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『忘れられた六つ目の神器に選ばれました 〜人見知りな闇の少女と毒舌黒猫の学園英雄譚〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第283話 見られていた勇気と、まだ知らない自分の強さ


翌朝、学院へ続く坂道には、昨夜降った短い雨の名残が残っていた。


石畳の継ぎ目には小さな水たまりができ、道沿いの木々から時折落ちる雫が、朝の静けさの中でかすかな音を立てている。雲の切れ間から差し込む光はまだ弱かったが、校門へ向かう生徒たちの声は明るく、濡れた落ち葉を踏む足音が坂道のあちこちから聞こえていた。


アリシアは鞄を胸元へ引き寄せ、少しだけ歩幅を小さくした。


昨日の合同防壁実技から、一晩が過ぎている。


身体に痛みや息苦しさはなく、目覚めた時にも頭痛やめまいは感じなかった。昨夜はノアと話したあと、いつもより早く眠ることができたため、疲れもほとんど残っていない。


それでも、学院へ近づくにつれて、胸の奥には普段とは違う落ち着かなさが生まれていた。


(昨日、ほかの班の人たちも見てたんだよね……)


実技中は防壁へ集中していたため、周囲の視線を意識する余裕はなかった。


けれど、最初の試行を途中で停止した時には、近くの生徒たちがこちらを見ていたことを覚えている。二度目の試行を終えたあとも、何人かが自分たちの班へ視線を向けていた。


何を思われたのだろう。


上手くできたと思ってもらえただろうか。


それとも、最初に止めたことを失敗だと思われているのだろうか。


アリシアは考えかけて、ゆっくり息を吐いた。


昨日、教師は一回目の停止も適切な判断だったと説明してくれた。


五人の仲間も、フィオナが自分の状態を伝えたことを大切に受け止めていた。


それなのに、周囲からどう見られたのかばかり考えてしまうのは、少しもったいない気がした。


「おい。今朝は何をそんなに気にしてる?」


隣を歩いていたノアが、濡れた石畳を避けながら尋ねた。


「……昨日の実技のこと」


「昨日は上手くいったって、あれだけ嬉しそうに話してただろ」


「うん。でも、ほかの班の人たちも見てたから……」


アリシアが言い淀むと、ノアは少しだけ耳を動かした。


「何だ。褒められるのが怖いのか?」


「そうじゃないと思うけど……」


「じゃあ、失敗したと思われるのが怖い?」


アリシアはすぐには答えられなかった。


ノアは彼女の返事を急かさず、歩きながら前方へ視線を向けている。


少し考えたあと、アリシアは小さく頷いた。


「……たぶん、そう。みんなで頑張ったのに、私たちが失敗した班だって思われたら嫌だなって」


「そりゃ、気分はよくねえだろうな」


ノアはあっさり答えた。


「だが、見てた奴が何を考えたかなんて、お前には分からねえ。勝手に悪い方へ決めつける必要もないだろ」


「……うん」


「それに、昨日の教師は何を評価してた?」


「声を掛け合えたことと、安全に止められたこと。それから、二回目は最初の経験を活かせたこと……」


「なら、それが昨日お前らのやったことだ。誰かが別の感想を持ってたとしても、実際に起きたことまで変わるわけじゃねえ」


アリシアは足元の水たまりを避けながら、その言葉を考えた。


自分たちがしたこと。


ほかの人が、それをどう見たのか。


その二つは、同じではない。


「……そうだね」


アリシアが答えると、ノアは小さく鼻を鳴らした。


「ま、どうしても気になるなら本人に聞いてみりゃいい。勝手に想像して一人で落ち込むより、よっぽど早い」


「そ、それは……ちょっと難しいかも」


「だろうな。お前の場合、まず話しかけるところから大仕事だからな」


いつもの毒舌に、アリシアは少し頬を膨らませた。


けれど、ノアが自分をからかう時の声には、今朝も変わらない親しさがあった。


そのことが嬉しくて、アリシアは小さく笑った。


◇


教室へ入ると、すでに何人かの生徒が席についていた。


窓際では朝の授業に使う教科書を広げている者がおり、後方では二人の生徒が昨日の実技について話している。教室の中には、濡れた外套を乾かすために開けられた窓から冷たい空気が入り、紙と木材の匂いが混じっていた。


「アリシア、おはよう!」


メリルがいつものように手を振った。


隣の席ではフィオナが帳面を整理しており、エドガーは昨日の記録紙へ何かを書き加えている。テオは窓の外を眺めていたが、アリシアが近づくと静かに顔を向けた。


「おはよう、みんな」


アリシアが挨拶すると、フィオナが柔らかく微笑んだ。


「おはよう。昨日はよく眠れた?」


「うん。少し早く寝たから、今日は元気だよ。フィオナは?」


「私も大丈夫。昨日はちょっと緊張が残ってたけど、家でゆっくり休んだら落ち着いたの」


その返事を聞いて、アリシアは安心した。


昨日、フィオナは一回目の試行で中央の出力を下げる役になり、途中で難しさを申告していた。


本人は痛みや体調不良がないと答えていたが、緊張が強かったことは確かだった。


だから、今朝の表情が穏やかであることが嬉しかった。


「ところでさ、アリシア」


メリルが少し身を乗り出した。


「昨日のこと、ほかの班でも話題になってたみたいだよ」


アリシアの肩が、ぴくりと動いた。


「……え?」


「うちの班が途中で止めたあと、もう一回やって最後までできたでしょ? それを見てた子がいたみたいで、今朝ちょっと聞かれたんだ」


メリルは明るい声で続けた。


「どうやって補助を分けたのかって。特に、アリシアが右側へ魔力を足す前にテオへ確認してたところが気になったみたい」


アリシアは思わずテオを見た。


テオも少し意外そうに眉を上げたが、すぐに落ち着いた表情へ戻った。


「そこを見てたのか」


「うん。ほかにも、途中で止めたあとに先生が何を説明したのか聞かれたよ」


メリルは笑いながら言った。


「だから、フィオナがちゃんと難しいって伝えてくれたことと、先生が安全に止めるのも大事だって教えてくれたことを話したんだ」


フィオナは少しだけ頬を赤くした。


「……私のことも?」


「もちろん。でも、嫌だった?」


メリルの表情が少し真剣になった。


フィオナは慌てて首を横へ振った。


「ううん。嫌じゃないよ。ただ、私が途中で止めたことを、ほかの人がどう思ったのかなって少し気になってたから」


メリルはその言葉を聞き、少し考えた。


「そっか。じゃあ、今度から誰かのことを話す時は、先に聞いた方がいいね。昨日は悪いことだと思ってなかったから、普通に説明しちゃった」


「責めてるわけじゃないよ」


フィオナは優しく答えた。


「私も、昨日のことを隠したいわけじゃないの。ただ、まだ少し恥ずかしいだけ」


アリシアは二人の会話を聞きながら、胸の奥が少し温かくなるのを感じた。


メリルは自分の行動を振り返り、フィオナは嫌ではないことと恥ずかしいことを、きちんと言葉にしている。


以前なら、どちらかが謝って会話が終わっていたかもしれない。


けれど今は、互いの気持ちを確かめながら話を続けられていた。


エドガーが記録紙から顔を上げた。


「それなら、昨日の内容を班としてどう説明するか、少し整理しておいてもいいかもしれないな。誰かが聞いてきた時に、結果だけ伝えると誤解される可能性がある」


「また記録?」


メリルが笑うと、エドガーは少し困ったように答えた。


「何でも記録すればいいってわけじゃない。ただ、昨日の実技は、最初に止めたことと二回目に維持できたことの両方が大事だっただろ」


テオも頷いた。


「そうだな。二回目だけを話したら、最初に何を直したのか分からない」


アリシアは静かに頷いた。


その時、教室の入口から二人の生徒が入ってきた。


片方は、昨日アリシアたちの実技を近くで見ていた女子生徒だった。


彼女は教室を見回し、アリシアたちの席へ視線を向けると、少し迷ったように足を止めた。


隣の男子生徒が何かを囁き、女子生徒は小さく頷いた。


そして、二人はこちらへ歩いてきた。


◇


「ねえ、少し聞いてもいい?」


声を掛けられたアリシアは、思わず背筋を伸ばした。


女子生徒は栗色の髪を後ろでまとめており、腕には薄い緑色の教科書を抱えていた。隣の男子生徒は少し背が高く、昨日の実技で使った記録紙らしいものを持っている。


アリシアは二人の顔を見たことがあった。


同じ実技場で、隣に近い区域を使っていた班の生徒たちだ。


「……はい」


アリシアが小さく答えると、女子生徒は少し安心したように笑った。


「昨日、あなたたちの班の実技を見てたの。私、リーナ・フェルドっていうんだけど、ちょっと気になったことがあって」


男子生徒も軽く頭を下げた。


「俺はカイル・ベネット。同じ班なんだ。急に声を掛けて悪い」


「い、いえ……」


アリシアは返事をしながら、隣のメリルへ視線を向けた。


メリルは笑顔で頷いている。


その様子に少しだけ勇気をもらい、アリシアは二人へ向き直った。


「……何が、気になったんですか?」


リーナは抱えていた教科書を少し持ち直した。


「昨日、中央の出力を下げた時、右側が少し沈んだでしょう? その時、あなたがすぐに補助を加えなかったのが不思議だったの」


アリシアは目を丸くした。


自分が魔力を加えなかったことまで、見られていたのだ。


「私だったら、右側が沈んだらすぐに補助しちゃうと思う。でも、あなたは担当してた人に何か聞いてから動いてたよね」


リーナは少し恥ずかしそうに笑った。


「実は、私たちの班も昨日、似たようなところで揺れちゃって。だから、どうしてあの時すぐに補助しなかったのか、聞いてみたかったんだ」


アリシアは少し考えた。


自分が特別な判断をしたとは思っていなかった。


ただ、前回の失敗を思い出して、勝手に動くことが怖くなっただけでもある。


「……前の実技で、私とメリルが同じ場所へ補助を加えて、防壁を崩してしまったことがあったんです」


アリシアがゆっくり話し始めると、リーナは真剣な表情で耳を傾けた。


「だから、昨日はテオがどう支えているのか、先に聞こうと思いました。私が勝手に魔力を加えたら、テオの調整と重なるかもしれなかったので……」


テオが静かに頷いた。


「実際、俺も右側の補助を増やそうか迷ってた。アリシアが何も言わずに補助してたら、俺も同時に増やしてたかもしれない」


カイルは記録紙へ目を落とし、少し考えた。


「なるほど。俺たち、昨日は補助が必要だと思った人が先に動いてたな」


「そうなの」


リーナが頷いた。


「みんな助けようとしてたんだけど、誰がどこを補助するのか分からなくなっちゃって」


エドガーは二人の話を聞き、記録紙を机へ置いた。


「俺たちも最初はそうだった。だから、担当位置を優先して、ほかの場所へ補助する時は確認するようにしたんだ」


カイルは感心したように頷いた。


「そっか。じゃあ、最初から上手かったわけじゃないんだな」


その言葉に、メリルが明るく笑った。


「全然! 前は思いっきり失敗したよ。でも、そのあとみんなで話して、次はどうするか決めたんだ」


リーナは少し驚いたように五人を見回した。


「……そうだったんだ」


アリシアはその表情を見ながら、少しだけ安心した。


自分たちが最初から上手くできたわけではないことを話しても、二人は失望していなかった。


むしろ、どうやって立て直したのかを知りたそうにしている。


フィオナが静かに口を開いた。


「昨日も、最初の試行は途中で止めたんです。私が中央の出力を下げる役だったんだけど、周りの揺れが伝わってきて、長く続けるのは難しいと思ったから」


リーナはフィオナへ視線を向けた。


「うん。先生が止めたところ、見てたよ」


フィオナの指先が少しだけ動いた。


けれど、彼女は目を逸らさずに続けた。


「最初は、私が止めてしまったと思ってた。でも、先生が安全に止めるのも大切な判断だって教えてくれたの。それで、二回目は少し落ち着いてできたんだと思う」


リーナはしばらく黙っていた。


それから、ゆっくり頷いた。


「……私、昨日それを見て、少し羨ましかった」


フィオナが驚いたように顔を上げた。


「羨ましい?」


「うん。私たちの班も、途中で一人が苦しくなってたみたいなんだけど、本人が言わなかったから気づけなかったの。先生が止めてくれたあとで分かったんだけど……」


リーナは少し視線を落とした。


「だから、あなたが自分から難しいって言えたの、すごいなって思った」


フィオナは言葉を失った。


自分では、途中で止めてしまったことを気にしていた。


けれど、別の班の生徒は、その行動を羨ましいと思っていた。


アリシアはフィオナの横顔を見た。


彼女の頬は少し赤くなっていたが、その表情には先ほどまでとは違う驚きが浮かんでいる。


「……ありがとう」


フィオナは小さく答えた。


「でも、私もすごく怖かったよ。みんなが頑張ってるのに、止めたいって言っていいのかなって」


リーナは頷いた。


「うん。たぶん、私たちの班の子もそう思ってたんだと思う。だから、次はちゃんと話してみる」


カイルも静かに頷いた。


「俺も、補助することばかり考えてた。誰かが無理してないか、もっと気をつけないとな」


その言葉を聞いて、アリシアの胸の奥に温かいものが広がった。


昨日、自分たちがしたことが、ほかの班の誰かにも届いていた。


それは、思っていたよりも不思議で、少し嬉しいことだった。


◇


朝の授業が始まる少し前、リーナとカイルは自分たちの席へ戻っていった。


去り際、リーナはもう一度振り返り、アリシアへ小さく手を振った。


「ありがとう。また実技の時に話せたら嬉しいな」


アリシアは少し驚いたあと、ゆっくり手を振り返した。


「……はい。私も」


リーナが笑顔で戻っていくと、メリルが嬉しそうにアリシアの顔を覗き込んだ。


「よかったね、アリシア!」


「……うん」


「ほかの班の子から、あんなふうに聞かれるなんて思わなかったよ。しかも、ちゃんと説明できてたし」


アリシアは少し頬を赤くした。


「……緊張したよ」


「そう見えなかったけど?」


「すごく緊張してた……」


メリルが笑うと、フィオナも小さく笑った。


エドガーは記録紙を畳みながら、少し考えたように言った。


「でも、いい機会だったな。俺たちも、ほかの班がどう考えてるのか知ることができた」


テオは静かに頷いた。


「同じ課題でも、困るところは班によって違うんだな」


アリシアはその言葉を聞き、リーナたちの話を思い返した。


自分たちの班では、フィオナが難しさを申告できた。


けれど、別の班では、誰かが苦しくなっても言えなかった。


同じ説明を聞き、同じ実技場で練習していても、実際に起きることは違う。


そして、同じような失敗をしていても、その時に何を感じたのかは、人によって違う。


(……私たちだけじゃないんだ)


アリシアは少しだけ視線を落とした。


上手くできないことがあるのも、怖くなることがあるのも、自分たちだけではない。


ほかの人たちも、それぞれに悩みながら練習している。


そのことを知れただけで、学院の教室が昨日より少し広く感じられた。


◇


午前の授業が終わる頃、実技担当の教師が教室を訪れた。


普段の授業では見慣れた人物だったが、実技場以外で姿を見ることはそれほど多くないため、生徒たちの間に小さなざわめきが広がった。


教師は教壇の前へ立ち、手にしていた記録紙を机へ置いた。


「昨日の合同防壁実技について、少しお話ししたいことがあります」


教室の空気が静かになった。


アリシアは思わず背筋を伸ばした。


昨日の実技で何か問題があったのだろうか。


そう考えかけたが、教師の表情は穏やかだった。


「昨日は、複数の班が出力低下への対応を練習しました。最後まで防壁を維持できた班もあれば、途中で停止した班もあります」


教師は生徒たちを見回した。


「ですが、今日お伝えしたいのは、成功した班の順位ではありません。実技の中で、皆さんがどのような判断をしたかについてです」


何人かの生徒が顔を上げた。


教師は記録紙へ視線を落とし、続けた。


「昨日、ある班では、中央の出力を下げた際に左右へ負担が広がりました。その班は途中で安全に停止し、振り返りを行ったあと、二回目には安定して防壁を維持できました」


アリシアの胸が小さく跳ねた。


自分たちの班のことだ。


隣のメリルも気づいたらしく、少しだけ目を丸くしている。


教師は五人の方へ視線を向けたが、すぐに教室全体へ目を戻した。


「この班で評価できるのは、二回目に維持できたことだけではありません。最初の試行で、担当者が自分の状態を申告し、ほかの班員がその申告を受け入れて安全に停止できたことです」


教室の後方で、誰かが小さく頷いた。


教師は続けた。


「また、補助を加える前に担当者へ確認し、必要な範囲で魔力を使う判断もできていました。これは、以前の実技で補助が重なった経験を、次の行動へ反映できた例です」


アリシアは机の下で指先を握った。


自分たちがしたことを、教師がほかの生徒たちへ説明している。


それが少し恥ずかしくて、顔を上げるのが難しかった。


けれど、教師の言葉には、誰か一人を特別扱いする響きはなかった。


「一方で、別の班では、途中で難しくなった担当者が自分の状態を伝えられず、教師の判断で停止しました。こちらも、その後の振り返りで大切なことが見つかっています」


教室の別の場所で、リーナが静かに顔を上げた。


教師はその反応を見ながら、落ち着いた声で続けた。


「重要なのは、どちらの班が優れているかではありません。何が起きたのかを正確に理解し、次の練習へ活かすことです。失敗したことを隠す必要も、成功したことだけを記録する必要もありません」


その言葉に、教室の空気が少し変わった。


昨日の実技で上手くいかなかった生徒たちも、教師の説明を真剣に聞いている。


中には、自分たちの記録紙を取り出し、何かを書き加えている者もいた。


教師は最後に、少しだけ声を和らげた。


「次の合同実技では、出力を下げる位置が変わる可能性があります。ただし、課題の詳細は実施前に説明します。今日のうちに勝手な条件で再現しようとせず、各自の基礎練習と、昨日の記録整理を優先してください」


生徒たちは頷いた。


教師は記録紙をまとめ、教室をあとにした。


扉が閉まると、少しずつ話し声が戻ってきた。


アリシアはしばらく机を見つめていた。


教師が自分たちのことを話してくれたのは、嬉しかった。


けれど、それ以上に心に残ったのは、ほかの班のことも同じように大切に扱っていたことだった。


上手くできた人だけが評価されるわけではない。


途中で止めた人も、難しいと言えなかった人も、そこから学べることがある。


そのことを、教師は教室全体へ伝えようとしていたのだ。


◇


昼休みになると、五人はいつもの窓際の席へ集まった。


食堂には焼きたてのパンと温かいスープの香りが広がり、窓の外では雨上がりの庭を歩く生徒たちの姿が見える。朝の冷たさは少し和らいでいたが、時折吹く風が木々の葉を揺らし、まだ濡れている枝から雫を落としていた。


「先生、ちゃんと見てくれてたんだね」


メリルが嬉しそうに言った。


「私、昨日は防壁のことで精一杯だったから、先生があんなに細かく見てたなんて思わなかった」


エドガーは頷いた。


「教師だから当然と言えば当然だけど、実際に説明されると、自分たちが何をしていたのか整理しやすいな」


テオはスープを一口飲んでから、静かに答えた。


「それに、ほかの班も似たところで困ってたんだな。俺たちだけが難しいと思ってたわけじゃない」


フィオナは少し考えていた。


やがて、アリシアへ顔を向けた。


「……私、今日の先生の話を聞いて、少し安心した」


「うん?」


「昨日、途中で止めたことが、まだ少し気になってたの。でも、先生がみんなの前で、安全に止めることも大切だって話してくれたでしょう?」


フィオナは少しだけ笑った。


「それを聞いて、やっと自分でも、あの時言ってよかったんだって思えたの」


アリシアはゆっくり頷いた。


「……うん。私も、フィオナが言ってくれてよかったと思う」


メリルも笑顔で頷いた。


「私も! それに、リーナたちもフィオナのこと、すごいって言ってたんでしょ?」


フィオナは少し頬を赤くした。


「……うん。でも、まだちょっと恥ずかしい」


「いいじゃん。恥ずかしくても、嬉しいことは嬉しいって思っていいんだよ」


メリルの言葉に、フィオナは小さく笑った。


アリシアはそのやり取りを聞きながら、朝の自分を思い出した。


ほかの人からどう見られているのかが怖かった。


けれど、実際に話してみると、思っていたのとは違う言葉が返ってきた。


リーナは、自分たちの失敗を責めるために話しかけてきたのではない。


どうすれば次は上手くできるのかを知りたくて、勇気を出して声を掛けてくれたのだ。


(……ノアの言うとおりだったな)


勝手に悪い方へ決めつける必要はない。


相手が何を考えているのか分からない時には、話してみることで初めて分かることもある。


アリシアは少しだけ笑った。


その時、エドガーが記録紙を取り出した。


「ところで、昨日の実技記録を整理していて、一つ気づいたことがある」


メリルが少し大げさに肩を落とした。


「やっぱり記録紙、出すんだ」


「今度は必要な話だ」


エドガーは苦笑しながら答えた。


「昨日の一回目と二回目では、補助量の変化だけじゃなくて、声を掛けるタイミングも違ってたんだ」


テオが顔を上げた。


「どう違ってた?」


「一回目は、右側が沈んでから補助の相談を始めた。でも二回目は、左右が補助を加える時点で、中央への影響が出たら知らせてほしいって伝えてた」


エドガーは記録紙の該当部分を指さした。


「つまり、問題が起きてから相談するだけじゃなくて、問題が起きる前に何を伝えるか決めておくことも大事なんだと思う」


アリシアはその言葉を聞き、少し考えた。


昨日の二回目では、メリルが左側の補助を加える前に、中央へ影響が出たら教えてほしいと伝えていた。


その言葉があったから、エドガーも中央の揺れを早く知らせることができたのかもしれない。


「……次の実技でも、先に声を掛けることを考えた方がいいのかな」


アリシアが尋ねると、エドガーは頷いた。


「そう思う。ただ、何でもかんでも先に決めると、実際の変化へ対応できなくなるかもしれない。だから、最低限の合図や確認方法を共有しておくくらいがいいんじゃないかな」


テオも頷いた。


「状況が変わった時に、誰が何を見てるのか分かるようにしておくのは大事だな」


フィオナは少し考えてから言った。


「それなら、出力を下げる役になった人が、どのくらい余裕があるのかを途中で伝える方法も考えたい」


アリシアはフィオナを見た。


「昨日、私が難しいって言った時、みんな少し驚いてたでしょう? だから、もっと早く伝えられるようにしたいの」


メリルは頷いた。


「いいね! 私も、もし自分が下げる役になったら、余裕があるかどうかをちゃんと伝えたい」


五人はしばらく話し合った。


ただし、実際の合図や手順を勝手に決めて練習することはしなかった。


教師から次の課題が説明された時に、必要な確認ができるよう、質問としてまとめておくことにしたのだ。


アリシアはその様子を見ながら、少し嬉しくなった。


以前なら、次の実技が難しくなると聞いただけで、不安が先に立っていた。


けれど今は、五人で考える時間そのものが楽しみになっている。


失敗するかもしれない。


それでも、失敗した時に話し合える仲間がいる。


そのことが、彼女の心を少しずつ変えていた。


◇


午後の授業が終わったあと、アリシアは学院の廊下を歩いていた。


今日は研究棟で人工刺激を行う予定はない。新しい独立前向き系列の第二実施候補日についても、現時点では当日の安全確認と本人意思の確認が必要であり、実施はまだ確定していなかった。


研究側からは、設備確認の記録に大きな変更があれば連絡することになっている。


そのため、今日は学院の授業を終えたあと、そのまま生活観測区画へ戻る予定だった。


廊下の窓からは、雨上がりの庭が見えていた。


濡れた石畳に夕方の光が反射し、遠くの噴水の水音が静かに響いている。


アリシアは窓際で少し足を止めた。


今日、リーナたちと話したことを思い返す。


自分たちの班のことを、ほかの人が見ていた。


そして、その人たちも、自分たちなりに悩みながら練習していた。


そのことが、まだ少し不思議だった。


「アリシアさん」


背後から声を掛けられ、アリシアは振り返った。


そこには、昨日の実技担当教師が立っていた。


「……先生」


「少し時間はありますか?」


アリシアは緊張しながら頷いた。


「はい。大丈夫です」


教師は穏やかに微笑み、窓際の空いている場所へ視線を向けた。


「昨日の実技について、少しだけお話ししておきたいことがあります」


アリシアの胸が小さく跳ねた。


何か問題があったのだろうか。


そう考えた瞬間、教師は静かに首を横へ振った。


「心配しなくて大丈夫ですよ。注意するために呼び止めたわけではありません」


アリシアは少しだけ息を吐いた。


教師は窓の外へ一度目を向け、それからアリシアへ向き直った。


「昨日、右側の防壁が沈んだ時、あなたはすぐに補助を加えませんでしたね」


「……はい」


「どうしてですか?」


アリシアは少し考えた。


朝、リーナにも同じようなことを聞かれた。


けれど、教師から改めて尋ねられると、少し違う緊張が生まれる。


「……前の実技で、メリルと同じ場所へ補助を加えてしまったからです。昨日も、私が勝手に動いたら、テオの調整と重なるかもしれないと思って……」


教師は静かに頷いた。


「そうですね。実際、あの場面ではテオさんも補助量を増やすかどうか判断していました。あなたが確認せずに魔力を加えていたら、再び調整が重なった可能性はあります」


アリシアは少しだけ視線を落とした。


教師は続けた。


「ただし、もう一つ大切なことがあります。あなたは、補助を加えないという判断をしたあと、必要な時にはきちんと補助を加えました」


アリシアは顔を上げた。


「……はい」


「慎重になることと、何もしないことは違います。あなたは、相手の判断を確認しながら、必要な時には自分の力を使えました。それは、全体を見る役として大切なことです」


アリシアはその言葉を聞き、少しだけ目を見開いた。


自分では、失敗しないように気をつけただけだと思っていた。


けれど教師は、その判断を成長として見てくれていた。


「……ありがとうございます」


アリシアが小さく答えると、教師は穏やかに微笑んだ。


「それから、昨日のあなたは、フィオナさんが難しいと伝えた時にも、すぐに自分で何とかしようとはしませんでしたね」


「……先生が、停止を指示してくれたので」


「ええ。あの場面では、それが正しい対応でした」


教師は少しだけ声を落とした。


「アリシアさん。あなたは、周囲の変化に気づく力があります。それは大きな長所です。ただ、その力があるからこそ、何かを見つけた時に、自分が何とかしなければと思いやすいのかもしれません」


アリシアは静かに頷いた。


その言葉は、ノアから何度も言われてきたことと重なっていた。


「……はい。私、誰かが困ってると、すぐに助けなきゃって思ってしまうことがあります」


「それ自体は悪いことではありません。ただ、相手が自分でできることまで奪わないようにすることも大切です」


教師は窓の外へ視線を向けた。


庭では、数人の生徒が濡れた石畳を避けながら歩いている。


「教師も同じです。生徒が少し困っているからといって、すぐに答えを教えてしまえば、その場は早く終わるでしょう。でも、それでは本人が考える機会を失ってしまうことがあります」


アリシアは教師の横顔を見つめた。


「……先生も、そういうことを考えるんですか?」


教師は少し笑った。


「もちろんです。昨日も、あなたたちの防壁が揺れた時、すぐに停止させるべきかどうかを考えていました。安全を守る必要がありますから、危険だと判断すれば迷わず止めます。でも、まだ生徒たちが安全に対応できる範囲なら、自分たちで考える時間を残したいとも思っています」


アリシアはその言葉を聞き、胸の奥が静かに動くのを感じた。


教師も、ただ見ていたわけではなかった。


五人の動きを観察しながら、いつ介入するべきかを考えていたのだ。


そして、フィオナが難しいと伝えた時には、迷わず停止を指示した。


「……先生も、見守るのが難しい時があるんですね」


アリシアが小さく言うと、教師は頷いた。


「ありますよ。だからこそ、教師同士でも記録を残し、判断を振り返ります。自分一人の感覚だけで、すべてを決めないためです」


アリシアはその言葉を、ゆっくり心の中へ落とし込んだ。


自分一人の感覚だけで決めない。


それは、学院の実技だけではなく、研究の場でも大切にされていることだった。


教師は最後に、少しだけ表情を和らげた。


「昨日の実技で、あなたたち五人はよい経験をしました。でも、次も同じように上手くいくとは限りません。それでも、昨日学んだことはなくなりませんから」


アリシアは静かに頷いた。


「……はい。次も、みんなと考えながら頑張ります」


「ええ。楽しみにしています」


教師はそう言って、廊下の奥へ歩いていった。


アリシアはしばらく、その背中を見送っていた。


教師から褒められたことが嬉しい。


けれど、それ以上に、教師も迷いながら判断していることを知れたのが印象に残った。


誰かを支える立場の人も、すべての答えを最初から持っているわけではない。


それでも、必要な時に動けるように、見て、考えて、準備している。


(……私も、そうなれたらいいな)


アリシアは小さく息を吐き、廊下を歩き始めた。


◇


学院の外へ出ると、ノアが校門の近くで待っていた。


黒い毛並みは夕方の光を受けて艶やかに輝き、尻尾がゆっくり左右へ動いている。


「遅かったな」


「……先生と少し話してたの」


「ほう。怒られたか?」


ノアがわざとらしく尋ねると、アリシアは小さく首を横へ振った。


「違うよ。昨日の実技のことを、褒めてもらったの」


「そりゃ珍しい。お前が素直に褒められたって言うとはな」


アリシアは少し頬を赤くした。


「……だって、嬉しかったから」


ノアは一瞬だけ黙った。


それから、少しだけ目を細めた。


「なら、ちゃんと喜んどけ。褒められたことまで疑ってたら、相手も面倒だろ」


「……うん」


アリシアは小さく笑った。


二人は学院をあとにし、生活観測区画へ向かって歩き始めた。


道沿いの木々には、まだ雨の雫が残っている。


風が吹くたびに葉が揺れ、小さな水滴が石畳へ落ちていた。


「ノア」


「何だ」


「今日ね、ほかの班の人が話しかけてくれたの」


「ほう」


「昨日の実技を見てたんだって。私がテオへ確認してから補助したことが気になったって」


ノアは少しだけ耳を動かした。


「で、何て答えた?」


「前に失敗したから、今度は勝手に動かないようにしたって話したよ」


「そいつは正直でいい」


ノアは歩きながら続けた。


「格好つけて、最初から分かってたみたいに言わなかったんだな」


「……そんなこと、できないよ」


「できる奴はいるんだよ。自分の失敗を隠して、成功したところだけ見せたがる奴がな」


アリシアは少し考えた。


研究でも、結果を都合よく選ばないことが大切にされている。


上手くいったことだけを残せば、何が本当に起きたのか分からなくなってしまう。


「……失敗したことも、ちゃんと話した方がいいんだね」


「そういうことだ。もちろん、誰にでも何でも話せって意味じゃねえけどな」


ノアは少しだけ顔を上げた。


「お前が話していいと思った相手に、必要なことを話せばいい。それで十分だろ」


アリシアは頷いた。


リーナたちは、自分たちの失敗を知りたくて話しかけてきたわけではない。


次の実技で、どうすれば上手くできるのかを考えたくて、声を掛けてくれた。


だから、自分も話せたのだと思う。


そのことが、少し嬉しかった。


◇


生活観測区画へ戻ると、子供は窓際で紙の風車を持っていた。


以前、少し曲がった羽根を直したあとも、その風車は大切に使われている。昨日、別の羽根が少し曲がっていることに気づいたが、今のところ回転には大きな問題がなく、子供もそのまま使うことを選んでいた。


「アリシア、おかえり!」


「ただいま」


アリシアが微笑むと、子供は嬉しそうに風車を掲げた。


「見て! 今日はこっちから吹いても回ったよ!」


「本当?」


「うん。昨日はこっちからしか吹いてなかったけど、今日は反対からもやってみたの」


子供は風車を持ち直し、反対側からそっと息を吹きかけた。


羽根は一度小さく揺れたあと、ゆっくり回り始めた。


アリシアはその様子を見つめ、少しだけ笑った。


「……本当だ。ちゃんと回ってるね」


「うん!」


子供は嬉しそうに頷いた。


アリシアは風車の羽根を見つめた。


少し曲がっているところは、昨日と変わらない。


けれど、風車は回っている。


今すぐ直さなくても、大切に使い続けることができていた。


子供はアリシアの顔を見上げた。


「アリシア、今日は学校で何したの?」


「今日はね、昨日の魔力の壁の練習について、みんなでお話ししたよ」


「お話し?」


「うん。昨日、上手くできたことと、難しかったことを振り返ったの。それから、ほかの班の人とも少し話したんだ」


子供は興味深そうに首を傾げた。


「ほかの人も、壁を作ったの?」


「うん。同じ練習をしたんだよ。でも、困ったところは少し違ったみたい」


「違ったの?」


「そう。私たちの班では、難しい時にちゃんと止められたけど、ほかの班では、難しいって言えなかった人もいたんだって」


子供は少し考えた。


それから、風車を胸元へ抱えた。


「……難しいって言うの、怖い時あるよね」


アリシアは少し驚いて、子供を見た。


「……うん。あるね」


子供は風車を見つめたまま続けた。


「前に、これが曲がった時も、直してほしいって言うの、ちょっと怖かった。でも、アリシアが一緒に考えてくれたから、嬉しかった」


アリシアの胸が、静かに温かくなった。


子供は顔を上げ、少し恥ずかしそうに笑った。


「だから、難しいって言ってもいいんだよね」


アリシアはゆっくり頷いた。


「……うん。言っていいんだよ」


その言葉を口にした時、アリシアは昨日のフィオナを思い出した。


難しいと伝えることは、決して簡単ではない。


けれど、伝えてくれたからこそ、周囲はその人の状態を知ることができる。


そして、必要な時には一緒に考えられる。


アリシアは子供の隣へ座り、風車が回る様子をしばらく眺めていた。


窓の外では、雨上がりの庭に夕方の光が差し込んでいる。


顔のない存在は、少し離れた場所で静かに過ごしていた。胸に並ぶ十一の光には新しい変化は見られず、厚い布に包まれた木箱も、決められた場所に置かれたままだった。


分からないことは、まだたくさんある。


けれど、今はそのすべてを確かめる時間ではない。


アリシアは子供と一緒に風車を回しながら、静かな時間を過ごした。


◇


夜になり、アリシアは自室で今日の出来事を帳面へ書き留めていた。


机の上には学院の帳面と研究帳面が並んでいる。


研究側では、新しい独立前向き系列の第二実施候補日が維持されているものの、実施はまだ確定していない。第一実施試行では東側と西側の判定が一致しており、残る一件で不一致が再び観察されるかどうかは分からないままだった。


詳細な時間配置や探索的な入力指標を、今夜新たに開く必要もない。


アリシアは研究帳面へ手を伸ばしかけたが、今日は学院の帳面を先に開いた。


そこには、昨日の合同防壁実技について書いた記録が残っている。


アリシアは新しい頁へ、今日の出来事を書き始めた。


『リーナとカイルが、昨日の実技について質問してくれた。私がテオへ確認してから補助したことを見ていた。』


『二人の班でも、補助が重なったり、難しいと言えなかったりしたことがあったらしい。私たちだけが困っていたわけではなかった。』


『先生は、昨日の一回目の停止も大切な判断だったと、みんなへ説明してくれた。』


そこまで書くと、アリシアは少しだけ筆を止めた。


今日、一番心に残ったことは何だろう。


リーナたちが話しかけてくれたこと。


教師が自分たちの判断を評価してくれたこと。


フィオナが、自分の行動を少しずつ肯定できるようになったこと。


どれも大切だった。


けれど、アリシアはもう一つ、忘れたくないことがあった。


教師が廊下で話してくれたことだ。


教師も、生徒たちを見守りながら、いつ介入するべきかを考えている。


必要な時には迷わず止める。


けれど、安全に考えられる時間があるなら、その機会を奪わないようにする。


アリシアはそのことを思い出し、帳面へ一行書き加えた。


『見守ることも、何もしないこととは違う。必要な時に動けるように、ちゃんと見て、考えることが大切。』


その言葉を見つめていると、寝台からノアの声が聞こえた。


「また難しいこと書いてるな」


アリシアは顔を上げた。


「……今日、先生に教えてもらったこと」


「ほう。何だ?」


アリシアは少し考えてから、今日の出来事をノアへ話した。


リーナたちが実技について質問してくれたこと。


教師が一回目の停止も大切だったと説明してくれたこと。


そして、教師自身も、生徒たちを見守りながらいつ介入するべきか考えていると話してくれたこと。


ノアは途中で口を挟まず、最後まで聞いていた。


話し終えると、小さく鼻を鳴らした。


「なるほどな。いい先生じゃねえか」


「……うん」


「お前が何でも背負い込もうとするのを、ちゃんと見抜いてるみたいだしな」


アリシアは少し頬を赤くした。


「……そんなに分かりやすい?」


「分かりやすいどころか、顔に書いてあるぞ」


ノアはあっさり答えた。


アリシアは少しだけ肩を落としたが、すぐに小さく笑った。


「……でも、前よりは少し変われたと思う」


「そうだな」


ノアは珍しく、すぐに頷いた。


アリシアは少し驚いて顔を上げた。


「……ノア?」


「何だよ。たまには素直に認めてやったんだから、喜べ」


その言い方がおかしくて、アリシアは小さく笑った。


ノアは尻尾を揺らしながら続けた。


「ただし、調子に乗るなよ。今日できたことが、明日も同じようにできるとは限らねえ。だから、少しずつ覚えていけばいい」


「……うん」


アリシアは頷いた。


学院では、五人の仲間と一緒に学んでいる。


研究棟では、まだ分からないことを確かめるために、決められた条件を守りながら進んでいる。


生活観測区画では、子供や顔のない存在が、それぞれの時間を過ごしている。


どの場所でも、すべての答えが出ているわけではない。


けれど、答えが出ないことを理由に、何もできなくなる必要はない。


アリシアは帳面を閉じ、机の上へ置いた。


「ノア」


「何だ」


「今日ね、ほかの人から見た私たちのことを、少し知れた気がする」


「そうか」


「自分では、失敗したことばかり気にしてたけど……ほかの人は、そこからどう立て直したのかを見てくれてたんだね」


ノアは少しだけ目を細めた。


「そりゃそうだろ。人間ってのは、案外いろんなところを見てるもんだ」


アリシアは静かに頷いた。


自分が気づいていないところで、誰かが見てくれていることがある。


自分では小さな変化だと思っていたことが、ほかの人には大切なものとして映ることもある。


そして、誰かの勇気を見て、自分も少し頑張ってみようと思う人がいる。


そのことを知れた今日という日を、アリシアは大切に覚えていたかった。


灯りを落とし、寝台へ向かう。


ノアが少しだけ身体をずらし、隣へ入る場所を空けた。


「おやすみ、ノア」


「おう。明日も変なこと考えすぎて寝坊すんなよ」


「……今日はちゃんと早く寝るよ」


「なら結構だ」


アリシアは小さく笑い、掛け布を引き上げた。


窓の外では、雨上がりの夜風が庭木の葉を揺らしている。


研究の答えは、まだ出ていない。


六つ目の神器の正体も、東西の反応が何を意味するのかも、分からないままだ。


けれど、学院では今日も新しいことを知ることができた。


自分では気づかなかった成長を、誰かが見てくれていること。


自分たちの経験が、ほかの誰かの役に立つこともあるということ。


そして、見守ることにも、勇気と判断が必要なのだということ。


アリシアはその一つ一つを胸に抱きながら、静かに目を閉じた。


明日もまた、分からないことはあるだろう。


けれど、分からないことを一人で抱え込まなくてもいい。


今夜は、そのことを昨日より少しだけ強く信じられた。


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