続けていたらどうなったかは分からないけど、分からないまま無理に続ける理由もなかった」


アリシアは四人の話を聞きながら、パンを小さくちぎった。


以前の実技では、フィオナが難しいと伝えたことで、五人は一度立ち止まった。


その時は、少し残念な気持ちもあった。


けれど、今はその経験が、次の授業で考える材料になっている。


失敗したから学んだのではない。


難しい状態を正直に伝え、安全に止めたからこそ、落ち着いて振り返ることができたのだ。


アリシアは少し迷ってから、四人へ顔を向けた。


「……私、今日の授業で、少し安心したことがあるの」


メリルが優しく頷いた。


「うん。何?」


「……見えなかったことを、ちゃんと伝えていいんだって分かったこと。私、何かを見落としたら、役に立てなかったって思われるんじゃないかって、少し怖かったから」


その言葉に、メリルの表情が柔らかくなった。


エドガーもテオも、すぐには返事をしなかった。


フィオナはアリシアの気持ちを考えるように、少しだけ視線を落とした。


やがて、メリルが静かに口を開いた。


「アリシアが見えなかったことを言ってくれたら、私は助かると思う。だって、見えてないところが分かれば、次は誰がそこを見るか考えられるでしょう?」


アリシアは顔を上げた。


メリルは続けた。


「それに、私だって全部は見えないよ。昨日も左側ばっかり見てたし、今日の授業で考えるまで、そこまで気にしてなかったんだから」


エドガーは頷き、少し真剣な声で言った。


「俺も同じだ。構造枠を担当していると、全体を把握しているつもりになることがある。でも、実際にはほかの担当者の報告が必要だ。だから、見えなかった部分を隠される方が困る」


テオは穏やかに微笑んだ。


「俺たちは五人で一つの班なんだから、一人が全部を見なくてもいいと思う。ただ、誰も見ていない場所があるなら、それを知っておくことは大切だな」


フィオナも小さく頷いた。


「私も、中央で難しくなった時、みんなが聞いてくれて安心した。だから、アリシアが分からないことを言ってくれても、私は嫌だと思わないよ」


アリシアは四人の顔を順番に見つめた。


胸の奥にあった小さな不安が、ゆっくりほどけていく。


誰かの役に立ちたいという気持ちは、今も変わらない。


けれど、役に立つために、何でも分かっている必要はない。


分からないことを伝えることも、誰かを支える方法の一つなのだ。


「……ありがとう。私、少しずつだけど、ちゃんと言えるようになりたい」


アリシアがそう答えると、メリルは嬉しそうに笑った。


五人はその後も食事を続けながら、午後の授業について話し合った。


食堂の賑やかな声は変わらず続いていたが、アリシアにはその時間が、いつもより少し穏やかに感じられた。


◇


午後の授業が終わる頃には、空はすっかり晴れていた。


校舎の窓から差し込む日差しは柔らかく、廊下を歩く学生たちの影が床の上へ長く伸びている。授業を終えた学生たちは、それぞれの予定に合わせて教室を出ていき、廊下には楽しげな話し声と足音が重なっていた。


アリシアたちも鞄をまとめ、校舎の外へ向かった。


階段を下りる途中、フィオナが少し足を緩めた。


「ねえ、アリシア。今日の授業で話してたことなんだけど……」


アリシアは振り返り、フィオナの隣へ並んだ。


「……うん?」


フィオナは少し迷ったあと、穏やかに微笑んだ。


「見えなかったことを伝えるのって、勇気がいるよね。私も、前の実技で難しいって言うのが怖かったから、少し分かる気がする」


アリシアは静かに頷いた。


フィオナは階段の手すりへ軽く指を添え、続けた。


「でも、今日アリシアが先生に話してるのを聞いて、私ももう少し正直に言っていいんだって思えたの。だから、ありがとうって言いたかった」


アリシアは少し驚いて目を丸くした。


自分が何か特別なことをしたとは思っていなかった。


ただ、怖かったことを正直に話しただけだった。


それでも、その言葉がフィオナの気持ちを少し軽くしたのなら、嬉しかった。


「……私も、フィオナが前にちゃんと伝えてくれたから、今日のことを考えられたんだと思う」


フィオナは少し頬を赤くした。


「そっか。じゃあ、お互いさまだね」


アリシアは微笑んだ。


「……うん。お互いさま」


二人が階段を下り終えると、少し先で待っていたメリルが手を振った。


エドガーとテオも一緒にいる。


アリシアとフィオナは顔を見合わせ、小さく笑ってから三人の方へ歩き出した。


◇


校舎の外へ出ると、夕方の風が頬を撫でた。


庭の木々は少しずつ色を変え始めており、枝の間には淡い黄色や赤色の葉が混じっている。石畳の端には落ち葉が集まり、学生たちが通るたびに小さな音を立てていた。


メリルは空を見上げ、嬉しそうに言った。


「今日は午後から晴れてよかったね。朝はまだ地面が濡れてたから、帰る頃にはまた雨が降るのかと思ってた」


エドガーは頷き、鞄の位置を直した。


「明日も晴れるといいな。次の実技の予定はまだ聞いていないが、外で確認する課題があるなら、足元が乾いている方が安全だ」


テオは少し笑った。


「エドガーは、もう次の実技のことを考えてるのか」


「準備できることはしておきたいだけだ。もちろん、内容が分からないうちから勝手に練習するつもりはない」


その返事に、メリルが楽しそうに笑った。


アリシアも少しだけ頬を緩めた。


以前なら、こうした会話の中へ入ることが難しかった。


けれど、今は聞いているだけでも安心できる。


無理に話さなくても、誰かが置いていくわけではない。


自分の言葉が見つかった時には、みんなが待ってくれる。


五人は校舎の前でしばらく話したあと、それぞれの帰り道へ向かった。


アリシアはノアと一緒に、生活観測区画へ続く通路を歩き始めた。


◇


帰り道、ノアはアリシアの隣を歩きながら、少しだけ目を細めた。


「今日は、ずいぶん真面目な授業だったみてえだな」


アリシアは頷いた。


「……うん。記録のことを考えたの。見えたことと、分からないことを分けて書く練習」


「ほう。で、お前は何を見つけた?」


アリシアは少し考えた。


今日の授業で学んだことは、ひとつではなかった。


観察した範囲を明確にすること。


見えたことと考えられる理由を分けること。


記録した人を責めずに、不足している情報を確認すること。


そして、見えなかったことを正直に伝えること。


「……見えなかったことも、大事なんだって分かった」


ノアは少しだけ耳を動かした。


「当たり前だろ。見えなかったものを見えたことにしたら、あとで面倒なことになる」


アリシアは小さく笑った。


「……ノアは、いつも簡単に言うね」


「簡単なことを難しく考えすぎるのが、お前の悪い癖だからな」


その言い方に、アリシアは少し頬を膨らませた。


ノアは気にする様子もなく、尻尾をゆっくり動かした。


「だが、今日の話は悪くねえ。見えなかったことを言えるなら、誰かがそこを見てくれるかもしれねえからな」


アリシアは静かに頷いた。


その言葉は、今日メリルたちが話してくれたことと重なっていた。


一人で全部を見る必要はない。


分からない場所があれば、誰かに伝えればいい。


誰かが難しい時には、相談して支える方法を考えればいい。


それは、研究の結果を急いで解釈しないことにも、少し似ている気がした。


けれど、アリシアはそこで考えるのを止めた。


今は学院から帰る途中だった。


研究の新しい計画が決まったわけではないし、今日の授業をそのまま研究の答えにすることもできない。


ただ、今日学んだことを、これからの自分の行動へ少しずつ生かしていけばいい。


「……ノア。私、今日はちょっと嬉しかった」


ノアは顔を上げた。


「何がだ?」


「……みんなが、分からないことを言ってもいいって言ってくれたこと。私も、みんなの役に立てるかもしれないって思えたから」


ノアはしばらく黙っていた。


それから、少しだけ口元を緩めたように見えた。


「そりゃよかったな。だが、役に立とうとして無理すんなよ。お前が倒れたら、今度はそいつらが心配するんだからな」


アリシアは小さく笑った。


「……うん。分かってる」


二人は並んで歩き続けた。


生活観測区画の建物が見えてくる頃には、夕方の光が庭の石畳を淡く染めていた。


◇


談話室へ入ると、子供が机の上に木の駒を並べていた。


昨日作った道は、曲がり角と分かれ道を残したまま、少しだけ形を変えている。子供はアリシアの姿に気づくと、嬉しそうに顔を上げた。


「アリシア! おかえり!」


「……ただいま。今日も道を作ってたんだね」


「うん! でも、今日はちょっと困ってるの」


子供は机の上の道を指さした。


分かれ道の先に、小さな隙間ができている。


木の駒を通そうとすると、そこで引っかかってしまうらしい。


アリシアは隣へ座り、道の形を眺めた。


「……ここが、うまくつながらないんだね」


「うん。昨日はできたのに、今日は変なところで止まっちゃうの」


子供は少し不満そうに頬を膨らませた。


アリシアは手を伸ばしかけたが、すぐに止めた。


昨日も、子供は自分で道を直したがっていた。


今日も同じとは限らない。


だから、まず尋ねることにした。


「……一緒に考える? それとも、もう少し自分でやってみる?」


子供は少し考えた。


それから、木の駒を手に取った。


「もう一回、自分でやってみる。できなかったら、アリシアに聞くね」


アリシアは微笑んだ。


「……うん。待ってるね」


子供は道の隙間をじっと見つめ、板の位置を少しずつ動かし始めた。


最初はうまくいかなかったが、何度か試すうちに、隙間が少し狭くなった。


それでも、駒は途中で引っかかってしまう。


子供はしばらく考え込んだあと、アリシアへ顔を向けた。


「……ねえ、アリシア。ここ、どうしたらいいと思う?」


アリシアは机の上の道を見つめた。


すぐに板を動かせば、通れるようになるかもしれない。


けれど、子供がどこを直したいと思っているのか、まだ分からなかった。


「……この道は、まっすぐにしたい? それとも、曲がったままがいい?」


子供は少し考え、曲がり角を指さした。


「曲がったままがいい。こっちから来たら、ぐるっと回れるようにしたいの」


アリシアは頷いた。


「……そっか。じゃあ、ここを少しだけ広くしてみるのはどうかな?」


子供は板を見つめ直した。


それから、アリシアが示した場所を少し動かした。


今度は、駒がゆっくり隙間を通り抜けた。


「できた!」


子供は嬉しそうに声を上げた。


アリシアも思わず笑顔になった。


「……うん。ちゃんと通れたね」


子供は何度も駒を通し、満足そうに頷いた。


アリシアはその様子を見守りながら、今日の授業で学んだことを思い出した。


見えなかったことを伝える。


分からないことを尋ねる。


相手が何をしたいのかを確かめる。


それだけで、すぐにすべてが解決するわけではない。


けれど、誰かと一緒に考えるための道は、少しずつ開けていくのかもしれない。


談話室の窓際では、顔のない存在が静かに過ごしていた。


胸元に並ぶ十一の光は、今日も穏やかな明滅を続けている。


厚い布に覆われた木箱も、決められた場所に置かれたままだった。


アリシアはその方へ無理に近づくことなく、目の前の道へ視線を戻した。


今は、子供と一緒に遊ぶ時間だった。


◇


夜、自室へ戻ったアリシアは、机の前へ座った。


今日の授業で使った帳面を開くと、午前中に書いた二つの言葉が目に入った。


『変化がなかった』


『変化を確認できなかった』


アリシアはその文字をしばらく見つめた。


似ているようで、意味の違う二つの言葉。


今日の授業では、その違いを何度も考えた。


見えなかったことを、見えたことにしない。


分からなかったことを、分かったことにしない。


そして、分からないことを伝えた人を責めない。


アリシアは日記帳を開き、ゆっくり筆を走らせた。


『今日は学院で、観察したことと、考えられる理由を分ける授業を受けた。見えなかったことを正直に伝えるのは、少し勇気がいると思った。』


『でも、メリルたちは、分からないことを言ってもいいと話してくれた。フィオナも、前の実技で難しいと伝えた時のことを話してくれた。』


『一人で全部を見る必要はない。見えなかった場所があるなら、それを伝えて、みんなで考えればいい。』


そこまで書くと、アリシアは筆を止めた。


研究の帳面は、机の端に閉じたまま置かれている。


新しい独立前向き系列は、決められた二件で終了している。


一件目は東側と西側の判定が一致し、二件目は食い違った。


その結果から、六つ目の神器の仕組みが分かったわけではない。


けれど、今日のアリシアは、そのことを以前ほど不安に感じなかった。


分からないことを、分からないまま大切に残しておく。


そのために、正確に見て、正確に伝える。


そして、必要な時には誰かと一緒に考える。


アリシアは日記帳へ、もう一行を書き加えた。


『見えなかったことを伝えるのも、誰かを支える勇気なのかもしれない。』


その文字を見つめ、アリシアは少しだけ微笑んだ。


寝台の上では、ノアが丸くなっている。


「おい。今日はもう寝るぞ」


アリシアは日記帳を閉じた。


「……うん。もう終わったよ」


「今日は研究の帳面を開かなかったのか?」


「……うん。今日は、学院で学んだことを書いた」


ノアは満足そうに鼻を鳴らした。


「そりゃ結構。少しは休み方を覚えてきたじゃねえか」


アリシアは小さく笑った。


「……ノア、最近そればっかり言ってる」


「お前がちゃんと休めるようになるまで、何度でも言ってやるよ」


その返事に、アリシアは少しだけ頬を緩めた。


灯りを落とし、寝台へ入る。


窓の外では、夜風が静かに木々を揺らしていた。


研究の答えは、まだ出ていない。


六つ目の神器の正体も、東西の判定が食い違った理由も、分からないままだ。


けれど、今日のアリシアは、分からないことを怖がるだけではなかった。


見えなかったことを伝えられる。


難しい時には、助けを求められる。


誰かが困っている時には、相手の望みを確かめてから手を差し伸べられる。


そうした小さな勇気を、少しずつ積み重ねていける。


アリシアは隣で丸くなったノアへ視線を向けた。


「……おやすみ、ノア」


「おう。明日もちゃんと朝飯食えよ」


アリシアは小さく頷き、静かに目を閉じた。


今日、何か大きな発見をしたわけではない。


それでも、見えなかったことを正直に伝え、誰かと一緒に考えられた一日は、確かに大切な時間だった。


夜の静けさの中で、アリシアはゆっくり眠りへ落ちていった。


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