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『忘れられた六つ目の神器に選ばれました 〜人見知りな闇の少女と毒舌黒猫の学園英雄譚〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第280話 答えが出ない日にも、帰る場所がある



 朝の空は、昨夜の雨を忘れたように晴れていた。


 生活観測区画の窓から見える庭では、葉の先に残った雫が朝日を受けて輝き、細い枝の影が石畳の上へ伸びている。少し離れた場所では世話役が洗濯物を干しており、湿った布が風を含んで膨らむたび、木製の物干し台が小さな音を立てていた。


 アリシアは食堂の席で朝食を終えると、机の端に置いた学院の予定表へ目を向けた。


 今日は資料修復の選択授業がある。


 そして放課後には、新しい独立前向き系列の第二実施候補日について、最終的な設備確認の結果を聞く予定だった。


 人工刺激を行うかどうかは、まだ決まっていない。


 設備が整っていても、当日の体調と本人意思が確認されなければ実施できない。何より、今日の予定は設備確認の結果を受け取ることであり、人工刺激そのものではなかった。


 その区別を、アリシアは朝から何度も確かめていた。


「お前、また予定表見てんのか」


 椅子の下からノアの声がした。


「……うん」


「昨日も見てただろ」


「今日は設備確認の結果を聞くから」


「それは知ってる。俺が聞いてんのは、紙を何回見たら予定が変わるんだってことだ」


 アリシアは少しだけ頬を膨らませた。


「変わらないけど……」


「なら、もう鞄にしまっとけ。見てる間に遅刻したら、学校の予定の方が変わるぞ」


 その言葉に、アリシアは思わず笑った。


 予定表を畳んで鞄へ入れると、ノアは満足そうに尻尾を揺らした。


「今日は資料修復だったな」


「うん。前に補修した紙の乾燥状態を確認するんだって」


「前にやったやつか」


「そう。先生が、乾いたあとにちゃんと見ないと、補修できたかどうか分からないって言ってた」


 ノアは小さく鼻を鳴らした。


「何でも、やった直後だけ見て満足するなってことだな」


「……そうかもしれない」


 アリシアは少し考えた。


 紙を補修した直後は、破れた部分がつながったように見える。


 けれど、乾いたあとに紙が反ったり、補強した部分が浮いたりすることもあるらしい。


 だから、時間を置いて確かめる。


 その考え方は、研究の記録にも少し似ている。


 ただ、今日は紙のことを考える日だ。


 アリシアは鞄を持ち上げ、ノアへ笑いかけた。


「行ってきます」


「おう。無理すんなよ」


「うん」


 朝の光が差し込む廊下を歩きながら、アリシアは少しだけ胸の奥が軽くなったように感じていた。


     ◇


 学院へ到着すると、教室の前でメリルが待っていた。


「アリシア、おはよう!」


「おはよう、メリル」


「今日、資料修復でしょ?」


「うん。メリルは染色だよね」


「そう! 今日は色を重ねる練習なんだって」


 メリルは嬉しそうに笑った。


「前に青と紫を混ぜる話したでしょ。あれ、実際にやってみたいんだよね」


「楽しそう」


「でも、先生が『思った色にならなくても、すぐに失敗って決めないこと』って言ってたの。だから今日は、ちゃんと観察してみる」


 アリシアは少し驚いた。


「メリルが?」


「何その反応!」


「……ごめん。でも、メリルって、思った色にならなかったらすぐにもう一回やりそうだから」


 メリルは一瞬きょとんとしたあと、大きく笑った。


「それ、否定できない!」


 二人は顔を見合わせて笑った。


 教室へ入ると、フィオナが席で帳面を開いていた。


「おはよう、二人とも」


「おはよう、フィオナ」


 アリシアが答えると、フィオナは少しだけ身を乗り出した。


「昨日の話、先生に確認することをもう一回まとめてみたの」


 メリルは目を丸くした。


「また考えてたの?」


「うん。でも、今回は増やしてないよ。むしろ、聞くことを減らしたの」


 フィオナは少し得意そうに笑った。


「質問が多すぎると、先生も答えるの大変かなって思って」


 アリシアは帳面を覗き込んだ。


 そこには、次の合同実技で確認したいことが三つに整理されていた。


 出力を下げる役の合図。


 残りの四人が補助してよい範囲。


 防壁が大きく崩れそうになった場合の停止条件。


 昨日、五人で話し合った内容が、分かりやすくまとめられている。


「……すごく見やすいね」


 アリシアが言うと、フィオナは嬉しそうに笑った。


「ありがとう。エドガーの記録紙もあるけど、先生に聞く時はこれくらいの方がいいかなって」


 メリルは頷いた。


「いいね。私、こういうの苦手だから助かる」


「メリルは声掛けの方法を考えてくれたでしょ」


 フィオナが言うと、メリルは少し照れたように笑った。


「まあね。でも、みんなで考えたことだから」


 アリシアは二人のやり取りを見ながら、静かに微笑んだ。


 以前なら、誰かが準備をしてくれたことに対して、ただ感謝するだけだったかもしれない。


 けれど今は、自分もその中へ加わっている。


 五人で一つのことを考える時間が、少しずつ日常になっていた。


     ◇


 午前の授業を終え、資料修復の選択授業が始まると、アリシアは実習室の窓際の席へ座った。


 机の上には、前回補修した紙が丁寧に置かれている。


 薄い補強紙を使って破れた部分をつなぎ、繊維の向きを合わせながら、できるだけ元の形を保つように作業したものだった。


 今日は、その乾燥状態を確認する。


 担当教師は実習室を見回しながら説明した。


「前回の作業では、補修した直後の状態を確認しました。今日は乾燥後の変化を見ます。紙が反っていないか、補強した部分が浮いていないか、周囲の繊維に無理な力がかかっていないかを、順番に確かめてください」


 アリシアは頷き、紙をそっと持ち上げた。


 前回、破れていた部分はつながっている。


 ただし、よく見ると補強紙の端がわずかに浮いているように見えた。


(……ここ、少しだけ浮いてる)


 アリシアは指先で触れようとして、途中で手を止めた。


 乾いた紙は、思っている以上に繊細かもしれない。


 不用意に押さえれば、せっかく補修した部分を傷める可能性もある。


 アリシアは手を引き、教師へ声を掛けた。


「先生、少し確認してもいいですか」


 教師が近づいてくる。


「どうしましたか?」


「ここ、補強紙の端が少し浮いているように見えるんです。でも、触って確かめていいのか分からなくて」


 教師は紙を覗き込み、静かに頷いた。


「よく気づきましたね。ここは確かに少し浮いています。ただ、今すぐ押さえつける必要はありません」


「そうなんですか?」


「はい。まずは、どの程度浮いているのか、周囲の紙に負担がかかっていないかを確認します。補修した場所を見つけたからといって、すぐに手を加えるのが正しいとは限りません」


 アリシアは少しだけ目を丸くした。


 教師は続ける。


「修復では、直すことだけが仕事ではありません。今の状態を保つ方がよい場合もありますし、次の作業をする前に、もっと観察した方がよい場合もあります」


 アリシアはゆっくり頷いた。


「……分かりました」


 教師は紙の端を示した。


「ここは記録へ残しておきましょう。今日の段階では追加の補修をせず、次の確認まで状態を見ます」


「はい」


 アリシアは帳面へ丁寧に書き込んだ。


 補強紙の端にわずかな浮きがある。


 周囲の紙に大きな反りは見られない。


 今日は追加の補修を行わず、次回も状態を確認する。


 書き終えると、アリシアは紙をもう一度見つめた。


 破れた部分をつなげたからといって、すべてが終わったわけではない。


 けれど、少し浮いているからといって、すぐに失敗と決める必要もない。


 その考え方が、胸の奥へ静かに残った。


     ◇


 授業の後半、教師は生徒たちへ別の紙片を配った。


 今度は、古い帳面の端を模した練習用の紙だった。


 ところどころ繊維が弱くなっており、無理に広げると破れそうな部分もある。


「次は、補修する場所を選ぶ練習です」


 教師は説明した。


「すべてを補修する必要はありません。どこを優先し、どこをそのまま残すかを考えてください」


 アリシアは紙片を見つめた。


 端の一部は明らかに弱くなっている。


 けれど、中央の文字が書かれた部分は、まだ十分に形を保っていた。


 もし全部へ補強紙を貼れば、見た目は丈夫になるかもしれない。


 しかし、元の紙の質感や文字の見え方が変わってしまう可能性もある。


(全部を直すんじゃなくて、必要なところだけ……)


 アリシアは慎重に補修候補を選んだ。


 教師へ確認すると、選んだ場所はおおむね適切だと言われた。


 ただし、一か所だけ、今は触れずに観察した方がよい部分があった。


 アリシアはその理由を尋ね、紙の繊維がどの方向へ弱くなっているのかを教えてもらった。


 作業を終える頃には、窓から差し込む光が少し傾いていた。


 アリシアは道具を片づけながら、今日の授業を思い返した。


 何かを見つけた時、すぐに直そうとするのではなく、まず状態を確かめる。


 必要なことだけを行い、余計な変化を加えない。


 その大切さを、紙の上で改めて学んだ気がした。


     ◇


 放課後、アリシアは研究棟へ向かった。


 今日は人工刺激を行う予定ではない。


 ただし、新しい独立前向き系列の第二実施候補日が近づいているため、設備確認の結果を受け取ることになっていた。


 研究棟へ続く廊下は、学院の教室よりも静かだった。


 窓から差し込む夕方の光が床へ長く伸び、遠くの部屋からは紙をめくる音と、誰かが小さく話す声が聞こえてくる。


 アリシアは扉の前で一度立ち止まり、ゆっくり息を吸った。


(今日は、確認するだけ)


 そう自分へ言い聞かせてから、扉を叩いた。


「どうぞ」


 中からサラの声がした。


 研究室へ入ると、副学長、サラ、記録担当、若い観測員が机上の資料を確認していた。安全管理担当も同席しており、机の端には設備確認用の記録紙が重ねられている。


「こんにちは」


 アリシアが挨拶すると、サラが顔を上げた。


「こんにちは。学院はどうでしたか?」


「楽しかったです。今日は資料修復の授業がありました」


「それはよかったですね」


 サラは微笑んだ。


「では、こちらも予定を確認しましょう。今日は人工刺激を行いませんし、第一実施試行の詳細な時間比較や入力指標を開く予定もありません」


「はい」


 アリシアは椅子へ座った。


 記録担当が予定表を広げる。


「第二実施候補日について、研究側の人員配置は確保できる見込みです。東側と西側の観測担当も、それぞれ独立して判定できる体制を整えられます」


「はい」


「設備の最終確認も、現時点では大きな問題は見つかっていません。ただし、候補日当日の確認は別に必要です」


 アリシアは頷いた。


 副学長が続ける。


「第一実施試行の結果を理由に、日程を早めたり、条件を変えたりすることはしない。予定どおり候補日を維持し、当日の安全状態と本人意思を確認する」


「分かっています」


 アリシアは静かに答えた。


 新しい系列の第一実施試行では、東側と西側の判定がともに確認となった。


 主判定としては一致であり、不一致は観察されなかった。


 その結果を見たからといって、次の試行を強くしたり、別の変化を加えたりしてはいけない。


 最初に決めた安全範囲内で、早期位置に単一の意図的小変動を置くという条件も変えない。


 アリシアはそのことを理解していた。


「……もし、次も一致だったら」


 思わず口にすると、室内の視線が静かに集まった。


 アリシアは少し迷ったものの、続けた。


「新しい系列では、不一致が出なかったことになりますよね」


 記録担当が頷いた。


「はい。二件とも一致であれば、この系列で不一致は観察されなかったと記録します。ただし、それだけで過去の不一致が誤りだったと断定することも、今後絶対に起こらないと証明することもできません」


「……そうですよね」


 副学長が言葉を継いだ。


「そして、不一致が出たとしても、それだけで六つ目の神器の正体や東西の関係が分かるわけではない。結果がどちらであっても、言えることと言えないことを分ける必要がある」


 アリシアは頷いた。


 それは、何度も聞いてきた説明だった。


 けれど、残る一件が近づいた今だからこそ、改めて確かめておきたかった。


     ◇


 確認が一段落したところで、サラがアリシアの顔を見た。


「今の体調を教えてください」


 アリシアは少し考えた。


「痛みはありません。息苦しさも、胸の変な感じもありません。頭痛や吐き気、めまいもないです」


「疲労は?」


「二くらいです」


「怖さは?」


「三です」


「参加したい気持ちは?」


「八くらい」


「早く結果を知りたい気持ちは?」


「……八です」


 サラは頷き、記録担当へ視線を向けた。


「ありがとうございます。今日の数字は、候補日の参加意思を確定するものではありません。当日、改めて確認します」


「はい」


 安全管理担当も静かに口を開いた。


「疲労が四になれば相談、五以上なら延期を検討するという基準も変わりません。怖さが五なら相談、六なら停止です。痛みや息苦しさが一でも出た場合は、すぐに申告してください」


「分かっています」


 アリシアは頷いた。


 これまで何度も確認してきた条件だった。


 けれど、繰り返し聞くことを面倒だとは思わなかった。


 むしろ、結果を急ぎたい気持ちが強くなっている時ほど、同じ基準を確かめることが大切なのだと感じていた。


 若い観測員が資料を一枚取り出した。


「第二実施試行の開示方法についても、正式に記録へ反映しました」


 アリシアは顔を上げた。


「東と西を一緒に教えてもらうことですか?」


「はい。東側と西側の判定は、それぞれ独立に確定します。その後、両方を同時に開示する方式です」


 記録担当が補足する。


「変更するのは本人への開示順序だけです。主判定そのものには影響しませんし、変更した理由と時点も記録しています」


「ありがとうございます」


 アリシアは少しだけ息を吐いた。


 東側の結果を先に聞くと、どうしても西側も同じであってほしい、あるいは違っていてほしいと考えてしまう。


 それが観測結果を変えるわけではないと分かっていても、待つ間の気持ちは揺れる。


 だから、両方が独立して確定したあと、同時に教えてほしいとお願いした。


 その希望が受け入れられたことは、アリシアにとって大きな安心だった。


「もう一つ、確認してもいいですか」


 アリシアが言うと、副学長が頷いた。


「何だね」


「次の試行が終わった日、新しい人工刺激の予定をすぐに決めないことです」


 室内が静かになった。


 アリシアは少し緊張しながらも、続けた。


「結果が気になって、もし不一致が出たら、もっと確かめたいって思うかもしれません。でも、そういう気持ちのまま次の予定を決めたくないです」


 サラは静かに頷いた。


「前回、相談した内容ですね」


「はい。次の一件が終わったら、まず記録を整理して、ちゃんと休みたいです」


 副学長は少し考えてから答えた。


「その方針は維持する。新しい系列は最大二件で閉じる。結果がどうであっても、その場で第三の試行を追加することはない」


「はい」


「そして、第二実施試行の当日に新しい人工刺激系列の実施計画を決めることもしない。まずは安全確認と記録の確定を優先する」


 アリシアは深く頷いた。


「ありがとうございます」


 その言葉を口にした時、胸の奥にあった緊張が少し緩んだ。


 結果を知りたい気持ちは消えない。


 けれど、結果を知ったあとにどう過ごすかまで、今から全部決めなくていい。


 それが分かっただけで、少し落ち着けた。


     ◇


 研究室を出る頃には、夕方の光が廊下へ長く差し込んでいた。


 ノアは扉の外で待っており、アリシアを見るなり尻尾を揺らした。


「終わったか」


「うん」


「何か決まったか?」


「候補日はそのまま。設備の最終確認と当日の安全確認が終わって、私が参加したいと思えたら実施する」


「つまり、まだ決まりじゃねえってことだな」


「そうだよ」


 アリシアは少し笑った。


 ノアは歩き出し、アリシアもその隣へ並んだ。


 研究棟の窓からは、夕方の空が見えていた。雲の隙間から差し込む光が遠くの屋根を淡く照らし、廊下の奥には、帰り支度をする研究員たちの小さな話し声が響いている。


「ノア」


「何だ」


「次の試験、やっぱり気になる」


「だろうな」


「不一致が出たら嬉しいと思う。でも、一致だったらまた残念だと思う」


 ノアは少しだけ顔を上げた。


「そりゃ、結果に期待してるんだから当然だろ」


「うん。でも、どっちでもちゃんと受け止めたい」


「受け止めるってのは、喜ばないとか落ち込まないって意味じゃねえぞ」


 アリシアはノアを見た。


「……そうなの?」


「嬉しけりゃ嬉しいでいいし、残念なら残念でいい。ただ、その気持ちで記録をねじ曲げなきゃいい」


 アリシアは少し考えた。


 研究室でも、似たことを何度も確認してきた。


 けれど、ノアの言葉は少し違って聞こえた。


 感情を持つこと自体は悪くない。


 大切なのは、その感情で結果を変えようとしないこと。


「……うん」


 アリシアは頷いた。


「それなら、できると思う」


「なら十分だ」


 ノアは小さく鼻を鳴らした。


 しばらく歩いたあと、アリシアはふと思い出したように口を開いた。


「今日ね、資料修復の授業で、補強紙が少し浮いてるところを見つけたの」


「ほう」


「でも、先生はすぐに直さなくていいって言ったんだ。まず状態を見て、必要かどうか考えるって」


 ノアは少しだけ顔を上げた。


「お前には耳が痛い話だな」


「……そうかな」


「何か見つけると、すぐ何とかしようとするだろ」


 アリシアは少し考えた。


 確かに、そういうところがある。


 研究でも、学院でも、誰かが困っていると、自分が何かしなければと思ってしまう。


 けれど、今日の授業では、手を加えないことも大切な判断だと教わった。


「……うん。気をつけたい」


「気をつけるだけじゃなくて、たまには何もしないで見てろ」


 ノアはそう言って、先に歩き出した。


 アリシアはその背中を見ながら、少し笑った。


     ◇


 生活観測区画へ戻ると、子供は窓際で紙の風車を持っていた。


 以前、少し曲がってしまった羽根は、アリシアが直したあとも大切に使われている。今日も軽く息を吹きかけると、風車はゆっくり回った。


「アリシア、おかえり!」


「ただいま」


「今日は学校どうだった?」


「楽しかったよ。紙を直す授業があったの」


「紙のお医者さん?」


 子供が嬉しそうに尋ねる。


 アリシアは少し笑った。


「そうかもしれない。でも、今日は直すより、ちゃんと見る練習だったよ」


「見るだけ?」


「うん。すぐに直さない方がいい時もあるんだって」


 子供は少し考えた。


 それから、自分の風車を見つめた。


「じゃあ、これも?」


「どうしたの?」


「ここ、少し曲がってる」


 子供は風車の羽根の端を指さした。


 確かに、前に直した部分とは別の場所が、少しだけ折れかけている。


 アリシアは手を伸ばしかけたが、途中で止めた。


「……まだ回る?」


「うん」


 子供は軽く息を吹きかけた。


 風車は少し揺れながらも、ゆっくり回った。


「回るね」


「うん」


「じゃあ、今はこのままでもいいかもしれないね」


 子供は少し驚いたようにアリシアを見た。


「直さないの?」


「今すぐじゃなくてもいいと思う。もっと曲がったら、一緒に考えよう」


 子供はしばらく風車を見つめていた。


 それから、嬉しそうに頷いた。


「じゃあ、大事に使う」


「うん」


 アリシアは微笑んだ。


 何かを大切にすることは、いつも手を加えることではない。


 そのままの状態を見守ることも、大切にする方法の一つなのかもしれない。


     ◇


 夜になり、アリシアは自室で今日の出来事を整理していた。


 学院の帳面には、資料修復の授業で学んだことを書いた。


『補修した紙の乾燥状態を確認した。補強紙の端に少し浮きがあったが、今日は追加の補修をしなかった。すぐに直すより、状態を見て判断することが大切だと教わった。』


『次の合同実技に向けて、フィオナが質問を整理してくれた。メリルも出力を弱める練習について考えている。みんなで準備できていることが嬉しい。』


 そこまで書くと、アリシアは少しだけ筆を止めた。


 研究帳面は机の端に置いてある。


 今日は設備と予定の確認をしただけで、人工刺激は行っていない。


 身体にも新しい異常はない。


 次の候補日は近づいているが、まだ実施は確定していない。


 アリシアは研究帳面を開き、必要なことだけを短く記した。


『第二実施候補日は維持。設備確認は現時点で大きな問題なし。当日安全確認・本人意思確認が必要。東西判定は独立確定後、同時開示。』


 それ以上は書かなかった。


 第一実施試行の詳細な時間配置や入力指標を、今夜になって開く必要はない。


 残る一件の結果を予想するために、過去の記録を都合よく探すこともしない。


 アリシアは帳面を閉じ、机の上へ置いた。


 寝台ではノアが丸くなっている。


「ノア」


「何だ」


「今日、少し分かったことがあるの」


「ほう」


「何かを見つけても、すぐに直さなくていい時があるんだね」


 ノアは片目を開け、アリシアを見た。


「ようやく分かったか」


「……そんなに前から?」


「お前が何でも背負い込もうとするたびに言ってるだろ」


 アリシアは少し恥ずかしくなり、視線を落とした。


「……そうだったね」


「まあ、分かったならいい」


 ノアはそう言って、再び目を閉じた。


 アリシアは少し笑った。


 研究では、残る一件がどうなるか分からない。


 東西の判定が一致するのか、不一致になるのか。


 弱い胸部異常が再び現れるのか。


 六つ目の神器の正体へ近づけるのか。


 まだ答えはない。


 けれど、学院では次の合同実技が待っている。


 五人で考え、五人で試し、失敗したらまた話し合う。


 生活観測区画では、子供が風車を大切に使っている。


 ノアは相変わらず毒舌だけれど、いつもそばにいてくれる。


 研究の結果がどうであっても、帰る場所がある。


 アリシアは灯りを落とし、寝台へ向かった。


 ノアが少しだけ身体をずらし、隣へ入る場所を空ける。


「おやすみ、ノア」


「おう」


 アリシアは掛け布を引き上げ、静かに目を閉じた。


 残る一件の候補日は、もう遠くない。


 その日が来れば、また自分の意思を確かめ、東側と西側の反応を見守ることになる。


 けれど、結果を待つ時間にも、自分の大切な毎日は続いている。


 答えが出ない日にも、帰る場所がある。


 今夜は、そのことを自然に信じられた。

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