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『忘れられた六つ目の神器に選ばれました 〜人見知りな闇の少女と毒舌黒猫の学園英雄譚〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第286話 答えの出ない朝にも、五人で学べることがある



翌朝、アリシアが目を覚ました時、窓の向こうには秋の柔らかな日差しが広がっていた。


昨夜まで庭の石畳を湿らせていた雨の名残はほとんど消え、窓辺の木々には朝露が小さな光となって残っている。少し開いた窓から流れ込む空気には、夜の冷たさと乾いた落ち葉の匂いが混じっており、遠くでは学院へ向かう馬車の車輪が石畳を踏む音も聞こえていた。


アリシアは掛け布の中でゆっくり身体を伸ばし、昨夜よりも軽くなった肩の感覚を確かめた。


昨日は、研究の翌日として休息を優先した。


子供と木の駒を並べて道を作り、サラに身体の状態を確認してもらい、午後にはノアから何もしない時間の大切さを教えられた。特別な発見があったわけではなかったが、眠りにつく頃には、研究の結果を考え続けていた朝よりもずっと気持ちが落ち着いていた。


(……今日は、学院に行く日)


そう思うと、少しだけ胸が弾んだ。


以前のアリシアにとって、学院は緊張する場所だった。人の多い廊下を歩くことも、教室で誰かに話しかけられることも、自分の魔法を見られることも、どれも簡単には慣れないものだった。


今でも、その気持ちが完全になくなったわけではない。


ただ、学院へ向かうことを考えた時、以前より先に思い浮かぶ顔が増えていた。


メリルの明るい笑顔。


エドガーが真剣に説明を聞く横顔。


フィオナが少し緊張しながらも、自分の考えを言葉にしようとする姿。


そして、テオが周囲をよく見ながら、必要な時に静かに声を掛けてくれる様子。


アリシアは寝台の端へ腰を下ろし、膝の上で手を重ねた。


(……みんな、今日は元気かな)


防壁実技で一緒に考えたことを思い出すと、胸の奥が温かくなった。


誰かの力が弱まった時、一人で無理に補おうとしない。


助けたいと思っても、相手に確認してから動く。


難しい時には、難しいと伝える。


そうした小さな約束が、五人の間に少しずつ根づいてきている。


「おい。今朝はずいぶん機嫌がよさそうだな」


寝台の足元で丸くなっていたノアが、片目を開けてこちらを見た。


アリシアは少し驚き、頬を緩めた。


「……そうかな?」


「昨日は研究の結果を考えて眉間に皺を寄せてたくせに、今日は朝からにやにやしてやがる。学院にでも好きな菓子が置いてあるのか?」


「……お菓子じゃないよ。みんなに会えるから、少し楽しみで」


そう答えたあと、アリシアは自分の言葉に少し驚いた。


学院で誰かに会うことを楽しみにしている。


以前なら、そんな気持ちを口にすることさえ難しかったかもしれない。


ノアは彼女の表情をしばらく眺め、それから大きな欠伸をした。


「そりゃ結構なことだ。だが、楽しみだからって朝飯を抜くなよ。昨日は休んだとはいえ、研究の翌々日なんだからな」


「……うん。ちゃんと食べる」


「それと、今日は研究の答えを探しに行く日じゃねえぞ。学院へ行くなら、学院でやることをやってこい」


アリシアは静かに頷いた。


昨日、サラも同じようなことを話してくれた。


新しい独立前向き系列は、決められた二件で終了している。


東側と西側の判定が食い違ったことは記録として残ったが、それによって六つ目の神器の仕組みが証明されたわけではない。


だから、今朝になって急いで何かを確かめる必要はなかった。


「……分かってる。今日は、ちゃんと授業を受けるよ」


「ならいい。ついでに、先生の話を聞きながら研究のことを考えるのもほどほどにしとけ」


アリシアが小さく笑うと、ノアは不満そうに尻尾を動かした。


けれど、その声にはいつものような温かさがあった。


◇


朝食を終えて学院へ向かう頃には、空はすっかり明るくなっていた。


生活観測区画の廊下では、世話役たちが午前の準備を進めている。談話室の前を通りかかると、昨日子供と作った木の道の一部が、低い棚の下段へ丁寧に収められているのが見えた。


アリシアは少し足を緩めた。


昨日、子供は完成した道をそのまま残したがっていた。


けれど、談話室の机はほかの人も使うため、世話役と相談して曲がり角の部分だけを残すことにした。


箱の蓋は閉じられておらず、組み合わせた板が少しだけ見えている。


(……今日は、続きを作るのかな)


子供が自分で決めた場所から、また新しい道を伸ばしていく。


その様子を想像すると、アリシアの頬が自然と緩んだ。


談話室の奥では、顔のない存在が窓際の席で静かに過ごしていた。胸元に並ぶ十一の光は、今朝も穏やかな明滅を続けている。


アリシアは少し離れた場所から会釈した。


相手はゆっくり顔を向けるような仕草をしたが、その動きが何を意味するのかは分からない。


それでも、アリシアは無理に近づいたり、反応を確かめようとしたりしなかった。


昨日のサラとの会話を思い出す。


分からないことは、分からないまま記録していい。


何か意味があるはずだと決めつけて、相手の生活を変えてはいけない。


アリシアは静かに歩き出した。


廊下の角を曲がると、後ろからノアが追いついてくる。


「何だ、もう寄り道か?」


「……ちょっと、昨日の道が残ってるかなって思って」


「残ってたんだろ?」


「うん。ちゃんと、箱に入ってた」


ノアは一度だけ談話室の方を振り返った。


「なら、帰ってきた時にでも続きを見せてもらえ。今から付き合ってたら授業に遅れるぞ」


アリシアは頷き、学院へ続く通路へ足を向けた。


建物の外へ出ると、少し冷たい風が頬を撫でた。


庭の端では落ち葉を集める人の姿があり、遠くの校舎からは朝の鐘が響いてくる。学院へ向かう学生たちの声が徐々に大きくなり、アリシアはその賑やかさの中へ、ノアと一緒に歩いていった。


◇


教室へ入ると、すでに何人もの学生が席についていた。


窓際では数人が課題の帳面を広げ、中央の席では昨日の授業について話し合っている。朝の日差しが机の上へ斜めに差し込み、開いた教科書の白い頁を明るく照らしていた。


アリシアが入口で少し立ち止まると、教室の奥からメリルが手を振った。


「アリシア! おはよう。今日は来られたんだね」


その明るい声に、近くの学生が何人か顔を上げた。


アリシアは少し肩を縮めたものの、すぐにメリルの方へ歩き出した。


「……おはよう、メリル」


「昨日は休んでたんでしょう? 体調はどう? 無理して来てない?」


メリルは椅子から少し身を乗り出したが、アリシアが答える前に言葉を重ねることはしなかった。


アリシアはその気遣いに安心し、鞄を机の横へ置いた。


「……大丈夫。昨日はゆっくり休めたから。今朝も、痛いところはないよ」


「そっか。それならよかった」


メリルは嬉しそうに笑い、隣の椅子を引いた。


「実はね、昨日の授業で先生が言ってたことを、みんなで少し話してたの。アリシアにも聞いてほしいんだけど、今すぐじゃなくても大丈夫だからね」


「……うん。聞きたい」


アリシアが答えると、メリルは机の上の帳面を少し寄せた。


そこには、防壁の簡単な図が描かれていた。


中央にエドガーの構造枠、左側にメリルの補助、右側にテオの補助、中心部にフィオナの安定化が示されている。


そして、その外側にはアリシアの確認範囲が細い線で記されていた。


以前の実技で使った配置と似ている。


けれど、いくつかの場所には新しい書き込みが加えられていた。


「……これは?」


「昨日の授業で、先生が『補助の強さだけじゃなくて、補助を入れる位置も考えなさい』って話してたの。前の実技で、私たちが横から支えた時に、中央へ負担が寄ったことがあったでしょう?」


メリルは図の中央を指さした。


「あれって、支える力が足りなかっただけじゃないかもしれないって。力を増やした場所と、実際に負担が移った場所が違うこともあるから、ちゃんと見ないといけないんだって」


アリシアは帳面を見つめた。


以前の実技では、フィオナが中央の出力を段階的に下げた時、左右からの補助が少し強くなった。


その後、中央の負担が増えたことをフィオナが申告し、教師の指示で安全に停止した。


あの時、誰かが失敗したわけではない。


けれど、五人の力を合わせることが、単純に全員の出力を増やすことではないと分かった。


「……うん。覚えてる。私も、テオに聞いてから右側を少し支えたけど、それで中央が楽になるとは限らなかったんだよね」


メリルは頷いた。


「そうなの。だから今日は、力を入れる前に、どこが変わるのか考えてみたいなって」


その時、後ろの席からエドガーが近づいてきた。


彼は二人の帳面を見て、少しだけ眉を上げた。


「もうその話をしていたのか。ちょうどいい。俺も昨日の記録を見直してきたんだが、構造枠の側から考えると、もう一つ気になることがある」


エドガーは自分の帳面を開き、机の上へ並べた。


彼の図には、中央から左右へ伸びる線が何本も描かれている。


アリシアには少し複雑に見えたが、エドガーはすぐに説明を始めず、二人が図を見終えるのを待ってくれた。


「前回は、フィオナの出力を下げることが主な条件だった。だから、俺たちは中央を維持することに意識を向けていたが、構造枠そのものの変化を細かく比べる余裕は少なかった」


エドガーは線の一つを指先でなぞった。


「ただ、次に同じような実技があるとは限らない。中央以外の出力が変わる可能性もあるし、そもそも別の課題になるかもしれない。今のうちに、何を見て判断するのか整理しておきたいんだ」


アリシアは静かに頷いた。


エドガーの話は、いつも少し難しい。


けれど、分からないところを尋ねても嫌な顔をしないことを、今では知っている。


「……あの、エドガー。構造枠が変わったかどうかって、どこを見れば分かるの?」


エドガーは図から顔を上げた。


「いい質問だ。俺も、そこをもう少し分かりやすくしたかった」


そう言って、彼は帳面の端へ新しい線を描き始めた。


メリルも身を寄せ、三人は朝の授業が始まるまで、机の上の図を囲んで話し合った。


◇


少し離れた席で、その様子を見ていた学生がいた。


以前の合同防壁実技で、アリシアたちの班が一度目の試行を途中で止めたことを覚えている学生だった。


彼は当初、最後まで維持できなかったことを失敗に近いものだと考えていた。


もちろん、教師が安全停止も評価対象だと説明したことは聞いている。


それでも、実技の成果として見れば、最後まで防壁を保った班の方が優れているのではないかという考えが、完全になくなったわけではなかった。


今朝も、彼は友人と課題について話していた。


ところが、アリシアたちが机を囲んで図を見比べ始めると、自然とそちらへ目が向いた。


「……あの班、また防壁の話してるな」


友人が小さく呟いた。


彼は頷きながら、エドガーが描いている線を遠目に眺めた。


「前の実技のことだろ。もう終わった課題なのに、ずいぶん熱心だな」


「でも、先生も昨日、補助の位置が大事だって言ってたじゃないか。あれを考えてるんじゃない?」


友人の返事に、彼は少しだけ黙った。


確かに、教師はそのように説明していた。


ただ、説明を聞いた時には、自分たちの班で何を変えればよいのかまでは考えていなかった。


彼の班は、前回の実技で大きな問題を起こさず、予定された時間まで防壁を維持できた。


そのため、終わったあとに細かい振り返りをすることも少なかった。


(……俺たちは、最後までできたから、それでいいと思ってたな)


そう考えた時、少しだけ落ち着かない気持ちになった。


だからといって、アリシアたちの班が自分たちより優れていると、すぐに認めたわけではない。


実際の課題で安定して維持できたことも、十分に大切な成果のはずだった。


ただ、途中で止まった経験からも、次に使えるものを見つけられるのかもしれない。


その可能性だけは、以前よりも少し具体的に感じられた。


彼は自分の帳面を開き、前回の実技記録が残っている頁を探した。


友人が不思議そうに顔を向けると、彼は少し照れくさそうに答えた。


「いや、俺たちの班も、補助の位置をどう決めたか書いておこうと思ってさ。次に聞かれた時、何となくで答えるのは嫌だし」


友人は一瞬驚いたあと、笑って自分の帳面も開いた。


二人の間で始まった話し合いは、アリシアたちには届かなかった。


それでも、以前の実技が残したものは、五人の班の中だけにとどまっていなかった。


◇


午前の授業が始まると、教室の空気は少しずつ引き締まっていった。


教師が黒板へ今日の課題を書き、学生たちは帳面を開いて説明を聞き始める。


その日の授業では、防壁の維持に必要な魔力配分と、複数人で一つの術式を扱う際の情報共有について取り上げられた。


実際に大きな防壁を展開するのではなく、図と簡単な模擬術式を使い、出力の変化がどの部分へ影響するかを考える内容だった。


教師は黒板へ五つの点を描き、それぞれを細い線で結んだ。


「共同術式で重要なのは、自分の担当部分を維持することだけではありません。ほかの担当者が何をしているかを把握し、必要な情報を共有することも、術式全体の安定に関わります」


学生たちは静かに耳を傾けていた。


教師は中央の点へ印を付け、続けた。


「例えば、中央の出力が少し下がった場合、左右の担当者が補助を増やせば必ず安定すると思いますか?」


教室のあちこちで、小さな話し声が生まれた。


何人かは頷き、別の学生は首を傾げている。


教師はすぐに答えを示さず、学生たちへ考える時間を与えた。


アリシアは黒板の図を見つめながら、以前の実技を思い出した。


(……左右から支えた時、中央の負担が増えたことがあった)


あの時、メリルもテオも、フィオナを助けようとしていた。


自分も同じだった。


けれど、助けたいという気持ちと、実際に相手を楽にできることは、必ずしも同じではなかった。


アリシアは少し迷ってから、手を上げた。


教師が気づき、穏やかに頷いた。


「アリシアさん。どう考えましたか?」


教室の視線が集まり、アリシアの肩がわずかに強張った。


以前なら、そのまま声が出なくなっていたかもしれない。


けれど、今は隣にメリルがいる。


少し離れた席には、エドガーもフィオナもテオもいる。


アリシアは一度息を整え、ゆっくり話し始めた。


「……左右の補助を増やしても、必ず安定するとは限らないと思います。前に実技で、中央の出力を少し下げた時、左右から支えたら、中央に負担が寄ったことがありました」


教師は頷いた。


「その時、どのように対応しましたか?」


アリシアは少し考えた。


あの時のことを、できるだけ正確に伝えたいと思った。


「……中央を担当していたフィオナが、難しくなってきたことを早めに教えてくれました。それで、先生の指示に従って、みんなで安全に止めました」


教室の中で、何人かが顔を上げた。


教師は黒板の中央へ小さな印を加えた。


「重要な点ですね。補助を増やした結果、別の場所へ負担が移る可能性があります。だからこそ、全体の状態を確認する役割と、負担を感じた担当者が早めに申告できる環境が必要です」


アリシアは静かに席へ戻った。


胸の奥にはまだ少し緊張が残っていたが、言葉を途中で飲み込まずに伝えられたことが嬉しかった。


隣のメリルが、小さく微笑んでくれた。


その表情を見て、アリシアも少しだけ頬を緩めた。


◇


教師は続けて、別の学生にも意見を求めた。


今度は、以前アリシアたちの実技を見ていた男子学生が手を上げた。


「先生。安全に止めることが大切なのは分かるんですけど、実際の場面では、止められないこともあるんじゃないですか?」


その質問に、教室の空気が少し変わった。


何人かが頷き、別の学生は不安そうに顔を見合わせた。


教師は質問した学生を見つめ、すぐに否定することはしなかった。


「その通りです。状況によっては、術式を止めること自体が危険になる場合もあります。ただし、だからといって、訓練の段階から停止を失敗と考えるのは適切ではありません」


教師は黒板の図へ、新しい線を一本加えた。


「安全に止められる条件で、止め方を学んでおくことには意味があります。どの状態なら維持できるのか、どの状態なら停止すべきなのか。その判断を練習することが、将来の危険を減らす助けになるからです」


学生は少し考え込んだ。


「……じゃあ、最後まで維持する練習と、安全に止める練習は、別々に必要なんですね」


「そうです。そして、どちらも一人だけで判断しないことが大切です。共同術式なら、担当者ごとに見えているものが違う場合がありますから」


教師は教室全体を見渡した。


「誰かが『まだ大丈夫』と言っていても、別の担当者が危険を感じているかもしれません。反対に、一人が不安になった時、ほかの担当者が状況を整理することで、落ち着いて対応できる場合もあります」


アリシアはその説明を聞きながら、フィオナへ視線を向けた。


フィオナは帳面へ何かを書き込んでいた。


その横顔は真剣だったが、以前の実技で中央の負担を申告した時のような強張りは見られなかった。


アリシアは少しだけ安心した。


(……フィオナも、ちゃんと覚えてるんだ)


その時、フィオナが顔を上げた。


目が合うと、彼女は少し照れたように微笑んだ。


アリシアも小さく頷き、再び黒板へ目を向けた。


◇


昼休みになると、五人はいつものように食堂へ向かった。


食堂には温かな料理の香りが漂い、長い机のあちこちで学生たちが賑やかに話している。窓際の席には柔らかな日差しが差し込み、外の庭では落ち葉を踏みながら歩く学生の姿が見えた。


五人は空いている席を見つけ、それぞれ食事を置いた。


アリシアは温かなスープとパンを選び、ノアは椅子の足元で丸くなった。


メリルが席へ着くと、すぐに午前の授業の話を始めた。


「今日の授業、前の実技のことを思い出したね。先生の説明を聞いて、私たちが一回目に止めた理由が、少し分かった気がする」


エドガーは頷き、パンを小さくちぎった。


「俺もそう思った。あの時は、中央の負担が増えたことに気づいても、どう調整すればいいかまでは分からなかった。だから停止したが、今考えても、その判断は間違っていなかったと思う」


フィオナは少し俯き、手元の杯を見つめた。


「……私、あの時は少し怖かったんだ。みんなが支えてくれてるのに、自分だけ難しいって言ったら、迷惑になるんじゃないかって」


その言葉に、アリシアは顔を上げた。


フィオナは続けた。


「でも、先生が止めてくれて、みんなも責めなかったでしょう。だから、次の試行では、前より早く自分の状態を伝えられた気がするの」


メリルは柔らかく微笑んだ。


「迷惑なんかじゃないよ。フィオナが言ってくれなかったら、私たちは中央の負担に気づくのが遅れたかもしれないんだから」


テオも静かに頷いた。


「俺も、右側の補助を増やすことばかり考えていた。アリシアが確認してくれたから、少なくとも勝手に動かずに済んだけど、それで中央が楽になるとは限らなかった。次は、補助を入れたあとの変化も、もっと早く共有したい」


アリシアはスープの杯を両手で包んだ。


みんなが、自分の役割について考えている。


誰か一人が正しかったと決めるのではなく、それぞれが何を見て、何を感じたのかを言葉にしている。


その様子を見て、胸の奥が温かくなった。


「……私も、次はもっと気をつけたい。助けたいって思うと、すぐに動きたくなることがあるから」


アリシアが小さな声で言うと、エドガーは少し考えてから答えた。


「それは悪いことじゃないと思う。ただ、動く前に確認することが大切なんだろうな。俺も、構造枠を担当しているからといって、全体を全部分かっているわけじゃないし」


フィオナは頷いた。


「うん。私も、中央にいるから分かることと、分からないことがある。だから、みんなに教えてもらえると助かる」


五人の間に、穏やかな沈黙が流れた。


食堂の賑やかな声は変わらず続いている。


近くの席では別の学生たちが午後の授業について話し、厨房からは食器を重ねる音が聞こえていた。


アリシアはその中で、ゆっくりパンを口へ運んだ。


特別な約束を交わしたわけではない。


けれど、こうして自然に話し合えることが、以前よりもずっと大切に感じられた。


◇


午後の授業では、小さな模擬術式を使った確認が行われた。


学生たちは数人ずつの班に分かれ、机の上へ置かれた練習用の魔導具へ順番に魔力を流していく。


魔導具は大きな防壁を作るものではなく、内部の細い光の線によって魔力の流れを確認するためのものだった。


教師は授業の始めに、今日の課題を説明した。


「今回は、強い魔力を流す必要はありません。決められた範囲で小さく変化させ、その変化がどこへ伝わるかを観察してください。勝手に出力を増やしたり、ほかの担当者の範囲へ手を加えたりしないこと」


学生たちは頷き、班ごとに魔導具を囲んだ。


アリシアたちの班では、エドガーが中央の構造を確認し、メリルとテオが左右の流れを見守ることになった。


フィオナは中央の変化を記録し、アリシアは全体の様子を観察する役割を引き受けた。


以前の実技と似た配置ではあったが、今回は防壁を維持する必要がない。


そのため、五人は落ち着いて細かな変化を確かめることができた。


「まずは、俺が決められた範囲で少しだけ出力を変える。みんなは、光の線がどう動くか見ていてくれ」


エドガーがそう告げると、四人は頷いた。


彼が魔力を流すと、魔導具の中央に淡い光が灯った。


そこから左右へ伸びる細い線が、ゆっくり明るさを変えていく。


メリルは左側の変化を見つめ、少し驚いたように目を丸くした。


「……あれ? 中央を少し変えただけなのに、左側の端も明るくなった」


テオも右側を確認した。


「こっちは、ほとんど変わってない。左右で違うな」


エドガーは出力を維持したまま、二人の報告を聞いた。


フィオナは記録板へ数値を書き込み、アリシアは全体の光の動きを見つめた。


その時、左側の線が一度だけ小さく揺れた。


アリシアは反射的に手を伸ばしかけたが、すぐに止めた。


(……今は、私が直す役割じゃない)


そう思い直し、まず声を掛けた。


「……メリル。左側の線、少し揺れたみたい。見えてる?」


メリルはすぐに頷いた。


「うん。私も見えた。エドガー、今の出力のままで大丈夫?」


エドガーは中央の状態を確認した。


「問題ない。決められた範囲内だ。今の変化を記録してから、元へ戻そう」


五人はそれぞれの位置を確認し、教師の指示に従って魔導具の出力を下げた。


光の線はゆっくり薄くなり、最後には完全に消えた。


アリシアは小さく息を吐いた。


今回は、誰かが無理をする必要はなかった。


けれど、以前の実技で学んだことを、少しだけ使えた気がした。


教師が近づいてきたのは、その直後だった。


「今の確認はどうでしたか?」


エドガーが記録板を見せ、左右で変化が異なったことを説明した。


教師は内容を確認し、頷いた。


「よく観察できています。ただし、今回の魔導具で見られた変化を、そのまま実際の防壁へ当てはめないようにしてください。構造も規模も違いますからね」


アリシアはその言葉を聞き、静かに頷いた。


似ていることと、同じであることは違う。


研究でも、学院の実技でも、その区別は大切だった。


教師は続けた。


「それから、今の班は変化を見つけた時、勝手に補助を入れず、担当者へ確認していましたね。その判断は適切です。次は、報告する言葉をもう少し具体的にすると、さらに分かりやすくなるでしょう」


アリシアは少し緊張しながら顔を上げた。


「……具体的に、ですか?」


「はい。例えば『左側が少し揺れた』だけでなく、『左側の端の線が、一度だけ明るさを変えた』というように、見えた場所と変化を分けて伝えるとよいでしょう」


アリシアは頷き、帳面へ書き留めた。


教師は五人の記録をもう一度確認し、次の班へ向かった。


メリルが小さく笑った。


「今の、ちゃんと次に使えそうだね」


アリシアも微笑んだ。


「……うん。私、もう少し上手に伝えられるようになりたい」


テオは記録板を見つめながら、静かに言った。


「俺も、右側が変わらなかったことを、もっと早く伝えればよかった。変化がないことも、ほかの人には分からない場合があるから」


エドガーは頷き、記録へ一行を書き加えた。


「次は、変化した場所だけじゃなく、変化しなかった場所も共有しよう。そうすれば、全体の状態を比べやすくなる」


フィオナはその言葉を聞き、少しだけ嬉しそうに笑った。


「うん。私も、記録する時に分かりやすくなると思う」


五人はもう一度魔導具を囲み、次の確認へ向けて準備を整えた。


◇


授業の終わりが近づく頃、教室の後方では、別の班の学生たちが自分たちの記録を見比べていた。


その中には、午前の授業で安全停止について質問した学生もいた。


彼は自分たちの魔導具で起きた変化を確認しながら、少しだけ眉を寄せていた。


「……俺たち、右側の変化を見落としてたかもしれないな」


友人が記録板を覗き込んだ。


「どうして?」


「中央を変えた時、左側ばっかり見てたから。右側は変わらなかったと思ってたけど、ちゃんと確認したわけじゃない」


友人は少し考えたあと、頷いた。


「じゃあ、次は見る場所を分けた方がいいかもな」


彼は教室の前方へ目を向けた。


アリシアたちの班は、すでに魔導具を片づけ始めている。


五人は特別に目立つことをしていたわけではない。


大きな魔法を使ったわけでも、誰かを驚かせるような成果を出したわけでもなかった。


ただ、見えたことを伝え、分からないことを確認し、決められた範囲で作業を終えていた。


(……ああいうのも、ちゃんと練習なんだな)


彼はそう思った。


以前は、実技で目立つ成果を出すことばかり考えていた。


もちろん、それが悪いわけではない。


けれど、今日の授業を通じて、目立たない確認にも意味があるのだと少しずつ感じ始めていた。


彼は記録板へ新しい一行を書き込み、友人へ顔を向けた。


「次の実技、俺たちも役割をもう少し細かく決めようぜ。全部を一人で見ようとすると、見落とすことがあるみたいだし」


友人は笑って頷いた。


その会話は、教室の賑やかさの中へ自然に溶けていった。


◇


放課後、アリシアたちは校舎の外へ出た。


午後の日差しは少し傾き、庭の木々が長い影を石畳へ落としている。風が吹くたびに乾いた葉が足元を転がり、遠くの実技場からは片づけを終えた学生たちの声が聞こえていた。


メリルは鞄を肩へ掛け直し、今日の授業を振り返った。


「今日は、前の実技で分からなかったことを少し考えられた気がする。大きな防壁を作ったわけじゃないけど、こういう授業も大事なんだね」


エドガーは頷いた。


「俺もそう思う。次に実技がある時、今日の記録を見直しておきたい。ただ、今回の魔導具と実際の防壁では条件が違うから、同じようになるとは限らないけどな」


フィオナは少し考えてから、柔らかく微笑んだ。


「でも、何を見ればいいか分かっただけでも、少し安心した。前は、中央を担当してる時に何か変わったら、自分で何とかしなきゃって思ってたから」


テオは静かに頷いた。


「今は、言えばみんなが確認してくれる。俺も、右側で何か見えたら早めに伝えるよ」


アリシアは四人の顔を見つめた。


今日一日、何か大きな事件が起きたわけではない。


けれど、朝に教室で話したことが、授業の中で少しずつ形になった。


それが嬉しかった。


「……私も、今日は楽しかった」


アリシアが小さな声で言うと、メリルが顔を向けた。


「本当? それならよかった!」


アリシアは少し照れながら頷いた。


「……うん。みんなと一緒に考えられたから」


メリルは嬉しそうに笑い、エドガーも穏やかに頷いた。


フィオナは少し頬を赤くし、テオは静かに微笑んだ。


五人は校舎の前でしばらく話したあと、それぞれの帰り道へ向かった。


アリシアはノアと一緒に、生活観測区画へ続く通路を歩き始めた。


◇


帰り道、ノアはアリシアの隣を歩きながら、少しだけ目を細めた。


「今日は、ずいぶん楽しそうだったな」


アリシアは頷いた。


「……うん。授業で、前の実技のことを少し考えられたの」


「ほう。で、何かすごい魔法でも使えるようになったのか?」


「……そういうのじゃないよ」


アリシアは小さく笑った。


「みんなで、どこを見ればいいかとか、どうやって伝えればいいかを考えたんだ」


ノアは少しだけ尻尾を動かした。


「地味だな」


「……うん。でも、大事なことだと思う」


その返事に、ノアはしばらく黙っていた。


それから、少しだけ口元を緩めたように見えた。


「まあ、派手な魔法ばっかり覚えて、肝心な時に仲間の声が聞こえねえよりは、ずっとましだろうな」


アリシアは静かに頷いた。


学院の授業で学んだことは、研究の結果を解き明かす答えではない。


六つ目の神器の正体も、東西の判定が食い違った理由も、まだ分からない。


けれど、分からないことがある時、誰かと一緒に考えることはできる。


見えたことを伝え、見えなかったことも正直に話し、必要な時には立ち止まる。


それは、学院でも研究でも、そして生活観測区画での日常でも、大切にしたいことだった。


アリシアは夕方の空を見上げた。


薄い雲がゆっくり流れ、その向こうに淡い青色が残っている。


(……明日も、みんなと話せたらいいな)


そう思うと、胸の奥が少し温かくなった。


ノアは彼女の足元で小さく欠伸をした。


「ほら、さっさと帰るぞ。昨日の木の道、続きを作るんだろ?」


アリシアは少し驚いて顔を向けた。


「……覚えてたの?」


「お前が朝から気にしてたからな。忘れる方が難しいだろ」


アリシアは嬉しそうに笑った。


「……うん。帰ったら、見に行ってみる」


二人は並んで歩き続けた。


生活観測区画の建物が見えてくる頃には、夕方の光が庭の石畳を淡く染めていた。


◇


談話室へ入ると、子供が机の上に木の駒を並べていた。


昨日残しておいた曲がり角の部分から、新しい道が少しだけ伸びている。子供はアリシアの姿に気づくと、嬉しそうに顔を上げた。


「アリシア! おかえり!」


「……ただいま。続きを作ってたんだね」


「うん! 今日はね、ここを少し長くしたの。でも、まだ最後までできてないんだ」


子供は机の上の道を指さした。


アリシアは隣へ座り、並べられた板を眺めた。


昨日よりも曲がり角が増え、途中には小さな分かれ道もできている。


「……すごいね。分かれ道もある」


「うん。こっちへ行くと短い道で、こっちへ行くと長い道なの」


子供は嬉しそうに説明した。


アリシアはその話を聞きながら、今日の学院での出来事を思い出した。


道を作る時も、魔法を使う時も、どこへ進むかを考える必要がある。


けれど、最初から全部の答えが分かっているわけではない。


途中で止まったら、どうすればいいか考え直せばいい。


誰かと相談してもいい。


そして、疲れたら休んでもいい。


「……今日は、どこまで作る予定なの?」


アリシアが尋ねると、子供は少し考えた。


「ここまで。あんまり長くすると、片づけるのが大変だから」


その答えに、アリシアは微笑んだ。


「……そっか。ちゃんと考えてるんだね」


「うん。昨日、全部残せなかったから、今日は最初から箱に入るくらいにしようと思ったの」


子供は少し誇らしそうに笑った。


アリシアはその表情を見て、胸の奥が温かくなった。


昨日の相談が、今日の遊びにつながっている。


自分で決めたことを覚えていて、次の工夫に使っている。


その姿が、今日の学院での五人の話し合いと、どこか重なって見えた。


アリシアは子供と一緒に木の駒を並べ、完成した道をゆっくり確かめた。


駒は短い道を通り、分かれ道へ戻ってから長い道へ進んだ。


途中で少し引っかかったが、子供が自分で板の位置を直すと、最後まで通れるようになった。


二人は顔を見合わせて笑った。


窓の外では、夕方の風が木々の葉を揺らしている。


少し離れた席では、顔のない存在が静かに過ごしていた。


胸元の十一の光は、今日も変わらない。


厚い布に覆われた木箱も、決められた場所に置かれたままだった。


アリシアはその方へ無理に近づくことなく、目の前の道へ視線を戻した。


今は、子供と一緒に遊ぶ時間だった。


◇


夜、自室へ戻ったアリシアは、机の前へ座った。


今日の学院での出来事を思い返しながら、日記帳を開く。


窓の外には星がいくつか見え、遠くの木々からは夜風に揺れる葉の音が聞こえていた。


アリシアは筆を取り、ゆっくり文字を書き始めた。


『今日は学院へ行った。メリル、エドガー、フィオナ、テオと一緒に、前の防壁実技について話した。』


『授業では、魔力の流れを確認する小さな魔導具を使った。中央を少し変えると、左右で違う変化が見えた。私は左側の線が揺れたことを伝えたけれど、先生から、場所と変化をもっと具体的に話すとよいと教えてもらった。』


『みんなと一緒に考えられて嬉しかった。分からないことがあっても、すぐに答えを出さなくていいと思えた。』


そこまで書くと、アリシアは筆を止めた。


今日、研究の新しい結果は出ていない。


六つ目の神器について、何かが判明したわけでもない。


けれど、学院で学んだことは、確かに自分の中へ残っている。


誰かと一緒に考えること。


見えたことを正確に伝えること。


助けたい時にも、相手の意思を確かめること。


そして、分からないことを無理に決めつけないこと。


アリシアは日記帳へ、もう一行を書き加えた。


『答えが出ない日にも、学べることはある。』


その文字を見つめ、アリシアは少しだけ微笑んだ。


寝台の上では、ノアが丸くなっている。


「おい。今日はもう寝るぞ」


アリシアは日記帳を閉じた。


「……うん。もう終わったよ」


「研究の帳面は開かなかったのか?」


「……うん。今日は学院のことを書いた」


ノアは満足そうに鼻を鳴らした。


「そりゃ結構。少しは休み方を覚えてきたじゃねえか」


アリシアは小さく笑った。


「……ノアのおかげかも」


「今さら気づいたか。俺のありがたみを、もっとよく覚えとけ」


その返事がおかしくて、アリシアは声を立てずに笑った。


灯りを落とし、寝台へ入る。


窓の外では、夜風が静かに木々を揺らしていた。


研究の答えは、まだ出ていない。


六つ目の神器の正体も、東西の判定が食い違った理由も、分からないままだ。


けれど、今日のアリシアは、そのことを以前ほど怖いとは感じなかった。


分からないことがあっても、学院へ行ける。


友達と話せる。


授業で新しいことを学べる。


生活観測区画へ帰れば、子供と木の道を作ることもできる。


答えを探すことだけが、自分の毎日ではない。


アリシアは隣で丸くなったノアへ視線を向けた。


「……おやすみ、ノア」


「おう。明日も寝坊すんなよ」


アリシアは小さく頷き、静かに目を閉じた。


今日、何か大きな発見をしたわけではない。


それでも、五人で考え、誰かの言葉に耳を傾け、自分の気持ちを伝えられた一日は、確かに大切な時間だった。


夜の静けさの中で、アリシアはゆっくり眠りへ落ちていった。


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