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『忘れられた六つ目の神器に選ばれました 〜人見知りな闇の少女と毒舌黒猫の学園英雄譚〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第284話 答えを知る日にも、自分の気持ちは置いていかない


朝の生活観測区画には、いつもより少し早く人の気配があった。


廊下の向こうで台車が動く音がして、誰かが小さな声で挨拶を交わしている。窓の外には薄い雲が広がっていたが、夜明けから降り続いていた雨はすでに上がり、庭の石畳には淡い朝の光が落ちていた。


アリシアは寝台の中で目を開け、しばらく天井を見つめていた。


今日は、研究棟で第二実施試行の可否を最終確認する日だった。


候補日として予定に残されていた日が、ようやく訪れたのである。


けれど、今日になったからといって、必ず試行を行うと決まっているわけではない。


設備の状態、独立した安全確認、関係者の準備、そしてアリシア自身の意思。そのすべてを確認したうえで、実施できるかどうかを判断することになっていた。


(……今日、確かめることになるのかな)


アリシアは掛け布の上へ手を置いた。


胸の奥に、痛みはない。


息苦しさも感じない。


頭痛やめまいもなく、身体の状態だけなら普段と変わらない朝だった。


それでも、心の中には小さな緊張があった。


前回の新しい試行では、東側と西側の判定が一致した。


どちらも確認という結果だった。


そのこと自体は、決められた方法で得られた大切な記録であり、失敗ではない。


けれど、今回の研究で確かめようとしているのは、独立した新しい記録でも東西の判定が食い違うことがあるのか、という点だった。


前回は一致した。


今日も一致するかもしれない。


あるいは、違う結果になるかもしれない。


アリシアには、まだ分からなかった。


「おい。起きてるなら、そろそろ布団から出ろ」


寝台の足元から、ノアの声が聞こえた。


アリシアが顔を向けると、黒猫は前足を揃えて座り、じっとこちらを見つめていた。


「……おはよう、ノア」


「おう。顔色は悪くねえな」


「うん。身体は大丈夫だよ」


「身体は、か」


ノアは少しだけ尻尾を動かした。


アリシアはその言葉に、思わず視線を落とした。


「……ちょっと、緊張してる」


「そりゃそうだろ。今日は結果が出るかもしれねえ日なんだからな」


ノアはあっさり答えた。


「だが、緊張してることと、やりたくねえことは別だ。そこを自分で確かめとけよ」


アリシアは静かに頷いた。


研究へ参加したい気持ちはある。


東側と西側の反応について、もう少し知りたいとも思っている。


けれど、知りたいからといって、何があっても続けなければならないわけではない。


そのことは、何度も確認してきた。


「……うん。今日は、ちゃんと自分で決める」


「ならいい。誰かが期待してるからって、勝手に背負い込むんじゃねえぞ」


アリシアは小さく笑った。


「……昨日も、似たようなことを先生に言われたよ」


「ほう。教師もなかなか分かってるじゃねえか」


ノアは満足そうに鼻を鳴らした。


アリシアは寝台から起き上がり、窓の外へ目を向けた。


雨上がりの庭には、まだ小さな水滴が残っている。


その一つ一つが朝の光を受け、静かに輝いていた。


◇


朝食の時間、生活観測区画の食堂には温かなスープの香りが広がっていた。


子供はいつもの席でパンを小さくちぎり、皿の上へ並べている。向かい側には顔のない存在が静かに座っており、胸元に並ぶ十一の光は、昨日と変わらない穏やかな明滅を続けていた。


アリシアが席へ近づくと、子供が顔を上げた。


「アリシア、おはよう!」


「おはよう」


「今日は学校?」


アリシアは少しだけ迷ったあと、首を横へ振った。


「今日はね、研究棟で確認することがあるんだ」


子供はパンを持ったまま、少し首を傾げた。


「また、東と西のこと?」


「うん。でも、今日必ず何かをするって決まってるわけじゃないよ。先に、みんなで安全にできるか確かめるの」


子供は少し考えた。


「安全じゃなかったら、やらないの?」


「うん。やらないよ」


「アリシアが嫌だったら?」


アリシアは子供を見つめた。


その質問は、研究棟で何度も確認されてきたことと同じだった。


けれど、子供の口から聞くと、少し違う重みがあった。


「……私が嫌だったら、やらない」


アリシアが答えると、子供は安心したように頷いた。


「じゃあ、よかった」


アリシアは小さく微笑んだ。


「……ありがとう」


子供は不思議そうに瞬きをした。


「どうしてありがとう?」


「心配してくれたから」


子供は少し照れたように笑い、またパンをちぎり始めた。


その隣で、顔のない存在が静かに手を動かし、皿の位置を少し整えた。


アリシアはその様子を見ながら、胸の奥が温かくなるのを感じた。


この場所では、研究の結果とは関係なく、朝食の時間が続いている。


子供は今日も食べたいものを選び、顔のない存在も自分の時間を過ごしている。


厚い布に包まれた木箱は、決められた場所に置かれたままだった。


中身を確かめる予定も、誰かが触れる予定もない。


アリシアはそのことを確認すると、朝食へ意識を戻した。


今日は研究のことを考える日になるかもしれない。


けれど、今は朝食を食べる時間だった。


◇


研究棟へ向かう廊下は、普段よりも静かだった。


アリシアはノアと並んで歩きながら、窓の外へ目を向けた。


庭の木々は雨に濡れ、葉の先から時折雫が落ちている。遠くの学院校舎からは授業開始を告げる鐘が聞こえ、いつもなら教室へ向かっている時間なのだと気づかされた。


(……みんな、今頃は授業かな)


メリルは今日も明るく挨拶しているだろうか。


エドガーは昨日の実技記録を整理しているかもしれない。


フィオナは、昨日のことを少し自信に変えられただろうか。


テオはいつものように落ち着いた顔で、授業を聞いているのだろう。


そんなことを考えていると、胸の奥の緊張が少しだけ和らいだ。


学院には、研究とは別の時間がある。


そのことが、今のアリシアには大切だった。


「おい。歩くのが遅くなってるぞ」


ノアの声に、アリシアは我に返った。


「……ごめん。みんなのこと考えてた」


「別に謝ることじゃねえだろ。だが、階段でぼんやりして転ぶなよ」


「……うん」


アリシアは小さく笑い、歩幅を整えた。


研究棟の入口へ着くと、サラが待っていた。


彼女はいつものように落ち着いた表情をしていたが、手元には複数の確認書類が重ねられている。


「おはよう、アリシア。ノアも」


「おはようございます」


「おう。今日は随分と書類が多いな」


ノアが書類へ視線を向けると、サラは少しだけ笑った。


「今日は実施の可否を最終確認する日だからね。設備の確認、安全担当者の確認、判定手順の確認、それからアリシア本人の意思確認。どれか一つでも条件が整わなければ、今日は行わない」


アリシアは頷いた。


「……はい」


サラは彼女の顔を見つめ、少し声を和らげた。


「緊張してる?」


「……少し」


「そうだと思う。でも、緊張していることを隠す必要はないよ。今日の判断に必要なことだから、正直に話してくれればいい」


アリシアは静かに頷いた。


サラはその返事を確認すると、二人を研究室へ案内した。


◇


研究室には、副学長、記録担当者、若い観測担当者、安全担当者が揃っていた。


机の上には、今回の独立前向き系列に関する固定済みの手順書が置かれている。東側と西側の判定記録を別々に扱うための書類も準備されていたが、まだどちらにも新しい結果は書き込まれていない。


アリシアは指定された椅子へ座り、ノアはその隣の床へ腰を下ろした。


副学長が穏やかな声で挨拶した。


「おはよう、アリシア。今日は第二実施試行の候補日です。まずは、実施できる状態かどうかを確認します」


「……はい」


「最初に、現在の身体の状態を教えてください」


安全担当者が記録紙を開いた。


アリシアは一つずつ質問へ答えた。


痛みはない。


息苦しさもない。


胸の冷感はない。


頭痛、吐き気、めまいも感じていない。


疲労は二。


怖さは三。


参加したい気持ちは八。


結果を知りたい気持ちも八。


安全担当者は数値を記録し、アリシアへ確認した。


「疲労二、怖さ三ですね。現在の状態で、参加を避けたいほどの不安はありますか?」


アリシアは少し考えた。


怖さはある。


けれど、それは今すぐやめたいという気持ちとは違っていた。


「……いいえ。緊張はしていますけど、参加したいです」


安全担当者は頷いた。


「分かりました。ただし、途中で気持ちが変わった場合は、その時点で伝えてください。参加したい気持ちがあることと、最後まで続ける義務があることは別です」


「……はい」


続いて、設備担当から確認結果が報告された。


東側と西側の観測装置は、固定済みの安全範囲内で使用できる状態にある。


記録時刻の照合にも問題はない。


判定担当者の独立性も維持されている。


ただし、これらは実施条件が整っていることを示すものであり、何らかの反応が起きることを保証するものではない。


副学長は一つずつ確認し、記録担当者へ視線を向けた。


「今回の主要判定項目を、改めて読み上げてください」


記録担当者は手順書を開いた。


「固定済み安全範囲内、早期位置の単一意図的小変動条件において、東側奥部対象反応と西側対象反応の確認・非確認判定の不一致が、独立した新規記録でも再観察されるかを確認します」


研究室は静かだった。


記録担当者は続けた。


「主要判定は、東側と西側の二値判定の一致・不一致です。反応の方向や、アリシア本人の感覚は副次的な記録として扱います。結果を見たあとで主要判定項目を変更することはありません」


副学長が頷いた。


「今回の系列は最大二件です。今日実施した場合、結果がどうであっても三件目は追加しません。また、今日の結果を受けて、新しい人工刺激系列の計画や決定を行うこともありません」


アリシアはその言葉を聞き、静かに頷いた。


今回の研究は、何度も試して都合のよい結果を探すものではない。


決められた条件で二回まで確かめる。


そして、そこで得られた記録を、そのまま受け止める。


その約束は、今日も変わらなかった。


◇


すべての確認が終わったあと、サラがアリシアの前へ椅子を寄せた。


「ここからは、アリシア自身の意思を確認するね」


アリシアは背筋を伸ばした。


サラは書類を机へ置き、穏やかな声で続けた。


「今日の試行では、前回と同じ固定条件を使う。刺激を強くしたり、別の変化を重ねたりすることはない。何も感じないことも、そのまま記録になるから、感じていないものを探して報告する必要はないよ」


「……はい」


「途中で怖さが五になったら相談、六になったら停止。冷感は二で相談、二・五で停止。痛みや息苦しさが一でも出たら、すぐに伝えてね。疲労も四になったら相談、五以上なら延期や中止を判断する」


アリシアは頷いた。


何度も確認してきた条件だった。


けれど、今日も一つずつ聞くことで、自分が何を守ればよいのかを確かめられた。


「それから、参加したい気持ちが変わったら、いつでも言っていい。結果が知りたいからといって、無理に続ける必要はないよ」


サラは少しだけ間を置いた。


「アリシア。今日、第二実施試行へ参加したい?」


研究室の空気が静かになった。


副学長も、記録担当者も、若い観測担当者も、誰も言葉を挟まなかった。


ノアも黙ってアリシアを見上げている。


アリシアは自分の手元へ視線を落とした。


少しだけ緊張している。


怖さは三。


けれど、今は参加したい。


自分で決めた条件を守りながら、もう一度確かめたい。


アリシアはゆっくり顔を上げた。


「……はい。参加したいです」


サラは静かに頷いた。


「分かった。ありがとう。じゃあ、今日の試行を実施する方向で進めるね。ただし、開始直前にも状態を確認するから、その時に変わっていたら遠慮なく言って」


「……はい」


副学長は安全担当者へ視線を向けた。


安全担当者は確認書類を見直し、静かに答えた。


「現時点で、実施を妨げる条件は確認されていません。開始直前の状態確認を条件に、実施可能と判断します」


副学長が頷いた。


「では、準備を進めましょう」


研究室の空気が、少しだけ動いた。


けれど、誰も急いではいなかった。


今日の試行は、早く結果を得るためのものではない。


決められた条件を守り、正確な記録を残すためのものだった。


◇


観測室へ移動すると、アリシアはいつもの椅子へ座った。


壁際には記録装置が並び、低い作動音が静かに響いている。東側と西側の判定担当者は、それぞれ別の記録系統を確認しており、互いの判定内容を知ることができない配置になっていた。


アリシアは椅子の背へ身体を預け、ゆっくり息を整えた。


ノアは少し離れた場所から、彼女の様子を見守っている。


「おい。無理に何か感じようとするなよ」


ノアが小さな声で言った。


「……うん」


「何も感じなかったら、それでいい。お前の仕事は、研究者が欲しがる答えを出すことじゃねえ」


アリシアは静かに頷いた。


その言葉は、サラから聞いた説明と重なっていた。


何も感じないことも、そのまま記録になる。


感じていないものを探して報告する必要はない。


アリシアはそのことを心の中で繰り返した。


開始直前の状態確認でも、痛みや息苦しさ、胸の冷感などの新しい症状はなかった。


疲労は二。


怖さは三。


参加したい気持ちも変わっていない。


安全担当者は最終確認を終え、実施可能であることを報告した。


サラがアリシアへ視線を向けた。


「それじゃあ、始めるね。途中で何かあったら、すぐに伝えて」


「……はい」


アリシアは椅子の肘掛けへ手を置き、静かに前を向いた。


観測室の空気が、ゆっくり落ち着いていく。


◇


試行は、固定された手順どおりに始まった。


最初の確認では、装置の状態に問題はなかった。


観測担当者たちは互いに必要な情報だけを伝え、判定に関わる内容は独立した記録系統へ残していく。


アリシアは呼吸を整えながら、自分の身体の状態へ意識を向けた。


胸の冷たさはない。


痛みもない。


息苦しさも感じない。


ただ、研究室の静けさの中で、自分の鼓動がいつもより少しはっきり聞こえる気がした。


(……緊張してるんだな)


アリシアはそう思った。


けれど、その感覚を何か特別な反応だと決めつけることはしなかった。


緊張している時に鼓動を意識することは、これまでもあったからだ。


やがて、予定された早期位置の単一意図的小変動が、固定済みの安全範囲内で実施された。


刺激は一度だけだった。


強さを増やすことも、別の変化を重ねることもなかった。


アリシアは静かに座り、自分の身体に何か変化があるかを確かめた。


胸の冷感はない。


痛みもない。


息苦しさもない。


何かを感じようと意識を強めることはせず、自然に気づいたことだけを確認していた。


少し時間が過ぎた。


観測室の奥では、記録装置が静かに作動している。


サラはアリシアの表情を見守りながら、必要な時だけ状態を確認した。


「アリシア、今のところ身体の変化はある?」


「……ありません」


「分かった。そのままで大丈夫だよ」


アリシアは頷いた。


何も感じないことに、少しだけ落ち着かなさが生まれた。


前回も、対象となる感覚は確認できなかった。


今回も、今のところは何も感じていない。


(……これで、いいんだよね)


そう思った時、ノアの声が頭に浮かんだ。


何も感じなかったら、それでいい。


研究者が欲しがる答えを出す必要はない。


アリシアはゆっくり息を吐いた。


自分が感じていないものを、感じたことにはできない。


それでいい。


◇


予定された観測時間が終わると、サラが静かに声を掛けた。


「ここまでで終了するね。アリシア、今の身体の状態を教えて」


アリシアは一つずつ確認した。


痛みはない。


息苦しさもない。


胸の冷感もない。


頭痛、吐き気、めまいも感じていない。


疲労は三。


怖さは二。


安全担当者は記録を確認し、アリシアへ頷いた。


「大きな変化はありませんね。今日はこのあと、休息を優先してください」


「……はい」


アリシアは少しだけ肩の力を抜いた。


試行は終わった。


途中で停止する必要はなかった。


けれど、結果はまだ知らされていない。


東側と西側の判定担当者が、それぞれ独立して記録を確定する必要があるからだ。


アリシアは椅子に座ったまま、静かに待った。


少し離れた場所では、記録担当者が書類を整理している。


若い観測担当者は東側の記録系統を確認し、別の担当者は西側の記録を確定していた。


互いの判定内容が先に伝わることはなかった。


アリシアはその様子を見ながら、胸の奥に小さな緊張が戻ってくるのを感じた。


(……どうなったんだろう)


前回は一致だった。


今回は、どうだろう。


何も感じなかった自分の身体の状態と、東西の反応がどう関係するのかは分からない。


けれど、結果を知りたい気持ちは確かにあった。


ノアが椅子の近くへ歩いてきた。


「落ち着かねえか?」


「……うん。少し」


「そりゃそうだろ。だが、今からお前が何か考えたところで、記録は変わらねえ」


アリシアは小さく笑った。


「……そうだね」


「だったら、待ってろ。変に予想して一人で疲れるなよ」


アリシアは頷いた。


その言葉に従い、ゆっくり息を整えた。


◇


しばらくして、記録担当者が副学長へ二つの封書を渡した。


東側と西側、それぞれの判定が確定したことを示す書類だった。


副学長は封書の状態を確認し、記録担当者へ視線を向けた。


「両方とも、独立した判定として確定していますか?」


「はい。相互の判定内容を参照せず、固定済みの手順に従って確定されています」


副学長が頷いた。


「では、アリシアにも同時に知らせましょう」


アリシアは背筋を伸ばした。


サラが隣へ座り、静かに声を掛けた。


「結果を伝えるね。どんな結果でも、今日の記録としてそのまま受け止めることになる。準備はいい?」


アリシアは少しだけ息を吸った。


「……はい」


副学長は二つの判定書類を開き、内容を確認した。


研究室の空気が静かになる。


そして、副学長は落ち着いた声で結果を読み上げた。


「第二実施試行の判定は、東側が確認、西側が非確認です」


アリシアは一瞬、言葉を失った。


東側は確認。


西側は非確認。


つまり、今回の新しい独立した記録では、東西の判定が一致しなかった。


副学長は続けた。


「主要判定項目である東西の二値判定について、今回は不一致が観察されました」


研究室の中で、誰かが小さく息を吸う音がした。


けれど、歓声は上がらなかった。


誰も、すぐに結論を口にしなかった。


アリシアは手元を見つめた。


(……不一致、だったんだ)


胸の奥に、何とも言えない感情が広がった。


嬉しいのか、驚いているのか、自分でもよく分からなかった。


前回は一致だった。


今回は不一致だった。


そのことは、確かに新しい記録だった。


けれど、これで六つ目の神器の正体が分かったわけではない。


東側と西側の間に、どのような関係があるのかを証明できたわけでもない。


アリシアはそのことを理解していた。


それでも、胸の奥には小さな期待が生まれていた。


「……サラさん」


「うん?」


「今回、不一致だったんですね」


サラは静かに頷いた。


「そうだよ。今回の固定条件では、東側が確認、西側が非確認という判定になった」


アリシアは少しだけ視線を落とした。


「……前回は一致だったから、二回のうち一回だけ、不一致だったってことですよね」


「そう。ただし、この二回だけで、何かの仕組みが証明されたとは言えないよ」


サラは穏やかな声で続けた。


「今回の目的は、独立した新しい記録でも不一致が観察されるかどうかを確かめることだった。その意味では、今回の記録は大切な結果になる。でも、なぜそうなったのかは、まだ分からない」


アリシアは頷いた。


分からないことは、まだ残っている。


けれど、今日の結果を知れたことは嬉しかった。


「……はい」


サラはアリシアの表情を見つめ、少しだけ微笑んだ。


「嬉しい?」


アリシアは少し考えた。


それから、正直に答えた。


「……少し、嬉しいです。でも、ちょっと怖い気もします」


「うん。そう感じてもいいんだよ」


サラは静かに頷いた。


「結果を見て嬉しくなることも、不安になることもある。でも、その気持ちと、記録の内容は別にして扱う。アリシアが嬉しいと思ったからといって、結果を大きく見せる必要はないし、怖いと思ったからといって、なかったことにする必要もない」


アリシアはその言葉を聞き、胸の奥が少し軽くなった。


嬉しいと思ってもいい。


怖いと思ってもいい。


ただし、その気持ちで記録を変えてはいけない。


それは、学院で学んだこととも重なっていた。


自分の気持ちを大切にしながら、起きたことを正確に受け止める。


その両方が必要なのだ。


◇


結果の確認が終わったあと、副学長は研究室の全員へ視線を向けた。


「今回の独立前向き系列は、これで二件すべての実施を終えました」


記録担当者が頷いた。


「第一実施試行は東側確認、西側確認で一致。第二実施試行は東側確認、西側非確認で不一致です」


副学長は静かに続けた。


「この系列では、一致が一件、不一致が一件観察されました。ただし、これを過去の閉じた系列と合算して、新しい結論を出すことはしません」


研究室の全員が頷いた。


以前の閉じた系列では、三件のうち一件で不一致が観察されていた。


けれど、その記録は今回とは別の手順で得られたものだった。


同じような結果があったとしても、条件の違いを無視して一つにまとめることはできない。


副学長は続けた。


「また、今日の結果を受けて、新しい人工刺激系列を計画することもしません。今日は記録の確定と、アリシアの休息を優先します」


サラが頷いた。


「明日も人工刺激は行わない予定です。今日の試行の翌日は、決められた休息日として扱います」


アリシアは静かに頷いた。


今日の結果は、確かに大切だった。


けれど、その結果が出たからといって、すぐに次の刺激を試すわけではない。


その約束が守られていることに、アリシアは安心した。


若い観測担当者は記録紙を見つめ、何かを考えているようだった。


けれど、すぐに新しい仮説を口にすることはなかった。


彼もまた、今日の結果をどう扱うべきかを理解していた。


副学長は最後に、アリシアへ視線を向けた。


「今日はよく協力してくれました。ありがとう。ただし、結果が出たことよりも、あなたが自分の意思で参加し、決められた条件を守りながら終えられたことを大切にしたいと思います」


アリシアは少しだけ目を見開いた。


その言葉は、昨日の実技担当教師が話してくれたことと似ていた。


結果だけではない。


どう判断し、どう行動したのか。


そのことも、大切に見てもらえている。


「……ありがとうございます」


アリシアは静かに頭を下げた。


◇


研究棟を出る頃には、午後の光が廊下へ差し込んでいた。


アリシアはノアと並んで歩きながら、窓の外へ目を向けた。


雨上がりの庭には、まだ小さな水たまりが残っている。


風が吹くたびに木々の葉が揺れ、光を受けた雫がきらりと輝いた。


「おい。どうした?」


ノアが尋ねた。


アリシアは少し考えてから答えた。


「……結果が出たんだなって思って」


「そりゃ出ただろ。二回目まで終わったんだからな」


「うん。でも、まだ何も分かったわけじゃないんだよね」


ノアは少しだけ耳を動かした。


「何も、ってことはねえだろ。決められた条件で、今回は東西の判定が食い違った。それは分かったんじゃねえか」


アリシアは顔を上げた。


「……うん」


「ただし、それが何を意味するかは別だ。そこをごちゃ混ぜにするなって話だろ」


アリシアはゆっくり頷いた。


今回の結果は、不一致だった。


それは事実だ。


けれど、なぜ不一致になったのかは分からない。


六つ目の神器が状態を共有しているのか、何かを中継しているのか、それとも別の仕組みなのか。


その答えは、まだ出ていない。


「……ノア」


「何だ」


「私、ちょっと嬉しかったんだ」


「そうか」


「でも、嬉しいって思ったら、いけないのかなって少し思った」


ノアは足を止めた。


アリシアも立ち止まり、黒猫を見下ろした。


「何でだよ」


「だって、結果を大きく見せちゃいけないって、ずっと言われてたから……」


ノアは少し呆れたように鼻を鳴らした。


「お前な。嬉しいと思うことと、記録を盛ることは別だろ」


アリシアは瞬きをした。


「……うん」


「嬉しいなら嬉しいでいい。怖いなら怖いでいい。ただ、そこから勝手に『だから六つ目の正体が分かった』なんて言い出さなきゃいいだけだ」


アリシアは少し考えた。


それから、小さく笑った。


「……そうだね」


「まったく。感情まで研究記録みたいに整理しようとするなよ」


ノアはそう言って、再び歩き始めた。


アリシアはその後ろを追いながら、胸の奥に残っていた緊張が少しずつほどけていくのを感じた。


嬉しいと思ってもいい。


怖いと思ってもいい。


ただし、起きたことは起きたこととして、正確に残す。


その両方を大切にすればいいのだ。


◇


生活観測区画へ戻ると、子供が窓際で木の駒を並べていた。


昨日よりも少し長い道が作られており、途中には小さな曲がり角が増えている。子供は駒を一つずつ動かしながら、どうすれば最後まで進めるか考えているようだった。


「アリシア、おかえり!」


「ただいま」


アリシアが微笑むと、子供は嬉しそうに顔を上げた。


「今日は研究だったんだよね?」


「うん」


「どうだった?」


アリシアは少しだけ考えた。


研究の結果をどこまで話してよいのかは、相手によって違う。


子供には、必要以上に難しいことを伝える必要はない。


けれど、今日自分がどう感じたのかなら、話してもいいと思った。


「……今日はね、決められたことを最後までできたよ」


子供は嬉しそうに笑った。


「よかったね!」


「うん。少し緊張したけど、ちゃんと終わったよ」


子供は木の駒を置き、アリシアの顔を見つめた。


「アリシア、嬉しそう」


アリシアは少し驚いた。


昨日も、同じようなことを言われた気がする。


「……そうかな」


「うん。でも、ちょっと疲れてる?」


アリシアは自分の身体の状態を確かめた。


疲労は三。


痛みや息苦しさはない。


けれど、朝から研究棟で緊張していたこともあり、少し休みたい気持ちはあった。


「……うん。今日は少し疲れたから、あとで休もうと思う」


子供は頷いた。


「じゃあ、今は遊ばない?」


アリシアは少し考えた。


子供と一緒に過ごしたい気持ちはある。


けれど、今日は無理をせず休息を優先することになっている。


「……少しだけお話しして、それから休んでもいい?」


子供は嬉しそうに頷いた。


「うん! じゃあ、ここに座って!」


アリシアは子供の隣へ座り、木の駒の道を眺めた。


顔のない存在は、少し離れた場所で静かに過ごしている。


胸元の十一の光に新しい変化は見られず、厚い布に包まれた木箱も、決められた場所に置かれたままだった。


今日、研究棟では新しい記録が得られた。


けれど、この場所では、いつもの生活が続いている。


子供は木の駒を並べ、顔のない存在は自分の時間を過ごし、アリシアは少し疲れた身体を休めようとしている。


その一つ一つが、研究の結果とは別に大切だった。


◇


夜になり、アリシアは自室で今日の出来事を整理していた。


机の上には研究帳面が開かれている。


アリシアは今日の結果を、決められたとおりに書き留めた。


『第二実施試行。固定済み安全範囲内、早期位置の単一意図的小変動を一度だけ実施。』


『東側判定:確認。西側判定:非確認。主要判定項目では不一致。』


『本人の対象感覚:確認なし。痛み、息苦しさ、胸の冷感、頭痛、吐き気、めまいなし。』


『試行後、疲労三、怖さ二。』


そこまで書くと、アリシアは筆を止めた。


新しい独立前向き系列は、これで二件すべてが終わった。


第一実施試行は一致。


第二実施試行は不一致。


それ以上でも、それ以下でもない。


アリシアはしばらく記録を見つめた。


胸の奥には、まだ小さな期待が残っている。


けれど、その期待を記録へ混ぜることはしなかった。


今日の結果は、今日の結果として残す。


そのことが、今の自分にできる大切な仕事だった。


アリシアは研究帳面を閉じ、隣に置いていた学院の帳面へ視線を向けた。


昨日、教師から教わった言葉が書かれている。


『見守ることも、何もしないこととは違う。必要な時に動けるように、ちゃんと見て、考えることが大切。』


アリシアはその一行を見つめ、少しだけ笑った。


今日の研究でも、サラや副学長たちは、すぐに結論を出そうとはしなかった。


結果が出たからといって、次の刺激を急いで計画することもなかった。


必要な記録を残し、休息を優先する。


それもまた、見守ることなのかもしれない。


「おい。まだ起きてたのか」


寝台からノアの声が聞こえた。


アリシアは顔を上げた。


「……うん。今日のこと、書いてた」


「もう十分だろ。今日は疲れてるんだから、さっさと寝ろ」


アリシアは小さく笑った。


「……うん。もう終わったよ」


ノアは少しだけ目を細めた。


「で、どうだった?」


「……何が?」


「今日の結果を知って、今はどう思ってるんだよ」


アリシアは少し考えた。


嬉しかった。


驚いた。


少し怖かった。


けれど、今はそれだけではなかった。


「……まだ、分からないことがたくさんあるなって思う」


「そりゃそうだろ」


「でも、今日の結果を知れてよかったとも思う」


ノアは静かに頷いた。


「なら、それでいいんじゃねえか」


アリシアは少しだけ笑った。


「……うん」


ノアは尻尾を揺らしながら続けた。


「ただし、明日は休めよ。今日の結果が気になるからって、勝手に研究室へ行って何か始めようとするな」


「……しないよ」


「本当か?」


「本当だよ。明日は人工刺激をしないって決まってるし、私も休みたいから」


ノアは満足そうに鼻を鳴らした。


「なら結構だ」


アリシアは灯りを落とし、寝台へ向かった。


窓の外では、雨上がりの夜風が庭木の葉を揺らしている。


今日、東側と西側の判定は一致しなかった。


それは、新しい独立した記録として残された。


けれど、六つ目の神器の正体が分かったわけではない。


東側と西側の間に何があるのかも、まだ分からない。


それでも、今日という日は、アリシアにとって大切な一日になった。


自分の意思で参加することを選び、決められた条件を守りながら試行を終えた。


結果を知って嬉しいと思った。


少し怖いとも思った。


そして、その気持ちを否定しなくてもいいのだと知った。


アリシアは掛け布を引き上げ、隣で丸くなったノアへ視線を向けた。


「おやすみ、ノア」


「おう。明日はちゃんと休めよ」


「……うん」


アリシアは静かに目を閉じた。


答えを知る日にも、自分の気持ちを置いていかなくていい。


そのことを胸に抱きながら、彼女はゆっくり眠りへ落ちていった。


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