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『忘れられた六つ目の神器に選ばれました 〜人見知りな闇の少女と毒舌黒猫の学園英雄譚〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第285話 答えを急がない日にも、守りたい約束がある


翌朝、アリシアが目を覚ました時、窓の外には薄い霧がかかっていた。


昨夜の雨が残した湿り気が庭の石畳を覆い、遠くの木々は淡い灰色の向こうに輪郭をぼかしている。窓辺へ差し込む光は柔らかく、いつもなら朝日に照らされる机の端も、今朝は静かな陰の中にあった。


アリシアは掛け布の中で目を開けたまま、しばらく天井を見つめていた。


昨日、研究棟で二回目の試行が行われた。


東側の判定は確認、西側の判定は非確認。


新しい独立前向き系列の二件目では、東西の判定が一致しなかった。


その結果を思い出すと、胸の奥が少しだけ落ち着かなくなる。


けれど、身体に痛みはなかった。


息苦しさも、胸の冷感もない。


頭痛や吐き気、めまいも感じられず、目覚めた時の身体は普段と大きく変わらなかった。


(……今日は、休む日)


アリシアは心の中でそう確かめた。


人工刺激を行った翌日は、新しい刺激を行わない。


その約束は、昨日の結果が一致だったとしても、不一致だったとしても変わらない。


結果が気になるからといって、今日の予定を変えることはできないし、変える必要もなかった。


そう理解しているはずなのに、胸の奥には小さな好奇心が残っていた。


(東側は確認で、西側は非確認……。どうして、違ったんだろう)


考え始めると、昨日の研究室の静けさがよみがえってくる。


二つの判定書類が確定し、副学長が結果を読み上げた時、誰も歓声を上げなかった。


サラも、すぐに新しい仮説を語ることはしなかった。


その慎重さが、今になって少しだけ分かる気がした。


分からないことが残っているからこそ、結果を急いで意味づけてはいけないのだ。


「おい。朝っぱらから研究室みたいな顔してるぞ」


寝台の足元から、ノアの声が聞こえた。


アリシアが顔を向けると、黒猫は前足を伸ばしながら大きな欠伸をしていた。尻尾の先だけがゆっくり動き、まだ眠たそうな目でこちらを見上げている。


「……研究室みたいな顔って、どんな顔?」


「昨日の結果を頭の中で何十回も並べ直してる顔だ」


アリシアは少しだけ頬を赤くした。


「……そんなに分かる?」


「お前の考えることなんざ、だいたい分かる。特に、分からねえことを一人で抱え込もうとしてる時はな」


ノアは寝台から飛び降り、窓際へ歩いていった。


「で、今日は何をするつもりだ?」


「……休むよ。研究の人工刺激はしないって決まってるから」


「それだけか?」


アリシアは少し考えた。


人工刺激をしないことは決まっている。


けれど、それ以外の時間をどう過ごすかまでは、まだ決めていなかった。


「……朝ご飯を食べて、子供と少し遊んで、それから……」


「それから?」


「……昨日のことを、もう少し考えたいかも」


ノアは振り返り、少しだけ目を細めた。


「考えるのは勝手だが、休む日まで研究のことで頭をいっぱいにするなよ。身体が休んでても、気持ちが休まなきゃ意味がねえだろ」


アリシアは静かに頷いた。


昨日の研究は終わった。


新しい独立前向き系列も、決められた二件を終えている。


今日、何かを急いで決める必要はない。


「……うん。今日は、ちゃんと休む」


ノアは満足そうに鼻を鳴らした。


「なら、まずは布団から出ろ。朝飯が冷めるぞ」


アリシアは小さく笑い、ゆっくり身体を起こした。


◇


食堂へ向かう廊下には、焼いたパンの香りが漂っていた。


生活観測区画の朝は、研究棟とは違う時間の流れを持っている。観測記録や設備の確認が必要な場所ではあっても、ここで暮らす者たちにとって、朝食は朝食であり、窓を開けることも、食べたいものを選ぶことも、誰かと挨拶を交わすことも、一日の大切な一部分だった。


アリシアが食堂へ入ると、子供が窓際の席から顔を上げた。


「アリシア、おはよう!」


「おはよう。今日は早いね」


「うん。風車を窓のところに置いてたら、朝の風で少し回ったの」


子供は嬉しそうに窓辺を指さした。


そこには、以前一度補修した紙の風車が置かれている。羽根の一枚にはまだ小さな曲がりが残っていたが、窓から入る弱い風を受けると、時折ゆっくり回転していた。


「……本当だ。少し回ってるね」


「でも、ずっとは回らないんだよ。風が止まると、止まっちゃう」


子供は少し残念そうに言った。


アリシアは風車を見つめ、柔らかく微笑んだ。


「風が吹いたら、また回ると思うよ。今、無理に回さなくてもいいんじゃないかな」


子供はしばらく考え、それから頷いた。


「うん。じゃあ、朝ご飯を食べてる間は、そのままにしておく」


アリシアは子供の隣へ座った。


少し離れた席では、顔のない存在が静かに食事の準備をしている。胸元の十一の光は穏やかな明滅を続けており、今朝も数や配置に変化は見られなかった。


世話役が温かなスープを運んでくると、子供は嬉しそうに両手を膝へ置いた。


「今日はね、パンをスープにつけて食べるんだ」


「おいしそうだね」


「アリシアもやってみる?」


アリシアは少し迷ってから、頷いた。


「……うん。少しだけ」


二人はパンを小さくちぎり、温かなスープへ浸した。


パンの表面が柔らかくなり、口へ運ぶと野菜の甘みがゆっくり広がる。アリシアはその味を確かめながら、昨夜から胸の奥に残っていた緊張が少しずつほどけていくのを感じた。


子供はそんな彼女の顔を見て、不思議そうに首を傾げた。


「アリシア、今日は学校に行かないの?」


「今日は、ここでゆっくり過ごす予定だよ」


「研究もお休み?」


「うん。昨日、決められたことをしたから、今日は新しい刺激をしない日なの」


子供は少し考えた。


「昨日、ちゃんと終わったんだよね?」


「うん。最後まで終わったよ」


「じゃあ、今日は遊んでいい日?」


その質問に、アリシアは思わず笑った。


「……そうだね。でも、疲れたら休みながらね」


「分かった。じゃあ、あとで木の駒を並べよう。昨日より長い道を作りたいんだ」


アリシアは頷いた。


子供はすぐに新しい道の形を考え始め、パンを持つ手を止めてしまった。世話役が優しく食事を促すと、少し照れたように笑って、再びスープへ向き直る。


その何気ない様子を眺めながら、アリシアは胸の奥で静かに思った。


(……昨日の結果がどうだったとしても、この時間は変わらないんだ)


研究の記録が一つ増えたからといって、子供の朝食が別のものになるわけではない。


顔のない存在の胸の光が、急に違う意味を持つわけでもない。


厚い布に包まれた木箱も、今日になったからといって開ける必要はなかった。


分からないことが増えたように感じる日にも、今ある生活を大切にしていい。


アリシアは温かなスープをもう一口飲み、そのことをゆっくり心へ落とし込んだ。


◇


朝食を終えたあと、アリシアは生活観測区画の小さな談話室へ向かった。


子供はすでに木の駒を入れた箱を抱えて待っており、机の上には何枚かの薄い板が並べられていた。昨日まで使っていた道の一部を残しながら、今日は曲がり角を増やしたいらしい。


「ここを長くしたいんだけど、どうしたらいいと思う?」


子供は板の端を指さした。


アリシアは隣へ座り、並べられた駒を眺めた。


道は途中まで整っていたが、最後の曲がり角が少し狭くなっている。そのまま駒を動かすと、端へぶつかって止まってしまいそうだった。


「……ここを少し広げたら、通れるかもしれないね」


「じゃあ、こっちの板を動かす?」


「うん。でも、どこまで動かしたいかは、あなたが決めていいよ」


子供は少し考え、板を指先でゆっくり押した。


最初はほんの少しだけ動かし、道の幅を確かめる。それからもう少し広げ、駒を置いて通れるかどうかを試した。


駒は曲がり角を抜けたものの、その先で横へ倒れてしまった。


「あっ……」


子供は残念そうに声を上げた。


アリシアは反射的に手を伸ばしかけたが、途中で止めた。


倒れた駒を直すことは簡単だった。


けれど、子供はまだ自分で考えている。


その様子を見て、昨日、実技担当の教師が話してくれたことを思い出した。


見守ることと、何もしないことは違う。


必要な時に助けられるように見ていることも、大切な役割なのだ。


「……どうする?」


アリシアが尋ねると、子供は倒れた駒を見つめた。


「もう一回やってみる。今度は、ここを少しだけ動かす」


「うん。私は見てるね」


子供は頷き、板の位置を変えた。


今度は駒が曲がり角を抜け、最後まで進んだ。


「できた!」


子供が嬉しそうに笑った。


アリシアも一緒に笑い、机の上の道を見つめた。


「……すごいね。自分で考えて直せたね」


「うん! でも、アリシアが最初に教えてくれたからだよ」


アリシアは少し考えた。


「……私は、少しだけ言っただけだよ。最後に決めたのは、あなたでしょ?」


子供は目を丸くした。


それから、嬉しそうに頷いた。


「うん。私が決めた!」


その声が談話室へ明るく響いた。


少し離れた場所で様子を見ていた世話役も、穏やかに微笑んでいる。


アリシアはその表情を見て、少しだけ胸が温かくなった。


誰かを助けることは、相手の代わりにすべてを決めることではない。


学院の実技でも、昨日の研究でも、そして今の小さな遊びの中でも、そのことを少しずつ学んでいる気がした。


子供は完成した道をもう一度見つめたあと、アリシアへ顔を向けた。


「ねえ、今度はアリシアが道を作ってみる?」


アリシアは少し驚いた。


「……私が?」


「うん。私が見てるから」


その言葉に、アリシアは思わず笑った。


「……じゃあ、お願いしてもいい?」


「もちろん!」


子供は胸を張って答えた。


アリシアは木の駒を受け取り、今度は自分で道を作り始めた。


最初の曲がり角を少し狭くしすぎて、駒が途中で止まってしまう。


子供はそれを見て、嬉しそうに笑った。


「アリシア、そこ、ちょっと狭いよ!」


「……本当だ。どうしようかな」


「ここを広げたらいいと思う!」


アリシアは子供の提案を聞き、ゆっくり板を動かした。


今度は駒が最後まで進んだ。


二人は顔を見合わせて笑った。


その笑い声は、研究の結果とは関係のない、穏やかな時間の中へ溶けていった。


◇


昼前になると、サラが生活観測区画を訪れた。


彼女は談話室の入口で足を止め、机の上に広がった木の道を見て微笑んだ。いつもの研究用の厚い書類は持っておらず、手元にあるのは健康状態を確認するための薄い記録板だけだった。


「楽しそうだね。ずいぶん長い道ができたんじゃない?」


子供は顔を上げ、嬉しそうに頷いた。


「うん! アリシアと作ったの。途中で止まっちゃったけど、二人で直したんだよ」


「それはよかった。最後まで通れるようになったの?」


「なったよ。見てて!」


子供は木の駒を最初の位置へ置き、ゆっくり動かしてみせた。


駒は曲がり角を一つずつ抜け、最後の板まで進んだ。サラが小さく拍手すると、子供は満足そうに笑い、もう一度試そうと駒を戻した。


アリシアはその様子を見てから、サラへ顔を向けた。


「……おはようございます、サラさん」


「おはよう、アリシア。今日は身体の状態を確認しに来たんだ。少し時間をもらってもいい?」


「はい。大丈夫です」


サラは子供にも事情を説明し、アリシアと少し離れた窓際の席へ移動した。


窓の向こうでは、朝の霧がほとんど消えていた。庭木の葉にはまだ水滴が残っているものの、石畳の中央は乾き始め、通路を歩く世話役の影が薄く伸びている。


「昨日は試行のあと、きちんと休めた?」


「……はい。夜も眠れました」


「それならよかった。今朝から、痛みや息苦しさ、胸の冷感は出ていない?」


アリシアは一つずつ答えた。


痛みは零。


息苦しさも零。


胸の冷感、頭痛、吐き気、めまいも零。


疲労は二。


怖さは二。


昨日の試行直後より、身体も気持ちも落ち着いていた。


サラは記録板へ必要な内容を書き込み、少しだけ表情を和らげた。


「大きな変化はなさそうだね。でも、今日は予定どおり休息を優先しよう。何か新しい症状が出たら、すぐに教えて」


「……はい」


アリシアは頷いたあと、少し迷ってから尋ねた。


「あの……サラさん。昨日の結果について、今日は何か新しいことが分かったんですか?」


サラはすぐに答えず、記録板を閉じた。


その動作は、質問を避けるためではなかった。アリシアが何を知りたいのかを確かめるように、彼女の表情を見つめていた。


「昨日確定した主要判定については、変わっていないよ。東側が確認、西側が非確認で、不一致だった。新しい系列は二件で終了したし、今日、新しい人工刺激を行う予定もない」


「……はい」


「それ以上の意味については、まだ結論を出していない。記録を丁寧に整理する必要があるけれど、今日のうちに答えを決めなければならないわけでもないんだ」


アリシアは膝の上で指先を重ねた。


昨日から気になっていたことを、もう一度確かめたかった。


けれど、サラの返事を聞いて、少しだけ安心した。


「……昨日の結果が大切でも、急いで次のことを考えなくていいんですね」


「そうだね。特に今日は、試行の翌日だから」


サラは窓の外へ目を向けた。


「研究者は、気になる結果が出ると、どうしてもその先を考えたくなるものなんだ。別の条件ならどうなるだろう、違う場所なら何が起きるだろうってね。でも、考えたいことがあるからといって、その日のうちに新しい試行を決めていいわけじゃない」


アリシアは静かに耳を傾けた。


「昨日の段階で、今回の系列は二件で終わると決めていたでしょう。だから、二件目で不一致が出たからといって三件目を加えることはできない。結果が興味深い時ほど、最初に決めた約束を守る必要があるんだよ」


「……うん」


「それから、今までの別の系列と一緒にして、見かけ上の件数を増やすこともしない。似ている記録があっても、手順や条件が違えば、同じものとして扱えないからね」


サラの言葉は、研究室で何度も聞いてきた説明と同じだった。


それでも、昨日の結果を知った今、改めて聞くと少し違って感じられた。


不一致が観察されたことは、確かに嬉しかった。


けれど、その嬉しさがあるからこそ、もっと確かめたいという気持ちも生まれている。


その気持ち自体は悪くない。


ただし、気持ちに合わせて研究の約束を変えてはいけないのだ。


「……私、昨日から少し考えてたんです」


アリシアは小さな声で話し始めた。


「東側が確認で、西側が非確認だったのは、どうしてなんだろうって。前にも東と西が違ったことがあったから、何か関係があるのかなって思って……」


サラは静かに頷いた。


「そう考えるのは自然だと思うよ。ただ、今の段階では、同じ仕組みで起きたと断定できない。以前の記録と今回の記録では、確かめ方も違っているから」


「……はい」


「それに、アリシア自身が対象となる感覚を確認できなかったことも、そのまま残す必要がある。東西の判定が不一致だったことと、あなたが何かを感じたことは、同じ意味ではないんだ」


アリシアは頷いた。


昨日、自分は対象となる感覚を確認できなかった。


胸の冷感もなかった。


だから、その記録を勝手に変えてはいけない。


「……何も感じなかったことも、大切なんですね」


「もちろん。感じなかったことを正直に伝えてくれたからこそ、私たちはその記録を信頼できるんだよ」


サラは少しだけ微笑んだ。


「ありがとう、アリシア。昨日も、今日も、自分の状態を正直に話してくれて」


アリシアは少し頬を赤くした。


「……私は、聞かれたことに答えただけです」


「その『だけ』が、大切なことなんだよ」


サラの声は穏やかだった。


アリシアは返事をせず、窓の外へ視線を向けた。


研究に協力することは、何か特別な反応を起こすことではない。


何も感じなかったなら、何も感じなかったと伝える。


怖いなら、怖いと伝える。


疲れたなら、疲れたと伝える。


そして、やめたい時には、やめたいと言っていい。


その一つ一つが、研究を安全に進めるために必要なのだ。


◇


サラが帰ったあと、アリシアは談話室へ戻った。


子供は木の道を片づけ始めていたが、途中で一枚の板を手にしたまま考え込んでいる。どうやら、完成した道を壊すのが少し惜しくなったらしい。


「……どうしたの?」


アリシアが尋ねると、子供は板を見つめたまま答えた。


「せっかくできたから、明日もこのまま遊びたいなって」


「うん。じゃあ、残しておく?」


「でも、ここに置いておくと、ほかの人が机を使えないかもしれない」


アリシアは机の上を見た。


談話室の机は、食事の時間以外にも、読み書きや遊びに使われている。


子供が作った道をそのまま残せば、ほかの人が使える場所は少なくなるだろう。


けれど、今すぐ全部片づけなければならないとも限らない。


「……世話役さんに、置いておける場所があるか聞いてみようか」


子供は顔を上げた。


「聞いてもいいの?」


「うん。置けるかどうかは分からないけど、相談してみるのはいいと思うよ」


二人は近くにいた世話役へ声を掛けた。


世話役は机の上の道を見て、少し考えたあと、壁際の低い棚を指さした。


「その板なら、棚の下段に置けると思います。ただし、ほかの人も使う場所なので、全部を広げたままにはできません。いくつかの部分に分けて、箱へ入れておくのはどうでしょう?」


子供は少し考えた。


完成した道をそのまま残すことはできない。


けれど、全部を最初から作り直す必要もない。


「……じゃあ、曲がり角のところだけ残したい」


「いいですよ。箱へ入る大きさなら、そこだけ組んだままにしましょう」


世話役が答えると、子供は嬉しそうに頷いた。


アリシアは一緒に板を分け、曲がり角の部分だけを残して箱へ収めた。


ほかの板は元の場所へ戻し、机の上を丁寧に拭いた。


片づけが終わると、子供は棚の下段へ置かれた箱を見つめ、満足そうに笑った。


「明日、ここから続きを作れるね」


「うん。楽しみだね」


アリシアはそう答えながら、少し不思議な気持ちになった。


全部を残すことはできなかった。


けれど、全部を捨てる必要もなかった。


大切にしたい部分を選び、ほかの人が使う場所も守る。


その小さな相談の中にも、誰かと一緒に暮らすための大切なことが含まれている気がした。


子供は棚の箱をもう一度確かめてから、アリシアへ顔を向けた。


「アリシア、今日は少し休む?」


「……うん。午後はゆっくりしようと思う」


「じゃあ、また明日遊ぼうね」


「うん。約束」


子供は嬉しそうに頷き、風車の置かれた窓辺へ向かった。


アリシアはその後ろ姿を見送りながら、胸の奥に静かな温かさが残るのを感じた。


今日、何か大きな発見をしたわけではない。


けれど、こうして誰かと相談しながら過ごす時間も、自分にとって大切な一日なのだ。


◇


午後の生活観測区画には、昼食後の穏やかな静けさが広がっていた。


廊下を歩く人の数は少なく、窓から入る風が薄いカーテンをゆっくり揺らしている。庭の中央では世話役の一人が落ち葉を集めており、箒の穂先が石畳を擦る音が、開いた窓から時折聞こえてきた。


アリシアは自室へ戻り、椅子へ腰を下ろした。


机の上には、研究帳面と学院の帳面が並んでいる。


昨日の結果が記された研究帳面へ、自然と視線が向かった。


東側確認。


西側非確認。


不一致。


その三つの言葉は、昨夜から何度も思い返している。


アリシアは手を伸ばしかけたが、途中で止めた。


(……今日は、何かを確かめる日じゃない)


記録を読み返すこと自体が悪いわけではない。


けれど、今の自分は、読み返すことで何か新しい答えを見つけようとしている気がした。


昨日の結果を何度眺めても、そこに書かれた判定が変わるわけではない。


今まで分からなかった仕組みが、急に明らかになるわけでもない。


アリシアは研究帳面から手を離し、代わりに学院の帳面を開いた。


そこには、合同防壁実技の記録が残っている。


一回目は、フィオナが中央の出力を下げ、途中で難しさを申告したため安全に停止した。


二回目は、五人で声を掛け合い、予定された終了まで防壁を維持できた。


そして翌日、リーナとカイルが自分たちの班へ質問に来てくれた。


アリシアはその頁を見つめながら、少しだけ微笑んだ。


(……学院でも、分からないことはたくさんあるんだよね)


実技で次にどんな課題が出るのかは、まだ知らされていない。


出力を下げる位置が変われば、前回と同じ方法では上手くいかないかもしれない。


それでも、五人で話し合えば、何かを考えられる。


誰か一人が答えを持っていなくてもいい。


アリシアはそのことを思い出し、胸の奥の落ち着かなさが少しだけ和らぐのを感じた。


その時、窓辺からノアの声が聞こえた。


「何だ。今度は学院の勉強か?」


「……うん。昨日のこと、少し思い出してた」


「研究のことを考える代わりに、学院のことを考えてるわけか」


ノアは少し呆れたように言った。


「お前、休むって言葉の意味を知ってるか?」


アリシアは思わず顔を上げた。


「……知ってるよ」


「だったら、帳面を開くのをやめてみろ。少しくらい何もしない時間があっても、罰は当たらねえぞ」


アリシアは開いた帳面を見つめた。


確かに、今日は休息を優先する日だった。


研究帳面を開かなかったからといって、学院の記録を整理し続ければ、結局何かを考えていることになる。


「……でも、何もしないでいると、少し落ち着かないんだ」


アリシアが正直に答えると、ノアは目を細めた。


「知ってる。だから、少しずつ慣れろって言ってんだ」


「……慣れる?」


「そうだ。何かしてないと落ち着かねえなら、何もしない時間も練習すりゃいい」


アリシアは少し考えた。


魔法の練習なら、何をすればいいのか分かる。


出力を整える。


決められた位置を守る。


必要な時に声を掛ける。


けれど、何もしない時間の練習とは、どういうことなのだろう。


「……難しそう」


「お前にとっちゃ、案外そうかもな」


ノアはあっさり答えた。


「だが、難しいからって全部避けてたら、いつまでたっても休めねえだろ」


アリシアは少しだけ笑った。


「……ノアって、時々先生みたいだね」


「失礼な。俺はあんなに辛抱強くねえぞ」


その返事がおかしくて、アリシアは声を立てずに笑った。


ノアは不満そうに尻尾を動かしたが、それ以上は何も言わなかった。


アリシアは帳面を閉じ、机の端へ置いた。


それから椅子の背へ身体を預け、窓の外を眺めた。


庭の木々が、風に揺れている。


薄い雲が流れ、時折陽光が葉の間へ差し込む。


遠くで鳥が鳴いた。


誰かが廊下を歩く足音がして、やがて聞こえなくなった。


アリシアは何かを考えそうになるたび、目の前の景色へ意識を戻した。


最初は落ち着かなかった。


何かを忘れているような気がした。


けれど、少し時間が過ぎると、胸の奥の緊張がゆっくりほどけていった。


(……何もしなくても、時間はちゃんと進むんだ)


そんな当たり前のことを、今さら知ったような気がした。


ノアは窓辺で丸くなり、いつの間にか目を閉じていた。


アリシアはその姿を見て、小さく微笑んだ。


ノアはいつも、自分が無理をしそうになると止めてくれる。


けれど、今は何も言わずに眠っている。


それもまた、アリシアが自分で休む時間を選べると信じてくれているからなのかもしれない。


彼女はそう考えたあと、もう一度窓の外へ目を向けた。


◇


夕方近く、アリシアは談話室で温かな飲み物を受け取った。


世話役が用意してくれた薄い蜂蜜入りのお茶は、湯気とともに柔らかな香りを漂わせている。窓際では子供が紙の風車を眺めており、風が止まるたびに羽根も静かに止まっていた。


アリシアは椅子へ座り、両手で杯を包んだ。


しばらくすると、顔のない存在が少し離れた席へやってきた。


胸元の十一の光は、いつもと変わらない穏やかな明滅を続けている。


アリシアは小さく会釈した。


「……こんにちは」


顔のない存在は、静かに手を動かした。


その仕草が挨拶なのか、単に席へ座るための動きなのかは分からない。


けれど、アリシアは無理に意味を決めつけなかった。


以前なら、何かを理解しなければならないと思っていたかもしれない。


胸の光が何を表しているのか。


その存在が何を考えているのか。


なぜ、この場所にいるのか。


分からないことは、今もたくさんある。


けれど、分からないからといって、目の前の相手を観測対象としてだけ扱う必要はない。


アリシアは杯へ口をつけ、温かな飲み物を少し飲んだ。


顔のない存在も、静かに自分の時間を過ごしている。


その間に、特別な出来事は起きなかった。


新しい反応も、異常も、研究上の発見もなかった。


ただ、同じ部屋で穏やかな時間が流れていた。


子供が風車を持って近づいてきた。


「アリシア、今日は風が弱いね」


「……うん。あまり回らないね」


「でも、さっき少しだけ回ったよ」


子供は嬉しそうに言った。


アリシアは頷いた。


「……そうなんだ」


「明日はもっと回るかな?」


「どうだろう。風が吹いたら、回るかもしれないね」


子供は少し考えた。


「じゃあ、明日まで待ってみる」


その言葉に、アリシアは小さく微笑んだ。


待つこと。


それは、何もしないことと同じではない。


今できることを大切にしながら、まだ分からないことを急がずに置いておく。


その選択も、時には必要なのだ。


アリシアは窓の外へ目を向けた。


夕方の光が庭木の葉を照らし、風が通るたびに小さな影が揺れていた。


昨日、研究棟では新しい不一致が記録された。


けれど、今日の生活観測区画では、誰もその結果を理由に何かを急いでいない。


子供は風車を眺め、顔のない存在は静かに過ごし、世話役は夕食の準備を始めている。


そのことが、アリシアには嬉しかった。


◇


夕食のあと、アリシアは廊下の窓際で足を止めた。


生活観測区画の外には、すっかり夜の気配が広がっている。庭を照らす灯りが石畳へ淡い輪を落とし、その向こうでは木々の影がゆっくり揺れていた。


昼間、サラが話してくれたことを思い出す。


今回の独立前向き系列は、二件で終了した。


一件目は一致。


二件目は不一致。


それは、決められた条件で得られた二つの記録だった。


以前の閉じた系列でも、東西の判定が食い違ったことはある。


けれど、それを今回の二件と合算して、何かが証明されたと考えることはできない。


アリシアはそのことを理解していた。


それでも、少しだけ気になることがあった。


(……この先、何を確かめることになるんだろう)


新しい系列を計画するかどうかも、まだ決まっていない。


そもそも、次に人工刺激を行う必要があるのかどうかも、今は分からなかった。


そのことを考えると、胸の奥に小さな不安が生まれた。


答えへ近づいているのか。


それとも、分からないことが増えているだけなのか。


自分では判断できなかった。


「また難しい顔してるな」


足元からノアの声が聞こえた。


アリシアは少し驚いて振り返った。


「……ノア。起きてたの?」


「お前が部屋に戻ってこねえから、様子を見に来たんだよ」


ノアは窓際へ歩み寄り、アリシアの隣へ座った。


「で、今度は何だ?」


アリシアは少し考えた。


それから、正直に答えた。


「……昨日の結果のこと。二回のうち一回、不一致だったけど、それで何が分かったのかなって」


ノアは少しだけ耳を動かした。


「今日、サラに聞いたんだろ?」


「……うん。まだ仕組みは分からないって」


「なら、今はそれが答えだろ」


アリシアは静かに頷いた。


けれど、すぐには気持ちが落ち着かなかった。


「……でも、せっかくみんなが準備してくれたのに、まだ分からないままでいいのかなって」


ノアはしばらく黙っていた。


それから、少し低い声で答えた。


「お前な。分からないことを分からないまま残すのが、そんなに悪いことか?」


アリシアは顔を上げた。


「……悪いことじゃないと思う」


「だったら、それでいいだろ。無理やり答えを作る方が、よっぽど厄介だ」


ノアは尻尾をゆっくり動かした。


「研究者連中だって、昨日の結果を見てすぐに結論を出さなかったんだろ。だったら、お前が一人で結論を出そうとする必要なんかねえよ」


アリシアはその言葉を聞き、少しだけ息を吐いた。


昨日の研究室では、誰も結果を大きく見せようとしなかった。


副学長もサラも、記録担当者も、決められた手順を守りながら結果を受け止めていた。


その姿を見て、自分は安心したはずだった。


それなのに、いつの間にか、何か答えを見つけなければならないと思い始めていた。


「……私、また急いでたのかな」


「少しな」


ノアはあっさり答えた。


「だが、気づいたならそれでいい。今日のところは、もう終わりにしとけ」


アリシアは小さく笑った。


「……うん」


二人はしばらく、窓の外を眺めていた。


夜風が庭木を揺らし、遠くで葉の擦れる音が聞こえる。


廊下の奥からは、夕食の片づけを終えた世話役たちの声がかすかに届いていた。


研究の答えは、まだ出ていない。


けれど、今日という日を穏やかに終えることはできそうだった。


◇


自室へ戻ると、アリシアは机の前へ座った。


研究帳面は、昨夜閉じた位置のまま置かれている。


その隣には、学院の帳面と、日々の出来事を書き留める小さな日記帳があった。


アリシアは少し迷ってから、日記帳を開いた。


今日は研究の新しい結果を書き加える日ではない。


学院で新しい実技をした日でもない。


けれど、何も書くことがないわけではなかった。


アリシアは筆を取り、ゆっくり文字を並べた。


『今日は、昨日の試行の翌日だったので、人工刺激は行わなかった。朝の身体の状態は落ち着いていて、痛みや息苦しさ、胸の冷感もなかった。』


『子供と木の駒で道を作った。途中で止まってしまったけれど、子供が自分で考えて直せた。私は、すぐに手を出さずに見守ることができた。』


『サラさんが来て、身体の状態を確認してくれた。昨日の結果は大切だけれど、まだ仕組みが分かったわけではないと教えてくれた。』


そこまで書くと、アリシアは筆を止めた。


今日、一番大切だったことは何だろう。


研究を休んだこと。


子供と遊んだこと。


何もしない時間を過ごしたこと。


サラやノアと話したこと。


どれも大切だった。


けれど、アリシアはもう一つ、書き残しておきたいことがあった。


『答えを知りたい気持ちがあっても、約束を変えなくていい。分からないことを、分からないまま大切に残しておくこともできる。』


その一行を書き終えると、アリシアは少しだけ微笑んだ。


以前なら、分からないことがあると、自分が何とかしなければならないと思っていた。


誰かが困っていれば、すぐに助けなければならないと思っていた。


研究で答えが出なければ、自分の力が足りないのではないかと考えていた。


けれど、今は少し違う。


誰かを助ける時には、相手が何を望んでいるのかを確かめられる。


自分が難しい時には、助けを求めてもいいと思える。


そして、答えが出ない時には、無理に結論を作らず、待つこともできる。


アリシアは日記帳を閉じた。


机の端には、昨日までの研究記録が残っている。


新しい独立前向き系列は、二件で終了した。


第一実施試行は東側確認、西側確認で一致。


第二実施試行は東側確認、西側非確認で不一致。


本人の対象感覚は、どちらの試行でも確認されていない。


その記録は、今夜も変わらなかった。


そして、変える必要もなかった。


「おい。そろそろ寝るぞ」


寝台からノアの声が聞こえた。


アリシアは顔を上げた。


「……うん。もう終わったよ」


「今日はちゃんと休めたか?」


アリシアは少し考えた。


朝は、研究の結果が気になっていた。


昼間も、何度か考え込んでしまった。


けれど、子供と遊び、サラと話し、何もしない時間を過ごすことができた。


「……うん。少しだけ、休むのが上手くなった気がする」


ノアは小さく鼻を鳴らした。


「そりゃ結構だ。明日からも、その調子で頼む」


アリシアは小さく笑った。


「……毎日休んでたら、学院に行けなくなっちゃうよ」


「誰が毎日寝てろって言った。休む時にちゃんと休めって話だ」


その返事がおかしくて、アリシアは声を立てずに笑った。


ノアは少し不満そうに尻尾を動かしたが、それ以上は何も言わなかった。


アリシアは灯りを落とし、寝台へ向かった。


窓の外では、夜風が庭木の葉を揺らしている。


研究の答えは、まだ出ていない。


六つ目の神器の正体も、東側と西側の反応が何を意味するのかも、分からないままだ。


けれど、今日も守れた約束がある。


人工刺激を行わず、身体を休めること。


子供が自分で決める時間を奪わないこと。


顔のない存在を、研究の結果だけで見ないこと。


そして、自分の気持ちを置き去りにしないこと。


アリシアは掛け布を引き上げ、隣で丸くなったノアへ視線を向けた。


「おやすみ、ノア」


「おう。明日は学院だろ。ちゃんと寝とけよ」


「……うん」


アリシアは静かに目を閉じた。


答えを急がない日にも、守りたいものがある。


今日、何か大きな発見をしたわけではない。


それでも、誰かと笑い、相談し、休むことを選べた一日は、決して何もなかった日ではなかった。


窓の向こうで、夜風がもう一度、木々の葉を揺らした。


アリシアはその音を聞きながら、ゆっくり眠りへ落ちていった。


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