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『忘れられた六つ目の神器に選ばれました 〜人見知りな闇の少女と毒舌黒猫の学園英雄譚〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第281話 支える場所を、ひとりで決めないために

 朝の学院へ続く坂道には、昨夜のうちに吹いた風が運んできた落ち葉が散っていた。石畳の端に寄せられた葉は、登校する生徒たちの足元で乾いた音を立て、校門の向こうでは朝の鐘を待つように小鳥が鳴いている。空はよく晴れていたが、建物の影に入ると空気は少し冷たく、アリシアは肩に掛けた鞄の紐を握り直した。


 隣を歩くノアは、いつもと変わらない足取りだった。黒い毛並みが朝日を受けるたびに艶やかに光り、時折、前を行く生徒たちを避けるように尻尾を揺らしている。


「今日は、少し早いな」


 ノアが校門の時計を見上げるように顔を動かした。


「うん。メリルたちと、授業の前に先生へ質問を渡すことになったから」


「昨日まとめたやつか」


「そう。エドガーが記録紙を持ってきてくれるって。フィオナも、自分で整理した質問を見せてくれると思う」


 アリシアは鞄の中にある小さな帳面へ意識を向けた。そこには昨日の資料修復の授業で学んだことと、次の合同防壁実技について考えたことが書かれている。


 前の実技で自分がした失敗も、忘れないように残してあった。


 メリルが左側へ補助を加えた時、アリシアも同じ場所へ魔力を重ねてしまったこと。その後、慌てて補助を引いたことで膜の揺れが広がり、中央を担当していたフィオナまで調整を迫られたこと。


 五人で作った防壁だったのに、誰がどこを支えるのかを十分に伝えられていなかった。


(次は、同じことをしないようにしたい。でも、失敗しないことばかり考えて、誰かが困っているのを見落としたくもない)


 アリシアがそんなことを考えていると、ノアが小さく鼻を鳴らした。


「また難しい顔してるぞ」


「……そうかな」


「昨日、紙の補修で何を習った?」


 唐突な質問に、アリシアは瞬きをした。


「えっと、すぐに直した方がいいとは限らないってこと。状態を見て、必要な時に必要なことをする……」


「なら、防壁でも同じだろ。揺れたら何でもかんでも手を突っ込むんじゃなく、まず誰が何をしてるか見ろ」


 ノアは歩調を変えずに続けた。


「それに、お前の班は五人いるんだろ。お前が全部の答えを用意する必要はねえ」


 アリシアは少しだけ視線を落とし、やがて小さく頷いた。


「……うん。今日は、みんなの考えをちゃんと聞いてくる」


「そうしろ。せっかく仲間が増えたんだからな」


 校門の向こうから、聞き慣れた声が響いた。


「アリシアー! こっち、こっち!」


 メリルが門柱のそばで大きく手を振っていた。隣にはエドガーとフィオナがおり、少し離れた木陰ではテオが壁に寄りかかっている。


 五人がそろっていることに気づいた瞬間、アリシアの足取りは自然と軽くなった。


     ◇


「おはよう、アリシア。今日はちゃんと早起きできたね」


 メリルは笑いながら言ったが、アリシアが少し首を傾げると、すぐに自分の言い方を訂正した。


「あ、ごめん。アリシアがいつも遅いって意味じゃないよ。私が早く来すぎただけ。なんか楽しみで、いつもより早く目が覚めちゃったんだ」


「私も、少し早く起きたよ」


 フィオナが穏やかに答えた。


「昨日、質問をまとめたあとに気になったところがあって、朝もう一度見直してきたの。でも、増やしすぎないようにしたから大丈夫」


「そこまで気にしなくても、先生は質問を聞いてくれると思うぞ」


 エドガーはそう言いながら、鞄から二枚の記録紙を取り出した。


「ただ、実技の前に確認したいことと、実際にやってみないと分からないことは分けておいた方がいい。全部を今決めようとすると、かえって混乱するからな」


 テオは壁から身体を離し、四人の方へ歩いてきた。


「先生の説明を聞く前に、俺たちだけで正解を作らない方がいいだろうな。前の実技だって、最初に考えたとおりにはならなかった」


 アリシアはその言葉に頷いた。


 五人で話し合うことに、まだ少し緊張はある。自分の考えが間違っていたらどうしようという気持ちも消えていないが、今は誰かが違う意見を出してくれることを怖いとは思わなくなっていた。


 エドガーが紙を広げると、四人は自然に近づいた。朝の廊下にはほかの生徒たちの足音が響いていたが、五人の間には急いで話を終わらせようとする空気はなかった。


「まず、出力を下げる役についてだ。どの程度まで下げるのか、どのくらいの速さで下げるのか、それから合図は誰が出すのか。ここは先生に決めてもらう必要があると思う」


「私は、下げる役が自分で『今から下げます』って言うのかどうかも気になる」


 フィオナが帳面を見ながら付け加えた。


「先生の合図だけで動くなら、ほかの人は変化が起きることを分かっていても、誰が下げるのか分からないかもしれないでしょう?」


「それって、練習の目的によるんじゃない?」


 メリルは少し考えてから答えた。


「誰が下げるか分かってる練習と、分からない練習じゃ、難しさが違うもん。いきなり難しい方をやるのは怖いけど、いつかはそういう練習もするのかな」


 エドガーは頷き、紙の端へ小さく書き加えた。


「今回はどちらなのか確認しよう。俺たちが勝手に想定して練習しても、先生の考えている課題と違ったら意味がない」


 テオはしばらく黙って紙を見ていたが、やがて中央の項目を指さした。


「停止条件は、特に先に聞きたい。防壁が崩れそうになった時、補助を増やして持ち直すのか、それとも一度止めるのか。その境目を決めずに始めるのは危ない」


「うん。私も、そこは大事だと思う」


 アリシアは少し勇気を出して口を開いた。


「それと、全体を見る役が補助する時は、先に誰かへ伝えた方がいいのかも聞きたい。前は私とメリルが同じ場所へ魔力を足してしまったから……今度は、動く前に声を掛けられるようにしたい」


 メリルがすぐに頷いた。


「それ、私も気をつけたい。あの時は左側が弱くなったと思って、すぐに強くしちゃったんだよね。アリシアが見てるって分かってたのに、自分の担当だから何とかしなきゃって」


「私も、同じように考えてた」


 アリシアはメリルの顔を見た。


「だから、どっちかだけが悪かったわけじゃないと思う。次は、補助する前に伝えられたらいいな」


 メリルは少し照れたように笑い、アリシアの肩へ軽く手を置いた。


「じゃあ、次はお互いに声を掛けよう。私、勢いで動きそうになったら、ちゃんと一回考えるから」


「……うん」


 その時、始業前の予鈴が校舎に響いた。


 廊下にいた生徒たちが教室へ向かい始め、五人も記録紙を畳んで歩き出した。先生へ質問を渡すのは、最初の授業が始まる前に実技担当の教員室へ立ち寄ることになっている。


 アリシアは四人の少し後ろを歩きながら、ふと気づいた。


 以前なら、誰かと並んで歩く時も、自分が邪魔になっていないかばかり考えていた。けれど今は、誰が先に歩いているかより、次に何を話そうかの方が気になっている。


 その変化を嬉しいと思った瞬間、前を歩いていたフィオナが振り返った。


「アリシア、こっちだよ。先生の部屋はこの廊下の先だから」


「あ、うん。ありがとう」


 アリシアは少し早足になり、四人の隣へ並んだ。


     ◇


 実技担当の教師は、教員室の隣にある小さな準備室で五人を迎えた。


 室内には訓練用の結界具や魔力測定器が整然と並び、壁際の棚には色の異なる魔石が番号順に収められている。窓の近くでは別の教師が器具の点検をしていたが、五人が入ってくると作業の手を止め、軽く会釈してから奥へ移動した。


「おはようございます。次の合同実技について、確認したいことがあるそうですね」


 担当教師は五人を見回し、エドガーが差し出した記録紙を受け取った。


「はい。前回の実技で失敗したところも踏まえて、班で質問をまとめました」


 エドガーが少し緊張した声で説明すると、教師は紙へ目を落とした。


 しばらく静かな時間が流れた。


 アリシアは教師の表情をうかがいながら、指先を軽く握った。質問が多すぎると思われないだろうかという不安が浮かんだものの、隣でメリルが落ち着いた様子で立っているのを見て、少し肩の力を抜いた。


「よく整理されていますね」


 教師が顔を上げた。


「特に、停止条件を先に確認しようとしているのはよい判断です。次の課題は、誰か一人の出力が変化した時に、残りの班員がどのように対応するかを見るものですが、無理に防壁を維持し続けることが目的ではありません」


 フィオナが小さく息を吐いた。


 教師は記録紙を机へ置き、壁際の小さな訓練具を指さした。


「実技では、まず全員が通常どおり防壁を形成します。その後、私の合図で指定された一人が、あらかじめ決めた範囲まで出力を下げます。今回は誰が下げるかを事前に知らせますし、急に完全停止させることもありません」


「少しずつ下げるんですか?」


 メリルが尋ねると、教師は頷いた。


「そうです。ただし、下げ方は担当者が勝手に決めるのではなく、こちらが示す手順に従ってください。練習の途中で不安が出た場合は、すぐに申告して構いません」


 アリシアはその説明を聞きながら、メリルが朝に話していたことを思い出した。


 魔力を強くするより、弱くして保つ方が難しい。


 だからこそ、出力を下げる役にも無理のない手順が必要なのだ。


「残りの四人については、担当位置を基本として補助してください。全体を見る役が必要に応じて補助することは認めますが、同じ場所へ複数人が同時に補助を加える場合は、必ず声を掛け合うこと。前回のように、互いの動きが重なってしまうことを避けるためです」


 教師の視線がアリシアとメリルへ向いた。


 二人は少しだけ顔を見合わせたが、教師の声に責めるような響きはなかった。


「失敗したことを隠さず、次の手順へ反映できているのはよいことです。魔力の扱いは、上手くいった時だけでなく、上手くいかなかった時の記録も大切ですから」


 エドガーが真剣な顔で頷いた。


「停止条件については、実技開始前に改めて説明します。防壁の形が大きく崩れた場合や、誰かが制御できないと判断した場合は、維持を優先せず停止します。教師側でも監視していますが、皆さん自身も異常を感じたら遠慮なく声を出してください」


 テオが少しだけ手を挙げた。


「補助を加える前に、担当者へ確認する時間がない場合はどうすればいいですか?」


 教師はその質問を聞くと、少し考えてから答えた。


「危険が迫っているなら、まず停止を知らせてください。今回の練習では、無理に持ち直すより、安全に止める判断ができることも評価します。誰か一人の判断で強引に維持しようとしないことが大切です」


 テオは納得したように頷いた。


 アリシアはその横顔を見ながら、少し驚いていた。


 テオは普段、必要以上に言葉を重ねない。


 けれど、こうして質問を聞いていると、班の安全について誰よりも冷静に考えているように感じられた。


 教師は最後に、五人へ向かって穏やかに言った。


「次の実技までに、皆さんができる準備は十分あります。ただし、実習用の結界具がない場所で、同じ条件を再現しようとはしないでください。個人の基礎練習と、班で行う合同実技は別のものです」


「はい!」


 メリルが元気よく返事をすると、教師は少し笑った。


「それでは、授業へ戻ってください。次の実技で、皆さんがどんな声を掛け合うのか楽しみにしています」


 五人はそろって頭を下げ、準備室をあとにした。


     ◇


 教室へ戻る途中、メリルは廊下の窓から差し込む光の中で、大きく息を吐いた。


「よかったあ。聞きたいこと、ちゃんと聞けたね」


「うん。出力を下げる役が急に全部止めるわけじゃないって分かって、少し安心した」


 フィオナは胸元へ手を添え、穏やかに笑った。


「私、中央を担当してるから、もし自分が下げる役になったらどうしようって考えてたの。でも、先生が手順を決めてくれるなら、落ち着いて練習できそう」


 エドガーは記録紙へ目を落としながら頷いた。


「それに、停止する判断も評価されるっていうのは大事だな。防壁を長く維持することだけが目的じゃないと分かった」


 テオは窓の外へ視線を向けたまま、静かに答えた。


「無理に持ち直そうとして、かえって崩すよりはいい。俺たちが練習してるのは、魔力を強くすることだけじゃないからな」


 アリシアは四人の言葉を聞きながら、少し考えた。


 前回の実技では、防壁を崩さないことばかり意識していた。


 けれど、教師の説明を聞いた今は、崩れそうになった時に安全に止めることも、班の大切な役割なのだと分かる。


(守るために、止めることもあるんだ)


 その考えは、昨日の資料修復の授業とも重なっていた。


 紙の端が少し浮いているからといって、すぐに補修を重ねる必要はない。魔力防壁が揺れたからといって、何も考えずに補助を増やせばいいわけでもない。


 状態を見て、必要なことを選ぶ。


 そして、自分だけで決められない時には、周囲へ相談する。


 アリシアはそのことを、今日の実技の準備を通して少しずつ理解していた。


     ◇


 昼休みになると、五人は食堂の窓際へ集まった。


 今日は朝のうちに教師へ質問を渡していたため、昨日のように記録紙を広げて長く話し合う必要はなかった。エドガーも食事の間は紙を鞄へしまい、メリルはそれを見て少し驚いたように笑った。


「エドガーが記録紙を出してない!」


「毎回出してるわけじゃないだろ」


「昨日も一昨日も出してたよ」


「それは必要だったからだ」


 エドガーが少し困ったように答えると、フィオナが笑った。


「でも、今日はちゃんと先生に聞けたからね。少し休んでもいいと思う」


「そうそう。食事中くらい、普通の話をしようよ」


 メリルはそう言って、アリシアへ顔を向けた。


「ねえ、昨日の資料修復の授業、どうだった?」


「うん。前に補修した紙の乾燥状態を確認したんだけど、補強紙の端が少し浮いてたの」


「えっ、大丈夫だった?」


「先生に聞いたら、すぐに直さなくてもいいって。今の状態を記録して、次の確認まで様子を見ることになったよ」


 メリルは少し意外そうな顔をした。


「そうなんだ。私だったら、浮いてるって分かったらすぐ押さえちゃいそう」


「私も、最初はそう思ったよ」


 アリシアは小さく笑った。


「でも、触ることで余計に傷めることもあるんだって。だから、直す前にちゃんと見ることが大切なんだって教わったの」


 フィオナが興味深そうに身を乗り出した。


「それ、面白いね。魔力の調整にも少し似てるかもしれない」


「うん。私もそう思った」


 エドガーは食事の手を止め、少し考えた。


「確かに、何か変化があった時にすぐ補助を加えると、別の場所へ影響することもある。まず状態を確認するのは大事だな」


 テオも静かに頷いた。


「ただ、紙と違って魔力防壁は変化が速い。見てるだけじゃ間に合わないこともあるから、そこは声掛けが必要なんだろう」


「そうだね」


 アリシアは頷いた。


 似ているところがあっても、同じではない。


 だからこそ、どんな場面でも一つの答えだけで対応しようとしないことが大切なのだ。


 メリルは少し考えたあと、明るい声で言った。


「じゃあ、次の実技では『見てから動く』と『声を掛ける』を忘れないようにしよう!」


「それなら分かりやすいね」


 フィオナが笑うと、エドガーも頷いた。


「ただし、危険な時は止める。そこも忘れないようにな」


「分かってるって!」


 メリルは笑いながら答えた。


 五人の会話は、そのあと自然に別の話題へ移っていった。


 午後の授業のことや、選択授業で使った道具のこと、食堂の新しい焼き菓子のこと。研究や実技とは関係のない話も混じり、アリシアは時折笑いながら、みんなの話へ耳を傾けた。


 その時間が、何より心地よかった。


     ◇


 午後の授業が終わったあと、アリシアは学院の中庭を通って研究棟へ向かった。


 今日は人工刺激を行う予定ではない。


 新しい独立前向き系列の第二実施候補日について、設備確認は現時点で大きな問題がないと報告されている。ただし、実施するかどうかは当日の安全確認と本人の自由意思によって決まるため、候補日が維持されていることと、実施が確定していることは別だった。


 アリシアはその違いを、何度も確認してきた。


 けれど、候補日が近づくにつれて、胸の奥には小さな緊張が残っている。


 第一実施試行では、東側と西側の判定が一致した。


 残る一件で不一致が再び観察されるかどうかは、まだ分からない。


 その結果を知りたい気持ちは強い。


 けれど、結果を急ぐために条件を変えたり、無理をしたりしてはいけないことも理解している。


 研究棟の入口へ近づいたところで、ノアが足元から声を掛けた。


「今日は何をするんだ?」


「設備確認の記録を受け取るだけ。人工刺激はしないよ」


「なら、長居する必要もねえな」


「うん。終わったら生活観測区画へ戻るつもり」


 ノアは小さく頷いた。


「それでいい。お前、最近は学校のことでも考えることが増えてるからな」


 アリシアは少し笑った。


「でも、楽しいよ」


「なら結構だ。楽しいことまで全部仕事みたいにするなよ」


 その言葉に、アリシアは少しだけ目を丸くした。


 ノアはそれ以上何も言わず、先に研究棟の扉へ向かった。


     ◇


 研究室では、サラと記録担当が資料を確認していた。


 副学長は別の机で書類へ目を通しており、若い観測員は棚から取り出した記録用具を点検している。安全管理担当も同席していたが、今日は大きな装置を動かす予定がないため、室内は比較的落ち着いていた。


「こんにちは」


 アリシアが挨拶すると、サラが顔を上げた。


「こんにちは。学院はどうでしたか?」


「楽しかったです。今日は、次の合同実技について先生に質問してきました」


「そうですか。どんなことを聞いたんですか?」


 アリシアは少し考えてから、朝の出来事を簡単に説明した。


 出力を下げる役の手順、補助してよい範囲、防壁が崩れそうになった時の停止条件。教師からは、無理に維持することだけが目的ではなく、安全に止める判断も大切だと教わったことを話した。


 サラは静かに頷いた。


「よい授業ですね。魔力を使う場面では、できることを増やすだけでなく、どこで止めるかを知ることも大切です」


「はい」


 アリシアは少し笑った。


「昨日の資料修復の授業でも、すぐに直さない方がいい時があるって教わったんです」


「それも大切な考え方ですね」


 サラは穏やかに答えた。


「ただ、研究と学院の実技は目的も条件も違います。似ているところから学べることはあっても、同じ判断をそのまま当てはめないようにしましょう」


 アリシアは頷いた。


 サラの言葉は、テオが昼休みに話していたこととも重なっていた。


 紙の補修と魔力防壁の調整は似ている部分がある。


 けれど、変化の速さも、危険の種類も違う。


 だから、それぞれの場面で必要な判断をしなければならない。


 記録担当が資料を一枚取り出した。


「第二実施候補日の設備確認について、現時点での報告をまとめました。東側と西側の観測設備には、現在のところ実施を妨げる大きな問題は見つかっていません」


 アリシアは静かに頷いた。


「ただし、候補日当日の確認は別に必要です。今日の報告は、実施を確定するものではありません」


「分かっています」


 副学長が顔を上げた。


「第一実施試行の結果を理由に、日程や条件を変更することはしない。新しい系列は最大二件で閉じるという方針も変わらない」


「はい」


 アリシアは答えた。


 新しい独立前向き系列では、早期位置に固定済みの安全範囲内で単一の意図的小変動を置く。


 主判定は、東側と西側の確認・非確認の一致または不一致であり、アリシア自身の感覚や胸部の弱い変化は副次的な情報として扱う。


 第一実施試行では、東側も西側も確認となり、一致だった。


 その結果を受けて条件を変えることはしない。


 アリシアはそのことを、何度も確認してきた。


 けれど、今日も改めて聞くことで、少し安心できた。


     ◇


 確認が一段落したところで、サラがアリシアの顔を見た。


「今の体調を教えてください」


 アリシアは少し考えた。


「痛みはありません。息苦しさも、胸の変な感じもありません。頭痛や吐き気、めまいもないです」


「疲労は?」


「二くらいです」


「怖さは?」


「三です」


「参加したい気持ちは?」


「八くらいです」


「早く結果を知りたい気持ちは?」


「……八です」


 サラは頷き、記録担当へ視線を向けた。


「ありがとうございます。今日の数字は、候補日の参加意思を確定するものではありません。当日、改めて確認します」


「はい」


 安全管理担当も静かに口を開いた。


「疲労が四になれば相談、五以上なら延期を検討するという基準も変わりません。怖さが五なら相談、六なら停止です。痛みや息苦しさが一でも出た場合は、すぐに申告してください」


「分かっています」


 アリシアは頷いた。


 これまで何度も確認してきた条件だった。


 けれど、繰り返し聞くことを面倒だとは思わなかった。


 むしろ、結果を急ぎたい気持ちが強くなっている時ほど、同じ基準を確かめることが大切なのだと感じていた。


 若い観測員が資料を一枚取り出した。


「第二実施試行の開示方法についても、正式に記録へ反映しました」


 アリシアは顔を上げた。


「東と西を一緒に教えてもらうことですか?」


「はい。東側と西側の判定は、それぞれ独立に確定します。その後、両方を同時に開示する方式です」


 記録担当が補足する。


「変更するのは本人への開示順序だけです。主判定そのものには影響しませんし、変更した理由と時点も記録しています」


「ありがとうございます」


 アリシアは少しだけ息を吐いた。


 東側の結果を先に聞くと、どうしても西側も同じであってほしい、あるいは違っていてほしいと考えてしまう。


 それが観測結果を変えるわけではないと分かっていても、待つ間の気持ちは揺れる。


 だから、両方が独立して確定したあと、同時に教えてほしいとお願いした。


 その希望が受け入れられたことは、アリシアにとって大きな安心だった。


「もう一つ、確認してもいいですか」


 アリシアが言うと、副学長が頷いた。


「何だね」


「次の試行が終わった日、新しい人工刺激の予定をすぐに決めないことです」


 室内が静かになった。


 アリシアは少し緊張しながらも、続けた。


「結果が気になって、もし不一致が出たら、もっと確かめたいって思うかもしれません。でも、そういう気持ちのまま次の予定を決めたくないです」


 サラは静かに頷いた。


「前回、相談した内容ですね」


「はい。次の一件が終わったら、まず記録を整理して、ちゃんと休みたいです」


 副学長は少し考えてから答えた。


「その方針は維持する。新しい系列は最大二件で閉じる。結果がどうであっても、その場で第三の試行を追加することはない」


「はい」


「そして、第二実施試行の当日に新しい人工刺激系列の実施計画を決めることもしない。まずは安全確認と記録の確定を優先する」


 アリシアは深く頷いた。


「ありがとうございます」


 その言葉を口にした時、胸の奥にあった緊張が少し緩んだ。


 結果を知りたい気持ちは消えない。


 けれど、結果を知ったあとにどう過ごすかまで、今から全部決めなくていい。


 それが分かっただけで、少し落ち着けた。


     ◇


 研究室を出る頃には、夕方の光が廊下へ長く差し込んでいた。


 ノアは扉の外で待っており、アリシアを見るなり尻尾を揺らした。


「終わったか」


「うん」


「何か決まったか?」


「候補日はそのまま。設備の最終確認と当日の安全確認が終わって、私が参加したいと思えたら実施する」


「つまり、まだ決まりじゃねえってことだな」


「そうだよ」


 アリシアは少し笑った。


 ノアは歩き出し、アリシアもその隣へ並んだ。


 研究棟の窓からは、夕方の空が見えていた。雲の隙間から差し込む光が遠くの屋根を淡く照らし、廊下の奥には、帰り支度をする研究員たちの小さな話し声が響いている。


「ノア」


「何だ」


「次の試験、やっぱり気になる」


「だろうな」


「不一致が出たら嬉しいと思う。でも、一致だったらまた残念だと思う」


 ノアは少しだけ顔を上げた。


「そりゃ、結果に期待してるんだから当然だろ」


「うん。でも、どっちでもちゃんと受け止めたい」


「受け止めるってのは、喜ばないとか落ち込まないって意味じゃねえぞ」


 アリシアはノアを見た。


「……そうなの?」


「嬉しけりゃ嬉しいでいいし、残念なら残念でいい。ただ、その気持ちで記録をねじ曲げなきゃいい」


 アリシアは少し考えた。


 研究室でも、似たことを何度も確認してきた。


 けれど、ノアの言葉は少し違って聞こえた。


 感情を持つこと自体は悪くない。


 大切なのは、その感情で結果を変えようとしないこと。


「……うん」


 アリシアは頷いた。


「それなら、できると思う」


「なら十分だ」


 ノアは小さく鼻を鳴らした。


 しばらく歩いたあと、アリシアはふと思い出したように口を開いた。


「今日ね、資料修復の授業で、補強紙が少し浮いてるところを見つけたの」


「ほう」


「でも、先生はすぐに直さなくていいって言ったんだ。まず状態を見て、必要かどうか考えるって」


 ノアは少しだけ顔を上げた。


「お前には耳が痛い話だな」


「……そうかな」


「何か見つけると、すぐ何とかしようとするだろ」


 アリシアは少し考えた。


 確かに、そういうところがある。


 研究でも、学院でも、誰かが困っていると、自分が何かしなければと思ってしまう。


 けれど、今日の授業では、手を加えないことも大切な判断だと教わった。


「……うん。気をつけたい」


「気をつけるだけじゃなくて、たまには何もしないで見てろ」


 ノアはそう言って、先に歩き出した。


 アリシアはその背中を見ながら、少し笑った。


     ◇


 生活観測区画へ戻ると、子供は窓際で紙の風車を持っていた。


 以前、少し曲がってしまった羽根は、アリシアが直したあとも大切に使われている。今日も軽く息を吹きかけると、風車はゆっくり回った。


「アリシア、おかえり!」


「ただいま」


「今日は学校どうだった?」


「楽しかったよ。紙を直す授業があったの」


「紙のお医者さん?」


 子供が嬉しそうに尋ねる。


 アリシアは少し笑った。


「そうかもしれない。でも、今日は直すより、ちゃんと見る練習だったよ」


「見るだけ?」


「うん。すぐに直さない方がいい時もあるんだって」


 子供は少し考えた。


 それから、自分の風車を見つめた。


「じゃあ、これも?」


「どうしたの?」


「ここ、少し曲がってる」


 子供は風車の羽根の端を指さした。


 確かに、前に直した部分とは別の場所が、少しだけ折れかけている。


 アリシアは手を伸ばしかけたが、途中で止めた。


「……まだ回る?」


「うん」


 子供は軽く息を吹きかけた。


 風車は少し揺れながらも、ゆっくり回った。


「回るね」


「うん」


「じゃあ、今はこのままでもいいかもしれないね」


 子供は少し驚いたようにアリシアを見た。


「直さないの?」


「今すぐじゃなくてもいいと思う。もっと曲がったら、一緒に考えよう」


 子供はしばらく風車を見つめていた。


 それから、嬉しそうに頷いた。


「じゃあ、大事に使う」


「うん」


 アリシアは微笑んだ。


 何かを大切にすることは、いつも手を加えることではない。


 そのままの状態を見守ることも、大切にする方法の一つなのかもしれない。


     ◇


 夜になり、アリシアは自室で今日の出来事を整理していた。


 学院の帳面には、次の合同実技へ向けて先生へ質問した内容を書いた。


『出力を下げる役は、先生の合図で決められた範囲まで下げる。急に完全停止させるわけではない。残りの四人は担当位置を基本に補助し、同じ場所へ複数人が補助する時は声を掛け合う。危険がある場合は無理に維持せず停止する。』


『エドガーは質問を整理してくれた。フィオナは出力を下げる役の不安を話してくれた。テオは停止条件を確認してくれた。メリルは声掛けを大切にしようと言っていた。』


『私も、みんなへ意見を伝えられた。』


 そこまで書くと、アリシアは少しだけ筆を止めた。


 研究帳面は机の端に置いてある。


 今日は設備と予定の確認をしただけで、人工刺激は行っていない。


 身体にも新しい異常はない。


 次の候補日は近づいているが、まだ実施は確定していない。


 アリシアは研究帳面を開き、必要なことだけを短く記した。


『第二実施候補日は維持。設備確認は現時点で大きな問題なし。当日安全確認・本人意思確認が必要。東西判定は独立確定後、同時開示。』


 それ以上は書かなかった。


 第一実施試行の詳細な時間配置や入力指標を、今夜になって開く必要はない。


 残る一件の結果を予想するために、過去の記録を都合よく探すこともしない。


 アリシアは帳面を閉じ、机の上へ置いた。


 寝台ではノアが丸くなっている。


「ノア」


「何だ」


「今日、少し分かったことがあるの」


「ほう」


「何かを見つけても、すぐに直さなくていい時があるんだね」


 ノアは片目を開け、アリシアを見た。


「ようやく分かったか」


「……そんなに前から?」


「お前が何でも背負い込もうとするたびに言ってるだろ」


 アリシアは少し恥ずかしくなり、視線を落とした。


「……そうだったね」


「まあ、分かったならいい」


 ノアはそう言って、再び目を閉じた。


 アリシアは少し笑った。


 研究では、残る一件がどうなるか分からない。


 東西の判定が一致するのか、不一致になるのか。


 弱い胸部異常が再び現れるのか。


 六つ目の神器の正体へ近づけるのか。


 まだ答えはない。


 けれど、学院では次の合同実技が待っている。


 五人で考え、五人で試し、失敗したらまた話し合う。


 生活観測区画では、子供が風車を大切に使っている。


 ノアは相変わらず毒舌だけれど、いつもそばにいてくれる。


 研究の結果がどうであっても、帰る場所がある。


 アリシアは灯りを落とし、寝台へ向かった。


 ノアが少しだけ身体をずらし、隣へ入る場所を空ける。


「おやすみ、ノア」


「おう」


 アリシアは掛け布を引き上げ、静かに目を閉じた。


 残る一件の候補日は、もう遠くない。


 その日が来れば、また自分の意思を確かめ、東側と西側の反応を見守ることになる。


 けれど、結果を待つ時間にも、自分の大切な毎日は続いている。


 答えが出ない日にも、帰る場所がある。


 今夜は、そのことを自然に信じられた。

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