第282話 誰かの力が弱まったとき、五人で守るもの
朝の第二実技場には、まだ多くの生徒が集まっていない時間特有の静けさが残っていた。
高い窓から差し込む秋の陽光が石造りの床へ斜めに伸び、壁際に整然と並べられた訓練用の結界具を淡く照らしている。準備室からは器具を運ぶ台車の車輪が軋む音が聞こえ、教師たちが魔力供給台の状態を一つずつ確認していた。
アリシアは入口から少し離れた場所に立ち、実技場の中央へ目を向けた。
床に刻まれた五つの魔法陣は、前回と同じ配置だった。中央に一つ、その左右に二つずつ置かれた供給台を見つめていると、以前の合同実技で防壁が大きく揺れた時の感覚が、指先へ静かによみがえってくる。
(あの時は、メリルも私も、左側を守ろうとしていたんだよね)
誰かを助けようとした行動が、必ずしも正しい結果につながるとは限らない。
そのことを、アリシアは以前の失敗から学んでいた。
「おい、アリシア。そんなに睨んでも、魔法陣が勝手に練習してくれるわけじゃねえぞ」
足元から聞こえた声に、アリシアは小さく瞬きをした。
黒猫のノアが入口の脇に座り、尻尾をゆっくり動かしている。いつもならもっと早くから皮肉を言ってきそうなものだが、今朝はアリシアが考え込んでいる間、黙って付き合ってくれていた。
「……睨んでないよ。今日の練習のこと、考えてたの」
「一人が魔力を弱めて、残りの四人が支えるんだったな。昨日、先生から手順を聞いてるんだから、あとは実際にやってみるしかねえだろ」
「うん。でも、誰かが困った時に、私がちゃんと気づけるかなって」
アリシアは手元の帳面を開いた。
昨日の説明を聞いたあと、五人で確認した注意点が書かれている。出力を下げる役は教師の指示に従うこと、補助する側は担当位置を優先すること、同じ場所へ複数人が魔力を加える場合には必ず声を掛け合うこと。
そして、安全に維持できない場合には、無理をせず停止すること。
アリシアは最後の一行へ視線を落とした。
「……誰かが困ってるのに気づけなかったら、怖いなって思う」
「だったら、気づけるように見てろ。ただし、気づいたことと、お前が全部直すことは別だからな」
ノアは前足を舐めるのをやめ、アリシアを見上げた。
「お前が何でも先回りして片づけちまったら、ほかの四人は自分で判断する機会を失う。そいつは助けてるようで、案外そうでもねえぞ」
アリシアはしばらく考え、それから静かに頷いた。
「……うん。今日は、ちゃんと聞いてから動く」
「それでいい。先生もいるんだから、何かあったら指示を聞けよ」
ノアが見学席へ向かって歩き始めたところで、入口の向こうから明るい声が響いた。
「アリシア、おはよう! もう来てたんだ!」
振り返ると、メリルが片手を振りながら近づいてくるところだった。
その後ろにはエドガーとフィオナがおり、少し離れてテオが歩いている。四人とも実技用の上着を着ており、エドガーの手には昨日まとめた記録紙があった。
「おはよう、みんな」
アリシアが挨拶すると、メリルは嬉しそうに笑った。
「今日は絶対、前より上手くやりたいよね。私、昨日も家で魔力を少しだけ弱める練習をしてみたんだけど、やっぱり一定に保つのって難しかった!」
「練習しすぎて疲れてないだろうな」
エドガーが心配そうに尋ねると、メリルは少し頬を膨らませた。
「そこまで無茶してないよ。先生から、今日は体調を整えて来るようにって言われたもん」
「ならいいけど。今日は出力を上げるより、下げた状態を保つ方が難しいかもしれないからな」
その会話を聞いていたフィオナは、少しだけ表情を曇らせた。
アリシアはその変化に気づいたが、すぐには声を掛けなかった。フィオナが何かを考えている時、急いで言葉を重ねるより、少し待った方が話しやすそうにしてくれることを、最近になって知ったからだ。
「……私が中央の出力を下げる役になったら、みんなに負担がかかるよね」
やがてフィオナが呟いた。
メリルは何か答えようとして、いったん口を閉じた。
エドガーも記録紙から顔を上げ、フィオナの方へ身体を向ける。
「中央が弱くなると、左右の支え方も変わるからな。でも、それを練習するために今日の課題があるんだろ」
エドガーは落ち着いた声で答えた。
テオも頷き、フィオナへ視線を向けた。
「誰が下げる役でも同じだ。俺が右側を弱めることになれば、中央や左側に負担がかかる。フィオナだけが迷惑をかけるわけじゃない」
フィオナは少し驚いたように二人を見た。
アリシアはその横顔を見つめながら、静かに言葉を添えた。
「……私、フィオナが中央を支えてくれてるから、安心して全体を見られるんだ。今日はフィオナが弱める役になったとしても、私たちが支える番になるだけだと思う」
フィオナの指先が、胸元で握っていた帳面から少し離れた。
「……ありがとう。そう考えると、少しだけ気持ちが楽になる」
メリルは満足そうに頷き、フィオナの隣へ並んだ。
「そうそう! それに、もし上手くいかなかったら、また五人で考えればいいんだから。私たち、前もそうやって立て直したでしょ?」
その言葉に、フィオナはようやく自然な笑みを浮かべた。
五人が中央の供給台へ向かう頃には、実技場へ入ってくる生徒の数も増えていた。
近くの班では、昨日の説明を振り返りながら担当位置を確認している。別の班の生徒は、中央の魔法陣を指さしながら、出力が下がった場合にどこへ補助を加えるべきか議論していた。
アリシアたちの姿へ目を向ける者もいた。
以前、合同防壁を一度崩しながら立て直した班だと覚えている生徒もいるのだろう。
アリシアはその視線に気づくと、少しだけ肩を縮めた。
けれど、隣を歩くメリルが普段どおり話しかけてくれたことで、足を止めずに進むことができた。
その様子を、準備を終えた実技担当の教師が少し離れた場所から見ていた。
教師は五人の表情を順番に確かめると、手元の記録紙へ視線を戻した。
前回、彼らの班は最初の試行で補助が重なり、防壁を不安定にした。しかし、その後の試行では互いの状態を伝えながら立て直している。
今日は、その経験を新しい条件でも活かせるかどうかが問われる。
教師はそう考えながら、次の指示を出す準備を整えた。
◇
授業開始を告げる鐘が鳴ると、実技場のざわめきは少しずつ収まっていった。
担当教師が中央へ進み出ると、各班の生徒たちは供給台から手を離し、説明を聞く姿勢を取った。教師の背後では補助教員が安全結界の状態を確認しており、床に刻まれた境界線には淡い光が流れている。
「今日の課題は、五人で形成した防壁のうち、一人の魔力出力を一時的に下げ、その変化へ残りの班員がどう対応するかを確認するものです」
教師の声が、広い実技場へ落ち着いて響いた。
「出力を下げる担当者は、必ず指示された範囲と速度を守ってください。残る四人は担当位置を維持しながら必要な補助を行いますが、同じ場所へ複数人が魔力を加える場合には、必ず互いの判断を確認してください」
前列にいた男子生徒が、小さく手を挙げた。
「先生、防壁を最後まで維持できなかった班は、失敗ということになりますか?」
その質問に、近くの生徒たちが顔を見合わせた。
アリシアも思わず教師へ目を向けた。
昨日の説明でも安全な停止について教わっていたが、実際にほかの班の前で止めることになった時、自分たちがどう見られるのかまでは考えていなかった。
教師は質問した生徒を見つめ、少し間を置いて答えた。
「防壁を維持できたかどうかは、もちろん記録します。ただし、それだけで評価を決めることはありません。危険な状態になっても停止せず、無理に維持し続けた場合は、たとえ最後まで防壁が残っていても適切な判断とは評価できません」
教師は視線をゆっくり動かし、実技場に集まった生徒たちを見回した。
「魔法を扱う者に必要なのは、強い魔力だけではありません。自分の状態を理解し、周囲の状態を把握し、必要な時に止められることも重要です。今日の課題では、皆さんがその判断をどう行うかを見ています」
質問した生徒は納得したように頷いた。
その後ろにいた女子生徒が、隣の友人へ小声で何かを話している。アリシアの位置からは内容までは聞こえなかったが、二人とも真剣な表情で自分たちの供給台へ視線を戻していた。
教師は説明を終えると、各班の担当位置へ補助教員を配置した。
アリシアたちの班を担当する教師は、五人の前へ進み出て、それぞれの顔を確かめた。
「前回の実技では、途中で補助が重なったことを覚えていますね」
エドガーが頷いた。
「はい。左側の揺れを直そうとして、メリルとアリシアが同時に補助を加えました。その影響が中央へ伝わり、防壁が不安定になりました」
「よく整理できています。では、今日はどうしますか?」
教師の問いに、メリルが手を挙げた。
「補助を増やす前に、担当している人へ声を掛けます。それから、補助したあともほかの場所へ影響が出ていないか確認します」
教師は頷き、今度はアリシアへ目を向けた。
「アリシアさんは、全体を観察する役ですね。何を一番意識しますか?」
突然自分へ向けられた質問に、アリシアの背筋が少し伸びた。
ほかの四人の視線が集まる。
けれど、それは答えを急かすものではなかった。
「……変化を見つけた時、私が勝手に全部直そうとしないことです。担当している人がどう考えているかを聞いて、必要なら先生にも確認します」
教師はアリシアの返事を聞き、記録紙へ短く書き込んだ。
「それでいいでしょう。観察する役は、必ずしも最も多く魔力を使う役ではありません。情報を伝えることも、立派な仕事です」
アリシアは小さく頷いた。
少し離れた場所で準備をしていた別の班の生徒が、そのやり取りを聞いて顔を上げた。
彼は以前、アリシアが防壁の揺れを細かく指摘していたことを覚えていた。魔力の補助が得意な生徒なのだと思っていたが、教師が評価しているのは、それだけではないらしい。
彼は自分の班の仲間へ視線を戻し、中央担当の生徒へ声を掛けた。
「俺たちも、変化を見つけたら先に言おう。誰かが直してるところへ勝手に足すと、また揺れるかもしれないし」
その言葉を聞いた仲間が頷き、担当位置の確認を始めた。
アリシアは、そんな会話が交わされていることには気づかなかった。
彼女の意識は、目の前の五人で作る防壁へ向いていた。
◇
エドガーが中央の供給台へ手を置くと、床の魔法陣が淡く輝き始めた。
光は円形の溝に沿って広がり、五人の間へ薄い膜を形作っていく。最初は水面のように揺れていた魔力の膜が、エドガーの調整によって少しずつ形を整え、半透明の防壁として立ち上がった。
「初期形成、安定してる。左右、補助を頼む」
エドガーの声に合わせ、メリルとテオがそれぞれの担当位置へ魔力を流した。
フィオナは中央部分の厚みを整え、アリシアは防壁の端から端まで視線を動かしていく。
前回よりも、形成は落ち着いていた。
左側に細かな揺れが現れた時も、メリルはすぐに大きな補助を加えることなく、エドガーへ状態を伝えてから調整した。
「左、少し強くなってる。私の出力を戻すね」
「分かった。中央は今のまま維持する」
エドガーが答えると、メリルは魔力をわずかに弱めた。
アリシアはその変化を見届け、右側へ視線を移す。
「左は落ち着いたよ。右も大きな揺れはないと思う」
「こっちも問題ない」
テオが短く答えた。
担当教師は少し離れた位置から、五人の手元と防壁の状態を交互に確認していた。
教師の目に映っていたのは、単に防壁が安定しているという結果だけではなかった。
メリルは以前よりも、補助を加える前に周囲の反応を確かめるようになっている。エドガーは自分の担当する中央だけでなく、仲間から伝えられる情報を判断に組み込んでいた。
テオは口数こそ少ないが、必要な変化はためらわず伝えている。
そして、フィオナは中央の膜を丁寧に整えながらも、時折ほかの四人へ目を向けていた。
教師はそこで、フィオナの肩にわずかな緊張があることに気づいた。
呼吸は乱れていない。
魔力の流れも安定している。
けれど、今日の課題で誰かが出力を下げることを、彼女が意識しているのは明らかだった。
教師は記録紙へ視線を落とし、予定していた担当を確認した。
「通常形成は安定しています。それでは、出力を下げる担当者を指定します」
五人の表情が引き締まった。
「今回は、中央担当のフィオナさんにお願いします」
フィオナの指先が、供給台の縁でわずかに動いた。
朝から心配していたことが、現実になった。
けれど、彼女は顔を上げ、教師へはっきりと返事をした。
「はい。分かりました」
メリルは隣からフィオナへ目を向けた。
何か励ましの言葉を掛けたい気持ちはあったが、実技中であることを思い出し、代わりに小さく頷いた。
フィオナも、その頷きを見ていた。
(……大丈夫。私が弱める役になっても、みんながいる)
彼女は供給台へ手を置き直し、教師の説明へ意識を向けた。
アリシアも、フィオナの横顔を一度だけ見た。
心配していることは分かっている。
だからこそ、自分の役割をきちんと果たそうと思った。
◇
教師の合図に従い、フィオナが中央の出力をゆっくり弱め始めた。
防壁の中央に広がっていた光が少し薄くなり、左右の膜が内側へ引かれるように揺れ始める。急激な変化ではなかったが、均一だった防壁の厚みが変わったことで、残る四人の担当位置にも負担が広がっていった。
「中央の出力、下がり始めた。左右に少し負担が出てる」
アリシアが伝えると、メリルが左側の魔力をわずかに強めた。
「左、補助するよ。少しだけ上げる」
「右も同じくらい補助する」
テオが落ち着いた声で答えた。
エドガーは中央の立ち上げを維持しながら、膜の形が崩れないように調整している。
フィオナは教師の指示に従い、決められた範囲まで出力を下げた。
その時、中央の膜に小さな波が生じた。
アリシアの指先に、反射的に力が入った。
今なら、自分の魔力を少し加えることで揺れを抑えられるかもしれない。
けれど、彼女はすぐには動かなかった。
(今、私が中央へ補助したら、エドガーの調整と重なるかもしれない)
アリシアはエドガーへ視線を向けた。
「中央、少し揺れてる。エドガー、今の調整で支えられそう?」
エドガーは防壁を見つめたまま、少し考えて答えた。
「まだ大丈夫。ただ、左右からの補助が強くなると、中央へ負担が戻るかもしれない」
アリシアは頷き、メリルとテオへ声を掛けた。
「左右は、今の補助量を保って。中央の様子を見たい」
「分かった!」
メリルが答え、テオも短く了承した。
五人の間に、静かな集中が生まれた。
中央の膜はまだ薄かったが、左右の支えが安定したことで、揺れは少しずつ小さくなっていく。
担当教師はその様子を見ながら、記録紙を持つ手を止めた。
以前のアリシアなら、変化に気づいた時点で自分の魔力を加えていたかもしれない。
けれど、今の彼女は動く前に確認している。
それは魔力の強さとは別の成長だった。
教師はその変化を記録しながらも、すぐに評価の言葉を掛けることはしなかった。
実技はまだ続いている。
今、必要なのは、生徒たちが自分たちの判断を続けられるように見守ることだった。
少し離れた訓練区域では、別の班が防壁の形成を終え、担当教師の指示を待っていた。
その班の女子生徒が、アリシアたちの防壁へ目を向けた。
「……あの班、中央を弱めてるんだよね」
隣の男子生徒が頷いた。
「そうみたいだな。結構薄くなってるけど、まだ形は保ってる」
「でも、あの子たち、あんまり魔力を増やしてないように見える」
女子生徒は少し不思議そうに呟いた。
彼女は防壁が弱くなった時、残る四人が一斉に出力を増やすものだと思っていた。
けれど、アリシアたちはそうしていない。
互いに声を掛け、必要な場所へ少しずつ補助を加えている。
その違いが、彼女には興味深く映った。
◇
中央の膜が落ち着き始めた頃、右側にわずかな沈み込みが現れた。
テオはすぐに変化へ気づき、供給台へ置いた手の位置を少し調整した。けれど、中央から伝わる揺れが思ったよりも大きく、右側の支えは一瞬だけ不安定になった。
「右、少し沈んでる。補助量を増やす前に確認する」
テオの声が響いた。
アリシアは右側へ視線を移した。
膜の表面には細かな波が走っているが、まだ大きく崩れてはいない。
「テオ、今の状態で支えられそう?」
「少し厳しい。中央がもう少し安定すれば戻せると思う」
アリシアはエドガーへ視線を向けた。
「中央、少し補助できる?」
エドガーは一瞬考えたあと、首を横へ振った。
「今は難しい。立ち上げの形を維持するので精一杯だ」
アリシアは唇を結んだ。
右側の沈み込みは、少しずつ大きくなっている。
今なら、自分が補助を加えれば支えられるかもしれない。
けれど、前回と同じ失敗を繰り返したくはなかった。
(……先に、テオへ聞こう。私が支えたい場所と、テオが支えてほしい場所は、同じとは限らないから)
アリシアは息を整え、テオへ声を掛けた。
「右側、私が少し補助してもいい?」
テオはすぐには答えず、防壁の揺れを確認した。
その間にも右側の膜はゆっくり沈み、中央との境目が少し歪んでいく。
「……頼む。ただし、俺が今の補助量を維持するから、少しずつ加えてくれ」
「分かった」
アリシアは教師の方へ視線を向けた。
教師は五人の動きを監視しており、補助の範囲が事前の説明から外れていないことを確認すると、小さく頷いた。
アリシアは右側へ魔力を流した。
最初はごく弱く、膜の揺れを確かめながら少しずつ補助を加える。
テオの魔力と重ならないように、右側の外縁を支える形を選んだ。
すると、沈み込んでいた膜がゆっくり持ち上がり、中央との境目も少しずつ整い始めた。
「右、戻ってきた」
テオの声に、アリシアは小さく頷いた。
「うん。今の補助量で止めるね」
その様子を、教師は注意深く見つめていた。
右側の沈み込みに気づいた時、アリシアはすぐに魔力を加えなかった。
テオへ確認し、必要な補助の範囲を聞いてから動いている。
そして、補助が必要な量に達したところで、それ以上は増やしていない。
教師は記録紙へ短く書き込んだ。
同時に、別のことも確認していた。
中央の出力を下げているフィオナの表情だ。
彼女は決められた範囲を守っていたが、右側の揺れが中央へ戻ってきたことで、呼吸が少し浅くなっていた。
魔力の制御を失っているわけではない。
けれど、余裕が減っているのは明らかだった。
教師が声を掛けようとした時、フィオナが自分から口を開いた。
「中央、少し苦しいです。決められた出力は保てていますけど、周りの揺れが伝わってきて……」
アリシアはすぐにフィオナへ視線を向けた。
彼女の顔には緊張が浮かんでいたが、魔力の制御を失っているわけではなかった。
教師が近づき、落ち着いた声で確認した。
「フィオナさん、制御は続けられますか?」
「……はい。でも、長くは難しいかもしれません」
教師は頷いた。
「分かりました。では、ここで一度停止します。全員、私の合図に合わせて出力を下げてください」
アリシアは少しだけ驚いた。
防壁はまだ崩れていない。
右側も持ち直していた。
けれど、教師は迷わず停止を指示した。
五人は指示に従い、魔力をゆっくり弱めていった。
半透明の防壁は光を失い、薄い霧のように消えていく。
最後の光が床へ溶けるように消えた時、実技場にはほかの班の声と魔力具の低い響きだけが残っていた。
◇
防壁が消えたことに気づき、近くの生徒たちが顔を上げた。
「あれ、あの班、もう終わったの?」
「途中で止めたみたいだね」
少し離れた場所から、そんな声が聞こえてきた。
フィオナの肩がわずかに動いた。
彼女は供給台から手を離したものの、すぐには顔を上げられなかった。
(……やっぱり、途中で止めちゃった)
自分が難しいと伝えたことで、五人の練習が終わってしまった。
その事実が、胸の奥へ重く沈んでいく。
教師はフィオナの様子を見て、少しだけ声を和らげた。
「体調に問題はありませんか?」
「はい。少し緊張しましたけど、痛みや気分の悪さはありません」
「それなら大丈夫です。今の申告は適切でしたよ」
フィオナは驚いたように顔を上げた。
「でも、防壁はまだ崩れていませんでした」
「だからこそ、よい判断でした。制御が難しくなってからではなく、難しくなりそうだと感じた段階で伝えられたことが大切です」
教師は穏やかに答えた。
「今日の課題は、限界まで耐えることではありません。班全体の状態を見ながら、安全に対応できるかを確かめるものです」
フィオナはしばらく黙っていた。
それから、小さく頷いた。
「……ありがとうございます」
そのやり取りを、近くにいた生徒たちも聞いていた。
最初に「途中で止めた」と言った男子生徒は、少し気まずそうに視線を落とした。
彼は防壁が消えたことだけを見て、失敗したのだと思っていた。
けれど、教師はそう評価していない。
隣にいた女子生徒が、小さな声で言った。
「……ちゃんと止められるのも、大事なんだね」
男子生徒は少し考えたあと、頷いた。
「そうみたいだな。俺たちも、無理だと思ったら言わないと」
その言葉を聞いた別の生徒が、自分の班の仲間へ視線を向けた。
彼らもこれから同じ課題へ取り組む。
防壁を最後まで維持することばかり考えていたが、途中で止める判断についても話し合っておく必要がありそうだった。
アリシアは周囲の会話をすべて聞き取れたわけではなかった。
けれど、フィオナが顔を上げられずにいることには気づいていた。
彼女は一歩近づき、静かに声を掛けた。
「フィオナ、ありがとう」
フィオナは驚いたように顔を上げた。
「……どうして?」
「難しいって、ちゃんと言ってくれたから。私、右側のことを見ていて、フィオナがどれくらい大変なのか分かってなかった」
アリシアは少しだけ視線を落とした。
「もし言ってくれなかったら、私はまだ続けられると思ってたかもしれない。だから、教えてくれてよかった」
フィオナは何かを言おうとして、すぐには言葉が出なかった。
その隣で、メリルが大きく頷いた。
「私もそう思う! フィオナが言ってくれたから、ちゃんと止められたんだよ」
エドガーも記録紙を閉じ、フィオナへ向き直った。
「中央の状態は、俺たちから見える部分だけじゃ分からない。フィオナが伝えてくれたことも、大事な情報だった」
テオは静かに頷いた。
「俺も右側の調整で余裕がなかった。中央の負担を全部は見られてなかったから、言ってくれて助かった」
フィオナは四人の顔を順番に見つめた。
誰も、責めていなかった。
誰も、がっかりした顔をしていなかった。
それどころか、自分が声を上げたことを、必要な判断だったと言ってくれている。
フィオナは胸元で握っていた手を、ゆっくりほどいた。
「……ありがとう。私、止めてほしいって言ったら、みんなに迷惑をかけると思ってた」
メリルは少し眉を寄せた。
「そんなことないよ。無理して倒れちゃったら、そっちの方が困るもん」
その言い方に、フィオナは小さく笑った。
教師は五人の会話を聞きながら、記録紙へもう一つ書き加えた。
今回の試行で重要だったのは、停止判断だけではない。
停止したあと、班員たちが誰か一人の責任にしなかったことも、教師の目には確かな成長として映っていた。
◇
休憩時間になると、五人は実技場の壁際にある長椅子へ移動した。
窓から差し込む光は朝よりも高くなり、床へ落ちる影も短くなっている。ほかの班では、まだ最初の試行を続けているところもあり、教師の合図や生徒たちの声が広い室内へ響いていた。
メリルは水筒を開け、少し勢いよく水を飲んだ。
「はあ……緊張した!」
「お前、最初は楽しみだって言ってただろ」
エドガーが苦笑すると、メリルは肩をすくめた。
「楽しみだったのは本当。でも、実際に中央が薄くなると、思ったより怖かったんだよね。左を強くしすぎたらまた崩れるかもしれないし、弱すぎたら支えられないし」
テオは水筒の蓋を閉めながら頷いた。
「俺も右が沈んだ時、すぐに補助を増やそうか迷った。でも、アリシアが声を掛けてくれたから、どこを支えてほしいか考えられた」
アリシアは少し驚いた。
「……私も、すぐに補助しようとしてたよ。でも、前のことを思い出して、先に聞こうと思ったの」
「それでよかったと思う」
テオは静かに答えた。
「勝手に補助されたら、俺も自分の調整を変えてたかもしれない。そうなったら、また重なってただろうし」
エドガーも頷いた。
「それに、今回はフィオナがちゃんと難しいって伝えてくれた。あれがなかったら、俺たちはまだ続けられると思ってたかもしれない」
フィオナは少しだけ頬を赤くした。
「……でも、言うのは怖かったよ。みんなが頑張って支えてくれてるのに、私が止めたいって言ったら、がっかりするんじゃないかなって」
メリルはすぐに首を横へ振った。
「そんなことないよ。私、フィオナが言ってくれて安心したもん」
「安心?」
「うん。だって、フィオナが無理してるのに気づけなかったら、あとで絶対に嫌な気持ちになるから。ちゃんと言ってくれた方がいい」
フィオナはメリルを見つめた。
その目には、まだ少し戸惑いが残っていた。
「……本当に?」
「本当だよ。私だって、無理だと思ったら言うつもりだったし」
エドガーが頷いた。
「俺も同じだ。防壁が崩れなかったことより、全員が無事に止められたことの方が大事だと思う」
テオも静かに同意した。
「止める判断ができたなら、それも班の成果だろ」
フィオナはしばらく黙っていた。
やがて、胸元へ置いていた手をゆっくり下ろし、小さく笑った。
「……ありがとう。次は、もう少し早く伝えられるようにしたい」
アリシアはその言葉を聞きながら、胸の奥に温かなものが広がるのを感じた。
フィオナが安心したことが嬉しい。
それだけではなかった。
自分も、同じように言っていいのだと思えたことが嬉しかった。
(私も、無理だと思ったら言っていいんだ。みんなが頑張ってるからって、一人で我慢しなくていいんだね)
アリシアは少しだけ視線を落とし、膝の上で指先を重ねた。
その時、メリルが彼女の顔を覗き込んだ。
「アリシア、どうしたの?」
「……ううん。みんなと一緒でよかったなって思って」
メリルは一瞬きょとんとしたあと、嬉しそうに笑った。
「何それ、急に嬉しいこと言うじゃん!」
フィオナも微笑み、エドガーは少し照れたように視線を逸らした。
テオだけはいつもどおり落ち着いていたが、その口元にはわずかな笑みが浮かんでいた。
少し離れた場所では、担当教師がほかの教員と短い会話を交わしていた。
「先ほどの班、途中で停止しましたね」
補助教員が記録紙を見ながら尋ねた。
「ええ。ただし、停止判断は適切でした。中央担当の生徒が自分の状態を伝え、ほかの班員も指示に従って安全に出力を下げています」
担当教師は五人が休んでいる方へ視線を向けた。
「特に、全体を観察していた生徒が、補助を加える前に担当者へ確認できていました。以前は補助が重なった班ですが、今回はその点を意識していたようです」
補助教員は少し感心したように頷いた。
「では、二回目も同じ条件で?」
「体調に問題がなければ、本人たちへ確認してから行います。ただし、無理に続けさせるつもりはありません」
教師はそう答え、記録紙を閉じた。
その視線には、期待だけでなく慎重さもあった。
生徒たちが成長していることは確かだ。
けれど、成長したからといって、無理をさせてよいわけではない。
教師はそのことを忘れないようにしながら、次の準備へ向かった。
◇
休憩のあと、教師は五人へもう一度試行するかどうかを確認した。
全員の体調に問題がなく、先ほどの停止理由も整理できているため、今回は同じ課題をもう一度行うことになった。ただし、無理に続ける必要はなく、途中で難しいと感じた場合にはすぐに停止できる。
フィオナは教師の説明を聞き、静かに頷いた。
「もう一度、やってみたいです」
その声は、最初の試行前よりも少しだけ落ち着いていた。
教師は彼女の表情を確認し、ほかの四人にも視線を向けた。
「皆さんも、続けられますか?」
エドガーが代表して答えた。
「はい。さっきの試行で分かったことを、もう一度確認したいです」
メリルも頷き、テオは短く了承した。
アリシアは少しだけ息を整えたあと、静かに返事をした。
「……私も、大丈夫です」
教師は全員の返事を確認してから、再試行を認めた。
五人が供給台へ戻ると、近くの班の生徒たちが再び視線を向けた。
「もう一回やるんだ」
「さっき止めたところから、どう変わるんだろう」
小さな声が交わされる。
その中には、単純な興味だけでなく、自分たちの練習へ活かせることがあるかもしれないという期待も混じっていた。
アリシアは周囲の視線に気づき、少しだけ緊張した。
けれど、隣に立つフィオナが供給台へ手を置くのを見て、自分も静かに姿勢を整えた。
今は、見られていることよりも、五人で作る防壁へ集中しよう。
そう考えると、胸の奥の落ち着かなさが少しだけ和らいだ。
エドガーが中央の供給台へ手を置いた。
魔法陣が淡く輝き、防壁がゆっくり立ち上がる。
メリルが左側を支え、フィオナが中央を整え、テオが右側へ魔力を流した。
アリシアは全体の揺れを確認しながら、必要な情報を伝えていく。
通常形成は、先ほどよりも少し早く安定した。
「中央、安定してる。左右も問題ないよ」
アリシアが伝えると、教師は頷いた。
「では、フィオナさん。合図に従って出力を下げてください」
フィオナは深く息を吸い、ゆっくり魔力を弱め始めた。
中央の膜が薄くなり、左右へ負担が広がっていく。
メリルは左側の変化を確認し、声を掛けた。
「左、少し補助するね。中央へ影響が出たら教えて」
「分かった。右も少し補助する」
テオが答えた。
エドガーは中央の形を維持しながら、周囲の変化を確認している。
アリシアは全体を見渡した。
先ほどと同じように、中央の膜が薄くなっている。
けれど、今度は左右の補助が急に増えることはなかった。
メリルもテオも、自分の担当位置を支えながら、中央への影響を意識している。
「中央、少し揺れてるけど、まだ安定してる」
アリシアが伝えると、エドガーが頷いた。
「今の補助量なら維持できる。左右、そのままで頼む」
フィオナは決められた出力を保ちながら、静かに息を整えていた。
アリシアはその横顔を見た。
緊張はしている。
けれど、先ほどのように一人で抱え込もうとしている様子はなかった。
「フィオナ、今の状態はどう?」
アリシアが尋ねると、フィオナは少し考えてから答えた。
「……大丈夫。さっきより、周りの揺れが少ない気がする」
教師はその言葉を聞き、記録紙へ何かを書き込んだ。
防壁はゆっくり揺れていたが、大きく崩れることはなかった。
五人は互いの声を聞きながら、それぞれの役割を続けた。
少し離れた場所では、先ほどから様子を見ていた女子生徒が、思わず身を乗り出していた。
「……今度は、中央があんまり揺れてない」
隣の男子生徒も頷いた。
「左右の補助が、さっきより落ち着いてるんじゃないか?」
女子生徒は五人の動きを見つめた。
アリシアは防壁の全体を見渡し、必要な時だけ声を掛けている。
メリルとテオは担当位置を守りながら、中央の変化を確認している。
エドガーは立ち上げの形を維持し、フィオナは指示された出力を保っていた。
誰か一人が目立つ動きをしているわけではない。
けれど、そのことがかえって印象に残った。
「……みんな、自分の役割をちゃんとやってるんだね」
女子生徒が呟くと、男子生徒は少し考えてから頷いた。
「そうだな。俺たちも、次はああいうふうに声を掛け合いたい」
その会話を、アリシアたちは聞いていなかった。
五人の意識は、目の前の防壁へ向いていた。
やがて、教師が停止の合図を出した。
「ここまでです。全員、順番に出力を下げてください」
五人は指示に従い、魔力をゆっくり弱めていった。
防壁は最後まで大きく崩れることなく、淡い光を残して消えていった。
◇
実技が終わると、メリルは思わず両手を握りしめた。
「やった! 今度は最後までできたね!」
その声に、近くで片づけをしていた別の班の生徒が振り返った。
何人かがこちらへ視線を向けたが、メリルは気にせず笑っている。
エドガーは少し照れたように頷いた。
「うん。でも、途中で中央が揺れた時は少し緊張した」
「俺も右側が沈まないか気になってた」
テオは静かに答えた。
「ただ、今回は補助量を急に増やさずに済んだ。前より落ち着いて対応できたと思う」
フィオナは供給台から手を離し、ゆっくり息を吐いた。
「……私も、最後までできた」
その声は小さかったが、確かな喜びが込められていた。
アリシアはフィオナの隣へ歩み寄り、少しだけ笑った。
「うん。フィオナが出力を保ってくれたから、みんなで支えられたんだと思う」
フィオナは驚いたようにアリシアを見た。
「でも、私は弱くしてただけだよ」
「弱くするのも、難しいってメリルが言ってたでしょ。決められた範囲で保つのも、大切な役割だと思う」
フィオナは少しだけ目を伏せた。
それから、ゆっくり頷いた。
「……ありがとう。そう言ってもらえると、嬉しい」
教師は五人の前へ進み出ると、穏やかな声で話し始めた。
「二回目は、全員の声掛けがよくできていました。特に、補助を加える前に担当者へ伝え、中央への影響を確認できていた点は評価できます」
五人は静かに耳を傾けた。
「ただし、今回の成功が、どんな状況でも同じように対応できることを意味するわけではありません。出力を下げる位置や変化の大きさが違えば、必要な判断も変わります。今日できたことを覚えつつ、次の課題ではまた新しい状況として考えてください」
アリシアは頷いた。
成功したからといって、すべてが分かったわけではない。
けれど、今日の経験は確かに残る。
教師はそこで、少しだけ表情を和らげた。
「それから、もう一つ伝えておきたいことがあります」
五人が顔を上げた。
「一回目の試行で、フィオナさんは自分の状態を正確に伝えました。ほかの四人も、その申告を受け入れて安全に停止できました。二回目の成功は、最初の停止があったからこそ得られたものです」
フィオナは少し驚いたように教師を見つめた。
教師は続けた。
「失敗を恐れる必要はありません。ただし、失敗から何も学ばないまま同じことを繰り返してはいけません。皆さんは今日、その違いを行動で示せていました」
その言葉を聞き、エドガーは少しだけ背筋を伸ばした。
メリルは嬉しそうに笑い、テオは静かに頷いた。
アリシアは胸の奥が温かくなるのを感じた。
教師が見ていたのは、防壁が最後まで残ったことだけではなかった。
五人が何を考え、どう判断し、どこで止まったのか。
その一つ一つを、きちんと見てくれていたのだ。
少し離れた場所では、ほかの班の生徒たちが片づけを進めていた。
その中の一人が、アリシアたちへ目を向けた。
「……あの班、最初は止めたけど、二回目は上手くいったんだね」
隣の生徒が頷いた。
「うん。でも、先生は最初に止めたことも褒めてた」
「そうだね。私たちも、無理して続けるより、ちゃんと相談した方がいいのかも」
二人はそんな話をしながら、自分たちの記録紙を見直し始めた。
アリシアは、その視線に気づいていなかった。
彼女はただ、四人の仲間と一緒に今日の実技を終えられたことを、静かに喜んでいた。
◇
実技場を出る頃には、昼の鐘が近づいていた。
廊下には授業を終えた生徒たちが行き交い、遠くの食堂からは焼きたてのパンの香りが漂ってくる。メリルはすでに昼食の話を始めており、エドガーは今日の記録をどこまでまとめるか考えているようだった。
フィオナは少し遅れて歩いていた。
アリシアが隣へ並ぶと、彼女は小さく笑った。
「アリシア、今日はありがとう」
「……私、何かした?」
「右側が沈んだ時、すぐに魔力を加えなかったでしょ。ちゃんとテオに聞いてから動いてた」
アリシアは少し驚いた。
フィオナは続けた。
「私、あの時は自分の出力を保つので精一杯だったけど、声は聞こえてたの。アリシアが『補助してもいい?』って聞いて、テオが『頼む』って答えたのを聞いて、少し安心した」
「……そうだったんだ」
「うん。私が中央を弱くしてても、みんながちゃんと話してくれてるって分かったから」
フィオナは少しだけ視線を落とした。
「前は、自分が何か失敗したら、みんなに迷惑をかけるって思ってた。でも、今日は違った。私が弱くする役だったから、みんながどう支えるかを練習できたんだよね」
アリシアはゆっくり頷いた。
「うん。私も、そう思う」
フィオナは嬉しそうに笑った。
「次は、私が誰かを支える側になりたいな」
「……うん。一緒に頑張ろうね」
二人が顔を見合わせて笑ったところで、前を歩いていたメリルが振り返った。
「二人とも、何話してるの?」
「今日の実技のこと」
フィオナが答えると、メリルはすぐに近づいてきた。
「じゃあ、私も入れて! 今日、すっごく頑張ったんだから!」
エドガーが少し呆れたように笑い、テオは静かに肩をすくめた。
五人はそのまま並んで食堂へ向かった。
アリシアは周囲の賑やかな声を聞きながら、胸の奥に残る温かさを大切に感じていた。
以前なら、誰かと一緒にいる時も、自分が迷惑をかけないことばかり考えていた。
けれど今は、誰かが困った時にどう支えるかを考えられる。
そして、自分が困った時には、助けを求めてもいいと思えるようになっていた。
◇
午後の授業を終えたあと、アリシアは生活観測区画へ戻った。
今日は研究棟で人工刺激を行う予定はなく、第二実施候補日についても新しい決定は出ていない。設備確認は現時点で大きな問題がないと報告されているが、当日の安全確認と本人意思の確認が必要であることは変わらなかった。
アリシアはそのことを理解していた。
けれど、今日は研究のことを考える時間が、いつもより少なかったように思う。
それは、研究を忘れていたからではない。
学院での実技が、それだけ大切な時間だったからだ。
生活観測区画へ入ると、子供が窓際で木の駒を並べていた。
「アリシア、おかえり!」
「ただいま」
「今日は学校どうだった?」
子供は嬉しそうに尋ねた。
アリシアは少し考えてから答えた。
「……みんなで、魔力の壁を作る練習をしたよ」
「壁?」
「うん。五人で一つの壁を作るの。でも、今日は一人が少しだけ力を弱くして、残りの四人で支える練習だったんだ」
子供は興味深そうに目を輝かせた。
「弱くしても、壁はなくならないの?」
「うん。みんなで支えれば、残せることもあるんだよ」
アリシアは子供の隣へしゃがみ、木の駒を見つめた。
板の上には、昨日よりも少し複雑な道が作られている。
子供はその道を指さしながら、嬉しそうに説明した。
「今日はね、ここを少し変えたの。前はすぐ止まっちゃったけど、今度は最後まで行けるかもしれない」
「そうなんだ。試してみる?」
「うん!」
二人は木の駒を転がした。
駒は途中で少し揺れたものの、最後まで進んだ。
子供は嬉しそうに笑い、アリシアも一緒に笑った。
その時、子供がふと顔を上げた。
「アリシア、今日は嬉しそうだね」
アリシアは少し驚いた。
「……そうかな」
「うん。学校でいいことあった?」
アリシアは今日の実技を思い返した。
フィオナが出力を下げる役になったこと。
右側の膜が沈み、テオへ確認してから補助を加えたこと。
フィオナが難しいと伝え、五人で安全に停止したこと。
そして、二回目には最後まで防壁を維持できたこと。
その一つ一つが、胸の奥へ静かに残っていた。
「……うん。いいことがあったよ」
アリシアは微笑んだ。
「みんなで、少し上手くできたんだ」
子供は嬉しそうに頷いた。
「じゃあ、明日も上手くできるといいね」
「……うん。でも、明日もし上手くできなくても、また考えればいいと思う」
子供は少し首を傾げた。
「また考えるの?」
「うん。今日も、最初は途中で止めたんだ。でも、みんなで話して、もう一回やったら上手くできたの」
子供は木の駒を見つめた。
それから、少し考えて頷いた。
「じゃあ、これも止まったら、また考えればいいんだね」
「うん。そうだね」
二人はもう一度、木の駒を転がした。
窓の外では、午後の光が庭木の葉を照らしていた。
重要な木箱は、今日も決められた場所に置かれたままだった。厚い布に包まれた中身へ誰かが触れることもなく、顔のない存在の胸に並ぶ十一の光にも、新しい変化は見られていない。
分からないことは、まだたくさんある。
けれど、今はそのすべてを確かめる時間ではなかった。
アリシアは子供と一緒に木の駒を転がし、途中で止まってしまうたびに笑い合った。
◇
夜になり、アリシアは自室で今日の出来事を整理していた。
学院の帳面には、合同実技の結果を丁寧に書いた。
『一回目は、中央の出力が下がったことで左右へ負担が広がった。右側が沈んだ時、テオへ確認してから補助を加えた。フィオナが難しいと伝えたため、安全に停止した。』
『二回目は、左右の補助量を急に増やさず、中央への影響を確認しながら続けた。最後まで大きく崩れることなく、防壁を維持できた。』
そこまで書くと、アリシアは少しだけ筆を止めた。
今日の実技で一番嬉しかったことは、二回目に成功したことだけではない。
フィオナが自分の不安を伝えられたこと。
テオが補助を頼んでくれたこと。
メリルとエドガーが、自分の担当を守りながら周囲の変化を考えてくれたこと。
そして、自分も必要な時に声を掛け、仲間の判断を待つことができたこと。
アリシアは帳面の最後へ、もう一行書き加えた。
『誰かの力が弱くなった時、残りの人が全部を一人で背負う必要はない。みんなで支えることができる。』
その言葉を見つめていると、寝台からノアの声が聞こえた。
「随分と長く書いてるな」
アリシアは顔を上げた。
「……今日、いろいろあったから」
「ほう。上手くいったのか?」
「うん。最初は途中で止めたけど、二回目は最後までできたよ」
ノアは片目を開け、少しだけ尻尾を揺らした。
「なら、よかったじゃねえか」
「でもね、最初に止めたのも、悪いことじゃなかったんだ」
アリシアは今日の出来事を、ノアへゆっくり話した。
フィオナが出力を下げる役になったこと。
右側が沈み、テオへ確認してから補助を加えたこと。
フィオナが難しいと伝え、教師の指示で安全に停止したこと。
そして、二回目には五人で声を掛け合いながら防壁を維持できたこと。
ノアは途中で口を挟まず、最後まで聞いていた。
話し終えると、小さく鼻を鳴らした。
「なるほどな。お前も少しは成長したじゃねえか」
アリシアは少し笑った。
「……少しだけ?」
「十分だろ。昨日までできなかったことが、今日いきなり全部できるようになるわけじゃねえ」
ノアは身体を起こし、寝台の端へ移動した。
「それに、今日できたことだって、次も同じようにできるとは限らねえ。だから練習するんだろ」
アリシアは頷いた。
「うん。先生も、似たことを言ってた」
「なら、ちゃんと聞いとけ。俺が何度も言う手間が減る」
その言い方がおかしくて、アリシアは小さく笑った。
机の端には、研究帳面が置いてある。
新しい独立前向き系列の第二実施候補日は、まだ確定していない。
第一実施試行の結果は、東側と西側がともに確認となり、一致だった。
残る一件で何が起きるかは分からない。
けれど、今日の実技を通して、アリシアは少しだけ別のことを考えていた。
結果が出るまでの時間にも、自分は何かを学べる。
研究の答えがまだ分からなくても、学院で仲間と一緒に成長することができる。
そして、誰かの力が弱まった時には、支える側になれる。
アリシアは研究帳面を開かず、学院の帳面を閉じた。
「ノア」
「何だ」
「今日、フィオナが難しいって言ってくれて、よかったと思う」
「そうか」
「私も、無理な時にはちゃんと言えるようになりたい」
ノアは少しだけ目を細めた。
「なら、まずは自分が無理してることに気づけよ」
「……うん」
「それから、言う相手を間違えるな。困った時に頼れる奴がいるなら、ちゃんと頼れ」
アリシアは静かに頷いた。
学院には、メリルたちがいる。
研究棟には、サラや副学長たちがいる。
生活観測区画には、子供や世話役たちがいる。
そして、いつも隣にはノアがいる。
以前なら、誰かに頼ることを申し訳ないと思っていた。
けれど今は、頼ることも、誰かを支えることも、同じくらい大切なのだと感じられる。
アリシアは灯りを落とし、寝台へ向かった。
ノアが少しだけ身体をずらし、隣へ入る場所を空ける。
「おやすみ、ノア」
「おう。明日も寝坊すんなよ」
「……今日は早く起きたよ」
「なら、明日も頼む」
アリシアは少し笑い、掛け布を引き上げた。
窓の外では、夜風が庭木の葉を揺らしている。
研究の答えは、まだ出ていない。
六つ目の神器の正体も、東西の反応が何を意味するのかも、分からないままだ。
けれど、今日の学院では一つのことを確かめられた。
誰かの力が弱まった時、残る人たちが互いに声を掛け合えば、支えられるものがある。
そして、支えきれない時には、無理をせず止めることもできる。
アリシアはそのことを胸に抱きながら、静かに目を閉じた。
明日もまた、分からないことはあるだろう。
けれど、分からないことを一人で抱え込まなくてもいい。
今夜は、そのことを少しだけ強く信じられた。




